記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#92「乞食学生」第三回

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【冒頭】

茶店の老婆が、親子どんぶりを一つ、盆に捧げて持って来た。

「食べたら、どうかね。」

少年は、急に顔を真赤にして、「君は?食べないの?」と人が変ったようなおどおどした口調で言って、私の顔を覗き込む。

「僕は、要らない。」私は、出来るだけ自然の風を装って番茶を飲み、池の向うの森を眺めた。

「いただきます。」と少年の、つつましい小さい声が聞えた。

【結句】

神宮通りをすたこら歩いた。葉山家、映画の会は、今夜だという。急がなければならぬ。

「ここです。」少年は立ちどまった。

古い板塀の上から、こぶしの白い花が覗いていた。素人下宿らしい。

「くまもとう!」と少年は、二階の障子に向って叫んだ。

「くまもと、くん。」と私も、いつしか学生になってたつもりで、心易く大声で呼びたてた。

 

「乞食学生 第三回」について

新潮文庫『新ハムレット』所収。

・昭和15年7月24日頃までに脱稿。

・昭和15年9月1日、『若草』九月号に発表。

新ハムレット (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)

       第三回

 茶店の老婆が、親子どんぶりを一つ、ぼんに捧げて持って来た。
「食べたら、どうかね。」
 少年は、急に顔を真赤にして、「君は? 食べないの?」と人が変ったようなおどおどした口調で言って、私の顔をのぞき込む。
「僕は、らない。」私は、出来るだけ自然の風を装って番茶を飲み、池の向うの森を眺めた。
「いただきます。」と少年の、つつましい小さい声が聞えた。
「どうぞ。」と私は、少年をてれさせないように努めて淡泊の返事をして、また、ゆっくりと番茶をすすり、少年の事になど全く無関心であるかのように池の向うの森ばかりを眺めていた。あの森の中には、動物園が在る。きあっと、裂帛れっぱくの悲鳴が聞えた。
孔雀くじゃくだよ。いま鳴いたのは孔雀だよ。」私はそう言って、ちょっと少年のほうを振り向いてみると、少年は、あぐらの中に、どんぶりを置き、顔を伏せて、はしを持った右手の甲で矢鱈やたらに両方の眼をこすっている。泣いている。
 その時には、私は、ただ困った。何事も知らぬ顔して、池のほうへ、そっと視線を返し、自分の心を落ちつかせる為に袂から煙草たばこを取出して一服吸った。
「僕の名はね、」あきらかに泣きじゃくりの声で、少年は、とぎれとぎれに言い出した。「僕の名はね、佐伯さえき五一郎って言うんだよ。覚えて置いてね。僕は、きっと御恩返しをしてやるよ。君は、いい人だね。泣いたりなんかして、僕は、だらしがないなあ。僕はごはんを食べていると、時々むしょうにわびしくなるんだ。悲しい事ばかり、一度にどっと思い出しちゃうんだ。僕の父はね、恥ずかしい商売をしているんだ。田舎の小学校の先生だよ。二十年以上も勤めて、それでも校長になれないんだ。頭が悪いんだよ。息子むすこの僕にさえ、恥ずかしがっているんだよ。生徒も、みんな、ばかにしているんだ。マンケという綽名あだなだよ。だから、僕は、偉くならなくちゃいけないんだ。」
「小学校の先生が、なぜそんなに恥ずかしい商売なんだ。」私は、思わず大声になり、口をとがらせて言った。「僕だって、小説が書けなくなったら、田舎の小学校の先生になろうと思っている。本当に良心をもって、情熱をぶち込める仕事は、この二つしか世の中に無いと思っている。」
「知らないんだよ、君は。」少年の声も、すこし大きくなった。「知らないんだよ。村の金持の子供には、先生のほうから御機嫌をとらなくちゃいけないんだ。校長や、村長との関係も、それや、ややこしいんだぜ。言いたくもねえや。僕は、先生なんていやだ。僕は、本気に勉強したかったんだ。」
「勉強したら、いいじゃないか。」根が、狭量の私は、先刻この少年から受けた侮辱を未だ忘れかねて、やはり意地悪い言いかたをしていた。「さっきの元気は、どうしたんだい。だらしの無い奴だ。男は、泣くものじゃないよ。そら、鼻でもかんで、しゃんとし給え。」私は、やはり池の面を眺めたままで、懐中の一帖の鼻紙を、少年の膝のほうに、ぽんと抛ってやった。
 少年は、くすと笑って、それから素直に鼻をかんで、
「なんと言ったらいいのかなあ。へんな気持なんだよ。親爺おやじを喜ばせようと思って勉強していても、なんだか落ちつかないんだよ。五次方程式が代数的に解けるものだか、どうだか、発散級数の和が、有ろうと無かろうと、今は、そんな迂遠うえんな事をこね廻している時じゃないって、誰かに言われているような気がするのだ。個人の事情を捨てろって、こないだも、上級の生徒に言われたよ。でも、そんな事を言う生徒は、たいてい頭の悪い、不勉強なやつにきまっているんだ。だから、なんだか、へんな気持になっちゃうんだよ。迂遠な学問なんかを、している時じゃ無い。肉体を、ぶっつけて行く練習だけの時代なのかしら。考えると、とても心細くなるんだよ。」
「君はそれを怠惰たいだのいい口実にして、学校をよしちゃったんだな。事大主義というんだよ。大地震でも起って、世界がひっくりかえったら、なんて事ばかり夢想している奴なんだね、君は。」私は、多少いい気持でお説教をはじめた。「たった一日だけの不安を、生涯の不安と、すり変えて騒ぎまわっているのだ。君は秩序のネセシティを信じないかね。ヴァレリイの言葉だけれどもね、」と私は軽く眼をつぶり、あれこれと考えをまとめる振りして、やがて眼をひらき、中々きざな口調で、「法律も制度も風俗も、昔から、ちっとは気のきいた思想家に、いつでも攻撃され、軽蔑されて来たものだ。事実また、それを揶揄やゆ皮肉ひにくるのは、いい気持のものさ。けれども、その皮肉は、どんなに安易な、危険な遊戯であるか知らなければならぬ。なんの責任も無いんだからね。法律、制度、風俗、それがどんなに、くだらなく見えても、それが無いところには、知識も自由も考えられない。大船に乗っていながら、大船の悪口を言っているようなものさ。海に飛び込んだら、死ぬばかりだ。知識も、自由思想も、断じて自然の産物じゃない。自然は自由でもなく自然は知識の味方をするものでもないと言うんだ。知識は、自然と戦って自然を克服し、人為を建設する力だ。謂わば、人工の秩序への努力だ。だから、どうしても、秩序とは、反自然的な企画なんだが、それでも、人は秩序にらなければ、生き伸びて行く事が出来なくなっている、というんだがね。君が時代に素直で、勉強を放擲ほうてきしようとする気持もわかるけれど、秩序の必然性を信じて、静かに勉強を続けて行くのもまた、この際、勇気のある態度じゃないのかね。発散級数の和でも、楕円函数でも、大いに研究するんだね。」私は、やや得意であった。言い終って、少年の方を、ちらと伺って見ると、少年は、私のお説教を半分も聞いていなかったらしく、無心に、ごはんを食べていた。「どうかね。わかったかね。」私は、しつこく賛意を求めた。少年は顔を挙げ、ごはんを呑み込んでから言った。
「ヴァレリイってのは、フランスの人でしょう?」
「そうだ。一流の文明批評家だ。」
「フランスの人だったら、だめだ。」
「なぜ?」
「戦敗国じゃないか。」少年の大きな黒い眼には、もう涙の跡も無く、涼しげに笑っている。「亡国の言辞ですよ。君は、人がいいから、だめだなあ。そいつの言ってる秩序ってのは、古い昔の秩序の事なんだ。古典擁護に違いない。フランスの伝統を誇っているだけなんですよ。うっかり、だまされるところだった。」
「いや、いや、」私は狼狽して、あぐらを組み直した。「そういう事は無い。」
「秩序って言葉は、素晴しいからなあ。」少年は、私の拒否を無視して、どんぶりを片手に持ったまま、ひとりで詠嘆の言葉を発し、うっとりした眼つきをして見せた。「僕は、フランス人の秩序なんて信じないけれど、強い軍隊の秩序だけは信じているんだ。僕には、ぎりぎりに苛酷の秩序が欲しいのだ。うんと自分を、しばってもらいたいのだ。僕たちは、みんな、戦争に行きたくてならないのだよ。生ぬるい自由なんて、飼い殺しと同じだ。何も出来やしないじゃないか。卑屈ひくつになるばかりだ。銃後はややこしくて、むずかしいねえ。」
「何を言ってやがる。君は、一ばん骨の折れるところから、のがれようとしているだけなんだ。千の主張よりも、一つの忍耐。」
「いや、千の知識よりも、一つの行動。」
「そうして君に出来る唯一の行動は、まっぱだかで人喰い川を泳ぐだけのものじゃないか。ぶんを知らなくちゃいけない。」私は、勝ったと思った。
「さっきは、あれは、特別なんだよ。」少年は、大人のような老いた苦笑をもらした。「どうも、ごちそうさま。」と神妙にお辞儀して、どんぶりを傍に片附け、「事情があったんだよ。聞いてくれるかね?」
「言ってみ給え。」騎虎きこの勢である。
「言ってみたって、どうにもならんけど、このごろ僕は、目茶苦茶なんだよ。中学だけは、家のお金で卒業できたのだけれど、あとが続かなかったんだ。貧乏なんだよ。僕は数学を、もっと勉強したかったから、父に無断で高等学校に受けて、はいったんだ。葉山さんを知ってるかい? 葉山圭造。いつか、鉄道の参与官か何かやっていた。代議士だよ。」
「知らないね。」私は、なぜだか、いらいらして来た。どうも私は、人の身の上話を聞く事は、下手である。われに何のかかわりあらんや、という気がして来るのである。黙って聞いているうちに、自分の肩にだんだん不慮の責任がおおいかぶさって来るようで、不安なやら、不愉快なやら、たまらぬのである。その人を、気の毒と思っても、自分には何も出来ぬという興醒めな現実が、はっきりわかっているので、なおさら、いやになるのだ。「代議士なんてのは、知らないね。金持なのかい?」
「まあ、そうだ。」少年は、ひどく落ちついた口調である。「僕の郷土の先輩なんだ。郷土の先輩なんて、可笑おかしなものさ。同じお国なまりがあるだけさ。僕は、その人からお金をもらって、いや、ただもらっていたわけじゃ無いんだ。僕は、教えていたんだ。」
「教えながら教わっていたのかね。」私は、早くこの話を、やめてもらいたかった。少しも興味が無い。
「女学校三年の娘がひとりいるんだ。団子だんごみたいだ。なっちゃいない。」
「ほのかな恋愛かね。」私は、いい加減な事ばかり言っていた。
「ばか言っちゃいけない。」少年は、むきになった。「僕には、プライドがあるんだ。このごろ、だんだんそいつが、僕を小使みたいに扱って来たんだよ。奥さんも、いけないんだがね。とうとう、きのう我慢出来なくなっちゃって、――」
「僕は、つまらないんだよ、そういう話は。世の中の概念でしか無い。歩けば疲れる、という話と同じ事だ。」私は、この少年と共に今まで時を費したのを後悔していた。
「君は、お坊ちゃん育ちだな。人から金をもらう、つらさを知らないんだ。」少年は、負けていなかった。「概念的だっていい。そんな、平凡な苦しさを君は知らないんだ。」
「僕だって、それや知っているつもりだがね。わかり切った事だ。胸にたたんで、言わないだけだ。」
「それじゃ君は、映画の説明が出来るかね?」少年と私とは、先刻から、視線を平行に池の面に放って、並んで坐ったままなのである。
「映画の説明?」
「そうさ。娘が、この春休みに北海道へ旅行に行って、そうして、十六ミリというのかね、北海道の風景を、どっさり撮影して来たというわけさ。おそろしく長いフィルムだ。僕も、ちょっと見せてもらったがね。しどろもどろの実写だよ。こんどそれを葉山さんのサロンで公開するんだそうだ。所謂いわゆる、お友達、を集めてね。ところが、その愚劣な映画の弁士を勤めて、お客の御機嫌を取り結ぶのが、僕の役目なんだそうだ。」
「それあいい。」私は、大声で笑ってしまった。「いいじゃないか。北海道の春は、いまだ浅くして、――」
「本気で言ってるのかね?」少年の声は、怒りに震えているようであった。
 私は、あわてて頬を固くし、真面目な口調に返り、
「僕なら、平気でやってのけるね。自己優越を感じている者だけが、真の道化をやれるんだ。そんな事で憤慨して、制服をたたき売るなんて、意味ないよ。ヒステリズムだ。どうにも仕様がないものだから、川へ飛びこんで泳ぎまわったりして、センチメンタルみたいじゃないか。」
「傍観者は、なんとでも言えるさ。僕には、出来ない。君は、嘘つきだ。」
 私は、むっとした。
「じゃ、これから君は、どうするつもりなんだい。わかり切った事じゃないか。いつまでも、川で泳いでいるつもりなのか。帰るより他は無いんだ。元の生活に帰り給え。僕は忠告する。君は、自分の幼い正義感に甘えているんだ。映画説明を、やるんだね。なんだい、たった一晩の屈辱じゃないか。堂々と、やるがいい。僕が代ってやってもいいくらいだ。」最後の一言がいけなかった。とんでも無い事になったのである。私は少年から、嘘つき、と言われ、奇妙に痛くて逆上し、あらぬ事まで口走り、のっぴきならなくなったのである。
「君に、出来るものか。」少年は、力弱く笑った。
「出来るとも。出来るよ。」とむきになって言い切った。
 それから一時間のち、私は少年と共に、渋谷の神宮通りを歩いていた。ばかばかしい行為である。私は、ことし三十二歳である。自重しなければならぬ。けれども私は、この少年に、口さきばかり、と思われたくないばかりに、こうして共に歩いている。所詮は私も、自分の幼い潔癖に甘えていたのかも知れない。私は自分の不安なの行動に、少年救済という美名を附して、わずかに自分で救われていた。溺れかけている少年を目前に見た時は、よし自分が泳げなくとも、救助に飛び込まなければならぬ。それが市民としての義務だ、と無理矢理自分に思い込ませるように努力していた。全く、単に話の行きがかりから、私は少年の代りに一夜だけ、高等学校の制服制帽で、葉山家に出かけて行かなければならなくなったのである。佐伯五一郎の友人として、きょうは佐伯が病気ゆえ、代りに僕が参りましたと挨拶して、「早春の北海道」というその愚にもつかぬ映画を面白おかしく説明しなければならなくなった。
 私には、もとより制服も制帽も無い。佐伯にも無い。きのう迄は、あったんだけれど、靴もろとも売ってしまったというのである。借りに行かなければならぬ。佐伯は私の実行力を疑い、この企画に躊躇ちゅうちょしていたようであったが、私は、少年の逡巡しゅんじゅんの様を見て、かえってたけりたち、佐伯の手を引かんばかりにして井の頭の茶店を立ち出で、途中三鷹の私の家に寄って素早くひげり大いに若がえって、こんどは可成りの額の小遣銭こづかいせんを懐中して、さて、君の友人はどこにいるか、制服制帽を貸してくれるような親しい友人はいないか、と少年に問い、渋谷に、ひとりいるという答を得て、ただちに吉祥寺駅から、帝都電鉄に乗り、渋谷に着いた。私は少し狂っていたようである。
 神宮通りをすたこら歩いた。葉山家、映画の会は、今夜だという。急がなければならぬ。
「ここです。」少年は立ちどまった。
 古い板塀の上から、こぶしの白い花が覗いていた。素人しろうと下宿らしい。
「くまもとう!」と少年は、二階の障子しょうじに向って叫んだ。
「くまもと、くん。」と私も、いつしか学生になったつもりで、心易く大声で呼びたてた。

 

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