【冒頭】
ハム。「しばらくだったな。よく来てくれたね。どうだい、ウイッタンバーグは。どんな具合だい。みな相変らずかね。」
【結句】
ホレ。「存じて居ります。ホレーショーは、いつでも、あなたの味方です。」
「新ハムレット 三」について
・昭和16年5月末に脱稿。
・昭和16年7月2日、最初の書下し中篇小説『新ハムレット』を文藝春秋社から刊行。
全文掲載(「青空文庫」より)
三 高台
ハムレット。ホレーショー。
ハム。「しばらくだったな。よく来てくれたね。どうだい、ウイッタンバーグは。どんな具合だい。みな相変らずかね。」
ホレ。「寒いですねえ、こちらは。
ハム。「いや、今夜はこれでも暖いほうだよ。一時は、寒かったがねえ。これからは暖くなる一方だ。もう、デンマークも、やがて春さ。ところで、どうだね、みな元気かね。」
ホレ。「王子さま。僕たちの事より、御自身はいかがです。」
ハム。「へんな言いかたをするね。何か、僕に
ホレ。「いいえ、決してへんな事はありません。本当に、王子さま、あんたは大丈夫なんですか? ああ、寒い。」
ハム。「王子さま、か。そんな筈じゃ無かったがねえ。おい、以前のようにハムレットと呼んでくれ。すっかり他人になってしまったね。君は、いったい、何しにエルシノアへ来たんだ。」
ホレ。「ごめん、ごめん。相変らずのハムレットさまですね。すぐ怒る。案外に、お元気だ。大丈夫のようですね。」
ハム。「いやな言いかたをするなあ。何か悪い噂を聞いて来たのに違いない。なんだい? どんな噂だい、言ってごらん。叔父さんが君に、要らない事を言ってやったんだろう。きっとそうだ。ちっとも知りゃしない癖に、要らない事ばかり言いやがる。」
ホレ。「いいえ、王さまのお手紙は、情のこもったものでした。王子が退屈しているから、話相手になりにやって来てくれ、という
ハム。「
ホレ。「ハムレットさま。ホレーショーは昔ながらの、あなたの親友です。いい加減の事は申しません。それでは、全部、僕がウイッタンバーグで耳にした事を、そのまま申し上げましょう。どうも、ここは寒いですねえ。部屋へ帰りましょう。どうして僕を、こんなところへ引っぱり出して来たのです。顔を見るなり、ものも言わず、こんな寒い真暗なところへ連れて来て、やあ、しばらくだね、とおっしゃるのでは僕だって疑ってみたくなりますよ。」
ハム。「何を疑うのだ。そうか。だいたい、わかったような気がする。でも、それは、驚いたなあ。」
ホレ。「おわかりになりましたか? とにかくお部屋へ帰りましょう。僕は、ジャケツを着て来なかったので。」
ハム。「いや、ここで話してくれ。僕もそれに就いて君に、大いに聞いてもらいたい事があるんだ。山ほどあるんだ。他の人に聞かれちゃまずいんだ。ここなら大丈夫だ。寒いだろうけれど、我慢してくれ。どうも人間は、秘密を持つようになると、壁に耳が本当にあるような気がして来る。僕も、このごろは少し疑い深くなったよ。」
ホレ。「お察し
ハム。「それどころじゃないんだ。嘆きがめらめら燃え出したよ。まあ、とにかく君がウイッタンバーグで聞いて来たという事を、まず、話してみないか。寒かったら、ほら、僕の
ホレ。「おそれいります。ジャケツを着て来なかったもので、どうもいけません。では外套を、遠慮なく拝借いたします。はあ、もう大丈夫です。だいぶ暖かになりました。ありがとう存じます。」
ハム。「早く話してみないかね。君はデンマークへ寒がりに来たみたいだ。」
ホレ。「まったく寒いですね。どうも失礼いたしました。ハムレットさま。では、申し上げます。おや、そこの
ハム。「何を言うのだ。あれは、柳じゃないか。その下に
ホレ。「感覚も上品になるようであります。じゃ、誰も聞いていませんね? どんな大事を申し上げても、かまいませんね?」
ハム。「いやに、もったいをつけやがる。僕がはじめから、ここは絶対に大丈夫だって言ってるじゃないか。それだから、君をここへ引っぱって来たんだ。」
ホレ。「それでは、申し上げます。おどろいてはいけません。ハムレットさま。大学の連中は、あなたの御乱心を噂して
ハム。「乱心? それあ、また
ホレ。「またそんな事をおっしゃる。王さまが、なんでそんな、つまらぬ宣伝をなさいますものか。絶対に、ちがいます。」
ハム。「ばかに、はっきり否定するね。
ホレ。「もう一度申し上げますが、これは、王さまの宣伝ではありません。ハムレットさま。お気の毒に。あなたは、何もご存じないのですね? 大学に伝わって来ている噂は、そんな、なまやさしいものではありません。ああ、僕は、もう言えない。」
ハム。「なんだい? いやに深刻ぶった口調じゃないか。君は、叔父さんから何か言いつけられたね? 僕の反省をうながすように、とか何とか。そうなんだろう?」
ホレ。「もう一度、申し上げます。王さまのお手紙には、ただ、話相手になってやってくれ、とだけ書かれてございました。王さまは、よもや僕が、あなたのところに、こんな恐ろしい噂をもたらそう
ハム。「そうかなあ。いや、そうかも知れん。もし叔父さんが、大学にそんな噂を
ホレ。「どうしても言わなければいけないでしょうか。」
ハム。「よせよ。自分から言い出して置きながら、いまになって、そんな
ホレ。「そんなら申し上げます。そんなにホレーショーの誠実を侮辱なさるんだったら申し上げます。本当に、平気でお聞き流し願います。つまらない、とるにも足らぬ噂です。臣ホレーショーは、もとより、そんな
ハム。「どうだっていいよ、そんな事は。僕は
ホレ。「申し上げます。その噂は、このごろエルシノア王城に幽霊が出るという、――」
ハム。「それあまた、ひどい。ホレーショー、本気かね。僕は、笑っちゃったよ。ばかばかしい。ウイッタンバーグの大学も、落ちたねえ。あの独自の科学精神を、どこへやった。もっとも、このごろ大学では、劇の研究が盛んなそうだから、中でも頭の悪い馬鹿な研究生が、そんな下手なドラマを案出したのかも知れないね。それにしても、幽霊とは、なんて貧弱な想像力だ。それを面白がって、わやわや騒ぎ立てているとは、大学も、このごろは
ホレ。「僕は信じていないのです。けれども、母校の悪口はおっしゃらないで下さい。僕は、何だか不愉快です。」
ハム。「しっけい。君は別だよ。叔父さんも、君の事だけは、ほめていたよ。誠実な男だと言っていた。わざわざ僕がウイッタンバーグまで行かずとも、ホレーショーひとりをこちらへ呼び寄せたならば、それでいいと言っていた。僕は本当は、大学へなど行きたくなかったんだけど、でも、君にだけは
ホレ。「忠誠をお誓い致します。なお、言葉を返すようですが、ただいまの奇怪の噂は、決して我がウイッタンバーグ大学から出たものではありません。それだけは、母校の名誉のために申し上げて置きたいと思います。その噂は、このエルシノアの城下より起り、次第にデンマーク一国にひろがり、とうとう外国の大学にいる者どもの耳にまではいって来たものであります。いかにも無礼な、言語道断の噂なので、このごろはホレーショーも、気が鬱してなりません。ハムレットさまは、きょうまで、少しもご存じなかったのですか?」
ハム。「知らんよ、そんな馬鹿げた事は。それにしても、ずいぶん広くひろがってしまったものらしいねえ。あんまり、ひろがると、馬鹿らしいと笑っても居られなくなるからね。叔父さんや、ポローニヤスたちは知っているのかしら。いったい、あの人たちは、どこに耳を持っているんだろう。聞えても、聞えぬふりをしているのかな? 腹黒いからなあ、あの人たちは。ホレーショー、いったい、それは、どんな幽霊なんだい? 少し気になって来た。」
ホレ。「その前に、はっきり、お伺いして置きたい事があります。かまいませんか?」
ハム。「ホレーショー、僕は君をこわくなって来たよ。早く言ってくれ。なんでもいいから早く言ってしまってくれ。あんまり、そんなに勿体ぶると、僕は君と絶交したくなりそうだ。」
ホレ。「申し上げます。申し上げてしまったら、なんでも無い事なのかも知れません。きっと、また、あなたがひどくお笑いになって、それだけですむ事なのでしょう。何だか僕にも、そんな明るい気がして来ました。それでも、念のために一つお伺いして置きますが、ハムレットさま、あなたは、勿論、現王のお人がらを信じていらっしゃいますね?」
ハム。「意外の質問だね。そいつは、ちょっと難問だ。こまるね。なんと言ったらいいのかなあ。むずかしいんだ。いいじゃないか、そんな事は。どうだって、いいじゃないか。」
ホレ。「いいえ、いけません。この際それを、はっきり伺って置かないと、僕は何も申し上げる事が出来ません。」
ハム。「手きびしいねえ。君は、変ったねえ。ばかに
ホレ。「ありがとう。ハムレットさま。それを伺って、僕は、全く安心しました。どうか、これからも王さまを、変らず信じてあげて下さい。僕も、いまの王さまを好きなのです。文化人でいらっしゃる。情の厚いお方だと思う。ハムレットさまの、いまの御意見は、僕に百倍の勇気を与えて下さいました。僕からお礼申します。ハムレットさまは、やっぱり、昔のままに明朗ですねえ。純真の判断には、曇りが無い。いいなあ、僕は
ハム。「おだてちゃいけない。急に御機嫌がよくなったじゃないか。勝手な
ホレ。「鼠どころか、いや実に愚劣だ。言語道断だ。けしからぬ。デンマークの恥だ。ハムレットさま、お話しましょう。いや、どうにも、無礼千万、奇怪至極、
ハム。「もういい、そんな下手な形容詞ばかり並べられても閉口だ。君もウイッタンバーグの劇研究会に入会したのかね。」
ホレ。「まず、そんなところです。ちょっと憂国の詩人という役を演じてみたかったのです。僕は、本当は、もう安心しちゃったのです。さっきハムレットさまから、あんな明快な判断を承って、心に遊びの余裕が出ました。ハムレットさま、笑っちゃいけませんよ、実に、ばからしい噂が立っているのです。あなたは、きっとお笑いになるでしょう。でも、これは、デンマークの国中にひろがり、外国の大学にいる僕たちの耳にまではいって来ているんですから、ただ笑ってすます訳にもいかないと思うんです。大いに取りしまりの必要があります。笑っちゃいけませんよ。どうも、僕も、申し上げるのが馬鹿馬鹿しくなって来ました。先王の幽霊が毎晩あらわれて、かたきをとっておくれって頼むんだそうですよ、ハムレットさま、あなたに。」
ハム。「僕にかい? へんだなあ。」
ホレ。「まったく。なっちゃいないんです。その上、ばからしい、まだつづきがあるんです。その幽霊の
ハム。「そいつあ、ひどい。恋慕はひどい。お母さんは総入歯だぜ。」
ホレ。「だから、笑っちゃいけませんと言ったじゃないですか。まあ、お聞きなさい。つづきがあるんです。妃を横取り、王位も共に得んとして、我輩の昼寝の折に、油断を見すまし忍び寄り、わが耳に注ぎ入れたる大毒薬、というわけなんですがね、念がいってるでしょう? やよ、ハムレット、
ハム。「よせ! たとえ幽霊にもせよ、父の
ホレ。「ごめんなさい。うっかり調子に乗りました。決して故王の御遺徳を忘却したわけではありません。あまり馬鹿らしい話なので、つい、ふざけ過ぎてしまいました。ごめんなさい。心ならずも、ハムレットさまの御愁傷の筋に触れてしまいました。どうも、ホレーショーは、おっちょこちょいでいけません。」
ハム。「いや、なんでもないんだ。僕こそ大声で怒鳴ったりなんかして失礼した。わがままなんだよ。気にかけないでくれ。それから、その幽霊は、どうなるんだね? 話してくれよ。奇想天外じゃないか。」
ホレ。「はい、その幽霊は、毎晩のようにハムレットさまの
ハム。「あり得る事だ。」
ホレ。「え?」
ハム。「あり得る事だろうよ。ホレーショー、僕は何だか、気持が悪くなった。ひどい噂を立てやがる。」
ホレ。「やっぱり、申し上げないほうがよかったんじゃないでしょうか。」
ハム。「いや、聞かせてもらって大いによかった。汝、孝行の心あらば、か。ははん、ホレーショー、その噂は本当だよ。僕は、お人好しだったよ。」
ホレ。「何をおっしゃる。つむじを曲げるとは、その事です。はしたない民の噂に過ぎません。どこに根拠があるのです。」
ハム。「君には、わからん。僕は、くやしいのです。わからんだろうね。根も葉も無い事で侮辱をうけるのと、はっきりした根拠があって噂を立てられるのと、どっちが、くやしいものか、考えてごらん。僕は必ず、その根拠を見つける。ハムレット王家の者、お父さんも、叔父さんも、お母さんも僕も、まるっきり根拠の無い事で、そんなに民に
ホレ。「そんなら、責任は、僕にあります。ああ。僕に任せて下さいませんか。ハムレットさま、失礼ですが、あなたは少し、すねています。僕には、あなたが悪くすねて居られるのだとしか思われない。あなたは、さっきあれほど濁りなくお笑いになっていらっしゃったじゃありませんか。もとより根も葉も無い不埒な噂なのです。王さまに、ぶしつけにお尋ねになるなんて、とんでもない事です。いたずらに王さまを、お苦しめなさるだけです。僕は、あなたの
ハム。「程度があるよ。侮辱にも、程度があるよ。僕の父が、幽霊になってそんな、不潔な
ホレ。「あとで、ゆっくり御相談申したいと思います。臣ホレーショー、一代の失態でした。こんなに興奮なさるとは、思いも寄りませんでした。ハムレットさま、相変らずですね。」
ハム。「ああ、相変らずだよ。相変らずのお天気屋だよ。おっちょこちょいは、僕のほうでもらってもいいぜ。僕は、修養が足りんよ。こんなに馬鹿にされてまで、にこにこ笑って居れるほどの大人物じゃないんだ。ホレーショー、その
ホレ。「お返し
ハム。「望むところだ。ホレーショー、怒ったのかい? ああ、
ホレ。「いずれ、明日、お互いに落ちついてからにしていただきたく存じます。今夜は、おゆるし下さい。僕も、ゆっくり考えてみたいと思っています。僕は、何せ、ジャケツを着て居りませんので。」
ハム。「勝手にし給え。君は人の興奮の純粋性を信じないから
ホレ。「存じて居ります。ホレーショーは、いつでも、あなたの味方です。」
【ほかにも太宰関連記事を書いてます!】