記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。

【日刊 太宰治全小説】#110「新ハムレット」一

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【冒頭】

王。「皆も疲れたろうね。御苦労でした。先王が、まことに突然、亡くなって、その涙も乾かぬうちに、わしのような者が位を継ぎ、また此の度はガーツルードと新婚の式を行い、わしとても具合の悪い事でしたが、すべて此のデンマークの為です。

【結句】

いや、何もかもだ。みんな苦しい。いろんな事が此の二箇月間、ごちゃまぜになって僕を襲った。くるしい事が、こんなに一緒に次から次と起るものだとは知らなかった。苦しみが苦しみを生み、悲しみが悲しみを生み、溜息が溜息をふやす。自殺。のがれる法は、それだけだ。」

 

「新ハムレット 一」について

新潮文庫『新ハムレット』所収。

・昭和16年5月末に脱稿。

・昭和16年7月2日、最初の書下し中篇小説『新ハムレット』を文藝春秋社から刊行。

新ハムレット (新潮文庫)

 

 全文掲載(「青空文庫」より)      

 

   一 エルシノア王城 城内の大広間

 王。王妃。ハムレット侍従長ポローニヤス。その息レヤチーズ。他に侍者多勢。

 王。「皆も疲れたろうね。御苦労でした。先王が、まことに突然、くなって、その涙も乾かぬうちに、わしのような者が位を継ぎ、またの度はガーツルードと新婚の式を行い、わしとしても具合の悪い事でしたが、すべて此のデンマークためです。皆とも充分に相談の上で、いろいろ取りきめた事ですから、地下の兄、先王も、皆の私心無き憂国の情にめんじて、わしたちを許してくれるだろうと思う。まことに此のごろデンマークは、ノーウエーとも不仲であり、いつ戦争が起るかも知れず、王位は、一日も空けて置く事が出来なかったのです。王子ハムレットは若冠ゆえ、皆のすすめにって、わしが王位にのぼったのですが、わしとても先王ほどの手腕は無し、徳望も無ければ、また、ごらんのとおり風采ふうさいもあがらず、血をわけた実の兄弟とも思われぬくらいに不敏の弟なのですから、果して此の重責に堪え得るかどうか、外国のあなどりを受けずにすむかどうかすこぶる不安に思ってりましたところ、かねて令徳のほまれ高いガーツルードどのが、一生わしの傍にいて、国の為、わしの力になってくれる事になりましたので、もはや王城の基礎も確固たり、デンマークも安泰と思います。皆も御苦労でした。先王が亡くなられてから今日まで、もう二箇月にもなりますが、わしには何もかも夢のようです。でも皆の聡明そうめいな助言に依って、どうやら大過なく、ここまでは、やって来ました。いかにも未熟の者ですから、皆も、今日以後、変らず忠勤の程を見せ、わしを安心させて下さい。ああ、忘れていた。レヤチーズが、わしに何か願いがあるとか言っていましたね。なんですか?」
 レヤ。「はい。実は、フランスへ、もう一度遊学に行かせていただきたいと思っているのでございますが。」
 王。「その事でしたら、かまいません。君にも此の二箇月間、ずいぶん働いてもらいました。もう、こちらは、どうやら一段落ですから、ゆっくり勉強しておいでなさい。」
 レヤ。「恐れいります。」
 王。「君の父にも相談した上の事でしょうね。ポローニヤス、どうですか?」
 ポロ。「はい。どうにも、うるさく頼みますので、とうとう昨夜、私も根負けいたしまして、それでは王さまにお願いして見よと申し聞かせた次第でございます。ヘッヘ、どうも若いものには、フランスの味が忘れかねるようでございます。」
 王。「無理もない。レヤチーズ、子供にとっては、王の裁可よりも、父の許しのほうが大事です。一家の和合は、そのまま王への忠義です。父の許しがあったならば、それでよい。からだを損わぬ程度に、遊んでおいで。若い時には、遊ぶのにも張り合いがあるから、うらやましい。ハムレットは、このごろ元気が無いようですが、君もフランスへ行きたいのですか?」
 ハム。「僕ですか? からかわないで下さい。僕は地獄へ行くんです。」
 王。「何を、ぷんぷんしているのです。あ、そうか。君は、ウイッタンバーグの大学へ、また行きたいと言っていましたね。でも、それはこらえて下さい。わしからお願いします。君は、もうすぐ此のデンマークの王位を継がなければならぬ人です。今は国も、めんどうな時ですから、わしが仮に王位にきましたが、此の危機が去って、人々の心も落ちつけば、わしは君に跡を継いでもらって、ゆっくり休息したいと思って居ります。それゆえ君は、いまからわしの傍にいて、少しずつ政治を見習うように心掛けなければいけません。いや、わしを助けてもらいたいのです。どうか、大学へ行くのは、あきらめて下さい。これは、父としての願いでもあるのです。君が、いなくなると、王妃だってさびしがるでしょう。君は、このごろ健康を害しているようにも見えます。」
 ハム。「レヤチーズ、――」
 レヤ。「はい。」
 ハム。「君は、いい父を持って仕合せだね。」
 王妃。「ハムレット、なんという事を、おっしゃるのです。私には、あなたが、ふてくされているようにしか思われません。そんな厭味いやみな、気障きざな態度は、およしなさい。不満があるなら男らしく、はっきりおっしゃって下さい。私は、そんな言いかたは、きらいです。」
 ハム。「はっきり言いましょうか。」
 王。「わかっています。わしは此の機会に、君と二人きりでゆっくり話してみたい。王妃も、そんなに怒るものではありません。若い者には、若い者の正当な言いぶんがあるはずです。わしにも、反省しなければならぬ事が、まだまだ、あるように思われます。ハムレット、泣かずともよい。」
 王妃。「なに、そら涙ですよ。この子は、小さい時から、つくり泣きが上手だったのです。あまり、いたわらずに、うんとおしかりになって下さい。」
 王。「ガーツルード、言葉をつつしみなさい。ハムレットは、あなたひとりの子ではありません。ハムレットは、デンマーク国の王子です。」
 王妃。「それだから私も言うのです。ハムレットだって、もう二十三になります。いつまで、甘えているのでしょう。私は生みの母として此の子を恥ずかしく思います。ごらん下さい。きょうは王の初謁見式えっけんしきだというのに、この子ばかりは、わざと不吉な喪服なんかを着て、自分では悲壮のつもりで居るのでしょうが、それがどんなに私たちを苦しめる事なのか、この子は思ってもみないのです。私には、この子の考えている事くらい、なんでもわかります。この喪服だって、私たちへのいやがらせです。先王の死を、もはや忘れたのかという、当てつけのつもりなのでしょう。誰も忘れてやしません。心の中では誰だって、深く悲しんでいるのですが、いまは、その悲しみに沈んでばかりも居られません。私たちは、デンマークの国を思わなければいけません。デンマークの民を思わなければいけません。私たちには、悲しむ事さえ自由ではないのです。自分の身であって、自分のものではないのです。ハムレットには、それが、ちっともわかっていないのです。」
 王。「いや、それは酷だ。そんな、追いつめるような言いかたをしては、いけません。人を無益に傷つけるだけの事です。王妃には、生みの母という安心があって、その愛情を頼みすぎて、そんな事を言うのでしょうが、若い者にとっては、陰の愛情よりも、あらわれた言葉のほうが重大なのです。わしにも、覚えがあります。言葉にって、自分の全部が決定されるような気がするものです。王妃も、きょうは、どうかしていますよ。ハムレットが喪服を着ていたって、少しも差しつかえ無いと思います。少年の感傷は純粋なものです。それを、わしたちの生活に無理に同化させようとするのは、罪悪です。大事にしてやらなければいけません。わしたちこそ、この少年の純粋を学ばなければいけないのかも知れません。わかるとは思っていながら、いつのまにやら、わしたちは大事なものを失っている場合もあるのです。とにかく、わしはハムレットと二人きりで、ゆっくり話してみたいと思いますから、みんなはしばらく向うへ行っていて下さい。」
 王妃。「そんなら、お願い致します。私も少し言いすぎたようですが、でも、あなたも義理ある仲だと思って、此の子に優しくしすぎるようです。それでは、いつまでっても、この子は立派になりません。先王がおいでになったとしても、きょうの此の子の態度には、きっとお怒りになり、此の子をお打ちになったでしょう。」
 ハム。「打ったらいいんだ。」
 王妃。「また、何をおっしゃる。もっと素直におなりなさい。」

 王。ハムレット

 王。「ハムレット、ここへおすわりなさい。厭なら、そのままでいい。わしも立って話しましょう。ハムレット、大きくなったね。もう、わしと脊丈せたけが同じくらいだ。これからも、どんどん大人になるでしょう。でも、も少し太らなければいけませんね。ずいぶんせている。顔色も、このごろ、よくないようです。自重して下さいよ。君の将来の重大な責務を考えて下さい。きょうはここで、二人きりで、ゆっくり話してみましょう。わしは前から、二人きりになれる機会を待っていたのです。わしも、思っているところを虚心坦懐たんかいに申しますから、君も、遠慮なさらず率直に、なんでも言って下さい。どんなに愛し合っていても、口に出してそれと言わなければ、その愛が互いにわからないでいる事だって、世の中には、ままあるのです。人類は言葉の動物、という哲学者の意見も、わしには、わかるような気がします。きょうは、よく二人で話合ってみましょう。わしも此の二箇月間は、いそがしく、君と落ちついて話をする機会もなかった。全く、そのひまが無かったのです。ゆるして下さい。君のほうでもまた、なんだか、わしと顔を合せるのを避けてばかりいましたね。わしが部屋へはいると、君は、いつでもぷいと部屋から出て行きます。わしは、その度毎たびごとに、どんなに淋しかったか。ハムレット! 顔を挙げなさい。そうして、わしの問いに、はっきり、まじめに答えて下さい。わしは、君に聞きたい事がある。君は、わしを、きらいなのですか? わしは、いまでは君の父です。君は、わしのような父を軽蔑けいべつしているのですか? 憎んでいるのですか? さ、はっきりと答えて下さい。一言でいい。聞かせて下さい。」
 ハム。「A little more than kin, and less than kind.」
 王。「なんだって? よく聞きとれなかった。ふざけては、いけません。わしは、まじめに尋ねているのです。語呂ごろ合せのような、しゃれた答えかたはしないで下さい。人生は、芝居ではないのです。」
 ハム。「はっきり言っている筈です。叔父さん! あなたは、いい叔父さんだったけど、――」
 王。「いやな父だというのですね?」
 ハム。「実感は、いつわれませんからね。」
 王。「いや有難う。よく言ってくれました。そのように、いつでも、はっきり言ってくれるといいのです。真実の言葉に対しては、わしは、決して怒りません。実は、わしも、君とそっくりな実感を持っているのです。何も君、そんなに顔色を変えて、わしをにらむ事は無いじゃないか。君は少し表情が大袈裟おおげさですね。わかいころは誰しもそうなんだが、君は、自分ではずいぶん手ひどい事を他人に言っていながら、自分が何か一言でも他人から言われると飛び上って騒ぎたてる。君が他人から言われて手痛いように、他人だって君にずけずけ言われて、どんなに手痛いか、君はそんな事は思ってもみないのですからね。」
 ハム。「そんな、決してそんな、――ばからしい。僕はいつでも、せっぱつまって、くるしまぎれに言ってるのです。ずけずけなんて言った覚えは、ありません。」
 王。「だから、それが君だけでは無いと言うのです。わしたちだって、いつでも、せっぱつまって言っているのです。精一ぱいで生きているのです。わしたちには、何か力の余裕と自信が満ちているように君たちには見えるのかも知れないが、同じ事です。君たちと、ほとんど同じ事なのです。一日を息災に暮し得ては、ほっとして神にお礼を申している有様なのです。ことにも、わしはハムレット王家の血を受けて生れて来た男です。君もご存じのように、ハムレット王家の血の中には、優柔不断な、弱い気質が流れて居ります。先王も、わしも、幼い時から泣き虫でした。わしたち二人が庭で遊んでいるのを他国の使臣などが見て、女の子と間違ったものです。二人そろって病弱でした。侍医も、二人の完全な成長を疑っていたようでした。けれども先王は、その後の修養に依って、あのように立派な賢王になられました。宿命を、意志でもって変革する事が出来ると、わしは今では信じて居ります。先王が、そのよいお手本です。わしは今、懸命に努力しています。何とかして、此のデンマークの為に、強い支柱になってやりたいと思っています。本当に、精一ぱいなのです。けれども、いま、わしを一ばん苦しめているものは、ハムレット、ご存じですか、君です。君は、さっき、実感はあらそわれないとか言いましたが、わしも、そのとおり、君を我が子と思えないのです。もっと、はっきり言いましょう。君は可愛かわいい甥でした。わしは君を、利巧な甥としてしんから愛して来ました。君だって、先王がおいでの頃は、この山羊やぎのおじさんに、なついていました。わしの顔が山羊に似ているのを、一ばんさきに見つけたのは、わしの可愛い甥でした。叔父さんも、よろこんで山羊のおじさんになっていました。あの頃が、なつかしいね。いまでは、わしと君は、親子です。そうして心は、千里も万里も離れました。むかしの二人の愛情が、そのまま憎悪ぞうおに変ってしまった。わしたちが親子になったのが、不仕合せのもとでした。でも、これは、このままにしては置けません。ハムレット、わしには一つお願いがあります。あざむいて下さい。せめて臣下の見ている前だけでも、君の実感をあざむいて下さい。わしと仲の良い振りをしていて下さい。いやな事でしょう。くるしい事です。でも、そのほかに方法がありません。王家の不和は、臣下の信頼を失い、民の心を暗くし、ついには外国に侮られます。さっき、王妃も言いましたが、わしたちの場合は、自分のからだであって、自分のものではないのです。すべて、此のデンマークの為に、父祖の土の為に、自分の感情は捨てなければなりません。此のデンマークの土も、海も、民も、やがては君のに渡されるのです。わしたちは、いま協力しなければいけません。わしを愛してくれとは申しません。わしだって君を、心の底から我が子と呼んで抱きしめる程の愛情は、打ち明けたところ、どうしても感ぜられない状態なのですから、君にだけ、無理に愛せよなどとは言えません。ただ、人の見ている前だけでいいのです。それがお互いのくるしい義務です。天意だと思います。これには従わなければいけません。愛への潔癖よりも、義務への忍従のほうが、神のよろこび賞するところだと信じます。また、はじめは身振りだけの愛の挨拶あいさつであっても、次第に、そこから本当の愛がにじんでいて来る事だってあると思います。」
 ハム。「わかりました。それくらいの事は、僕にだって、わかっています。僕は、めんどうくさいんです。僕を、も少し遊ばせて置いて下さい。叔父さん、僕から一つお願いします。僕を、また、ウイッタンバーグの大学へ行かせて下さい。」
 王。「二人だけの時は、叔父と呼んでも一向かまいませんが、王妃や臣下のいる前では、必ず父と呼ぶことを約束しなければなりません。こんな、つまらぬ事を、とがめだてするのは、わしは、つらくて恥ずかしいのですが、そんな些細ささいの形式が、デンマーク国の運命にさえ影響します。わしは、此の事を、さっきから君にたのんでいるのです。」
 ハム。「そうですか。どうも。」
 王。「君は、どうしてそうなんでしょう。わしが、ちょっとでも、むきになって何か言うと、すぐ、ぷんとして、そんな軽薄な返事をして、わしの言葉をはぐらかしてしまいます。」
 ハム。「叔父さん、いや、王こそ、僕のお願いを、はぐらかします。僕は、ウイッタンバーグへ行きたいんです。それだけなんです。」
 王。「本当ですか? わしは、それをうそだと思っています。だから、聞えぬ振りをしようと思っていたのです。大学へ、また行きたいというのは、君の本心ではありません。それは、口実にすぎません。君は、そんな事を言って、ただわしに反抗してみているだけなのです。わしだって知っています。若いころの驕慢きょうまんの翼は、ただ意味も無くはばたいてみたいものです。やたらに、もがきたいのです。わしはそれを動物的な本能だと思っています。その動物的な本能に、さまざま理想や正義の理窟りくつを結びつけて、うめいているのです。わしは断言できる。君は、よし先王が生きておいでになっても、きっと、いまごろは先王に反抗している。そうして、先王を軽蔑し、憎み、わからずやだと陰口をきき、先王を手こずらせているでしょう。そんな年ごろなのです。君の反抗は肉体的なものです。精神的なものではありません。いま君は、ウイッタンバーグへ行っても、その結果が、わしには、に見えるようです。君は大学の友人たちから英雄のように迎えられるでしょう。旧弊な家風に反抗し、頑迷がんめい冷酷な義父と戦い、自由を求めて再び大学へ帰って来た、真実の友、正義潔白の王子として接吻せっぷん乾盃かんぱいの雨を浴びるでしょう。でも、そのような異様の感激は、なんであろう。わしは、それを生理的感傷と呼びたいのです。犬が芝生に半狂乱でからだをこすりつけている有様と、よく似ていると思います。少し言いすぎました。わしは、その若い感激を、全部否定しようとは思いません。それは神から与えられた一つの時期です。必ずとおらなければならぬ火の海です。けれども人は一日も早く、そこからいあがらなければいけません。当りまえの事です。充分に狂い、げつき、そうして一刻も早く目ざめる。それが最上の道です。わしだって、君も知っているように決して聡明そうめいな人間ではありませんでした。いや、実に劣った馬鹿でした。いまでも、わしは、はっきり目ざめているとは言えません。けれども、わしは、君にだけは失敗させたくないと思っています。君は学友たちの、その場かぎりの喝采かっさいの本質を、調べてみた事がありますか。あれは、ふしだらの先輩を得たという安堵あんどです。お互いに悪徳と冒険を誇り合い、やがて薄汚い無能の老いぼれに墜落させ合うばかりです。わしは、わしの愚かな経験から君に言い聞かせているのです。わしは、永いあいだ放埒ほうらつな大学生々活をして来ました。そうして、いまに残っているものは何でしょう。何もありません。ただ、いやらしい思い出です。呻くばかりの慚愧ざんきです。惰性の官能です。わしは、その悪習慣をもてあましました。いまだって、なおその処理にくるしんでります。レヤチーズの場合は、ちがいます。あれには、出世という希望があります。出世という希望のあるうちは、人はデカダンスに落ちいる事はありません。君には、その希望がありません。落ちてみたい情熱だけです。君は既に三箇年間、大学の生活をして来ました。もう充分なのです。再び昔の学友たちと、あの熱狂を繰り返したら、こんどは取りかえしのつかぬ事になるかも知れません。少年の頃の不名誉の傷は、皆の大笑いのうちに容易になおりますが、二十三歳の一個の男子の失態の傷は、なまぐさく、なかなかき取り難いものです。自重して下さい。大学生たちは、無責任な強烈な言葉で、君をそそのかすだけです。わしには、よくわかっています。さっき臣下の前では、わしは、他の理由で君の大学行きをめましたが、いや、たしかに、あの時申した事も重要な理由でしたが、それよりも、わしには、君のいまの驕慢の翼が心配だったのです。その翼の情熱の行方が心配だったのです。さっき臣下の前で申した事も、君には心掛けて置いてもらいたい、すなわち、わしの傍にいて実際の政治を見習うようにしてもらいたい、けれども、そんな政治上の思惑の他に、わしは君の父として、いや、愚かな先輩の義務として、君の冒険に忠告したかったのです。わしは君に、まことの父としての愛情が実感せられないとも言いましたが、けれども人間の義務感は、また別のものです。わしは、君の役に立ちたい。わしの愚かな経験から、やっと得た結論を、君に教えて、君を守りたいと思っているのです。君を立派に育てたいと念じているのです。それを疑っては、いけません。君は、デンマーク国の王子です。二無き大事な身の上です。もっと自覚を深めて下さい。レヤチーズなどと一緒にして考えてはいけません。レヤチーズは、君の一臣下に過ぎません。フランスへ行くのも、将来その身にはくをつけたいためです。だから、あの抜け目の無い、ポローニヤスだって、ゆるしたのです。君には、そんな必要がありません。どうか、ウイッタンバーグへ行くのは、こらえて下さい。これは、もうお願いではありません。命令です。わしには、君を立派な王に育て上げる義務があります。この王城にとどまり、間もなくい姫を迎える事にしようではないか、ハムレット。」
 ハム。「僕は何も、レヤチーズの真似まねをしようとは思っていません。なんでもないんです。僕は、ただ、――」
 王。「よし、よし、わかっています。昔の学友たちといたくなったのでしょう。わしにも打ち明けられぬ事が出来たのでしょう。そんならウイッタンバーグまで行く必要は、いよいよありません。ホレーショーを、わしが呼んで置きました。」
 ハム。「ホレーショーを!」
 王。「うれしそうですね。あれは、君の一ばんの親友でしたね。わしも、あれの誠実な性格を高く評価して居ります。もう、ウイッタンバーグを出発したはずです。」
 ハム。「ありがとう。」
 王。「それでは握手しましょう。話合ってみると、なんでもない。これから、だんだん仲良くなるでしょう。どうも、きょうは、君にも失礼な事を言いましたが、悪く思わないで下さい。饗宴きょうえんの合図の大砲が鳴っています。皆も待ちかねている事でしょう。一緒にまいりましょう。」
 ハム。「あの、僕は、も少しここで、ひとりで考えていたいんです。どうぞ、おさきに。」

 ハムレットひとり。

 ハム。「わあ、退屈した。くどくどと同じ事ばかり言っていやがる。このごろ急に、もっともらしい顔になって、神妙な事を言っているが、何を言ったって駄目だめさ。自己弁解ばかりじゃないか。もとをただせば、山羊のおじさんさ。お酒を飲んで酔っぱらって、しょっちゅうお父さんにしかられてばかりいたじゃないか。僕をそそのかして、お城の外の女のところへ遊びに連れていったのも、あの山羊のおじさんじゃないか。あそこの女は叔父さんの事を、豚のおばけだと言っていたんだ。山羊なら、まだしも上品な名前だ。がらでないんだ。がらでないんだ。可哀かわいそうなくらいだ。資格がないのさ。王さまの資格がないんだ。山羊の王さまなんて、僕には滑稽こっけいで仕方が無い。でも、叔父さんは、油断がならん。見抜いていやがった。僕が本当は、ウイッタンバーグなんかに行く気が無いという事を知っていやがった。油断がならん。じゃみちは、へびか。ああ、ホレーショーに逢いたい。誰でもいい。昔の友人に逢いたい。聞いてもらいたい事があるんだ。相談したい事があるのだ! ホレーショーを呼んでくれたとは、山羊のおじさん大出来だ。道楽した者には、また、へんな勘のよさがある。いったい山羊め、どこまで知っているものかな? ああ、僕も堕落した。堕落しちゃった。お父さんが、なくなってからは、僕の生活も滅茶滅茶めちゃめちゃだ。お母さんは僕よりも、山羊のおじさんのほうに味方して、すっかり他人になってしまったし、僕は狂ってしまったんだ。僕は誇りの高い男だ。僕は自分の、このごろの恥知らずの行為を思えば、たまらない。僕は、いまでは誰の悪口も言えないような男になってしまった。卑劣だ。誰に逢っても、おどおどする。ああ、どうすればいいんだ。ホレーショー。父は死に、母は奪われ、おまけにあの山羊のおばけが、いやにもったいぶって僕にお説教ばかりする。いやらしい。きたならしい。ああ、でも、それよりも、僕には、もっと苦しい焼ける思いのものがあるのだ。いや、何もかもだ。みんな苦しい。いろんな事がの二箇月間、ごちゃまぜになって僕を襲った。くるしい事が、こんなに一緒に次から次と起るものだとは知らなかった。苦しみが苦しみを生み、悲しみが悲しみを生み、溜息ためいきが溜息をふやす。自殺。のがれる法は、それだけだ。」

 

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