記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#156「右大臣実朝」八

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【冒頭】

五月二日、酉剋に至って和田四郎左衛門尉義直さまが討死をなされ、男の義直さまを何ものにも代えがたくお可愛がりになっていた老父義盛さまは、その悲報をお聞きになって、落馬せんばかりに驚き、人まえもはばからず身を震わせて号泣し、あれが死んだのでは、もう、なんにもならぬ、合戦もいやになった、と嬰児(えいじ)のむつかる如く泣きに泣いて戦場をさまよい歩き、ついに江戸左衛門尉能範(よしのり)の所従に討たれ、つづいて御一族も或いは討死、或いは逐電、ここに鎌倉の天地震怒の和田合戦も、ようやく、おさまり、その夜は由比浦(ゆいのうら)の汀(みぎわ)に仮屋を設け、波の音を聞きつつ、数百の松明の光のもとで左衛門尉義盛さま以下の御首を実検せられたとか、将軍家は首実検をおいといなされ、私たち近習の者と共に御堂に籠っておいでなさいまして、少しくお酒などおあがりになって、けれども流石にその夜はお気軽の御冗談もおっしゃらず、うつむいて何やら御思案の御様子でございました。

【結句】

その後まもなく、宗政さまの御出社をもお許しに相成りましたが、けれども、御将軍家に於いては以前と少しも変らず、やっぱり和歌管弦に御耽溺(ごたんでき)なされ、宗政さまの身命を賭しての罵言(ばげん)も、一向にお気にとめていらっしゃらない御様子で、ただ、御朝廷と神仏に関する事になると、にわかに別人の如く凛乎(りんこ)たる御態度をお示しになり、それからもう一つ、あの、さみだれ降る日に、つぎつぎと討たれて消えた和田氏御一族郎党の事は、さめても寝ても、瞬時もお心から離れなかったらしく、そのとしの十二月三日には、とうとう御将軍家御自身で寿福寺へお参りになり、故左衛門尉義盛さまをはじめその御一族郎党の御冥福をお祈りになったほどでございました。

 

「右大臣実朝」について

新潮文庫『惜別』所収。

・昭和18年3月末に脱稿。

・昭和18年9月25日、書下ろし中編小説『右大臣実朝』を、「新日本文藝叢書」の一冊として錦城出版社から刊行。

惜別 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)

同年。同月。四日、甲辰、小雨降る、古郡左衛門尉兄弟は、甲斐国坂東山波加利の東競石郷二木に於て自殺す矣、和田新左衛門尉常盛並びに横山右馬允時兼等は、坂東山償原別所に於て自殺すと云々、時兼は横山権守時広の嫡男なり、伯母は、義盛の妻となり、妹は又常盛に嫁す、故に今此謀叛に与同すと云々、件の両人の首今日到来す、凡そ固瀬河辺に梟する所の首二百三十四と云々、辰剋、将軍家法花堂より東御所に入御、其後西の御門に於て、両日合戦の間に、疵を被る軍士等を召聚められて、実検を加へらる、山城判官行村奉行たり、行親、忠家之に相副ふ、疵を被るの者凡そ九百八十八人なり。五日、乙巳、天霽、義盛、時兼以下の謀叛の輩の所領美作淡路等の国の守護職、横山庄以下の宗たるの所々、先づ以て之を収公し、勲功の賞に充てらる可しと云々、相州、大官令之を沙汰し申さる、次に侍別当の事、義盛の闕を以て相州に仰せらると云々。六日、丙午、天霽、申剋、将軍家前大膳大夫広元朝臣の亭に入御、是去る二日、御所焼失せるに依るなり、御台所、又南御堂より其所に入御、尼御台所、本所に渡御。九日、己酉、天晴、広元朝臣奉行として、御教書を在京の御家人の中に送らる、相州、大官令連署し、又御判を載せらると云々、是在京の武士参向す可からず、関東に於ては、静謐せしめ畢んぬ、早く院御所を守護す可し、又謀叛の輩西海に廻るの由其聞有り、用意致す可きの由なり、宗として佐々木左衛門尉広綱に仰せらると云々、又和田平太胤長、配所陸奥国岩瀬郡鏡沼の南辺に於て誅せらる。

 五月三日、酉剋に至つて和田四郎左衙門尉義直さまが討死をなされ、日頃この御四男の義直さまを何ものにも代へがたくお可愛がりになつてゐた老父義盛さまは、その悲報をお聞きになつて、落馬せんばかりに驚き、人まへもはばからず身を震はせて号泣し、あれが死んだのでは、もう、なんにもならぬ、合戦もいやになつた、と嬰児のむつかる如く泣きに泣いて戦場をさまよひ歩き、つひに江戸左衛門尉能範の所従に討たれ、つづいて御一族も或いは討死、或いは逐電、ここに鎌倉の天地震怒の和田合戦も、やうやくをさまり、その夜は由比浦の汀に仮屋を設け、波の音を聞きつつ、数百の松明の光のもとで左衛門尉義盛さま以下の御首を実検せられたとか、将軍家は首実検をおいとひなされ、私たち近習の者と共に御堂に籠つておいでなさいまして、少しくお酒などおあがりになつて、けれども流石にその夜はお気軽の御冗談もおつしやらず、うつむいて何やら御思案の御様子でございました。

焔ノミ虚空ニミテル阿鼻地獄ユクヘモナシトイフモハカナシ
カクテノミ有リテハカナキ世ノ中ヲウシトヤイハン哀トヤ云ハン
神トイヒ仏トイフモヨノナカノ人ノ心ノホカノモノカハ

 などといふ和歌のお出来になつたのもその夜の事でございまして、五月雨がやまず降り続き、どこからともなく屍臭がその御堂の奥にまで忍び込んでまゐりまして、それから二十数年経つた今でも私はその夜の淋しい御堂の有様をまざまざと夢に見るほどでございます。翌る四日には、将軍家は法華堂から、焼け残つた尼御台さまの御邸宅にお移りなされ、やがて西の御門に幔幕を曳いて将軍家のお座をまうけ、疵ついた軍士を召集めておいたはりの閲を給ふ事になりまして、手負ひの将士九百八十八人が続々と御前に集り、れいの相模次郎朝時さまも御兄君の匠作泰時さまに背負はれてその場に参りまして、あの時の朝夷名三郎義秀さまの大鉄棒がよほどこたへたと見え、その呻き声のお高いこと、ことさらに御苦痛をお装ひなのではなからうかと思はれたほどに大袈裟にお顔をゆがめ、無念、無念、とお叫びになるので、お庭のここかしこから軽い失笑の声さへ起りまして、けれども将軍家は終始、厳粛のお態度を変へず、いちいち重く御首肯なされて居られました。ついで将軍家は、このたびの合戦に於いて抜群の勲功をいたした者をお尋ねに相成り、諸将士はこれに対して異口同音に、敵方に於いては朝夷名三郎、御ところ方に於いては匠作泰時さまをお挙げになつて、匠作泰時さまはただちに御前ちかく召されておほめの御言葉を賜りましたが、その時、匠作さまは恥ぢらふ如く内気の笑ひをお顔に浮べ、勲功などとは、もつてのほか、匠作このたびの合戦に於いては、まことにぶざまの事ばかり多く、実はついたちの夜にばかな大酒をいたしまして、二日にはひどい宿酔、それ和田氏の御挙兵と聞きましても夢うつつ、ほとんど手さぐりにて、とにかく甲冑をつけ馬に乗つてはみましたが、西も東も心許なく、ああ大酒はいかん、もののお役に立ち申さぬ、爾後は禁酒だ、と固く心に誓ひ、なほも呆然たるうちに敵兵と逢ひ、数度戦つて居りまするうちに喉がかわいてたまらなくなり、水を、と士卒に言ひつけましたところ、こいつまた気をきかして小筒に酒をつめて差し出しまして、一口のんですぐに酒だと気がつきましたものの、酒飲みの意地汚なさ、捨てるには惜しく、ついさつきの禁酒の誓を破つてごくごくと一滴あまさず飲みほして、これからが本当の禁酒だなどと、まことにわれながらその薄志弱行にはあいそがつきまして、さう言ひながらも昨夜はまた戦勝の心祝ひなどと理窟をつけて少しやつてゐるやうな有様なのでございますから、まだまだ修行はいたらず、とても、おほめにあづかるほどの男ではございませぬ、この後は努めて、大酒をつつしむやうに致しまするから、どうか、このたびの失態は御寛恕のほどを願はしく存じます、としんから恐縮し切つて居られる御様子で汗を流して言上なさいましたが、将軍家をはじめ満座の諸将士ひとしく、この匠作さまの功にほこらぬ美しいお心に敬服なされたやうでございました。この匠作泰時さまは、その翌日、抜群の勲功により陸奥国遠田郡を賜りましたけれども、固く之を御辞退申し上げ、そもそもこの度の合戦は和田左衛門尉、将軍家に対して逆心をさしはさまず、ただ相州を討たんとして挙兵なされたのであつて、自分は相州の子として父の敵を迎へ撃つたまでの事、しかも自分の用兵拙劣にして多くの御ところの将士を失ひ罪万死に価すと雖も幕臣として一の勲功も無し、とおつしやつたとか、いよいよ匠作さまのお名があがつて、しばらくは、どこへまゐりましても匠作さまの御評判で持ち切りの有様でございました。さて、匠作さまの禁酒のしくじり話の御披露がございました四日の、手負ひの軍士の集りました席上で、裏切者の三浦左衛門尉義村さまが、またも御卑怯の振舞ひに及び、心ある将士にいたく顰蹙せられましたが、合戦の後にはとかくこのやうなごたごたが起るものと見えます。波多野中務丞忠綱さまの米町ならびに政所に於いて両度ともに、まつさきかけて進みましたといふ申立てに対して、三浦左衛門尉さまはやをら御前に進み出て、米町の先陣は知らず、政所に於いて先登を承つたのはこの左衛門尉義村にちがひございませぬ、と異議をさしはさみましたので、たちまち御前に於いてお二人の醜い激論が生じ、相州さまは、忠綱さまに耳打ちして幔幕の陰にお連れになつて、これは私も後で人からうかがつた話でございますが、なんでもその折、相州さまのおつしやるには、あなたも落ちついてお考へになつたらどうです、このたびの合戦が、まあまあ無事にをさまつたのも三浦氏の忠義な密告のおかげです、米町の先陣はあなたときまつてゐるのだから、その功一つで我慢なさつて、もう一つの政所のはうは三浦氏に潔くおゆづりになつたはうが御賢明かと思ひますが、どうでせう、また、あとあと、いい事もありますから、といふ事だつたさうで、忠綱さまはそれを承つてせせら笑ひ、冗談言つてはいけません、勇士の戦場に向ふに当つては、ただ先登に進まんと念ずるのみ、武人の栄誉これに過ぎたるはなく、忠綱いやしくも父祖代々の家業を継いで弓馬の事にたづさはる上は、たとひ十度、二十度の先陣も敢へて多しとせず、いよいよ万代に武名を輝かさんと志してゐるのに、一つでたくさん、もう一つのはうは三浦氏にゆづれなどと、あなたはそれでも武士か、忠綱は恩賞も何もほしくござらぬ、ただ先陣の誉れを得たいだけです、と見事に言ひ切つたので、さすがの相州さまも二の句が継げず、いよいよ忠綱さまと義村さまを藤御壺の内に於いて対決せしむる事に相成り、その場には将軍家と私たち少数の近習の他に、相州さま、入道さま、民部大夫行光さまだけが伺候して余人は遠ざけられ、将軍家御直々のお裁きが行はれました。忠綱さまと義村さまは、お庭の簀子の円座におすわりになつて、まづ義村さまが、このたび和田左衛門尉義盛の政所襲来と同時に、義村、政所の前の南側に馳せ向ひ、まつさきに敵勢に矢を射込みましたが、塵ひとつ義村の眼前を駈け行くものは見受けられませんでした、といかにも実直さうに申し述べました。忠綱さまはせき込んで、いやいや忠綱ひとり、忠綱ひとり先登に進みました、南側も北側もありません、まつさきかけて進みました、うしろには自分の子の経朝、朝定がつづき、三浦氏は、そのまたうしろではなかつたでせうか、あまりかけ離れてゐると塵ひとつも見えない道理で、或いはまた三浦氏も実は盲目なのかも知れず、盲目は相手になりませぬゆゑ、どうかあの場に居合せた士卒たちを捜し出してそれにお尋ねのほどをお願ひ申し上げまする、とお顔を真赤になさつてどもりどもりおつしやいましたが、あまりお口汚いので、相州さまは片手を挙げて忠綱さまを制し、将軍家にちらと目くばせをなさいました。忠綱さまを御譴責なさいませと将軍家におすすめなさるやうな目くばせの仕方でございましたが、将軍家はこのやうな御裁判には少しもお気がすすまぬらしく、先刻から時々わき見などなさつて、ひどくもの憂げの御様子で、相州さまの目くばせにも一向お感じなさらず、

士卒ヲ捜スガヨイ

 とおつしやつて平然たるものでございました。やがて士卒三人おそるおそるお庭の片隅にまかり出まして、そのうちの一人が少し進み出て、赤皮縅の鎧、葦毛の馬の武者一騎あざやかに先登かけて居られました、と申し述べ、たちまち義村さまは平伏なされ、忠綱さまは得々としてあたりを見廻しました。赤皮縅は忠綱さまの御鎧、またその葦毛の馬は、相州さまから拝領の片淵と号する忠綱さま御自慢の名馬に相違ないのでございますから、もはや争論の余地も無く、将軍家は、興覚め顔に何事もおつしやらず、ついとお座を立つておしまひになりました。けれども義村さまは、なんと言つてもこのたびは、裏切りの大功名を立てたお方でございますし、そこは相州さま、入道さま等のお取計ひもあつて、何のおかまひもなかつたばかりか、陸奥国名取郡をたまはり、かへつて忠綱さまは、いかに両度の先登の功があつたとはいへ、義村さまほどの名門の御重臣を、お調子に乗つて盲目だのなんだの勝手の悪口を致したのはけしからぬとあつて、なんの恩賞も無かつたとかいふ事でございましたが、それにつけても左衛門尉義村さまは御一族の和田氏を裏切り、しかもその上、他人の軍功まで奪はうとなさつたとは、いやはや、どうにも、きたなき振舞ひと、おのづから、匠作泰時さまの御謙遜の御態度とも比較せられ、匠作さまのお名はあがるばかりで、義村さまの御ところに於ける不評判はまことに絶頂を極めました。

同年。六月大。廿六日、乙未、天霽、相州、武州、大官令等参会し、御所新造の事群議に及ぶ、是去る五月合戦の時、焼失するに依りてなり。
同年。七月小。七日、丙午、霽、今日御所に於て和歌御会有り、相州、修理亮、東平太重胤等其座に候する所なり。九日、戊申、陰、御所の造営、重ねて其沙汰有り。廿日、己未、故和田左衛門尉義盛の妻、厚免を蒙る、是豊受太神宮七社禰宜度会康高の女子なり、夫謀叛の科に依りて、所領を召放たるるの上、其身又囚人と為る、而して件の領所と謂ふは、神宮一円の御厨たるの間、禰宜等子細を申すに依り、唯に所を本宮に返付せらるるのみならず、剰へ恩赦に預る、是御敬神の他に異るの故なり。廿三日、壬戌、新造の御所の事、其沙汰有り、今日御前に於て、指図少々改めらるるの所々有り、今度中門を立てらる可きの由と云々。
同年。八月小。三日、辛未、天晴、風静なり、今日申剋、御所の上棟なり、相州以下諸人群参す。六日、甲戌、新造の御所の御障子の画図の風情の事、先々の絵御意に相叶はず。十七日、乙酉、京極侍従三位、二条中将雅経朝臣に付し、和歌文書等を将軍家に献ず、御入興の外他無しと云々。十八日、丙戌、霽、子剋、将軍家南面に出御、時に灯消え、人定まりて、悄然として音無し、只月色蛬思心を傷むる計なり、御歌数首、御独吟有り、丑剋に及びて、夢の如くして青女一人前庭を奔り通る、頻りに問はしめ給ふと雖も、遂に名乗らず、而して漸く門外に至るの程、俄かに光物有り、頗る松明の光の如し。廿日、戊子、天晴風静なり、将軍家新御所に移徙なり、御車京都より遅く到るの間、御輿を用ひらる、酉刻、前大膳大夫広元朝臣の第より、新御所に入御、大須賀太郎道信黄牛を牽く。廿二日、庚寅、天晴、未剋、鶴岳上宮の宝殿に、黄蝶大小群集す、人之を怪しむ。
同年。九月大。廿二日、戊午、将軍家火取沢辺に逍遥せしめ給ふ、是草花秋興を覧るに依りてなり、武蔵守、修理亮、出雲守、三浦左衛門尉、結城左衛門尉、内藤右馬允等供奉せしむ、皆歌道に携はるの輩なり。
同年。十月大。三日、己亥、今日御書を以て、大宮大納言殿の方に仰せらるる事有り、公家より西国の御領等の臨時の公事を課せらるるなり、一切御沙汰に及ぶ可からざるの由、広元朝臣の如き、之を申すと雖も、仰せて曰く、一向停止の儀に於ては、然る可からず。十三日、己酉、天晴、夜に入つて雷鳴、同時に御所の南庭に、狐鳴くこと度々に及ぶと云々。
同年。十一月大。廿三日、己丑、天晴、京極侍従三位相伝の私本万葉集一部を将軍家に献ず、御賞翫他無し、重宝何物か之に過ぎん乎の由、仰有りと云々。
同年。十二月大。三日、己亥、将軍家寿福寺に御参、仏事を修せしめ給ふ、是左衛門尉義盛以下の亡卒得脱の為と云々。七日、癸卯、鷹狩を停止す可きの旨、諸国の守護人等に仰せらる、事度々厳命有りと雖も、放逸の輩、動もすれば違犯有るの旨、聞食し及ぶに依りて、此の如しと云々、但し所処の神社の貢税の事に於ては、制するの限に非ずと云々。

 五月六日には将軍家は、広元入道さまの御邸宅にお移りになり、しばらくここを仮の御ところに定め、つづいて御台所さまも御入りあそばされ、けれども鎌倉近辺の人心はなかなかに静まらぬ様子で、五月、六月、ふたつきは何やら御ところの内外もざわめいて、御ところの人たちすべて落ちつかず、安からぬ気持でございました。相州さまひとりは、朝早くから夜おそくまで、ひどくおいそがしさうに御ところのあちこちを走りまはつて居られましたが、将軍家は相変らず、ぼんやりなされて、一日ぢゆうお奥でお草子などごらんになつて居られる事もございました。その頃は、御政務の御決裁にもほとんど御興味を失はれたやうに見受けられ、相州さまと入道さまに一切おまかせの御様子でございました。けれども、さすがに、御朝廷に対し奉る御忠誠だけは、いつ、いかなる場合も曇ることなく、この合戦直後の九日にも在京の御家人に宛て、関東はすでに平穏に帰したから、誰ひとり鎌倉へ馳せ参ずるには及ばぬ、それよりも、謀叛の残党が西方に遁走したとの説もあることゆゑ、専心、院御所を御守護まゐらすべし、との御教書を広元入道さまにお言ひつけになつて送付せしめられ、また、このとしの十月三日に、京の御所より幕府に対し臨時の公事を課せられ、幕府もその頃は兵火の災厄をかうむつた後ではあり、御ところの新造なども行ひ、だいぶお懐がお苦しかつたらしく、広元入道さまなどは、とんでもない、とても応じ切れるものでない、まつぴらごめん、とただひたすらに幕府大事の心から浅墓にもお断りしようとして、入道さま御一存でもつてしかるべく御返辞のお手続きにとりかかつて居られるとの事の由を、お聞きになつた将軍家は、お眠りから覚めてむつくり起き上られたお人のやうに全く別人の如き峻厳のお態度をお示しになり、入道さまを召して、かたじけなくも御公家より御徴収の御沙汰を拝し、逡巡するとは大不忠、どのやうな場合に於いても、必ず、すみやかに応ずべきです、今後も同様、と激しい御口調で仰せられ、入道さまは手続きのやり直しに大まごつきにまごついた御様子でございました。まことにこの京都の御所に対し奉る御赤心と、それから敬神崇仏のお心の深さは、その御一生をつらぬいて不変のもののやうでございました。その時分から少しづつ御政務をお怠りなさるやうになつたとはいふものの、事、御朝廷に関するとお眠りから覚めたやうにおなりになると同様に、神仏に関してもまた、必ず、すすんで独自の御決裁をなさいましたやうでございます。そのとしの七月二十日に、故左衛門尉義盛さまの御内室が所領も没収され囚人として押し込められて居りましたのを、その身は御赦免にあづかり、あまつさへ領地もお返しに相成るといふ重なる御恩徳に浴しまして、それは勿論、将軍家がかねがね和田氏御一族を御憐憫なされてゐたからでもございませうが、さらに重大の理由としては、その御内室は豊受太神宮七社の禰宜のお娘で、その御領地といふのも太神宮七社の御経営に当てられてゐて、それを没収せられては神宮一円の維持も困難になりますといふ禰宜等の訴へがございましたので、将軍家に於いては一議に及ばず所領返付を仰出され、事のついでに、御内室のお身柄をも御放免なされたといふ御事情のやうでございました。また、将軍家は鷹狩のむごたらしい遊戯を極度にお厭ひなされ、建暦二年の八月にも、またその後にもたびたび之の禁止すべき旨を仰出されて居りましたが、このとしの十二月七日には、さらに厳重に鷹狩停止の事を諸国の守護人に御発令なされ、但し全国の神社がその貢税のために鷹狩を行ふのは一向さしつかへない、と神社の御儀式を重んじ、貢税の便宜をはからしむる思召しから、特別に御除外の例をお設けになつたほどでございました。このやうに、京都の御所や、諸国の神社仏閣の事になるとお眠りからお覚めになるのでごさいましたが、あとはもう、相州さまや入道さまにお任せ切りで、御自身は、ただ、のんびりと遊び暮して居られたやうなお工合でございました。五月の合戦で御ところが全焼いたしまして、六月、七月、八月の三箇月間は、将軍家に於いては、もつぱら新造の御ところの御設計に夢中の御様子でございまして、実にしばしば工事の現場に御渡りなされ、ああでもない、かうでもないとさまざまに御工夫あそばされて、せつかく出来上りかけてゐる門を、またはじめから作り直させたり、お襖の絵のお好みもむづかしく、わざわざお使ひを京都に送り、したしく京風の襖絵を調べて来させたり、なかなかの凝り様で、相州さまも今は何事もさからはず、将軍家の御設計のとほりに新しい御ところの工事を督促なされ、その京風の御新築をかへつて物珍らしげに拝見してゐるといふやうなふうでございました。相州さまも、その頃は故左衛門尉義盛さまのお跡を襲つてこのたびは侍別当をも兼ね、いきほひ隆々たるもので、けれども決してあらはには高ぶらず、かへつて頭を低くなされて、私ども下々の者にも如才なく御愛嬌を振撒き、将軍家に対しては、また別段と、不自然に見えるくらゐに慇懃鄭重の物腰で御挨拶をなされ、将軍家もまた、以前にくらべると何かと遠慮の、お優しいお言葉で相州さまに応対なさるやうになり、うはべだけを拝見するとお二人の間は、まへにもまして御円満、お互ひにおいたはりなされ、お睦げでございまして、そのとしの七月七日に、仮御ところに於いて、合戦以来はじめての和歌御会がひらかれました時にも、めづらしく相州さまがその御会に御出席なされ、松風は水の音に似てゐるとか何とかいふ、ほんの間に合せ程度の和歌を二つ三つお作りなさつたりなど致しまして、どなたも感服なさいませんでしたが、将軍家だけはそのやうなお歌をもいちいちお取上げになり、さすがに人間の出来てゐるお方はお歌もしつかりして居られる、とまんざら御嘲弄でもなささうな真面目の御口調でおほめになりまして、なるほどさうおつしやられて見ると、相州さまのお歌は、松風は水の音にしても、また鶉が鳴いて月が傾いたとかいふ歌にしても、なんでもない景物なのに相州さまがおよみになると、奇妙に凄いものが感ぜられない事もないやうな気もいたしまして、まことに相州さまといふお人は、あやしいお人柄の方でございます。将軍家のお歌も、このとしあたりが最も真剣に御労作なされた御時期でございまして、その翌年あたりからは、御歌道にもおこたり、時たま御酒宴の御座興にたはむれのお歌をおよみになるくらゐのもので、まじめに御思案なされてお作りになる事は年に二度か三度、ほとんど数へるくらゐに少くなつてしまひました。

何事モ十年デス。アトハ、余生ト言ツテヨイ。

 その頃しきりに、おつしやつて居られまして、それは或いは御政務の事に就いておつしやつて居られたのかも知れませぬが、けれどもまた歌道に於いても、その建保元年あたりには、もうそろそろ将軍家の和歌の御研鑽も十年ちかくなつてゐたのではないでせうか。御幼少の頃より和歌に親しみ、古写本の断片などに依り少しづつ本格のお手習ひをはじめ、十四歳の頃にはすでにお傍の人たちを瞠若たらしむるほどの秀歌をおよみになつて、さらにそのとし、内藤兵衛尉朝親さまが京都よりの御土産として新古今和歌集一巻を献上なされ、しかもその和歌集には御父君、右大将家のお歌も撰載せられて居りましたので、御感激もひとしほ強く、その和歌集に就いていよいよ歌道にはげみ、御ところの風流人を召集めて和歌の御会などもおひらきになり、たまたま御気色を蒙つた御家人が、和歌一首たてまつつたところ、たちまち御宥免になつたとかいふ事さへあつたほどで、承元二年、十七歳の御時に清綱さまから相伝古今和歌集の献上があり、末代までの重宝とおよろこびになつたのは前にも申し上げました事で、その翌年には御夢想に依つて住吉社に二十首の御詠歌を奉り、事のついでに、京極中将定家朝臣に御初学以来のお歌の中から三十首を選んで送り、ほどなく、定家卿からその三十首のお歌にそれぞれお点をつけて返進してまゐりまして、それ以来、定家卿について更に熱心に歌道にはげまれ、「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬまでも高き姿を願ひて、」などといふ定家卿のお教へに従ひ、翌々年の七月には、時ニヨリ過グレバ民ノ歎キナリ八大竜王雨止メ給ヘといふ堂々たるお歌をお作りになられ、もはや押しも押されもせぬ古今独歩の大歌人たる御品格をお示しになり、さうして、その十月には鴨の長明入道さまにお逢ひになり、稲妻の胸にひらめくが如く一瞬にして和歌の奥儀を感得なされ、それ以後のお歌はことごとく珠玉ならざるはなく、いまは、はや御年二十二歳、御自身も、このとしをもつて、わが歌の絶頂とお見極めをつけられた御様子でございまして、御詠歌の数もおびただしく、深夜、子の剋、丑の剋まで御寝なさらずにお歌を御労作なさつて居られる事も珍らしくはなく、そのやうな折にはお顔の色も蒼ざめ、おからだも透きとほるやうなこの世のお方でない不思議の精霊を拝する思ひが致しまして、精霊が精霊を呼ぶとでも申すのでございませうか、御苦吟の将軍家のお目の前に、寒々した女がすつと夢のやうに立つて、私もそれは見ました、まざまざと見ました、あなやの声を発するいとまもなく、矢のやうに飛んで消え去りましたが、天稟の歌人の御苦吟の折には、このやうな不思議も敢へて異とするに足らぬのではなからうかと、身の毛もよだつ思ひに震へながらも私はそのやうに考へ直した事でございました。このとしの暮に将軍家は、あの、のちに鎌倉右大臣家集または金槐和歌集と呼ばれた古今に比類なく美しい御和歌集を御自身のお手によつて御編纂なされたのでございますが、御師匠の定家卿もその前後には、この尊くすぐれた御弟子に対してひとかたならず御助勢を申し、前年の建暦二年の九月にも筑後前司頼時さまに託して御消息ならびに和歌の御文書を将軍家に送りまゐらせ、またこのとしには、八月にいちど、十一月にいちど和歌の文書を数々御献上に相成り、殊にも十一月の御文籍は、相伝の私本の万葉集だつたので、あの承元二年に清綱さまから相伝古今和歌集を献上せられた時よりも更に深くおよろこびの御様子に拝され、将軍家にとつては、古今和歌集も、また万葉集も、まさかはじめてお手にせられたといふわけはなく、不完全ながら写本の二、三は御所持になつて居られて前々からそのだいたいを熟知なされ、万葉集の歌に劣らぬ高い調べのお歌もずいぶん早くよりお作りになつていらつしやつたのでございますが、五月の和田合戦で御ところの文庫の書籍も大半は焼失し、お心淋しく存じて居られた折も折、定家卿から相伝の私本の万葉集が一部送られてまゐりましたのでございますから、そのおよろこびの深さもお察し出来るやうな気が致します。新しい御ところも御落成いたし、八月二十日にさかんな御儀式を以て御入りなされ、御ところの御設計に就いての御熱中も一段落と思ふと、こんどはこの和歌に最後の異常の御傾倒がはじまりまして、御政務は、やはりひと任せ、日夜、お歌の事ばかり御案じなされて居られる御様子で、お奥の女房たちを召集めて和歌の勝負をお言ひつけになるとすぐにまた、女人には和歌がわからぬ、とおつしやつて、武州さま、修理亮さま、出雲守さま、三浦左衛門尉さま、結城左衛門尉さま、内藤右馬允さま等のれいの風流武者の面々を引連れて火取沢辺に秋草を御興覧においでになり、たいへんの御機嫌で御連歌などをなされ、相州さまこそ、何もおつしやらない御様子でごさいましたが、数ある御家人の中には、その頃の将軍家の御行状に眉をひそめて居られたお方もあつた御様子で、たうとうそのとしの九月二十六日には、短慮一徹の長沼五郎宗政さまが、御ところに於いて大声を張り挙げ思ふさま将軍家の悪口を申し上げたといふ、まことに気まづい事さへ起つてしまひました。故畠山次郎重忠さまの御末子、阿闍梨重慶さまが、日光山の麓に於いて浮浪の徒を集めて、謀叛をたくらんでゐるといふ知らせが九月の十九日にございまして、御ところに於いてはその日のうちに長沼五郎宗政さまを鎮圧のために御差遣に相成りましたやうで、宗政さまは、ただちに下野国さして御進発、二十六日に、重慶さまのお首をさげて御意気揚々と帰つてまゐりました。将軍家はその折すこしく御酒気だつたのでございますが、宗政さまがお首をひつさげて御参着の事をちらと小耳にはさんで御眉をひそめられ、殺せとは誰の言ひつけ、畠山重忠は、このたびの和田左衛門尉とひとしく、もともと罪なくして誅せられたる幕府の忠臣、その末子がいささか恨みを含んで陰謀をたくらんだとて、何事か有らんや、よつて先づ其身を生虜らしめ、重慶より親しく事情を聴取いたし、しかるのちに沙汰あるべきを、いきなり殺して首をひつさげて帰るとは、なんたる粗忽者、神仏も怒り給はん、出仕をさしとめるやう、と案外の御気色で仲兼さまに仰せつけに相成り、仲兼さまはそのお叱りのお言葉をそのまま宗政さまにお伝へ申しましたところが、宗政さまは、きりりと眦を決し、おそれながら、たはけたお言葉、かの法師を生虜り召連れまゐるは最も易き事なりしかど、すでに叛逆の証拠歴然、もしこの者を生虜つて鎌倉に連れ帰らば、もろもろの女房、比丘尼なんど高尚の憂ひ顔にて御宥免を願ひ出づるは必定、将軍家に於いても、ただちにれいの御慈悲とやらのお心を用ゐてかかる女性の出しやばりの歎願を御聴許なさるは、もはや疑ひも無きところ、かくては謀逆もさしたる重き犯罪にあらず、ひいては幕府の前途も危ふからんかと推量仕つて、かくの如くその場を去らしめず天誅を加へてまゐりましたのに、お叱りとは、なあんだ、こんなふうでは今後、身命を捨て忠節を尽す者が幕府にひとりもゐなくなります、ばかばかしいにも程がある、そもそも当将軍家は、故右大将家の質素を旨とし武備を重んじ、勇士を愛し給ひし御気風には似もやらず、やれお花見、やれお月見、女房どもにとりまかれ、あさはかのお世辞に酔ひしれて和歌が大の御自慢とはまた笑止の沙汰、没収の地は勲功の族に当てられず、多く以て美人に賜はる、たとへば、榛谷四郎重朝の遺跡を五条の局にたまはり、中山四郎重政の跡を以て、下総の局にたまはるとは、恥づかし、恥づかし、いまにみるみる武芸は廃れ、異形の風流武者のみ氾濫し、真の勇士は全く影をひそめる事必至なり、御気色を蒙り、出仕をさしとめられて、かへつて心がせいせい致しました、と日頃の鬱憤をここぞと口汚く吐きちらし、肩をゆすつて御退出なさいましたさうで、お部屋が離れてゐるとはいへ、たいへんな蛮声でございましたから、将軍家のお耳元にも響かぬ筈はなく、お傍の私たちはひとしく座にゐたたまらぬ思ひではらはら致して居りましたが、さすがに将軍家の御度量は非凡でございました。

武将ハ、アレデヨイノデス。

 とまじめなお顔でおつしやつて、さうして何事もなかつたやうに静かに御酒盃をおふくみになられました。その後まもなく、宗政さまの御出仕をもお許しに相成りましたが、けれども、将軍家に於いては以前と少しも変らず、やつぱり和歌管絃に御耽溺なされ、宗政さまの身命を賭しての罵言も、一向にお気にとめていらつしやらない御様子で、ただ、御朝廷と神仏に関する事になると、にはかに別人の如く凜乎たる御態度をお示しになり、それからもう一つ、あの、さみだれの降る日に、つぎつぎと討たれて消えた和田氏御一族郎党の事は、さめても寝ても、瞬時もお心から離れなかつたらしく、そのとしの十二月三日には、たうとう将軍家御自身で寿福寺へお参りになり、故左衛門尉義盛さまをはじめその御一族郎党の御冥福をお祈りになつたほどでございました。

 

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