記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#150「右大臣実朝」二

f:id:shige97:20181210205824j:plain

【冒頭】

下々の口さがない人たちは、やれ尼御台(あまみだい)が専横の、執権相模守義時が陰険のと騒ぎ立てていた事もあったようでございますが、私たちの見たところでは、尼御台さまも相州さまも、それこそ竹を割ったようなさっぱりした御気性のお方でした。

【結句】

皇子さまの御治績こそ日本国の政治の永久の模範、ともおっしゃって居られましたが、御自身の御政策とも思い合せ、将来に於いてさまざま期するところがございましたのでしょうけれども、あのような不運な御最期、たった二十八歳、これからというお年でおなくなりになられたのでございますから、まことに、源家の損失と申すよりは日本国の大きな損失と申し上げて至当かとも存ぜられます。

 

「右大臣実朝」について

新潮文庫『惜別』所収。

・昭和18年3月末に脱稿。

・昭和18年9月25日、書下ろし中編小説『右大臣実朝』を、「新日本文藝叢書」の一冊として錦城出版社から刊行。

惜別 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)

 

承元三年己巳。五月大。十二日、甲辰、和田左衛門尉義盛、上総の国司に挙任せらる可きの由、内々之を望み申す、将軍家、尼御台所の御方に申合せらるるの処、故将軍の御時、侍の受領に於ては、停止す可きの由、其沙汰訖んぬ、仍つて此の如き類、聴されざる例を始めらるるの条、女性の口入に足らざるの旨、御返事有るの間、左右する能はずと云々。
同年。十一月大。四日、甲午、小御所東面の小庭に於て、和田新左衛門尉常盛以下の壮士等切的を射る、是弓馬の事は、思食し棄てらる可からざるの由、相州諫め申すに依りて、興行せらるる所なり、故に勝負有る可しと云々。五日、乙未、相模国大庭御厨の内に、大日堂有り、本尊殊に霊仏なり、故将軍の御帰依等閑ならず、而るに近年破壊の由聞食し及ばるるに就いて、雑色を召し、修造を加ふ可きの旨、今日相州に仰せらると云々。七日、丁酉、去る四日の弓の勝負の事、負方の衆所課物を献ず、仍つて営中御酒宴乱舞に及び、公私逸興を催す、以其次、武芸を事と為し、朝廷を警衛せしめ給はば、関東長久の基たる可きの由、相州、大官令等諷詞を尽さると云々。十四日、甲辰、相州年来の郎従の中、有功の者を以て、侍に准ず可きの由、仰下さる可きの由、之を望み申さる、内々其沙汰有りて、御許容無し、其事を聴さるるに於ては、然る如きの輩、子孫に及ぶの時、定めて以往の由緒を忘れ、誤りて幕府に参昇を企てんか、後難を招く可きの因縁なり、永く御免有る可からざるの趣、厳密に仰出さると云々。
同年、同月。廿七日、丁巳、和田左衛門尉義盛、上総の国司所望の事、内々御計の事有り、暫く左右を待ち奉る可きの由仰を蒙り、殊に抃悦すと云々。

 下々の口さがない人たちは、やれ尼御台が専横の、執権相模守義時が陰険のと騒ぎ立ててゐた事もあつたやうでございますが、私たちの見たところでは、尼御台さまも相州さまも、それこそ竹を割つたやうなさつぱりした御気性のお方でした。づけづけ思ふとほりの事をおつしやつて、裏も表も何もなく、さうして後はからりとして、目下のものを叱りながらもめんだうを見て下さつてさうして恩に着せるやうな勿体を附ける事もなく、あれは北条家にお生れになつたお方たちの特徴かも知れませぬが、御性格にコツンと固い几帳面なところがございまして、むだな事は大のおきらひ、隅々までお目がとどいて、そんなところだけは、ふざけたい盛りの当時の私たちにとつて、ちよつとけむつたいところでございました。さうして、それから、どうもこれは申し上げにくい事でございますが、思ひ切つて申し上げるならば、下品でした。私どもには、このやうな事をかれこれ申し上げる資格も何も無いのはもちろんの事で、私だつて当時は、ひとかたならず尼御台さまや相州さまの御世話になり、甘えて育つて来たのでございますから、本当に、こんな事を申し上げては私の口が腐る思ひが致しますけれども、どうも、北条家のお方たちには、どこやら、ちらと、なんとも言へぬ下品な匂ひがございました。さうして、そのなんだかいやな悪臭が少しづつ陰気な影を生じて来て、後年のいろいろの悲惨の基になつたやうな気も致します。いいえ、決して悪いお方たちではございません。まじめな、いいお方たちばかりでございました。二心なく将軍家にお仕へ申して居られまして、将軍家との間も極めて御円満の御様子に見受けられました。あの、和田左衛門尉さまの上総の国司所望の事から、将軍家と尼御台さまが御争論をなされ、いよいよお二人の間が気まづくなつてしまつて、これがまた将軍家の孤独、厭世の思ひを深める原因となつた等と、もつともらしく取沙汰してみた人たちも少くなかつたやうで、もとより之は根も葉もない事ではなかつたのですが、でも、御争論などとは、とんでもない捏造で、あのやうな貴い御身分のお方たちが、それも実の御母子の間で、そんな軽々しい争論など、なさるわけのものではございません。おそらく一生、お二人の間にそんな争論などといふいやしい事はなかつたでございませう。あれは、五月のなかば、いいお天気の日でございましたが、尼御台さまは御奥へお越しなされて、将軍家と静かに御物語をなされ、私も謹んでお傍に控へて居りましたが、まことにのどかな、合掌したいくらゐの御立派な御賢母と御孝子、仕へるわが身のさいはひをしみじみ思ひ知りました。

和田ガ上総ノ国司ヲ望ンデヰマスガ

「いけませぬ。」
 尼御台さまは軽く即座におつしやいました。けれどもそのお口元には、いかにも、お若い将軍家がお可愛くてならぬといふやうな優しい笑みをたたへていらつしやいました。

和田モ老イマシタカラ

 将軍家は老忠臣の和田左衛門尉さまを、それまでも何かとごひいきになさつて居られました。殊にも先年、やはり内々ごひいきだつた畠山の御一族を心ならずも失ひなされてからは、この唯一の生きのこりの大功臣をいよいよ大事においたはりなされ、このたびの上総の国司所望の事もなるべくは御許容なされたいやうな御様子が私たちにさへほの見えてゐたのでございます。その日、尼御台さまと、よもやまのお話のついでに、ふいとその事にお触れなさつたのでございますが、尼御台さまは、将軍家のそのやうなお心もちやんとお察しになつて居られたらしく、微笑んで、いいえ、やつぱりいけませぬ、故右大将の御時、すでに侍の受領は許さぬ方針に決して居りますから、と故右大将家の御先例をおだやかにお聞かせ申されたところが、将軍家には幾度もまじめに御首肯なされて、それから尼御台さまにあらたまつて御礼を申して居られました。
「いいえ、しかし、」尼御台さまには、そのやうに素直な将軍家を、おいとしくてならぬのでございませう、将軍家のお気をお引きたてなさるやうに殊更に高くお笑ひになつて、「御父君は御父君、和子には和子の流儀もあらうに、ま、それからさきは女子の差出口など無用になされ。」とおつしやいましたが、これがなんであの、御争論なものか、お二人お力を合せて故右大将家の御先例をさぐり、之に違ふこと無からんやうにお心を用ゐさせられ、ひたすら御善政にお努めになつて居られる証拠にこそはなれ、お仲がまづくなつてそのために将軍家の厭世のもとなど、なんといふたはけたせんさく、いや、つい興奮のあまり口汚くなりまして恥づかしうございますが、一事が万事、相州さまとのお仲も、俗世間の取沙汰のやうに、へんな重苦しい険悪なところなど少しも私には見受けられませんでした。貴い、謂はば霊感に満ちた将軍家と、あのさつぱりした御気性の上に思慮分別も充分の相州さまとの間に、まさか愚かな対立など起る道理はございませぬ。それはお二人の間に時々は御意見の相違が起ることも無いわけではございませんでしたが、いづれも、これから何百年経つてまたこの国にあらはれるかどうかと思はれるくらゐのづば抜けた御手腕の人物同志の事でございますから、俗にいふ呑み込みのお早いこと、颯つと御自分を豹変なされてあつさり笑つてうなづき合ふ御様子は、傍で拝見してゐて子供心にも爽快な感じが致しました。世間の愚かな男同志のいつまでも、くどくどと言ひ争つてはては殴るの切るのとあさましく騒ぎたてる有様と較べて、まるでそれこそ雲泥の差がございました。十一月の四日に、御ところのお庭に於いて弓の大試合がございましたけれど、これは相州さまがたつた一言、お歌も結構ですが、とおつしやつたところが将軍家はすぐに、弓の試合を仰出され、相州さまはかしこまつてそのお支度におとりかかりになつたといふだけの事でしたのに、これをまた例の如く悪推量する者があつて、将軍家が相州さまからきつく諫言されてしぶしぶ弓の試合を仰出されたといふ噂が一部に行はれたやうでございました。本当に、御当人同志はなんでもないのに、はたでわいわいあらぬことを騒ぎ立てるので、つい妙な結果になつてしまふ事がこの世にはままあるものでございます。弓の試合は将軍家も心から楽しさうに御覧になつて居られました。その翌る日、相州さまは御奥へおいでなされて、将軍家に昨日の御礼を申し上げ、いかがでございました、と少し笑ひながらお伺ひ申し上げたところが、

弓ノ勝負モ結構デスガ

 と将軍家もお笑ひになりながら昨日の相州さまの一言をそつくり真似ておつしやつて、それから、故右大将家の御帰依浅からざりし相模国の大日堂がひどく荒れはててゐるやうですから即刻修理させるやうお取計ひ下さい、とちよつと方面のちがつた事を優しい口調で仰出されました。武道も大事だが敬神崇仏の念もなほざりにせぬやうとの、いましめのお心からおつしやつたのかも知れません。相模守さまは、あはははと愉快さうにお笑ひになり、おそれいりました、と言つて退出なさいましたが、下々の言葉でいへば、あざやかに一本やられた、といふところでもございませうか。ご自身その国の国司たる相模国の事だけに、相州さまも、ひとしほ恐れいつたことでございませう。お二人の応酬は、いつもこのやうに軽く、水際立つて罪が無く、巷間に言ひ伝へられてゐるやうな陰鬱な反目など私たちにはさつぱり見受けられませんでした。翌々日の七日には、御ところに於いて御酒宴がございました。将軍家は、賑やかな事がお好きでございましたから、何かにつけて宴をおひらきなされて、皆の遊びたはむれる様をしんから楽しさうに、にこにこ笑つて眺めて居られます。その日は、四日の弓の試合で負けたはうの人たちが、勝つた人たちにごちそうするといふ事になつてゐて、将軍家もそれは面白からうと御自身も皆に御酒肴をたまはり宴をいよいよさかんになさいましたので、その夜の御宴は笑ふもの、舞ふもの、ののしるもの、或いはまた、わけもなく酔ひ泣きするもの、たはむれの格闘をするもの、いつものお歌や管絃の御宴とは違つて活気横溢して、将軍家には、このやうな狼藉の宴もまた珍らしく、風変りの興をお覚えになるらしく、常に無くお酒をすごされ、かたはらの相州さま広元入道さまを相手に軽い御冗談なども仰せられてたいへん御機嫌の御様子でございました。
「それにつけても、」とあまりお酒のお好きでない広元入道さまは、きよろりとあたりを見廻し、「弓の勝負のあとの御酒宴とはいへ、少し狼藉がすぎますな。」と品よく苦笑しながらおつしやいました。
「これくらゐでいいのです。」と相州さまは、大きくあぐらをかいて盃をふくみながら一座の喧騒のさまを心地よげに眺めて居られました。「これでいいのです。」
「どうも私は宴会は苦手で、」と入道さまはちらと将軍家のはうを見て、「武芸のあとの酒盛りならまあ意味もあつて、我慢も出来るといふものでございますが、なんともつかぬ奇妙な御酒宴もこのごろは、たくさんあつて。」と老いの愚痴みたいな調子で眉をひそめておつしやるのでした。けれども将軍家は、何もお気づかぬ御様子で、ただにこにこ笑つておいででした。
「しかし、」と相州さまはひとりごとのやうに、ぼんやりおつしやいました。「婦女子を相手の酒もまた、やめられぬものです。」
「さうでせうか、」と入道さまは頬にかすかな笑ひを浮べて一膝のり出しました。いつもそのお言葉に裏のある入道さまのことでございますから、その時にもいつたいどんな事をおつしやりたい御本心だつたのか、私には見当もつきませんでした。「あなたも、ひどく御風流になられましたな。酒は士気を旺盛にするためのものとばかり、私は聞いて居りましたが、いろいろとまたその他にも、酒の功徳があるものらしい。」
 その時、将軍家は静かに独り言のやうにおつしやいました。

酒ハ酔フタメノモノデス。ホカニ功徳ハアリマセヌ。

 さうして、よろよろとお立ちになつて奥へお引上げになられ、相州さまと入道さまとは、互ひにちらりと、けれども鋭く眼くばせをなさいました。それだけの事が、後になつてひどく大袈裟に喧伝されて、なんでも将軍家は相州さまと入道さまに、風流を捨て武芸にお心を用ゐられるやう、こんこんといさめられたさうだ等といふ噂のもとになつてしまつたのでございます。入道さまはともかく、相州さまは将軍家のすぐれたお生れつきを、誰よりもよくご存じの筈で、将軍家がわづか十二歳のお若さを以て関東の長者となられ征夷大将軍の宣旨を賜り、翌年すでに御みづから地頭職の訴へを聞き、それはもちろん相州さまや入道さまがお傍に仕へて御助言なさつたからでもございませうが、後年にいたつても、お心をまづもつて人民の訴訟に用ゐられ、奉行を督して裁判の留滞を避けしめ、また奉行たちをおのおのその領国に派遣して所在に人民の訴訟を聴き出訴の煩を無からしめようと計り、さらに将軍家への直訴をもこのお方の御時にはじめてお許しに相成り、いちいちその訴へをあざやかにお裁きになつたといふほどの天稟の御英才を相州さまともあらうお方がわからぬなどといふ事はございませぬ。こんこんと諫言、などといふ噂を当の相州さまがお耳にしたら、驚き苦笑ひなさる事でせう。将軍家の天衣無縫に近い御人柄に対しては、あれほどの相州さまも何とも申し上げる余地がなかつたのではなからうかと私には思はれるのでございます。こんこんと諷諫どころか、その大宴会から七日すぎて、十一月の十四日に、こんどはあべこべに相州さまが将軍家にそれこそ本当にこんこんと教へさとされたのでございますから、妙なものでございました。五十に近い分別盛りの相州さまが、まだ十八歳の将軍家に、おだやかにさとされて一言も無いといふ図はなんともうれしく有難く、いま思つてもこの胸がせいせい致します。それも決して将軍家が相州さまに対して御自身の怨をはらさうなどといふ浅墓なお心からではなく、ただ正しい道理を凜然と御申渡しになつただけの事で、その事に就いては、前にも幾度となく繰返して申し上げましたが、将軍家の御胸中はいつも初夏の青空の如く爽やかに晴れ渡り、人を憎むとか怨むとか、怒るとかいふ事はどんなものだか、全くご存じないやうな御様子で、右は右、左は左と、無理なくお裁きになり、なんのこだはる所もなく皆を愛しなされて、しかも深く執着するといふわけでもなく水の流れるやうにさらさらと自然に御挙止なさつて居られたのでございますから、その日、相州さまに仰せられたことも、ほかの意味など少しもなく、ただ、あの御霊感のままにきつぱりおつしやつただけのことと私は固く信じて居ります。
 相州さまがその年来の郎従の中で、特に功労のあつたものをこんど侍に取り立てたい、それに就いておゆるしを得たく参上いたしましたと気軽に将軍家へ申し上げたところが、将軍家はにつこりお笑ひになつて、

考ヘテミマシタカ

「え、何事でございませう。」と相州さまは、きよとんとして居られました。

ダメデス

「はあ?」と相州さまはただ目を丸くして居られました。なんでもないお願ひとばかりお思ひになつてゐたのでございませう。

子孫ガソノ上ノ慾ヲオコシマス

 凜乎たる御口調でございました。相州さまも思はずはつとお手をおつきになりました。将軍家はさらにお言葉を続けられ、郎従をその功に依り侍に取り立ててやるならば、その者一代のうちは主の恩に感奮しさらに忠勤をはげむといふ事にもなるでせうが、その子その孫の代にいたり、昔、郎従なりしを特に異常の恩典に依りどうやら侍に取り立てられたのだといふ大切の事情も忘れ、更にその上の御家人になり御ところへも上つてみたい、まつりごとにもあづかつてみたい等と、とんでもない慾を起すものですから、それは必ずそのやうな野心を起すやうになるものですから、幕政の混乱の基にもなりかねない事ですから、とそれこそ、こんこんと相州さまにおさとしなされたのでございます。

コレカラモアル事デス。永久ニ、コレハ、許サヌコトニイタシマス。

 お声もさはやかに御申渡しになり、少し間を置いて、お胸に何か浮んだらしく、うつむいてくすくすとお笑ひになり、

管絃ノハウガイイヤウデス

 とおつしやいました。相州さまもほつとしたやうに、あたりを見廻しながら声高くお笑ひになつて、
「弓馬の薦めがたたりましたかな。」とおつしやつたのに、間髪をいれず、

ソレモアリマス

 あざやかなものでございました。もちろんそれは冗談で、先日ちよつと相州さまや入道さまから遠まはしに何か言はれたからといつて、それを根にもつてこんな機会に強く返報なさるなどの下司らしい魂胆はみぢんも無く、また、無いからこそ、あんなに平然と、それもありますなどと笑つておつしやる事も出来るわけで、もしわづかでもお心にわだかまつてゐるものがあつたとしたら、とてもあんなにあつさりお答へ出来るものではございませぬ。相州さまも流石にそこは見抜いておいでの御様子で、将軍家のその御返事をうけたまはつてかへつて大いに御安心の面持ちになられ、お傍にはべつてゐる私たちに向つて、
「お互ひに仕合せなことです。」とまんざらお世辞でもないやうな、低いしんみりした口調でおつしやいました。
 そのやうな事がございましてから、将軍家はいよいよ御闊達に、謂はば御自身の霊感にしたがひ、のびのびと諸事を決裁なされ、相州さまにも広元さまにも、また尼御台さまにも、以前のやうに何かと御相談なさるといふ事も無くなり、いよいよ独自の御仁政をおはじめになつたやうに私たちには見受けられました。例の和田左衛門尉さまの国司所望の件も、その後、左衛門尉さまがこんどは堂々と陳情書を奉り、重ねて国司懇望の事、和田家の治承以来の数々の勲功をみづから列挙なされて、後生の念願ただこの国司の一事のみ云々とその書面にしたためられてゐましたさうでございまして、将軍家はその綿々たる陳情書をつくづくと御覧になり、前にその事に就いては尼御台さまから故右大将家の御先例などを承つて居られたにもかかはらず、和田左衛門尉さまをお召しになり、

ヨロシクトリハカラヒマス。シバラク待ツガヨイ。

 と事も無げにおつしやいました。左衛門尉義盛さまは老いの眼に涙を浮べておよろこびになつて居られましたが、私はそのとしの五月なかば、あのお天気のよい日に、のどかに御物語をなされてゐた御母子の美しく尊い御有様を忘れてはゐませんでしたので、子供心にもちよつとはらはら致しました。けれども、そのやうな事こそ凡慮の及ぶところではないので、あのお方の天与の霊感によつて発する御言動すべて一つも間違ひ無しと、あのお方に比すれば盲亀にひとしい私たちは、ただただ深く信仰してゐるより他はございませんでした。

承元四年庚午。五月小。六日、癸巳、将軍家、広元朝臣の家に渡御、相州、武州等参らる、和歌以下の御興宴に及ぶと云々、亭主三代集を以て贈物と為すと云々。廿一日、戊申、将軍家、三浦三崎に渡御、船中に於て管絃等有り、毎事興を催す、又小笠懸を覧る、常盛、胤長、幸氏以下其射手たりと云々。廿五日、壬子、陸奥国平泉保の伽藍等興隆の事、故右幕下の御時、本願基衡等の例に任せて、沙汰致す可きの旨、御置文を残さるるの処、寺塔年を追ひて破壊し、供物燈明以下の事、已に断絶するの由、寺僧各愁へ申す、仍つて広元奉行として、故の如く懈緩の儀有る可からざるの趣、今日寺領の地頭の中に仰せらると云々。
同年。十月小。十五日、庚午、聖徳太子の十七箇条の憲法、並びに守屋逆臣の跡の収公の田の員数在所、及び天王寺法隆寺に納め置かるる所の重宝等の記、将軍家日来御尋ね有り、広元朝臣相触れて之を尋ね、今日進覧すと云々。
同年。十一月大。廿二日、丙午、御持仏堂に於て、聖徳太子の御影を供養せらる、真智房法橋隆宣導師たり、此事日来の御願と云々。

 あくる承元四年には、ただいま私の記憶に残つてゐる事もあまりございませんが、将軍家の御日常はいよいよのどかに、昨年より更におからだも御丈夫になられた御様子で、御多病のお方でございましたが、このとしには、いちどもおひき籠りになつた事が無かつたやうに覚えて居ります。例の和歌、管絃などの御宴会は、誰に遠慮もなさらずたびたび仰出されて、いまではもう将軍家も、すつかりおとなになつておしまひの事でございますから、入道さまも相州さまも、やや安心なさつた御様子でかれこれこまかい取越苦労の御助言をなさる事も少くなり、御自分たちのはうから将軍家をお遊びにお誘ひ申し上げる事さへあるやうになりました。まことに御高徳の感化の力は美事なものでございます。幕府は安泰、国は平和、時たま将軍家は、どこかの社寺が荒廃してゐるといふ訴へなどをお聞きになると、すぐさまその社寺に就いての故実をお調べになり興隆せしむべきすぢのものならば、相州さまを召して御ていねいなお言ひつけをなさつて、敬神崇仏の念のあまりお篤いお方とは申されませぬ相州さまがその度毎に閉口なさる御様子が御ところの軽い笑ひ話の種になるくらゐの、いかにも無事なその日その日が続いてゐました。この右大臣さまの御時は、源家存亡の重大時期で、はじめから終りまでただもう、反目嫉視陰謀の坩堝だつたなどと例の物知り顔が後にいたつて人に語つてゐたのを耳にした事もございますが、それは実際にその奥深く住んでみなければわからぬ事で、このとしなどは、お奥のお庭の八重桜まで例年になく重く美しく咲いて高く匂ひ、御ところにはなごやかな笑声が絶えま無く起り、御代万歳の仕合せにみんなうつとり浸つてゐました。このとしにはまた将軍家は、ずいぶんと御学問にいそしまれ、御政務のわづかな余暇にもあれこれと御書見なされて居られました。

厩戸ノ皇子ノコトヲモツト知リタイ

 と口癖のやうにおつしやつて、聖徳太子の御治蹟に就いて記されてある古文籍を、広元入道さまや、問註所の善信入道さまにもお手伝ひさせて、数知れずどつさりお集めになり、異常の御緊張を以てお調べなされて居られたのも、その頃のことでございました。

古今無双、マコトニ御神仏ノ御化身デス。

 と嗄れたやうなお声でおつしやつて深い溜息をお吐きになるばかりで全く御放心の御様子に見受けられた日もございました。

海ノカナタノ諸々ノ国ノ者ドモニモ知ラセテヤリタイ

 ともおつしやつて居られました。そのかみの、真に尊い厩戸の皇子さまの事など、その御名を称し奉るさへ私どもの全身がゆゑ知らず畏れをののく有様で、その御治蹟の高さのほどは推量も何も出来るものではございませぬが、たとへば、皇子さまの御慈悲の深さ、御霊感に満ちた御言動、ねんごろな崇仏の御心など、故右大臣さまにとつては、何かと有難い御教訓になつたところも多かつたのではなからうかと、わづかに、浅墓な凡慮をめぐらしてみるばかりの事でございます。厩戸の皇子さまは、まことに御神仏の御化身であらせられたさうでございますが、故右大臣さまにも、どこかこの世の人でないやうな不思議なところがたくさんございまして、その前年の七月にも将軍家は住吉神社に二十首の御歌を奉納いたしましたが、それは或る夜のお夢のお告げに従つてさうなされたのださうで、また承元四年の十一月二十四日の事でございましたが、駿河国建福寺の鎮守馬鳴大明神の別当神主等から御注進がございまして、酉歳に合戦有るべし、といふ御神託が廿一日の卯の剋にあつたといふ事だつたので、相州さまも入道さまも捨て置けず、その神託に間違ひないかどうか、あらためて御占ひでも立てたら如何でせうと将軍家にお伺ひ申したところが、将軍家は淋しげにお笑ひになり、

廿一日ノアカツキ、同ジ夢ヲ見マシタ。アラタメテ占フニハ及ビマセン。

 と落ちついてお答へなさいましたので、皆も思はず顔を見合せました。果して、三年後の建保元年癸酉のとしに、例の和田合戦が鎌倉に起り御ところも炎上いたしましたが、このやうなお夢の不思議はその後もしばしばございまして、またお夢ばかりではなく、御酒宴最中にお傍の人の顔をごらんになつて不意にその人の運命を御予言なさる事もございました。さうしてそれが必ず美事に的中してゐるのでございますから、どうしてもあのお方は、私たちとはまるで根元から違ふお生れつきだつたのだと信じないわけには参りませぬ。人の話に依りますと、おそれおほくも厩戸の皇子さまは、神通自在にましまして、御身体より御光を発して居られましたさうで、私どもにはただ勿体なく目のつぶれる思ひでその尊さお偉さに就いてはまことに仰ぎ見る事も何も叶ひませぬが、右大臣さまほどのお人になると流石に何か一閃、おわかりになるところでもあるのでございませうか、お口を極めて皇子さまの御頭脳、御手腕、御徳の深さをほめたたへて居られました。皇子さまの御治蹟こそ日本国の政治の永久の模範、ともおつしやつて居られましたが、御自身の御政策とも思ひ合せ、将来に於いてさまざま期するところがございましたのでせうけれども、あのやうな不運な御最期、たつた二十八歳、これからといふお年でおなくなりになられたのでございますから、まことに、源家の損失と申すよりは日本国の大きな損失と申し上げて至当かとも存ぜられます。

 

【ほかにも太宰関連記事を書いてます!】