【冒頭】
なんという平凡。わかい男女の恋の会話は、いや、案外おとなどうしの恋の会話も、はたで聞いては、その
けれども、これは、笑ってばかりもすまされぬ。おそろしい事件が起った。
【結句】
「おもて
姉はただもう涙を流し、若い者の阿保らしい色恋も、ばかにならぬと思い知る。
「犯人 」について
・新潮文庫『津軽通信』所収。
・昭和22年11月上旬頃に脱稿。
・昭和23年1月1日、『中央公論』新年号に掲載。
全文掲載(「青空文庫」より)
マリヤ・ガヴリーロヴナは、さっと顔をあからめて、いよいよ深くうなだれた。
なんという平凡。わかい男女の恋の会話は、いや、案外おとなどうしの恋の会話も、はたで聞いては、その
けれども、これは、笑ってばかりもすまされぬ。おそろしい事件が起った。
同じ会社に勤めている若い男と若い女である。男は二十六歳、
晩秋の
時刻も悪ければ、場所も悪かった。けれども二人には、金が無かった。いばらの奥深く
「帰ろうか。」
と言う。
「そうね。」
と女は言い、それから一言、つまらぬことを口走った。
「一緒に帰れるお家があったら、幸福ね。帰って、火をおこして、……三畳一間でも、……」
笑ってはいけない。恋の会話は、かならずこのように陳腐なものだが、しかし、この一言が、若い男の胸を、
部屋。
鶴は会社の世田谷の寮にいた。六畳一間に、同僚と三人の起居である。森ちゃんは高円寺の、
鶴の姉は、
鶴はその日、森ちゃんを
「や、いらっしゃい。」
店では小僧がひとり、肉切
「兄さんは?」
「おでかけです。」
「どこへ?」
「寄り合い。」
「また、飲みだな?」
義兄は大酒飲みである。家で神妙に働いている事は珍らしい。
「姉さんはいるだろう。」
「ええ、二階でしょう?」
「あがるぜ。」
姉は、ことしの春に生れた女の子に乳をふくませ
「貸してもいいって、兄さんは言っていたんだよ。」
「そりゃそう言ったかも知れないけど、あのひとの一存では、きめられませんよ。私のほうにも都合があります。」
「どんな都合?」
「そんな事は、お前さんに言う必要は無い。」
「パンパンに貸すのか?」
「そうでしょう。」
「姉さん、僕はこんど結婚するんだぜ。たのむから貸してくれ。」
「お前さんの月給はいくらなの? 自分ひとりでも食べて行けないくせに。部屋代がいまどれくらいか、知ってるのかい。」
「そりゃ、女のひとにも、いくらか助けてもらって、……」
「鏡を見たことがある? 女にみつがせる顔かね。」
「そうか。いい。たのまない。」
立って、二階から降り、あきらめきれず、むらむらと憎しみが燃えて逆上し、店の肉切庖丁を一本手にとって、
「姉さんが
と言い捨て階段をかけ上り、いきなり、やった。
姉は声も立てずにたおれ、血は噴出して鶴の顔にかかる。部屋の
「お帰りですか?」
「そう。兄さんによろしく。」
外へ出る。
ほんの四、五分待っていただけなのだが、すくなくとも三十分は待った心地である。電車が来た。
吉祥寺、西
高円寺。降りようか。一瞬ぐらぐらめまいした。森ちゃんに一目あいたくて、全身が熱くなった。姉を殺した記憶もふっ飛ぶ。いまはただ、部屋を借りられなかった失敗の残念だけが、鶴の胸をしめつける。ふたり一緒に会社から帰って、火をおこして、笑い合いながら夕食して、ラジオを聞いて寝る、その部屋が、借りられなかった口惜しさ。人を殺した恐怖など、その無念の情にくらべると、もののかずでないのは、こいをしている若者の場合、きわめて当然の事なのである。
ジャンパーのポケットに手をつっ込むと、おびただしい
東京駅下車。ことしの春、よその会社と野球の試合をして、勝って、その時、上役に連れられて、日本橋の「さくら」という待合に行き、スズメという鶴よりも二つ三つ年上の芸者にもてた。それから、飲食店
「閉鎖になっても、この家へおいでになって私を呼んで下さったら、いつでも逢えますわよ。」
鶴はそれを思い出し、午後七時、日本橋の「さくら」の玄関に立ち、落ちついて彼の会社の名を告げ、スズメに用事がある、と少し顔を赤くして言い、女中にも誰にもあやしまれず、奥の二階の部屋に通され、早速ドテラに着かえながら、お風呂は? とたずね、どうぞ、と案内せられ、その時、
「ひとりものは、つらいよ。ついでにお洗濯だ。」
とはにかんだ顔をして言って、すこし
「あら、こちらで致しますわ。」
と女中に言われて、
「いや、
と極めて自然に断る。
血痕はなかなか落ちなかった。洗濯をすまし、
「おや、しばらく。」
「酒が手にはいらないかね。」
「はいりますでしょう。ウイスキイでも、いいの?」
「かまわない。買ってくれ。」
ジャンパーのポケットから、一つかみの百円紙幣を取り出して、投げてやる。
「こんなに、たくさん
「要るだけ、とればいいじゃないか。」
「おあずかり致します。」
「ついでに、たばこもね。」
「たばこは?」
「軽いのがいい。手巻きは、ごめんだよ。」
スズメが部屋から出て行ったとたんに、停電。まっくら闇の中で、鶴は、にわかにおそろしくなった。ひそひそ何か話声が聞える。しかし、それは空耳だった。廊下で、忍ぶ足音が聞える。しかし、それも空耳であった。鶴は呼吸が苦しく、大声挙げて泣きたいと思ったが、一滴の涙も出なかった。ただ、胸の鼓動が異様に
「こんばんは。慶ちゃん。」鶴の名は、慶助である。
階段の下が、ほの明るくなり、豆ランプを持ったスズメがあらわれ、鶴を見ておどろき、
「ま、あなた、何をしていらっしゃる。」
豆ランプの光で見るスズメの顔は
「ひとりで、こわかったんだよ。」
「闇屋さん、闇におどろく。」
自分があのお金を、何か闇商売でもやってもうけたものと、スズメが思い込んでいるらしいのを知って、鶴は、ちょっと気が軽くなり、はしゃぎたくなった。
「酒は?」
「女中さんにたのみました。すぐ持ってまいりますって。このごろは、へんに、ややこしくって、いやねえ。」
ウイスキイ、つまみもの、煙草。女中は、盗人の
「おしずかに、お飲みになって下さいよ。」
「心得ている。」
鶴は、大闇師のように、
その下には
その上には
されど、
嵐の中にこそ平穏のあるが如くに、
せつに
あわれ、あらしに憩いありとや。鶴は
嵐の中にこそ、平穏、……。あらしの中にこそ、……。
鶴は、スズメを相手に、豆ランプの光のもとでウイスキイを飲み、しだいに楽しく酔って行った。午後十時ちかく、部屋の電燈がパッとついたが、しかし、その時にはもう、電燈の光も、豆ランプのほのかな光さえ、鶴には必要でなかった。
あかつき。
ドオウン。その気配を見た事のあるひとは知っているだろう。日の出以前のあの
鶴は、
金はまだある。
酔いが発して来て、
やがて夕方、ウイスキイを一口飲みかけても吐きそうになり、
「帰る。」
と、苦しい息の下から一ことそう言うのさえやっとで、何か冗談を言おうと思っても、すぐ吐きそうになり、黙って
外は冬ちかい
こうしては、おられない。金のある限りは逃げて、そうして最後は自殺だ。
鶴は、つかまえられて、そうして肉親の者たち、会社の者たちに、怒られ悲しまれ、気味悪がられ、ののしられ、うらみを言われるのが、何としても、イヤで、おそろしくてたまらなかった。
しかし、疲れている。
まだ、新聞には出ていない。
鶴は度胸をきめて、会社の世田谷の寮に立ち向う。自分の巣で一晩ぐっすり眠りたかった。
寮では六畳一間に、同僚と三人で寝起きしている。同僚たちは、まちに遊びに出たらしく、留守である。この辺は
黙って蒲団をひいて、電燈を消して、寝た、が、すぐまた起きて、電燈をつけて、寝て、片手で顔を
朝、同僚のひとりにゆり起された。
「おい、鶴。どこを、ほっつき歩いていたんだ。三鷹の兄さんから、何べんも会社へ電話が来て、われわれ弱ったぞ。鶴がいたなら、大至急、三鷹へ寄こしてくれるようにという電話なんだ。急病人でも出来たんじゃないか? ところがお前は欠勤で、寮にも帰って来ないし、森ちゃんも心当りが無いと言うし、とにかくきょうは三鷹へ行って見ろ。ただ事でないような兄さんの口調だったぜ。」
鶴は、
「ただ、来いとだけ言ったのか。他には、何も?」
既にはね起きてズボンをはいている。
「うん、何でも急用らしい。すぐ行って来たほうがいい。」
「行って来る。」
何が何だか、鶴にはわけがわからなくなって来た。自分の身の上が、まだ、世間とつながる事が出来るのか。一瞬、夢見るような気持になったが、あわててそれを否定した。自分は人類の敵だ。殺人鬼である。
既に人間では無いのである。世間の者どもは全部、力を集中してこの鬼一匹を追い廻しているのだ。もはや、それこそ
鶴は洗面所で歯を強くみがき、歯ブラシを口にふくんだまま食堂に行き、食卓に置かれてある数種類の新聞のうらおもてを殺気立った眼つきをして調べる。出ていない。どの新聞も、鶴の事に
鶴は洗面所で
「三鷹へ行って来る。」
と、かすれた声で
まず、井の頭線で渋谷に出る。渋谷で品物を全部たたき売る。リュックまで売り捨てる。五千円以上のお金がはいった。
渋谷から地下鉄。新橋下車。銀座のほうに歩きかけて、やめて、川の近くのバラックの薬局から眠り薬ブロバリン、二百錠入を一箱買い求め、新橋駅に引きかえし、大阪行きの切符と急行券を入手した。大阪へ行ってどうするというあても無いのだが、汽車に乗ったら、少しは不安も消えるような気がしたのであった。それに、鶴はこれまで一度も関西に行った事が無い。この世のなごりに、関西で遊ぶのも悪くなかろう。関西の女は、いいそうだ。自分には、金があるのだ。一万円ちかくある。
駅の附近のマーケットから食料品をどっさり仕入れ、昼すこし過ぎ、汽車に乗る。急行列車は案外にすいていて、鶴は楽に座席に腰かけられた。
汽車は走る。鶴は、ふと、詩を作ってみたいと思った。無趣味な鶴にとって、それは奇怪といってもよいほど、いかにも唐突きわまる衝動であった。たしかに生れてはじめて味う本当にへんな誘惑であった。人間は死期が近づくにつれて、どんなに俗な
鶴は、浮かぬ顔して、首を振り、胸のポケットから手帖を取り出し、鉛筆をなめた。うまく出来たら、森ちゃんに送ろう。かたみである。
鶴は、ゆっくり手帖に書く。
われに、ブロバリン、二百錠あり。
飲めば、死ぬ。
いのち、
それだけ書いて、もうつまってしまった。あと、何も書く事が無い。読みかえしてみても一向に、つまらない。
私は死にます。
こんどは、犬か猫になって生れて来ます。
もうまた、書く事が無くなった。しばらく、手帖のその文面を見つめ、ふっと窓のほうに顔をそむけ、
さて、汽車は既に、静岡県下にはいっている。
それからの鶴の消息に就いては、鶴の近親の者たちの調査も推測も行きとどかず、どうもはっきりは、わからない。
五日ほど
江戸っ子らしい巻舌で一夜の宿を求め、部屋に案内されるや、すぐさま仰向に寝ころがり、両脚を烈しくばたばたさせ、番頭の持って行った宿帳には、それでもちゃんと正しく住所姓名を記し、酔い覚めの水をたのみ、やたらと飲んで、それから、その水でブロバリン二百錠一気にやった模様である。
鶴の
鶴の殺人は、とうとう、どの新聞にも出なかったけれども、鶴の自殺は、関西の新聞の片隅に小さく出た。
京都の某商会に勤めている北川という青年はおどろき、大津に急行する。宿の者とも相談し、とにかく、鶴の東京の寮に打電する。寮から、人が、三鷹の義兄の
姉の左腕の傷はまだ糸が抜けず、左腕を白布で首に
「おもて沙汰にしたくねえので、きょうまであちこち心当りを捜していたのが、わるかった。」
姉はただもう涙を流し、若い者の阿呆らしい色恋も、ばかにならぬと思い知る。
【了】
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