【冒頭】
御返事をありがとう。先日の「嵐の夜の会談」に就いての僕の手紙が、たいへん君の御気に召したようで、うれしいと思っている。
【結句】
もっとも君は、既に、君の周囲に於いて、さらにすぐれた清潔の美果を味っているかも知れないが。
十月二十日
「パンドラの匣」について
・新潮文庫『パンドラの匣』所収。
・昭和20年11月9日頃に脱稿。
・昭和20年10月22日付「河北新報」と「東奥日報」に連載開始。「東奥日報」は10月29日付「パンドラの匣」第八回で連載中断。「河北新報」は翌21年1月7日付まで、64回連載、完結。
全文掲載(「青空文庫」より)
口紅
1
御返事をありがとう。先日の「
選挙と言えば、きょうこの道場に
お隣りの「白鳥の間」には、前から硬骨漢がそろっていて、助手さんたちに人気のある固パンさんなどは、その「白鳥の間」にいたたまらなくなって、こちらの「桜の間」に逃げて来たような
「ひどいじゃありませんか。」とかっぽれは、越後獅子にも賛意を求めた。「人間は、一視同仁ですからね、追放しなくたっていいと思いますがね。人間の本然の愛というものは、どんな場合にだって忘れられるわけのものじゃないんだ。」
越後獅子は黙って
かっぽれは、それに勢いを得て、
「ね、そういうわけのものでしょう? 自由思想ってのは、そんなケチなものである
「でも、お隣りの人たちだって、まさか、本当に追放しようとは思ってないんでしょう? ただ、あの人たちの心意気のほどを皆に示そうとしているんじゃないのかな。」と僕が笑いながら言ったら、
「いや、そんなんじゃない。」とかっぽれは言下に否定して、「どだい、婦人参政権と口紅との間には、致命的な矛盾があるべきわけのものではないと思うんだ。あいつらは、ふだん女にもてねえもんだから、こんな時に、仕返しを仕様とたくらんでいるのに違いない。」と
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そうして、それから、れいの一ばんいいところを言い出し、
「世に大勇と小勇あり、ですからね、あいつらは、小勇というわけのものなんだ。おれの事を、パイパンと言っていやがるんです。かねがね
「待った、待った。」越後獅子はタオルで鼻の頭を
「ひばりに、ですか?」かっぽれは大いに不満の様子である。「失礼ながら、ひばりには荷が重すぎますぜ。お隣りの
「僕が行って来ます。」僕はベッドから降りて、するりとかっぽれの前を通り抜け、同時に、かっぽれから回覧板を取り上げて、部屋を出た。
「白鳥の間」では、「桜の間」の返事を待ちかねていた様子であった。僕がはいって行ったら、八人の
「どうだい、痛快な提案だろう?」
「桜の間の色男たちは弱ったろう。」
「まさか、裏切りやしないだろうな。」
「塾生みんな結束して、場長に孔雀の追放を要求するんだ。あんな孫悟空に、選挙権なんかもったいない。」
などと、口々に言って、ひどくはしゃいでいる。みんな無邪気な、いたずらっ
「僕にやらせてくれませんか。」と僕は
一時、ひっそりしたが、すぐにまた騒ぎ出した。
「出しゃばるな、出しゃばるな。」
「ひばりは、妥協の使者か。」
「桜の間は緊張が足りないぞ。いまは日本が大事な時だぞ。」
「四等国に落ちたのも知らないで、べっぴんの顔を拝んでよだれを流しているんじゃねえか。」
「なんだい、出し抜けに、何をやらせてくれと言うんだい。」
「今晩、就寝の時間までに、」と僕は、背伸びして叫んだ。「お知らせしますから、もしその僕の処置がみなさんの気に入らなかったら、その時には、みなさんの提案にしたがいます。」
又ひっそりとなった。
3
「君は、僕たちの提案に反対なのか。」と、しばらくして、青大将という
「大賛成です。それに就いて僕に、とっても
みんな少し、気抜けがしたようだった。
「よろしいですね。ありがとう。この回覧板は、晩までお借り致します。」僕は素早く部屋を出た。これでいいのだ。むずかしい事は無いんだ。あとは竹さんにたのめばいい。
部屋へ帰って来たら、かっぽれは、
「だめだなあ、ひばりは。おれは、廊下へ出て聞いていたんだ。あんな事じゃ、なんにもならんじゃねえか。キリスト精神と君子豹変のわけでも、どんと一発言ってやればよかったんだ。自由と束縛! と言ってやってもいいんだ。やつら、道理を知らねえのだから、すじみちの立った事を言ってやるのが一ばんなのだ。自由思想は空気と
「晩まで僕に、まかせて置いて下さい。」とだけ言って僕は、自分のベッドに寝ころがった。
さすがに少し疲れたのである。
「まかせろ、まかせろ。」と越後が寝たまま威厳のある声で言ったので、かっぽれもそれ以上は言わずに、しぶしぶ寝てしまった様子である。
僕には別に、計画なんか無いんだ。ただ、この回覧板を竹さんに見せると、竹さんは、いいようにしてくれるだろうと楽観していたのである。二時の屈伸鍛錬のときに、竹さんが部屋の前の廊下を通って、ちょっと僕の方を見たので、僕はすかさず右手で小さく、おいでおいでをした。竹さんは軽く
「何か御用?」と
僕は脚の運動をしながら、
「
竹さんは枕元の回覧板を見て、手に取り上げ、ざっと黙読してから、
「これ、貸してや。」と落ちついた口調で言ってその回覧板を
「あやまちを改むるに、はばかる事なかれだ。早いほうがいい。」
竹さんは何もかも心得顔に、幽かに首肯き、それから枕元の窓のほうに行って、黙って窓の外の景色を
しばらくして、窓の外に向い、
「源さん、御苦労さまやなあ。」と少しも飾らぬ自然の口調で
「お盆すぎにな、」と源さんは窓の下で答える。「いちどむしったのに、またこのように生えて来る。」
僕は、竹さんの「御苦労さまやなあ」という声の響きに
4
そうして僕のその信頼は、僕の予期以上に素晴らしく報いられた。四時の自然の時間に、突如、廊下の拡声機から、
「そのまま、そのままの位置で、気楽にお聞きねがいます。」という事務員の声が聞えて、「かねて問題になって
わあっ、という歓声が隣りの「白鳥の間」から聞えて来た。臨時放送は、さらに続いて、
「きょうの夕食後に、それぞれお化粧を洗い落し、おそくとも今晩七時半の摩擦の時には、アメリカの人たちにへんな誤解をされない程度の簡素なよそおいで、塾生諸君にお目にかかるそうでございます。なお、次に、助手の牧田さんが、一言、塾生諸君におわび申し上げたいそうで、どうか牧田さんのこの純情を
牧田さんというのは、れいの孔雀だ。孔雀は、小さいせきばらいをして、
「私こと、」と言った。
お隣りの部屋から、どっと笑声が起った。僕たちの部屋でも、みんなにやにや笑っている。
「私こと、」こおろぎの鳴くような細い
「よし、よし。」という声が隣りの部屋から聞こえた。
「
「最後に、」と事務の人が引きとり、「これは助手さんたち一同からのお願いでありますが、牧田さんの従来の綽名は、即刻改正していただきたい、との事でございます。きょうの臨時放送は、これだけです。」
「白鳥の間」から、すぐ回覧板が来た。
「一同満足せり。ひばりの労を多とす。孔雀は、私こと、と改名すべし。」
かっぽれは、その綽名の提案にすぐ反対を表明した。「私こと」という綽名をつけるのは、いかになんでも残酷すぎるというのである。
「むごいじゃねえか。あれでも一生懸命で言ったんだぜ。純情を汲み取ってくれって言われたじゃねえか。空飛ぶ鳥を見よ、というわけのものなんだ。一視同仁じゃねえか。人をのろわば穴二つというわけのものになるんだ。おれは絶対反対だ。孔雀がおしろいを落して黒い
このほうが、かえって
「孔雀が簡素になったんだから、孔雀の上の字を一つ省略して
雀も、すこし理に落ちて面白くないが、まあ長老の意見だし、回覧板に、「私こと」は酷に過ぎたり、「雀」など穏当ならん、と僕が書き込んで、かっぽれに持たせてやった。「白鳥の間」には、ほうぼうの部屋から綽名の提案が殺到していたそうであるが、結局、「私こと」に落ちつくかも知れない。どうも、あの時の孔雀の、小さいせきばらいを一つして、さて、「私こと」と言い出したところは、なんとも、よろしくて、忘れられないものだった。「私こと」以外の綽名は、色あせて感ぜられる。
5
七時の摩擦の時には、キントトと、マア坊と、カクランと、竹さんが、それぞれ
「マア坊は、まだ口紅をつけてるようじゃないか。」と僕は小声で竹さんに言ったら、竹さんは、シャッシャッと摩擦をはじめて、
「あれでも、ずいぶん、
「竹さんの働きは、大したものだね。」
「まえに、場長さんからも、幾度となく御注意があったんや。きょうの事務所からの放送を、場長さんもお聞きになって、いい
「僕の発明じゃあないよ。」軍功の
「同じ事や。ひばりが言わなかったら、うちだって、動きとうはない。すき好んで憎まれ役を買うひとなんてあるかいな。」
「憎まれたのかね。」
「ううん。」れいの特徴のある涼しい笑顔で首を振り、「憎まれやしないけどな、うちは、つらかった。」
「孔雀の
「うん。牧田さんな、あのひと自分から挨拶させてと申し込んで来たのや。悪気の無い、いいひとや。お化粧が下手らしいな。うちだって、少しは口紅さしてんのやけど、わからんやろ?」
「なあんだ、同罪か。」
「わからんくらいなら、いいのや。」と平気な顔して、シャッシャッと摩擦をつづける。
女だなあ、と思った。そうして僕は、この道場へ来てはじめて、竹さんを、
どうだい、君。僕は、あらためて君に、当道場の訪問をすすめる。ここには、尊敬するに足る女性がひとりいる。これは、僕のものでもなければ、君のものでもない。これは、日本のいま世界に誇り得る
もっとも君は、既に、君の周囲に於いて、さらにすぐれた清潔の美果を味っているかも知れないが。
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