【冒頭】
五月十一日。木曜日。
曇。風強し。きょうは、やや充実した日だった。きのうの僕は幽霊だったが、きょうは、いくぶん積極的な生活人だった。学校の聖書の講義が面白かった。
【結句】
ダンテは、地獄の罪人たちの苦しみを、ただ、見て、とおったそうだ。一本の縄も投げてやらなかったそうだ。それでいいのだ、とこのごろ思うようになった。
「正義と微笑」について
・新潮文庫『パンドラの匣』所収。
・昭和17年3月19日に脱稿。
・昭和17年6月10日、書下し中篇小説『正義と微笑』を「新日本文藝」叢書の一冊として錦城出版社から刊行。
パンドラの匣 (新潮文庫)
全文掲載(「青空文庫」より)
五月十一日。木曜日。
曇。風強し。きょうは、やや充実した日だった。きのうの僕は幽霊だったが、きょうは、いくぶん積極的な生活人だった。学校の聖書の講義が面白かった。毎週一回、寺内神父の特別講義があるのだが、いつも僕には、この時間が、たのしみなのだ。先々週の、木曜の講義も面白かった。「最後の晩餐」の研究なのだが、晩餐の十三人が、それぞれ食卓のどの位置についていたか、図解して、とても明瞭に教えてくれた。そうして十三人全部が、寝そべって食卓についたというのだから驚いた。当時の風習として、食卓のまわりに寝台があって、その寝台にそれぞれ寝そべって飲食したのだそうである。ダヴィンチの「最後の晩餐」は、事実とは違っていたわけである。ロシヤのゲエとかいう画家のかいた「最後の晩餐」の絵は、みんな寝そべっているそうである。キリストの精神とは、全く関係の無い事だが、僕には、とても面白かった。どうも僕は、食べることに関心を持ちすぎるようだ。きょうもやっぱり、食べる事に就いて考えて、けれども、之は、あながちナンセンスに終らなかった。多少、得るところがあった。きょうは、寺内師は、旧約の申命記を中心にして講義した。寺内師は、決して、教壇に立って講義はしない。空いている学生の机に座席をとって、学生と一緒に勉強するような形で、くつろいで話をする。それが、とてもいい感じだ。みんなと楽しい事に就いて相談でもしているような感じだ。きょうは、申命記を中心にして、モーゼの苦心を語ってくれたが、僕はその中でも、モーゼが民衆のたべ物の事にまで世話を焼いているのを興味深く感じた。
「十四章。汝穢わしき物は何も食う勿れ。汝らが食うべき獣蓄は是なり即ち牛、羊、山羊、牡鹿、羚羊、小鹿、※[#「鹿+嚴」、U+9EA3、148-1]、、麈、※[#「塵」の「土」に代えて「君」、U+9E8F、148-1]、など。凡て獣蓄の中蹄の分れ割れて二つの蹄を成せる反蒭獣は汝ら之を食うべし。但し反蒭者と蹄の分れたる者の中汝らの食うべからざる者は是なり即ち駱駝、兎および山鼠、是らは反蒭ども蹄わかれざれば汝らには汚れたる者なり。また豚是は蹄わかるれども反蒭ことをせざれば汝らには汚たる者なり、汝ら是等の物の肉を食うべからず、またその死体に捫るべからず。
水におる諸の物の中是のごとき者を汝ら食うべし即ち凡て翅と鱗のある者は皆汝ら之を食うべし。凡て翅と鱗のあらざる者は汝らこれを食うべからず是は汝らには汚たる者なり。
また凡て潔き鳥は皆汝らこれを食うべし。但し是等は食うべからず即ち、黄鷹、鳶、、鷹、黒鷹の類、各種の鴉の類、鴕鳥、梟、鴎、雀鷹の類、鸛、鷺、白鳥、※※[#「澤のつくり+鳥」、U+9E05、148-9][#「虞+鳥」、U+9E06、148-9]、大鷹、、鶴、鸚鵡の類、鷸および蝙蝠、また凡て羽翼ありて匍ところの者は汝らには汚たる者なり汝らこれを食うべからず。凡て羽翼をもて飛ぶところの潔き物は汝らこれを食うべし。
凡そ自ら死たる者は汝ら食うべからず。」
実に、こまかいところまで教えてある。さぞ面倒くさかった事であろう。モーゼは、これらの鳥獣、駱駝や鴕鳥の類まで、いちいち自分で食べてためしてみたのかも知れない。駱駝は、さぞ、まずかったであろう。さすがのモーゼも顔をしかめて、こいつはいけねえ、と言ったであろう。先覚者というものは、ただ口で立派な教えを説いているばかりではない。直接、民衆の生活を助けてやっている。いや、ほとんど民衆の生活の現実的な手助けばかりだと言っていいかも知れない。そうしてその手助けの合間合間に、説教をするのだ。はじめから終りまで説教ばかりでは、どんなに立派な説教でも、民衆は附きしたがわぬものらしい。新約を読んでも、キリストは、病人をなおしたり、死者を蘇らせたり、さかな、パンをどっさり民衆に分配したり、ほとんどその事にのみ追われて、へとへとの様子である。十二弟子さえ、たべものが無くなると、すぐ不安になって、こそこそ相談し合っている。心の優しいキリストも、ついには弟子達を叱って、「ああ信仰うすき者よ、何ぞパン無きことを語り合うか。未だ悟らぬか。五つのパンを五千人に分ちて、その余を幾筐ひろい、また七つのパンを四千人に分ちて、その余を幾籃ひろいしかを覚えぬか。我が言いしはパンの事にあらぬを何ぞ悟らざる。」と、つくづく嘆息をもらしているのだ。どんなに、キリストは、淋しかったろう。けれども、致しかたが無いのだ。民衆は、そのように、ケチなものだ。自分の明日のくらしの事ばかり考えている。
寺内師の講義を聞きながら、いろんな事を考え、ふと、電光の如く、胸中にひらめくものを感じた。ああ、そうだ。人間には、はじめから理想なんて、ないんだ。あってもそれは、日常生活に即した理想だ。生活を離れた理想は、――ああ、それは、十字架へ行く路なんだ。そうして、それは神の子の路である。僕は民衆のひとりに過ぎない。たべものの事ばかり気にしている。僕はこのごろ、一個の生活人になって来たのだ。地を匍う鳥になったのだ。天使の翼が、いつのまにやら無くなっていたのだ。じたばたしたって、はじまらぬ。これが、現実なのだ。ごまかし様がない。「人間の悲惨を知らずに、神をのみ知ることは、傲慢を惹き起す。」これは、たしか、パスカルの言葉だったと思うが、僕は今まで、自分の悲惨を知らなかった。ただ神の星だけを知っていた。あの星を、ほしいと思っていた。それでは、いつか必ず、幻滅の苦杯を嘗めるわけだ。人間のみじめ。食べる事ばかり考えている。兄さんが、いつか、お金にもならない小説なんか、つまらぬ、と言っていたが、それは人間の率直な言葉で、それを一図に、兄さんの堕落として非難しようとした僕は、間違っていたのかも知れない。
人間なんて、どんないい事を言ったってだめだ。生活のしっぽが、ぶらさがっていますよ。「物質的な鎖と束縛とを甘受せよ。我は今、精神的な束縛からのみ汝を解き放つのである。」これだ、これだ。みじめな生活のしっぽを、ひきずりながら、それでも救いはある筈だ。理想に邁進する事が出来る筈だ。いつも明日のパンのことを心配しながらキリストについて歩いていた弟子達だって、ついには聖者になれたのだ。僕の努力も、これから全然、新規蒔直しだ。
僕は人間の生活をさえ否定しようとしていたのだ。おととい鴎座の試験を受け、そこにいならぶ芸術家たちが、あまりにも、ご自分たちのわずかな地位をまもるのに小心翼々の努力をしているのを見て、あいそがつきたのだ。殊にあの上杉氏など、日本一の進歩的俳優とも言われている人が、僕みたいな無名の一学生にまで、顔面蒼白になるほどの競争意識を燃やしているのだから、あさましくて、いやになってしまったのだ。いまでも決して、上杉氏の態度を立派だとは思っていないが、けれども、それだからとて人間生活全部を否定しようとしたのは、僕の行き過ぎである。きょう鴎座の研究所へ行って、もういちどあの芸術家たちと、よく話合ってみようかと思った。二十人の志願者の中から選び出されたという事だけでも、僕は感謝しなければならぬのかも知れない。
けれども放課後、校門を出て烈風に吹かれたら、ふいと気持が変った。どうも、いやだ。鴎座は、いやだ。ディレッタントだ。あそこには、理想の高い匂いが無いばかりか、生活の影さえ稀薄だ。演劇を生活している、とでもいうような根強さが無い。演劇を虚栄している、とでも言おうか、雰囲気でいい心地になってる趣味家ばっかり集っている感じだ。僕には、どうしても物足りない。僕はもう、きょうからは、甘い憧憬家ではないのだ。へんな言いかただけど、僕はプロフェショナルに生きたい!
斎藤氏のところへ行こうと決意した。きょうは、どうあっても、僕の覚悟のほどを、よく聞いてもらわなければならぬ、と思った。そう決意した時、僕のからだは、ぬくぬくと神の恩寵に包まれたような気がした。人間のみじめさ、自分の醜さに絶望せず、「凡て汝の手に堪うる事は力をつくしてこれを為せ。」
努めなければならぬ。十字架から、のがれようとしているのではない。自分の醜いしっぽをごまかさず、これを引きずって、歩一歩よろめきながら坂路をのぼるのだ。この坂路の果にあるものは、十字架か、天国か、それは知らない。かならず十字架ときめてしまうのは、神を知らぬ人の言葉だ。ただ、「御意のままになし給え。」
たいへんな決意で、芝の斎藤氏邸に出かけて行ったが、どうも斎藤氏邸は苦手だ。門をくぐらぬさきから、妙な威圧を感ずる。ダビデの砦はかくもあろうか、と思わせる。
ベルを押す。出て来たのはれいの女性だ。やはり、兄さんの推定どおり、秘書兼女中とでもいったところらしい。
「おや、いらっしゃい。」相変らず、なれなれしい。僕を、なめ切っている。
「先生は?」こんな女には用は無い。僕は、にこりともせずに尋ねた。
「いらっしゃいますわよ。」たしなみの無い口調である。
「重大な要件で、お目に、――」と言いかけたら、女は噴き出し、両手で口を押えて、顔を真赤にして笑いむせんだ。僕は不愉快でたまらなかった。僕はもう、以前のような子供ではないのだ。
「何が可笑しいのです。」と静かな口調で言って、「僕は、ぜひとも先生にお目にかかりたいのです。」
「はい、はい。」と、うなずいて笑いころげるようにして奥へひっこんだ。僕の顔に何か墨でもついているのであろうか。失敬な女性である。
しばらく経って、こんどはやや神妙な顔をして出て来て、お気の毒ですけれども、先生は少し風邪の気味で、きょうはどなたにも面会できないそうです。御用があるなら、この紙にちょっと書いて下さいまし、そう言って便箋と万年筆を差し出したのである。僕は、がっかりした。老大家というものは、ずいぶんわがままなものだと思った。生活力が強い、とでもいうのか、とにかく業の深い人だと思った。
あきらめて玄関の式台に腰をおろし、便箋にちょっと書いた。
「鴎座に受けて合格しました。試験は、とてもいい加減なものでした。一事は万事です。きょうの午後六時に鴎座の研究所へ来い、という通知を、きのうもらいましたが、行きたくありません。迷っています。教えて下さい。じみな修業をしたいのです。芹川進。」
と書いて、女のひとに手渡した、どうも、うまく書けない。女のひとはそれを持って奥へ行ったが、ながい事、出て来なかった。なんだか不安だ。山寺にひとりで、ぽつんと坐っているような気持だった。
突然、声たてて笑いながらあの女のひとが出て来た。
「はい、ご返事。」前の便箋とはちがう、巻紙を引きちぎったような小さい紙片を差し出した。毛筆で書き流してある。
春秋座
それだけである。他には、なんにも書いていない。
「なんですか、これは。」僕は、さすがに腹が立って来た。愚弄するにも程度がある。
「ご返事です。」女は、僕の顔を見上げて、無心そうに笑っている。
「春秋座へはいれって言うのですか。」
「そうじゃないでしょうか。」あっさり答える。
僕だって春秋座の存在は知っている。けれども、春秋座は、それこそ大名題の歌舞伎役者ばかり集って組織している劇団なのだ。とても僕のような学生が、のこのこ出かけて行って団員になれるような劇団ではない。
「これは、無理ですよ。先生の紹介状でもあったらとにかく、」と言いかけたら、青天霹靂、
「ひとりでやれ!」と奥から一喝。
仰天した。いるのだ。御本尊が襖の陰にかくれて立って聞いていたのだ。びっくりした。ひどい、じいさんだ。ほうほうの態で僕は退却した。すごい、じいさんだ。実に、おどろいた。家へ帰って兄さんに、きょうのてんまつを語って聞かせたら、兄さんは腹をかかえて笑った。僕も仕方なしに笑ったけれど、ちょっと、いまいましい気持もあった。
きょうは完全に、やられた。けれども、斎藤先生(これからは斎藤先生と呼ぼう)の奇妙に嗄れた一喝に遭って、この二、三日の灰色の雲も、ふっ飛んだ感じだ。ひとりでやろう。春秋座。けれども、それでは一体、どうすればいいのか、まるで見当がつかない。兄さんも、当惑しているようだ。ゆっくり春秋座を研究してみましょう、というのが今夜の僕たちの結論だった。
思いがけない事ばかり、次から次へと起ります。人生は、とても予測が出来ない。信仰の意味が、このごろ本当にわかって来たような気がする。毎日毎日が、奇蹟である。いや、生活の、全部が奇蹟だ。
五月十四日。日曜日。
曇。のち、晴れ。二、三日、日記を休んだ。別に変りはなかったからである。このごろ、なんだか気分が重く、以前のように浮き浮き日記を書けなくなった。日記をつける時間さえ惜しいような気がして来て、自重とでも言うのであろうか、くだらぬ事をいちいち日記に書きつけるのは、子供のままごと遊びのようで悲しい事だと思うようになった。自重しなければならぬと、しきりに思う。ベートーヴェンの言葉だけれども、「お前はもう自分の為の人間であることは許されていない。」そんな気持もするのである。
きょうは早朝から家中、たいへんな騒ぎであった。お母さんが、いよいよ九十九里の別荘に行って療養することになったのである。きょうは「大安」とかいって縁起のいい日なんだそうで、朝は少し曇っていたが、お母さんは、ぜひきょう行きたいと言い張るので、いよいよ出発。鈴岡さんと姉さんが、早朝から手伝いに来る。目黒のチョッピリ叔母さんも来る。チョッピリという形容詞は、つつしむことに叔母さんと約束したのだが、どうも口癖になっているので、うっかり出る。御近所のおじさん、朝日タクシイの若旦那、それから主治医の香川さん。総動員で、出発のお支度。なにせ、お母さんは寝たっきりの病人なのだから手数がかかる。看護婦の杉野さんと女中の梅やが、お母さんについて行く事になって、留守は、兄さんと僕と、書生の木島さんと、それから鈴岡さんの遠縁のものだとかいう五十すぎのお婆さん。このお婆さんは、シュンという名で、ひょうきんな人だ。杉野さんも梅やも、お母さんについて行って当分、炊事などする人が家にいなくなるので臨時に、このお婆さんに来てもらう事にしたのである。これから家も、いっそう淋しくなるだろう。大型のタクシイには、お母さんと香川さんと看護婦の杉野さん。もう一台のタクシイには、鈴岡さん夫婦と、女中の梅や。まっすぐに九十九里の松風園までタクシイを飛ばすのである。香川さんと鈴岡さん夫婦は、お母さんが向うに落ちついたのを見とどけてから、汽車で帰京の予定。たいへんな騒ぎである。家の前には通行人が、何事かという顔をして、二十人ほども立ちどまって見ている。お母さんは、朝日タクシイの若旦那に背負われ、泰然として、梅やを大声で叱咤したりなどしながら、その群集を掻きわけて自動車に乗り込むのである。相当な光景であった。あの、ドストイェフスキイの「賭博者」の中に出て来るお婆さんみたいだった。とに角元気なものだ。お母さんは、九十九里で一、二年静養したら、本当に、全快するかも知れない。
みんなが出発した後は、家の中が、がらんとして、たよりない気持だった。いや、それよりも、けさのどさくさ騒ぎの中で、ちょっと奇妙な事があった。けさは、兄さんも僕も、手伝いどころか皆の邪魔になるばかりなので、二階に避難して、お手伝いの人達の悪口などを言っていたら、杉野さんが、こわばった表情をして、用事ありげに僕たちの部屋へはいって来て、ぺたりと坐って、
「当分おわかれですわね。」と笑うような顔で、口をへんに曲げて言って、一瞬後、ひいと声を挙げて泣き伏した。
意外であった。兄さんと僕とは顔を見合せた。兄さんは、口をとがらせていた。当惑の様子である。杉野さんは、それから二、三分、泣きじゃくっていた。僕たちは黙っていた。杉野さんは、やがて起き上り、顔をエプロンで覆ったまま部屋から出て行った。
「なあんだ。」と僕が小さい声で言うと、兄さんも顔をしかめて、
「みっともない。」と言った。
けれども僕には、だいたいわかった。その時は、それ以上、杉野さんに就いて語るのをお互いに避けて、他の雑談をはじめたが、みんながタクシイに乗って出発した後で、さすがに、兄さんは、ちょっと考え込んだ様子であった。
兄さんは二階の部屋に仰向に寝ころんで、
「結婚しちゃおうか。」と言って笑った。
「兄さん、前から気がついていたの?」
「わからん。さっき泣き出したので、おや? と思ったんだ。」
「兄さんも、杉野さんを好きなの?」
「好きじゃないねえ。僕より、としが上だよ。」
「じゃ、なぜ結婚するの?」
「だって、泣くんだもの。」
二人で大笑いした。
杉野さんも、見かけに寄らずロマンチックなところがある。けれども、このロマンスは成立せず。杉野さんの求愛の形式は、ただ、ひいと泣いてみせる事である。実に、下手くそを極めた形式である。ロマンスには、滑稽感は禁物である。杉野さんも、あの時ちょっと泣いて、「しまった!」と思い、それから何もかもあきらめて九十九里へ出発したのに違いない。老嬢の恋は、残念ながら一場の笑話に終ってしまったようだ。
「花火だね。」兄さんは詩人らしい結論を与えた。
「線香花火だ。」僕は、現実家らしくそれを訂正した。
なんだか淋しい。家が、がらんとしている。晩ごはんをすましてから、兄さんと相談して演舞場へ行ってみる事にした。木島さんをも誘った。おシュン婆さんはお留守番。
演舞場では、いま春秋座の一党が出演しているのだ。「女殺油地獄」と、それから鴎外の「雁」を新人の川上祐吉氏が脚色したのと、それから「葉桜」という新舞踊。それぞれ、新聞などでも、評判がいいようだ。僕たちが行った頃には、もう「女殺油地獄」が終り、「葉桜」もすんだ様子で、最後の「雁」がはじまったところであった。舞台には、明治の雰囲気がよく出ていた。僕は大正の生れだから、明治の雰囲気など、知る由もないが、でも上野公園や芝公園を歩いていると、ふいと感ずる郷愁のようなもの、あれが、きっと明治の匂いだろうと信じているのだ。ただ、役者の台詞が、ほとんど昭和の会話の調子なので、残念に思った。脚色家の不注意かも知れない。俳優は、うまい。どんな端役でも、ちゃんと落ちついてやっている。チイムワアクがとれている。いい劇団だと思った。こんな劇団にはいる事が出来たら、何も言う事はないと思った。幕合に廊下を歩いていたら、廊下の曲り角に小さい箱が置かれてあって、その箱に、「今夜の御感想をお聞かせ下さい」と白ペンキで書かれてあるのを見て、ふいとインスピレエション。
箱に添えられてある便箋に、「団員志望者であります。手続きを教えて下さい。」と書いて住所と名前をしたため、箱に投入した。なんと佳い思いつきであろう。これもまた奇蹟だ。こんないい方法があるとは、この箱の文字を読む直前まで気がつかなかった。一瞬にして、ひらめいたのだ。神の恩寵だ。けれども、これは、兄さんには黙っていた。笑われるといやだから、というよりは、なんだかもうこれからは、兄さんにあまり頼らず、すべて僕の直感で、独往邁進したくなっていたのだ。
六月四日。火曜日。
晴れ。わすれていた時に、春秋座から手紙が来た。幸福の便りというものは、待っている時には、決して来ないものだ。決して来ない。友人を待っていて、ああ、あの足音は? なんて胸をおどらせている時には、決してその人の足音ではない。そうして、その人は、不意に来る。足音も何もあったものではない。全然あてにしていないその空白の時をねらって、不意に来る。不思議なものだ。春秋座の手紙は、タイプライターで打たれている。その大意を記せば、
今年は、新団員を三名採用するつもり。十六歳から二十歳までの健康の男児に限る。学歴は問わないが、筆記試験は施行する。入団二箇月を経てより、准団員として毎月化粧料三十円ならびに交通費を支給する。准団員の最長期間は二箇年限とし、以後は正団員として全団員と同等の待遇を与える。最長期間を経ても、なお、正団員としての資格を認めがたき者は除名する。志望者は六月十五日までに、自筆の履歴書、戸籍抄本、写真は手札型近影一葉(上半身正面向)ならびに戸主または保護者の許可証、相添えて事務所まで御送附の事。試験その他の事項に就いては追って御通知する。六月二十日深夜までにその御通知の無之場合は、断念せられたし。その他、個々の問合せには応じ難い。云々。
原文は、まさか、これほど堅苦しい文章でもないのだが、でも、だいたいこんな雰囲気の手紙なのだ。実にこまかいところまで、ハッキリ書いている。少しの華やかさもないが、その代り、非常に厳粛なものが感ぜられた。読んでいるうちに、坐り直したいような気がして来た。鴎座の時には、ただもうわくわくして、空騒ぎをしたものだが、こんどは、もう冗談ではない。沈鬱な気さえするのである。ああもう僕も、いよいよ役者稼業に乗り出すのか、と思ったら、ほろりとした。
三名採用。その中にはいる事が出来るかどうか、まるっきり見当もつかないけれど、とにかくやって見よう。兄さんも、今夜は緊張している。きょう僕が学校から帰って来たら、
「進。春秋座から手紙が来てるぜ。お前は、兄さんにかくれて、こっそり血判の歎願書を出したんじゃないか?」などと言って、はじめは笑っていたが、手紙を開封してその内容を僕と一緒に読んでからは、急に、まじめになってしまって、
「お父さんが生きていたら、なんと言うだろうねえ。」などと心細い事まで言い出す始末であった。兄さんは優しくて、そうして、やっぱり弱い。僕がいまさら、どこへ行けるものか。ながい間の煩悶苦悩のあげく、やっとここまで、たどりついて来たのだ。
こうなると斎藤先生ひとりが、たのみの綱だ。春秋座、とはっきり三字、斎藤先生は書いてくれた。そうして、ひとりでやれ! と大喝したのだ。やって見よう。どこまでもやって見よう。初夏の夜。星が綺麗だ。お母さん! と小さい声で言って、恥ずかしい気がした。
六月十八日。日曜日。
晴れ。暑い日だ。猛烈に暑い。日曜で、朝寝をしていたかったのだが、暑くて寝て居られない。八時に起きた。すると郵便。春秋座。
第一の関門は、パスしたのだ。当り前のような気もしたが、でも、ほっとした。通知の来るのは、あすか、あさっての事だろうと思っていたのだが、やっぱり幸福は意地悪く、思いがけない時にばかりやって来る。
七月五日、午前十時より神楽坂、春秋座演技道場にて第一次考査を施行する。第一次考査は、脚本朗読、筆記試験、口頭試問、簡単な体操。脚本朗読は、一つは何にても可、受験者の好むところの脚本を試験場に持参の上、自由に朗読せられたし。但し、この朗読時間は、五分以内。他に当方より一つ、朗読すべき脚本を試験場に於て呈示する。筆記試験には、なるべく鉛筆を用いられたし。体操に支障無きようパンツ、シャツの用意を忘れぬ事。弁当は持参に及ばず。当道場に於て粗飯を呈す。当日は、午前十時、十分前に演技道場控室に参集の事。
相変らず、簡明である。第一次考査と書いてあるが、それでは、この試験に合格してもまだ第二次、第三次と考査が続くのであろうか。ずいぶん慎重だ。けれども、俳優として適、不適を決定するのには、これくらいの大事をとるのが本当かも知れない。会社や銀行へ就職する場合とは違うのだ。無責任な審査をして出鱈目に採用しても、その採用された当人が、もし俳優として不適当な人だったら、すぐ又お隣りの銀行へという工合に、手軽に転職も出来ず、その人の一生が滅茶滅茶に破壊されてしまうだろう。どうか大いに厳重に審査してもらいたいものだ。鴎座のようでは、合格したって、不安でいけない。こちらは何もかも捨ててかかっているのだ。無責任な取扱いを受けてはたまらない。
脚本朗読、筆記試験、口頭試問、体操、と四種目あるが、その中でも自由選択の脚本朗読というのが曲者だ。ちょっと頭のいい審査方法だと思った。何を選ぶかという事に依って受験者の個性、教養、環境など全部わかってしまうだろう。これは難物だ。試験までには、まだ二週間ある。ゆっくりと落ちついて、万全の脚本を選び出そう。兄さんともよく相談して決定しよう。兄さんは、四、五日前から九十九里のお母さんのところへ見舞いに行って、今晩か、明晩、帰京する事になっている。ゆうべ兄さんから葉書が来た。お母さんは、一週間ほど前ちょと熱を出したのだが、もう熱もさがっていよいよ元気。杉野女史は、まっくろに日焼けして、けろりとして働いているそうだ。兄さんは、また杉野さんに泣かれるかも知れんなどと冗談を言って出発したのだが、なんという事もなかったようだ。どうも、兄さんは甘い。
夜、木島さんとおシュン婆さんと僕と三人がかりで、変なアイスクリイムを作って食べていたら、ベルが鳴って、出てみると、木村のお父さんが、のっそり玄関先に立っていた。
「うちの馬鹿が来ていませんか。」と意気込んで言う。
一昨夜、ギタをかかえて出かけて、それっきり家へ帰らないのだそうだ。
「このごろ、さっぱり逢いませんが。」と言ったら、首をかしげて、
「ギタを持って出たから、きっとあなたの所だとばかり思って、ちょっとお寄りしてみたのですが。」と疑うような、いやな眼で僕を見つめる。ばかにしてやがる。
「僕は、もうギタは、やめました。」と言ってやったら、
「そうでしょう。いいとしをして、いつまでもあんな楽器をいじくりまわしているのは感心出来ません。いや、お邪魔しました。もし、あのばかが来ましたならば。あなたからも、説教してやって下さい。」と言い残して帰って行った。
不良の木村には、お母さんが無いのだ。よその家庭のスキャンダルは言いたくないが、なんだか、ごたごたしているらしい。木村に説教するよりは、むしろ、木村の家の人たちに説教してやりたいものだと思った。木村のお父さんは所謂、高位高官の人であるが、どうも品がない。眼つきが、いやらしい。自分の子供だからといって、よそへ行ってまで、うちのばか、うちのばか、と言うのは、よくない事だと思った。実に聞きぐるしい。木村も木村だが、お父さんもお父さんだと思った。要するに、僕には、あまり興味が無い。ダンテは、地獄の罪人たちの苦しみを、ただ、見て、とおったそうだ。一本の縄も、投げてやらなかったそうだ。それでいいのだ、とこのごろ思うようになった。
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