記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#204「パンドラの匣」九

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【冒頭】

一昨日は、どうも、つくし殿の名文に圧倒され、ペンが震えて文字が書けなくなり、尻切とんぼのお手紙になって失礼しました。

【結句】

マア坊の夢は悪い夢で、早く忘れてしまいたいが、竹さんの夢は、もしこれが夢であったら、永遠に()めずにいてくれるといい。
のろけなんかじゃあ、ないんだよ。 
 十月七日
 

パンドラの匣」について

新潮文庫パンドラの匣』所収。
・昭和20年11月9日頃に脱稿。
・昭和20年10月22日付「河北新報」と「東奥日報」に連載開始。「東奥日報」は10月29日付「パンドラの匣」第八回で連載中断。「河北新報」は翌21年1月7日付まで、64回連載、完結。


パンドラの匣 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)  

 

試煉しれん




 一昨日は、どうも、つくし殿の名文に圧倒され、ペンが震えて字が書けなくなり、尻切しりきれとんぼのお手紙になって失礼しました。あの日、夕食後に僕が、あの手紙を読んで呆然ぼうぜんとしていたら、マア坊が、廊下の窓から、ちらと顔をのぞかせて、「読んだ?」とでもいうような無言のお伺いの眼つきをして見せたので、僕は、軽く首肯うなずいてやった。すると、マア坊も、真面目まじめにこっくり首肯いた。ひどく、あの手紙を気にしているらしい。西脇さんも罪な人だと僕はその時、へんな義憤みたいなものを感じた。そうして、僕はマア坊をたまらなく、いじらしく思った。白状すると、僕はその時以来、あらたにまた、マア坊に新鮮な魅力を感じたのだ。鈍感な男ではなくなったというわけだ。いつのまにやら、そうなっていた。どうも秋は、いけない。なるほど、秋は、かなしいものだ。笑っちゃいけない。まじめなのだ。
 全部、話そう。あの、大掃除のあくる日、マア坊が朝の八時の摩擦に、金盥かなだらいをかかえてひょいと部屋の戸口にあらわれ、そうして笑いをみ殺しているような表情で、まっすぐに僕のところへ来た。こんなに早くマア坊が僕の番にまわって来るとは思いがけなかった事なので、僕はほとんど無意識に、
「よかったね。」と小声で言ってしまった。うれしかったのだ。
「いい加減言ってる。」マア坊はうるさそうに言って、そうして、さっさと僕の摩擦に取りかかり、「けさは竹さんの番だったのよ。竹さんにほかの御用が出来たから、あたしが代ったの。わるい?」ひどく、あっさりした口調である。僕には、それが少し不満だったので、何も答えず、黙っていた。マア坊も黙っている。次第に息ぐるしく、窮屈になって来た。この道場へ来た当座も、僕はマア坊の摩擦の時には、妙に緊張して具合いの悪い思いをしたものだが、ふたたびあの緊張感がよみがえって来て、どうも、窮屈でかなわなかった。摩擦が、すんだ。
「ありがとう。」僕は寝呆ねぼけ声で言った。
「手紙、かえして!」マア坊は、小声で、けれども鋭くささやいた。
枕元まくらもとの引出しにある。」僕は仰向に寝たまま顔をしかめて言った。あきらかに僕は不機嫌ふきげんだった。
「いいわ、お昼食がすんだら、洗面所へちょっといらっしゃらない? その時かえして。」
 そう言いて僕の返辞も待たず、さっさと引き上げて行った。
 不思議なくらいよそよそしかった。こっちがちょっと親切にしてあげると、すぐにあんなに、つんけんする。よろしい、それならば、僕にも考えがある。思い切り、こっぴどく、やっつけてやろう、と僕は覚悟して、お昼の休憩時間を待った。
 お昼ごはんは、竹さんが持って来た。おぜんすみに竹細工の小さい人形が置かれてある。顔を挙げて竹さんに、これは? と眼で尋ねたら、竹さんは、顔をしかめてはげしくイヤイヤをして、だれにも言うな、というような身振りをした。僕は浮かぬ顔をして、うなずいた。全く、不可解であった。


「けさ、道場の急用で、まちへ行って来たのや。」と竹さんは普通の音声で言った。
「お土産か。」と僕は、なぜだか、がっかりしたような気持で、元気の無い尋ね方をした。
可愛かわいいやろ? 藤娘ふじむすめや。しまっとき。」と姉のような、おとなびた口調で言って立ち去った。
 僕は、ぽかんとした気持だった。少しもうれしくない。人の好意には素直に感奮すべきだと前の日に思いをあらたにした矢先ではあったが、どういうものか、僕には竹さんのこんな好意は有り難くない。それは僕が、この道場に来た当初から変らずに持ちつづけていた感情で、いまさらどうにも動かしがたいのだ。竹さんは、助手の組長で、そうして道場の皆に信頼されている立派な人なのだから、もっと、しっかりしなければならぬ。マア坊なんかとは、わけが違うのだ。こんな、つまらぬ人形なんかを買って来て、藤娘や、可愛いやろ? もないもんだ。
 僕は、ごはんを食べながら、つくづくとお膳の隅の、その藤娘と称する二寸ばかりの高さの竹細工の人形をながめたが、見れば見るほど、まずい人形だった。どうも趣味がわるい。これは駅の売店ほこりをかぶってたなざらしになっていたしろものに違いない。気のいい人は、必ず買い物が下手なものだが、竹さんも、どうやら、ごたぶんにもれぬほうらしい。ちょっと不良じみたマア坊なんかのほうが、ずっと気のきいた買い物をする。仕方の無いものだ。僕は、竹細工の始末に窮した。つっかえしてやろうかとさえ思ったが、前の日に、すみれの花くらいのあわれな誇りをこそ大事にいたわってやらなければ、などと殊勝な覚悟をめた手前もあり、しょんぼりした気持で、その土産はひとまずベッドの引出しにしまい込んで置く事にした。けれども、竹さんの事をあまり書くと、君がまた熱をあげるといけないから、これくらいにして置いて、さて、そのお昼ごはんの後に、僕はとにかくマア坊のお指図どおりに、洗面所へ行ってみた。マア坊は、洗面所の一ばん奥の壁にぴったり背中をつけてこちら向きに立って、くすくす笑っていた。僕はちらと不愉快なものを感じた。
「君は、時々こんな事をするんだろう。」と、自分にも意外な言葉が出た。
「え? どうして?」と、少し笑いながら眼をまんまるくして僕の顔を見上げた。僕は、まぶしかった。
「塾生を時々ここへ、」ひっぱり込んで、と言いかけたのだが、流石さすがにそれはひどく下品な言葉のように思われたから、口ごもった。
「そう? そんなら、よしましょう。」と軽く言って、お辞儀するように上体を前にこごめて歩きかけた。
「手紙を持って来たよ。」僕は手紙を差出した。
「ありがとう。」とちっとも笑わずに受取って、「ひばりも、やっぱり、だめね。」
「なぜ、だめなんだ。」僕のほうが受け身になった。
「あたしを、そんな女だと思っていたのね。ひばり、」と顔をあおくして僕の顔をまっすぐに見て、「恥ずかしくない?」
「恥ずかしい。」僕は、あっさりかぶとを脱いだ。「やいたんだ。」
 マア坊は、金歯を光らせて笑った。


「僕、その手紙を読んだよ。」大いにとっちめてやるつもりであったのだが、竹さんからつまらぬ藤娘なんてお土産をもらって、出鼻をくじかれ、マア坊に対してうしろめたいものさえ感じて意気があがらず、憂鬱ゆううつにちかい気持でこの洗面所に来てみると、マア坊が、あんまりなまめかしかったので、男子として最も恥ずべきやきもちの心が起り、つい、あらぬ事を口走って、ただちにマア坊に糺明きゅうめいせられ、今は、ほとんど駄目だめになった。
「全部読んだよ。面白かった。つくしって、いいひとだね。僕は、好きになっちゃった。」心にもない、あさはかなお追従ついしょうばかり言っている。
「でも、意外だわ。こんな手紙。」マア坊は仔細しさいらしく首をひねり、便箋びんせんをひらいて眺めた。
「うん、僕もちょっと意外に思った。」僕の場合、あんまり下手で意外だったのだ。
「まったく、意外だわ。」マア坊にとっては、いかにも、重大な事らしい。
「君のほうからも、手紙を出したんだろう。」またもや要らない事を言ってしまって、ひやりとした。
「出したわ。」けろりとしている。
 僕は急に面白くなくなった。
「それじゃ君が誘惑したのだ。君は不良少女みたいだ。そんなのを、オタンチンっていうのだ。ミイチャンハアチャンともいうし、チンピラともいうし、また、トッピンシャンともいうんだ。けしからんじゃないか、君は。」と思い切り罵倒ばとうしてやったが、マア坊はこんどは怒るどころか、げらげら笑い出した。
「まじめに聞いてくれよ。ことに、つくしには奥さんがある。笑い事じゃないんだぜ。」
「だから、奥さんにお礼状を出したの。つくしが道場を出る時、あたしがまちの駅まで送って行って、その時に奥さんから白足袋を二足いただいたから、あたし、奥さんに礼状を出しといたの。」
「それだけか。」
「それだけよ。」
「なあんだ。」僕は、機嫌を直した。「それだけの事だったのか。」
「ええ、そうよ。それなのに、こんなお手紙を寄こすんだもの、いやで、いやで、身悶みもだえしちゃったわ。」
「何も身悶えしなくたって、いいじゃないか。君は、本当は、つくしを好きなんだろう。」
「好きだわ。」
「なあんだ。」僕は、また面白くなくなって来た。「馬鹿にしていやがる。つまらない。奥さんのある人を好きになったって、仕様が無いじゃないか。あれは仲のよさそうな夫婦だったぜ。」
「だって、ひばりを好きになっても仕様が無いでしょう?」
「何を言ってやがる。話が違うよ。」僕はいよいよ不機嫌になった。「君は不真面目だ。僕は何も君に、好きになってもらおうと思ってやしないよ。」
「ばか、ばか。ひばりは、なんにも知らないのよ。なんにも知らないくせに、ひばりなんかは、」と言いかけて、くるりとうしろを向いてヒイと泣き出した。そうして、それこそ身悶えして、
「あっちへ、行って!」と強く言った。



 僕は出処進退に窮した。口をとがらして洗面所をぶらぶら歩いているうちに、何だか、僕も一緒に泣きたくなって来た。
「マア坊。」と呼ぶ僕の声は、ふるえていた。「そんなに、つくしを好きなのか。僕だって、つくしを好きだよ。あれは、やさしい、いい人だったからな。マア坊が、つくしを好きになるのも無理がないと思うんだ。泣け、泣け、うんと泣け。僕も一緒に泣くぜ。」
 どうしてあんな気障きざな事を言ったのだろう。いま考えてみると夢のような気がする。僕は泣こうと思った。しかし、ちょっと眼頭めがしらが熱くなっただけで、涙は一滴も出なかった。僕は眼を大きく※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって、洗面所の窓からテニスコートの黄ばみはじめた銀杏いちょうを黙って眺めていた。
「早く、」いつの間にやらマア坊が、僕のそばにひっそりと立っていて、「お部屋へお帰り。人に見られると、わるいわ。」と気味のわるいほど静かな、落ちついた口調で言った。
「見られたってかまわない。悪い事をしているわけじゃないんだ。」そう言いながら、僕の胸は妙に躍った。
「とんまねえ、ひばりは。」と僕と並んで洗面所の窓からテニスコートのほうを眺めながら、ひとり言のように、「ひばりが来てから、道場も変っちゃったなあ。なんにも知らないでしょう? ひばりのお父さんて、偉いお方ですってね。場長さんが、いつかそうおっしゃってたわ。世界的な学者ですってね。」
「貧乏なので、世界的なのだ。」ひどくさびしくなって来た。お父さんとは、もう二箇月もわない。相変らず、障子が震動するほどの大きな音をたてて鼻をかんでいるであろうか。
「血筋がいいのね。ひばりが来たら、道場が本当に、急にあかるくなったわ。みんなの気持も変ってしまった。あんないい子を見たことが無いって、竹さんも言ってた。竹さんはめったに他人のうわさなんかしないひとなんだけど、ひばりには夢中なのよ。竹さんだけでなく、キントトだって、たまねぎだって、みんなそうなのよ。でも塾生さんたちにいやな噂を立てられて、ひばりに迷惑がかかるような事になるといけないから、みんな気をつけて、ひばりに近寄らないようにしているのよ。」
 僕は苦笑した。けちくさい愛情だと思った。
「そいつぁ、敬遠というものなんだ。好きなんじゃないんだ。」
「あら、あんなこと。」マア坊は僕の背中を軽くたたいて、その手をそのままそっと背中に置いた。「あたしは違うのよ。あたしは、ひばりをちっとも好きでないの。だから、こうして二人きりで話したってかまわないのよ。思い違いしないでね。あたしは、――」
 僕はマア坊の傍からそっと離れ、
「せいぜい、つくしと文通するさ。僕は、はっきり言うけど、つくしの手紙の下手さにはあきれた。」
「知ってるわ。下手な手紙だからお見せしたんじゃないの。いい手紙だったら、だれが見せるもんか。あたしは、つくしの事など、なんとも思ってやしないわ。そんなに人を馬鹿にするもんじゃないわ。」言葉も態度も別人のように露骨で下品になって来た。「あたしはもう、だめなのよ。あなたは知らないでしょう? とんまだから、気がつかないんだ。あたしは、あなたといい仲だって事を、もう、みんなに言われているのよ。どうするの? そう言われてもいいの?」
 顔を伏せて右肩を突き出し、くすくす笑いながらその肩先で僕をぐいぐい押すのである。


「よせ、よせ。」と僕は言った。こんな時には、それより他に言い方が無いものだ。とんでもない事になったと思った。
「困る? どうなの? ね、この上、また恥をかかすの? ゆうべ、お月さまが、あかるくて、眠れなくて、庭へ出て、それから、ひばりの枕元の、カアテンが、少しあいていたので、のぞいてみたの、知ってる? ひばりは、月の光を浴びて、笑いながら、眠ってたわ。あの寝顔、よかったな。ね、ひばり、どうするの?」
 とうとう壁際かべぎわまで押しつけた。僕は、なんだか、ばからしくなって来た。
「無理だよ。どだい無理だよ。僕は二十なんだ。困るんだ。おい、誰か、こっちへ来るぜ。」ぱたぱたと、洗面所のほうへやって来るスリッパの足音が聞こえる。
「だめねえ、そんなんじゃないのよ。」マア坊は僕から離れて、顔を仰向にして髪をき上げ、あははと笑った。顔はお湯からあがり立てみたいに、ぽっと赤かった。
「もう、講話の時間だ。失敬するぜ。僕は、時間におくれるなんて、だらしない事はきらいなんだ。」
 僕は洗面所から走り出た。とたんに、
「竹さんと仲よくしちゃ駄目よ。」とマア坊が、細い声で言った。その声が、一ばん僕の心にしみた。
 どうも、秋は、いけない。
 部屋へ帰ったら、まだ講話は始まらず、かっぽれが、ベッドにひっくりかえって、れいの都々逸どどいつなるものを歌っていた。みちの芝が人に踏まれても朝露によみがえるとかいう意味の、前にも幾度か聞かされた都々逸であるが、その時だけは、いつものような閉口迷惑を感ぜず、素直に耳傾けて拝聴したのだから奇妙なものだ。僕は気が弱くなってしまったのかも知れない。
 やがて講話がはじまり、日支文明の交流という題で、岡木という若い先生が、主として医学の交流に就いて、昔からのいろいろな例証を挙げて具体的にわかりやすく説明して下さった。日本と支那しなとは、いつも互いに教え合って進んで来た国だという事が、いまさらのごとく深く首肯せられ、反省させられるところも多かったが、けれども、それにつけても、僕のきょうの秘密が、どうにも気がかりになって、早くマア坊の事なんか忘れてしまい、以前のような何のくったくも無い模範的な塾生になりたいとつくづく思った。
 いったい、あの、マア坊がいけないのだ。もう少し聡明そうめいな女かと思っていたら、案外な、愚かな女だった。さっき、あんな、思い余ったような素振りをいろいろしてみせたが、あれには、何の意味も無いという事は僕だって知っている。僕には馬鹿な自惚うぬぼれは無い。マア坊はいつも自分の事ばかり考えているのだ。つくしの事も、僕の事も、問題じゃないんだ。ただ、自分の美しさ、あわれさに陶然としていたいのだ。無邪気なふりを装っているけれども、どうしてなかなか虚栄心が強いのだから、誰にも負けたくないだろうし、そうして、ひどい慾張よくばりなんだから、ひとのものは何でも欲しいだろうし、マア坊の策略くらいは僕にだって看破できる。



 マア坊は、あの、つくしの手紙を僕に見せて、やっぱり少し威張りたかったのではあるまいか。けれども僕がその手紙をひどく馬鹿にしているのを、マア坊は敏感に察して、たちまち態度をかえ、泣くやら、押すやら、あらぬ事を口走る結果になったのに違いない。すみれほどの誇りどころか、あのひとの自尊心の高さは、女王さまみたいだ。とても、いたわりきれるものでない。僕とマア坊といい仲だって事をみんなが言いはやしているとか言っていたが、ばかばかしい。僕は今まで、マア坊の事で人から、ひやかされた事は一回も無い。マア坊ひとりが騒いでいるのだ。マア坊には、たしなみのない、本質的な育ちのいやしさがある。本当に、越後えちごの言うように、母親がいけない人だったのかも知れない。落ちついて考えるにしたがって、腹が立って来た。マア坊には、道場の助手としての資格が無いと思った。道場は神聖なところだ。みんな一心に結核征服を念じて朝夕の鍛錬に精進しているところなのだ。もう一度、マア坊があんな露骨な言動を示したならば、僕は断然、組長の竹さんに訴えて、マア坊を道場から追放してもらおうと覚悟した。
 そのように覚悟をきめたら、やっと僕は、さっきの洗面所に於ける悪夢に就いて、そんなに、こだわりを感じないようになった。
 あれは、悪い夢だ。悪い夢は、人生につながりの無いものだ。君を殴った夢を見たって、僕はその翌日、君におわびを言いには行かない。僕はそんな感傷的な宗教家、または詩人の心を持ってはいない。あたらしい男は、ややこしい事は大きらいだ。
 夢には、こだわらぬつもりだが、しかし、その洗面所の悪夢の翌日、つまり、けさの、未明に、僕はもう一つ夢を見た。そうして、これは、いい夢だ。いい夢は、忘れたくない。人生に、何かつながりを持たせたい。これは、是非とも君にも知らせてあげたい。竹さんの夢だ。竹さんは、いい人だね。けさ、つくづくそう思った。あんな人は、めったにいない。君が竹さんに熱を上げるのも無理はないと思った。君は流石さすがに詩人だけあって、勘がいい。眼が高い。偉い。君があまり、竹さんに熱を上げるので、寝込まれたりしても困ると思って、その後、竹さんに就いての御報告を控えめにしていたが、そんな心配は全然不要だという事が、けさ、はっきりわかった。
 竹さんを、どんなに好いても、竹さんはその人を寝込ませたり堕落させたりなんかしない人だ。どうか、竹さんを、もっと、うんと好いてくれ。僕も、君に負けずに竹さんを、もっとうんと信頼するつもりだ。それにつけても、マア坊は馬鹿な女だねえ。竹さんとはまるで逆だ。全くお説の通り、映画女優の出来損いそのものであった。きのう、あれから、マア坊が夜の八時の摩擦に、自分の番でも無いのに「桜の間」にやって来て、あの、お昼の事などはきれいに忘れてしまったように、固パンや、かっぽれを相手にきゃあきゃあ騒ぎ、そのとき、僕の摩擦は竹さんであったが、竹さんはれいの通り、無言でシャッシャッとあざやかな手つきで摩擦して、マア坊たちのつまらぬ冗談にも時々にっこり笑い、マア坊がつかつかと僕たちの傍へやって来て、
「竹さん、手伝いましょうか。」と乱暴な、ふざけた口調で言っても、
「おおきに、」と軽く会釈えしゃくして、「すぐ、すみます。」と澄まして答える。


 僕は、こんな具合いに落ちついて、しゃんとしている竹さんを好きなのである。僕に下手な好意を示したりする時の竹さんは、ぶざまで、見られたものでない。マア坊が、くるりまわれ右してまた固パンのほうへ行った時、僕は、
「マア坊って、きざな人だね。」と小声で竹さんに言った。
しんは、いい子や。」と竹さんは、いつくしむような口調で、ぽつんと答えた。
 やはり竹さんはマア坊より、人間としての格が上かな? とその時ひそかに思った。竹さんは、さっさと摩擦をすませて、金盥をかかえ、隣りの「白鳥の間」へ摩擦の応援に出かけて、そのあとへ、マア坊がにやにや笑ってまたもや僕のベッドを訪れ、小さい声で、
「竹さんに、何か言った。たしかに言った。あたしは、知ってる。」
「きざな子だって言ったんだ。」
「意地わる! どうせ、そうよ。」案外、怒らぬ。「ね、あれ、持ってる?」両手の指で四角の形を作って見せる。
「ケースかい?」
「うん。どこに、しまってあるの?」
「そのへんの引出しだ。返してもいいぜ。」
「あら、いやだわ。一生、持っててね。お邪魔でしょうけど。」妙に、しんみり言って、それから、いきなり大声で、「やっぱり、ひばりの所から一ばんお月まさがよく見える。かっぽれさん、ちょっと来て! ここで並んでお月さまを拝もうよ。明月や、なんて俳句をよもうよ。いかが?」
 どうも、さわがしい。
 その夜は、そんな事で、格別の異変も無く寝に就いたが、夜明けちかく、ふと眼がさめた。廊下の残置燈ざんちとうの光で部屋はぼんやり明るい。枕元の時計を見ると、五時すこし前だった。外は、まだ、まっくらのようだ。窓から誰かが見ている。マア坊! とすぐ頭にひらめいた。白い顔だ。たしかに笑って、すっと消えた。僕は起きてカアテンをはねのけて見たが、何も無い。へんてこな気持だった。寝呆ねぼけたのかしら。いくらマア坊が滅茶めちゃな女だって、まさか、こんな時間に。僕も案外、ロマンチストだ、と苦笑してベッドにもぐったが、どうにも気になる。しばらくして、遠くの洗面所のほうから、しゃっしゃっというお洗濯せんたくでもしているような水の音がかすかに聞えて来た。
 あれだ! と思った。どういう理由でそう思ったのか、わからない。さっき笑って消えた人は、あれだ。たしかに、あそこに、いま、いるのだ。そう思うと、我慢が出来なくなって、そっと起きて、足音を忍ばせて廊下に出た。
 洗面所には、青いはだかの電球が一つともっている。のぞいて見ると、かすりの着物に白いエプロンをかけて、丸くしゃがみ込んで、竹さんが、洗面所の床板をいていた。手拭てぬぐいをあねさんかぶりにして、大島のアンコに似ていた。振りかえって僕を見て、それでも黙って床板を拭いている。顔がひどくせ細って見えた。道場の人たちはことごとく、まだ、しずかに眠っている。竹さんは、いつもこんなに早く起きて掃除をはじめているのであろうか。僕は、うまく口がきけず、ただ胸をわくわくさせて竹さんの拭き掃除の姿を見ていた。白状するが、僕はこの時、生れてはじめての、おそろしい慾望に懊悩おうのうした。夜の明ける直前のまっくらいやみには、何かただならぬ気配がうごめいているものだ。


 どうも、洗面所は、僕には鬼門である。
「竹さん、さっき、」声が咽喉のどにひっからまる。あえぎ喘ぎ言った。「庭へ出た?」
「いいえ、」振り向いて僕を見て、少し笑い、「ぼんぼん、なにを寝呆けて言ってんのや。ああ、いやらし。裸足はだしやないか。」
 気がついてみると、いかにも僕は、はだしであった。あんまり興奮してやって来たので、草履をはくのを忘れていた。
「気のもめる子やな。足、お拭き。」
 竹さんは立ち上り、流しで雑巾ぞうきんをじゃぶじゃぶ洗い、それからその雑巾を持って僕のそばへ来てしゃがんで、僕の右の足裏も、左の足裏も、きゅっきゅと強くこするようにして拭いてくれた。足だけでなく、僕の心の奥のすみまで綺麗きれいになったような気がした。あの奇妙な、おそろしい慾望も消えていた。僕は、足を拭いてもらいながら竹さんの肩に手を置いて、
「竹さん、これからも、甘えさせてや。」とわざと竹さんみたいな関西なまりで言ってみた。
「おさびしいやろなあ。」と竹さんは少しも笑わず、ひとりごとのように小声で言って、「さ、これ貸したげるさかいな、早く御不浄へ行って来て、おやすみ。」
 竹さんは自分のはいているスリッパを脱いで僕のほうにそろえて差し出した。
「ありがとう。」平気なふうを装ってスリッパをはき、「僕は寝呆けたのかしら。」
「御不浄に起きたのと違うの?」竹さんは、またせっせと床板の拭き掃除をはじめて、おとなびた口調で言った。
「そうなんだけど。」
 まさか、窓の外に女の顔が見えた、なんて馬鹿らしい事は言えない。自分の心が濁っていたから、あんな幻影も見えたのだろう。いやらしい空想に胸をおどらせて、はだしで廊下へ飛び出して来た自分の姿を、あさましく、恥かしく思った。毎日こんな真暗いころに起きて余念なく黙々と拭き掃除している人もあるのに。
 僕は、壁によりかかって、なおもしばらく竹さんの働く姿を眺めて、つくづく人生の厳粛を知らされた。健康とは、こんな姿のものであろうと思った。竹さんのおかげで、僕の胸底の純粋の玉が、さらにさわやかに透明なものになったような気がした。
 君、正直な人っていいものだね。単純な人って、尊いものだね。僕はいままで、竹さんの気のよさを少し軽蔑けいべつしていたが、あれは間違いだった。さすがに君は眼が高い。とても、マア坊なんかとはくらべものにも何も、なるもんじゃない。竹さんの愛情は、人を堕落させない。これは、たいしたものだ。僕もあんな、正しい愛情の人になるつもりだ。僕は一日一日高く飛ぶ。周囲の空気が次第に冷く澄んで来る。
 男児畢生ひっせい危機一髪とやら。あたらしい男は、つねに危所に遊んで、そうして身軽く、くぐり抜け、すり抜けて飛んで行く。
 こうして考えてみると、秋もまた、わるくないようだ。少し肌寒はだざむくて、いい気持。
 マア坊の夢は悪い夢で、早く忘れてしまいたいが、竹さんの夢は、もしこれが夢であったら、永遠にめずにいてくれるといい。
 のろけなんかじゃあ、ないんだよ。
十月七日

 

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