【冒頭】
私は、ことしの夏、
【結句】
お死顔は、
「斜陽 五」について
・新潮文庫『斜陽』所収。
・昭和22年5月頃に脱稿。
・昭和22年9月1日、『新潮』九月号に「斜陽(長篇連載第三回)」として「五」「六」を掲載。
斜陽 (新潮文庫)
全文掲載(「青空文庫」より)
五
私は、ことしの夏、或る男のひとに、三つの手紙を差し上げたが、ご返事は無かった。どう考えても、私には、それより
もうこの上は、何としても私が上京して、上原さんにお目にかかろう、私の帆は既に挙げられて、港の外に出てしまったのだもの、立ちつくしているわけにゆかない、行くところまで行かなければならない、とひそかに上京の心支度をはじめたとたんに、お母さまの御様子が、おかしくなったのである。
一夜、ひどいお
「きょう、寒かったからでしょう。あすになれば、なおります」
とお母さまは、
先生は、ではのちほど伺いましょう、これは到来物でございますが、とおっしゃって応接間の
「御心配はございません。おくすりを、お飲みになれば、なおります」
とおっしゃる。
私は妙に
「お注射は、いかがでしょうか」
とおたずねすると、まじめに、
「その必要は、ございませんでしょう。おかぜでございますから、しずかにしていらっしゃると、間もなくおかぜが抜けますでしょう」
とおっしゃった。
けれども、お母さまのお熱は、それから一週間
直治は相変らずの東京出張で、もう十日あまり帰らない。私ひとりで、心細さのあまり和田の叔父さまへ、お母さまの御様子の変った事を葉書にしたためて知らせてやった。
発熱してかれこれ十日目に、村の先生が、やっと
先生は、お母さまのお胸を注意深そうな表情で打診なさりながら、
「わかりました、わかりました」
とお叫びになり、それから、また私のほうに真正面に向き直られて、
「お熱の原因が、わかりましてございます。左肺に浸潤を起しています。でも、ご心配は要りません。お熱は、当分つづくでしょうけれども、おしずかにしていらっしゃったら、ご心配はございません」
とおっしゃっる。
そうかしら? と思いながらも、
お医者がお帰りになってから、
「よかったわね、お母さま。ほんの少しの浸潤なんて、たいていのひとにあるものよ。お気持を丈夫にお持ちになっていさえしたら、わけなくなおってしまいますわ。ことしの夏の季候不順がいけなかったのよ。夏はきらい。かず子は、夏の花も、きらい」
お母さまはお眼をつぶりながらお笑いになり、
「夏の花の好きなひとは、夏に死ぬっていうから、私もことしの夏あたり死ぬのかと思っていたら、直治が帰って来たので、秋まで生きてしまった」
あんな直治でも、やはりお母さまの生きるたのみの柱になっているのか、と思ったら、つらかった。
「それでも、もう夏がすぎてしまったのですから、お母さまの危険期も峠を越したってわけなのね。お母さま、お庭の
私は、それを祈っていた。早くこの九月の、蒸暑い、
和田の叔父さまにお葉書を差し上げてから、一週間ばかりして、和田の叔父さまのお
老先生は私どもの亡くなったお父上とも御交際のあった方なので、お母さまは、たいへんお喜びの御様子だった。それに、老先生は昔からお行儀が悪く、言葉
「僕などもね、屋台にはいって、うどんの立食いでさ。うまいも、まずいもありゃしません」
と、のんきそうに世間話をつづけていらっしゃる。お母さまも、何気ない表情で
「いかがでございました? この村の先生は、胸の左のほうに浸潤があるとかおっしゃっていましたけど?」
と私も急に元気が出て、三宅さまにおたずねしたら、老先生は、事もなげに、
「なに、大丈夫だ」
と軽くおっしゃる。
「まあ、よかったわね、お母さま」
と私は心から微笑して、お母さまに呼びかけ、
「大丈夫なんですって」
その時、三宅さまは籐椅子から、つと立ち上って支那間のほうへいらっしゃった。何か私に用事がありげに見えたので、私はそっとその後を追った。
老先生は支那間の壁掛の
「バリバリ音が聞えているぞ」
とおっしゃった。
「浸潤では、ございませんの?」
「違う」
「気管支カタルでは?」
私は、もはや涙ぐんでおたずねした。
「違う」
「音、とても悪いの? バリバリ聞えてるの?」
心細さに、私はすすり泣きになった。
「右も左も全部だ」
「だって、お母さまは、まだお元気なのよ。ごはんだって、おいしいおいしいとおっしゃって、……」
「仕方がない」
「うそだわ。ね、そんな事ないんでしょう? バタやお卵や、牛乳をたくさん召し上ったら、なおるんでしょう? おからだに抵抗力さえついたら、熱だって下るんでしょう?」
「うん、なんでも、たくさん食べる事だ」
「ね? そうでしょう? トマトも毎日、五つくらいは召し上っているのよ」
「うん、トマトはいい」
「じゃあ、大丈夫ね? なおるわね?」
「しかし、こんどの病気は命取りになるかも知れない。そのつもりでいたほうがいい」
人の力で、どうしても出来ない事が、この世の中にたくさんあるのだという絶望の壁の存在を、生れてはじめて知ったような気がした。
「二年? 三年?」
私は震えながら小声でたずねた。
「わからない。とにかくもう、手のつけようが無い」
そうして、三宅さまは、その日は
「先生は、なんとおっしゃっていたの?」
とおたずねになった。
「熱さえ下ればいいんですって」
「胸のほうは?」
「たいした事もないらしいわ。ほら、いつかのご病気の時みたいなのよ、きっと。いまに涼しくなったら、どんどんお丈夫になりますわ」
私は自分の嘘を信じようと思った。命取りなどというおそろしい言葉は、忘れようと思った。私には、このお母さまが、亡くなるという事は、それは私の肉体も共に消失してしまうような感じで、とても事実として考えられないことだった。これからは何も忘れて、このお母さまに、たくさんたくさんご
私は立って、支那間へ行った。そうして、支那間の
「ああ、お母さまは、お元気なのだ。きっと、大丈夫なのだ」
と私は、心の中で三宅さまのご診断を強く打ち消した。
十月になって、そうして菊の花の咲く頃になれば、など考えているうちに私は、うとうとと、うたた寝をはじめた。現実には、私はいちども見た事の無い風景なのに、それでも夢では時々その風景を見て、ああ、またここへ来たと思うなじみの森の中の湖のほとりに私は出た。私は、和服の青年と足音も無く一緒に歩いていた。風景全体が、みどり色の霧のかかっているような感じであった。そうして、湖の底に白いきゃしゃな橋が沈んでいた。
「ああ、橋が沈んでいる。きょうは、どこへも行けない。ここのホテルでやすみましょう。たしか、
湖のほとりに、石のホテルがあった。そのホテルの石は、みどり色の霧でしっとり
「寒くない?」
「ええ、少し。霧でお耳が濡れて、お耳の裏が冷たい」
と言って笑いながら、
「お母さまは、どうなさるのかしら」
とたずねた。
すると、青年は、とても悲しく慈愛深く
「あのお方は、お墓の下です」
と答えた。
「あ」
と私は小さく叫んだ。そうだったのだ。お母さまは、もういらっしゃらなかったのだ。お母さまのお
ヴェランダは、すでに
「お母さま」
と私は呼んだ。
静かなお声で、
「何してるの?」
というご返事があった。
私はうれしさに飛び上って、お座敷へ行き、
「いまね、私、眠っていたのよ」
「そう。何をしているのかしら、と思っていたの。永いおひる寝ね」
と面白そうにお笑いになった。
私はお母さまのこうして優雅に息づいて生きていらっしゃる事が、あまりうれしくて、ありがたくて、涙ぐんでしまった。
「御夕飯のお献立は? ご希望がございます?」
私は、少しはしゃいだ口調でそう言った。
「いいの。なんにも要らない。きょうは、九度五分にあがったの」
にわかに私は、ぺしゃんこにしょげた。そうして、途方にくれて薄暗い部屋の中をぼんやり見廻し、ふと、死にたくなった。
「どうしたんでしょう。九度五分なんて」
「なんでもないの。ただ、熱の出る前が、いやなのよ。頭がちょっと痛くなって、
外は、もう、暗くなっていて、雨はやんだようだが、風が吹き出していた。灯をつけて、食堂へ行こうとすると、お母さまが、
「まぶしいから、つけないで」
とおっしゃった。
「暗いところで、じっと寝ていらっしゃるの、おいやでしょう」
と立ったまま、おたずねすると、
「眼をつぶって寝ているのだから、同じことよ。ちっとも、さびしくない。かえって、まぶしいのが、いやなの。これから、ずっと、お座敷の灯はつけないでね」
とおっしゃった。
私には、それもまた不吉な感じで、黙ってお座敷の灯を消して、隣りの間へ行き、隣りの間のスタンドに灯をつけ、たまらなく
風は夜になっていよいよ強く吹き、九時頃から雨もまじり、本当の
あれは、十二年前の冬だった。
「あなたは、
そう言って、私から離れて行ったお友達。あのお友達に、あの時、私はレニンの本を読まないで返したのだ。
「読んだ?」
「ごめんね。読まなかったの」
ニコライ堂の見える橋の上だった。
「なぜ? どうして?」
そのお友達は、私よりさらに一寸くらい
「表紙の色が、いやだったの」
「へんなひと。そうじゃないんでしょう? 本当は、私をこわくなったのでしょう?」
「こわかないわ。私、表紙の色が、たまらなかったの」
「そう」
と淋しそうに言い、それから、私を更級日記だと言い、そうして、何を言っても仕方がない、ときめてしまった。
私たちは、しばらく黙って、冬の川を
「ご無事で。もし、これが永遠の別れなら、永遠に、ご無事で。バイロン」
と言い、それから、そのバイロンの詩句を原文で口早に
私は恥ずかしく、
「ごめんなさいね」
と小声でわびて、お茶の水駅のほうに歩いて、振り向いてみると、そのお友達は、やはり橋の上に立ったまま、動かないで、じっと私を見つめていた。
それっきり、そのお友達と逢わない。同じ外人教師の家へかよっていたのだけれども、学校がちがっていたのである。
あれから十二年たったけれども、私はやっぱり更級日記から一歩も進んでいなかった。いったいまあ、私はそのあいだ、何をしていたのだろう。革命を、あこがれた事も無かったし、恋さえ、知らなかった。いままで世間のおとなたちは、この革命と恋の二つを、最も愚かしく、いまわしいものとして私たちに教え、戦争の前も、戦争中も、私たちはそのとおりに思い込んでいたのだが、敗戦後、私たちは世間のおとなを信頼しなくなって、何でもあのひとたちの言う事の反対のほうに本当の生きる道があるような気がして来て、革命も恋も、実はこの世で最もよくて、おいしい事で、あまりいい事だから、おとなのひとたちは意地わるく私たちに青い
すっと
「まだ起きていらっしゃる。眠くないの?」
とおっしゃった。
机の上の時計を見たら、十二時だった。
「ええ、ちっとも眠くないの。社会主義のご本を読んでいたら、興奮しちゃいましたわ」
「そう。お酒ないの? そんな時には、お酒を飲んでやすむと、よく眠れるんですけどね」
とからかうような口調でおっしゃったが、その態度には、どこやらデカダンと紙一重のなまめかしさがあった。
やがて十月になったが、からりとした秋晴れの空にはならず、
そうして或る朝、おそろしいものを私は見た。お母さまのお手が、むくんでいるのだ。朝ごはんが一ばんおいしいと言っていらしたお母さまも、このごろは、お床に坐って、ほんの少し、おかゆを軽く一
「お母さま! 手、なんともないの?」
お顔さえ少し
「なんでもないの。これくらい、なんでもないの」
「いつから、
お母さまは、まぶしそうなお顔をなさって、黙っていらした。私は、声を挙げて泣きたくなった。こんな手は、お母さまの手じゃない。よそのおばさんの手だ。私のお母さまのお手は、もっとほそくて小さいお手だ。私のよく知っている手。優しい手。可愛い手。あの手は、永遠に、消えてしまったのだろうか。左の手は、まだそんなに腫れていなかったけれども、とにかく
涙が出そうで、たまらなくなって、つと立って食堂へ行ったら、直治がひとりで、半熟卵をたべていた。たまに伊豆のこの家にいる事があっても、夜はきまってお咲さんのところへ行って
「お母さまの手が腫れて」
と直治に話しかけ、うつむいた。言葉をつづける事が出来ず、私は、うつむいたまま、肩で泣いた。
直治は黙っていた。
私は顔を挙げて、
「もう、だめなの。あなた、気が
と、テーブルの端を
直治も、暗い顔になって、
「近いぞ、そりゃ。ちぇっ、つまらねえ事になりやがった」
「私、もう一度、なおしたいの。どうかして、なおしたいの」
と右手で左手をしぼりながら言ったら、突然、直治が、めそめそと泣き出して、
「なんにも、いい事が
と言いながら、
その日、直治は、和田の叔父さまにお母さまの容態を報告し、今後の事の
翌日、手の腫れは、昨日よりも、また一そうひどくなっていた。お食事は、何も召し上らなかった。お
「お母さま、また、直治のあのマスクを、なさったら?」
と笑いながら言うつもりであったが、言っているうちに、つらくなって、わっと声を挙げて泣いてしまった。
「毎日いそがしくて、疲れるでしょう。看護婦さんを、やとって
と静かにおっしゃったが、ご自分のおからだよりも、かず子の身を心配していらっしゃる事がよくわかって、なおの事かなしく、立って、走って、お風呂場の三畳に行って、思いのたけ泣いた。
お昼すこし過ぎ、直治が三宅さまの老先生と、それから看護婦さん二人を、お連れして来た。
いつも冗談ばかりおっしゃる老先生も、その時は、お怒りになっていらっしゃるような素振りで、どしどし病室へはいって来られて、すぐにご診察を、おはじめになった。そうして、誰に言うともなく、
「お弱りになりましたね」
と一こと低くおっしゃって、カンフルを注射して下さった。
「先生のお宿は?」
とお母さまは、うわ言のようにおっしゃる。
「また長岡です。予約してありますから、ご心配無用。このご病人は、ひとの事など心配なさらず、もっとわがままに、召し上りたいものは何でも、たくさん召し上るようにしなければいけませんね。栄養をとったら、よくなります。明日また、まいります。看護婦をひとり置いて行きますから、使ってみて下さい」
と老先生は、病床のお母さまに向って大きな声で言い、それから直治に眼くばせして立ち上った。
直治ひとり、先生とお供の看護婦さんを送って行って、やがて帰って来た直治の顔を見ると、それは泣きたいのを
私たちは、そっと病室から出て、食堂へ行った。
「だめなの? そうでしょう?」
「つまらねえ」
と直治は口をゆがめて笑って、
「衰弱が、ばかに急激にやって来たらしいんだ。
と言っているうちに直治の眼から涙があふれて出た。
「ほうぼうへ、電報を打たなくてもいいかしら」
私はかえって、しんと落ちついて言った。
「それは、叔父さんにも相談したが、叔父さんは、いまはそんな人集めの出来る時代では無いと言っていた。来ていただいても、こんな狭い家では、かえって失礼だし、この近くには、ろくな宿もないし、長岡の温泉にだって、二部屋も三部屋も予約は出来ない、つまり、僕たちはもう貧乏で、そんなお
「でも、私はとにかく、あなたは、これから叔父さまにたよらなければ、……」
「まっぴらだ。いっそ
「私には、……」
涙が出た。
「私には、行くところがあるの」
「縁談? きまってるの?」
「いいえ」
「自活か? はたらく婦人。よせ、よせ」
「自活でもないの。私ね、革命家になるの」
「へえ?」
直治は、へんな顔をして私を見た。
その時、三宅先生の連れていらした附添いの看護婦さんが、私を呼びに来た。
「奥さまが、何かご用のようでございます」
いそいで病室に行って、お
「何?」
と顔を寄せてたずねた。
けれども、お母さまは、何か言いたげにして、黙っていらっしゃる。
「お水?」
とたずねた。
しばらくして、小さいお声で、
「夢を見たの」
とおっしゃった。
「そう? どんな夢?」
「
私は、ぎょっとした。
「お縁側の
私はからだの寒くなるような気持で、つと立ってお縁側に出て、ガラス戸越しに、見ると、沓脱石の上に蛇が、秋の
私はお前を知っている。お前はあの時から見ると、すこし大きくなって
と心の中で念じて、その蛇を見つめていたが、いっかな蛇は、動こうとしなかった。私はなぜだか、看護婦さんに、その蛇を見られたくなかった。トンと強く足踏みして、
「いませんわ、お母さま。夢なんて、あてになりませんわよ」
とわざと必要以上の大声で言って、ちらと沓脱石のほうを見ると、蛇は、やっと、からだを動かし、だらだらと石から垂れ落ちて行った。
もうだめだ。だめなのだと、その蛇を見て、あきらめが、はじめて私の心の底に
お母さまはお床の上に起き直るお元気もなくなったようで、いつもうつらうつらしていらして、もうおからだをすっかり附添いの看護婦さんにまかせて、そうして、お食事は、もうほとんど
そうしてその
お母さまは私の手もとをじっと見つめて、
「あなたの
とおっしゃった。
私は子供の頃、いくら教えて頂いても、どうもうまく編めなかったが、その時のようにまごつき、そうして、恥ずかしく、なつかしく、ああもう、こうしてお母さまに教えていただく事も、これでおしまいと思うと、つい涙で編目が見えなくなった。
お母さまは、こうして寝ていらっしゃると、ちっともお苦しそうでなかった。お食事は、もう、けさから全然とおらず、ガーゼにお茶をひたして時々お口をしめしてあげるだけなのだが、しかし意識は、はっきりしていて、時々私におだやかに話しかける。
「新聞に陛下のお写真が出ていたようだけど、もういちど見せて」
私は新聞のその箇所をお母さまのお顔の上にかざしてあげた。
「お老けになった」
「いいえ、これは写真がわるいのよ。こないだのお写真なんか、とてもお若くて、はしゃいでいらしたわ。かえってこんな時代を、お喜びになっていらっしゃるんでしょう」
「なぜ?」
「だって、陛下もこんど解放されたんですもの」
お母さまは、淋しそうにお笑いになった。それから、しばらくして、
「泣きたくても、もう、涙が出なくなったのよ」
とおっしゃった。
私は、お母さまはいま幸福なのではないかしら、とふと思った。幸福感というものは、悲哀の川の底に沈んで、幽かに光っている砂金のようなものではなかろうか。悲しみの限りを通り過ぎて、不思議な薄明りの気持、あれが幸福感というものならば、陛下も、お母さまも、それから私も、たしかにいま、幸福なのである。静かな、秋の午前。日ざしの柔らかな、秋の庭。私は、編物をやめて、胸の高さに光っている海を眺め、
「お母さま。私いままで、ずいぶん世間知らずだったのね」
と言い、それから、もっと言いたい事があったけれども、お座敷の
「いままでって、……」
とお母さまは、薄くお笑いになって聞きとがめて、
「それでは、いまは世間を知っているの?」
私は、なぜだか顔が真赤になった。
「世間は、わからない」
とお母さまはお顔を向うむきにして、ひとりごとのように小さい声でおっしゃる。
「私には、わからない。わかっているひとなんか、無いんじゃないの? いつまで
けれども、私は生きて行かなければならないのだ。子供かも知れないけれども、しかし、甘えてばかりもおられなくなった。私はこれから世間と争って行かなければならないのだ。ああ、お母さまのように、人と争わず、憎まずうらまず、美しく悲しく
その日のお昼すぎ、私がお母さまの傍で、お口をうるおしてあげていると、門の前に自動車がとまった。和田の叔父さまが、叔母さまと一緒に東京から自動車で
「直治は、どこ?」
と、しばらくしてお母さまは、私のほうを見ておっしゃった。
私は二階へ行って、洋間のソファに寝そべって新刊の雑誌を読んでいる直治に、
「お母さまが、お呼びですよ」
というと、
「わあ、また
などと言いながら
二人ならんでお母さまの枕もとに坐ると、お母さまは、急にお蒲団の下から手をお出しになって、そうして、黙って直治のほうを指差し、それから私を指差し、それから叔父さまのほうへお顔をお向けになって、両方の掌をひたとお合せになった。
叔父さまは、大きくうなずいて、
「ああ、わかりましたよ。わかりましたよ」
とおっしゃった。
お母さまは、ご安心なさったように、眼を軽くつぶって、手をお蒲団の中へそっとおいれになった。
私も泣き、直治もうつむいて
そこへ、三宅さまの老先生が、長岡からいらして、取り
「先生、早く、楽にして下さいな」
とおっしゃった。
老先生と叔父さまは、顔を見合せて、黙って、そうしてお二人の眼に涙がきらと光った。
私は立って食堂へ行き、叔父さまのお好きなキツネうどんをこしらえて、先生と直治と叔母さまと四人分、支那間へ持って行き、それから叔父さまのお土産の丸ノ内ホテルのサンドウィッチを、お母さまにお見せして、お母さまの枕元に置くと、
「忙しいでしょう」
とお母さまは、小声でおっしゃった。
支那間で皆さんがしばらく雑談をして、叔父さま叔母さまは、どうしても今夜、東京へ帰らなければならぬ用事があるとかで、私に見舞いのお金包を手渡し、三宅さまも看護婦さんと一緒にお帰りになる事になり、附添いの看護婦さんに、いろいろ手当の仕方を言いつけ、とにかくまだ意識はしっかりしているし、心臓のほうもそんなにまいっていないから、注射だけでも、もう四、五日は大丈夫だろうという事で、その日いったん皆さんが自動車で東京へ引き上げたのである。
皆さんをお送りして、お座敷へ行くと、お母さまが、私にだけ笑う親しげな笑いかたをなさって、
「忙しかったでしょう」
と、また、
「いいえ」
私もすこし浮き浮きした気分になって、にっこり笑った。
そうして、これが、お母さまとの最後のお話であった。
それから、三時間ばかりして、お母さまは亡くなったのだ。秋のしずかな
お死顔は、
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