記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#139「正義と微笑」十一

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【冒頭】

八月二十四日。木曜日。

曇り。地獄の夏。気が狂うかも知れぬ。いやだ、いやだ。何度、自殺を考えたか分からぬ。三味線が、ひけるようになりましたよ。踊りも出来ます。毎日、毎日、午前十時から午後四時まで。演技道場は、地獄の谷だ!学校は止めている。もう、他に行くところがないのだ。罰だ!やっぱり役者を甘く見ていた。

【結句】

お正月には、斎藤先生の所へ、まっさきに御年始に行こうと思っている。こんどは逢ってくれそうな気がする。

僕は、来年、十八歳。

 わがゆくみちに  はなさきかおり

 のどかなれとは  ねがいまつらじ

         ——さんびか第三百十三

 

「正義と微笑」について

新潮文庫パンドラの匣』所収。

・昭和17年3月19日に脱稿。

・昭和17年6月10日、書下し中篇小説『正義と微笑』を「新日本文藝」叢書の一冊として錦城出版社から刊行。

パンドラの匣 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)      

 八月二十四日。木曜日。
 曇り。地獄の夏。気が狂うかも知れぬ。いやだ、いやだ。何度、自殺を考えたか分らぬ。三味線が、ひけるようになりましたよ。踊りも出来ます。毎日、毎日、午前十時から午後四時まで。演技道場は、地獄の谷だ! 学校はめている。もう、他に行くところがないのだ。罰だ! やっぱり役者を甘く見ていた。
 のろわれたるものよ、なんじの名は、少年俳優。よくからだが続くものだと、自分でも不思議に思っています。覚悟は、していたが、これほどの屈辱をめるとは思わなかった。
 きょうも、お昼の三十分の休み時間に、道場の庭の芝生に仰向けに寝ころんでいたら、涙がいて出た。
「芹川さんは、いつも、憂鬱ゆううつそうですね。」と言って、れいの坊やがそばへ寄って来た。
「あっちへ行け!」と言った。自分でも、おや? と思ったほどの厳粛な口調であった。僕の悩みは、お前たち白痴にわかるものか!
 坊やの名は、滝田輝夫。むかし帝劇女優として有名だった滝田節子のかくし子だそうだ。父は、先年なくなった財界の巨頭、M氏だそうだ。十八歳。僕より一つ年上であるが、それでも、やっぱり坊やである。白痴にちかい。けれども、演技は素晴らしい。遊芸百般においても、僕などとても、足もとにも及ばない。こいつが僕のライバルだ。生涯しょうがいのライバルかも知れない。いつでも僕は、この白痴と比較されて、そうしてこごとをもらうのである。けれども僕は、白痴の天才は断然、否定しているのだ。今に見ろ、と思っている。無器用ものの、こった一念の強さほど尊いものは無いのだ。春秋座に於て、滝田を疑問視して、芹川を支持しているのは、団長の市川菊之助ひとりである。他は皆、僕の野暮ったさにあきれている。理窟りくつや、という家号やごうを、つけられている。きょうは、道場からの帰りに、大幹部の沢村嘉右衛門と市電の停留場まで一緒だったが、
「君は毎日毎日、ちがう本を、ポケットにいれて来るそうだね。本当に、読んでるのかい?」と薄笑いしながら言った。
 僕は返事をしなかった。腹の中で、こう言った。くにやさん、これからの役者は、あなたみたいに芸ばかり達者でもだめですよ。
 十日ほど前、市川菊之助は、僕をレインボウへ連れて行って、ごちそうしてくれて、その時にボイルドポテトをフオクで追いまわしながら、ふいとこう言ったのだ。
「私は三十まで大根だいこんと言われていました。そうして、いまでも私は自分を大根だと思っています。」
 僕は泣きたかった。あの団長の言葉が無かったら、僕はきょうあたり、首をくくっていたかも知れない。
 新しい芸道を樹立する。至難である。頭に矢が当らず、手脚にばっかり矢が当る。最もやり切れぬ苦痛である。一粒ひとつぶ芥種からしだねになるか、樹になるか。
 もういちど、ベートーヴェンのあの言葉を、大きく書いて見よう。「善く且つ高貴に行動する人間は唯だその事実だけに拠っても不幸に耐え得るものだということを私は証拠立てたいと願う。」


 九月十七日。日曜日。
 曇り。時々、雨。きょうは、稽古けいこは休みだ。きのうは道場で、夜の十一時半まで稽古があった。めまいがして、舞台にぶったおれそうになった。歌舞伎座かぶきざ、十月一日初日。出し物は、「助六すけろく漱石そうせきの「坊ちゃん」それから「色彩間苅豆いろもようちょっとかりまめ」。
 僕の初舞台だ。もっとも僕の役は、「助六」では提灯ちょうちん持ち、「坊ちゃん」では中学生、それだけだ。それなのに、その稽古の猛烈、繰り返し繰り返しだ。家へ帰って寝てからも、へんな、いやらしい夢の連続で、寝返りばかり打っていた。あんまり疲れすぎると、かえって眠られぬものである。
 けさは八時頃、下谷したやの姉さんから僕に電話だ。一大事だから、すぐに兄さんと二人で、下谷へ来てくれ、一大事、一大事、と笑いながら言うのである。どうしたのです、といくら尋ねても教えない。とにかく来てくれ、と言う。仕方が無い。兄さんと二人で、大急ぎでごはんを食べて下谷へ出かける。
「なんだろうね。」と僕が言ったら、兄さんは、
「夫婦喧嘩げんかの仲裁はごめんだな。」と、ちょっと不安そうな顔をして言った。
 下谷へ行ってみたら、なんの事はない、一家三人、やたらにげらげら笑っている。
「進ちゃん、けさのみやこ新聞、読んだ?」と姉さんは言う。なんの事やら、わからない。麹町こうじまちでは都新聞をとっていない。
「いいえ。」
「一大事よ。ごらん!」
 都新聞の日曜特輯とくしゅうの演芸欄。僕の写真が滝田輝夫の写真と並んで小さく出ている。名前が、ちがっている。僕の写真には、市川菊松。滝田のには、沢村扇之介。春秋座の二新人という説明がついていて、それから「どうぞよろしく」だとさ。あきれた。ばかにしてやがると思った。こんどの初舞台から、僕たちは準団員になるはずだという事は、わかっていたが、こんな芸名まで、ついていたとは知らなかった。なんにも僕たちには通知がなかったのだ。どうせ、でたらめに、でっち上げられた芸名だろうが、それにしても本人に、ちょっと相談してから、確定すべきものではなかろうか。暗い気がした。けれども、市川菊松という、この妙に、ごつい芸名の陰に、団長、市川菊之助の無言の庇護ひごが感ぜられて、その点は、ほのぼのとうれしかった。市川菊松。いい名じゃねえなあ。丁稚でっちさんみたいだ。
「いよいよ、」鈴岡さんは笑いながら、「本格的になって来たね。お祝いの意味で、これから支那しな料理でも食べに行こう。」鈴岡さんは、なにかというと、すぐ支那料理だ。
「だけど、こんなに大袈裟おおげさになって来ると、心配ね。」姉さん夫婦は、僕の俳優志願を前から知っていて、ちょっと心配しながらも、まあ、黙許という形だったのだ。「お母さんには、まだ、知らせないほうがいいんじゃない?」お母さんには、はじめから絶対秘密になっているのだ。
「もちろんさ。」兄さんは強い口調で答える。「いずれ、わかる事だろうけど、でも、もう少しお母さんが達者になってから全部を申し上げる事にしているんだ。とにかくこれは、僕の責任なんだから。」
「責任だなんて、そんな固苦しい事は、考えなくてもいいさ。」鈴岡さんは度胸がいい。「役者でもなんでも、まじめにやって行けたら立派なもんだ。十七で、五十円の月給を取るなんて、ちょっと出来ない事だぜ。」
「三十円ですよ。」僕は訂正した。
「いや、三十円の月給なら、手当やなんかで、六十円にはなるものなんだ。」役者も銀行員も、同じものに考えているらしい。
 鈴岡さん夫婦、俊雄君、それから兄さん、僕、五人で日比谷ひびや支那料理を食べに出かけた。みんな浮き浮きはしゃいでいたが、僕ひとりは、ゆうべの寝不足のせいもあり、少しも楽しくなかった。稽古の地獄が、一刻も念頭より離れず、ただ、暗憺あんたんたる気持であった。道楽で役者修業をしているんじゃないのだ。僕の暗さは、だれにもわからぬ。「どうぞよろしく」か。ああ、伸びんとほっするものは、なぜ屈しなければならぬのか!
 市川菊松。さびしいねえ。


 十月一日。日曜日。
 秋晴れ。初舞台。僕は舞台で、提灯を持ってしゃがんでいる。観客席は、おそろしく暗い深い沼だ。観客の顔は何も見えない。深くあおく、朦朧もうろうと動いている。いくら眼を見はっても、深く蒼く、朦朧としている。もの音ひとつ聞えない。しいんとしている。観客席には、誰もいないのではないかと思った。なまぬるく、深く大きい沼。気味が悪い。吸い込まれて行きそうだった。気が遠くなって来た。吐き気をもよおして来た。
 役をすまして、ぼんやり楽屋へ帰って来ると、兄さんと木島さんが楽屋に来ていた。うれしかった。兄さんに武者振むしゃぶりつきたかった。
「すぐわかりました。進さんだという事が、すぐにわかりました。どんな扮装ふんそうをしていても、やっぱりわかるものですね。」木島さんは、ひどく興奮して言っている。「僕が一ばんさきに、見つけたのです。すぐわかりました。」同じ事ばかり言っている。
 鈴岡さん一家も、一等席に来ているそうだ。チョッピリ叔母さんも、お弟子を五人連れて、うずら頑張がんばっているそうだ。兄さんからそれを聞いて、僕は泣きべそをかいた。肉親って、いいものだなあ、とつくづく思った。木島さんは、市川菊松! 市川菊松! と二度も大声で叫んだそうだ。提灯持ちに声を掛けたって仕様がない。恥ずかしいことをしてくれたのもである。
「僕の掛声は聞えましたか?」と自慢そうに言う。聞えるどころか、提灯持ちは舞台で気が遠くなって、いまにも卒倒しそうだったのだ。
 兄さんは僕の耳元に口を寄せて、
「楽屋に、すしか何かとどけさせようか?」と通人振つうじんぶった事を、まじめな顔してささやいたので、僕は噴き出しちゃった。
「いいんだよ。春秋座では、そんな事は、しないんだ」と言ったら、
「そうか。」と不満そうな顔をしていた。
 二つ目の「坊ちゃん」の時には、割に気楽だった。観客席の笑い声を、かすかに聞きとる事が出来た。けれども、やっぱり、観客の顔は、なんにも見えなかった。れて来ると、観客の笑い声だけでなく、囁き声やら、赤ん坊の泣き声まで、はっきり聞えて来て、かえってうるさいそうである。観客の顔も、どこに誰が来ているという事まで、すぐにわかるようになるそうだ。僕は、まだ、だめだ。夢中だ。いや、生死の境だ。
 役を全部すまして、楽屋風呂へはいって、あすから毎日、と思ったら発狂しそうな、たまらぬ嫌悪けんおを覚えた。役者は、いやだ! ほんの一瞬間の事であったが、のた打ちまわるほど苦しかった。いっそ発狂したい、と思っているうちに、その苦しみが、ふうと消えて、さびしさだけが残った。なんじら断食だんじきするとき、――あの、十六歳の春に日記の巻頭に大きく書きつけて置いたキリストの言葉が、その時、あざやかによみがえって来た。なんじは断食するとき、かしらに油をぬり、顔を洗え。くるしみは誰にだってあるのだ。ああ、断食は微笑と共に行え。せめてもうお十年、努力してから、その時には真に怒れ。僕はまだ一つの、創造をさえしていないじゃないか。いや、創造の技術さえ、僕には未だおぼつかない。
 さびしく、けれどもミルクを一口ひとくち飲んだくらいの甘さを体内に感じて風呂から出た。
 団長、市川菊之助の部屋へ挨拶あいさつに行く。
「や、おめでとう。」と言われて、うれしかった。たわいのないものだ。風呂場の暗い懊悩おうのうが、団長の明るい一言で、きれいに吹き飛ばされた。木挽町こびきちょうで初舞台を踏むという事は、役者として、最もめぐまれた出発なのかも知れない。お前は幸福なのだ、と自身に言い聞かせた。
 以上は、わが、光栄の初舞台の記である。
 家へ帰って、午前一時頃まで、兄さんを相手に、夢中で天体の話をした。なぜ、天体の話などをはじめたのか、自分にもわからない。


 十一月四日。土曜日。
 晴れ。いまは大阪。中座なかざ。出し物は、「勧進帳かんじんちょう」「歌行燈うたあんどん」「紅葉狩もみじがり」。
 僕たちの宿は、道頓堀どうとんぼりの、まっただ中。ほてい屋という、じめじめした連込み宿だ。六畳二間に、われら七人の起居なり。けれども、断じて堕落はせじ!
 市川菊松は聖人だそうだ。


 十一月十二日。日曜日。
 雨。ごめんなさい。今晩は酔っぱらっています。大阪は、いやなところですねえ。たいへん淋しい道頓堀です。あの、薄暗い「弥生やよい」というバーでお酒を飲みました。そうして、久し振りで酔いました。酔っても、僕は気取っていた。「わかい時から名誉を守れ!」
 扇之介、愚劣なり。酔っても醜怪を極めたり。そうして帰りに、破廉恥はれんちな事を僕にささやいた。僕が笑ってお断り申したら、扇之介のいわく、
「あたしゃ孤独だ。」
 あきれてものが言えない。


 十二月八日。金曜日。
 日光が出ているのか、雨が降っているのか、わからない。始終、泣きたい気持ばかり。名古屋にいるのだ。
 早く東京へ帰りたい。旅興行は、もういやだ。何も言いたくない。書きたくない。ただ、引きずられて生きています。
 性慾せいよくの、本質的な意味が何もわからず、ただ具体的な事だけを知っているとは、恥ずかしい。犬みたいだ。


 十二月二十七日。水曜日。
 晴れ。名古屋の公演も終って、今夜、七時半に東京駅に着いた。大阪。名古屋。二箇月振りで帰ると、東京は既に師走しわすである。僕も変った。兄さんが、東京駅へ迎えに来てくれていた。僕は、兄さんの顔を見て、ただ、どぎまぎした。兄さんは、おだやかに笑っている。
 僕は、兄さんと、もうはっきり違った世界に住んでいる事を自覚した。僕は日焼けした生活人だ。ロマンチシズムは、もう無いのだ。筋張すじばった、意地悪のリアリストだ。変ったなあ。
 黒いソフトをかぶって、背広を着た少年。おしろいのにおいのするかばんをかかえて、東京駅前の広場を歩いている。これがあの、十六歳の春から苦しみに苦しみ抜いた揚句の果に、ぽとりと一粒結晶して落ちた真珠の姿か。あの永い苦悩の、総決算がこの小さい、寒そうな姿一つだ。すれちがう人、ひとりとして僕の二箇年の、滅茶苦茶めちゃくちゃの努力には気がつくまい。よくも死にもせず、発狂もせずに、ねばって来たものだと僕は思っているのだが、よその人は、ただ、あの道楽息子も、とうとう役者に成りさがった、とまゆをひそめて言うだろう。芸術家の運命は、いつでも、そんなものだ。
 誰か僕の墓碑に、次のような一句をきざんでくれる人はないか。
「かれは、人を喜ばせるのが、何よりも好きであった!」
 僕の、生れた時からの宿命である。俳優という職業を選んだのも、全く、それ一つのためであった。ああ、日本一、いや、世界一の名優になりたい! そうして皆を、ことにも貧しい人たちを、しびれる程に喜ばせてあげたい。


 十二月二十九日。金曜日。
 晴れ。春秋座、歳末の総会。企画部の委員に、僕が当選した。脚本選定その他、座の方針を審議する幹部直属の委員である。責任の重大さを感じる。
 また、正月二日のラジオ放送、「小僧の神様」の朗読は、市川菊松ひとりに、やらせてみる事に決定された。二箇月の旅興行に於ける僕の奮闘が、認められた結果らしい。けれども僕は、いまは決して自惚うぬぼれてはいない。
 おのただ一人かしこからんと欲するは大愚のみ。(ラ・ロシフコオ)
 まじめに努力して行くだけだ。これからは、単純に、正直に行動しよう。知らない事は、知らないと言おう。出来ない事は、出来ないと言おう。思わせ振りを捨てたならば、人生は、意外にも平坦へいたんなところらしい。いわの上に、小さい家を築こう。
 お正月には、斎藤先生の所へ、まっさきに御年始に行こうと思っている。こんどはってくれそうな気がする。
 僕は、来年、十八歳。

わがゆくみちに   はなさきかおり
のどかなれとは   ねがいまつらじ
                                 ――さんびか第三百十三

 

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