記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。

【日刊 太宰治全小説】#229「トカトントン」

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【冒頭】
拝啓。
一つだけ教えて下さい。困っているのです。
私はことし二十六歳です。生れたところは、青森市の寺町です。たぶんご存じないでしょうが、寺町の清華寺の隣りに、トモヤという小さい花屋がありました。私はそのトモヤの次男として生れたのです。

【結句】
拝復。気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態(しゅうたい)を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智(えいち)よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂(たましい)をころし得ぬ者どもを(おそ)るな、身と霊魂(たましい)とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」この場合の「(おそ)る」は「畏敬(いけい)」の意にちかいようです。このイエスの言に、霹靂(へきれき)を感ずる事が出来たら、君の幻聴は()(はず)です。不尽(ふじん)
 

トカトントン」について

新潮文庫ヴィヨンの妻』所収。
・昭和21年11月上旬頃に脱稿。
・昭和22年1月1日、『群像』新年号に掲載。

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)  

 拝啓。
 一つだけ教えて下さい。困っているのです。
 私はことし二十六歳です。生れたところは、青森市の寺町です。たぶんご存じないでしょうが、寺町の清華寺の隣りに、トモヤという小さい花屋がありました。わたしはそのトモヤの次男として生れたのです。青森の中学校を出て、それから横浜の或る軍需工場の事務員になって、三年勤め、それから軍隊で四年間暮し、無条件降伏と同時に、生れた土地へ帰って来ましたが、既に家は焼かれ、父と兄とあによめと三人、その焼跡にあわれな小屋を建てて暮していました。母は、私の中学四年の時に死んだのです。
 さすがに私は、その焼跡の小さい住宅にもぐり込むのは、父にも兄夫婦にも気の毒で、父や兄とも相談の上、このAという青森市から二里ほど離れた海岸の部落の三等郵便局に勤める事になったのです。この郵便局は、死んだ母の実家で、局長さんは母の兄に当っているのです。ここに勤めてから、もうかれこれ一箇年以上になりますが、日ましに自分がくだらないものになって行くような気がして、実に困っているのです。
 私があなたの小説を読みはじめたのは、横浜の軍需工場で事務員をしていた時でした。「文体」という雑誌に載っていたあなたの短い小説を読んでから、それから、あなたの作品を捜して読む癖がついて、いろいろ読んでいるうちに、あなたが私の中学校の先輩であり、またあなたは中学時代に青森の寺町の豊田さんのお宅にいらしたのだと言う事を知り、胸のつぶれる思いをしました。呉服屋の豊田さんなら、私の家と同じ町内でしたから、私はよく知っているのです。先代の太左衛門さんは、ふとっていらっしゃいましたから、太左衛門というお名前もよく似合っていましたが、当代の太左衛門さんは、せてそうしてイキでいらっしゃるから、羽左衛門さんとでもお呼びしたいようでした。でも、皆さんがいいお方のようですね。こんどの空襲で豊田さんも全焼し、それに土蔵まで焼け落ちたようで、お気の毒です。私はあなたが、あの豊田さんのお家にいらした事があるのだという事を知り、よっぽど当代の太左衛門さんにお願いして紹介状を書いていただき、あなたをおたずねしようかと思いましたが、小心者ですから、ただそれを空想してみるばかりで、実行の勇気はありませんでした。
 そのうちに私は兵隊になって、千葉県の海岸の防備にまわされ、終戦までただもう毎日々々、穴掘りばかりやらされていましたが、それでもたまに半日でも休暇があると町へ出て、あなたの作品を捜して読みました。そうして、あなたに手紙を差上げたくて、ペンを執ってみた事が何度あったか知れません。けれども、拝啓、と書いて、それから、何と書いていいのやら、別段用事は無いのだし、それに私はあなたにとってはまるで赤の他人なのだし、ペンを持ったままひとりで当惑するばかりなのです。やがて、日本は無条件降伏という事になり、私も故郷にかえり、Aの郵便局に勤めましたが、こないだ青森へ行ったついでに、青森の本屋をのぞき、あなたの作品を捜して、そうしてあなたも罹災りさいして生れた土地の金木町に来ているという事を、あなたの作品に依って知り、再び胸のつぶれる思いが致しました。それでも私は、あなたの御生家に突然たずねて行く勇気は無く、いろいろ考えた末、とにかく手紙を、書きしたためる事にしたのです。こんどは私も、拝啓、と書いただけで途方にくれるような事はないのです。なぜなら、これは用事の手紙ですから。しかも火急の用事です。
 教えていただきたい事があるのです。本当に、困っているのです。しかもこれは、私ひとりの問題でなく、他にもこれと似たような思いで悩んでいるひとがあるような気がしますから、私たちのために教えて下さい。横浜の工場にいた時も、また軍隊にいた時も、あなたに手紙を出したい出したいと思い続け、いまやっとあなたに手紙を差上げる、その最初の手紙が、このようなよろこびの少い内容のものになろうとは、まったく、思いも寄らない事でありました。
 昭和二十年八月十五日正午に、私たちは兵舎の前の広場に整列させられて、そうして陛下みずからの御放送だという、ほとんど雑音に消されて何一つ聞きとれなかったラジオを聞かされ、そうして、それから、若い中尉がつかつかと壇上に駈けあがって、
「聞いたか。わかったか。日本はポツダム宣言を受諾し、降参をしたのだ。しかし、それは政治上の事だ。われわれ軍人は、あくまでも抗戦をつづけ、最後には皆ひとり残らず自決して、以て大君におわびを申し上げる。自分はもとよりそのつもりでいるのだから、皆もその覚悟をして居れ。いいか。よし。解散」
 そう言って、その若い中尉は壇から降りて眼鏡をはずし、歩きながらぽたぽた涙を落しました。厳粛とは、あのような感じを言うのでしょうか。私はつっ立ったまま、あたりがもやもやと暗くなり、どこからともなく、つめたい風が吹いて来て、そうして私のからだが自然に地の底へ沈んで行くように感じました。
 死のうと思いました。死ぬのが本当だ、と思いました。前方の森がいやにひっそりして、漆黒に見えて、そのてっぺんから一むれの小鳥が一つまみの胡麻ごまつぶを空中に投げたように、音もなく飛び立ちました。
 ああ、その時です。背後の兵舎のほうから、誰やら金槌かなづちくぎを打つ音が、かすかに、トカトントンと聞えました。それを聞いたとたんに、眼からうろこが落ちるとはあんな時の感じを言うのでしょうか、悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、私はきものから離れたように、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持で、夏の真昼の砂原を眺め見渡し、私には如何いかなる感慨も、何も一つも有りませんでした。
 そうして私は、リュックサックにたくさんのものをつめ込んで、ぼんやり故郷に帰還しました。
 あの、遠くから聞えて来た幽かな、金槌の音が、不思議なくらい綺麗きれいに私からミリタリズムの幻影をぎとってくれて、もう再び、あの悲壮らしい厳粛らしい悪夢に酔わされるなんて事は絶対に無くなったようですが、しかしその小さい音は、私の脳髄の金的きんてきを射貫いてしまったものか、それ以後げんざいまで続いて、私は実に異様な、いまわしい癲癇てんかん持ちみたいな男になりました。
 と言っても決して、兇暴きょうぼうな発作などを起すというわけではありません。その反対です。何か物事に感激し、奮い立とうとすると、どこからとも無く、幽かに、トカトントンとあの金槌の音が聞えて来て、とたんに私はきょろりとなり、眼前の風景がまるでもう一変してしまって、映写がふっと中絶してあとにはただ純白のスクリンだけが残り、それをまじまじと眺めているような、何ともはかない、ばからしい気持になるのです。
 さいしょ、私は、この郵便局に来て、さあこれからは、何でも自由に好きな勉強ができるのだ、まず一つ小説でも書いて、そうしてあなたのところへ送って読んでいただこうと思い、郵便局の仕事のひまひまに、軍隊生活の追憶を書いてみたのですが、大いに努力して百枚ちかく書きすすめて、いよいよ今明日のうちに完成だという秋の夕暮、局の仕事もすんで、銭湯へ行き、お湯にあたたまりながら、今夜これから最後の章を書くにあたり、オネーギンの終章のような、あんなふうの華やかな悲しみの結び方にしようか、それともゴーゴリの「喧嘩噺けんかばなし」式の絶望の終局にしようか、などひどい興奮でわくわくしながら、銭湯の高い天井からぶらさがっている裸電球の光を見上げた時、トカトントン、と遠くからあの金槌の音が聞えたのです。とたんに、さっと浪がひいて、私はただ薄暗い湯槽ゆぶねの隅で、じゃぼじゃぼお湯をきまわして動いている一個の裸形の男に過ぎなくなりました。
 まことにつまらない思いで、湯槽からい上って、足の裏のあかなど、落して銭湯の他の客たちの配給の話などに耳を傾けていました。プウシキンもゴーゴリも、それはまるで外国製の歯ブラシの名前みたいな、味気ないものに思われました。銭湯を出て、橋を渡り、家へ帰って黙々とめしを食い、それから自分の部屋に引き上げて、机の上の百枚ちかくの原稿をぱらぱらとめくって見て、あまりのばかばかしさにあきれ、うんざりして、破る気力も無く、それ以後の毎日の鼻紙に致しました。それ以来、私はきょうまで、小説らしいものは一行も書きません。伯父のところに、わずかながら蔵書がありますので、時たま明治大正の傑作小説集など借りて読み、感心したり、感心しなかったり、甚だふまじめな態度で吹雪の夜は早寝という事になり、まったく「精神的」でない生活をして、そのうちに、世界美術全集などを見て、以前あんなに好きだったフランスの印象派の画には、さほど感心せず、このたびは日本の元禄時代の尾形光琳こうりんと尾形乾山けんざんと二人の仕事に一ばん眼をみはりました。光琳躑躅つつじなどは、セザンヌ、モネー、ゴーギャン、誰の画よりも、すぐれていると思われました。こうしてまた、だんだん私の所謂いわゆる精神生活が、息を吹きかえして来たようで、けれどもさすがに自分が光琳、乾山のような名家になろうなどという大それた野心を起す事はなく、まあ片田舎のディレッタント、そうして自分に出来る精一ぱいの仕事は、朝から晩まで郵便局の窓口に坐って、他人の紙幣をかぞえている事、せいぜいそれくらいのところだが、私のような無能無学の人間には、そんな生活だって、あながち堕落の生活ではあるまい。謙譲の王冠というものも、有るかも知れぬ。平凡な日々の業務に精励するという事こそ最も高尚な精神生活かも知れない。などと少しずつ自分の日々の暮しにプライドを持ちはじめて、その頃ちょうど円貨の切り換えがあり、こんな片田舎の三等郵便局でも、いやいや、小さい郵便局ほど人手不足でかえって、てんてこ舞いのいそがしさだったようで、あの頃は私たちは毎日早朝から預金の申告受附けだの、旧円の証紙張りだの、へとへとになっても休む事が出来ず、殊にも私は、伯父の居候の身分ですから御恩返しはこの時とばかりに、両手がまるで鉄の手袋でもはめているように重くて、少しも自分の手の感じがしなくなったほどに働きました。
 そんなに働いて、死んだように眠って、そうしてあくる朝は枕元の目ざまし時計の鳴ると同時にはね起き、すぐ局へ出て大掃除をはじめます。掃除などは、女の局員がする事になっていたのですが、その円貨切り換えの大騒ぎがはじまって以来、私の働き振りに異様なハズミがついて、何でもかでも滅茶苦茶に働きたくなって、きのうよりは今日、きょうよりは明日と物凄ものすごい加速度を以て、ほとんど半狂乱みたいな獅子奮迅ししふんじんをつづけ、いよいよ切り換えの騒ぎも、きょうでおしまいという日に、私はやはり薄暗いうちから起きて局の掃除を大車輪でやって、全部きちんとすましてから私の受持の窓口のところに腰かけて、ちょうど朝日が私の顔にまっすぐにさして来て、私は寝不足の眼を細くして、それでも何だかひどく得意な満足の気持で、労働は神聖なり、という言葉などを思い出し、ほっと溜息ためいきをついた時に、トカトントンとあの音が遠くから幽かに聞えたような気がして、もうそれっきり、何もかも一瞬のうちに馬鹿らしくなり、私は立って自分の部屋に行き、蒲団ふとんをかぶって寝てしまいました。ごはんの知らせが来ても、私は、からだ工合が悪いから、きょうは起きない、とぶっきらぼうに言い、その日は局でも一ばんいそがしかったようで、最も優秀な働き手の私に寝込まれて実にみんな困った様子でしたが、私は終日うつらうつら眠っていました。伯父への御恩返しも、こんな私の我儘わがままのために、かえってマイナスになったようでしたが、もはや、私には精魂こめて働く気などは少しもなく、その翌る日には、ひどく朝寝坊をして、そうしてぼんやり私の受持の窓口に坐り、あくびばかりして、たいていの仕事は、隣りの女の局員にまかせきりにしていました。そうしてその翌日も、翌々日も、私は甚だ気力の無いのろのろしていて不機嫌な、つまり普通の、あの窓口局員になりました。
「まだお前は、どこか、からだ工合がわるいのか」
 と伯父の局長に聞かれても薄笑いして、
「どこも悪くない。神経衰弱かも知れん」
 と答えます。
「そうだ、そうだ」と伯父は得意そうに、「俺もそうにらんでいた。お前は頭が悪いくせに、むずかしい本を読むからそうなる。俺やお前のように、頭の悪い男は、むずかしい事を考えないようにするのがいいのだ」と言って笑い、私も苦笑しました。
 この伯父は専門学校を出たはずの男ですが、さっぱりどこにもインテリらしい面影が無いんです。
 そうしてそれから、(私の文章には、ずいぶん、そうしてそれからが多いでしょう? これもやはり頭の悪い男の文章の特色でしょうかしら。自分でも大いに気になるのですが、でも、つい自然に出てしまうので、泣寝入りです)そうしてそれから、私は、コイをはじめたのです。お笑いになってはいけません。いや、笑われたって、どう仕様も無いんです。金魚鉢のメダカが、鉢の底から二寸くらいの個所にうかんで、じっと静止して、そうしておのずから身ごもっているように、私も、ぼんやり暮しながら、いつとはなしに、どうやら、ずかしい恋をはじめていたのでした。
 恋をはじめると、とても音楽が身にしみて来ますね。あれがコイのヤマイの一ばんたしかな兆候だと思います。
 片恋なんです。でも私は、その女のひとを好きで好きで仕方が無いんです。そのひとは、この海岸の部落にたった一軒しかない小さい旅館の、女中さんなのです。まだ、はたち前のようです。伯父の局長は酒飲みですから、何か部落の宴会が、その旅館の奥座敷でひらかれたりするたびごとに、きっと欠かさず出かけますので、伯父とその女中さんとはお互い心易い様子で、女中さんが貯金だの保険だのの用事で郵便局の窓口の向う側にあらわれると、伯父はかならず、可笑おかしくもない陳腐な冗談を言ってその女中さんをからかうのです。
「このごろはお前も景気がいいと見えて、なかなか貯金にも精が出るのう。感心かんしん。いい旦那でも、ついたかな?」
「つまらない」
 と言います。そうして、じっさい、つまらなそうな顔をして言います。ヴァン・ダイクの画の、女の顔でなく、貴公子の顔に似た顔をしています。時田花江という名前です。貯金帳にそう書いてあるんです。以前は、宮城県にいたようで、貯金帳の住所欄には、以前のその宮城県の住所も書かれていて、そうして赤線で消されて、その傍にここの新しい住所が書き込まれています。女の局員たちのうわさでは、なんでも、宮城県のほうで戦災に遭って、無条件降伏直前に、この部落へひょっこりやって来た女で、あの旅館のおかみさんの遠い血筋のものだとか、そうして身持ちがよろしくないようで、まだ子供のくせに、なかなかの凄腕すごうでだとかいう事でしたが、疎開して来たひとで、その土地の者たちの評判のいいひとなんて、ひとりもありません。私はそんな、凄腕などという事は少しも信じませんでしたが、しかし、花江さんの貯金も決して乏しいものではありませんでした。郵便局の局員が、こんな事を公表してはいけない事になっているのですけど、とにかく花江さんは、局長にからかわれながらも、一週間にいちどくらいは二百円か三百円の新円を貯金しに来て、総額がぐんぐん殖えているんです。まさか、いい旦那がついたから、とも思いませんが、私は花江さんの通帳に弐百円とか参百円とかのハンコを押すたんびに、なんだか胸がどきどきして顔があからむのです。
 そうして次第に私は苦しくなりました。花江さんは決して凄腕なんかじゃないんだけれども、しかし、この部落の人たちはみんな花江さんをねらって、お金なんかをやって、そうして、花江さんをダメにしてしまうのではなかろうか。きっとそうだ、と思うと、ぎょっとして夜中に床からむっくり起き上った事さえありました。
 けれども花江さんは、やっぱり一週間にいちどくらいの割で、平気でお金を持って来ます。いまはもう、胸がどきどきして顔が赤らむどころか、あんまり苦しくて顔があおくなり額に油汗のにじみ出るような気持で、花江さんの取り澄まして差出す証紙をった汚い十円紙幣を一枚二枚と数えながら、矢庭に全部ひき裂いてしまいたい発作に襲われた事が何度あったか知れません。そうして私は、花江さんに一こと言ってやりたかった。あの、れいの鏡花の小説に出て来る有名な、せりふ、「死んでも、ひとのおもちゃになるな!」と、キザもキザ、それに私のような野暮な田舎者には、とても言い出し得ない台詞せりふですが、でも私は大まじめに、その一言を言ってやりたくて仕方が無かったんです。死んでも、ひとのおもちゃになるな、物質がなんだ、金銭がなんだ、と。
 思えば思われるという事は、やっぱり有るものでしょうか。あれは五月の、なかば過ぎの頃でした。花江さんは、れいの如く、澄まして局の窓口の向う側にあらわれ、どうぞと言ってお金と通帳を私に差出します。私は溜息をついてそれを受取り、悲しい気持で汚い紙幣を一枚二枚とかぞえます。そうして通帳に金額を記入して、黙って花江さんに返してやります。
「五時頃、おひまですか?」
 私は、自分の耳を疑いました。春の風にたぶらかされているのではないかと思いました。それほど低く素早い言葉でした。
「おひまでしたら、橋にいらして」
 そう言って、かすかに笑い、すぐにまた澄まして花江さんは立ち去りました。
 私は時計を見ました。二時すこし過ぎでした。それから五時まで、だらしない話ですが、私は何をしていたか、いまどうしても思い出す事が出来ないのです。きっと、何やら深刻な顔をして、うろうろして、突然となりの女の局員に、きょうはいいお天気だ、なんて曇っている日なのに、大声で言って、相手がおどろくと、ぎょろりとにらんでやって、立ち上って便所へ行ったり、まるで阿呆みたいになっていたのでしょう。五時、七、八分まえに私は、家を出ました。途中、自分の両手の指の爪がのびているのを発見して、それがなぜだか、実に泣きたいくらい気になったのを、いまでも覚えています。
 橋のたもとに、花江さんが立っていました。スカートが短かすぎるように思われました。長いはだかの脚をちらと見て、私は眼を伏せました。
「海のほうへ行きましょう」
 花江さんは、落ちついてそう言いました。
 花江さんがさきに、それから五、六歩はなれて私が、ゆっくり海のほうへ歩いて行きました。そうして、それくらい離れて歩いているのに、二人の歩調が、いつのまにか、ぴったり合ってしまって、困りました。曇天で、風が少しあって、海岸には砂ほこりが立っていました。
「ここが、いいわ」
 岸にあがっている大きい漁船と漁船のあいだに花江さんは、はいって行って、そうして砂地に腰をおろしました。
「いらっしゃい。坐ると風が当らなくて、あたたかいわ」
 私は花江さんが両脚を前に投げ出して坐っている個所から、二メートルくらい離れたところに腰をおろしました。
「呼び出したりして、ごめんなさいね。でも、あたし、あなたに一こと言わずには居られないのよ。あたしの貯金の事、ね、へんに思っていらっしゃるんでしょう?」
 私も、ここだと思い、しゃがれた声で答えました。
「へんに、思っています。」
「そう思うのが当然ね」と言って花江さんは、うつむき、はだかの脚に砂をすくって振りかけながら、「あれはね、あたしのお金じゃないのよ。あたしのお金だったら、貯金なんかしやしないわ。いちいち貯金なんて、めんどうくさい」
 成る程と思い、私は黙ってうなずきました。
「そうでしょう? あの通帳はね、おかみさんのものなのよ。でも、それは絶対に秘密よ。あなた、誰にも言っちゃだめよ。おかみさんが、なぜそんな事をするのか、あたしには、ぼんやりわかっているんだけど、でも、それはとても複雑している事なんですから、言いたくないわ。つらいのよ、あたしは。信じて下さる?」
 すこし笑って花江さんの眼が妙に光って来たと思ったら、それは涙でした。
 私は花江さんにキスしてやりたくて、仕様がありませんでした。花江さんとなら、どんな苦労をしてもいいと思いました。
「この辺のひとたちは、みんな駄目ねえ。あたし、あなたに、誤解されてやしないかと思って、あなたに一こと言いたくって、それできょうね、思い切って」
 その時、実際ちかくの小屋から、トカトントンという釘打つ音が聞えたのです。この時の音は、私の幻聴ではなかったのです。海岸の佐々木さんの納屋なやで、事実、音高く釘を打ちはじめたのです。トカトントン、トントントカトン、とさかんに打ちます。私は、身ぶるいして立ち上りました。
「わかりました。誰にも言いません。」花江さんのすぐうしろに、かなり多量の犬のふんがあるのをそのとき見つけて、よっぽどそれを花江さんに注意してやろうかと思いました。
 波は、だるそうにうねって、きたない帆をかけた船が、岸のすぐ近くをよろよろと、とおって行きます。
「それじゃ、失敬」
 空々漠々たるものでした。貯金がどうだって、俺の知った事か。もともと他人なんだ。ひとのおもちゃになったって、どうなったって、ちっともそれは俺に関係した事じゃない。ばかばかしい。腹がへった。
 それからも、花江さんは相変らず、一週間か十日目くらいに、お金を持って来て貯金して、もういまでは何千円かの額になっていますが、私には少しも興味がありません。花江さんの言ったように、それはおかみさんのお金なのか、または、やっぱり花江さんのお金なのか、どっちにしたって、それは全く私には関係の無い事ですもの。
 そうして、いったいこれは、どちらが失恋したという事になるのかと言えば、私には、どうしても、失恋したのは私のほうだというような気がしているのですけれども、しかし、失恋して別段かなしい気も致しませんから、これはよっぽど変った失恋の仕方だと思っています。そうして私は、またもや、ぼんやりした普通の局員になったのです。
 六月にはいってから、私は用事があって青森へ行き、偶然、労働者のデモを見ました。それまでの私は社会運動または政治運動というようなものには、あまり興味が無い、というよりは、絶望に似たものを感じていたのです。誰がやったって、同じ様なものなんだ。また自分が、どのような運動に参加したって、所詮しょせんはその指導者たちの、名誉慾か権勢慾の乗りかかった船の、犠牲になるだけの事だ。何の疑うところも無く堂々と所信を述べ、わが言に従えば必ずやなんじ自身ならびに汝の家庭、汝の村、汝の国、否全世界が救われるであろうと、大見得を切って、救われないのは汝等がわが言に従わないからだとうそぶき、そうして一人のおいらんに、振られて振られて振られとおして、やけになって公娼こうしょう廃止を叫び、憤然として美男の同志を殴り、あばれて、うるさがられて、たまたま勲章をもらい、沖天ちゅうてんの意気を以てわが家に駈け込み、かあちゃんこれだ、と得意満面、その勲章の小箱をそっとあけて女房に見せると、女房は冷たく、あら、勲五等じゃないの、せめて勲二等くらいでなくちゃねえ、と言い、亭主がっかり、などという何が何やらまるで半気狂きちがいのような男が、その政治運動だの社会運動だのに没頭しているものとばかり思い込んでいたのです。それですから、ことしの四月の総選挙も、民主主義とか何とか言って騒ぎ立てても、私には一向にその人たちを信用する気が起らず、自由党、進歩党は相変らずの古くさい人たちばかりのようでまるで問題にならず、また社会党共産党は、いやに調子づいてはしゃいでいるけれども、これはまた敗戦便乗とでもいうのでしょうか、無条件降伏のしかばねにわいた蛆虫うじむしのような不潔な印象を消す事が出来ず、四月十日の投票日にも私は、伯父の局長から自由党の加藤さんに入れるようにと言われていたのですが、はいはいと言って家を出て海岸を散歩して、それだけで帰宅しました。社会問題や政治問題に就いてどれだけ言い立てても、私たちの日々の暮しの憂鬱は解決されるものではないと思っていたのですが、しかし、私はあの日、青森で偶然、労働者のデモを見て、私の今までの考えは全部間違っていた事に気がつきました。
 生々溌剌せいせいはつらつ、とでも言ったらいいのでしょうか。なんとまあ、楽しそうな行進なのでしょう。憂鬱の影も卑屈のしわも、私は一つも見出す事が出来ませんでした。伸びて行く活力だけです。若い女のひとたちも、手に旗を持って労働歌を歌い、私は胸が一ぱいになり、涙が出ました。ああ、日本が戦争に負けて、よかったのだと思いました。生れてはじめて、真の自由というものの姿を見た、と思いました。もしこれが、政治運動や社会運動から生れた子だとしたなら、人間はまず政治思想、社会思想をこそ第一に学ぶべきだと思いました。
 なおも行進を見ているうちに、自分の行くべき一条の光りの路がいよいよ間違い無しに触知せられたような大歓喜の気分になり、涙が気持よく頬を流れて、そうして水にもぐって眼をひらいてみた時のように、あたりの風景がぼんやり緑色にけむって、そうしてその薄明の漾々ようようと動いている中を、真紅の旗が燃えている有様を、ああその色を、私はめそめそ泣きながら、死んでも忘れまいと思ったら、トカトントンと遠く幽かに聞えて、もうそれっきりになりました。
 いったい、あの音はなんでしょう。虚無ヒルなどと簡単に片づけられそうもないんです。あのトカトントンの幻聴は、虚無ヒルをさえ打ちこわしてしまうのです。
 夏になると、この地方の青年たちの間で、にわかにスポーツ熱がさかんになりました。私には多少、年寄りくさい実利主義的な傾向もあるのでしょうか、何の意味も無くまっぱだかになって角力すもうをとり、投げられて大怪我をしたり、顔つきをかえて走って誰よりも誰が早いとか、どうせ百メートル二十秒の組でどんぐりの背ならべなのに、ばかばかしい、というような気がして、青年たちのそんなスポーツに参加しようと思った事はいちども無かったのです。けれども、ことしの八月に、この海岸線の各部落を縫って走破する駅伝競走というものがあって、この郡の青年たちが大勢参加し、このAの郵便局も、その競争の中継所という事になり、青森を出発した選手が、ここで次の選手と交代になるのだそうで、午前十時少し過ぎ、そろそろ青森を出発した選手たちがここへ到着する頃だというので、局の者たちは皆、外へ見物に出て、私と局長だけ局に残って簡易保険の整理をしていましたが、やがて、来た、来た、というどよめきが聞え、私は立って窓から見ていましたら、それがすなわちラストヘビーというもののつもりなのでしょう、両手の指のまたかえるの手のようにひろげ、空気を掻き分けて進むというような奇妙な腕の振り工合で、そうしてまっぱだかにパンツ一つ、もちろん裸足はだしで、大きい胸を高く突き上げ、苦悶くもんの表情よろしく首をそらして左右にうごかし、よたよたよたと走って局の前まで来て、ううんと一声うなって倒れ、
「ようし! 頑張ったぞ!」と附添の者が叫んで、それを抱き上げ、私の見ている窓の下に連れて来て、用意の手桶ておけの水を、ざぶりとその選手にぶっかけ、選手はほとんど半死半生の危険な状態のようにも見え、顔は真蒼まっさおでぐたりとなって寝ている、その姿を眺めて私は、実に異様な感激に襲われたのです。
 可憐かれん、などと二十六歳の私が言うのも思い上っているようですが、いじらしさ、と言えばいいか、とにかく、力の浪費もここまで来ると、見事なものだと思いました。このひとたちが、一等をとったって二等をとったって、世間はそれにほとんど興味を感じないのに、それでも生命いのち懸けで、ラストヘビーなんかやっているのです。別に、この駅伝競争に依って、所謂文化国家を建設しようという理想を持っているわけでもないでしょうし、また、理想も何も無いのに、それでも、おていさいから、そんな理想を口にして走って、以て世間の人たちにほめられようなどとも思っていないでしょう。また、将来大マラソン家になろうという野心も無く、どうせ田舎の駈けっくらで、タイムも何も問題にならん事は、よく知っているでしょうし、家へ帰っても、その家族の者たちに手柄話などする気もなく、かえってお父さんに叱られはせぬかと心配して、けれども、それでも走りたいのです。いのちがけで、やってみたいのです。誰にほめられなくてもいいんです。ただ、走ってみたいのです。無報酬の行為です。幼児の危い木登りには、まだ柿の実を取って食おうという慾がありましたが、このいのちがけのマラソンには、それさえありません。ほとんど虚無の情熱だと思いました。それが、その時の私の空虚な気分にぴったり合ってしまったのです。
 私は局員たちを相手にキャッチボールをはじめました。へとへとになるまで続けると、何か脱皮に似たさわやかさが感ぜられ、これだと思ったとたんに、やはりあのトカトントンが聞えるのです。あのトカトントンの音は、虚無の情熱をさえ打ち倒します。
 もう、この頃では、あのトカトントンが、いよいよ頻繁に聞え、新聞をひろげて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、トカトントン、局の人事に就いて伯父から相談を掛けられ、名案がふっと胸に浮んでも、トカトントン、あなたの小説を読もうとしても、トカトントン、こないだこの部落に火事があって起きて火事場に駈けつけようとして、トカトントン、伯父のお相手で、晩ごはんの時お酒を飲んで、も少し飲んでみようかと思って、トカトントン、もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもトカトントン、自殺を考え、トカトントン
「人生というのは、一口に言ったら、なんですか」
 と私は昨夜、伯父の晩酌の相手をしながら、ふざけた口調で尋ねてみました。
「人生、それはわからん。しかし、世の中は、色と慾さ」
 案外の名答だと思いました。そうして、ふっと私は、闇屋やみやになろうかしらと思いました。しかし、闇屋になって一万円もうけた時のことを考えたら、すぐトカトントンが聞えて来ました、
 教えて下さい。この音は、なんでしょう。そうして、この音からのがれるには、どうしたらいいのでしょう。私はいま、実際、この音のために身動きが出来なくなっています。どうか、ご返事を下さい。
 なお最後にもう一言つけ加えさせていただくなら、私はこの手紙を半分も書かぬうちに、もう、トカトントンが、さかんに聞えて来ていたのです。こんな手紙を書く、つまらなさ。それでも、我慢してとにかく、これだけ書きました。そうして、あんまりつまらないから、やけになって、ウソばっかり書いたような気がします。花江さんなんて女もいないし、デモも見たのじゃないんです。その他の事も、たいがいウソのようです。
 しかし、トカトントンだけは、ウソでないようです。読みかえさず、このままお送り致します。敬具。

 この奇異なる手紙を受け取った某作家は、むざんにも無学無思想の男であったが、次の如き返答を与えた。

 拝復。気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智えいちよりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂たましいをころし得ぬ者どもをおそるな、身と霊魂たましいとをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」この場合の「懼る」は、「畏敬いけい」の意にちかいようです。このイエスの言に、霹靂へきれきを感ずる事が出来たら、君の幻聴は止むはずです。不尽ふじん 

  

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【日刊 太宰治全小説】#228「親友交歓」

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【冒頭】
昭和二十一年の九月のはじめに、私は、()る男の訪問を受けた。
この事件は、ほとんど全く、ロマンチックではないし、また、いっこうに、ジャアナリスチックでも無いのであるが、しかし、私の胸に()いて、私の死ぬるまで消し難い痕跡(こんせき)を残すのではあるまいか、と思われる、そのような妙に、やりきれない事件なのである。

【結句】

けれども、まだまだこれでおしまいでは無かったのである。さらに有終の美一点が附加(ふか)せられた。まことに痛快とも、小気味よしとも言わんかた無い男であった。玄関まで彼を送って行き、いよいよわかれる時に、彼は私の耳元で(はげ)しく、こう(ささや)いた。
「威張るな!」
 

「親友交歓」について

新潮文庫ヴィヨンの妻』所収。
・昭和21年10月2日までに脱稿。
・昭和21年12月1日、『新潮』十二月号に掲載。

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)  

  昭和二十一年の九月のはじめに、私は、或る男の訪問を受けた。
 この事件は、ほとんど全く、ロマンチックではないし、また、いっこうに、ジャアナリスチックでも無いのであるが、しかし、私の胸に於いて、私の死ぬるまで消し難い痕跡こんせきを残すのではあるまいか、と思われる、そのような妙に、やりきれない事件なのである。
 事件。
 しかし、やっぱり、事件といっては大袈裟おおげさかも知れない。私は或る男と二人で酒を飲み、別段、喧嘩けんかも何も無く、そうして少くとも外見に於いては和気藹々裡わきあいあいりに別れたというだけの出来事なのである。それでも、私にはどうしても、ゆるがせに出来ぬ重大事のような気がしてならぬのである。
 とにかくそれは、見事な男であった。あっぱれな奴であった。好いところが一つもみじんも無かった。
 私は昨年罹災りさいして、この津軽の生家に避難して来て、ほとんど毎日、神妙らしく奥の部屋に閉じこもり、時たまこの地方の何々文化会とか、何々同志会とかいうところから講演しに来い、または、座談会に出席せよなどと言われる事があっても、「他にもっと適当な講師がたくさんいるはずです」と答えて断り、こっそりひとりで寝酒など飲んで寝る、というやや贋隠者にせいんじゃのあけくれにも似たる生活をしているのだけれども、それ以前の十五年間の東京生活に於いては、最下等の居酒屋に出入りして最下等の酒を飲み、所謂いわゆる最下等の人物たちと語り合っていたものであって、たいていの無頼漢には驚かなくなっているのである。しかし、あの男にはあきれた。とにかく、ずば抜けていやがった。
 九月のはじめ、私は昼食をすませて、母屋おもや常居じょいという部屋で、ひとりぼんやり煙草を吸っていたら、野良着姿の大きな親爺おやじが玄関のたたきにのっそり立って、
「やあ」と言った。
 それがすなわち、問題の「親友」であったのである。
(私はこの手記に於いて、ひとりの農夫の姿を描き、かれの嫌悪すべき性格を世人に披露ひろうし、以て階級闘争に於ける所謂「反動勢力」に応援せんとする意図などは、全く無いのだという事を、ばからしいけど、念のために言い添えて置きたい。それはこの手記のおしまいまでお読みになったら、たいていの読者には自明の事で、こんな断り書きは興覚めに違いないのであるが、ちかごろ甚だ頭の悪い、無感覚の者が、しきりに何やら古くさい事を言って騒ぎ立て、とんでもない結論を投げてよこしたりするので、その頭の古くて悪い(いや、かえって利口なのかも知れないが)その人たちのために一言、言わでもの説明を附け加えさせていただく次第なのだ。どだい、この手記にあらわれる彼は、百姓のような姿をしているけれども、決してあの「イデオロギスト」たちの敬愛の的たる農夫では無い。彼は実に複雑な男であった。とにかく私は、あんな男は、はじめて見た。不可解といってもいいくらいであった。私はそこに、人間の新しいタイプをさえ予感した。善い悪いという道徳的な審判を私はそれに対して試みようとしているのでなく、そのような新しいタイプの予感を、読者に提供し得たならば、それで私は満足なのである)
 彼は私と小学校時代の同級生であったところの平田だという。
「忘れたか」と言って、白い歯を出して笑っている。その顔には、かすかに見覚えがあった。
「知っている。あがらないか」私はその日、彼に対してたしかに軽薄な社交家であった。
 彼は、藁草履わらぞうりを脱いで、常居にあがった。
「久しぶりだなあ」と彼は大声で言う。「何年振りだ? いや、何十年振りだ? おい、二十何年振りだよ。お前がこっちに来ているという事は、前から聞いていたが、なかなか俺も畑仕事がいそがしくてな、遊びに来れないでいたのだよ。お前もなかなかの酒飲みになったそうじゃないか。うわっはっはっは」
 私は苦笑し、お茶を注いで出した。
「お前は俺と喧嘩した事を忘れたか? しょっちゅう喧嘩をしたものだ」
「そうだったかな」
「そうだったかなじゃない。これ見ろ、この手の甲に傷がある。これはお前にひっかかれた傷だ」
 私はその差し伸べられた手の甲を熟視したが、それらしい傷跡はどこにも無かった。
「お前の左の向うずねにも、たしかに傷がある筈だ。あるだろう? たしかにある筈だよ。それは俺がお前に石をぶっつけた時の傷だ。いや、よくお前とは喧嘩をしたものだ」
 しかし、私の左の向う脛にも、また、右の向う脛にも、そんな傷は一つも無いのである。私はただあいまいに微笑して、かれの話を傾聴していた。
「ところで、お前に一つ相談があるんだがな。クラス会だ。どうだ、いやか。大いに飲もうじゃないか。出席者が十人として、酒を二斗、これは俺が集める」
「それは悪くないけど、二斗はすこし多くないか」
「いや、多くない。ひとりに二升無くては面白くない」
「しかし、二斗なんてお酒が集まるか?」
「集まらない、かも知れん。わからないが、やってみる。心配するな。しかし、いくら田舎だってこの頃は酒も安くはないんだから、お前にそこは頼む」
 私は心得顔で立ち上り、奥の部屋へ行って大きい紙幣を五枚持って来て、
「それじゃ、さきにこれだけあずかって置いてくれ。あとはまた、あとで」
「待ってくれ」とその紙幣を私に押し戻し、「それは違う。きょうは俺は金をもらいに来たのではない。ただ相談に来たのだ。お前の意見を聞きに来たのだ。どうせそれあ、お前からは、千円くらいは出してもらわないといけない事になるだろうが、しかし、きょうは相談かたがた、昔の親友の顔を見たくて来たのだ。まあ、いいから、俺にまかせて、そんな金なんか、ひっこめてくれ」
「そうか」私は、紙幣を上衣のポケットに収めた。
「酒は無いのか」と突然かれは言った。
 私はさすがに、かれの顔を見直した。かれも、一瞬、工合いの悪そうな、まぶしそうな顔をしたが、しかし、つっぱった。
「お前のところには、いつでも二升や三升は、あると聞いているんだ。飲ませろ。かかは、いないのか。かかのお酌で一ぱい飲ませろ」
 私は立ち上り、
「よし。じゃ、こっちへ来い」
 つまらない思いであった。
 私は彼を奥の書斎に案内した。
「散らかっているぜ」
「いや、かまわない。文学者の部屋というのは、みんなこんなものだ。俺も東京にいた頃、いろんな文学者と附き合いがあったからな」
 しかし、私にはとてもそれは信じられなかった。
「やっぱり、でも、いい部屋だな。さすがに、立派な普請だ。庭の眺めもいい。ひいらぎがあるな。柊のいわれを知っているか」
「知らない」
「知らないのか?」と得意になり、「そのいわれは、大にして世界的、小にしては家庭、またお前たちの書く材料になる」
 さっぱり言葉が、意味をなして居らぬ。足りないのではないか、とさえ思われた。しかし、そうではなかった。なかなか、ずるくて達者な一面も、あとで見せてくれたのである。
「なんだろうね、そのいわれは」
 にやりと笑って、
「こんど教える。柊のいわれ」ともったい振る。
 私は押入れから、半分ほどはいっているウイスキイの角瓶を持ち出し、
ウイスキイだけど、かまわないか」
「いいとも。かかがいないか。お酌をさせろよ」
 永い間、東京に住み、いろんな客を迎えたけれども、私に対してこんな事を言った客は、ひとりも無かった。
「女房は、いない」と私はうそを言った。
「そう言わずに」と彼は、私の言う事などてんで問題にせず、「ここへ呼んで来て、お酌をさせろよ。お前のかかのお酌で一ぱい飲んでみたくてやって来たのだ」
 都会の女、あか抜けて愛嬌あいきょうのいい女、そんなのを期待して来たのならば、彼にもお気の毒だし、女房もみじめだと思った。女房は、都会の女ではあるが、すこぶる野暮ったい不器量の、そうして何のおあいそも無い女である。私は女房を出すのは気が重かった。
「いいじゃないか。女房のお酌だと、かえって酒がまずくなるよ。このウイスキイは」と言いながら机の上の茶呑茶碗ちゃのみぢゃわんウイスキイを注ぎ、「昔なら三流品なんだけど、でも、メチルではないから」
 彼はぐっと一息に飲みほし、それからちょっちょっと舌打ちをして、
「まむし焼酎しょうちゅうに似ている」と言った。
 私はさらにまた注いでやりながら、
「でも、あんまりぐいぐいやると、あとで一時に酔いが出て来て、苦しくなるよ」
「へえ? おかど違いでしょう。俺は東京でサントリイを二本あけた事だってあるのだ。このウイスキイは、そうだな、六〇パーセントくらいかな? まあ、普通だ。たいして強くない」と言って、またぐいと飲みほす。なんの風情ふぜいも無い。
 そうしてこんどは、彼が私に注いでくれて、それからまた彼自身の茶碗にもなみなみと一ぱい注いで、
「もう無い」と言った。
「ああ、そう」と私は上品なる社交家の如く、心得顔に気軽そうに立ち、またもや押入れからウイスキイを一本取り出し、栓をあける。
 彼は平然と首肯して、また飲む。
 さすがに私も、少しいまいましくなって来た。私には幼少の頃から浪費の悪癖があり、ものを惜しむという感覚は、(決して自慢にならぬ事だが)普通の人に較べてやや鈍いように思っている。けれども、そのウイスキイは、わば私の秘蔵のものであったのである。昔なら三流品でも、しかし、いまではたしかに一流品に違いなかったのである。値段も大いに高いけれども、しかし、それよりも、これを求める手蔓てづるが、たいへんだったのである。お金さえ出せば買えるというものでは無かったのである。私はこのウイスキイを、かなり前にやっと一ダアスゆずってもらい、そのために破産したけれども後悔はせず、ちびちびめて楽しみ、お酒の好きな作家の井伏いぶせさんなんかやって来たら飲んでもらおうとかなり大事にしていたのである。しかし、だんだん無くなって、その時には、押入れに、二本半しか残っていなかったのである。
 飲ませろ、と言われた時には、あいにく日本酒も何も無かったので、その残り少なの秘蔵のウイスキイを出したのであるが、しかし、こんなにがぶがぶ鯨飲されるとは思っていなかった。甚だケチ臭い愚痴を言うようだが、(いや、はっきり言おう。私はこのウイスキイに関しては、ケチである。惜しいのである)まるで何か当然の事のように、大威張りでぐいぐい飲まれては、さすがに、いまいましい気が起らざるを得なかったのである。
 それにまた、彼の談話たるや、すこしも私の共感をそそってはくれないのである。それは何も私が教養ある上品な人物で相手は無学な田舎親爺だからというわけではなかった。そんな事は、絶対に無い。私は全然無教養な淫売婦いんばいふと、「人生の真実」とでもいったような事を大まじめで語り合った経験をさえ持っている。無学な老職人に意見せられて涙を流した事だってある。私は世に言う「学問」を懐疑さえしている。彼の談話が、少しも私に快くなかったのは、たしかに他の理由からである。それは何か。私はそれをここで、二、三語を用いて断定するよりも、彼のその日のさまざまの言動をそのまま活写し、以て読者の判断にゆだねたほうが、作者として所謂健康な手段のように思われる。
 彼は「俺の東京時代は」という事を、さいしょから、しきりに言っていたが、酔うにしたがって、いよいよ頻繁にそれが連発せられて来た。
「お前も、しかし、東京では女でしくじったが」と大声で言って、にやりと笑い、「俺だって、実は、東京時代に、あぶないところまでいった事があるんだ。もう少しで、お前と同じような大しくじりをするところまでいったんだ。本当だよ。じっさい、そこまでいったんだ。しかし、俺は逃げたよ。うん、逃げた。それでも、女というものは、いったん思い込んだ男を忘れかねると見えるな。うわっはっは。いまでも手紙を寄こすのだよ。うふふ。こないだも、餅を送ってよこした。女は、馬鹿なものだよ、まったく。女にれられようとしたら、顔でも駄目だ、金でも駄目だ、気持だよ、心だよ。じっさい俺も東京時代は、あばれたものだ。考えてみると、あの頃は無論お前も東京にいて、芸者を泣かせたりなんかして遊んでいた筈だが、いちども俺と逢わなかったのは不思議だな。お前は、いったいあの頃は、おもにどの方面で遊んでいたのだ」
 あの頃とは、私には、どの頃かわからない。それに私は東京に於いて、彼の推量の如くそんな、芸者を泣かせたりして遊んだ覚えは一度だって無い。おもに屋台のヤキトリ屋で、泡盛や焼酎を飲み、くだを巻いていたのである。私は東京に於いて、彼の所謂「女で大しくじり」をして、それも一度や二度でない、たび重なる大しくじりばかりして、親兄弟の肩身をせまくさせたけれども、しかし、せめて、これだけは言えると思う、「ただ金のあるにまかせて、色男ぶって、芸者を泣かせて、やにさがっていたのではない!」みじめなプロテストではあるが、これをさえ私は未だに信じてもらえない立場にいるらしいのを、彼の言葉に依って知らされ、うんざりした。
 しかし、その不愉快は、あながちこの男に依って、はじめて嘗めさせられたものではなく、東京の文壇の批評家というもの、その他いろいろさまざま、または、友人という形になっている人物に依ってさえも嘗めさせられている苦汁であるから、それはもう笑って聞き流す事も出来るようになっていたのであるが、もう一つ、この百姓姿の男が、何かそれを私の大いなる弱味の如く考えているらしく、それに附け込むという気配が感ぜられて、そのような彼の心情がどうにも、あさましく、つまらないものに思われた。
 しかし、その日は、私は極めて軽薄なる社交家であった。毅然きぜんたるところが一つも無かった。なんといったって、私は、ほとんど無一物の戦災者であって、妻子を引き連れ、さほど豊かでもないこの町に無理矢理割り込ませてもらって、以てあやうく露命をつなぐを得ているという身の上に違いないのであるから、この町の昔からの住民に対しては、いきおい、軽薄なる社交家たらざるを得なかった。
 私は母屋へ行って水菓子をもらって来て彼にすすめ、
「たべないか。くだものを食べると、酔いがさめて、また大いに飲めるようになるよ」
 私は彼がこの調子で、ぐいぐいウイスキイを飲み、いまに大酔いを発し、乱暴を働かないまでも、前後不覚になっては、始末に困ると思い、少し彼を落ちつかせる目的を以て、梨の皮などをむいてすすめたのである。
 しかし、彼は酔いを覚ます事は好まない様子で、その水菓子には眼もくれず、ウイスキイの茶呑茶碗にだけ手をかける。
「俺は政治はきらいだ」と突如、話題は政治に飛ぶ。「われわれ百姓は、政治なんて何も知らなくていいのだ。実際の俺たちの暮しに、少しでも得になる事をしてくれたら、そっちへつく。それでいいだろう。現物を眼の前に持って来て、俺たちの手に握らせたら、そっちへつく。それでいいわけではないか。われわれ百姓には野心は無いんだ。受けた恩は、きっと、それだけかえしてやる。それはもう、われわれ百姓の正直なところだ。進歩党も社会党も、どうだっていいんだ。われわれ百姓は田を作り、畑を耕やしていたら、それでいいのだ」
 私は、はじめ、なぜ彼が突如としてこんな妙な事を言い出したのか、わけがわからなかった。けれども、次の言葉で、真意が判明し苦笑した。
「しかし、こないだの選挙では、お前も兄貴のために運動したろう」
「いや、何も、ひとつも、しなかった。この部屋で毎日、自分の仕事をしていた」
「嘘だ。いかにお前が文学者で、政治家でないとしても、そこは人情だ。兄貴のために、大いにやったに違いない。俺はな、学問も何も無い百姓だが、しかし、人情というものは持っている。俺は、政治はきらいだ。野心も何も無い。社会党だの進歩党だのと言ったって、おそれるところは無いと思っているのだが、しかし、人情は持っている。俺はな、お前の兄貴とは、別に近づきでも何でもないが、しかし、少くともお前は、俺と同級生でもあり、親友だろう。ここが人情だ。俺は誰にたのまれなくても、お前の兄貴に一票いれた。われわれ百姓は、政治も何も知らなくていい。この、人情一つだけを忘れなければ、それでいいと思うが、どうだ」
 その一票が、ウイスキイの権利という事になるのだろうか。あまりにも見え透いて、私はいよいよ興覚めるばかりであった。
 しかし、彼だって、なかなか、単純な男ではない。敏感に、ふっと何か察するらしい。
「俺は、しかし何も、お前の兄貴の家来になりたがっている、というわけじゃないんだよ。そんなに、この俺を見下げ果ててもらっては困るよ。お前の家だって、先祖をただせば油売りだったんだ。知っているか。俺は、俺の家の婆から聞いた。油一合買ってくれた人には、飴玉一つ景品としてやったんだ。それが当った。また川向うの斎藤だって、いまこそあんな大地主で威張りかえっているけれども、三代前には、川に流れているしばを拾い、それを削ってくしを作り、川からとった雑魚ざこをその串にさして焼いて、一文とか二文とかで売ってもうけたものなんだ。また、大池さんの家なんか、路傍みちばたおけを並べて路行く人に小便をさせて、その小便が桶一ぱいになると、それを百姓たちに売ってもうけたのが、いまの財産のはじまりだ。金持ちなんて、もとをただせば、皆こんなものだ。俺の一族は、いいか、この地方では一ばん古い家柄という事になっているんだ。何でも、祖先は、京都の人で」と言いかけて、さすがに、てれくさそうに、ふふんと笑い、「婆の話だから、あてにはならんが、とにかくちゃんとした系図は在るのだ」
 私はまじめに、
「それでは、やはり、公卿くげの出かも知れない」と言って、彼の虚栄心を満足させてやった。
「うん、まあ、それは、はっきりはわからないが、たいてい、その程度のところなのだ。俺だけはこんな、汚い身なりで毎日、田畑に出ているが、しかし、俺の兄は、お前も知っているだろう、大学を出た。大学の野球の選手で新聞にしょっちゅう名前が出ていたではないか。弟もいま、大学へはいっている。俺は、感ずるところがあって、百姓になったが、しかし、兄でも弟でも、いまではこの俺に頭があがらん。なにせ、東京は食糧が無いんで、兄は大学を出て課長をしているが、いつも俺に米を送ってよこせという手紙だ。しかし、送るのがたいへんでな。兄が自分で取りに来たら、そうしたら、俺はいくらでも背負わさせてやるんだが、やっぱり東京の役所の課長ともなれば、米を背負いに来るわけにもいかんらしいな。お前だって、いま何か不自由なものがあったら、いつでも俺の家へ来い。俺はな、お前に、ただで酒を飲ませてもらおうとは思ってないよ。百姓というものは、正直なもんだ。受けた恩は、かならず、きっちりとそれだけ返す。いや、もうお前のお酌では、飲まん! かかを呼んで来い。かかのお酌でなければ、俺は飲まん!」私は一種奇妙な心持がした。別に私は、そんなに彼に飲ませたいと思ってもいないのに。「もう俺は飲まんよ。かかを連れて来い! お前が連れて来なければ、俺が行って引っぱって来る。かかは、どこにいるんだ。寝室か? 寝る部屋か? 俺は天下の百姓だ。平田一族を知らないかあ」次第に酔って、くだらなく騒ぎ、よろよろと立ち上る。
 私は笑いながら、それをなだめて坐らせ、
「よし、そんなら連れて来る。つまらねえ女だよ。いいか」
 と言って女房と子供のいる部屋へ行き、
「おい、昔の小学校時代の親友が遊びに見えているから、ちょっと挨拶に出てくれ」
 と、もっともらしい顔をして言いつけた。
 私は、やはり、自分の客人を女房にあなどらせたくなかった。自分のところへ来た客人が、それはどんな種類の客人でも、家の者たちにあなどられている気配が少しでも見えると、私は、つらくてかなわないのだ。
 女房は小さいほうの子供を抱いて書斎にはいって来た。
「このかたは、僕の小学校時代の親友で、平田さんというのだ。小学校時代には、しょっちゅう喧嘩して、このかたの右だか左だかの手の甲に僕のひっいた傷跡がまだ残っていてね、だからきょうはその復讐ふくしゅうにおいでなすったというわけだ」
「まあ、こわい」と女房は笑って言って、「どうぞよろしく」とていねいにお辞儀をした。
 私たち夫婦のこんな軽薄きわまる社交的な儀礼も、彼にとってまんざらでもなかったらしく、得意満面で、
「やあ、固苦しい挨拶はごめんだ。奥さん、まあ、こっちへずっと寄ってお酌をしてください」彼もまた、抜けめのない社交家であった。蔭では、かかと呼び、めんと向えば、奥さん、などと言っている。
 女房のお酌で、ぐいと飲み、
「奥さん。いまも、修治(私の幼名)に言っていたのだが、何か不自由なものがあったら、俺の家へ来なさい。なんでもある。芋でも野菜でも米でも、卵でも、鶏でも。馬肉はどうです、たべますか、俺は馬の皮をはぐのは名人なんだ、たべるなら、取りに来なさい、馬の脚一本背負わせてかえします。きじはどうです、山鳥のほうがおいしいかな? 俺は鉄砲撃ちなんだ。鉄砲撃ちの平田といえば、このへんでは、知らない者は無いんだ。お好みに応じて何でも撃ってあげますよ。かもはどうです。鴨なら、あすの朝でも田圃たんぼへ出て十羽くらいすぐ落して見せる。朝めし前に、五十八羽撃ち落した事さえあるんだ。嘘だと思うなら、橋のそばの鍛冶屋かじやの笠井三郎のところへ行って聞いて見ろ。あの男は、俺の事なら何でも知っている。鉄砲撃ちの平田と言えば、この地方の若い者は、絶対服従だ。そうだ、あしたの晩、おい文学者、俺と一緒に八幡様の宵宮よみやに行ってみないか。俺が誘いに来る。若い者たちの大喧嘩があるかも知れないのだ。どうもなあ、不穏な形勢なんだ。そこへ俺が飛び込んで行って、待った! と言うのだ。ちょうど幡随院ばんずいいんの長兵衛というところだ。俺はもう命も何も惜しくねえ。俺が死んだって、俺には財産があるんだからな、かかや子供は困る事がない。おい、文学者。あしたの晩は、ぜひ、一緒に行こうじゃないか。俺の偉いところを見せてやる。毎日、こんな奥の部屋でまごまごしていたって、いい文学は出来ない。大いに経験をひろくしなければいけない。いったい、お前は、どういうものを書いているのだ。うふふ。芸者小説か。お前は苦労を知らないから駄目だ。俺はもう、かかを三度とりかえた。あとのかかほど、可愛いもんだ。お前は、どうだ。お前だって、二人か! 三人か! 奥さん、どうです、修治は、あなたを可愛がるか? 俺は、これでも東京で暮した事のある男でね」
 甚だ、まずい事になって来た。私は女房に、母屋へ行って何か酒のさかなをもらって来なさい、と言いつけ、席をはずさせた。
 彼は悠然ゆうぜんと腰から煙草入れを取り出し、そうして、その煙草入れに附属した巾著きんちゃくの中から、ホクチのはいっている小箱だの火打石だのを出し、カチカチやって煙管きせるに火をつけようとするのだが、なかなかつかない。
「煙草は、ここにたくさんあるからこれを吸い給え。煙管は、めんどうくさいだろう」
 と私が言うと、彼は私のほうを見て、にやりと笑い、煙草入れをしまい込み、いかにも自慢そうに、
「われわれ百姓は、こんなものを持っているのだよ。お前たちは馬鹿にするだろうが、しかし、便利なものだ。雨の降る中でも、火打石は、カチカチとやりさえすれば火が出る。こんど俺は東京へ行く時、これを持参して銀座のまんなかで、カチカチとやってやろうと思うんだ。お前ももうすぐ東京へ帰るのだろう? 遊びに行くよ。お前の家は、東京のどこにあるのだ」
「罹災してね、どこへ行ったらいいか、まだきまっていないよ」
「そうか、罹災したのか。はじめて聞いた。それじゃ、いろいろ特配をもらったろう。こないだ罹災者に毛布の配給があったようだが、俺にくれ」
 私はまごついた。彼の真意を解するに苦しんだ。しかし、彼は、まんざら冗談でも無いらしく、しつこくそれを言う。
「くれよ。俺は、ジャンパーを作るのだ。わりにいい毛布らしいじゃないか。くれよ。どこにあるのだ。俺は帰りに持って行くぞ。これは、俺の流儀でな。ほしいものがあったら、これ持って行く! と言って、もらってしまう。そのかわり、お前が俺のところへ来たら、お前もそうするとよい。俺は平気だ。何を持って行ったって、かまわないよ。俺は、そんな流儀の男だ。礼儀だの何だの、めんどうくさい事はきらいなのだ。いいか、毛布は、もらって行くぞ」
 そのたった一枚の毛布は、女房が宝物のように大事にしているものなのだ。所謂「立派な」家にいま住んでいるから、私たちには何でもあり余っているように、彼に思われているのだろうか。私たちは、不相応の大きい貝殻の中に住んでいるヤドカリのようなもので、すぽりと貝殻から抜け出ると、丸裸のあわれな虫で、夫婦と二人の子供は、特配の毛布と蚊帳かやをかかえて、うろうろ戸外をいまわらなければならなくなるのだ。家の無い家族のみじめさは、田舎の家や田畠を持っている人たちにはわかるまい。このたびの戦争で家を失った人たちの大半は、(きっとそうだと思うのだが)いつか一たびは一家心中という手段を脳裡のうりに浮べたに違いない。
「毛布は、よせよ」
「ケチだなあ、お前は」
 とさらにしつこく、ねばろうとしていた時に、女房はお膳を運んで来た。
「やあ、奥さん」と矛先は、そちらに転じて、「手数をかけるなあ。食うものなんか何も要りませんから、さあここへ来てお酌をしてください。修治のお酌では、もう飲む気がしない。ケチくさくて、いけない。殴ってやろうか。奥さん、俺はね、東京時代にね、ずいぶん喧嘩が強かったですよ。柔道もね、ちょっと、やりました。いまだって、こんな、修治みたいなのは一ひねりですよ。いつでもね、修治があなたに威張ったら、俺に知らせなさい。思いきりぶん殴ってやりますから。どうです、奥さん、東京にいた時も、こっちへ来てからも、修治に対して俺ほどこんな無遠慮に親しく口をきける男は無かったろう。何せ昔の喧嘩友達だから、修治も俺には、気取る事が出来やしない」
 ここに於いて、彼の無遠慮も、あきらかに意識的な努力であった事を知るに及んで、ますます私は味気無い思いを深くした。ウイスキイをおごらせて大あばれにあばれて来た、と馬鹿な自慢話の種にするつもりなのであろうか。
 私は、ふと、木村重成しげなり茶坊主の話を思い出した。それからまた神崎かんざき与五郎と馬子の話も思い出した。韓信かんしんまたくぐりさえ思い出した。元来、私は、木村氏でも神崎氏でも、また韓信の場合にしても、その忍耐心に対して感心するよりは、あのひとたちが、それぞれの無頼漢に対して抱いていた無言の底知れぬ軽蔑けいべつ感を考えて、かえってイヤミなキザなものしか感じる事が出来なかったのである。よく居酒屋の口論などで、ひとりが悲憤してたけり立っているのに、ひとりは余裕ありげに、にやにやして、あたりの人に、「こまった酒乱さ」と言わぬばかりの色目をつかい、そうして、その激昂げっこうの相手に対し、「いや、わるかったよ、あやまるよ、お辞儀をします」など言ってるのを見かけることがあるけれども、あれは、まことにイヤミなものである。卑怯ひきょうだと思う。あんな態度に出られたら、悲憤の男はさらに物狂おしくあばれ廻らざるを得ないだろうと思われる。木村氏や神崎氏、または韓信などは、さすがにそんな観衆に対していやらしい色眼をつかい、「わるかったよ、あやまるよ」の露骨なスタンドプレイを演ずる事なく、堂々と、それこそ誠意おもてにあらわれるていび方をしたに違いないが、しかし、それにしても、之等の美談は、私のモラルと反撥する。私は、そこに忍耐心というものは感ぜられない。忍耐とは、そんな一時的な、ドラマチックなものでは無いような気がする。アトラスの忍耐、プロメテの忍苦、そのようなかなり永続的な姿であらわされる徳のように思われる。しかも前記三氏の場合、その三偉人はおのおの、その時、奇妙に高い優越感を抱いていたらしいふしがほの見えて、あれでは茶坊主でも、馬子でも、ぶん殴りたくなるのも、もっともだと、かえってそれらの無頼漢に同情の心をさえ寄せていたのである。殊に神崎氏の馬子など、念入りに詫び証文まで取ってみたが、いっこうに浮かぬ気持で、それから四、五日いよいよすさんでやけ酒をくらったであろうと思われる。そのように私は元来、あの美談の偉人の心懐には少しも感服せず、かえって無頼漢どもに対して大いなる同情と共感を抱いていたつもりであったが、しかし、いま眼前に、この珍客を迎え、従来の私の木村神崎韓信観に、重大なる訂正をほどこさざるを得なくなって来たようであった。
 卑怯だって何だってかまわない。荒れ馬は避くべし、というモラルに傾きかけて来たのである。忍耐だの何だの、そんな美徳について思いをひそめている余裕は無い。私は断言する。木村神崎韓信は、たしかにあのやけくその無頼の徒より弱かったのだ、圧倒せられていたのだ。勝目が無かったのだ。キリストだって、時われに利あらずと見るや、「かくしてしゅは、のがれ去り給えり」という事になっているではないか。
 のがれ去るより他は無い。いまここで、この親友を怒らせ、戸障子をこわすような活劇を演じたら、これは私の家では無し、甚だ穏やかでない事になる。そうでなくても、子供が障子を破り、カーテンを引きちぎり、壁に落書などして、私はいつも冷や冷やしているのだ。ここは何としても、この親友の御機嫌を損じないように努めなければならぬ。あの三氏の伝説は、あれは修身教科書などで、「忍耐」だの、「大勇と小勇」だのというテマでもってあつかわれているから、われら求道ぐどうの人士をこのように深く惑わす事になるのである。私がもし、あの話を修身の教科書に採用するとしたなら、題を「孤独」とするであろう。
 私は、いまこそあの三氏の、あの時の孤独感を知った、と思った。
 彼の気焔きえんを聞きながら、私はひそかにそのような煩悶はんもんをしているうちに、突如、彼は、
「うわあっ!」というすさまじい叫声を発した。
 ぎょっとして、彼を見ると、彼は、
「酔って来たあっ!」とわめき、さながら仁王の如く、不動の如く、眼を固くつむってううむとうなって、両腕をひざにつっぱり、満身の力を発揮して、酔いと闘っている様子である。
 酔う筈である。ほとんど彼ひとりで、すでに新しい角瓶の半分以上もやっているのだ。額には油汗がぎらぎら浮いて、それはまことに金剛あるいは阿修羅あしゅらというような形容を与えるにふさわしいすさまじい姿であった。私たち夫婦はそれを見て、実に不安な視線を交したが、しかし、三十秒後には、彼はけろりとなり、
「やっぱり、ウイスキイはいいな。よく酔う。奥さん、さあお酌をしてくれ。もっとこっちへ来なさいよ。俺はね、どんなに酔っても正気は失わん。きょうはお前たちのごちそうになったが、こんどは是非ともお前たちにごちそうする。俺のうちに来いよ。しかし、俺の家には何も無いぞ。鶏は、養ってあるが、あれは絶対につぶすわけにいかん。ただの鶏じゃないのだ。シャモと言ってな、喧嘩をさせる鶏だ。ことしの十一月に、シャモの大試合があって、その試合に全部出場させるつもりで、ただいま訓練中なんだが、ぶざまな負けかたをしたやつだけをひねりつぶして食うつもりだ。だから、十一月まで待つんだね。まあ、大根の二、三本くらいはあげますよ」だんだん話が小さくなって来た。「酒も無い、何も無い。だから、こうして飲みに来たんだ。鴨一羽、そのうち、とったら進呈するがね、しかし、それには条件がある。その鴨を、俺と修治と奥さんと三人で食って、その時に修治は、ウイスキイを出して、そうして、その鴨の肉をだな、まずいなんて言ったら承知しねえぞ。こんなまずいもの、なんて言ったら承知しねえ。俺がせっかく苦心して撃ちとった鴨だ。おいしい、と言ってもらいたい。いいか約束したぞ。おいしい! うまい! と言うのだぞ。うわっはっはっは。奥さん、百姓というものはこういうものだ。馬鹿にされたら、もう、縄きれ一本だって、くれてやるのはいやだ。百姓とつき合うには、こつがある。いいか、奥さん。気取ってはいかん、気取っては。なあに、奥さんだって、俺のかかと同じ事で、夜になれば、……」
 女房は笑いながら、
「子供が奥で泣いているようですから」
 と言って逃げてしまった。
「いかん!」と彼は呶鳴どなって、立ち上り、「お前のかかは、いかん! 俺のかかは、あんなじゃないよ。俺が行って、ひっぱって来る。馬鹿にするな。俺の家庭は、いい家庭なんだ。子供は六人あるが、夫婦円満だぞ。嘘だと思うなら、橋のそばの鍛冶屋の三郎のところへ行って聞いてみろ。かかの部屋はどこだ。寝室を見せろ。お前たちの寝る部屋を見せろよ」
 ああ、このひとたちに大事なウイスキイを飲ませるのは、つまらん事だ!
「よせ、よせ」私も立ち上って、彼の手をとり、さすがに笑えなくなって、「あんな女を相手にするな。久し振りじゃないか。たのしく飲もう」
 彼は、どたりと腰を下し、
「お前たちは、夫婦仲が悪いな? 俺はそうにらんだ。へんだぞ。何かある。俺は、そうにらんだ」
 にらむもにらまぬも無い。その「へん」な原因は、親友の滅茶な酔い方に在るのだ。
「面白くない。ひとつ歌でもやらかそうか」
 と彼が言ったので私は二重に、ほっとした。
 一つには、歌に依ってこの当面の気まずさが解消されるだろうという事と、もう一つは、それは私の最後のせめてもの願いであったのだが、とにかく私はお昼から、そろそろ日が暮れて来るまで五、六時間も、この「全く附き合いの無かった」親友の相手をして、いろいろと彼の話を聞き、そのあいだ、ほんの一瞬たりともこの親友を愛すべき奴だとも、また偉い男だとも思う事が出来ず、このままわかれては、私は永遠にこの男を恐怖と嫌悪の情だけで追憶するようになるだろうと思うと、彼のためにも私のためにもこんなつまらない事はない、一つだけでいい、何か楽しくなつかしい思い出になる言動を示してくれ、どうか、わかれ際に、かなしい声で津軽の民謡か何か歌って私を涙ぐませてくれという願望が、彼の歌をやらかそうという動議に依ってむらむらと胸中にき起って来たのである。
「それあ、いい。ぜひ一つ、たのむ」
 それは、もはや、軽薄なる社交辞令ではなかった。私は、しんからそれ一つに期待をかけた。
 しかし、その最後のものまで、むざんに裏切られた。

  山川さんせん草木うたたあ荒涼
  十里血なまあぐさあし新戦場

 しかも、後半は忘れたという。
「さ、帰るぞ、俺は。お前のかかには逃げられたし、お前のお酌では酒がまずいし、そろそろ帰るぞ」
 私は引きとめなかった。
 彼は立ち上って、まじめくさり、
「クラス会は、それじゃ、仕方が無い、俺が奔走してやるからな、後はよろしくたのむよ。きっと、面白いクラス会になると思うんだ。きょうは、ごちそうになったな。ウイスキイは、もらって行く」
 それは、覚悟していた。私は、四分の一くらいはいっている角瓶に、彼がまだ茶呑茶碗に飲み残して在るウイスキイを、注ぎ足してやっていると、
「おい、おい。それじゃないよ。ケチな真似をするな。新しいのがもう一本押入れの中にあるだろう」
「知っていやがる」私は戦慄せんりつし、それから、いっそ痛快になって笑った。あっぱれ、というより他は無い。東京にもどこにも、これほどの男はいなかった。
 もうこれで、井伏さんが来ても誰が来ても、共にたのしむ事が出来なくなった。私は押入れから最後の一本を取り出して、彼に手渡し、よっぽどこのウイスキイの値段を知らせてやろうかと思った。それを言っても、彼は平然としているか、または、それじゃ気の毒だから要らないと言うか、ちょっと知りたいと思ったが、やめた。ひとにごちそうして、その値段を言うなど、やっぱり出来なかった。
「煙草は?」と言ってみた。
「うむ、それも必要だ。俺は煙草のみだからな」
 小学校時代の同級生とは言っても、私には、五、六人の本当の親友はあったけれども、しかし、このひとに就いての記憶はあまり無いのだ。彼だって、その頃の私に就いての思い出は、そのれいの喧嘩したとかいう事の他には、ほとんど無いのではあるまいか。しかも、たっぷり半日、親友交歓をしたのである。私には、強姦ごうかんという極端な言葉さえ思い浮んだ。
 けれども、まだまだこれでおしまいでは無かったのである。さらに有終の美一点が附加せられた。まことに痛快とも、小気味よしとも言わんかた無い男であった。玄関まで彼を送って行き、いよいよわかれる時に、彼は私の耳元ではげしく、こうささやいた。
「威張るな!」

  

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【日刊 太宰治全小説】#227「男女同権」

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【冒頭】
これは十年ほど前から単身都落ちして、()る片田舎に定住している老詩人が、所謂(いわゆる)日本ルネサンスのとき(いた)って脚光を浴び、その地方の教育会の招聘(しょうへい)を受け、男女同権と題して試みたところの不思議な講演の速記録である。

【結句】

…このたび民主主義の黎明(れいめい)が訪れてまいりまして、新憲法に依って男女同権がはっきり決定せられましたようで、まことに御同慶のいたり、もうこれからは、女子は弱いなどとは言わせません、なにせ同権なのでございますからなあ、実に愉快、なんの遠慮も無く、(かば)うところも無く、思うさま女性の悪口を言えるようになって、言論の自由のありがたさも、ここに於いて極点に達した観がございまして、あの婆さん教授に依って詩の舌を根こそぎむしり取られました私も、まだ女性に訴える舌だけは、この新憲法の男女同権、言論の自由に依って許されている(はず)でございますから、私のこれからの余生は挙げて、この女性の暴力の摘発にささげるつもりでございます。
 

「男女同権」について

新潮文庫『グッド・バイ』所収。
・昭和21年10月末頃までに脱稿。
・昭和21年12月1日、『改造』十二月号に掲載。

グッド・バイ (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)  

  これは十年ほど前から単身都落ちして、片田舎かたいなかに定住している老詩人が、所謂いわゆる日本ルネサンスのとき到って脚光を浴び、その地方の教育会の招聘しょうへいを受け、男女同権と題して試みたところの不思議な講演の速記録である。


 ――もはや、もう、私ども老人の出る幕ではないと観念いたしまして、ながらく蟄居ちっきょしてはなはだ不自由、不面目の生活をしてまいりましたが、こんどは、いかなる武器をも持ってはならん、素手すでなぐってもいかん、もっぱら優美に礼儀正しくこの世を送って行かなければならん、というまことに有りがたい御時勢になりまして、そのためにはまず詩歌管絃を興隆せしめ、もってすさみ切ったる人心を風雅の道にいざなうように工夫しなければいかん、と思いついた人もございますようで、おかげで私のようにほとんど世の中から忘れられ、捨てられていた老いぼれの文人もまた奇妙な春にめぐり合いました次第で、いや、本当に、気取ってみたところで仕様がございません、私は十七の時から三十数年間、ただもう東京のあちこちでうろうろして、そうしておのずから老い疲れて、ちょうど今から十年前に、この田舎の弟の家にもぐり込んで、まったくダメな老人としての地方の皆さまにあきれられ、笑われて、いやいや、決してうらみを申し述べているのではございません、じっさい私はダメな老人で、呆れられ笑われるのも、つまりは理の当然というもので、このような男が、いかに御時勢とは言え、のこのこ人中ひとなかに出て、しかも教育会! この世に於いて最も崇高にしてつ厳粛なるべき会合に顔を出して講演するなど、それはもう私にとりましてもほとんど残酷と言っていいくらいのもので、先日この教育会の代表のお方が、私のところに見えられまして、何か文化にいての意見を述べよとおっしゃるのを、うけたまわっているうちに、私の老いの五体はわなわなと震え、いや、本当の事でございます、やがて恋を打ち明けられたる処女の如く顔が真赤に燃えるのを覚えまして、何か非常な悪事の相談でもしているような気がしてまいったのでございます。しかし、なおよくその代表のお方の打ち明けたお話を承ってみますと、このたびの教育会には、あの有名な社会思想家の小鹿五郎様がその疎開そかい先のA市からおいでになって、何やら新しい思想に就いて講演をなさる、というご予定でございましたそうで、ところが運わるく、小鹿様がいったん約束をして置きながら、突然おことわりの電報をよこした、いや、あれくらい有名になると、いろいろまた都合というものもございますのでしょう、あながち小鹿様のわがままとのみ解せられない事でございまして、世の中というものは、たいていそんなもので、いつの世に於いても、頭のよい偉い人には、この都合というものがたくさんございますような工合で、私どもは、ただ泣き寝入りのほかはございませんでして、さて、その小鹿様には断られても、既に今日の教育会は予定せられてあって、いまさら中止も出来ないわけがあるのだそうで、ここに於いて誰やらが、私の存在を思い出し、あのじいさんも昔は詩だか何だかを書いた事があるんだそうだ、わば文化人の端くれだ、あれでも呼んで間に合せようではないかと、まあ、いいえ、私は決してうらみを申し上げているのではないのでございまして、本当に私は、よくぞそれがしを思い出して下さった、光栄だと思って居りますくらいで、しかし、それにつけても、これは犯罪、いや、犯罪などと極端な事は言わずとも、私ごとき者が、神聖なるべき教育会の皆様に講演するとは、これは、いかにしても、インチキではなかろうかと、私は昨夜も眠らず煩悶はんもんいたしました。いったいこれはあの時、私が固くお断りすれば、なんの事も無かったのでございましたのですが、私はあの有名な小鹿様などとは違って、毎日自分の身一つをもてあまして暮しているのを、その代表のお方に見破られているのでございますから、いまさら都合がどうのこうのと、もったい振っても、それは噴飯ふんぱんものでございましょうし、また、私のようなものでも顔を出して何やら文化に就いて一席うかがいますと、それでどうやら四方八方が円満に治るのだから是非どうぞ、と頼まれますると、私といたしましても、この老骨が少しでもお役に立つのは有りがたく、かたじけなしと存じて、まことにどうも、インチキだとは思いながら、軽はずみに引受けて、ただいまよろめきながらこの壇に上って、そうして、ああ、やっぱり、何が何でもひたすらお断りするのが本当であったと、後悔ほぞをんでいる次第でございます。
 いったい私は、いまではダメな老人である事はもちろんでございますが、それならば、若い時の、せめて或る一時期に於いて、ダメでない頃があったかと申しますると、これもまた全然ダメだったのでございます。私が東京に於いて或るほんの一時期、これでも多少、まあ、わずかな人たちのあいだで、問題にされた事もあったと、まあ、言って言えない事もないと思いますが、しかし、その問題にされ方が、如何いかに私がダメな男であるか、おそらくは日本で何人と数えられるほどダメな男ではなかろうか、という事に就いて問題にされたのでありまして、その頃、私の代表作と言われていた詩集の題は、「われ、あまりに愚かしければ、詐欺師さぎしもかえってぜにを与う」というのでありまして、これもってみても、私の文名たるや、それは尊敬の対象では無く、呆れられ笑われ、また極めて少数の情深い人たちからは、なぐさめられ、いたわられ、わずかに呼吸しているという性質のものであったという事がおわかりでございましょう。はなはだ妙な言い方でございますが、つまりその頃の私の存在価値は、そのダメなところにだけ在ったのでして、もし私がダメでなかったら、私の存在価値が何も、全然、無くなるという、まことに我ながら奇怪閉口の位置に立たされていたのでございます。しかし、私も若干馬齢ばれいを加えるに及び、そのような風変りの位置が、一個の男児としてどのように不面目、破廉恥はれんちなものであるかに気づいていたたまらなくなりまして、「こぞの道徳いまいずこ」という題の、多少、分別顔の詩集を出版いたしましたところ、一ぺんで私は完全にダメになりました。ダメのまた下のダメという、わば「ほんもの」のダメという事になりまして、私は詩壇に於いて失脚し、また、それまでの言語に絶した窮乏生活の悪戦苦闘にも疲れ果て、ついに秋風と共に単身都落ちというだらし無い運命に立ちいたったのでございます。
 つまり私という老人は、何一つ見るべきところが無い、それが私の本領、などと言って居直って威張り得る筋合いの事では決してございませんが、そのような男が、この地方の教育会のお歴々に向って、いったい何を講演したらよろしいのでありましょうか。残酷とは、まさにこの事でございます。

 そもそも民主主義とは、――いや、これはどうも、あまりに唐突で、自分で言い出して自分でおどろいている有様で苦笑の他はございませんが、実は私は、まったく無学の者で、何も知らんのです。しかし、民主とは、民のあるじと書き、そのつまり主義、思想、アメリカ、世界、まあ、だいたいそういったわけのものかと私は解して居ります。それでまあ、日本でもいよいよこの民主主義という事になりますそうで、おめでたい事と存じていますが、この民主主義のおかげで、男女同権! これ、これが、私の最も関心を有し、かつ久しく待ち望んでいたところのものでございまして、もうこれからは私も誰はばかるところなく、男性の権利を女性に対して主張する事が出来るのかと思えば、まことに夜の明けたる如き心地が致しまして、おのずから微笑のわき出るのを禁じ得ないのでございます。実に、私は今まで女性というもののために、ひどいめにばかり逢って来たのでございます。私がこんにち、このようなダメな老人になってしまったのも、すべてこれ、女性のせいではなかろうかとさえ、私はひそかに考えているのでございます。

 幼い頃より、私はこの女性というものには、いじめられ、つらい思いをしてまいりました。私の母は、これは継母でもなんでもなく、まことの生みの母親でございましたが、どういうものか弟のほうばかりを可愛がって、長男の私に対しては妙によそよそしく、意地わるくするのでございます。もう私の母も、とうの昔にあの世に旅立ってしまいまして、ほとけに対してとやかくうらみを申し述べるのは私としても、たいへん心苦しい事ですが、忘れも致しません、私が十歳くらいで、いまのあの弟が五歳くらいの頃に、私はよそから犬の子を一匹もらって来て少し自慢そうに母と弟とに見せてやったら、弟がそれをほしがって泣きました。すると母は、弟をなだめて、その犬の子は兄さんのごはんで育てるのだからな、と妙な事をまじめな顔で言います。兄さんのごはんとは、どんな事だか、私が自分でたべるごはんをたべないでその犬の子に与えて養うべきだという意味だったのでしょうか、それとも、私の家でたべているごはんは、全部総領そうりょうの私のものなのだから、弟などには犬の子を養う資格が無いという意味だったのでしょうか、いまでも私には、はっきり理解が出来ないのですが、とにかくそう言われて、私は子供心にもたいへんイヤな気が致しまして、むりやりその犬の子を弟に抱かせてやりますと母は、かえしてやれ、かえしてやれ、それはごはんをたべる虫だ、と弟に言うのです。さすがに私も、しょげてしまって、その犬の子を弟から奪い取って裏のはきだめに捨てました。冬の事でしたが、私たちが晩ごはんをたべていると、犬の子が外でクンクン泣いているのが聞えて来て、私はごはんものどをとおらぬ思いで気をもんでいますと、やがて父がその犬の泣き声を聞きとがめて、母に尋ねました。その時、母は事も無げにこう答えました。これが犬の子を持って来て、すぐにいたのでしょう、捨てたらしい、これは飽きっぽい子ですから、とそう言うのです。私はあっけにとられて母の顔を見直しました。父は私をしかって、そうして母に言いつけてその犬の子を家の中にいれさせました。母は、犬の子を抱きしめて、おう寒かったろう、ひどいめに逢ったのう、可哀かわいそうに可哀そうに、と言い、兄の手に渡すとまた捨てられるにきまっているから、これは弟のおもちゃという事にしましょう、と笑いながら言って父に承諾させ、そうしてその犬は、私の冷酷にって殺されかけたのを母の情で一命を拾い、そうしてそれから優しい弟の家来という事になったのでございます。
 この事ばかりで無く、私がこの生みの母親から奇妙に意地悪くされた思い出は数限りなくございますのでして、なぜ母が私をあんなにいじめたのか、それは勿論もちろん、私がこんな醜男ぶおとこに生れ、小さい時から少しも可愛げの無い子供だったせいかも知れませぬが、しかしそれにしても、その意地悪さが、ほとんど道理を絶して、何が何やら、話のどこをどう聞けばよいのか、ほとんど了解不可能な性質を帯びていまして、やはりあれは女性特有の乱酔とでも思うより他に仕方が無いようでございます。
 私の生れた家は、ご承知のお方もございましょうが、ここから三里はなれた山麓の寒村に在りまして、昔も今も変り無く、まあ小地主で、弟は私と違って実直な男でございますから、自作などもやっていまして、このたびの農地調整とかいう法令の網の目からも、もれるくらいのささやかな家でございまして、しかし、それでも、あの部落に於いては、やや上流の家庭となっているようで、私たちの子供の頃には、下女も下男もおりました。そうして、やはり、私が十歳くらいの頃の事でありましたでしょうか、この下女は、さあ、あれで十七、八になっていたのでしょうか、頬の赤い眼のきょろきょろしたせた女でありましたが、こいつが主人の総領息子むすこたる私に、実にけしからん事を教えまして、それから今度は、私のほうから近づいて行きますと、まるで人が変ったみたいに激怒して私を突き飛ばし、お前は口が臭くていかん! と言いました。あの時のはずかしさ、私はそれから数十年経ったこんにち思い出しても、わあっ! と大声を挙げて叫び狂いたい程でございます。
 また、たぶん同じ頃の事であったかと思いますが、村の小学校、と申しましても、生徒が四、五十人に先生が二人、しかもその先生も、はたちをちょっと過ぎたくらいの若い先生と、それからその奥さんと二人なのでございまして、私は子供心にもその奥さんをお綺麗きれいなお方だと思い込んでいまして、いや、或いは村の人たちがそのように評判するのを聞いて、自分もいつしかそんな工合ぐあいの気持になったのか、何といってもそこは子供でございますから、お綺麗なお方だと思い込んでも、別段、それに就いて悩むなどという深刻な事はなく、まあ、漠然と慕っていたという程度だったのでございましょう。実に、私は、その日の事は、いまでもはっきり覚えておりますが、野分のわきのひどく吹き荒れている日でございまして、私たちはそのお綺麗な奥さんからお習字をならっていまして、奥さんが私の傍をとおった時に、どうしたはずみか、私の硯箱すずりばこがひっくりかえり、奥さんのそで墨汁ぼくじゅうがかかって、そのために私は、居残りを命ぜられました。けれども私は、その奥さんをかすかに慕っていたのでございますから、居残りを言いつけられても、かえって嬉しかったくらいで、別におそろしくも何とも思いませんでしたのです。他の生徒たちは皆、雨の中を家へ帰って行きまして、教室には、私と奥さんと二人きりになり、そうすると、奥さんは急に人が変ったみたいにはしゃぎ出して、きょうは主人は隣村へ用たしに行ってまだ帰らず、雨も降るしさびしいから、あなたと遊ぼうと思って、それだから居残りを言いつけたのです、悪く思わないで下さい、坊ちゃん、かくれんぼうでもしましょうか、と言うのです。坊ちゃん、と言われて私は、やはり私の家はこの部落では物持ちで上品なほうなのだから、私の物腰にもどこか上品な魅力があってそれでこんなに特別に可愛がられるのかしら、とまことに子供らしくない卑俗きわまる慢心を起し、いかにも坊ちゃんと言われてふさわしい子みたいに、わざとくにゃくにゃとからだを曲げ、ことさらに、はにかんで見せたり致しまして、じゃんけんしたら、奥さんのまけで、私がさきにかくれる事になりましたが、その時、学校の玄関のほうで物音がしまして、奥さんは聞き耳を立て、ちょっと行って見てまいりますから、坊ちゃんは、そのあいだにいいところへ隠れていてね、とにっと笑って言って玄関のほうへ小走りに走って行きまして、私は、すぐ教室の隅の机の下にもぐり込み、息をころして奥さんの捜しに来るのを待っていました。しばらくして、奥さんは、旦那だんなさんと一緒にやって来ました。あの子は、ねばねばして、気味がわるいから、あなたに一度うんと叱っていただきたいと思いまして、と奥さんが言い、旦那さんは、そうか、どこにいるんだ、と言い、奥さんは平然と、どこかそこらにいるでしょう? と言い、旦那さんは、つかつかと私の隠れている机のほうに歩いて来て、おいおい、そんなところで何をしているのだ、ばかやろう、と言い、ああ、私はもそもそと机の下で四ついの形のままで、あまり恥ずかしくて出るに出られず、あの奥さんがうらめしくてぽたぽた涙を落しました。

 所詮しょせんは、私が愚かなせいでございましょう。しかし、それにしても、女の人のあの無慈悲は、いったいどこから出て来るのでございましょう。私のそれからの境涯に於いても、いつでもこの女の不意に発揮する強力なる残忍性のために私は、ずたずたに切られどおしでございました。
 父が死んでから、私の家の内部もあまり面白くない事ばかりでございまして、私は家の事はいっさい母と弟にまかせると宣言いたしまして、十七の春に東京に出て、神田の或る印刷所の小僧になりました。印刷所と申しましても、工場には主人と職工二人とそれから私と四人だけ働いている小さい個人経営の印刷所で、チラシだの名刺だのを引受けて刷っていたのでございますが、ちょうどその頃は日露戦争の直後で、東京でも電車が走りはじめるやら、ハイカラな西洋建築がどんどん出来るやら、たいへん景気のよい時代でございましたので、その小さい印刷所もなかなか多忙でございました。しかし、どんなにいそがしくても、仕事はつらいとは思いませんでしたが、その印刷所のおかみさんと、それから千葉県出身だとかいう色のまっくろな三十歳前後のめしたき女と、この二人の意地くね悪い仕打には、何度泣かされたかわかりません。ご自分のしている事が、どんなにこちらに手痛いか、てんでお気附きにならないらしいので、ただもう、おそろしいと言うよりほかはございませんでした。内にいると、そのおかみさんとめしたき女にいじめられるし、たまたま休みの日など外へ遊びに出ても、外にはまた、別種の手剛てごわい意地悪の夜叉やしゃがいるのでございました。あれは、私が東京へ出て一年くらい経った、なんでもじめじめ雨の降り続いている梅雨の頃の事と覚えていますが、がらでも無く、印刷所の若いほうの職工と二人でかさをさして吉原へ遊びに行き、いやもう、ひどいめに逢いました。そもそも吉原の女と言えば、女性の中で最もみじめで不仕合せで、そうして世の同情と憐憫れんびんまとである筈でございましたが、実際に見学してみますると、どうしてなかなか勢力のあるもので、ほとんどもう貴婦人みたいにわがままに振舞い、私は呶鳴どなられはせぬかとその夜は薄氷を踏むが如く言語動作をつつしみ、心しずかにお念仏など申し生きた心地もございませんでした。お念仏のおかげかどうか、その夜は別段叱り飛ばされる事もなく、きぬぎぬの朝を迎えましたが、女はお茶を一つ飲んで行け、と言います。おいらんの中でも、あれは少し位の高いほうだったのかも知れません、ちょっと威厳さえ持っていました。そうして婆に言いつけて、私の連れの職工とその相手のおいらんをも私たちの部屋へ呼んで来させ、落ちついてお茶をいれ、また部屋の隅の茶箪笥ちゃだんすから、お皿に一ぱい盛った精進揚しょうじんあげを取り出し私たちにすすめました。連れの職工は、おい旦那、と私を呼び、奥さんの手料理をそれではごちそうになるとしよう、お前、案外もてやがるんだなあ、いろおとこめ、と言います。そう言われて私もまんざらでなく、うふふと笑ってやにさがり、いもの天ぷらを頬張ったら、私の女が、お前、百姓の子だね、と冷く言います。ぎょっとして、あわてて精進揚げを呑みくだし、うむ、と首肯うなずくと、その女は、連れの職工のおいらんのほうを向いて小声で、育ちの悪い男は、ものを食べさせてみるとよくわかるんだよ、ちょっちょっと舌打ちをしながら食べるんだよ、と全くなんの表情も無く、お天気の事でも言っているみたいに澄まして言うのでございます。まあ、その時の私の間のわるさ。連れの職工から、旦那とか色男とか言われた手前もあり、もう、どうしたらいいか、表面は何とかごまかし、泣き笑いして帰りましたが、途中で足駄の横緒よこおを踏み切って、雨の中をはだしで、尻端折しりばしょりして黙々と歩いて、あの時のみじめな気持。いま思い出しても身震いが出ます。女性のうちで、最もしいたげられ、悲惨な暮しをしていると言われているあのおいらんでさえ、私にとっては、実におそろしい、雷神以外のものではなかったのでした。

 こんな工合に女から手ひどい一撃をくらった経験は、もう私にはかずかぎりも無くございますが、その中でも、いまだに忘れ得ぬ恥辱の思い出だけを申し述べるとしても、それだけでも、たっぷり一箇月の連続講演を必要とするほど、それほどおびただしいのでございますから、きょうは、その忘れ得ぬ思い出の中から、あとほんの三つ四つ聞いていただく事にしまして、それでひとまず、おわかれという事に致そうかと存じます。
 その神田の小さい印刷所で、おかみさんと色の黒い千葉県出身のめしたき女にいじめられながら、それでも私は五年間はたらきました。そのうちに、これはまあ、私にとって幸福な事であったのか、不幸な事であったのか、私のいまもって疑問としているところでございますが、このようなダメな男でも、詩壇の一隅に乗り出す機縁が生じてまいったのでございます。実に、人の一生は、不思議とでも申すよりほか無いものでございます。その頃、日本では非常に文学熱がさかんで、もうとてもそれは、昨今のこの文化復興とか何とかいうお通夜みたいなまじめくさったものとはくらべものにならぬくらい、実に猛烈でハイカラで、まことに天馬空をけるという思い切ったあばれ方で、ことにも外国の詩の飜訳ほんやくみたいに、やたらにぎょうをかえて書く詩が大流行いたしまして、私の働いている印刷所にも、その詩の連中が機関雑誌を印刷してくれと頼みに来まして、「あけぼの」という題の、二十頁そこそこのパンフレットでございましたから、引受けて印刷する事になったのでございますが、私はいつもその原稿を読み活字を拾い、しだいに文学熱にかぶれて、本屋へ行って当時の大家の詩集なども買って来て読むようになり、だんだん自信のようなものが出て来て、「ぶたの背中にからすが乗って」という題で、私が田舎の畠で実際に目撃しました珍風景を、でたらめに大いにれいの行をかえて書いてみまして、それをおっかなびっくり、「あけぼの」の詩人のひとりに見てもらいましたところ、面白い、という事になり、その「あけぼの」の誌上に掲載されるという意外の光栄を得まして、それに気をよくして、さらにその次には、「林檎りんごを盗みに行った時」という題で、やはり田舎に於ける私の冒険失敗談をかなり長く、れいの如くさかんに行をかえて書き、やはり「あけぼの」に掲載せられまして、これがまあ、当ったというのでございましょうか、新聞などでも、それをまともに取りあげて、何だかもう私の知らないむずかしい言葉でもっともらしく論じているのですから、私も呆れてしまいました。にわかに詩人の友だちもふえて、詩人というものはただもう大酒をくらって、そうして地べたに寝たりなんかすると、純真だとか何だとか言ってほめられるもので、私もからず大酒をくらって、とにもかくにも地べたに寝て見せましたので、仲間からもほめられ、それがためにお金につまって質屋がよいが頻繁ひんぱんになりまして、印刷所のおかみさんと、れいの千葉県出身の攻撃の火の手はほとんど極度に達しまして、さすがに私も防ぎ切れず、とうとうその印刷所から逃げ出してしまいました。やはり私は、詩という魔物のために、一生をあやまったのかも知れません。しかし、あの時、印刷所のおかみさんと千葉県が、も少し私に優しく、そうして静かに意見してくれたら、私はふっつりと詩三昧ざんまいを思い切り、まじめな印刷工にかえっていまごろはかなりの印刷所のおやじになっていたのではなかろうかと、老いの愚痴でございましょうが、しきりにそう考えられてならないのでございます。私のようなダメな男が、詩など書いて、そのおぼつかない筆一本だけにたよって東京の賢明な文人たちに伍して暮して行くなど、とてもとても出来るものではないんです。その印刷所から逃げ出してからの私の生活たるや、お話にも何にもならぬていたらくのものでございまして、いま思い出しても、まるで地獄の走馬燈呆然ぼうぜんと眺めているような気持が致しまして、よくまあ発狂もせず餓え死もせず、こうして生き伸びて来たものだと我ながら驚歎の念を禁じ得ないものがございます。新聞配達もいたしました。バタヤも致しました。立ちん棒もいたしました。屋台店もひらきました。ミルクホールのようなものもやってみました。けしからぬ写真や絵を売って歩いた事もございました。インチキ新聞の記者になったり、暴力団の走り使いになったり、とにかく、ダメな男に出来る仕事の全部をやったと言っても決して言い過ぎではないかと存じます。そうして、そのダメな男は、いよいよただおのずからダメになるばかりで、ついに単身ボロをまとって都落ちをして、いまは弟の居候いそうろうという事になって何一つ見るべきところの無い生涯で、いまさら誰をも、うらむ資格も何もございませんが、けれども、それでも、ああ、あの時あの女が、あれほど私に意地悪くしなかったならば、私も多少のプライドと力を得て、ダメはダメなりに何とか形のついた男になっていたのではなかろうかしら、と老いの寝ざめに、わが幼少からの悲惨な女難のかずかずを反芻はんすうしてみて、やっぱり、胸をかきむしりたい思いに駆られる事もございますのです。
 私は東京に於いて、三人の女房に逃げられました。最初の女房もひどい奴でしたが、二番目のは、なおたちが悪く、三番目のは、逃げるどころか、かえって私を追い出しました。
 へんな事を言うようですが、私はこれでも、結婚にあたって私のほうから積極的に行動を開始した事は一度も無く、すべて女性のほうから私のところに押しかけて来るという工合で、いや、でもこれは決してのろけではございません。女性には、意志薄弱のダメな男をほとんど直観にって識別し、これにつけ込み、さんざんその男をいためつけ、つまらなくなって来ると敝履へいりの如く捨ててかえりみないという傾向がございますようで、私などはつまりその絶好の獲物であったわけなのでございましょう。

 最初の女房は、これはまあ当時の文学少女とでもいうべき、眼鏡をかけて脳の悪い女でしたが、これがまた朝から夜中まで、しょっちゅう私に、愛しかたが足りない、足りない、と言って泣き、私もまことに閉口して、つい渋い顔になりますと、たちまちその女は金切声を挙げて、ああ、あのおそろしい顔! 悪魔だ! 色魔だ! 処女をかえせ! 貞操蹂躙じゅうりん! 損害賠償! などと実に興覚めな事を口走り、その頃は私も一生懸命に勉強していい詩を書きたいと念じていた矢先で、わば青雲せいうんの志をほのかながら胸に抱いていたのでございますから、たとい半狂乱の譫言うわごとにもせよ、悪魔だの色魔だの貞操蹂躙だのという不名誉きわまる事を言われ、それが世間の評判になったら、もうそれだけで自分の将来は滅茶苦茶になるのではあるまいかと思えば、じっさい笑い事ではなく、まだ私も若かっただけに、あまりに憂鬱で、この女を殺して自分も死のうかと、何度考えたかわかりません。とうとうこの女は、私と同棲三年目に、私を捨てて逃げて行きました。へんな書き置きみたいなものを残して行きましたが、それがまた何とも不愉快、あなたはユダヤ人だったのですね、はじめてわかりました、虫にたとえると、赤蟻あかありです、と書いてあるのです。何の事だか、まるでナンセンスのようでございますが、しかし、感覚的にぞっとするほどイヤな、まるで地獄の妖婆ようばの呪文みたいな、まことに異様な気持のする言葉で、あんな脳の悪い女でも、こんな不愉快きわまる戦慄せんりつの言葉を案出し投げつけて寄こす事が出来るとは、実に女性というものには、底の知れないおそろしいところがあるとつくづく感じ入りましたのでございます。
 けれどもそれは、まあ、文学少女の、文学的な悪態で、二番目の女房の現実的な悪辣あくらつさにくらべると、まだしも我慢が出来ると言っていいかも知れませんでございます。この二番目の女房は、私が本郷に小さいミルクホールをひらいた時、給仕女として雇った女で、ミルクホールが失敗して閉鎖になってもそのままずるずると私のところに居ついてしまいまして、この女はまた金を欲しがる事、あたかも飢渇きかつおおかみの如く、私の詩の勉強などはてんで認めず、また私の詩の友人ひとりひとりに対する蔭口は猛烈をきわめ、まあ俗に言うしっかり者みたいな一面がありまして、私の詩の評判などはどうだってかまわない様子で、ただもう私の働きの無い事をののしり、自分ほど不仕合せの者は無いと言って歎き、たまに雑誌社の人が私のところに詩の註文を持って来てくれると、私をさし置いて彼女自身が膝をすすめて、当今の物価の高い事、亭主は愚図ぐずで頭が悪くて横着で一つも信頼の出来ぬ事、詩なんかではとても生活して行かれぬから、亭主をこれから鉄道に勤めさせようと思っている事、悪い詩の友だちがついているから亭主はこのままでは、ならず者になるばかりだろうという事、にこりともせず乱れた髪をきあげ掻きあげ、あたかもその雑誌社の人が仇敵きゅうてきか何かでもあるみたいに、ひどく憎々しげにまくしたてますので、わざわざ私の詩を頼みに来て下さる人たちも、イヤな顔をして、きっと私と女房と両方を軽蔑なさってしまうのでしょう、早々に退却してしまいます。そうして、女房は、その人の帰ったあとは私に食ってかかって、あんなのは大事なお客なのに、あなたは愛想が無いからすぐに逃がしてしまう、あたしにばかり頼っていないで、あなたも男なら男らしく、もっと元気を出して、交際を派手にやるようにしなければいけない、とまるで八つ当りのお説教をするのでございます。
 私はその頃、或るインチキ新聞の広告取りみたいな事もやって居りまして、炎天下あせだくになって、東京市中を走りまわり、行く先々で乞食こじき同様のあつかいを受け、それでも笑ってぺこぺこ百万遍お辞儀をして、どうやら一円紙幣を十枚ちかく集める事が出来て、たいへんな意気込みで家へ帰ってまいりましたが、忘れも致しません、残暑の頃の夕方で女房は縁側で両肌を脱ぎ髪を洗っていまして、私が、おいきょうは大金を持って来たよ、と言い、その紙幣を見せましても、女房はにこりともせず、一円札ならたかが知れている、と言いまして、また髪を洗いつづけます。私は世にも情無い気持になりまして、それではこの金は要らないのか、と言いますと、彼女は落ちついて自分の膝元をあごで差し、ここへ置きなさい、と言うのです。私は、言いつけられたとおりにそこへ置いたとたん、さっと夕風が吹いて来て、その紙幣が庭へ飛び散りまして、一円札でも何でも、私にとっては死ぬほどの苦労をして集めて来た大金です、思わず、あっと声を挙げて庭に降りてその紙幣の後を追った時の、みじめな気持ったら比類の無いものでございました。この女は、信州にたった一人の肉親の弟があるとか言って、私の集めて来るお金はたいていその弟のところへ為替かわせで送られるのでした。そうして、私の顔を見るとすぐ、金、金、金と言うのです。私はこの女に金を与えるために、強盗、殺人、何でももう、やってやろうかという気にさえなった事がございます。金銭の罪を犯す人の身のまわりには、きっとこんなたちの女が坐っているのだろうと思いました。
 奇妙な事には、この女はあれほど私の詩の仲間を糞味噌くそみそに悪く言い、ことにも仲間で一番若い浅草のペラゴロの詩人、といってもまだ詩集の一つも出していないほんの少年でしたが、そいつに対する彼女の蔭の嘲罵ちょうばは、最も物凄いものでございまして、そうして何の事は無い、やがてその少年と通じ、私を捨てて逃げて行きましたのでございます。まことに女は、奇怪な事をするものでございます。まったく、じっさい、その心理を解するに苦しむのみでございます。

 しかし、これでも、その次の三番目の女房に較べると、まだよいほうだと言わなければなりませんのでございます。これはもうはじめから、私を苦力クリイのようにこき使う目的を以て私に近づいて来たのです。その頃は私も、おのずから次第にダメになり、詩を書く気力も衰え、八丁堀の路地に小さいおでんやの屋台を出し、野良犬のらいぬみたいにそこに寝泊りしていたのですが、その路地のさらに奥のほうに、六十過ぎの婆とその娘と称する四十ちかい大年増が、焼芋やきいもやの屋台を出し、夜寝る時は近くの木賃宿に行き、ほとんど私同様、無一物の乞食みたいな生活をしていまして、そいつらが私に眼をつけ、何かと要らない手伝いなどして、とうとう私はその木賃宿に連れて行かれ、それがまあ悪縁のはじまりでございまして、二つの屋台をくっつけてわばまあ店舗てんぽの拡張という事になり、私は大工さんの仕事やら、店の品の仕入れやら、毎日へとへとになるまで働き、婆と娘は客の相手で、いやな用事はみんな私に押しつけ、売上げの金は婆と娘が握ってはなさず、だんだん私を露骨に下男あつかいにして来まして、夜に木賃宿で私が娘に近づこうとすると、婆と娘は、しっ、しっ、とまるで猫でも追うようなイヤな叱り方をして私を遠ざけてしまいます。あとで少しずつ私にも気がついて来たのでございますが、この婆と娘は、ほんとうの親子で無いようなところもあり、何が何やら、二人とも夜鷹よたかくらいまで落ちた事があるような気配も見え、とにかくあまり心根が悪すぎてみんなにあきれられ捨てられ、もういまでは誰からも相手にされなくなっていたようなのでございました。私はこの四十ちかい大年増から、たちの悪い病気までうつされ、人知れぬ苦労をしたのでございますが、婆と娘はかえってそのとがを私に押しつけ、娘は何か面白くない事があると、すぐ腰が痛いとか何とか言って寝て、そうして婆と娘は、ろくでもない男にかかわり合ったから、こんな、とりかえしのつかないからだになってしまった、と口々に私をののしり、そうして私にやたらと用事を言いつけてこき使い、店は私の努力のため、とえて私は言いたいのです、そのために少しずつ繁昌して、屋台を二つくっつけたくらいの増築では間に合わなくなりましたので、これも娘と婆の発案で、新富町の表通りに小さい家を借りまして、おでん、小料理と書いた提燈ちょうちんを出し、そうしてもう、その家に引越してからは、私は完全に下男の身分になりまして、婆の事を奥さんと呼び、わが女房を、おねえさん、と呼ぶように言いつけられ、婆と女房は二階に寝て、私は台所に薄縁うすべりを敷いて寝る事になったのでございます。
 忘れも致しません、あれは秋のなかば、月の非常にいい夜でございましたが、私は十二時すぎに店をしまいまして、それから大いそぎで築地の或る心易くしている料理屋へ風呂をもらいに行きまして、かえりには、屋台でおそばを食べ、家へ来て勝手口をあけようとしても、もう内さんをおろしてしまったようで、あきませんでした。それで私は表通りへ出て、二階を仰ぎ、奥さん、おねえさん、奥さん、おねえさん、と小声で呼んでみましたが、もう眠ってしまったのかどうだか、二階はまっくらで、そうして何の反応もございません。湯上りのからだに秋風がしみて、ひどくいまいましい気持になり、私はゴミ箱を足がかりにして屋根へ上り、二階の雨戸を軽くたたいて、奥さん、おねえさん、とまた低く呼びましたら、だしぬけに内から女房が、どろぼう! と大声で叫び、さらにまた、どろぼう! どろぼう! どろぼう! とわめき続け、私は狼狽ろうばいして、いやちがう、おれだよ、おれだよ、と言っても聞きわけてくれず、どろぼう! どろぼう! どろぼう! と連呼し、やがて、ジャンジャンジャンというまことに異様な物音が内から聞え、それは婆が金盥かなだらいを打ち鳴らしているのだという事が後でわかりましたが、私は身の毛のよだつほどの恐怖におそわれ、屋根から飛び降りて逃げようとしたとたんに、女房たちの騒ぎを聞いてけつけて来たおまわりにつかまえられまして、二つ三つなぐられ、それから、おまわりは月の光にすかして私の顔をつくづく見まして、なんだ、お前か、と言いました。すぐ近くの交番のおまわりで、私とはもちろん顔馴染かおなじみの仲なのです。私は手短かに事情を申し述べますと、おまわりは、へえ、そりゃひどい、と言って笑ってしまいましたが、しかし、二階では、まだ、どろぼう! どろぼう! と叫び、金盥も打ちつづけていまして、近所近辺の人たちも皆、起きて外へ飛び出し、騒ぎが大きくなるばかりでございましたので、おまわりは、蛮声を張りあげて、二階の者たちに、店の戸をあけろ! と呶鳴りました。それでどうやら二階の狂乱もしずまり、二階に電気がつき、やがて、下にも電気がつきまして、店の戸が内からあいて、寝巻姿の婆と女房は、きょときょと顔を出し、おまわりは苦笑しながら、どろぼうではない、と言って私を前面に押し出しましたら、婆はけげんな顔をして、これは誰ですか、こんな男は存じません、お前は知っているか、と娘に尋ね、娘も真顔で、とにかくあたしたちの家の者ではありません、と答えます。そんなにまでされては、さすがに私も、呆れかえって物が言えない気持になり、そうですか、さようなら、と言って、おまわりの呼びとめるのも聞かず、すたすたと川のほうに歩いて行き、どうせもう、いつかは私は追い出すつもりでいたのでしょうし、とても永くは居られない家なのだから、きょうを限り、またひとり者の放浪の生活だと覚悟して、橋の欄干らんかんによりかかったら、急にどっと涙が出て来て、その涙がぽたんぽたんと川のおもてに落ち、月影を浮べてゆっくり流れているその川に、涙の一滴ずつ落ちる度毎たびごとに小さい美しい金の波紋が生じて、ああ、それからもう二十年ちかく経ちますが、私はいまでも、あの時のさびしさ悲しさをそのまんま、ありありと思い出す事ができるのでございます。

 それからも私は、いろんな女から手ひどい打撃を受けつづけてまいりまして、けれどもそれは無学の女だから、そのような思い切ったむごい仕打ちが出来るのか、と思うと、どうしてどうして、決してそういうものでなく、永く外国で勉強して来た女子大学の婆さん教授で、もうこのお方は先年物故なさいましたが、このお方のために私の或る詩集が、実に異様なくらい物凄い嘲罵を受け、私はしんそこから戦慄し、それからは、まったく一行いちぎょうの詩も書けなくなり、反駁はんばくしたいにも、どうにも、その罵言ばげんは何の手加減も容赦ようしゃも無く、私が小学校を卒業したばかりで何の学識も無いこと、詩はいよいよ下手へたくそを極めて読むに堪えないこと、東北の寒村などに生れた者には高貴優雅な詩など書けるわけは絶対に無いこと、あの顔を見よ、どだい詩人の顔でない、生活のだらしなさ、きたならしさ、卑怯ひきょう未練、このような無学のルンペン詩人のうろついているうちは日本は決して文明国とは言えない、という実に一から十までそのとおりの事で、阿呆あほうな子に向って、お前は家の足手まといになるから死ぬがよい、と言うほどのおそろしく的確なやっつけ方で、みも、ふたも無く、ダメなものはダメと一挙に圧殺の猛烈さでございまして、私はそのお方とは、いつか詩人の会でたったいちどちらと顔を合せた事があるくらいのもので、個人的な恩怨おんえんは何も無かった筈でございますのに、どうして私のようなあるか無きかの所謂いわゆるルンペン的存在のものを特に選んで槍玉やりだまに挙げたのでございましょうか、やっぱり永年外国で学問をして来て大学の教授などしていても、あのダメな男につけ込んでさんざん痛めつけるという女性特有の本能を持っているからなのでございましょうか、とにかく私はそのすさまじい文章を或る詩の雑誌で読み、がたがた震えまして、極度の恐怖感のため、へんな性慾倒錯のようなものを起し、その六十歳をすぎた、男子にも珍らしいくらいの大きないかめしい顔をしているお婆さんに、こんな電報を打ってしまって、いよいよ恥の上塗りを致しました。ナンジニ、セツプンヲオクル。
 しかし、あの婆さんの教授は、私にこんな気が狂うくらいの大恐怖を与え、そうして私のさなきだに細く弱っていた詩の生命を完全にぷつっと絶ってしまった事にはたぶんお気附きなさる事もなく、いやいや、お気附きになったら、かえってお得意そうにうっとりなさるのかも知れませんが、とにかく先年、安楽な大往生をとげられた様子でございます。
 さて、もうだいぶ暗くもなってまいりましたので、私の愚かな経験談も、そろそろ終りに致したいと存じますが、これを要しまするに、世の女性というものは学問のある無しにかかわらず、異様なおそるべき残忍性を蔵しているもののようでございまして、そのくせまた、女子は弱いと言い、之をいたわってもらいたいと言い、そうかと思うと、男は男らしくあって欲しいと言い、男らしさとはいったいどんなものだか、大いに男らしいところを発揮して女に好かれようとすると、これは乱暴でいけないと言われ、そうして深刻な手痛い復讐ふくしゅうをされて、もうどうしたらいいのか、こちらへ単身都落ちして来ましてからも、十年間、私は当然、弟の女房や、またその女房の妹だの叔母だの、何やらかやらの女どものために、複雑奇妙の攻撃を受け、この世に女のいるあいだは、私の身の置き場がどこにも無いのではなかろうかと、ほとほと手を焼いて居りましたら、このたび民主主義の黎明れいめいが訪れてまいりまして、新憲法に依って男女同権がはっきり決定せられましたようで、まことに御同慶のいたり、もうこれからは、女子は弱いなどとは言わせません、なにせ同権なのでございますからなあ、実に愉快、なんの遠慮も無く、かばうところも無く、思うさま女性の悪口を言えるようになって、言論の自由のありがたさも、ここに於いて極点に達した観がございまして、あの婆さん教授に依って詩の舌を根こそぎむしり取られました私も、まだ女性を訴える舌だけは、この新憲法の男女同権、言論の自由に依って許されている筈でございますから、私のこれからの余生は挙げて、この女性の暴力の摘発にささげるつもりでございます。

 

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【日刊 太宰治全小説】#226「薄明」

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【冒頭】

東京の三鷹(みたか)の住居を爆弾でこわされたので、妻の里の甲府へ、一家は移住した。甲府の妻の実家には、妻の妹がひとりで住んでいたのである。
昭和二十年の四月上旬であった。聯合機(れんごうき)甲府の空をたびたび通過するが、しかし、投弾はほとんど一度も無かった。まちの雰囲気(ふんいき)も東京ほど戦場化してはいなかった。

【結句】

注射がきいたのか、どうか、(ある)いは自然に治る時機になっていたのか、その病院にかよって二日目の午後に眼があいた。
私はただやたらに、よかった、よかったを連発し、そうして早速、家の
 を見せにつれて行った。
「ね、お家が焼けちゃったろう?」
「ああ、焼けたね。」と子供は微笑している。
(うさぎ)さんも、お(くつ)も、小田桐(おだぎり)さんのところも、茅野(ちの)さんのところも、みんな焼けちゃったんだよ。」
「ああ、みんな焼けちゃったね。」と言って、やはり微笑している。

「薄明」について

新潮文庫『グッド・バイ』所収。
・昭和20年9月中旬頃に脱稿。
・昭和21年11月20日、新紀元社から刊行『薄明』に収載。

グッド・バイ (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)  

  東京の三鷹みたかの住居を爆弾でこわされたので、妻の里の甲府こうふへ、一家は移住した。甲府の妻の実家には、妻の妹がひとりで住んでいたのである。
 昭和二十年の四月上旬であった。聯合機れんごうき甲府の空をたびたび通過するが、しかし、投弾はほとんど一度も無かった。まちの雰囲気ふんいきも東京ほど戦場化してはいなかった。私たちも久し振りで防空服装を解いて寝る事が出来た。私は三十七になっていた。妻は三十四、長女は五つ、長男はその前年の八月に生れたばかりの二歳である。これまでの私たちの生活も決して楽ではなかったが、とにかく皆、たいした病気も怪我けがもせずに生きて来た。せっかくいままで苦労を忍んで生きて来たのだから、なおしばらく生きのびて世の成り行きを見たいものだという気持は私にもあった。しかし、それよりも、女房や子供がさきにやられて、自分ひとり後に残されてはかなわんという気持のほうが強かった。それは、思うさえ、やりきれない事である。とにかく妻子を死なせてはならない。そのために万全の措置そちを講じなければならぬ。しかし、私には金が無かった。たまに少しまとまったお金がはいる事があっても、私はすぐにそのお金でもってお酒を飲んでしまうのである。私には飲酒癖という非常な欠点があったのである。その頃のお酒はなかなか高価なものであったが、しかし、私は友人の訪問などを受けると、やっぱり昔のように一緒にそわそわ外出して多量のお酒を飲まずには居られなかった。これでは、万全の措置も何もあったものでない。多くの人々がその家族を遠い田舎いなかに、いち早く疎開そかいさせているのを、うらやましく思いながら、私は金が無いのと、もう一つは気不精から、いつまでも東京の三鷹愚図々々ぐずぐずしているうちに、とうとう爆弾の見舞いを受け、さすがにもう東京にいるのがイヤになって、一家は妻の里へ移転した。そうして、全く百日振りくらいで防空服装を解いて寝て、まあこれで、ここしばらくは寒い夜中に子供たちを起して防空壕ぼうくうごうに飛び込むような事はしなくてすむと思うと、これからさきにいてまだまだ様々の困難があるだろう事は予想せられてはいても、とにかくちょっと安堵あんど溜息ためいきをもらしたという形であったのである。
 しかし、私たちは既に「自分の家」を喪失している家族である。何かと勝手の違う事が多かった。自分もいままで人並に、生活の苦労はして来たつもりであるが、小さい子供ふたりを連れて、いかに妻の里という身近かな親戚しんせきとは言え、ひとの家に寄宿するという事になればまた、これまで経験した事の無かったような、いろいろの特殊な苦労も味った。甲府の妻の里では、父も母も亡くなり、姉たちはとつぎ、一ばん下の子は男で、それが戸主になっているのだが、その二、三年前に大学を出てすぐ海軍へ行き、いま甲府の家に残っている者は、その男の子のすぐ上の姉で、私の妻のすぐの妹という具合いになっている二十六だか七だかの娘がひとり住んでいるきりであった。その娘が、海軍に行っている男の子と手紙で甲府の家の事にいてしょっちゅうこまごまと相談し合っている様子であった。私はその二人の義兄という事になっているわけだが、しかし、義兄なんてものは、その家に就いて何の実権のあるわけはない。実権どころか、私は結婚以来、ここの家族一同には、いろいろと厄介やっかいをかけている。つまり、たのみにならぬ男なのだから、義妹や義弟たちから、その家の事に就いて何の相談にもあずからぬのは、実に当然の事であって、また私にしても、そんな甲府の家の財産やら何やらには、さっぱり興味も持てないので、そこはお互いにいい按配あんばいの事であった。しかし、二十六だったか七だったか、八か、あらたまって尋ねて聞いた事も無いので、はっきりした事は覚えていないが、とにかくまあ、その娘ひとりであずかっている家に、三十七の義兄と三十四の姉が子供を二人も連れてどやどやと乗り込んで、そうしてその娘と遠方の若い海軍とをいい加減にだまして、いつのまにやらその家の財産にも云々うんぬん、などと、まさかそれほど邪推するひとも有るまいが、何にしても、こっちは年上なのだから、無意識のうちにも、彼等のプライドを、もしや蹂躙じゅうりんするという事になってやしないだろうか、とその頃の実感で言えば、まるで、柔いこけの一ぱいえている庭を、その庭の苔を踏むまいとして、飛び石伝いに、ひょいひょいとずいぶん気をつけて歩いているような姿であった。もっと、としをとって、世間の苦労も大いに積んで来た男がひとりこの家にいたら、私たちも、もう少し気楽なのではあるまいか、とさえ思われた。ネガチヴの気遣いも、骨の折れるものである。私は、その家の裏庭に面した六畳間を私の仕事部屋兼寝室として借り、それからもう一間、仏壇のある六畳間を妻子の寝室という事にしてもらって、普通の間代まだいを定め、食費その他の事に就いても妻の里のほうで損をしないように充分に気をつけ、また、私に来客のある時には、その家の客間を使わずに、私の仕事部屋のほうにとおすという事にしていたのであるが、しかし、私は酒飲みであり、また東京から遊びに来るお客もちょいちょいあるし、里の権利を大いに重んずるつもりでいながら、つい申しわけのない結果になりがちの事が多かった。義妹も、かえって私たちには遠慮をして、ずいぶん子供たちの世話もしてくれて、いちども、いやな正面衝突など無かったが、しかし、私たちには「家をうしなった」者のヒガミもあるのか、やっぱり何か、薄氷を踏んで歩いているような気遣いがあった。結局、里のほうにしても、また私たちにしても、どうもこの疎開という事は、双方でせるくらいに気骨の折れるものだという事に帰着するようである。しかし、それでも私たちの場合は、疎開人として最も具合いのよかったほうらしいのだから、他の疎開人の身の上はして知るべきである。
疎開は、するな。家がまる焼けになるまでは、東京にねばっているほうがよい。」
 と私はその頃、東京で家族全部と共に残留している或る親しい友人に書き送ってやった事もあった。
 甲府へ来たのは、四月の、まだ薄ら寒い頃で、桜も東京よりかなりおくれ、やっとちらほら咲きはじめたばかりであったが、それから、五月、六月、そろそろ盆地特有のあの炎熱がやって来て、石榴ざくろの濃緑の葉が油光りして、そうしてその真紅の花が烈日を受けてかっと咲き、葡萄棚ぶどうだなの青い小粒の実も、日ましにふくらみ、少しずつ重たげな長いふさを形成しかけていた時に、にわかに甲府市中が騒然となった。攻撃が、中小都市に向けられ、甲府も、もうすぐ焼き払われる事にきまった、といううわさが全市に満ちた。市民はすべて浮足立ち、家財道具を車に積んで家族を引き連れ山の奥へ逃げて行き、その足音やら車の音が深夜でも絶える事なく耳についた。それはもう甲府も、いつかはやられるだろうと覚悟していたが、しかし、久し振りで防空服装を解いて寝て、わずかに安堵あんどするかせぬうちに、またもや身ごしらえして車を引き、妻子を連れて山の中の知らない家の厄介やっかいになりに再疎開して行くのは、何とも、どうも、大儀であった。
 頑張がんばって見ようじゃないか。焼夷弾しょういだんを落しはじめたら、女房は小さい子を背負い、そうして上の女の子はもう五つだし、ひとりでどんどん歩けるのだから、女房はこれの手をひいて三人は、とにかく町はずれの田圃たんぼへ逃げる。あとは私と義妹が居残って、出来る限り火勢と戦い、この家を守ろうじゃないか。焼けたら、焼けたで、皆して力を合せ、焼跡に小屋でも建てて頑張って見ようじゃないか。
 私からそれを言い出したのであったが、とにかく一家はそのつもりになって、穴を掘って食料を埋めたり、またなべかま茶碗ちゃわんの類を一そろい、それからかさ履物はきものや化粧品や鏡や、針や糸や、とにかく家が丸焼けになっても浅間あさましい真似まねをせずともすむように、最少限度の必需品を土の中に埋めて置く事にした。
「これも埋めて下さい。」
 と五つの女の子が、自分の赤い下駄を持って来た。
「ああ、よし、よし。」と言って、それを受取って穴の片隅かたすみにねじ込みながら、ふと誰かを埋葬しているような気がした。
「やっと、私たちの一家も、気がそろって来たわねえ。」
 と義妹は言った。
 それは、義妹にとって、わば滅亡前夜の、あの不思議なかすかな幸福感であったかも知れない。それから四、五日も経たぬうちに、家が全焼した。私の予感よりも一箇月早く襲来した。
 その十日ほど前から、子供が二人そろって眼を悪くして医者にかよっていた。流行性結膜炎である。下の男の子はそれほどでも無かったが、上の女の子は日ましにひどくなるばかりで、その襲来の二、三日前から完全な失明状態にはいった。眼蓋まぶたれて顔つきが変ってしまい、そうしてその眼蓋を手で無理にこじあけて中の眼球を調べて見ると、ほとんど死魚の眼のように糜爛びらんしていた。これはひょっとしたら、単純な結膜炎では無く、悪質の黴菌ばいきんにでも犯されて、もはや手おくれになってしまっているのではあるまいかとさえ思われ、別の医者にも診察してもらったが、やはり結膜炎という事で、全快までには相当永くかかるが、絶望では無いと言う。しかし、医者の見そこないは、よくある事だ。いや、見そこないのほうが多い。私は医者の言う事はあまり信用しない性質である。
 早く眼が見えるようになるといい。私は酒を飲んでも酔えなかった。外で飲んで、家へ帰る途中で吐いた事もある。そうして、路傍で、冗談でなく合掌がっしょうした。家へ帰ったら、あの子の眼が、あいていますようにと祈った。家へ帰ると子供の無心の歌声が聞える。ああ、よかった、眼があいたかと部屋に飛び込んでみると、子供は薄暗い部屋のまんなかにしょんぼり立っていて、うつむいて歌を歌っている。
 とても見て居られなかった。私はそのまま、また外へ出る。何もかも私ひとりの責任のような気がしてならない。私が貧乏の酒くらいだから、子供もめくらになったのだ。これまで、ちゃんとした良市民の生活をしていたなら、こんな不幸も起らずにすんだのかも知れない。親の因果いんがが子にむくい、というやつだ。ばちだ。もし、この子がこれっきり一生、眼があかなかったならば、もう自分は文学も名誉も何もらない、みんな捨ててしまって、この子の傍にばかりついていてやろう、とも思った。
「坊やのアンヨはどこだ? オテテはどこだ?」
 などと機嫌きげんのいい時には、手さぐりで下の男の子と遊んでいる様を見て、もし、こんな状態のままで来襲があったら、と思うと、また慄然りつぜんとした。妻は下の男の子を背負い、私がこの子を背負って逃げるより他しかたが無いだろうが、しかし、そうすると、義妹ひとりで、この家を守るなどは、とても出来る事でない。義妹もやはり逃げなければならぬだろう。この家は、焼けるままに放棄するという事になる。さらにまた聯合機れんごうきの攻撃はこれまでの東京の例で見ても、まず甲府全市にわたるものと覚悟しなければならぬ。この子のかよっている医院も、きっと焼けるに違いない、また他の病院も、とにかく甲府には、医者が無くなる。そうすると、この子は失明のままで、どうなるのだろう。万事、休す。
「なんでもいい。とにかく、もう一月は待ってくれてもよさそうに思うがねえ。」
 と私は夕食の時、笑いながら家の者に言ったその夜、空襲警報と同時に、れいの爆音が大きく聞えて、たちまち四辺が明るくなった。焼夷弾攻撃がはじまったのだ。ガチャンガチャンと妹が縁先の小さい池に食器類を投入する音が聞えた。
 まさに、最悪の時期に襲来したのである。私は失明の子供を背負った。妻は下の男の子を背負い、共に敷蒲団しきぶとん一枚ずつかかえて走った。途中二、三度、路傍のどぶに退避し、十ちょうほど行ってやっと田圃に出た。麦を刈り取ったばかりの畑に蒲団をしいて、腰をおろし、一息ついていたら、ざっと頭の真上から火の雨が降って来た。
「蒲団をかぶれ!」
 私は妻に言って、自分も子供を背負ったまま蒲団をかぶって畑に伏した。直撃弾を受けたら痛いだろうなと思った。
 直撃弾は、あたらなかった。蒲団をはねのけて上半身を起してみると、自分の身のまわりは火の海である。
「おい、起きて消せ! 消せ!」と私は妻ばかりでなく、その附近に伏している人たち皆に聞えるようにことさらに大声で叫び、かぶっていた蒲団で、周囲の火焔を片端からおさえて行った。火は面白いほど、よく消える。背中の子供は、目が見えなくても、何かただならぬ気配を感じているのか、泣きもせず黙って父の肩にしがみついている。
怪我けがは無かったか。」
 だいたい火焔をしずめてから私は妻の方に歩み寄って尋ねた。
「ええ、」と静かに答えて、「これぐらいの事ですむのでしたらいいけど。」
 妻には、焼夷弾よりも爆弾のほうが、苦手らしかった。
 畑の他の場所へ移って、一休みしていると、またも頭の真上から火の雨。へんな言い方だが、生きている人間には何か神性の一かけらでもあるのか、私たちばかりではなく、その畑に逃げて来ている人たち全部、誰もやけどをしなかった。おのおのが、その身辺の地上でえているベトベトした油のかたまりのようなものに蒲団やら、土やらをかぶせて退治して、また一休み。
 妹は、あすの私たちの食料を心配して、甲府市から一里半もある山の奥の遠縁の家へ、出発した。私たち親子四人は、一枚の敷蒲団を地べたに敷き、もう一枚の掛蒲団は皆でかぶって、まあここに踏みとどまっている事にした。さすがに私は疲れた。子供を背負ってこの上またあちこち逃げまわるのは、いやになっていた。子供たちはもう蒲団の上におろされて、安眠している。親たちは、ただぼんやり、甲府市の炎上を眺めている。飛行機の、あの爆音も、もうあまり聞えなくなった。
「そろそろ、おしまいでしょうね。」
「そうだろう。いや、もうたくさんだ。」
「うちも焼けたでしょうね。」
「さあ、どうだかな? 残っているといいがねえ。」
 所詮しょせんだめとは思っていても、しかしまた、ひょっとして、奇蹟的に家が残っていたらまあどんなにうれしかろうとも思うのだ。
「だめだろうよ。」
「そうでしょうね。」
 しかし、心では一縷いちるの望みを捨て切れなかった。
 すぐ、眼の前の一軒の農家がめらめら燃えている。燃えはじめてから燃え尽きるまで、実に永い時間がかかるものだ。屋根や柱と共にその家の歴史も共に炎上しているのだ。
 しらじらと夜が明けて来る。
 私たちは、まちはずれの焼け残った国民学校に子供を背負って行き、その二階の教室に休ませてもらった。子供たちも、そろそろ眼をさます。眼をさますとは言っても、上の女の子の眼は、ふさがったままだ。手さぐりで教壇にい上ったりなんかしている。自分の身の上の変化には、いっさい留意していない様子だ。
 私は妻と子を教室に置いて、私たちの家がどうなっているかを見とどけに出かけた。道の両側の家がまだ燃えているので、熱いやら、けむいやら、道を歩くのがひどく苦痛であったが、さまざまに道をかえて、たいへんな廻り道をしてどうやら家の町内に近寄る事が出来た。残っていたら、どんなにうれしいだろう。いや、しかし、絶対にそんな事は無いんだ。希望を抱いてはいけない、と自分の心に言いつけても、それでも、もしかすると、と万一を願う気持が頭をもたげてどう仕様も無かった。家の黒い板塀いたべいが見えた。
 や、残っている。
 しかし、板塀だけであった。中の屋敷は全滅している。焼跡に義妹が、顔を真黒にして立っている。
「兄さん、子供たちは?」
「無事だ。」
「どこにいるの?」
「学校だ。」
「おにぎりあるわよ。ただもう夢中で歩いて、食料をもらって来たわ。」
「ありがとう。」
「元気を出しましょうよ。あのね、ほら、土の中に埋めて置いたものね、あれは、たいてい大丈夫らしいわ。あれだけ残ったら、もう当分は、不自由しないですむわよ。」
「もっと、埋めて置けばよかったね。」
「いいわよ。あれだけあったら、これからどこへお世話になるにしたって大威張りだわ。上成績よ。私はこれから食料を持って学校へ行って来ますから、兄さんはここで休んでいらっしゃい。はい、これはおむすび。たくさんし上れ。」
 女の二十七、八は、男の四十いやそれ以上に老成している一面を持っている。なかなか、たのもしく落ちついていた。三十七になっても、さっぱりだめな義兄は、それから板塀の一部をいで、裏の畑の上に敷き、その上にどっかとあぐらをいて坐り、義妹の置いて行ったおにぎりを頬張ほおばった。まったく無能無策である。しかし私は、馬鹿というのか、のんきというのか、自分たちの家族のこれからの身の振り方に就いてはほとんど何も考えぬのである。ただ一つ気になるのは、上の女の子の眼病に就いてだけであった。これからいったい、どんな手当をすればいいのか。
 やがて妻が下の子を背負い、義妹が上の女の子の手をひいて焼跡にやって来た。
「歩いて来たのか?」
 と私はうつむいている女の子に尋ねた。
「うん、」と首肯うなずく。
「そうか、偉いね。よくここまで、あんよが出来たね。お家は、焼けちゃったよ。」
「うん、」と首肯く。
「医者も焼けちゃったろうし、こいつの眼には困ったものだね。」
 と私は妻に向って言った。
「けさ洗ってもらいましたけど。」
「どこで?」
「学校にお医者が出張してまいりましたから。」
「そいつあ、よかった。」
「いいえ、でも、看護婦さんがほんの申しわけみたいに、――」
「そうか。」
 その日は、甲府市の郊外にある義妹の学友というひとのお家で休ませてもらう事にした。焼跡の穴から掘り出した食料やおなべなどを、みんなでそのお家に運んだ。私は笑いながら、ズボンのポケットから懐中時計を出して、
「これが残った。机の上にあったから、家を出る時にポケットにねじ込んで走ったのだ。」
 それは、海軍の義弟の時計であったが、私が前から借りて私の机の上に置いていたものなのだ。
「よかったわね。」と義妹も笑い、「兄さんにしちゃ大手柄じゃないの。おかげで、うちの財産が一つえたわ。」
「そうだろう?」と私は少し得意みたいな気持になり、「時計が無いとね、何かと不便なものだからね。ほら、お時計だよ、」と言って、上の女の子の手にその懐中時計を握らせ、「耳にあててごらん、カチカチ言ってるだろう? このとおり、めくらの子のおもちゃにもなる。」
 子供は時計を耳に押しあて、首をかしげてじっとしていたが、やがて、ぽろりと落した。カチャンと澄んだ音がして、ガラスがこまかくこわれた。もはや修繕しゅうぜんの仕様も無い。時計のガラスなんか、どこにも売ってやしない。
「なんだ、もう駄目か。」
 私は、がっかりした。
「ばかねえ。」と義妹は低くひとりごとのように言い、けれども、その唯一といっていいくらいの財産が一瞬にして失われた事を、さして気にも留めていない様子だったので、私は少しほっとした。
 そのお家の庭のすみ炊事すいじをして、その夕方、六畳間でみんな早寝という事になり、けれども妻も義妹もひどく疲れていながらなかなか眠れぬ様子で、何かと身の振方などに就いて小声で相談している。
「なに、心配する事はないよ。みんなで、おれの生れ故郷へ行くさ。何とかなるよ。」
 妻も妹も沈黙した。私のどんな意見も、この二人には、前からあまり信用されていないのである。二人は、めいめい他の事を考えているらしく、何とも答えない。
「やっぱりどうも、おれは信用が無いようだな。」と私は苦笑して、「けれども、たのむから、こんどだけは、おれの言うとおりにしてくれ。」
 妹は暗闇の中で、クスクス笑った。そんなにおっしゃってもと、いうような気持らしい。そうして、すぐまた他の事に就いて妻とひそひそ相談をはじめる。
「それじゃまあ勝手にするさ。」と私も笑いながら言い、「どうも、おれは信用が無いので困る。」
「そりゃそうよ。」と妻は突然、あらたまったような口調で言い、「父さんは、いつでも本気なのか冗談なのかわからないような非常識な事ばかりおっしゃるんだもの。信用の無いのは当り前よ。こんなになっても、きっとお酒の事ばかり考えていらっしゃるんだから。」
「まさか、それほどでもなかろう。」
「でも、今晩だって、お酒があったら、お飲みになるでしょう。」
「そりゃ、飲む、かも知れない。」
 とにかく、このお家にもこれ以上ご厄介やっかいをかけてはいけない、明日、また他の家を捜そうという事に二人の相談はまとまった様子で、あくる日、れいの穴から掘り出した品々を大八車だいはちぐるまに積んで、妹のべつの知人のところへ行った。そこのお家は、かなり広く、五十歳くらいの御主人は、なかなかの人格者のように見受けられた。私たちは奥の十畳間を貸していただく事が出来た。病院も、見つけた。
 県立病院が焼けて、それが郊外の或る焼け残った建築物に移転して来たという事を、そのお家の奥さんから聞いたので、私と妻は子供をひとりずつ背負ってすぐに出かけた。桑畑のあいだを通って近道をすると、十分間くらいで行ける山のすそにその間に合せの県立病院があった。
 眼科のお医者は女医であった。
「この女の子のほうは、てんで眼があかないので困ります。田舎のほうに転出しようかとも考えているのですが、永い汽車旅行のあいだに悪化してしまうといけませんし、とにかくこの子の眼がよくならなければ私たちはどこへも行けない状態で、ほんとに困ってしまって。」などと私は汗を拭きながら、しきりに病状を訴え、女医の手当のわずかでも懇切ならん事を策した。
 女医は気軽に、
「なに、すぐ眼があくでしょう。」
「そうでしょうか。」
「眼球は何ともなっていませんからね、まあ、もう四、五日もかよったら、旅行も出来るようになるでしょう。」
「注射のようなものは、」と妻は横合から口を出して、「ございませんでしょうか。」
「あるには、ありますけど。」
「ぜひ、どうか、お願い致します。」と妻は慇懃いんぎんにお辞儀をした。
 注射がきいたのか、どうか、あるいは自然に治る時機になっていたのか、その病院にかよって二日目の午後に眼があいた。
 私はただやたらに、よかった、よかったを連発し、そうして早速、家の焼跡を見せにつれて行った。
「ね、お家が焼けちゃったろう?」
「ああ、焼けたね。」と子供は微笑している。
うさぎさんも、お靴も、小田桐おだぎりさんのところも、茅野ちのさんのところも、みんな焼けちゃったんだよ。」
「ああ、みんな焼けちゃったね。」と言って、やはり微笑している。

 

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【日刊 太宰治全小説】#225「たずねびと」

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【冒頭】

この「東北文学」という雑誌の貴重な紙面の端をわずか拝借して申し上げます。どうして特にこの「東北文学」という雑誌の紙面をお借りするかというと、それには次のような理由があるからです。

【結句】

そのひとに、その女のひとに、私は逢いたいのです。としの頃は、はたち前後。その時の服装は、白い半袖(はんそで)のシャツに、久留米絣(くるめがすり)のモンペをつけていました。
逢って、私は言いたいのです。一種のにくしみを含めて言いたいのです。
「お嬢さん。あの時は、たすかりました。あの時の乞食は、私です。」と。
 

「たずねびと」について

新潮文庫『グッド・バイ』所収。
・昭和21年8月下旬か9月上旬か頃に脱稿。
・昭和21年11月1日、『東北文学』十一月号に掲載。

グッド・バイ (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)  

  この「東北文学」という雑誌の貴重な紙面の端をわずか拝借して申し上げます。どうして特にこの「東北文学」という雑誌の紙面をお借りするかというと、それには次のような理由があるのです。
 この「東北文学」という雑誌は、ご承知のごとく、仙台の河北新報社から発行せられて、それは勿論もちろん、関東関西四国九州の店頭にも姿をあらわしているに違いありませぬが、しかし、この雑誌のおもな読者はやはり東北地方、しかも仙台附近に最も多いのではないかと推量されます。
 私はそれを頼みの綱として、この「東北文学」という文学雑誌の片隅かたすみを借り、申し上げたい事があるのです。
 実は、おいしたいひとがあるのです。お名前も、御住所もわからないのですが、たしかに仙台市か、その附近のおかたでは無かろうかと思っています。女のひとです。
 仙台市から発行せられている「東北文学」という雑誌の片隅に、私がこのまずしい手記を載せてもらおうと思い立ったのも、そのひとが仙台市あるいはその近くの土地に住んでいるように思われて、ひょっとしたら、私のこの手記がそのひとの眼にふれる事がありはせぬか、またはそのひとの眼にふれずとも、そのひとの知合いのお方が読んで、そのひとに告げるとか、そのような万に一つの僥倖ぎょうこうが、……いやいや、それは無理だ、そんな事は有りっこ無いよ、いやいや、その無理は充分にわかっていますが、しかし、私としてはそんな有りっこ無い事をも、あてにして書かずに居られない気持なのです。
「お嬢さん。あの時は、たすかりました。あの時の乞食こじきは私です。」
 その言葉が、あの女のひとの耳にまでとどかざる事、あたかも、一勇士をとむらわんとて飛行機に乗り、その勇士の眠れる戦場の上空より一束の花を投じても、決してその勇士の骨の埋められたる個所には落下せず、あらぬかなたの森に住むわしの巣にばさと落ちてひなをいたずらに驚愕きょうがくせしめ、或いはむなしく海波の間に浮び漂うが如き結末になると等しく、これは畢竟ひっきょう、とどくも届かざるも問題でなく、その言葉もしくは花束を投じた当人の気がすめば、それでよろしいというはなはだ身勝手なたくらみにすぎないようにも思われますが、それでもやはり私は言いたいのです。
「お嬢さん。あの時は、たすかりました。あの時の乞食は、私です。」と。
 昭和二十年、七月の末に、私たち家族四人は上野から汽車に乗りました。私たちは東京で罹災りさいしてそれから甲府へ避難して、その甲府でまた丸焼けになって、それでも戦争はまだまだ続くというし、どうせ死ぬのならば、故郷で死んだほうがめんどうが無くてよいと思い、私は妻と五歳の女の子と二歳の男の子を連れて甲府を出発し、その日のうちに上野から青森に向う急行列車に乗り込むつもりであったのですが、空襲警報なんかが出て、上野駅に充満していた数千の旅客たちが殺気立ち、幼い子供を連れている私たちは、はねとばされたおされるような、ひどいめにい、とてもその急行列車には乗り込めず、とうとうその日は、上野駅の改札口の傍で、ごろ寝という事になりました。その夜は、すごい月夜でした。夜ふけてから私はひとりで外へ出て見ました。このあたりも、まず、あらかた焼かれていました。私は上野公園の石段を登り、南洲の銅像のところから浅草のほうを眺めました。湖水の底の水草のむらがりを見る思いでした。これが東京の見おさめだ、十五年前に本郷の学校へはいって以来、ずっと私を育ててくれた東京というまちの見おさめなのだ、と思ったら、さすがに平静な気持では居られませんでした。翌朝とにかく上野駅から一番早く出る汽車、それはどこへ行く汽車だってかまわない、北のほうへ五里でも六里でも行く汽車があったら、それに乗ろうという事になって、上野駅発一番列車、夜明けの五時十分発の