【冒頭】
人の世話にばかりなって来ました。これからもおそらくは、そんな事だろう。みんなに大事にされて、そうして、のほほん顔で、生きて来ました。これからも、やっぱり、のほほん顔で生きて行くのかも知れない。そうして、そのかずかずの大恩に報いる事は、おそらく死ぬまで、出来ないのではあるまいか、と思えば流石に少し、つらいのである。
【結句】
みんな私のせいなんだ。私の悪徳が、北さんの寿命をたしかに十年ちぢめたのである。そうして私ひとりは、相も変らず、のほほん顔。
「帰去来 」について
・新潮文庫『走れメロス』所収。
・昭和17年10月20日頃までに脱稿。
・昭和18年6月15日、『八雲』第二輯「小説戯曲篇」に発表。
全文掲載(「青空文庫」より)
人の世話にばかりなって来ました。これからもおそらくは、そんな事だろう。みんなに大事にされて、そうして、のほほん顔で、生きて来ました。これからも、やっぱり、のほほん顔で生きて行くのかも知れない。そうして、そのかずかずの大恩に報いる事は、おそらく死ぬまで、出来ないのではあるまいか、と思えば
実に多くの人の世話になった。本当に世話になった。
このたびは、北さんと中畑さんと二人だけの事を書いて置くつもりであるが、他の大恩人の事も、私がもすこし
私は絶対に
中畑さんも北さんも、共に、かれこれ五十歳。中畑さんのほうが、一つか二つ若いかも知れない。中畑さんは、私の死んだ父に、愛されていたようだ。私の町から三里ほど離れた
「修ッちゃあ!」と大声で呼ばれて、びっくりした。中畑さんが、その辺の呉服屋の奥から叫んだのである。だし抜けだったので、私は、実にびっくりした。中畑さんが、そのような呉服屋に勤めているのを私は、その時まで知らなかったのである。中畑さんは、その薄暗い店に坐っていて、ポンポンと手を
中畑さんに思いがけなく呼びかけられてびっくりした経験は、中学時代にも、一度ある。青森中学二年の頃だったと思う。朝、登校の途中、一個小隊くらいの兵士とすれちがった時、思いがけなく大声で、
「修ッちゃあ!」と呼ばれて仰天した。中畑さんが銃を
その、呼びかけられた二つの記憶を、私は、いつまでも大事にしまって置きたいと思っている。
昭和五年に東京の大学へはいって、それからは、もう中畑さんは私にとって、なくてはならぬ人になってしまっていた。中畑さんも既に独立して呉服商を営み、月に一度ずつ東京へ仕入れに出て来て、その度毎に私のところへこっそり立ち寄ってくれるのである。当時、私は
「先日、(二十三日)お母上様のお言いつけにより、お正月用の
昭和十一年の初夏に、私のはじめての創作集が出版せられて、友人たちは私のためにその祝賀会を、上野の精養軒でひらいてくれた。偶然その三日前に中畑さんは東京へ出て来て、私のところへも立ち寄ってくれた。私は中畑さんに着物をねだった。最上等の
この会には、中畑さんと北さんにも是非出席なさるようにすすめたのだが、お二人とも出席しなかった。遠慮したのかも知れない。あるいは御商売がいそがしく、そのひまが無かったのかも知れない。私は中畑さんと北さんに私の
私は北さんにも、実に心配をおかけしていた。北さんは東京、品川区の洋服屋さんである。洋服屋さんといっても、ただの洋服屋さんではない。変っている。お家は、普通の邸宅である。看板も、
三十歳のお正月に、私は現在の妻と結婚式を挙げたのであるが、その時にも、すべて中畑さんと北さんのお世話になってしまった。当時、私はほとんど無一文といっていい状態であった。
「着物が来ている。中畑さんから送って来たのだ。なんだか、いい着物らしいよ。」と言った。
黒羽二重の紋服一かさね、それに袴と、それから別に絹の
「はじめましょう、はじめましょう。」と中畑さんは気が早い。
その日の料理も、本式の会席膳で
「修治さん、ちょっと。」中畑さんは私を隣室へ連れて行った。そこには、北さんもいた。
私を坐らせて、それからお二人も私の前にきちんと坐って、そろってお辞儀をして、
「今日は、おめでとうございます。」と言った。それから中畑さんが、
「きょうの料理は、まずしい料理で失礼ですが、これは北さんと私とが、修治さんのために、まかなったものですから、安心してお受けなさって下さい。私たちも、先代以来なみなみならぬお世話になって居りますから、こんな機会に少しでもお報いしたいと思っているのです。」と、真面目に言った。
私は、忘れまいと思った。
「中畑さんのお骨折りです。」北さんは、いつでも功を中畑さんにゆずるのだ。「このたびの着物も袴も、中畑さんがあなたの御親戚をあちこち駈け廻って、ほうぼうから寄附を集めて作って下さったのですよ。まあ、しっかりおやりなさい。」
その夜おそく、私は嫁を連れて新宿発の汽車で帰る事になったのだが、私はその時、
先輩の家を出る時、私は北さんに、「結納金を半分、かえしてもらえねえかな。」と小声で言った。「あてにしていたんだ。」
その時、北さんは実に怒った。
「何をおっしゃる! あなたは、それだから、いけない。なんて事を考えているんだ。あなたは、それだから、いけない。少しも、よくなっていないじゃないですか。そんな事を言うなんて、まるでだめじゃないですか。」そう言って御自分の財布から、すらりすらりと紙幣を抜き取り、そっと私に手渡した。
けれども新宿駅で私が切符を買おうとしたら、すでに嫁の姉夫婦が私たちの切符(二等の切符であった)を買ってくれていたので、私にはお金が何も
プラットホームで私は北さんにお金を返そうとしたら、北さんは、
「はなむけ、はなむけ。」と言って手を振った。
結婚後、私にも、そんなに大きい間違いが無く、それから一年経って甲府の家を引きはらって、東京市外の
今は、北さんも中畑さんも、私に
私は早速、三鷹の
「太宰先生は、君たちに親切ですかね?」とニヤニヤ笑いながら尋ねるのである。女のひとは、まさかその人は私の昔からの監督者だとは知らないから、「ええ、たいへん親切よ」なぞと、いい加減のふざけた口をきくので私は、ハラハラした。その日、北さんは、一つの相談を持って来たのである。相談というよりは、命令といったほうがよいかも知れない。北さんと一緒に故郷の家を訪れてみないかというのである。私の故郷は、本州の北端、津軽平野のほぼ中央に
「兄さんから、おゆるしが出たのですか?」私たちはトンカツ屋で、ビイルを飲みながら話した。「出たわけじゃ無いんでしょう。」
「それは、兄さんの立場として、まだまだ、ゆるすわけにはいかない。だから、それはそれとして、私の一存であなたを連れて行くのです。なに、大丈夫です。」
「あぶないな。」私は気が重かった。「のこのこ出掛けて行って、玄関払いでも食わされて大きい騒ぎになったら、それこそ
「そんな事はない。」北さんは自信満々だった。「私が連れて行ったら、大丈夫。考えてもごらんなさい。失礼な話ですが、おくにのお母さんだって、もう七十ですよ。めっきり
「そうですね。」私は憂鬱だった。
「そうでしょう? だから、いま此の機会に、私が連れて行きますから、まあ、お家の皆さんに
「そんなに、うまくいくといいけどねえ。」私は、ひどく不安だった。北さんが何と言っても、私は、この帰郷の計画に就いては、徹頭徹尾悲観的であった。とんでもない事になるぞという予感があった。私は、この十年来、東京に於いて実にさまざまの
「なあに、うまくいきますよ。」北さんはひとり意気
「けれども、」弱い十兵衛は、いたずらに懐疑的だ。「なるべくなら、そんな横車なんか押さないほうがいいんじゃないかな。僕にはまだ十兵衛の資格はないし、
生真面目で、
「責任を持ちます。」北さんは、強い口調で言った。「結果がどうなろうと、私が全部、責任を負います。大舟に乗った気で、彦左に、ここはまかせて下さい。」
私はもはや反対する事が出来なかった。
北さんも気が早い。その
翌る日午後五時に、私たちは上野駅で逢い、地下食堂でごはんを食べた。北さんは、麻の白服を着ていた。私は
「風向きが変りましたよ。」と言った。ちょっと考えて、それから、「実は、兄さんが東京へ来ているんです。」
「なあんだ。それじゃ、この旅行は意味が無い。」私はがっかりした。
「いいえ。くにへ行って兄さんに逢うのが目的じゃない。お母さんに逢えたら、いいんだ。私はそう思いますよ。」
「でも、兄さんの
「そんな事は無い。私は、ゆうべ兄さんに逢って、ちょっと言って置いたんです。」
「修治をくにへ連れて行くと言ったのですか?」
「いいえ、そんな事は言えない。言ったら兄さんは、北君そりゃ困るとおっしゃるでしょう。内心はどうあっても、とにかく、そうおっしゃらなければならない立場です。だから私は、ゆうべお逢いしても、なんにも言いませんよ。言ったら、ぶちこわしです。ただね、私は東北のほうにちょっと用事があって、あすの七時の急行で出発するつもりだけど、ついでに津軽のお宅のほうへ立寄らせていただくかも知れませんよ、とだけ言って置いたのです。それでいいんです。兄さんが留守なら、かえって都合がいいくらいだ。」
「北さんが、青森へ遊びに行くと言ったら、兄さん喜んだでしょう。」
「ええ、お家のほうへ電話してほうぼう案内するように言いつけようとおっしゃったのですが、私は断りました。」
北さんは
「兄さんは、いつ帰るのかしら。まさか、きょう一緒の汽車で、――」
「そんな事はない。茶化しちゃいけません。こんどは町長さんを連れて来ていましたよ。ちょっと、手数のかかる用事らしい。」
兄は時々、東京へやって来る。けれども私には絶対に逢わない事になっているのだ。
「くにへ行っても、兄さんに逢えないとなると、だいぶ張合いが無くなりますね。」私は兄に逢いたかったのだ。そうして、黙って長いお辞儀をしたかったのだ。
「なに、兄さんとは此の後、またいつでもお逢い出来ますよ。それよりも、問題はお母さんです。なにせ七十、いや、六十九、ですかね?」
「おばあさんにも逢えるでしょうね。もう、九十ちかい筈ですけど。それから、五所川原の
「もちろん、皆さんにお逢い出来ます。」断乎たる口調だった。ひどくたのもしく見えた。
こんどの帰郷がだんだん楽しいものに思われて来た。次兄の英治さんにも逢いたかったし、また姉たちにも逢いたかった。すべて、十年振りなのである。そうして私は、あの家を見たかった。私の生れて育った、あの家を見たかった。
私たちは七時の汽車に乗った。汽車に乗る前に、北さんは五所川原の中畑さんに電報を打った。
七ジタツ」キタ
それだけでもう中畑さんには、なんの事やら、ちゃんとわかるのだそうである。
「あなたを連れて行くという事を、はっきり中畑さんに知らせると、中畑さんも立場に困るのです。中畑さんは知らない、何も知らない、そうして五所川原の停車場に私を迎えに来ます。そうしてはじめて、あなたを見ておどろく、という形にしなければ、中畑さんは、あとで兄さんに対して具合いの悪い事になります。中畑君は知っていながら、なぜ、とめなかったと言われるかもしれません。けれども、中畑さんは知らないのだ、五所川原の停車場へ私を迎えに来てはじめて知って驚いたのだ。そうして、まあせっかく東京からやって来たのだし、ひとめお母さんに逢わせました、という事になれば、中畑さんの責任も軽い。あとは全部、私が責任を負いますが、私は大久保彦左衛門だから、但馬守が怒ったって何だって平気です。」なかなか、ややこしい説明であった。
「でも、中畑さんは、知っているんでしょう?」
「だから、そこが、微妙なところなのです。七ジタツ。それでもういいのです。」大久保のはかりごとはこまかすぎて、わかりにくかった。けれども、とにかく私は北さんに、一切をおまかせしたのだ。とやかく不服を言うべきでない。
私たちは汽車に乗った。二等である。相当こんでいた。私と北さんは、通路をへだてて一つずつ、やっと席をとった。北さんは、老眼鏡を、ひょいと掛けて新聞を読みはじめた。落ちついたものだった。私はジョルジュ・シメノンという人の探偵小説を読みはじめた。私は長い汽車の旅にはなるべく探偵小説を読む事にしている。汽車の中で、プロレゴーメナなどを読む気はしない。
北さんは私のほうへ新聞をのべて寄こした。受け取って、見ると、その頃私が発表した「新ハムレット」という長編小説の書評が、三段抜きで大きく出ていた。或る先輩の好意あふれるばかりの感想文であった。それこそ、過分のお
青森駅に着いたのは翌朝の八時頃だった。八月の中ごろであったのだが、かなり寒い。
「いくら?」
「――せん!」
「え?」
「――せん!」
せん! というのは、わかるけれど何十銭と言っているのか、わからないのである。三度聞き直して、やっと、六十銭と言っているのだという事がわかった。私は
「北さん、いまの駅売の言葉がわかりましたか?」
北さんは、真面目に首を振った。
「そうでしょう? わからないでしょう? 僕でさえ、わからなかったんだ。いや、きざに江戸っ子ぶって、こんな事を言うのじゃないのです。僕だって津軽で生れて津軽で育った田舎者です。津軽なまりを連発して、東京では皆に笑われてばかりいるのです。けれども十年、故郷を離れて、突然、純粋の津軽言葉に接したところが、わからない。てんで、わからなかった。人間って、あてにならないものですね。十年はなれていると、もう、お互いの言葉さえわからなくなるんだ。」自分が完全に故郷を裏切っている明白な証拠を、いま見せつけられたような気がして私は緊張した。
車中の乗客たちの会話に耳をすました。わからない。異様に強いアクセントである。私は一心に耳を澄ました。少しずつわかって来た。少しわかりかけたら、あとはドライアイスが液体を素通りして、いきなり
五所川原駅には、中畑さんが迎えに来ていなかった。
「来ていなければならぬ
改札口を出て小さい駅の構内を見廻しても中畑さんはいない。駅の前の広場、といっても、石ころと
「来た! 来た!」大久保は絶叫した。
大きい男が、笑いながら町の方からやって来た。中畑さんである。中畑さんは、私の姿を見ても、一向におどろかない。ようこそ、などと言っている。
「これは私の責任ですからね。」北さんは、むしろちょっと得意そうな口調で言った。「あとは万事、よろしく。」
「承知、承知。」和服姿の中畑さんは、西郷隆盛のようであった。
中畑さんのお家へ案内された。知らせを聞いて、叔母がヨチヨチやって来た。十年、叔母は小さいお
中畑さんのお家で、私は
満目の稲田。緑の色が淡い。津軽平野とは、こんなところだったかなあ、と少し意外な感に打たれた。その前年の秋、私は新潟へ行き、ついでに佐渡へも行ってみたが、裏日本の草木の緑はたいへん淡く、土は白っぽくカサカサ乾いて、陽の光さえ微弱に感ぜられて、やりきれなく心細かったのだが、いま眼前に見るこの平野も、それと全く同じであった。私はここに生れて、そうしてこんな淡い薄い風景の悲しさに気がつかず、のんきに遊び育ったのかと思ったら、妙な気がした。青森に着いた時には小雨が降っていたが、間もなく晴れて、いまはもう薄日さえ射している。けれども、ひんやり寒い。
「この辺はみんな兄さんの田でしょうね。」北さんは私をからかうように笑いながら尋ねる。
中畑さんが傍から口を出して、
「そうです。」やはり笑いながら、「見渡すかぎり、みんなそうです。」少し、ほらのようであった。「けれども、ことしは不作ですよ。」
はるか前方に、私の生家の赤い大屋根が見えて来た。淡い緑の稲田の海に、ゆらりと浮いている。私はひとりで、てれて、
「案外、ちいさいな。」と小声で言った。
「いいえ、どうして、」北さんは、私をたしなめるような口調で、「お城です。」と言った。
ガソリンカアは、のろのろ進み、金木駅に着いた。見ると、改札口に次兄の英治さんが立っている。笑っている。
私は、十年振りに故郷の土を踏んでみた。わびしい土地であった。
「お墓。」と誰か、低く言った。それだけで皆に了解出来た。四人は黙って、まっすぐにお寺へ行った。そうして、父の墓を拝んだ。墓の傍の栗の大木は、昔のままだった。
生家の玄関にはいる時には、私の胸は、さすがにわくわくした。中はひっそりしている。お寺の
仏間に通された。中畑さんが仏壇の扉を一ぱいに押しひらいた。私は仏壇に向って坐って、お辞儀をした。それから、
背後にスッスッと足音が聞える。私は緊張した。母だ。母は、私からよほど離れて坐った。私は、黙ってお辞儀をした。顔を挙げて見たら、母は涙を拭いていた。小さいお婆さんになっていた。
また背後に、スッスッと足音が聞える。一瞬、妙な、(もったいない事だが、)気味の悪さを感じた。眼の前にあらわれるまで、なんだかこわい。
「修ッちゃあ、よく来たナ。」祖母である。八十五歳だ。大きい声で言う。母よりも、はるかに元気だ。「逢いたいと思うていたね。ワレはなんにも言わねども、いちど逢いたいと思うていたね。」
陽気な人である。いまでも晩酌を欠かした事が無いという。
お膳が出た。
「飲みなさい。」英治さんは私にビイルをついでくれた。
「うん。」私は飲んだ。
英治さんは、学校を卒業してから、ずっと金木町にいて、長兄の手助けをしていたのだ。そうして、数年前に分家したのである。英治さんは兄弟中で一ばん頑丈な体格をしていて、気象も
「便所は?」と私は聞いた。
英治さんは変な顔をした。
「なあんだ、」北さんは笑って、「ご自分の家へ来て、そんな事を聞くひとがありますか。」
私は立って、廊下へ出た。廊下の突き当りに、お客用のお便所がある事は私も知ってはいたのだが、長兄の留守に、勝手に家の中を知った振りしてのこのこ歩き廻るのは、よくない事だと思ったので、ちょっと英治さんに尋ねたのだが、英治さんは私を、きざな奴だと思ったかも知れない。私は手を洗ってからも、しばらくそこに立って窓から庭を眺めていた。一木一草も変っていない。私は家の内外を、もっともっと見て廻りたかった。ひとめ見て置きたい所がたくさんたくさんあったのだ。けれどもそれは、いかにも
「池の
私たちは午後の四時頃、金木の家を引き上げ、自動車で五所川原に向った。気まずい事の起らぬうちに早く引き上げましょう、と私は北さんと前もって打ち合せをして置いたのである。さしたる失敗も無く、
その夜は叔母の家でおそくまで、母と叔母と私と三人、水入らずで、話をした。私は、妻が三鷹の家の小さい庭をたがやして、いろんな野菜をつくっているという事を笑いながら言ったら、それが、いたくお二人の気に入ったらしく、よくまあ、のう、よくまあ、と何度も二人でこっくりこっくり
母も叔母も、私の実力を一向にみとめてくれないので、私は、やや、あせり気味になって、懐中から
「受け取って下さいよ。お寺参りのお
母と叔母は顔を見合せて、クスクス笑っていた。私は頑強にねばって、とうとう二人にそのお金を受け取らせた。母は、その紙幣を母の大きい財布にいれて、そうしてその財布の中から
翌る日、私は皆と別れて青森へ行き、
その旅行の二箇月ほど後に、私は偶然、北さんと街で逢った。北さんは、
「どうしたのです。
「ええ、盲腸炎をやりましてね。」
あの夜、青森発の急行で帰京したが、帰京の直後に腹痛がはじまったというのである。
「そいつあ、いけない。やっぱり無理だったのですね。」私も前に盲腸炎をやった事がある。そうして過労が盲腸炎の原因になるという事を、私は自分のその時の経験から知っていた。「なにせあの時の北さんは、強行軍だったからなあ。」
北さんは淋しそうに
【了】
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