【冒頭】
「ピアノが聞えるね。」
彼は、いよいよキザになる。眼を細めて、遠くのラジオに耳を傾ける。
【結句】
色男としての歴史に於いて、かつて無かった大屈辱にはらわたの煮えくりかえるのを覚えつつ、彼はキヌ子から恵まれた赤いテープで、眼鏡をつくろい、その赤いテープを両耳にかけ、
「ありがとう!」
ヤケみたいにわめいて、階段を降り、途中、階段を踏みはずして、また、ぎゃっと言った。
「グッド・バイ 怪力 (四)」について
・新潮文庫『グッド・バイ』所収。
・昭和23年6月3日に脱稿。
・昭和23年7月1日、『朝日評論』七月号に掲載。
グッド・バイ (新潮文庫)
全文掲載(「青空文庫」より)
怪力 (四)
「ピアノが聞えるね。」
彼は、いよいよキザになる。眼を細めて、遠くのラジオに耳を傾ける。
「あなたにも音楽がわかるの? 音痴みたいな顔をしているけど。」
「ばか、僕の音楽通を知らんな、君は。名曲ならば、一日一ぱいでも聞いていたい。」
「あの曲は、何?」
「ショパン。」
でたらめ。
「へえ? 私は
音痴同志のトンチンカンな会話。どうも、気持が浮き立たぬので、田島は、すばやく話頭を転ずる。
「君も、しかし、いままで誰かと恋愛した事は、あるだろうね。」
「ばからしい。あなたみたいな
「言葉をつつしんだら、どうだい。ゲスなやつだ。」
急に不快になって、さらにウイスキイをがぶりと飲む。こりゃ、もう
「恋愛と淫乱とは、根本的にちがいますよ。君は、なんにも知らんらしいね。教えてあげましょうかね。」
自分で言って、自分でそのいやらしい口調に寒気を覚えた。これは、いかん。少し時刻が早いけど、もう酔いつぶれた振りをして寝てしまおう。
「ああ、酔った。すきっぱらに飲んだので、ひどく酔った。ちょっとここへ寝かせてもらおうか。」
「だめよ!」
鴉声が蛮声に変った。
「ばかにしないで! 見えすいていますよ。泊りたかったら、五十万、いや百万円お出し。」
すべて、失敗である。
「何も、君、そんなに怒る事は無いじゃないか。酔ったから、ここへ、ちょっと、……」
「だめ、だめ、お帰り。」
キヌ子は立って、ドアを開け放す。
田島は窮して、最もぶざまで拙劣な手段、立っていきなりキヌ子に抱きつこうとした。
グワンと、こぶしで
「ゆるしてくれえ。どろぼう!」
とわけのわからぬ事を叫んで、はだしで廊下に飛び出した。
キヌ子は落ちついて、ドアをしめる。
しばらくして、ドアの外で、
「あのう、僕の靴を、すまないけど。……それから、ひものようなものがありましたら、お願いします。眼鏡のツルがこわれましたから。」
色男としての歴史に於いて、かつて無かった大屈辱にはらわたの煮えくりかえるのを覚えつつ、彼はキヌ子から恵まれた赤いテープで、眼鏡をつくろい、その赤いテープを両耳にかけ、
「ありがとう!」
ヤケみたいにわめいて、階段を降り、途中、階段を踏みはずして、また、ぎゃっと言った。
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