記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#154「右大臣実朝」六

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【冒頭】

いったいにあの相州さまは、奇妙に人に憎まれるお方でございました。

【結句】

胤長さまのお屋敷は、さらに左衛門尉義盛さまからお取り上げに相成り、相州さまがあずかる事になって、和田さま御一族がそのお屋敷に移り住んで居られたのを、相州さまの御家来衆が力ずくで追い立てたとか、左衛門尉義盛さまは悲憤の涙を流して、長生きはしたくないもの、さきに上総の国司挙任の事を再三お願い申し、しばらく待てとの将軍家よりの内々のお言葉もあり、慎んで吉報をお待ちしていたのに、一年待ち、二年待ち、三年待っても音沙汰無きゆえ、さっぱりと諦めて一昨年の暮、かの陳情書を御返却たまわるよう四郎兵衛尉をして大官令にお取りなしのほどをお願い申し上げさせたところ、御将軍家に於いては、そのうち、よきに取りはからうつもりであったのに、いいままた勝手に款状(かじょう)の返却を乞うとは、わがままの振舞い、と案外の御気色の仰せがあったとか大官令よりの御返辞、思えばあの頃より、この左衛門尉のする事なす事くいちがい、さきほどは一族九十八人、御所の南庭に於いて未聞の大恥辱を受け、忍ぶべからざるを忍んでせめて一つ、胤長の屋敷なりともと望んで直ちに御聴認にあずかり、やれ有難や少しく面目をとりかえしたぞと胸撫でおろした途端に、このたびの慮外の仕打ち、あれと言い、これと言い、幕府に相州、大膳大夫の両奸蟠踞(りょうかんばんきょ)するがゆえなり、将軍家の御素志いかに公正と雖も、左右の両奸の侍っているうちは、われら御家人の不安、まさに深淵の薄氷を踏むが如きもの、相州の専横は言うもさらなり、かの大膳大夫に於いても、相州または、さきの執権時政公のかずかずの悪事に加担せざるはなく、しかも世の誹謗は彼等父子にのみ集めさせておのれは涼しい善人の顔でもっぱら一家の隆盛をはかり、その柔侫多智(じゅうねいたち)、相州にまさるとも劣らぬ大奸物、両者を誅すべきはかねて天下の御家人のひとしくひそかに首肯しているところ、わが一族の若輩の切歯扼腕(せっしやくわん)の情もいまは制すべきではない、老骨奮起一番して必ずこの幕府の奸を除かなければならぬ、というような、悲壮にも、また一徹の、おそろしい御決意をここに於いて固められたのだと、のちのちの取沙汰でございました。

 

「右大臣実朝」について

新潮文庫『惜別』所収。

・昭和18年3月末に脱稿。

・昭和18年9月25日、書下ろし中編小説『右大臣実朝』を、「新日本文藝叢書」の一冊として錦城出版社から刊行。

惜別 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)

同年。三月大。九日、庚戌、晴、義盛今日又御所に参ず、一族九十八人を引率して南庭に列座す、是囚人胤長を厚免せらる可きの由、申請ふに依りてなり、広元朝臣申次たり、而るに彼の胤長は、今度の張本として、殊に計略を廻らすの旨、聞食すの間、御許容に能はず、即ち行親、忠家等の手より、山城判官行村の方に召渡さる、重ねて禁遏を加ふ可きの由、相州御旨を伝へらる、此間、胤長の身を面縛し、一族の座前を渡し、行村に之を請取らしむ、義盛の逆心職として之に由ると云々。十七日、戊午、陰、和田平太胤長、陸奥国岩瀬郡に配流せらると云々。廿一日、壬戌、和田平太胤長の女子、父の遠向を悲しむの余、此間病悩、頗る其恃少し、而るに新兵衛尉朝盛、其聞甚だ胤長に相似たり、仍つて父帰来の由を称して訪ひ到る、少生聊か擡頭して一瞬之を見、遂に閉眼すと云々、同夜火葬す、母則ち素懐を遂ぐ、西谷の和泉阿闍梨戒師たりと云々。廿五日、丙寅、和田平太胤長の屋地、荏柄の前に在り、御所の東隣たるに依りて、昵近の士、面々に頻りに之を望み申す、而るに今日、左衛門尉義盛、女房五条局に属して、愁へ申して云ふ、彼地は適宿直祗候の便有り、之を拝領せしむ可きかと云々、忽ち之を達せしむ、殊に喜悦の思を成すと云々。
同年。四月小。二日、癸酉、相州、胤長の荏柄の前の屋地を拝領せられ、則ち行親、忠家に分ち給ふの間、前給の人を追ひ出す、和田左衛門尉義盛、代官久野谷弥次郎、各卜居する所なり、義盛鬱陶を含むと雖も、勝劣を論ずれば、已に虎鼠の如し、仍つて再び子細を申す能はずと云々、先日一類を相率ゐて、胤長の事を参訴するの時、敢て恩許の沙汰無く、剰へ其身を面縛し、一族の眼前を渡し、判官に下さるること、列参の眉目を失ふと称し、彼日より悉く出仕を止め畢んぬ、其後、義盛件の屋地を給はり、聊か怨念を慰せんと欲するの処、事を問はず替へらる、逆心弥止まずして起ると云々。

 いつたいにあの相州さまは、奇妙に人に憎まれるお方でございました。右大臣さまがおなくなりになられ、私ども百余人は出家をいたし、その翌年、承久の乱とやらにて北条氏は気が狂つてさへ企て及ばぬほどの大逆の罪を犯しましたさうで、本当にどうしてまたそんな愚かしい暴虐をなさつたのか、乱臣逆賊と言つてもまだ足りぬ、まことに言語に絶した日本一の大たはけのなり下つた御様子でございますが、それまでには別に、これといふ目立つた悪業のなかつたお方でしたのに、それでも、どういふものか、人にはけむつたがられ、評判のよろしくないお方でございました。はじめにもちよつと申し上げて置きましたやうに、私たちの見たところでは、人の言ふほど陰険なお方のやうでもなく、気さくでへうきんなところもあり、さつぱりしたお方のやうにさへ見受けられましたが、けれども、どこやら、とても下品な、いやな匂ひがそのお人柄の底にふいと感ぜられて、幼心の私どもでさへ、ぞつとするやうなものが確かにございまして、あのお方がお部屋にはひつて来ると、さつと暗い、とても興覚めの気配が一座にただよひ、たまらぬほどに、いやでした。よく人は、源家は暗いと申してゐるやうでございますが、それは源家のお方たちの暗さではなく、この相模守義時さまおひとりの暗さが、四方にひろがつてゐる故ではなからうかとさへ私たちには思はれました。父君の時政公でさへ、この相州さまに較べると、まだしもお無邪気な放胆の明るさがあつたやうでございます。それほどの陰気なにほひが、いつたい、相州さまのどこから発してゐるのか、それはわかりませぬが、きつと、人間として一ばん大事な何かの徳に欠けてゐたのに違ひございませぬ。その生れつき不具のお心が、あの承久の乱などで、はしなくも暴露してしまつたのでございませうが、そのやうな大逆にいたらぬ前には、あのお方のそのおそろしい不具のお心をはつきり看破する事も出来ず、或いは将軍家だけはお気づきになつて居られたかと思はれるふしもないわけではございませぬけれども、当時はただ、あのお方を、なんとなく毛嫌ひして、けむつたがつてゐたといふのが鎌倉の大半の人の心情でございました。なんでもない事でも、あのお方がなさると、なんとも言へず、いやしげに見えるのでございますから、それはむしろ、あのお方にとつても不仕合せなところかも知れませぬ。以前はそれほどでもなかつたのでございますが、将軍家が立派に御成人なされ、政務の御決裁もおひとりで見事にお出来になるやうになつてから、目立つて下品に陰気くさくなりました。それまでは何一つ御失態もなく、故右大将家の頃から、それこそコツンと音のするほど生真面目に御主人大事に勤めて来られたお方のやうで、これは古老から聞いたお話でございますが、故右大将家御壮年の頃、その嬖姫の事から御台所の政子さまとごたごたが起り、御台所は牧のお方の御父、牧三郎宗親さまにお言ひつけになり、姫の寄寓して居られる家をどしどし取毀させてしまつたので姫は驚き、大多和義久とかいふ人のお家へ逃げて行かれて、その時には右大将家も御自身のお立場があまり有利ではございませんでしたので黙つて何事もおつしやらず、やがて、御用事にかこつけなされて、何気ないお顔で義久のお宅へ姫をお見舞ひにおいでになり、ただちに牧の宗親さまをお召しになつて、なぜあのやうな乱暴を働いたか、ばか者め、と大いに罵倒なされ、むずと宗親さまの髻をお掴みになり、お刀でその髻を切り落して坊主にしておしまひになりましたさうで、そのお噂が御台所のお耳にはひつて御台所はいよいよ怒りかつは泣き、牧のお方まで、共にわめきなされ、御台所の父君の時政公も、娘たちには同情したいが、将軍家にも恐縮ですし、閉口し切つて、右大将家には何も告げずに一族を連れて北条の里へ帰つておしまひになつて、その時、右大将家は梶原の景季さまに向つておつしやるには、たかが婦女子の事から一族を引き連れてその里に帰り謹慎するなどとは、時政も大袈裟な男だ、けれども江馬だけはあの一族でもそんな馬鹿な事はしない、父に従はず鎌倉の家にひとり残つてゐるにちがひないから見て来なさい、とおつしやつたとか。江馬とは時政公の嫡子、すなはちのちの相州さまの事で、梶原の景季さまはさつそく様子を見にまゐりまして、やがてにこにこ笑ひながら帰つて来て、仰せのとほり、義時ひとりぽつんと家に残つて居りました、と申し上げたさうで、右大将家もよろこび、すぐさまお若い義時さまを御前へお召しになつて、汝はわが子孫を託すべき者、と仰せられたとか、この時はその義時さまの実直なお態度のおかげで、すぐに四方八方円満にをさまつたのださうでございますが、お若い時からこのやうに妙にまじめな、お調子には絶対に乗らぬお方であつたやうでございます。またあの元久二年に、時政公は牧の方さまにそそのかされ、重成入道などと謀り、当時の名門、畠山御一族に逆臣の汚名を着せ、之を誅戮しようとなさつた時にも、相州さまは、平気な顔をして御父君に対し、およしなさい、あれは逆臣ではありません、と興覚めな事を言つて、少しも動かうとなさらず、父君や牧の方さまが何かと猛り立つて興奮すればするほどいよいよ冷静におなりになつて、あれは逆臣でありません、畠山父子は共に得がたい忠臣ですよ、ばかな真似はおやめなさい、何をそんなに血相をかへて騒いでゐるのです、みつともない、などとづけづけいやな事を申すので、牧の方さまはたうとう泣き出して、なんぼう私が継母だからとてそんなに私をいぢめなくてもいいではないか、継母といふものはそんなに憎いものですか、いや、憎いだらう、憎いであらう、これまでも何かにつけて私ひとりを悪者にして、いつたいどこまで私を苦しめるおつもりか、たまには私にも親孝行の真似事でもいいから見せておくれ、と変な事を口走る始末になつたので、若い相州さまは、苦笑して立ち上り、ぢやまあ、こんど一度きりですよ、と言つて畠山御一族討伐に参加なされたとかいふお話でございます。普通のお人の場合では、一度きりですよ、とは言つても、またさらにもう一度と押してたのまれると、だから前に一度きりと断つて置きましたのに、仕様がないな、などと言ひながらも渋々また応ずるものでございますが、相州さまの場合には決してそのやうな事はなく、一度きりと言へばまさにそのとほりに一度きり、冗談も何もなく、あとはぴたりとお断りになるのでございます。その証拠には、すぐつづいて時政公が、またも牧の方さまにそそのかされ、当時将軍家弑逆の大それた陰謀をたくらんだ時には、もうはじめつから父君、義母君を敵として戦ひ、少しの情容赦もなくそのお二人の御異図を微塵に粉砕し、父君をば鎌倉より追放なされ、継母の牧の方さまには自害をすすめて一命をいただいておしまひになりました。その御性格には優柔不断なところが少しもなく、こはいくらゐに真面目に正確に御処置なさつてしまふのでございます。故右大将家のあの時に、ひとりぽつんとお家に残つて居られたといふ事も、また畠山御一族を逆臣に非ずと事もなげに言ひ切つて、さうして御継母に泣きつかれて、この度いちど限りとおつしやつて立ち上り、その次の御父母の悪逆の陰謀には、はつきり対立して将軍家を御守護申し上げたといふ事も、少しも間違つた御態度ではなく、間違ひどころか、まことに御立派な、忠義一途の正しい御挙止のやうに見えながらも、なんだか、そこにいやな陰気の影があるやうな心地がいたしまして、正しさとは、そんなものでない、はつきり言へませぬが、本当の正しさと似てゐながら、どこか全く違ふらしい、ひどく気味の悪いものがあるやうな気がするのは、私だけでございませうか。その頃、鎌倉の諸処に於いて、北条家横暴といふ声が次第に高くなつて来て居りましたのは、事実でございますが、それでは北条家のどなたがどのやうな専権を用ゐたかといふ事になると、まことに朦朧としてまゐりまして、尼御台さまだつて、将軍家が立派に御成人なされてすべてあざやかに御政務を決裁なさつて居られるのにいちいちお口出しをなさる必要もなく、その頃はもつぱら故二品禅室さまの御遺児のお世話やら、また北条家御一族間の御交際、または御台所さまと連れ立つて鶴岳御参宮、将軍家の船遊び等にもお気軽にお供をなさるし、どこにもそんな専横の影は見受けられませんでした。相州さまはまた、ひたすらお役目お大事で、朝から晩まで幕府のこまごましたお仕事に追はれて、例の異常の正しさを以て怠らず律儀にお働きになり、その頃は将軍家の御意にさからふやうな事もほとんどなく、いまさら御一族と謀つて何かたくらむなどそんなおひまも野心もお持ち合せにならぬやうな御様子でございました。また御長子の修理亮泰時さまは、あのやうに御品性高く、将軍家のお覚えもめでたく、この建暦三年の二月に芸能の際立つてすぐれた近侍のお方たちばかりを集めて学問所番といふものをお作りになつた時にも、この修理亮泰時さまは、その御首席に選定せられたほどで、御ところの人気をおひとりで背負つて居られたやうな有様で、まさかあの、次男若君の朝時さまが専横といふわけでもございませんでせうし、専横どころか好色のあやまちのため御勘当になつたりなどしたのですからこれは問題外、ほかに相州さまの御弟の武州時房さまも居られますが、このお方はただ温厚のお方のやうで二念なく御実兄の相州さまのお下に控へていらつしやいましたし、結局、誰がどのやうに横暴なのか、どんな工合に出しやばるのか甚だ漠然たるものになつてしまふのでございます。相州さまが執権として幕府の首座に居られるのが気に食はぬとは言つても、それは無理な話で、故右大将家をまづまつさきにお助け申したのはこの北条家でございまして、和田左衛門尉義盛さまなど、よく御挙兵以来の御自身の軍功を御自慢なさいますが、伊豆の流人の頼朝公を、一目見てその非凡の御人物たることを察知いたし、わが長女との御親交をもあらはに怒り、ひそかに許容し、今を時めく平家の御威勢も恐れずこれをかくまひ申し、百人にも足らぬ一族郎党をことごとく献じて、伊豆の片隅に敢然と源家の旗をひるがへさせたお方は、余人ではございませぬ、この相州さまのお父君時政公でございました。その頃の北条氏には、たいした勢力もございませんでしたでせうに、いくら故将軍家の御人物を見込んだとて、時政公もまことに無謀な御決意をなさいましたもので、治承四年、以仁王よりの平家討伐の御令旨を賜つて勇気百倍、まづ戦の門出に伊豆の目代、平の兼隆を血祭りにあげようといふ事になり、お若いながらも御如才のない故将軍家は、出発に先立ち北条氏の一族郎党を煩をいとはずひとりひとり順々に別室へお招きになつて、汝ひとりが頼みだ、とおつしやいましたさうで、おのおのご自分ひとりが特に頼朝公の御信任を得てゐるのだと思ひ込み士気大いにあがり、けれども、たつた八十五騎とは心細いやうなもので、馬は毛深いよぼよぼの百姓馬、鎧は色あせて片袖の無いのがあつたり、毛沓は虫に食はれて毛が脱落いたし、いづれを見ても満足の武装ではなく、中には頬被りするものなどもあつて、ひどい軍勢でございましたさうですが、時政公の乾坤一擲の御意気ものすごく、すすめやすすめと戦法も何もあつたものでなく、ただどやどやと目代のお宅にあがり込み、寄つてたかつて兼隆の首級を挙げ、さいさきよしと喜び合つたこれこそ、そもそもの真の御挙兵とも申すべきで、和田左衛門尉さまなどは、その後、時政公からの使者を受けて三浦さま御一族と共にこれに御助勢申し上げたので、あの畠山御一族などはそのころは平家方にお仕へしてゐて、その三浦和田の軍勢と一合戦なさつた事さへあるさうで、はじめの八十五騎の心細くもあり、またけなげの御挙兵はただ北条家御一族にのみよつてなされたといふのは、たしかな事のやうでございまして、それ以来、故将軍家幕府御創設までの北条家御一族のお働きは、ご存じないお方など、ひとりも無い筈でございます。また当将軍家に対しては、ちやうど時政公が故右大将家をひとめで見込んだやうに、その御嫡子の義時さまが非常な力のいれ方で、前にも申し上げましたが当将軍家御襲職のために比企氏と戦ひこれを倒し、またのちに実の御父君と争つてまで当将軍家のお身を御守護なされ、それからも蔭になり日向になりお世話申してまゐりました、謂はばこれも当将軍家にとつては第一の功臣、先代の時政公は故右大将家の第一の功臣、このやうに親子二代つづいてそれぞれの将軍家におつくしなさつたのでございますから、外戚とか何かの御縁を求めなくとも当然、執権におなりになるべき御人物で、そこに不思議は無い筈でございますが、けれども、どういふものか北条氏専横の不平の声が御ところの内にも巷にも絶えませんでした。なにもかも、あの相州さまの奇妙な律儀が、いけないので、あれが人の心にいやな暗い疑ひや憎しみを抱かせるのではないかと私には思はれてなりませぬ。正しい事をすればするほど、そこになんとも不快な悪臭が湧いて出るとは、まことに不思議な御人柄のお方もあつたものでございます。そのとしの三月にも相州さまは極めて当然の或る御処置をなさつたにもかかはらず、それが他人の私共にさへ、なんだかむごく、憎らしく思はれ、たうとう和田さま御一族を激怒させ、鎌倉中が修羅の巷に化するほどの大騒動が起つてしまひました。泉小次郎親平の異変のあと始末もすんで、和田左衛門尉さまのお二人の御子息もめでたく御赦免にあづかり、これで一段落かと思つて居りましたところが、三月九日、すなはち和田左衛門尉さまがお二人の御子息の宥免のお沙汰に感泣なさいましたそのすぐ翌日、こんどは義盛さまの甥の和田平太胤長さまが、やはりこのたびの陰謀に加はり捕へられてお預けの身になつてゐるのを御赦し下さるやう、義盛さまからの重ねての御歎願がございました。私はその時お奥に伺候して居りましたので、その有様を拝見できませんでしたが、なんでも、義盛さまは木蘭地の水干に葛袴といふ御立派のいでたちで、御一族九十八人を引き連れ、みんな御一緒にずらりと南庭に列座して、胤長さま御放免の事をひとへに御歎願あそばしたとか、あまりのものものしさに、広元入道さまはお顔色を変へてお奥へ御注進にまゐりました。この広元さまは、建保五年に出家なされて法名覚阿と申し上げる事になりましたのでございますけれども、そのずつと前からもお頭のお禿げ工合ひなどで、御出家さまのやうな感じが致して居りまして、大官令さま、大膳大夫さま、または陸奥守さまなどとお呼びするよりも、入道さまとお呼びするのが今の私には一ばんぴつたりしてゐるやうな気が致しまして、また、ついでながら、相州さまの事をお呼び申し上げるにしても、相州さまはその後に右京権大夫にもおなりになるし、また陸奥守をもお兼ねになつたのでございますから、右京兆さまとか奥州さまとお呼び申さなければならぬ場合もございますのですが、どうも、相州さまとお呼びするはうが、自然の気持が致しますので、まあ、こまかい事にはあまりこだはらず、入道さま、相州さま、とお呼びしてお話をすすめることがございましても、そこはおとがめなく、お聞き捨て下さるやうお願ひ申し上げます。さて、その時に、広元入道さまの息せき切つての御注進を将軍家は静かに御聴取になり、うつむいてしばらくお考への御様子でございましたが、やがて、ふいとお顔を挙げ何か言ひ出さうとなされた途端、
「おゆるしなさいますか。」
 とお傍に居合せた相州さまが、軽く無雑作におつしやつたのでございます。その一言には微塵も邪念がなく、ただぼんやりおつしやつただけの言葉のやうでありながらも、末座の私どもまで、なぜだか、どきんとしたほどに、無限に深い底意が感ぜられ、将軍家に於いてもその一言のために、くるりとお考へが変つた御様子で、幽かにお首を横にお振りになつてしまひました。
「なにしろ、」と広元入道さまは、将軍家のお心のきまつたらしいのを見とどけて、ほつとした御様子で、つるりとお顔を撫で、それから仔細らしく眉をひそめて言ひ出しました。この広元入道さまは、まことに御用心深いお方で、何事につけても決して強く出しやばるやうな真似はなさらず、私どもにはなんの事やらわけのわからぬくらゐ甚だ遠まはしのあいまいな言ひかたばかりなさつて、四囲の大勢が決すると、はじめて、思案深げにその大勢に合槌を打つといふのが、いつものならはしでございまして、私どもにはそのお態度がどうにも歯がゆくてたまりませんでしたけれど、それがまた入道さまの大人物たる所以で、故右大将家幕府御創設このかた、人にうらまれるやうな事もなく、これといふ御失態もなさらず、つねに鎌倉一の大政治家たるの栄誉を持ちつづけることの出来た原因の一つでございましたのかも知れませぬ。「あの和田平太胤長といふのは、このたびの陰謀の張本人のひとりでございますから、御子息の義直、義重などの伴類のものと同様に御赦免は、むづかしからうとは存じましたが、一族九十八人がずらりと居並んでの歎願には、いや驚きまして、一応お取次ぎだけは致して置かうと存じましてただいま申し上げてみたやうな次第でございますが、和田氏もきのふ御子息の御宥免にあづかつたばかりなのに、さらに今日は主謀者たる甥の御赦免まで願ひ出るとは、ちと虫がよすぎるとは思ひましたものの、なにしろあの頑固の老人の事でございますから、是が非でもこの懇願一つはお聞きいれ賜りたしと、ぴたりと坐つて動きませんので、いや、とにかく、これは、――」などと、おつしやる事がやつぱり少しも要領を得ませんでした。広元さまは、大事な時には、いつでもこのやうなお態度をおとりになるのでございます。その時にも、将軍家に於いては既に御許容相成らずと決裁がすんでゐるのに、その御決裁を和田氏一族に申渡す憎まれ役だけはごめんなので、かうして何かとつまらぬ事をくどくどとおつしやつて、そのうち誰か、申渡しの役を引受けてくれるだらうとお心待ちになつて居られたのに違ひございませぬ。まいどの事なので相州さまにもそれがわからぬ筈はなく、まじめなお顔で、
「それでは私が申渡してまゐりませう。」と気軽くおつしやつて立ち上りかけ、ふと考へて、将軍家のはうに向き直り、「今後の事もありますから、少しきびしく申渡してやらうと存じますが、いかがです。」
 将軍家は、その日どこやらお疲れになつて居られるやうな御様子でございまして、黙つてお首肯きになられただけでした。とにかくこれで広元入道さまは、れいの如くまんまと憎まれ役からのがれ、さうしてまた、相州さまは平気でそのいやな役を引受けて、いかにまいどの事とは言ひながら、相州さまはそんな時ちつともいやな顔をなさらぬのが、私たちには、なんとも不思議な事でございました。その日の相州さまの御申渡しの有様を、私はお奥に居りましたので拝見出来ませんでしたけれど、これがまたひどく峻烈なものだつたさうで、相州さまにとつては、それくらゐの事は当然の、それこそ「正しい」御処置のつもりでおやりになつたのでもございませうが、どうも相州さまがなさると何事によらず、深い意趣が含まれてゐるやうに見えて来るものですから、つひにその日は和田さま御一族九十八人を激昂させ、のちの鎌倉大騒擾が、ここに端を発したと言はれてゐるやうでございます。相州さまは南庭に列座してゐる御一族の者に向ひ、ただ一言、
「御申請の件、御許容に能はず。」と事もなげに御申渡しになり、和田左衛門尉さまが何か言はうとなさつて進み出て威儀をとりつくろつてゐる間に、相州さまは、腹心の行親、忠家の両人に、それと目くばせして、囚人胤長さまを次の間より連れ出させ、義盛さまはじめ御一族が、これは不審、と思ふまもなくかの両人に命じて胤長さまを高手小手に縛り上げさせ、一族九十八人この意外の仕打に仰天して声もなくただ見まもつてゐるうちに相州さまは判官行村さまをお呼びになり、更に厳重に警固するやう言ひつけて囚人を手渡し、さつさと奥へお引き上げになつたさうで、それが叛逆の主謀者に対する正しい御処置なのかも知れませんが、わざわざ和田さまほどの名門の御一族大勢の面前で胤長さまを高手小手に縛りあげ、お役人に手渡して見せなくてもよささうなもので、それがまた相州さまのあの冷静で生真面目なお態度でもつて味もそつけも無くさつさと取行はれた事でございませうし、私ども他人でさへそれを聞いて、なんだか、いやな気が致しましたほどでございますから、当の和田左衛門尉さまをはじめ御一族の方々の御痛憤はいかばかりか、お察し出来るやうな気がいたします。和田平太胤長さまは、その月の十七日に陸奥国岩瀬郡に配流せられまして、それに就いてもまた、あはれな話がございました。胤長さまの六つになるおむすめが、父君とのながのお別れを悲しみ、そのおあとをお慕ひのあまり御病気になつて、その月の二十一日には全く危篤に陥り、それでもなほ、苦しい息の下から父君をお呼びする始末なので御一族のお方々も見るに忍びず、御一族の新兵衛尉朝盛さまの御様子が、胤長さまにちよつと似て居りましたので、一つその朝盛さまに父君の振りをしていただかうといふ事になり、もともとこの朝盛さまは武家のお生れに似合はぬほどにお気持が優しく、さうして将軍家のお覚えも殊にめでたかつたお方でございまして、こころよくその悲しいお役をお引受けになつて、危篤のおむすめの枕頭にお坐りになり、心配なさるな、父はこのとほり無事に帰つてまゐりました、と涙をのんでおつしやつたところが、おむすめは、あ、と言つて少し頭をもたげて幽かにお笑ひになり、それつきり息をお引取りになつたさうで、当時二十七歳のお若い母君もその場に於いて御剃髪なされ、その話を聞いて御ところの人々も御同情申さぬは無く、さうしてひそかに、相州さまのあまりの御仕打をお憎み申し上げたものでございました。和田左衛門尉義盛さまは、あの九日の御一族の歎願も意外の結果になり、御長老たる御面目を失ひましたので、その日から御ところへも出仕なさらず、鬱々と籠居の御様子でございましたが、ここにまた一つ、相州さまと火の発するほどに強い御衝突が起りまして、つひに争端必至のどうにもならぬ険悪の雲行きになつてしまひました。和田平太胤長さまの御屋敷は荏柄の聖廟の真向ひにございまして、それは胤長さまの御配流と共に没収せられ、なにしろ御ところのすぐ近くの土地でございまして御ところへ伺候するのに便利なものでございますから、皆がそのお屋敷を内々お望みの御様子でございましたけれども、左衛門尉義盛さまは、いまはせめて最後の一つの願ひとして、そのお屋敷を拝領いたしたいと、五条のお局さまを通して将軍家にこつそり御申入れなさつたのでございます。その時、将軍家は、お局さまのお言葉をみなまで聞かず、つづけて二、三度せはしげに御首肯なされて、即座に御聴許のお手続きをなされ、それからぼんやり全く他の事をお考への御様子で、しばらく黙つてうなだれて居られました。あのやうにお力無い将軍家を拝したのは、私にとつて、御奉公以来まことに、はじめての事でございました。何事にも既に御興趣を失ひなされたやうな、下衆の言ふ、それこそ浮かぬお顔をなさつて居られたのでございます。それから四、五日経つて、相州さまが、へんな薄笑ひを浮べて御前に伺候し、
「ただいま人から承りましたが、囚人胤長の屋敷を、」と言ひかけたら、すぐに、

アレハ和田ニ

 とうつむいたまま低くおつしやいました。
 相州さまは真面目になつて、
「それだけはお取消しを願ひます。ひどく悪い先例になります。謀叛人の領地を、その一族の者に、」といつになく強い語調でおつしやつて、ふいとお首を傾けて考へ、それから急にお声をひそめて、「いや、こればかりは、いけませぬ。」

和田ガ喜ンデヰルサウデス

 将軍家は、やつぱりお弱い御口調でおつしやいました。
「お心の程は拝察できまするが、今後のこともあります。くどくは申し上げませぬ。お心を鬼になさいませ。」

ソレホド大キナ事トモ思ヘヌ

「大事です。反逆の徒輩の処置は大事です。幕府の安危にかかはる事です。胤長の屋敷は一時、私がおあづかり致しませう。他の者にあづけますと、その者がまた和田一族に、つまらぬ恨みを買ひます。私が憎まれ役になります。将軍家には、かかはりの無い事に致します。私情の意地で申し上げるのではありませぬ。幕府、千年の安泰のためです。くどくは申し上げませぬ。」
 将軍家は、うつむかれたきりで、なんとも一言もおつしやいませんでした。
 胤長さまのお屋敷は、さらに左衛門尉義盛さまからお取上げに相成り、相州さまがあづかる事になつて、和田さま御一族がそのお屋敷に移り住んで居られたのを、相州さまの御家来衆が力づくで追ひ立てたとか、左衛門尉義盛さまは悲憤の涙を流して、長生きはしたくないもの、さきに上総の国司挙任の事を再三お願ひ申し、しばらく待てとの将軍家よりの内々のお言葉もあり、慎んで吉報をお待ちしてゐたのに、一年待ち、二年待ち、三年待つても音沙汰無きゆゑ、さつぱりと諦らめて一昨年の暮、かの陳情書を御返却たまはるやう四郎兵衛尉をして大官令にお取りなしのほどをお願ひ申し上げさせたところ、将軍家に於いては、そのうち、よきに取りはからふつもりであつたのに、いままた勝手に款状の返却を乞ふとは、わがままの振舞ひ、と案外の御気色の仰せがあつたとか大官令よりの御返辞、思へばあの頃より、この左衛門尉のする事なす事くひちがひ、さきほどは一族九十八人、御ところの南庭に於いて未聞の大恥辱を受け、忍ぶべからざるを忍んでせめて一つ、胤長の屋敷なりともと望んで直ちに御聴許にあづかり、やれ有難や少しく面目をとりかへしたぞと胸撫でおろした途端に、このたびの慮外の仕打ち、あれと言ひ、これと言ひ、幕府に相州、大膳大夫の両奸蟠踞するがゆゑなり、将軍家の御素志いかに公正と雖も、左右に両奸の侍つてゐるうちは、われら御家人の不安、まさに深淵の薄氷を踏むが如きもの、相州の専横は言ふもさらなり、かの大膳大夫に於いても、相州または、さきの執権時政公のかずかずの悪事に加担せざるはなく、しかも世の誹謗は彼等父子にのみ集めさせておのれは涼しい善人の顔でもつぱら一家の隆盛をはかり、その柔佞多智、相州にまさるとも劣らぬ大奸物、両者を誅すべきはかねて天下の御家人のひとしくひそかに首肯してゐるところ、わが一族の若輩の切歯扼腕の情もいまは制すべきではない、老骨奮起一番して必ずこの幕府の奸を除かなければならぬ、といふやうな、悲壮にも、また一徹の、おそろしい御決意をここに於いて固められたのだと、のちのちの取沙汰でございました。

 

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