【冒頭】
子供より親が大事、と思いたい。
【結句】
しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で
「桜桃 」について
・新潮文庫『ヴィヨンの妻』所収。
・昭和23年2月下旬頃に脱稿。
・昭和23年5月1日、『世界』五月号に掲載。
ヴィヨンの妻 (新潮文庫)
全文掲載(「青空文庫」より)
われ、山にむかいて、目を
子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。少くとも、私の家庭においては、そうである。まさか、自分が老人になってから、子供に助けられ、世話になろうなどという図々しい
夏、家族全部三畳間に集まり、大にぎやか、大混乱の夕食をしたため、父はタオルでやたらに顔の汗を
「めし食って大汗かくもげびた事、と
と、ひとりぶつぶつ不平を言い出す。
母は、一歳の次女におっぱいを含ませながら、そうして、お父さんと長女と長男のお給仕をするやら、子供たちのこぼしたものを拭くやら、拾うやら、鼻をかんでやるやら、
「お父さんは、お鼻に一ばん汗をおかきになるようね。いつも、せわしくお鼻を拭いていらっしゃる」
父は苦笑して、
「それじゃ、お前はどこだ。
「お上品なお父さんですこと」
「いや、何もお前、医学的な話じゃないか。上品も下品も無い」
「私はね」
と母は少しまじめな顔になり、
「この、お乳とお乳のあいだに、……涙の谷、……」
涙の谷。
父は黙して、食事をつづけた。
私は家庭に
人間が、人間に奉仕するというのは、悪い事であろうか。もったいぶって、なかなか笑わぬというのは、
つまり、私は、
しかし、これは外見。母が胸をあけると、涙の谷、父の寝汗も、いよいよひどく、夫婦は互いに相手の苦痛を知っているのだが、それに、さわらないように努めて、父が冗談を言えば、母も笑う。
しかし、その時、涙の谷、と母に言われて父は黙し、何か冗談を言って切りかえそうと思っても、とっさにうまい言葉が浮かばず、黙しつづけると、いよいよ気まずさが積り、さすがの「通人」の父も、とうとう、まじめな顔になってしまって、
「
と、母の
子供が三人。父は家事には全然、無能である。
子供、……七歳の長女も、ことしの春に生れた次女も、少し風邪をひき
父も母も、この長男について、深く話し合うことを避ける。白痴、
「唖の次男を
こんな新聞の記事もまた、私にヤケ酒を飲ませるのである。
ああ、ただ単に、発育がおくれているというだけの事であってくれたら! この長男が、いまに急に成長し、父母の心配を憤り
母も精一ぱいの努力で生きているのだろうが、父もまた、一生懸命であった。もともと、あまりたくさん書ける小説家では無いのである。極端な小心者なのである。それが公衆の面前に引き出され、へどもどしながら書いているのである。書くのがつらくて、ヤケ酒に救いを求める。ヤケ酒というのは、自分の思っていることを主張できない、もどっかしさ、いまいましさで飲む酒の事である。いつでも、自分の思っていることをハッキリ主張できるひとは、ヤケ酒なんか飲まない。(女に酒飲みの少いのは、この理由からである)
私は議論をして、勝ったためしが無い。必ず負けるのである。相手の確信の強さ、自己肯定のすさまじさに圧倒せられるのである。そうして私は沈黙する。しかし、だんだん考えてみると、相手の身勝手に気がつき、ただこっちばかりが悪いのではないのが確信せられて来るのだが、いちど言い負けたくせに、またしつこく戦闘開始するのも陰惨だし、それに私には言い争いは
はっきり言おう。くどくどと、あちこち持ってまわった書き方をしたが、実はこの小説、
「涙の谷」
それが導火線であった。この夫婦は既に述べたとおり、手荒なことはもちろん、
「涙の谷」
そう言われて、夫は、ひがんだ。しかし、言い争いは好まない。沈黙した。お前はおれに、いくぶんあてつける気持で、そう言ったのだろうが、しかし、泣いているのはお前だけでない。おれだって、お前に負けず、子供の事は考えている。自分の家庭は大事だと思っている。子供が夜中に、へんな
「誰か、ひとを雇いなさい」
と、ひとりごとみたいに、わずかに主張してみた次第なのだ。
母も、いったい、無口なほうである。しかし、言うことに、いつも、つめたい自信を持っていた。(この母に限らず、どこの女も、たいていそんなものであるが)
「でも、なかなか、来てくれるひともありませんから」
「捜せば、きっと見つかりますよ。来てくれるひとが無いんじゃ無い、
「私が、ひとを使うのが
「そんな、……」
父はまた黙した。じつは、そう思っていたのだ。しかし、黙した。
ああ、誰かひとり、雇ってくれたらいい。母が末の子を背負って、用足しに外に出かけると、父はあとの二人の子の世話を見なければならぬ。そうして、来客が毎日、きまって十人くらいずつある。
「仕事部屋のほうへ、出かけたいんだけど」
「これからですか?」
「そう。どうしても、今夜のうちに書き上げなければならない仕事があるんだ」
それは、
「今夜は、私、妹のところへ行って来たいと思っているのですけど」
それも、私は知っていた。妹は重態なのだ。しかし、女房が見舞いに行けば、私は子供のお守りをしていなければならぬ。
「だから、ひとを雇って、……」
言いかけて、私は、よした。女房の身内のひとの事に少しでも、ふれると、ひどく二人の気持がややこしくなる。
生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血が
私は黙って立って、六畳間の机の引出しから稿料のはいっている封筒を取り出し、
もう、仕事どころではない。自殺の事ばかり考えている。そうして、酒を飲む場所へまっすぐに行く。
「いらっしゃい」
「飲もう。きょうはまた、ばかに
「わるくないでしょう? あなたの
「きょうは、夫婦喧嘩でね、
子供より親が大事、と思いたい。子供よりも、その親のほうが弱いのだ。
桜桃が出た。
私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかもしれない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。
しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を
【了】
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