記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#196「パンドラの匣」一

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【冒頭】

君、思い違いしちゃいけない。僕は、ちっとも、しょげてはいないのだ。

【結句】

僕の事に就いては、本当に何もご心配なさらぬように。では、そちらもお大事に。
 昭和二十年八月二十五日 

 

パンドラの匣」について

新潮文庫パンドラの匣』所収。
・昭和20年11月9日頃に脱稿。
・昭和20年10月22日付「河北新報」と「東奥日報」に連載開始。「東奥日報」は10月29日付「パンドラの匣」第八回で連載中断。「河北新報」は翌21年1月7日付まで、64回連載、完結。


パンドラの匣 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)  

幕ひらく

 


 君、思い違いしちゃいけない。ぼくは、ちっとも、しょげてはいないのだ。君からあんな、なぐさめの手紙をもらって、僕はまごついて、それから何だか恥ずかしくて赤面しました。妙に落ちつかない気持でした。こんな事を言うと、君は怒るかも知れないけれど、僕は君の手紙を読んで、「古いな」と思いました。君、もうすでに新しい幕がひらかれてしまっているのです。しかも、われらの先祖のいちども経験しなかった全然あたらしい幕が。
 古い気取りはよそうじゃないか。それはもうたいてい、ウソなのだから。僕は、いま、自分のこの胸の病気に就いても、ちっとも気にしてはいない。病気の事なんか、忘れてしまった。病気の事だけじゃない。何でもみんな忘れてしまった。僕がこの健康道場にはいったのは、戦争がすんで急に命が惜しくなって、これから丈夫なからだになり、何とかして一つ立身出世、なんて事のためでは勿論もちろんないし、また、早く病気をなおしてお父さんに安心させたい、お母さんを喜ばせたいなどという涙ぐましいような殊勝な孝心からでも無かったのだ。しかし、また、へんなやけくそを起してこんな辺鄙へんぴな場所へ来てしまったというわけでも無いんだ。ひとの行為にいちいち説明をつけるのが既に古い「思想」のあやまりではなかろうか。無理な説明は、しばしばウソのこじつけに終っている事が多い。理論の遊戯はもうたくさんだ。概念のすべてが言い尽されて来たじゃないか。僕がこの健康道場にはいったのには、だから何も理由なんか無いと言いたい。或る日、或る時、聖霊が胸に忍び込み、涙がほおを洗い流れて、そうしてひとりでずいぶん泣いて、そのうちに、すっとからだが軽くなり、頭脳が涼しく透明になった感じで、その時から僕は、ちがう男になったのだ。それまで隠していたのだが、僕はすぐに、
喀血かっけつした。」
 とお母さんに言って、お父さんは、僕のためにこの山腹の健康道場を選んでくれた。本当にもう、それだけの事だ。或る日、或る時とは、どんな事か。それは君にもおわかりだろう。あの日だよ。あの日の正午だよ。ほとんど奇蹟きせきの、天来の御声みこえに泣いておわびを申し上げたあの時だよ。
 あの日以来、僕は何だか、新造の大きい船にでも乗せられているような気持だ。この船はいったいどこへ行くのか。それは僕にもわからない。いまだ、まるで夢見心地だ。船は、するする岸を離れる。この航路は、世界のだれも経験した事のない全く新しい処女航路らしい、という事だけは、おぼろげながら予感できるが、しかし、いまのところ、ただ新しい大きな船の出迎えを受けて、天の潮路のまにまに素直に進んでいるという具合いなのだ。
 しかし、君、誤解してはいけない。僕は決して、絶望の末の虚無みたいなものになっているわけではない。船の出帆は、それはどんな性質な出帆であっても、必ず何かしらのかすかな期待を感じさせるものだ。それは大昔から変りのない人間性の一つだ。君はギリシャ神話のパンドラのはこという物語をご存じだろう。あけてはならぬ匣をあけたばかりに、病苦、悲哀、嫉妬しっと貪慾どんよく猜疑さいぎ陰険いんけん、飢餓、憎悪ぞうおなど、あらゆる不吉の虫がい出し、空をおおってぶんぶん飛びまわり、それ以来、人間は永遠に不幸にもだえなければならなくなったが、しかし、その匣のすみに、けし粒ほどの小さい光る石が残っていて、その石に幽かに「希望」という字が書かれていたという話。


 それはもう大昔からきまっているのだ。人間には絶望という事はあり得ない。人間は、しばしば希望にあざむかれるが、しかし、また「絶望」という観念にも同様にあざむかれる事がある。正直に言う事にしよう。人間は不幸のどん底につき落され、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷いちるの希望の糸を手さぐりで捜し当てているものだ。それはもうパンドラの匣以来、オリムポスの神々にっても規定せられている事実だ。楽観論やら悲観論やら、肩をそびやかして何やら演説して、ことさらに気勢を示している人たちを岸に残して、僕たちの新時代の船は、一足おさきにするすると進んで行く。何の渋滞も無いのだ。それはまるで植物のつるが延びるみたいに、意識を超越した天然の向日性に似ている。
 本当にもうこれからは、やたらに人を非国民あつかいにして責めつけるような気取ったものの言い方などはやめにしましょう。この不幸な世の中を、ただいっそう陰鬱いんうつにするだけの事だ。他人を責めるひとほど陰で悪い事をしているものではないのか。こんどまた戦争に負けたからと言って、大いそぎで一時のがれのごまかしを捏造ねつぞうして、ちょっとうまい事をしようとたくらんでいる政治家など無ければ幸いだが、そんな浅墓あさはかな言いつくろいが日本をだめにして来たのだから、これからは本当に、気をつけてもらいたい。二度とあんな事を繰り返したら世界中の鼻つまみになるかも知れぬ。ホラなんか吹かずに、もっとさっぱりと単純な人になりましょう。新造の船は、もう既に海洋にすべり出ているのだ。
 そりゃ僕だって、いままでずいぶんつらい思いをして来たのです。君もご存じのとおり、僕は昨年の春、中学校を卒業と同時に高熱を発して肺炎を起し、三箇月も寝込んでそのために高等学校への受験も出来ず、どうやら起きて歩けるようになってからも、微熱が続いて、医者から肋膜ろくまくの疑いがあると言われて、家でぶらぶら遊んで暮しているうちに、ことしの受験期も過ぎてしまって、僕はそのころから、上級の学校へ行く気も無くなり、そんならどうするのか、となると眼の先がまっくらで、家でただ遊んでいるのもお父さんに申しわけがなく、またお母さんに対しても、ていさいの悪いこと並たいていではなく、君には浪人の経験が無いからわからないかも知れないが、あれは全くつらい地獄だ。僕はあの頃、ただもうやたらに畑の草むしりばかりやっていた。そんな、お百姓の真似まねをする事で、わずかにお体裁を取りつくろっていた次第なのだ。ご承知のように、僕の家の裏には百坪ほどの畑がある。これは、ずっと前から、どうしたわけか僕の名前で登記されているらしいのだ。そのせいばかりでもないけれども、僕はこの畑の中に一歩足を踏みいれると、周囲の圧迫からちょっとのがれたような気楽さを覚えるのだ。この一、二年、僕はこの畑の主任みたいなものになってしまっていた。草をむしり、また、からだにさわらぬ程度で、土を打ちかえし、トマトに添木を作ってやったり、まあ、こんな事でも少しは食料増産のお手伝いにはなるだろうと、その日その日をごまかして生きていたのだけれども、けれども、君、どうしてもごまかし切れぬ一塊の黒雲のような不安が胸の奥底にこびりついていて離れないのだ。こんな事をして暮して、いったい僕はこれから、どんな身の上になるのだろう。なんの事はない、てもなく癈人はいじんじゃないか。そう思うと、呆然ぼうぜんとする。どうしてよいか、まるで見当も何もつかなくなるのだ。そうして、こんなだらし無い自分の生きているという事が、ただ人に迷惑をかけるばかりで、全然無意味だと思うと、なんとも、つらくてかなわなかったのだ。君のような秀才にはわかるまいが、「自分の生きている事が、人に迷惑をかける。僕は余計者だ。」という意識ほどつらい思いは世の中に無い。


 けれども君、僕がこんな甘ったれた古くさい薄のろの悩みを続けているうちにも、世界の風車はクルクルと眼にとまらぬ早さでまわっていたのだ。欧洲おうしゅうに於いてはナチスの全滅、東洋に於いては比島決戦についで沖縄おきなわ決戦、米機の日本内地爆撃、僕には兵隊の作戦の事などほとんど何もわからぬが、しかし、僕には若い敏感なアンテナがある。このアンテナは信頼できる。一国の憂鬱ゆううつ、危機、すぐにこのアンテナは、ぴりりと感ずる。理窟りくつは無いんだ。勘だけなんだ。ことしの初夏の頃から、僕のこの若いアンテナは、つてなかったほどの大きな海嘯かいしょうの音を感知し、震えた。けれども僕には何の策も無い。ただ、あわてるばかりだ。僕は滅茶苦茶めちゃくちゃに畑の仕事に精出した。暑い日射ひざしの下で、うんうんうなりながら重いくわを振り廻して畑の土を掘りかえし、そうして甘藷かんしょの蔓を植えつけるのである。なんだって毎日、あんなにはげしく畑の仕事を続けたのか、僕には今もってよくわからない。自分のやくざなからだが、うらめしくて、思い切りこっぴどく痛めつけてやろうという、少しやけくそに似た気持もあったようで、死ね! 死んでしまえ! 死ね! 死んでしまえ! と鍬を打ちおろす度毎たびごとに低くうめくように言い続けていた日もあった。僕は甘藷の蔓を六百本植えた。
「畑の仕事も、もういい加減によすんだね。お前のからだには少し無理だよ。」と夕食の時にお父さんに言われて、それから三日目の深夜、夢うつつのうちに、こんこんとき込んで、そのうちに、ごろごろと、何か、胸の中で鳴るものがある。ああ、いけない、とすぐに気附きづいて、はっきり眼が覚めた。喀血の前に、胸がごろごろ鳴るという事を僕は、或る本で読んで知っていたのだ。腹這いになった途端に、ぐっと来た。口の中に一ぱい、生臭いにおいのものを含みながら、僕は便所へ小走りに走った。やはり血だった。便所にながいこと立っていたが、それ以上は血が出なかった。僕は忍び足で台所へ行き、塩水でうがいをして、それから顔も手も洗って寝床へ帰った。せきの出ないように息をつめるようにして静かに寝ていて、僕は不思議なくらい平気だった。こんな夜を、僕はずっと前から待っていたのだというような気さえした。本望、という言葉さえ思い浮んだ。明日もまた、黙って畑の仕事を続けよう。仕方がないのである。ほかに生きがいの無い人間なのである。ぶんを知らなければいけない。ああ、本当に僕なんか一日も早く死んでしまったほうがいいのだ。いまのうちに、うんと自分のからだをこき使って、そうしてわずかでも食料の増産に役立ち、あとはもうこの世からおさらばして、お国の負担を軽くしてあげたほうがよい。それが僕のような、やくざな病人のせめてもの御奉公の道だ。ああ、早く死にたい。
 そうしてあくる朝は、いつもより一時間以上も早く起きて、さっさと蒲団ふとんを畳んで、ごはんも食べずに畑に出てしまった。そうして滅茶苦茶に畑仕事をした。今から思うと、まるで地獄の夢のようだ。僕は勿論、この病気の事は死ぬまで誰にも告白せずにいるつもりだった。誰にも知らせずに、こっそりぐんぐん病気を悪化させてしまうつもりであった。こんな気持をこそ、堕落思想というのだろうね。僕はその夜、お勝手に忍び込んで、配給の焼酎しょうちゅうをお茶碗ちゃわんで一ぱい飲みほしちゃったよ。そうして、深夜、僕はまた喀血をした。ふと眼覚めて、二つ三つ軽く咳をしたら、ぐっと来た。こんどは便所まで走って行くひまも無かった。硝子戸ガラスどをあけて、はだしで庭へ飛び降りて吐いた。ぐいぐいとのどからいくらでも込み上げて来て、眼からも耳からも血が噴き出ているような感じがした。コップに二杯くらいも吐いたろうか、血がとまった。僕は血で汚れた土を棒切れで掘り返して、わからないようにした、とたんに空襲警報である。思えば、あれが日本の、いや世界の最後の夜間空襲だったのだ。朦朧もうろうとした気持で、防空壕ぼうくうごうから這い出たら、あの八月十五日の朝が白々と明けていた。

 

 でも僕は、その日もやっぱり畑に出たのだ。それを聞いては、流石さすがに君も苦笑するだろう。しかし君、僕にとっては笑い事じゃ無かった。本当にもうそれより以外に僕の執るべき態度は無いような気がしていたのだ。どうにも他に仕様が無かった。さんざ思い迷った揚句あげくの果に、お百姓として死んで行こうと覚悟をきめた筈ではないか。自分の手で耕した畑に、お百姓の姿で倒れて死ぬのは本望だ。えい、何でもかまわぬ早く死にたい。目まいと、悪寒おかんと、ねっとりした冷い汗とで苦しいのを通り越してもう気が遠くなりそうで、豆畑の茂みの中に仰向に寝ころんだ時、お母さんが呼びに来た。早く手と足を洗ってお父さんの居間にいらっしゃいという。いつも微笑ほほえみながらものを言うお母さんは、別人のように厳粛な顔つきをしていた。
 お父さんの居間のラジオの前にすわらされて、そうして、正午、僕は天来の御声に泣いて、涙が頬を洗い流れ、不思議な光がからだに射し込み、まるで違う世界に足を踏みいれたような、あるいは何だかゆらゆら大きい船にでも乗せられたような感じで、ふと気がついてみるともう、昔の僕ではなかった。
 まさか僕は、死生一如しせいいちにょの悟りをひらいたなどと自惚うぬぼれてはいないが、しかし、死ぬも生きるも同じ様なものじゃないか。どっちにしたって同じ様につらいんだ。無理に死をいそぐ人には気取屋が多い。僕のこれまでの苦しさも、自分のおていさいを飾ろうとする苦労にすぎなかった。古い気取りはよそうじゃないか。君の手紙の中に「悲痛な決意」などという言葉があったけれども、悲痛なんてのは今の僕には、何だか安芝居の色男役者の表情みたいに思われる。悲痛どころではあるまい。それはもう既に、ウソの表情だ。船は、するする岸壁から離れたのだ。そして船の出帆には、必ず何かしらの幽かな希望がある筈だ。僕はもう、しょげてはいない。胸の病気も気にしていない。君からあんな、同情の言葉に満ちた手紙をもらって、僕は実際まごついた。僕はいまは何も思わず、ただこの船に身をゆだねて行くつもりだ。僕はあの日、すぐにお母さんに打明けた。自分でも不思議なくらい平静な態度で打明けた。
「僕、ゆうべ喀血しました。その前の晩も、喀血しました。」
 何の理由も無かった。急に命が惜しくなったというわけでも無い。ただ、きのうまでの無理な気取りが消えただけだ。
 お父さんは僕のためにこの「健康道場」を選んでくれた。ご承知のように、僕のお父さんは数学の教授だ。数字の計算は上手かも知れないが、お金のお勘定なんてのは一度もした事がないらしい。いつも貧乏なのだから、僕もぜいたくな療養生活など望んではいけない。この簡素な「健康道場」は、その点だけでも、まったく僕に似合っている。僕には、なんの不平も無い。僕は、六箇月で全快するそうだ。あれから一度も喀血しない。血痰けったんさえ出ない。病気の事なんか忘れてしまった。この「病気を忘れる」という事が、全快の早道だと、ここの場長さんが言っていた。少し変ったところのある人だ。何せ、結核療養の病院に、健康道場などという名前をつけて、戦争中の食料不足や薬品不足に対処して、特殊な闘病法を発明し、たくさんの入院患者を激励して来た人なのだから。とにかく変った病院だよ。とても面白い事ばかり、山ほどあるんだけど、まあこの次にゆっくりお話しましょう。
 僕の事に就いては、本当に何もご心配なさらぬように。では、そちらもお大事に。

昭和二十年八月二十五日

 

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