記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

さよなら、平成。いらっしゃい、令和。

f:id:shige97:20190426191908j:image

1989年1月8日から始まり、31年間続いた平成の時代が終わり、2019年5月1日から新しい年号、令和が始まろうとしている。

 

「あんま気にしてないなぁ…」とか言ってたけど、平成元年に生まれ、初めて、新たな元号を迎えるタイミングが近づいてくると、急にちょっと感慨深くなっちゃったりする。

 

「平成生まれだから」「ゆとりだから」と上司に言われ、平成2年以降生まれとは若干のジェネレーションギャップのようなものも感じ、「平成元年生まれって、一体…」と、飲みながら友達と愚痴り合った夜もあった。

30年間、色々あったなぁ…と、感慨に耽りながらも、30年間ぶん、丸々の記憶ってないよなぁ…と、冷静になって考える。

 

オーストリア精神科医であるジークムント・フロイトは、人が幼い頃の記憶が無いことを『幼児期健忘』と名付け、「性の目覚めが子どもの頃の記憶を消してしまった」と語った。子供は、7歳まで安定した記憶を形成できていないというのだ。

f:id:shige97:20190429084637j:image

しかし、その後の研究で、3歳以下の幼児の記憶は年齢によりバラつきはあるものの、一定期間は続くが、6歳頃から子供たちは記憶を失いはじめるということが判明した。

つまり、幼児は人生の最初のうちは思い出を記憶しているが、これらの記憶の多くは成人になって経験する「物忘れ」をはるかに上回る勢いで消えてしまうというのだ。

 

「自分の中に残っている、"一番古い記憶"って何だろう?」と、ぼーっと考えてみる。

 

"一番古い記憶"

ブログタイトルに『記憶の宮殿』と銘打っているので、滅多に遭遇しない時代の節目に、自分の記憶を振り返ってみるのも面白いかもしれない。

 

"一番古い記憶"

ゆっくりと瞼を閉じて、自分の記憶の中にダイブしてみる。

なかなか潜ることのない、自分の記憶の奥深くへ、ゆっくりと。。。

f:id:shige97:20190429090045p:image

ふっと思い浮かぶ一番古い記憶は、母方の祖父の葬式だった。4歳頃だろう。

母親にそのことを話すと「あんた、よく覚えてるね」と言われる。

祖父と自分が写る写真は見たことがあるが、実際、その時の記憶はない。

しかし、時折、目の前に横たわる祖父のイメージが、脳裏に鮮明に浮かび上がってくることがある。目を閉じ、静かに横たわっている祖父の口に、末期の水を含ませている光景だ。

仏教では、あの世では飲食が出来なくなると考えられているため、あの世で安らかに暮らしてくれることを願い、死者が渇きに苦しまないように 、死者の口に水を含ませる。

しんみりとした雰囲気の中、黙々と続けられる。

 

その次は、いきなり場面が転換して、既に荼毘に付された後だ。みんながお骨の箸渡しをしているのを、低いアングルから眺めている。

そこで、僕の中の"一番古い記憶"は、再生をストップする。

 

幼稚園児の頃の記憶

その次に思い浮かぶのは、幼稚園児の頃の記憶だ。

f:id:shige97:20190430214500p:image

朝に放送されていた「ひらけポンキッキーズ」の番組内で流れる「機関車トーマス」が好きで、見終わってから車に乗り、幼稚園へ向かう。

みんなで手を繋ぎ、坂道を登って行く。

そういえば、先日、私が通っていた幼稚園が、園長先生の高齢と、児童数減少を理由に閉園したというニュースを聞いた。

僕が通っていた中学校も、児童数減少が原因で、数年前に統合してしまった。自分に縁のある場所が無くなっていく、って何だか寂しい気がする。

 

幼稚園。関連して思い出すのは、絵本の読み聞かせの記憶。

家で絵本を読んでいる時、ページをめくる時に右手の人差し指をひと舐めしてページをめくったら、母親に「汚いから、辞めなさい」と注意された。

でもこれは、幼稚園の先生が、ページをめくる時に指が滑るために、指を舐めてからページをめくっていたのを真似しただけで、「〇〇先生がやってたから」と言い訳したのを覚えている。

今では笑い話だけど、自分のことながら、子供の観察力ってスゴいよなぁ…と、感心してしまう。

 

好きになった、映画。

その次は、映画館の記憶

今ではプロフィールの趣味欄にまで記載するようになった「映画鑑賞」にまつわる最初の記憶は、意外にもこんな感じだった。

f:id:shige97:20190430215228p:image

生まれて初めて映画館で観た映画は、1993年公開、ゴジラ生誕40周年記念のシリーズ第20作。

1985年公開の『メカゴジラの逆襲』から18年ぶりにメカゴジラが人類の「対ゴジラ新兵器」として登場するゴジラ VS メカゴジラだった。

f:id:shige97:20190501002528j:image

黙って席に座っていられず、上映が始まるまでの時間で飽きてしまい、映画が始まって間もなく「ねぇ、帰ろぉ〜」とワガママを言い始めた。

映画館にはエンドロールが終わるまでいたけど、怒った父親は「もう、映画館には連れて来ない!」と。この次に映画館で観るのは8年後。2001年公開の千と千尋の神隠しまで間を空けることになる。

 

その間は…というと、映画自体を全く観なかった訳ではなく、「金曜ロードショー」や「日曜洋画劇場」など、テレビで映画を観ていた。

f:id:shige97:20190430220408j:image

1998年11月11日に亡くなった淀川 長治さん。

約32年間にわたって「日曜洋画劇場」で司会を務め、番組の締め括りに必ず言う「それではまた次回をお楽しみに、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ!」というフレーズは、今でも鮮明に記憶に残っている。

f:id:shige97:20190430220846p:image

2015年、動画配信サービス「Hulu」のCMで、ポリゴン姿で復活して話題になったけど、同世代に聞くと、みんな淀川さんのことを知らないみたいで。

それだけテレビで映画を観る家だったのかなぁ…と思いきや、我が家の就寝時間はいつも22時頃だったため、映画の途中でも「寝るぞ!」と半ば強制的にテレビは消されていた。

クライマックス直前までのストーリーは何度も観て記憶しているのに、なぜか最後が思い出せない映画が多いのは、こんな背景があるからだろう。

 

無かった反抗期。

母親と話をしていると「あんたは反抗期が無かったから、楽だった」と言われる。

小さい頃は大人しく、親に反抗した記憶もない。

そこそこ勉強もできて、小さな田舎の小学校だったけど、テストをするとクラスで5位以内には入っていたので、勉強で親を心配させたことも、それほどなかったと思う。

 

ただ、30年の人生を振り返って、唯一「反抗したかな?」というのが、12年前。大学進学のために上京した時だ。

父親は国立大学への進学を希望していた。

模擬試験では、何とか狙えそうな雰囲気だったけど、センター試験で見事に滑り、一番可能性がある国立大学でD判定という結果に。

諦めずに二次試験では、地元国立大学と、"滑り止め"という名目で東京の私立大学を一校受験した。

f:id:shige97:20190430222902p:image

最終的には、二校とも合格。父親は地元国立大学への入学を確信していたようだったが、僕の中では、二次試験受験の段階で、地元国立大学に入学する気は、ほとんどなかった。

一番の理由は、「高校までの大人しい自分の殻を破りたい」ということ。

学校の休み時間は、教室の隅で本を読んでいることも多く、高校までは授業中に居眠りもしたことがなかった。

勉強の成績も良く、陸上部でもそこそこ速く走れたので、周りからは、いわゆる「優等生」に見られていた。そんな自分が嫌だったのだ。

そして、自分の殻を破るためには、自分のことを誰も知らない環境に身を置くしかない、と考えたのだった。

最初に母親に相談し、タイミングを見計らって父親に「東京の大学に行かせてください」と土下座でお願いした。今のところ、父親に土下座をしたのは、後にも先にも、この時だけだ。

父は、何か引っ掛かるところもあるようだったが、承諾してくれた。

 

18歳で上京し、東京生活も、もうすぐ12年。

あの時、勇気を振り絞ってお願いして良かったと思うし、承諾してくれた親には感謝している。

 

ソウルフレンド 太宰治

土下座をして上京。新しくはじまった東京生活。

それまで引っ込み思案だった自分にとって、知り合いもいない東京での一人暮らしは、最初の頃、淋しさに耐え切れず、かなり辛かった。

コンビニに弁当を買いに行き、店員さんに「お弁当、温めますか?」と聞かれ、いきなり声が出ず、「うっ」と言い淀んでしまったこともある。

永らく人と話をしていないと、声が出なくなることもある、という経験も、この時にした。

正直、上京を決意した時には、「田舎には何もない!」と思っていた部分もあったけど、実際に故郷を離れてみると、改めて故郷の良さや家族の有り難みを感じることができた。

距離を置くことで、物事の良さを再認識できることもある。

そして、上京して一人だった頃の淋しさを慰めてくれたのが、同郷の作家である太宰治だった。

太宰については、何度もブログに書いているので、改めて書くようなことはしないが、今では「ソウルフレンド」と呼ぶような存在になっている。

ちなみに、今年2019年は太宰治生誕110周年

それを記念して、毎朝7時に1作品ずつ太宰作品を更新する【日刊 太宰治全小説】という企画を実施している。

更新済の作品は、以下「創刊のお知らせ!」内の作品一覧からも読めるので、よろしければ。

 

大きな転機

最後に、平成の自分史を語る上で、外せない出来事が。

昨年2018年の誕生日、一番最初に勤めた会社での出来事を以下のブログにまとめた。

この出来事の前と後では、だいぶ自分自身や物の見方、考え方、感じ方が変わってしまった。

かなり辛い思いもしたけど、自分では想像していなかった方向に大きく進んだ感じがある。

でも、決して停滞や後退ではなく、確実な前進だ。この出来事を経て、自分は強くなったと感じる。

今回、ブログを書きながら、過去の出来事に思いを巡らせていたら、ブログには書いていなかったエピソードを2つ思い出した。

あまり気持ちの良い話題ではないけど、「平成のうちに精算してしまう」という意味で、ここで書いてしまいたい。

前職を退職した日。

会社の本部へ出向き、退職の手続きをした。

本来ならば、勤めていた支店に出向き、お礼の挨拶をするのがマナーだろうが、とてもではないけど、行く気はしなかったし、行ったら吐きそうだった。

しかし、最後に支店に出勤した際、預金課の代理にこんな事を言われていた。

「こんな事があって辞めるから、最後の手続きの日、支店に挨拶に来いって言ったって、難しいだろうけど…。一応、職員会費から退職祝が出ることになってるから、もし来れなくても、口座に振り込んであげるから安心しな」

職員会費は、毎月の給料から天引きで徴収され、支店の定例行事や結婚祝、退職祝等に充当される、各営業店が独自で運営したいる会費のことだ。

いつまでも退職した金融機関の口座を持っているのも嫌だったので、つい先日、口座解約に赴いたが、結局、口座に職員会費からの退職祝の振込みはないままだった。

退職後、数ヶ月の休養期間を経て、次の就職先が決まり、気分転換にジョギングに出た時だった。

1時間半ほどのジョギングを終え、もうすぐで家に着くところまで戻って来た頃。

退職後に引っ越しをしたけど、全く土地勘がない場所も嫌だったので、前職の営業店まで歩いて30分くらいのところに引っ越した。

この地域は、行きつけの飲み屋も多く、離れたくなかったし、営業店の担当エリアからは外れた場所のはずだった。

「シャワーを浴びて、ビールが飲みたい!」なんて考えていると、前方から、見覚えのある人が自転車でやって来る。

前述の預金課の代理だった。

「おう!」と声を掛けてきた。

営業エリア外のお客さんに用事があり、自転車で出て来たところだそう。

「辞めた後、元気にしてた?」等の、簡単な様子伺いの後、「でも、お前、5年間も支店でみんなの世話になったのに、最後の日に顔出さないなんて。みんな待ってたのに。お前、社会人として、クズだよ。だから、そんな風になっちゃうんだよ」と言い、去って行った。

いきなり吐き気が込み上げ、家まで走って戻り、吐いた。

本当に、辞めて良かったと思った。

辛く重い体験だったけど、自分は確実に前に進んでいる。

 

さいごに

想定はしてたけど、かなり取り止めのない文章になってしまった。

でも、記憶に従って書き連ねるとは、こういうことだろう。

平成から、令和へ。

自分は何も変わっていないのに、世の中はまた変化してしまう。

急な坂道を自転車で駆け下りてる感覚だ。

でも、まだ20代最後の夏は残っている。

姿や形はどうあれ、前を見て、精一杯に生きていれば、それで良いんだと思う。

 

【こんな記事も書いてます】