【冒頭】
朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
「あ」
と
【結句】
恋、と書いたら、あと、書けなくなった。
「斜陽 一」について
・新潮文庫『斜陽』所収。
・昭和22年3月6日に脱稿。
・昭和22年7月1日、『新潮』七月号に「斜陽(連載第一回)」として「一」「二」を掲載。
斜陽 (新潮文庫)
全文掲載(「青空文庫」より)
一
朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
「あ」
と
「髪の毛?」
スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
「いいえ」
お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。ヒラリ、という形容は、お母さまの場合、決して誇張では無い。婦人雑誌などに出ているお食事のいただき方などとは、てんでまるで、違っていらっしゃる。弟の
「
スウプのいただきかたにしても、私たちなら、お
スウプに限らず、お母さまの食事のいただき方は、
「おむすびが、どうしておいしいのだか、知っていますか。あれはね、人間の指で握りしめて作るからですよ」
とおっしゃった事もある。
本当に、手でたべたら、おいしいだろうな、と私も思う事があるけれど、私のような高等御乞食が、下手に
弟の直治でさえ、ママにはかなわねえ、と言っているが、つくづく私も、お母さまの真似は困難で、絶望みたいなものをさえ感じる事がある。いつか、西片町のおうちの奥庭で、秋のはじめの月のいい夜であったが、私はお母さまと二人でお池の端のあずまやで、お月見をして、
「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」
とおっしゃった。
「お花を折っていらっしゃる」
と申し上げたら、小さい声を挙げてお笑いになり、
「おしっこよ」
とおっしゃった。
ちっともしゃがんでいらっしゃらないのには驚いたが、けれども、私などにはとても真似られない、しんから可愛らしい感じがあった。
けさのスウプの事から、ずいぶん脱線しちゃったけれど、こないだ
さて、けさは、スウプを一さじお吸いになって、あ、と小さい声をお挙げになったので、髪の毛? とおたずねすると、いいえ、とお答えになる。
「塩辛かったかしら」
けさのスウプは、こないだアメリカから配給になった
「お上手に出来ました」
お母さまは、まじめにそう言い、スウプをすまして、それからお
私は小さい時から、朝ごはんがおいしくなく、十時頃にならなければ、おなかがすかないので、その時も、スウプだけはどうやらすましたけれども、食べるのがたいぎで、おむすびをお皿に載せて、それにお
「かず子は、まだ、駄目なのね。朝御飯が一番おいしくなるようにならなければ」
とおっしゃった。
「お母さまは? おいしいの?」
「そりゃもう。私は病人じゃないもの」
「かず子だって、病人じゃないわ」
「だめ、だめ」
お母さまは、
私は五年前に、肺病という事になって、寝込んだ事があったけれども、あれは、わがまま病だったという事を私は知っている。けれども、お母さまのこないだの御病気は、あれこそ本当に心配な、
「あ」
と私が言った。
「なに?」
とこんどは、お母さまのほうでたずねる。
顔を見合せ、何か、すっかりわかり合ったものを感じて、うふふと私が笑うと、お母さまも、にっこりお笑いになった。
何か、たまらない恥ずかしい思いに襲われた時に、あの奇妙な、あ、という幽かな叫び声が出るものなのだ。私の胸に、いま出し抜けにふうっと、六年前の私の離婚の時の事が色あざやかに思い浮んで来て、たまらなくなり、思わず、あ、と言ってしまったのだが、お母さまの場合は、どうなのだろう。まさかお母さまに、私のような恥ずかしい過去があるわけは無し、いや、それとも、何か。
「お母さまも、さっき、何かお思い出しになったのでしょう? どんな事?」
「忘れたわ」
「私の事?」
「いいえ」
「直治の事?」
「そう」
と言いかけて、首をかしげ、
「かも知れないわ」
とおっしゃった。
弟の直治は大学の中途で召集され、南方の島へ行ったのだが、消息が絶えてしまって、終戦になっても行先が不明で、お母さまは、もう直治には
「あきらめてしまったつもりなんだけど、おいしいスウプをいただいて、直治を思って、たまらなくなった。もっと、直治に、よくしてやればよかった」
直治は高等学校にはいった頃から、いやに文学にこって、ほとんど不良少年みたいな生活をはじめて、どれだけお母さまに御苦労をかけたか、わからないのだ。それだのにお母さまは、スウプを一さじ吸っては直治を思い、あ、とおっしゃる。私はごはんを口に押し込み眼が熱くなった。
「大丈夫よ。直治は、大丈夫よ。直治みたいな悪漢は、なかなか死ぬものじゃないわよ。死ぬひとは、きまって、おとなしくて、
お母さまは笑って、
「それじゃ、かず子さんは早死にのほうかな」
と私をからかう。
「あら、どうして? 私なんか、悪漢のおデコさんですから、八十歳までは大丈夫よ」
「そうなの? そんなら、お母さまは、九十歳までは大丈夫ね」
「ええ」
と言いかけて、少し困った。悪漢は長生きする。綺麗なひとは早く死ぬ。お母さまは、お綺麗だ。けれども、長生きしてもらいたい。私は頗るまごついた。
「意地わるね!」
と言ったら、
子供たちは、
「
と言い張った。私はあの竹藪に蝮が十匹も生れては、うっかりお庭にも降りられないと思ったので、
「焼いちゃおう」
と言うと、子供たちはおどり上がって喜び、私のあとからついて来る。
竹藪の近くに、木の葉や
下の農家の娘さんが、垣根の外から、
「何をしていらっしゃるのですか?」
と笑いながらたずねた。
「蝮の卵を燃やしているのです。蝮が出ると、こわいんですもの」
「大きさは、どれくらいですか?」
「うずらの卵くらいで、真白なんです」
「それじゃ、ただの蛇の卵ですわ。蝮の卵じゃないでしょう。
娘さんは、さも
三十分ばかり火を燃やしていたのだけれども、どうしても卵は燃えないので、子供たちに卵を火の中から拾わせて、梅の木の下に埋めさせ、私は小石を集めて墓標を作ってやった。
「さあ、みんな、拝むのよ」
私がしゃがんで合掌すると、子供たちもおとなしく私のうしろにしゃがんで合掌したようであった。そうして子供たちとわかれて、私ひとり石段をゆっくりのぼって来ると、石段の上の、
「
とおっしゃった。
「蝮かと思ったら、ただの蛇だったの。けれど、ちゃんと埋葬してやったから、大丈夫」
とは言ったものの、こりゃお母さまに見られて、まずかったかなと思った。
お母さまは決して迷信家ではないけれども、十年前、お父上が西片町のお家で亡くなられてから、蛇をとても恐れていらっしゃる。お父上の御臨終の直前に、お母さまが、お父上の
けれども、そのお父上の亡くなられた日の夕方、お庭の池のはたの、木という木に蛇がのぼっていた事は、私も実際に見て知っている。私は二十九のばあちゃんだから、十年前のお父上の
けれども、この二つの蛇の事件が、それ以来お母さまを、ひどい蛇ぎらいにさせたのは事実であった。蛇ぎらいというよりは、蛇をあがめ、おそれる、つまり
蛇の卵を焼いたのを、お母さまに見つけられ、お母さまはきっと何かひどく不吉なものをお感じになったに違いないと思ったら、私も急に蛇の卵を焼いたのがたいへんなおそろしい事だったような気がして来て、この事がお母さまに或いは悪い
そうして、その日、私はお庭で蛇を見た。その日は、とてもなごやかないいお天気だったので、私はお台所のお仕事をすませて、それからお庭の芝生の上に
夕方ちかく、お母さまと支那間でお茶をいただきながら、お庭のほうを見ていたら、石段の三段目の石のところに、けさの蛇がまたゆっくりとあらわれた。
お母さまもそれを見つけ、
「あの蛇は?」
とおっしゃるなり立ち上って私のほうに走り寄り、私の手をとったまま立ちすくんでおしまいになった。そう言われて、私も、はっと思い当り、
「卵の母親?」
と口に出して言ってしまった。
「そう、そうよ」
お母さまのお声は、かすれていた。
私たちは手をとり合って、息をつめ、黙ってその蛇を
「けさから、お庭を歩きまわっていたのよ」
と私が小声で申し上げたら、お母さまは、
「そうでしょう? 卵を捜しているのですよ。可哀そうに」
と沈んだ声でおっしゃった。
私は仕方なく、ふふと笑った。
夕日がお母さまのお顔に当って、お母さまのお眼が青いくらいに光って見えて、その幽かに怒りを帯びたようなお顔は、飛びつきたいほどに美しかった。そうして、私は、ああ、お母さまのお顔は、さっきのあの悲しい蛇に、どこか似ていらっしゃる、と思った。そうして私の胸の中に住む蝮みたいにごろごろして醜い蛇が、この悲しみが深くて美しい美しい母蛇をいつか、食い殺してしまうのではなかろうかと、なぜだか、なぜだか、そんな気がした。
私はお母さまの軟らかなきゃしゃなお肩に手を置いて、理由のわからない
私たちが、東京の西片町のお家を捨て、
十一月の末に叔父さまから速達が来て、
「お母さま、おいでなさる?」
と私がたずねると、
「だって、お願いしていたのだもの」
と、とてもたまらなく淋しそうに笑っておっしゃった。
「きめましたよ」
かず子のお部屋へはいって来て、かず子の机に手をついてそのまま崩れるようにお坐りになり、そう
「きめたって、何を?」
「全部」
「だって」
と私はおどろき、
「どんなお家だか、見もしないうちに、……」
お母さまは机の上に
「和田の叔父さまが、いい所だとおっしゃるのだもの。私は、このまま、眼をつぶってそのお家へ移って行っても、いいような気がする」
とおっしゃってお顔を挙げて、かすかにお笑いになった。そのお顔は、少しやつれて、美しかった。
「そうね」
と私も、お母さまの和田の叔父さまに対する信頼心の美しさに負けて、
「それでは、かず子も眼をつぶるわ」
二人で声を立てて笑ったけれども、笑ったあとが、すごく淋しくなった。
それから毎日、お家へ人夫が来て、引越しの荷ごしらえがはじまった。和田の叔父さまも、やって来られて、売り払うものは売り払うようにそれぞれ手配をして下さった。私は女中のお君と二人で、衣類の整理をしたり、がらくたを庭先で燃やしたりしていそがしい思いをしていたが、お母さまは、少しも整理のお手伝いも、お
「どうなさったの? 伊豆へ行きたくなくなったの?」
と思い切って、少しきつくお
「いいえ」
とぼんやりしたお顔でお答えになるだけであった。
十日ばかりして、整理が出来上った。私は、夕方お君と二人で、紙くずや
「お母さま! お顔色がお悪いわ」
と叫ぶと、お母さまは薄くお笑いになり、
「なんでもないの」
とおっしゃって、そっとまたお部屋におはいりになった。
その夜、お
お母さまは、おや? と思ったくらいに
「かず子がいるから、かず子がいてくれるから、私は伊豆へ行くのですよ。かず子がいてくれるから」
と意外な事をおっしゃった。
私は、どきんとして、
「かず子がいなかったら?」
と思わずたずねた。
お母さまは、急にお泣きになって、
「死んだほうがよいのです。お父さまの亡くなったこの家で、お母さまも、死んでしまいたいのよ」
と、とぎれとぎれにおっしゃって、いよいよはげしくお泣きになった。
お母さまは、今まで私に向って一度だってこんな弱音をおっしゃった事が無かったし、また、こんなに
翌る日、お母さまは、やはりお顔色が悪く、なお何やらぐずぐずして、少しでも永くこのお家にいらっしゃりたい様子であったが、和田の叔父さまが見えられて、もう荷物はほとんど発送してしまったし、きょう伊豆に出発、とお言いつけになったので、お母さまは、しぶしぶコートを着て、おわかれの
汽車は割に
「お母さま、思ったよりもいい所ね」
と私は息をはずませて言った。
「そうね」
とお母さまも、山荘の玄関の前に立って、一瞬うれしそうな眼つきをなさった。
「だいいち、空気がいい。清浄な空気です」
と叔父さまは、ご自慢なさった。
「本当に」
とお母さまは
「おいしい。ここの空気は、おいしい」
とおっしゃった。
そうして、三人で笑った。
玄関にはいってみると、もう東京からのお荷物が着いていて、玄関からお部屋からお荷物で一ぱいになっていた。
「次には、お座敷からの眺めがよい」
叔父さまは浮かれて、私たちをお座敷に引っぱって行って坐らせた。
午後の三時頃で、冬の日が、お庭の芝生にやわらかく当っていて、芝生から石段を降りつくしたあたりに小さいお池があり、梅の木がたくさんあって、お庭の下には
「やわらかな景色ねえ」
とお母さまは、もの憂そうにおっしゃった。
「空気のせいかしら。
と私は、はしゃいで言った。
十畳間と六畳間と、それから支那式の応接間と、それからお玄関が三畳、お風呂場のところにも三畳がついていて、それから食堂とお勝手と、それからお二階に大きいベッドの
叔父さまは、この部落でたった一軒だという宿屋へ、お食事を交渉に出かけ、やがてとどけられたお弁当を、お座敷にひろげて御持参のウイスキイをお飲みになり、この山荘の以前の持主でいらした河田子爵と支那で遊んだ頃の失敗談など語って、大陽気であったが、お母さまは、お弁当にもほんのちょっとお箸をおつけになっただけで、やがて、あたりが薄暗くなって来た頃、
「すこし、このまま寝かして」
と小さい声でおっしゃった。
私がお荷物の中からお蒲団を出して、寝かせてあげ、何だかひどく気がかりになって来たので、お荷物から体温計を捜し出して、お熱を計ってみたら、三十九度あった。
叔父さまもおどろいたご様子で、とにかく下の村まで、お医者を捜しに出かけられた。
「お母さま!」
とお呼びしても、ただ、うとうとしていらっしゃる。
私はお母さまの小さいお手を握りしめて、すすり泣いた。お母さまが、お可哀想でお可哀想で、いいえ、私たち二人が可哀想で可哀想で、いくら泣いても、とまらなかった。泣きながら、ほんとうにこのままお母さまと一緒に死にたいと思った。もう私たちは、何も要らない。私たちの人生は、西片町のお家を出た時に、もう終ったのだと思った。
二時間ほどして叔父さまが、村の先生を連れて来られた。村の先生は、もうだいぶおとし寄りのようで、そうして
ご診察が終って、
「肺炎になるかも知れませんでございます。けれども、肺炎になりましても、御心配はございません」
と、何だかたより無い事をおっしゃって、注射をして下さって帰られた。
翌る日になっても、お母さまのお熱は、さがらなかった。和田の叔父さまは、私に二千円お手渡しになって、もし万一、入院などしなければならぬようになったら、東京へ電報を打つように、と言い残して、ひとまずその日に帰京なされた。
私はお荷物の中から最小限の必要な炊事道具を取り出し、おかゆを作ってお母さまにすすめた。お母さまは、おやすみのまま、三さじおあがりになって、それから、首を振った。
お昼すこし前に、下の村の先生がまた見えられた。こんどはお袴は着けていなかったが、白足袋は、やはりはいておられた。
「入院したほうが、……」
と私が申し上げたら、
「いや、その必要は、ございませんでしょう。きょうは一つ、強いお注射をしてさし上げますから、お熱もさがる事でしょう」
と、相変らずたより無いようなお返事で、そうして、
けれども、その強い注射が奇効を奏したのか、その日のお昼すぎに、お母さまのお顔が
「名医かも知れないわ」
とおっしゃった。
熱は七度にさがっていた。私はうれしく、この村にたった一軒の宿屋に走って行き、そこのおかみさんに頼んで、鶏卵を十ばかりわけてもらい、さっそく半熟にしてお母さまに差し上げた。お母さまは半熟を三つと、それからおかゆをお
あくる日、村の名医が、また白足袋をはいてお見えになり、私が昨日の強い注射の御礼を申し上げたら、
「大奥さまは、もはや御病気ではございません。でございますから、これからは、何をおあがりになっても、何をなさってもよろしゅうございます」
と、やはり、へんな言いかたをなさるので、私は噴き出したいのを
先生を玄関までお送りして、お座敷に引返して来て見ると、お母さまは、お床の上にお坐りになっていらして、
「本当に名医だわ。私は、もう、病気じゃない」
と、とても楽しそうなお顔をして、うっとりとひとりごとのようにおっしゃった。
「お母さま、障子をあけましょうか。雪が降っているのよ」
花びらのような大きい
「もう病気じゃない」
と、お母さまは、またひとりごとのようにおっしゃって、
「こうして坐っていると、以前の事が、皆ゆめだったような気がする。私は本当は、引越し
それから、きょうまで、私たち二人きりの山荘生活が、まあ、どうやら事も無く、
ああ、何も一つも包みかくさず、はっきり書きたい。この山荘の安穏は、全部いつわりの、見せかけに過ぎないと、私はひそかに思う時さえあるのだ。これが私たち親子が神さまからいただいた短い休息の期間であったとしても、もうすでにこの平和には、何か不吉な、暗い影が忍び寄って来ているような気がしてならない。お母さまは、幸福をお装いになりながらも、日に日に衰え、そうして私の胸には
恋、と書いたら、あと、書けなくなった。
【バックナンバーはこちらから!】
【ほかにも太宰関連記事を書いてます!】