記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#155「右大臣実朝」七

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【冒頭】

いきおいの赴くところ、まことに、やむを得ないものと見えます。五月二日の夕刻、和田左衛門尉義盛さまは一族郎党百五十騎を率いて反旗をひるがえし、故右大将家幕府御創業このかた三十年、この鎌倉の地にはじめての大兵乱が勃発いたしました。

【結句】

将軍家と相州さまが争論に似た事をなさいましたのは、あとにもさきにも、ただこの時いちどきりで、つねに御衝突が絶えなかったらしいなどとれいの仔細らしい取沙汰はもとより根も葉もない事でございまして、将軍家の御闊達と無類の御気品はもとよりの事、相州さまにしても当時抜群の大政治家でございますし、そのようなお方たちが、決してあらわな御衝突をなさるわけはなく、それは前にも申し上げて置いたように思いますが、いつも、お互いの御胸中を素早くお見透(とお)しなさって、瞬時に御首肯し合い、笑っておわかれになるというような案配でございましたのに、この時に限って、それは相州さまが合戦のためにお気が立って居られたせいかと思われますが、少しおだやかならぬものがただよい、相州さまはその頃すでに五十の坂を越して居られまして、なおまた北条家存亡の大合戦の最中の事でもございましたから、そんなのは、さしたる事でもなかったように覚えられて居られたかも知れませぬが、生れてこのかた御父母君にさえ、大声で叱られるなどということの無かったお若い将軍家にとっては、なかなかに忘れられぬ思いもおありではなかろうかと、その日うす暗い御堂の隅に控えていた当時十七歳の私まで、胸苦しく拝察申し上げたことでございました。

 

「右大臣実朝」について

新潮文庫『惜別』所収。

・昭和18年3月末に脱稿。

・昭和18年9月25日、書下ろし中編小説『右大臣実朝』を、「新日本文藝叢書」の一冊として錦城出版社から刊行。

惜別 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)

 

同年。同月。七日、戊寅、幕府に於て、女房等を聚めて御酒宴有り、時に山内左衛門尉、筑後四郎兵衛尉等、屏の中門の砌に徘徊す、将軍家簾中より御覧じ、両人を御前の縁に召して、盃酒を給はるの間、仰せられて曰く、二人共に命を殞すこと近きに在るか、一人は御敵たる可し、一人は御所に候す可き者なりと云ふ、各怖畏の気有りて、盃を懐中して早出すと云々。廿日、辛卯、南京十五大寺に於て、衆僧を供養し、非人に施行有る可きの由、将軍家年来の御素願なり、今日京畿内御家人等に仰せらると云々。廿七日、戊寅、霽、宮内兵衛尉公氏、将軍家の御使として、和田左衛門尉の宅に向ふ、是義盛用意の事有るの由聞食すに依りて、其実否を尋ね仰せらるるの故なり、晩景、また刑部丞忠季を以て御使と為し、義盛の許に遣はさる、世を度り奉る可きの由、其聞有り、殊に驚き思食す所なり、先づ蜂起を止め、退いて恩裁を待ち奉る可きなりと云々。廿九日、庚辰、霽、相模次郎朝時主、駿河国より参上す、将軍家の御気色並びに厳閤の義絶にて、彼国に籠居するの処、御用心の間、飛脚を以て之を召さると云々。
同年。五月小。二日、壬※(「刀」の「丿」が横向き、第3水準1-14-58)、陰、筑後左衛門尉朝重、義盛の近隣に在り、而るに義盛の館に軍兵競ひ集る、其粧を見、其音を聞きて戎服を備へ、使者を発して事の由を前大膳大夫に告ぐ、時に件の朝臣、賓客座に在りて、杯酒方に酣なり、亭主之を聞き、独り座を起ちて御所に奔り参ず、次に三浦平六左衛門尉義村、同弟九郎右衛門尉胤義等、始めは義盛と一諾を成し、北門を警固す可きの由、同心の起請文を書き乍ら、後には之を改変せしめ、兄弟各相議りて云ふ、早く先非を飜し、彼の内議の趣を告げ申す可しと、後悔に及びて、則ち相州御亭に参入し、義盛已に出軍の由を申す、時に相州囲碁の会有りて、此事を聞くと雖も、敢て以て驚動の気無く、心静に目算を加ふるの後起座し、折烏帽子を立烏帽子に改め、水干を装束きて幕府に参り給ふ、御所に於て敢て警衛の備無し、然れども両客の告に依りて、尼御台所並びに御台所等営中を去り、北の御門を出で、鶴岳の別当坊に渡御と云々、申刻、和田左衛門尉義盛、伴党を率ゐて、忽ち将軍の幕下を襲ふ、百五十の軍勢を三手に相分け、先づ幕府の南門並びに相州の御第、西北の両門を囲む、相州幕府に候せらると雖も、留守の壮士等義勢有りて、各夾板を切り、其隙を以て矢石の路と為して攻戦す、義兵多く以て傷死す、次に広元朝臣亭に、酒客座に在り、未だ去らざる砌に、義盛の大軍競ひ到りて、門前に進む、其名字を知らずと雖も、已に矢を発ちて攻め戦ふ、酉剋、賊徒遂に幕府の四面を囲み、旗を靡かし箭を飛ばす、朝夷名三郎義秀、惣門を敗り、南庭に乱れ入り、籠る所の御家人等を攻め撃ち、剰へ火を御所に放ち、郭内室屋一宇を残さず焼亡す、之に依りて将軍家、右大将軍家の法花堂に入御、火災を遁れ給ふ可きの故なり、相州、大官令御共に候せらる、凡そ義盛啻に大威を摂するのみに匪ず、其士率一以て千に当り、天地震怒して相戦ふ、今日の暮より終夜に及び、星を見るも未だ已まず、匠作全く彼の武勇を怖畏せず、且は身命を棄て、且は健士を勧めて、調禦するの間、暁更に臨みて、義盛漸く兵尽き箭窮まり、疲馬に策ちて、前浜辺に遁れ退く。三日、癸卯、小雨灑ぐ、義盛粮道を絶たれ、乗馬に疲るるの処、寅剋、横山馬允時兼、波多野三郎、横山五郎以下数十人の親昵従類等を引率し、腰越浦に馳せ来るの処、既に合戦の最中なり、仍つて其党類皆蓑笠を彼所に棄つ、積りて山を成すと云々、然る後、義盛の陣に加はる、義盛時兼の合力を待ち、新羈の馬に当るべし、彼是の軍兵三千騎、尚御家人等を追奔す、義盛重ねて御所を襲はんと擬す、然れども若宮大路は、匠作、武州防戦し給ひ、町大路は、上総三郎義氏、名越は、近江守頼茂、大倉は、佐々木五郎義清、結城左衛門尉朝光等、各陣を張るの間、通らんと擬するに拠無し、仍つて由比浦並びに若宮大路に於て、合戦時を移す、凡そ昨日より此昼に至るまで、攻戦已まず、軍士等各兵略を尽すと云々、酉剋、和田四郎左衛門尉義直、伊具馬太郎盛重の為に討取らる、父義盛殊に歎息す、年来義直を鍾愛せしむるに依り、義直に禄を願ふ所なり、今に於ては、合戦に励むも益無しと云々、声を揚げて悲哭し、東西に迷惑し、遂に江戸左衛門尉能範の所従に討たると云々、同男五郎兵衛尉義重、六郎兵衛尉義信、七郎秀盛以下の張本七人、共に誅に伏す、朝夷名三郎義秀、並びに数率等海浜に出で、船に掉して安房国に赴く、其勢五百騎、船六艘と云々、又新左衛門尉常盛、山内先次郎左衛門尉、岡崎余一左衛門尉、横山馬允、古郡左衛門尉、和田新兵衛入道、以上大将軍六人、戦場を遁れて逐電すと云々、此輩悉く敗北するの間、世上無為に属す、其後、相州、行親、忠家を以て死骸等を実検せらる、仮屋を由比浦の汀に構へ、義盛以下の首を取聚む、昏黒に及ぶの間、各松明を取る、又相州、大官令仰を承り、飛脚を発せられ、御書を京都に遣はす。

 いきほひの赴くところ、まことに、やむを得ないものと見えます。五月二日の夕刻、和田左衛門尉義盛さまは一族郎党百五十騎を率ゐて反旗をひるがへし、故右大将家幕府御創業このかた三十年、この鎌倉の地にはじめての大兵乱が勃発いたしました。和田さまほどの御大身が、たつた百五十騎とは、案外の無勢と不審に思召されるかも知れませぬが、和田さま御謀叛の噂は、あの三月の胤長さまの配流、四月の荏柄のお屋敷の騒動以来、御ところの内にも、また鎌倉の里人の間にも、もつぱらでございまして、武勇に於いては、関東一の和田さま御一族も、はかりごとを密かに行ふといふ巧智には乏しかつた御様子で、大つぴらに兵具をととのへ、戦勝の祈願なども行ひ、さうしてそのやうな叛逆の動かぬ証拠を次々と御ところのお使ひの人に依つて糾明せられ、とても、たまらなくなりまして、有合せの軍兵をかき集めて気早やに烽火をお挙げになつてしまつたといふお工合のやうでございました。たのみにしてゐた御一族の三浦さまには裏切られ、翌朝、かねて打合せて置いたとほりに横山馬允時兼さまの三千余騎が腰越浦に馳せ参じて和田さまの陣に加はりましたが、もうその頃には、将軍家の御教書もひろく行きわたり、和田勢の逆賊たることが決定せられてしまつて居りましたから、それまで去就に迷つて拱手傍観してゐました諸将も続々と北条勢に来り投じ、つひに和田氏御一族全滅のむざんな結末と相成りました。その兵乱の一箇月ほど前、四月七日に、将軍家は何といふ理由も無く、女房等をお集めになつて華やかな御酒宴をひらかれ、之まで例のなかつたほどに、したたかにお酒を召され、女房等にもお気軽の御冗談を仰せになつて、

我宿ノマセノハタテニハフ瓜ノナリモナラズモ二人ネマホシ

 などといふ和歌を作られて一座を和やかに笑はせ、ふいと前庭を御覧になつて、お庭の門のあたりを山内左衛門尉さまと、筑後四郎兵衛尉さまが、御警護のためぶらぶら歩いて居られるのにお目をとめられ、あの二人の者をこれへ呼び寄せるやう仰せられ、やがて御縁ちかく伺候したお二人に御盃酒をたまはり、御機嫌よろしくにこにこお笑ひになりながら少しお首を傾け、そのお二人のお顔をつくづくと見まもり、いづれも近く命を失ふ、ひとりは敵方、ひとりは味方、と案外の不吉の御予言を、まるで御冗談みたいに事もなげにおつしやつて、平然として居られました。果して、それからひとつき経つて、山内左衛門尉さまは、和田勢に加はり、筑後四郎兵衛尉さまは御ところ方にて、敵味方にわかれて戦ひ、共に討死をなさいましたが、それにつけても思ひ出される事がございます。むかし、厩戸の皇子さまも、御二十一歳の折、大臣馬子の無道をお見事に御予言あそばしたとか、天壌と共に窮りの無き、伊勢大廟の尊き御嫡流の御方の御事は纔かに偲び奉るさへ、おそれおほい極みでございますが、将軍家に於いては、早くより厩戸の皇子さまに御心酔と申し上げてよろしいほどに強く傾倒なされ、私どもには、まるで何もわかりませぬけれど、かの、和を以て貴しと為すとかいふお言葉にはじまる十七箇条の御憲法など、まことに万代不易の赫奕たるおさとしで、海のかなたの国々の者たちにも知らせてやりたい、とおつしやつて居られた事もございまして、せめてその御錦袖の端にでも、おあやかり申したいと日頃、念じて居られた御様子で、そのせゐか、まあこれは愚かな私どもの推参な気の迷ひに違ひないのでございませうけれども、ほんの少し、相通ふやうな影が、感ぜられてなりませぬ。御予言とはいへ、ただ出鱈目に放言なさつたのがたまたま運よく的中したといふやうなものではなく、そこには、こまかな御明察もあり、必ずさうなるべき根拠をお見抜きなさつて仰出されるのに違ひございませぬが、けれども凡愚の者に於いては、明々白々の根拠をつかんでゐながらもなほ、予断を躊躇し、或いは間違ひかも知れぬ、途中でまたどのやうに風向きが変らぬものでもない、などと愚図愚図してあたりを見廻してゐるものでございまして、それが厩戸の皇子さま、または故右大臣さまのやうなお方になると、ためらはず鮮やかに断言なされて的中なさらぬといふ事はないのでございますから、これはやはり、御明察と申すよりは、御霊感と名づけたはうがよろしいやうに私たちには考へられます。相通ふとは申しても、もちろんその間には天地以上の絶対の御距離があり、このやうな事はすべて愚かな私どもの子供じみた夢に過ぎないのでございまして、厩戸の皇子さまもやはり御幼少の頃から御政務の御手助けをなされて居られた御様子で、まあそれ故にこそ故右大臣さまも、いつそう皇子さまをお慕ひなされたのでございませうが、共に崇仏の念篤く、また皇子さまのお傍には蘇我馬子といふけしからぬ大臣が居られたやうに、故右大臣さまには、相州さまといふ暗いお方が控へて居りまして、馬子といひ、またあの承久年間の相州さまといひ、まことに日本国はじまつて以来の二のみ三無き大悪事を行ひ、しかもその政治上の手腕はあなどりがたく、わけなく之をしりぞける事も出来なかつたといふところなど、いづれも、ほんの偶然の事にちがひないとは万々承知いたしながら、その、わづかに一小部分の相通ふ匂ひだけでも、あの私どものお可哀さうな右大臣さまへの、お手向の花としたいと思ふ無智な家来の一すぢの追慕の念を、どうぞお見のがし下さいまし。厩戸の皇子さまの御事は真におそれおほく、ただ烈日を仰ぐが如く眼つぶれる思ひにて、いかなる推察も叶ふものではございませぬが、故右大臣さまの場合だけを申し上げるならば、京都の御所に対してはあれほどの御赤心、また幕府の御政務に対してはあれほどの御英才と御手腕をお示しになりながら、あの承久の大悪事を犯すに至つた相州さまを、なぜ早くよりよろしく御教導出来なかつたかと、これも私どもの、慾の深すぎる話にきまつて居りますけれども、それだけがたつた一つの無念のところでございます。御政務に於いても、以前は、相州さまであらうが何であらうが、それが間違つて居りますならば、ひどく手きびしくはねつけたものでごさいましたが、この和田さまの事件あたりから、さすがの将軍家も、時々、とても、もの憂さうな御様子をお見せになりまして、

関東ハ源家ノ任地デシタガ、北条家ニトツテハ関東ハ代々ノ生地デス。気持ガチガヒマス。

 と、謎のやうなお言葉を私たちお傍の者におもらしなさつた事さへございました。さうして、その頃から、お酒の量も、めつきりふえたやうに拝されました。このとしの五月の兵乱も、すでに三年前の承元四年十一月二十一日にお夢のお告げに依つて察知なされてゐたといふ事はまへにも申し上げて置きましたけれども、その時のお夢は、ただ、合戦あるべしといふのみにて、どなたの反乱であるか、その主謀者の名まではおわかりになつてゐなかつたのではなからうかと思はれます。さうして一年経ち、二年経ちしてゐるうちに、勘のするどい将軍家のことでございますから、或いは和田氏あたりが老いの一徹から短慮の真似をしでかすのではあるまいか、との御懸念も生じてまゐりました御様子で、まさか、それだけの理由からでもございませんでせうけれども、この建保元年のまへのとしあたりから、急に目立つて和田氏御一族を御寵愛なされ、わけても左衛門尉義盛さまをば、いつもお傍からはなさずに何かとこの武骨の御老人をおいたはりなさるやうになりまして、それから建保元年の二月に、れいの泉小次郎親平の陰謀があらはれ、和田氏の御一族のお方たちもそれに加担して居られて、もうその時すでに、将軍家も、いまはこれまで、とお見極めをつけておしまひになつたのではないでせうか、あの頃から、御政務の御決裁に当つても以前ほどの御熱意は見受けられず、まるで御冗談のやうに矢鱈に謀逆の囚人たちを放免させてお笑ひになつてゐるかと思ふと、急にがくりとお疲れの御様子をお示しになつたり、それまで固く握りしめなされてゐた何物かを、その時からりと投げ出しておしまひなさつたやうな、ひどい御気抜けの態に拝されました。和田氏御一族九十八人の御請願の時にも、また胤長さまのお屋敷の処置の時にも、これまで見受けられなかつたやうな御気力の無いお弱い御態度で相州さまのおつしやるままになつて居られましたが、この前後に於いて将軍家の御心境に何か重大の転機がおありになつたのではなからうかと、下賤の臆測で失礼千万ながら、私たちには、どうもそのやうに思はれてなりませんでした。前にも申し上げましたやうに和田さま御一族のお方たちは揃つて武勇には勝れて居られましたが、陰謀の智略に於いては欠けてゐるところがおありの御様子で、その御謀叛も、すでに二箇月も三箇月も前から取沙汰せられて居りまして、御ところの人たちも前々から覚悟をきめて、各々ひそかに武具をととのへ、夜も安らかには眠らずに警衛をさをさ怠らず、異常の御緊張を以て一日一日を送り迎へして居りましたのに、将軍家に於いては、わけもない御酒宴などお開きになり、その四月七日には御警護の山内左衛門尉さまと筑後四郎兵衛尉さまをお召しになつて不思議の御予言をなされ、お二人とも、颯つとお顔色を変へて拝受の御酒盃を懐にねぢこみ早々に退出なされるのを、おだやかにお笑ひになりながら御目送あそばして、

浮キシヅミハテハ泡トゾ成リヌベキ瀬々ノ岩波身ヲクダキツツ

 といふ和歌を一首、いたづら書きのやうに懐紙に無雑作におしたためになり、またもお酒をおすごしなさるのでございました。またひきつづいて、十五日には、折からの名月に対して和歌の御会をおひらきになり、この頃すでに和田さま御一族の方は御ところに出仕なさる事も少くなつてゐたのでございますが、その夜、義盛さまの御嫡孫、和田新兵衛尉朝盛さまが、珍らしく、ひよつこり御会においでなさいましたので、将軍家はいたくお喜びなされ、もともとお気にいりの朝盛さまでもございましたので、その場に於いて地頭職をいくつもいくつも一枚の紙に列記なされて、直々にお下渡しになり、

行キメグリ又モ来テ見ンフルサトノ宿モル月ハ我ヲワスルナ

 といふお歌までお作りになつて朝盛さまに披露なされ、朝盛さまはその御恩徳に涙を流して御退出なさいましたが、その夜、朝盛さまは出家なされたとか、さうして御父祖に宛て、叛逆のお企はおやめになりませぬか、一族に従つて主君に弓射る事も出来ず、また御ところ方に候して御父祖に敵する事も出来ず、やむなく出家いたしまする、といふ御書置を残して京都へその夜のうちに御発足になつたとか、翌る日その書置を御祖父の左衛門尉義盛さまが御覧になつて、激怒なされ、ただちに追手をさしむけ、朝盛さまを連れかへらせたとか、のちに人から承りましたが、将軍家はそのやうな騒ぎにも驚きなさる御様子はなく、連れかへられた朝盛さまが、十八日に墨染の衣の御出家のお姿のままで御ところへおわびに参りました時にも、深い仔細をお尋ねなさるでもなく、またその打つて変つた入道姿を珍らしがるわけでもなく、何もかも前から御見透しだつたやうな落ちついた御態度で、

歎キワビ世ヲソムクベキ方知ラズ吉野ノ奥モ住ミウシト云ヘリ

 といふ和歌をお下渡しになり、ただ静かにお笑ひになつて居られました。ついでながら、この将軍家の最も御寵愛なされてゐた新兵衛尉朝盛さまさへ、この五月の兵乱には、やつぱり和田氏御一族に従ひ、黒衣の入道の姿で御ところへ攻め入つたのでございました。さて、四囲の気配が、なんとなく刻一刻とけはしくなつてまゐりましても、将軍家おひとりは、平然たるもので、二十日には、非人に施行を仰出され、これ年来の御素願の由にて、また二十七日には、ふいと思ひ出されたやうに、ちかごろ和田が何かたくらんでゐるさうだが、どんな事をしてゐるのか見て来るやうに、といまさらの如くお使ひを和田左衛門尉さまのお宅にさしむけ、そのお使ひの帰つてまゐりまして、やはり謀叛の御様子に見受けられます、とはつきり言上いたしましても、将軍家はお顔色もお変へにならず、それはつまらぬ事だから、やめるやうに言つて来なさい、とさらに別のお使ひをなんの御熱意も無くお出しなされたりなど致しまして、お傍で拝見してゐてもはなはだ歯がゆく、まことに春風駘蕩とでも申しませうか、何事にもお気乗りしないらしく、失礼ながら、ただ、呆然として居られ、さうしていつも御酒気の御様子で、あの眼ざめるばかりの凜乎たる御裁断は、その時分には片鱗だも拝する事が出来ませんでした。相州さまも、どういふわけか、その頃の将軍家の御政務御怠慢をば見て見ぬ振りをなさつて、いや、それどころか、将軍家とお顔をお合せになるのを努めて避けていらつしやつたやうでございました。そのうちに五月二日、夕刻に至つて大膳大夫広元さまは、ころげるやうに御ところへ駈込んでまゐりまして、和田氏一族挙兵の由を御注進申し上げました。その時ちやうど広元入道さまは、お宅にお客さまがあつてお酒盛をはじめていらつしやつたところに、和田左衛門尉さまのお宅に軍兵競ひ集るといふ報がはひり、入道さまは、お客さまも何も打捨て、衣服も改めずに御ところへ馳せ参じたのださうで、やがて後から相州さまも、三浦さま御一族からの内報に依りただいま和田氏挙兵の事を聞き及びましたと言つて、実に落ちつき払つて御ところへ参入いたしましたが、御承知のとほり三浦さまは、もともと和田さまとは御一族で、このたびの和田氏の謀逆にも御一族のよしみを以て加盟を致し、起請文までお書きになりながら、この日にはかに和田氏を裏切り、こつそり相州さまのお宅へ行つて和田氏の今日の蜂起を言上いたしましたのださうで、この三浦氏御一族の裏切さへ無かつたならば、或いは、この合戦も和田氏の勝利となり北条氏全滅の憂目に逢つたかも知れず、それほど大事なところなのに、相州さまは、その時お宅でお客と囲碁の最中で、さうして三浦左衛門尉さまの手柄顔なる密告に接しても、ちよつと振り向いて軽く左衛門尉さまに会釈をしただけで一言のお礼もおつしやらなかつたさうで、やがて静かに立ち上りながらも碁盤からお眼をはなさず、ゆつくりと囲碁の御勝負の結果を目算なされ、どうやらこちらが二目の勝ちのやうです、と低く呟いて、それからお客に失礼を詫び、素早く衣服を着換へ、折烏帽子を立烏帽子に改めて、馬を飛ばして御ところに駈けつけたとか、入道さまの見苦しい狼狽振りと較べて、いかに相州さまが武人の故とは言へ、なかなか、ただものの出来る芸当ではないと、これはのちのちの評判でございました。とかくするうちに和田勢は御ところに押し寄せ、日没の頃には、はや四面賊兵、あまつさへ御ところに火を放つものがあつたのでたちまちめらめらと八方に燃えひろがり、将軍家は、相州さまや入道さま、それから私たちお傍の者数人を引連れて故右大将家の法華堂へ御避難あそばす事になりまして、その時も将軍家は、お酒を召し上つた御様子はございませんでしたのに、御酒気のやうに拝され、お顔も赤く光り、さうして絶えずにこにこお笑ひになつて、時々立ちどまつては、四方の兵火を物珍らしげにお眺めになつて、こんなところへもしも賊兵が、と思ふとお傍の私たちは本当に気が気でございませんでした。

将軍トハ、所詮、凡胎。厩戸ノ皇子ハ、寵臣ニソムカレタ事ハナカツタ。

 とおつしやつて、おひとりでひどく笑ひ咽ばれたのも、この時の事でございました。いつもお心にかけて居られるのは、遠い厩戸の皇子さまの御治蹟で、せめてその万分の一にでもおあやかり申したいとこれまで努めて来られたのに、いま和田氏御一族にそむかれて、厩戸の皇子さまにあやかる資格も何もない御自身の不徳をはつきり知つたとでもいふやうなお気持から、そんな事をおつしやつたのかも知れませぬが、そのお笑ひのお顔は、お痛はしいと申すよりは、もつたいない言草ながら、おそろしく異様奇怪のものでございまして、将軍家御発狂かと一瞬うたがはれましたほど、あやしく美しく、思はず人を慄然たらしむるものがございました。そのやうなうちにも御ところの周囲に於いては両軍乱れ戦ひ、中にも義盛さまの御三男朝夷名三郎義秀さま、九尺ばかりの鉄の棒を振りまはして阿修羅のやうに荒れ狂ひ、まさに鎮西八郎さまの再来の如く向ふところ敵なく、れいの相州さまの御次男朝時さまが、さきに好色の御失態から駿河に籠居なされてゐたのを、このたび鎌倉の風雲急なる由を聞いてどさくさまぎれに帰参なされて、ひとつ大きな手柄を立て以前の好色の汚名を雪がうとしてこの義秀さまの背後から組みつかれたさうですが、もとより義秀さまの相手ではなくたちまち鉄棒をくらつて大怪我をなされ、それでもお怪我くらゐですんで、いのちを落さぬところが何とも言へずお偉いところだと、奇妙なお世辞を申す者もあり、どうやら面目をほどこす事が出来ましたさうで、まことに和田勢はこの義秀さまばかりでなくその百五十騎ことごとく一騎当千の荒武者で、はじめは軍勢を三手にわけて第一は相州の宅、つぎは広元入道の宅、さうして一手は御ところに参入して将軍家を擁護し、大義名分の存するところを明かにして、奸賊相州ならびに入道を誅するといふ仕組みの筈でございましたのださうですが、相州さまも入道さまも逸早く御ところに駈込んでおしまひになりましたので、いまは詮方なしと三軍が力を合せて御ところに攻め入る事になつたとか、御ところ方に於いては匠作泰時さまが御大将となつて一族郎党を叱咤鞭撻なされ、みづからも身命を捨て防戦につとめて、終夜相戦ひ、暁に及んで無勢の和田方はさすがに疲労し、ひとまづ、さつと海辺まで軍を引き上げ、その頃から、小雨がしとしとと降り出しまして、恐ろしいうちにも、悲しく、あはれ深い合戦でございました。翌る三日の寅剋には、和田勢への援軍、横山馬允時兼さまの率ゐる三千余騎が腰越浦に駈けつけてまゐりまして、御ところ方は、にはかに心細く危く相成り、その時、間髪を入れず智者の相州さまは、諸方に将軍家の御教書を発した為に、それまで、どちらがいつたい賊軍なのか、わけがわからず待機中であつた諸国の軍勢も一度にどつと御ところ方について、ここに全く大勢が決せられた御様子でございましたが、法華堂に於いて相州さまから御教書の御判を請はれて、将軍家はその御教書の文章をざつと御一読なされ、声を立ててお笑ひになられ、

コレハ誰ノ文章デス

 と呆れなさつたやうにお眼を丸くして相州さまにお尋ねになりました。その時お傍の私たちも、それを拝見いたしましたが、いかにもひどい、たどたどしい御文脈で、そのくせ変に野暮つたい狡猾なところもあり、将軍家が無邪気にお笑ひなされたのも、もつともと思ひました。その時の文章をいまでも、うろ覚えに記憶いたして居りますが、なんでもこんな工合ひの御教書でございました。

きん辺のものに、このよしをふれて、めしぐすべきなり、わだのさゑもん、つちやのひやう衛、よこ山のものども、むほんをおこして、きみをいたてまつるといへども、べちの事なき也、かたきのちりぢりになりたるを、いそぎうちとりてまいらすへし、
五月三日 巳剋
大膳大夫
相模守

 けれども相州さまは、にこりともなさらず、
「いくさの最中には、これくらゐのもので、ちやうどいいのです。将軍家には、戦ふ者の心が、わかつて居られませぬ。」とかつて色をなしてお怒りの御様子をいちどもお見せにならなかつた相州さまも、この時ばかりは、大声で呶鳴るやうにおつしやいました。武人はやはり合戦となると、御平常とがらりと変つて、いかめしく猛り立つもののやうでございます。将軍家も流石に御不興気のお顔をなされ、何もおつしやらず、さつさと御判をたまはり、

相州ハ、マダ、死ニタクナイモノト見エル。

 とあとで、誰にとも無くおひとりで呟いて居られました。将軍家と相州さまが争論に似た事をなさいましたのは、あとにもさきにも、ただこの時いちどきりで、つねに御衝突が絶えなかつたらしいなどとれいの仔細らしい取沙汰はもとより根も葉も無い事でございまして、将軍家の御闊達と無類の御気品はもとよりの事、相州さまにしても当時抜群の大政治家でございますし、そのやうなお方たちが、決してあらはな御衝突をなさるわけはなく、それは前にも申し上げて置いたやうに思ひますが、いつも、お互ひの御胸中を素早くお見透しなさつて、瞬時に御首肯し合ひ、笑つておわかれになるといふやうな案配でございましたのに、この時に限つて、それは相州さまが合戦のためにお気が立つて居られたせゐかと思はれますが、少しおだやかならぬものがただよひ、相州さまはその頃すでに五十の坂を越して居られまして、なほまた北条家存亡の大合戦の最中の事でもございましたから、そんなのは、さしたる事でもなかつたやうに覚えて居られたかも知れませぬが、生れてこのかた御父母君にさへ、大声で叱られるなどといふことの無かつたお若い将軍家にとつては、なかなかに忘れられぬ思ひもおありではなからうかと、その日うす暗い御堂の隅に控へてゐた当時十七歳の私まで、胸苦しく拝察申し上げたことでございました。

 

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