記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。

【日刊 太宰治全小説】#30「虚構の春」中旬

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【冒頭】

月日。

「拝呈。過刻は失礼。『道化の華』早速一読甚だおもしろく存じ候。無論及第点をつけ申し候。

【結句】

 良薬の苦味、おゆるし下さい。おそらくは貴方を理解できる唯一人の四十男、無二の小市民、高橋九拝。太宰治学兄。」

 

「虚構の春 中旬」について

新潮文庫『二十世紀旗手』所収。

・昭和11年5月末から6月1日までの頃に脱稿。

・昭和11年7月1日、『文学界』七月号に発表。

二十世紀旗手 (新潮文庫)

 

 全文掲載(「青空文庫」より)

     中旬

 

 月日。
「拝呈。過刻は失礼。『道化のはな』早速一読はなはだおもしろく存じそうろう。無論及第点をつけ申し候。『なにひとつ真実を言わぬ。けれども、しばらく聞いているうちには思わぬ拾いものをすることがある。彼等の気取った言葉のなかに、ときどきびっくりするほど素直なひびきの感ぜられることがある。』という篇中のキイノートをなす一節がそのままうつしてもってこの一篇の評語とすることが出来ると思います。ほのかにもあわれなる真実の蛍光を発するを喜びます。恐らく真実というものは、こういう風にしか語れないものでしょうからね。病床の作者の自愛を祈るあまり慵斎ようさい主人、特に一書を呈す。何とぞおとりつぎ下さい。十日深夜、否、十一日朝、午前二時頃なるべし。深沼太郎。吉田潔様硯北けんぽく。」
「どうだい。これなら信用するだろう。いま大わらわでお礼状を書いている始末だ。太陽の裏には月ありで、君からもお礼状を出して置いて下さい。吉田潔。幸福な病人へ。」
「謹啓。御多忙中を大変恐縮に存じますが、本紙新年号文芸面のために左の玉稿たまわりたく、よろしくお願いいたします。一、先輩への手紙。二、三枚半。三、一枚二円余。四、今月十五日。なお御面倒でしょうが、同封のハガキで御都合折り返しお知らせ下さいますようお願いいたします。東京市こうじ町区内幸町武蔵野新聞社文芸部、長沢伝六。太宰治様侍史。」

 月日。
「おハガキありがとう。元旦号には是非お願いいたします。おひまがありましたら十枚以上を書いていただきたい。(一行あき。)小泉君と先般ったが、相変らず元気、あの男の野性的親愛は、実に暖くて良い。あの男をもっと偉くしたい。(一行あき。)私は明日からしばらく西津軽、北津軽両郡の凶作地を歩きます。今年の青森県農村のさまは全く悲惨そのもの。とても、まともには見られない生活が行列をなし、群落をなして存在している。(一行あき。)貴兄のお兄上は、県会の花。昨今ますます青森県の重要人物らしい貫禄かんろくそなえて来ました。なかなか立派です。人の応待など出来て来ました。あのまま伸びたら、良い人物になり社会的の働きに於いても、すぐれたる力量を示すのも遠い将来ではございますまい。二十五歳で町長、重役頭取。二十九歳で県会議員。男ぶりといい、頭脳といい、それに大へんの勉強家。愚弟太宰治氏、なかなか、つらかろと御推察申しあげます。ほんとに。三日深夜。粉雪さらさら。北奥新報社整理部、辻田吉太郎。アザミの花をお好きな太宰君。」
「太宰先生。一大事。きょう学校からのかえりみち、本屋へ立ち寄り、一時間くらい立読していたが、心細いことになっているのだよ。講談倶楽部クラブの新年附録、全国長者番附を見たが、僕の家も、君の家も、きれいに姿を消して居る。いやだね。君の家が、百五十万、僕のが百十万。去年までは確かにその辺だった。毎年、僕は、あれをのぞいて、親爺が金ない金ない、と言っても安心していたのだが、こんどだけは、本当らしいぞ。対策を考究しようじゃないか。こまった。こまった。清水忠治。太宰先生、か。」

 月日。
「冠省。へんな話ですが、お金が必要なんじゃないですか? 二百八十円を限度として、東京朝日新聞よろず案内欄へ、ジュムゲジュムゲジュムゲのポンタン百円、(もしくは二百円でも、御入用なだけ)食いたい。みたい。イモクテネ。と小さい広告おだしになれば、その日のうちにお金、お送り申します。五年まえ、おたがいに帝大の学生でした。あなたは藤棚の下のベンチによこたわり、いい顔をして、昼寝していました。私の名は、カメよカメよ、と申します。」

 月日。
「きょうは妙に心もとない手紙拝見。熱の出る心配があるのにビイルをのんだというのは君の手落ちではないかと考えます。君に酒をのむことを教えたのは僕ではないかと思いますが、万一にも君が酒で失敗したなら僕の責任のような気がして僕は甚だ心苦しいだろう。すっかり健康になるまで酒はしたまえ。もっとも酒について僕は人に何も言う資格はない。君の自重をうながすだけのことである。送金を減らされたそうだが、減らされただけ生活をきりつめたらどんなものだろう。生活くらい伸びちぢみ自在になるものはない。至極簡単である。原稿もそろそろ売れて来るようになったので、書きなぐらないように書きためて大きい雑誌に送ること重要事項である。君は世評を気にするから急に淋しくなったりするのかもしれない。押し強くなくては自滅する。春になったら房州南方に移住して、漁師の生活など見ながら保養するのも一得ではないかと思います。いずれは仕事に区切りがついたら萱野君といっしょに訪ねたいと思います。しばらく会わないので萱野君の様子はわからない。きょう、只今徹夜にて仕事中、後略のまま。津島修二様。早川生。」

 月日。
「玉稿昨日頂戴ちょうだいしました。先日、貴兄からのハガキどういう理由だかはっきりしなかったところ、昨日の原稿を読んで意味がよくわかりました。先日の僕の依頼について、態度がいけなかったら御免なさい。実はあの手紙、大変忙しい時間に、社の同僚と手分けして約二十通ちかくを(先輩の分と新人の分と)書かねばならなかったので、君の分だけ、個人的な通信を書いている時機がなかった。稿料のことを書かないのはかえって不徳義ゆえ誰にでも書くことにしている。一緒に依頼した共通の友人、菊地千秋君にも、その他の諸君にも、みんな同文のものを書いただけだ。君にだけ特別個人的に書けばよかったのであろうが、そういう時間がなかったことは前述の通りだ。あの依頼の手紙を書いて、君の気持をそこなう結果になろうとは夢にも思わなかったし、悪意をもってああいうことをお願いするほど愚かな者もいないだろう。君が神経質になり過ぎているものとしか、僕には考えられない。君が僕に友情を持っていてくれるのなら、君こそ、そういう小さなことを、悪く曲解する必要はないではないか。もっとも、君が痛罵つうばしたような態度を、平生僕がとっているとすれば、(君には勿論そういう態度をとったこともなければ、あの手紙がそういう態度に出たものでないことは前述の通りだ。)僕は反省しなければならぬし、自分の生活に就ても考えなければならない、事実考えてもいる。君がほんとの芸術家なら、ああいう依頼の手紙を書く者と、貰う者と、どちらがわびしい気持ちで生きているかは容易に了解できることと思う。かく、あの原稿は徹頭徹尾、君のそういう思い過しに出ているものだから、大変お気の毒だけれども書き直してはくれないだろうか。どうしても君が嫌だと云えば、いたし方がないけれども、こういう誤解や邪推じゃすいに出発したことで君と喧嘩したりするのは、僕は嫌だ。僕が君を侮じょくしたと君は考えたらしいけれど兎に角、僕は君のあの原稿の極端なる軽べつにやられて昨夜はほとんど一睡もしなかった。先日のあの僕の手紙のことに関する誤解は一掃してほしい。そして、原稿も書き直してほしい。これはお願いだ。君はああいうことで(しかも、君自身の誤解で)非常に怒ったけれど、そういうことを一々怒っていては、僕など、一日に幾度怒っていなければならぬか、数えあげられるものではない。君が精いっぱいに生きているように、僕だって精いっぱいで生きているのだ。君のこれからのことや、僕のこれからのことや、そういうことは、こんど会った時、話したい。一度、君の病床に訪ねて、いろいろ話したいと思っているのだけれど、僕も大変多忙な上に、少々神経衰弱気味で参っているのだ。正月にでもなったら、ゆっくりお訪ねできることと思う。永野、吉田両君には先夜会った。神経をたかぶらせないでお身お大事に勉強してほしい。社の余暇を盗んで書いたので意を尽せないところが多いだろうが、折り返し、御返事をまちます。武蔵野新聞社、学芸部、長沢伝六。太宰治様。追伸ついしん、尚原稿書き直していただければ、二十五日までで結構だ。それから写真を一枚、同封して下さい。いろいろ面倒な御願いで恐縮だが、なにとぞよろしく。乱筆乱文多謝。」
「ちかごろ、毎夜の如く、太宰兄についての、薄気味わるい夢ばかり見る。変りは、あるまいな。誓います。誰にも言いません。苦しいことがあるのじゃないか。事を行うまえに、たのむ、僕にちょっと耳打ちしてれ。一緒に旅に出よう。上海シャンハイでも、南洋でも、君の好きなところへ行こう。君の好いている土地なら、津軽だけはごめんだけれど、あとは世界中いずこの果にても、やがて僕もその土地を好きに思うようになります。これぼっちも疑いなし。旅費くらいは、私かせぎます。ひとり旅をしたいなら、私はお供いたしませぬ。君、なにも、していないだろうね? 大丈夫だろうね? さあ、私に明朗の御返事下さい。黒田重治。太宰治学兄。」
貴翰きかん拝誦。病気恢復かいふくのおもむきにてなによりのことと思います。土佐から帰って以来、仕事に追われ、見舞にも行けないが、病気がよくなればそれでいいと思っている。今日は十五日締切の小説で大童おおわらわになっているところ。新ロマン派の君の小説が深沼氏の推讃すいさんするところとなって、君が発奮する気になったとは二重のよろこびである。自信さえあれば、万事はそれでうまく行く。文壇も社会も、みんな自信だけの問題だと、小生痛感している。その自信を持たしてくれるのは、自分の仕事の出来栄できばえである。循環する理論である。だから自信のあるものが勝ちである。拙宅の赤んぼさんは、大介という名前の由。小生旅行中に女房が勝手につけた名前で、小生の気に入らない名前である。しかし、最早もはや御近所へ披露ひろうしてしまった後だから泣寝入りである。後略のまま頓首とんしゅ。大事にしたまえ。萱野君、旅行から帰って来た由。早川俊二。津島君。」

 月日。
「返事よこしてはいけないと言われて返事を書く。一、長篇のこと。云われるまでもなく早まった気がして居る。屑物屋くずものやへはらうつもりで承知してしまったのだが、これはしばらく取消しにしよう。この手紙といっしょに延期するむね葉書かいた。どうせ来年の予定だったから、来年までには、僕も何とかなるつもりでいた――が、それまでに一人前になれるかどうか、疑問に思われて来た。『新作家』へは、今度書いた百枚ほどのもの連載しようと思っている。あの雑誌はいつまでも、僕を無名作家にしたがっている。『月夜の華』というのだ。下手へたくそにいっていたとしても、むしろ、この方を宣伝して呉れ。提灯ちょうちんをもつことなんて一番やさしいことなんだから。二、僕と君との交友が、とかく、色眼鏡でみられるのは仕方がないのではないかな。中畑というのにも僕は一度あってるきりだし、世間さまに云わせたら、僕が君をなんとかしてケチをつけたい破目はめに居そうにみえるのではないかしら。僕だけの耳へでも、僕が君をいやみに言いふらして居るらしい噂が聞えてくる。そして人からいろいろ忠告されたりする。構わんじゃろ。君と僕が対立的にみられるのは僕にはかえって面白いくらいだ。たとえばポオとレニンが比較されて、ポオがレニンに策士だといって蔭口かげぐちをきいたといった風なゴシップは愉快だからな。何よりも僕の考えていることは、友人面をしてのさばりたくないことだ。君の手紙のうれしかったのは、そんなかくれた愛情の支持者があの中にいたことだ。君が神なら僕も神だ。君があしなら――僕も葦だ。三、それから、君の手紙はいくぶんセンチではなかったか。というのは、よみながら、僕は涙が出るところだったからだ。それを僕のセンチに帰するのは好くない。ぼくは、恋文を貰った小娘のように顔をあからめていた。四、これが君の手紙への返事だったら破いて呉れ。僕としては依頼文のつもりだった。たった一つ、僕のこんどの小説を宣伝して呉れということ。五、昨日、不愉快な客が来て、太宰治は巧くやったねと云った。僕は不愛想に答えた。『彼は僕たちが出したのです』――今日つくづく考えなおしている。こんなのがデマの根になるのではないか――と。『ええ』といっておけば好いのかもしれない。それともまた『彼は立派な作家です』と言えばいいのか。ぼくはいままでほど自由な気持で君のことを饒舌しゃべれなくなったのを哀しむ。君も僕も差支さしつかえないとしても、聞く奴が駑馬どばなら君と僕の名に関る。太宰治は、一寸ちょっと、偉くなりすぎたからいかんのだ。これじゃ、僕も肩を並べに行かなくては。漕ぎ着こう。六、長沢の小説よんだか。『神秘文学』のやつ。あんな安直な友情のみせびらかしは、僕は御免だ。正直なのかもしれないが、文学ってやつは、もっとひねくれてるんじゃないかしら。長沢に期待すること少くなった。これも哀しいことの一つだ。七、長沢にも会いたいと思いながら、会わずにいる。ぼくはセンチになると、水いらずで雑誌を作ることばかり考える。君はどんな風に考えるかしらんが、僕と君と二人だけでいる世界だけが一番美しいのではないだろうか。八、無理をしてはいかん。君は馬鹿なことを言った。君が先に出て先にくたばる術はない。僕たちを待たなくてはいかん。それまでは少くとも十年健康で待たなくてはいかん。根気が要る。僕は指にタコができた。九、これからは太宰治がじゃんじゃん僕なんかを宣伝する時になったようだ。僕なんか、ほくほく悦に入っている。『こんなのが仲間にいるとみんな得をするからな。』と今度ぼくは誰かに(最も不愉快な客が来たら)言ってやろうと、もくろんでいる。『とらの威を借る云々』とドバどもはいいふらすだろう。そしたら『あいつは虎でないとでもいうのか』と逆襲してやる。『そして僕が狐でないと誰が言いましたか。』十、きみ不看みずや双眼色そうがんのいろ不語かたらざれば似無愁うれいなきににたり――いい句だ。では元気で、僕のことを宣伝して呉れと筆をとること右の如し。林彪太郎。太宰治机下きか。」
「メクラソウシニテヲアワセル。」(電報)
「めくら草紙を読みました。あの雑誌のうち、あの八頁だけを読みました。あなたは病気骨の髄を犯しても不倒である必要があります。これは僕の最大限の君への心の言葉。きょう僕は疲れて大へん疲れて字も書きづらいのですが、急に君へ手紙を出す必要をその中で感じましたので一筆。お正月は大和国やまとのくに桜井へかえる。永野喜美代。」
「君は、君の読者にかこまれても、赤面してはいけない。頬被ほおかぶりもよせ。この世の中に生きて行くためには。ところで、めくら草紙だが、晦渋かいじゅうではあるけれども、一つの頂点、傑作の相貌を具えていた。君は、以後、讃辞を素直に受けとる修行をしなければいけない。吉田生。」
「はじめて、手紙を差上げる無礼、何卒なにとぞお許し下さい。お蔭様で、私たちの雑誌、『春服』も第八号をまた出せるようになりました。最近、同人に少しも手紙を書かないので連中の気持は判りませんが、ぼくの云いたいのは、もうお手許迄てもとまでとどいているに違いない『春服』八号中の拙作のことであります。興味がなかったら後は読まないで下さい。あれは昨年十月ぼくの負傷直前の制作です。いま、ぼくはあれに対して、全然気恥しい気持、見るのもいやな気持に駆られています。太宰さんの葉書なりと一枚欲しく思っています。ぼくはいま、ある女の子の家に毎晩のように遊びに行っては、無駄話をして一時頃帰ってきます。大して惚れていないのに、せんだって、真面目に求婚して、承諾されました。その帰り可笑おかしく、噴き出している最中、――いや、どんな気持だったかわかりません。ぼくはいつも真面目でいたいと思っているのです。東京に帰って文学三昧ざんまいふけりたくてたまりません。このままだったら、いっそ死んだ方が得なような気がします。誰もぼくに生半可なまはんかな関心なぞ持っていて貰いたくありません。東京の友達だって、おふくろだって貴方だってそうです。お便り下さい。それよりお会いしたい。大ウソ。中江種一。太宰さん。」

 月日。
「拝啓。その後、失礼して居ります。先週の火曜日(?)にそちらの様子見たく思い、船橋に出かけようと立ち上ったところに君からの葉書きたり、中止。一昨夜、突然、永野喜美代参り、君から絶交状送られたとか、その夜はついに徹夜、ぼくも大変心配していた処、只今、永野よりの葉書にて、ほどなく和解できた由うけたまわり、大いに安堵あんどいたしました。永野の葉書には、『太宰治氏を十年の友と安んじ居ること、真情吐露とろしてお伝え下されく』とあるから、原因が何であったかは知らぬが、益々交友のちぎりを固くせられるよう、ぼくからも祈ります。永野喜美代ほどの異質、近頃沙漠の花ほどにもめずらしく、何卒、良き交友、続けられること、おねがい申します。さて、その後のからだの調子お知らせ下さい。ぼく余りお邪魔しに行かぬよう心掛け、手紙だけでも時々書こうと思い、筆をると、えい面倒、行ってしまえ、ということになる。手紙というもの、実にまどろこしく、ぼくには不得手ふえて屡々しばしば、自分で何をかいたのかあきれる有様。近頃の句一つ。自嘲じちょう。歯こぼれし口のさぶさや三ッ日月。やっぱり四五日中にそちらに行ってみたく思うが如何いかが? 不一。黒田重治。太宰治様。」

 月日。
「お問い合せの玉稿、五、六日まえ、すでに拝受いたしました。きょうまで、お礼逡巡しゅんじゅん、欠礼の段、おいかりなさいませぬようお願い申します。玉稿をめぐり、小さい騒ぎが、ございました。太宰先生、私は貴方あなたをあくまでも支持いたします。私とて、同じ季節の青年でございます。いまは、ぶちまけて申しあげます。当雑誌の記者二名、貴方と決闘すると申しています。玉稿、ふざけて居る。田舎いなかの雑誌と思ってばかにして居る。おれたちの眼の黒いうちは、採用させぬ。生意気な身のほど知らず、等々、たいへんな騒ぎでございました。私には成算ございましたので、二、三日、様子を見て、それから貴方へ御寄稿のお礼かたがた、このたびの事件のてんまつ大略申し述べようと思って居りましたところ、かれら意外にも、けさ、編輯へんしゅう主任たる私には一言の挨拶もなく、書留郵便にて、玉稿御返送敢行いたせし由、承知いたし、いまは、私と彼等二人の正義づらとの、面目問題でございます。かならず、厳罰に附し、おわびの万分の一、当方の誠意かっていただきたく、飛行郵便にて、玉稿の書留より一足さきに、額の滝、油汗ふきふき、平身低頭のおわび、以上の如くでございます。なお、寸志おしるしだけにても、御送り申そうかと考えましたが、これ又、かえって失礼に当りはせぬか、心にかかり、いまは、訥吃とっきつ蹌踉そうろう七重ななえの膝を八重やえに折り曲げての平あやまり、他日、つぐない、内心、固く期して居ります。俗への憤怒。貴方への申しわけなさ。文字さえ乱れて、細くまた太く、ひょろひょろ小粒が駈けまわり、突如、牛ほどの岩石の落下、この悪筆、乱筆には、われながら驚き呆れて居ります。創刊第一号から、こんな手違いを起し、不吉きわまりなく、それを思うと泣きたくなります。このごろ、みんな、一オクタアヴくらい調子が変化して居るのにお気附きございませぬか。私は、もとより、私の周囲の者まで、すべて。大阪サロン編輯部、高橋安二郎。太宰先生。」
「前略。しつれい申します。玉稿、本日別封書留にてお送りいたしました。むかしの同僚、高橋安二郎君が、このごろ病気がいけなくなり、太宰氏、ほか三人の中堅、新進の作家へ、本社編輯部の名をいつわり、とんでもない御手紙さしあげて居ることが最近、判明いたしました。高橋君は、たしか三十歳。おととしの秋、社員全部のピクニックの日、ふだん好きな酒も呑まず、青い顔をして居りましたが、すすきの穂を口にくわえて、同僚の面前にのっそり立ちふさがり薄目つかって相手の顔から、胸、胸から脚、脚から靴、なめまわすように見あげ、見おろす。帰途、夕日を浴びて、ながいながいひとりごとがはじまり、見事な、血したたるが如き紅葉もみじの大いなる枝を肩にかついで、下腹部を殊更ことさらに前へつき出し、ぶらぶら歩いて、君、誰にも言っちゃいけないよ、藤村とうそん先生ね、あの人、背中一ぱいに三百円以上のお金をかけて刺青ほりものしたのだよ。背中一ぱいに金魚が泳いで居る。いや、ちがった、おたまじゃくしが、一千匹以上うようよしているのだ。山高帽子が似合うようでは、どだい作家じゃない。僕は、この秋から支那しなふく着るのだ。白足袋しろたびをはきたい。白足袋はいて、おしるこたべていると泣きたくなるよ。ふぐを食べて死んだひとの六十パアセントは自殺なんだよ。君、秘密は守ってれるね? 藤村先生の戸籍名は河内山そうしゅんというのだ。そのような大へんな秘密を、高橋の呼吸が私の耳朶みみたぶをくすぐってすこぶる弱ったほど、それほど近く顔を寄せて、こっそり教えて呉れましたが、高橋君は、もともと文学青年だったのです。六、七年まえのことでございますが、当時、信濃の山々、奥深くにたてこもって、創作三昧、しずかに一日一日を生きて居られた藤村、島崎先生から、百枚ちかくの約束の玉稿、(このときの創作は、文豪老年期を代表する傑作という折紙つきました。)ぜひともいただいて来るよう、まして此のたびは他の雑誌社に奪われる危険もあり、如才じょさいなく立ちまわれよ、と編輯長に言われて、ふだんから生真面目の人、しかもそのころは未だ二十代、山の奥、竹の柱の草庵に文豪とたった二人、囲炉裏いろりを挟んで徹宵お話うけたまわれるのだと、期待、緊張、それがために顔もやや青ざめ、同僚たちのにぎやかな声援にも、いちいち口を引きしめては深くうなずき、決意のほどを見せるのです。廻転ドアにわれとわが身を音たかくたたきつけ、一直線に旅立ったときのひょろ長い後姿には、笑ってすまされないものがございました。四日目の朝、しょんぼり、びしょれになって、社へ帰ってまいりました。やられたのです。かれの言いぶんにれば、字義どおりの一足ちがい、宿の朝ごはんの後、熱い番茶に梅干いれてふうふう吹いて呑んだのが失敗のもと、それがために五分おくれて、大事になったとのこと、二人の給仕もいれて十六人の社員、こぞって同情いたしました。私などもあみあげ靴のひもを結び直したばかりに、やはり他社のものに先をこされて、あやうく首切られそうになったかなしい経験がございます。高橋君は、すぐ編輯長に呼ばれて、三時間、直立不動の姿勢でもって、説教きかされ、お説教中、五たび、六たび、編輯長をその場で殺そうと決意したそうでございます。とうとう仕舞いには、卒倒、おびただしき鼻血。私たち、なんにも申し合わせなかったのに、そのあくる日、二人の給仕は例外、ほかの社員ことごとく、辞表をしたためて持って来ていたのでございます。そうして、くやしくて、みんな編輯長室のまえの薄暗い廊下でひしと一かたまりにかたまって、ことにも私、どうにもこうにも我慢ならず、かたわらの友人の、声しのばせての歔欷きょきに誘われ、大声放って泣きました。あのときの一種崇高の感激は、生涯にいちどあるか無しかの貴重のものと存じます。ああ、不要のことのみ書きつらねました。おゆるし下さい。高橋君は、それ以後、作家に限らず、いささかでも人格者と名のつく人物、一人の例外なく蛇蝎視だかつしして、先生と呼ばれるほどのうそき、などの川柳せんりゅうをときどき雑誌の埋草うめくさに使っていましたが、あれほどお慕いしていた藤村先生の『ト』の字も口に出しませぬ。よほどの事が、あったにちがいございませぬ。昨年の春、健康いよいよそこねて、今は、明確に退社して居ります。百日くらいまえに私はかれの自宅の病室を見舞ったのでございます。月光が彼のベッドのあらゆるくぼみに満ちあふれ、すくえると思いました。高橋は、両の眉毛をきれいにり落していました。能面のごとき端正の顔は、月の光の愛撫あいぶり金属のようにつるつるしていました。名状すべからざる恐怖のため、私の膝頭ひざがしらが音たててふるえるので、私は、電気をつけようとしわがれた声で主張いたしました。そのとき、高橋の顔に、三歳くらいの童子の泣きべそに似た表情が一瞬ぱっと開くより早く消えうせた。『まるで気違いみたいだろう?』ともちまえの甘えるような鼻声で言って、寒いほど高貴の笑顔に化していった。私は、医師を呼び、あくる日、精神病院に入院させた。高橋は静かに、わば、そろそろと、狂っていったのである。味わいの深い狂いかたであると思惟しいいたします。ああ。あなたの小説を、にっぽん一だと申して、幾度となく繰り返し繰り返し拝読して居る様子で、貴作、ロマネスクは、すでに諳誦あんしょうできる程度に修行したとか申して居たのに。むかしのき人たちの恋物語、あるいは、とくべつに楽しかった御旅行の追憶、さては、先生御自身のきよらかなるロマンス、等々、病床の高橋君に書き送る形式にて、四枚、月末までにおねがい申しあげます。大阪サロン編輯部、春田一男。太宰治様。」
「君の葉書読んだ。単なる冷やかしに過ぎんではないか。君は真実の解らん人だね。つまらんと思う。吉田潔。」
「冠省。首くくる縄切なわきれもなし年の暮。私も、大兄お言いつけのものと同額の金子きんす入用にて、八方狂奔きょうほん。岩壁、切りひらいて行きましょう。死ぬるのは、いつにても可能。たまには、後輩のいうことにも留意して下さい。永野喜美代。」
「先日は御手紙有難ありがとう。又、電報もいただいた。原稿は、どういうことにしますか。君の気がむいたようにするのが、一番いいと思う。〆切しめきりは二十五、六日頃までは待てるのです。小生ただいま居所不定、(近くアパアトを捜す予定)だから御通信はすべて社あてに下さる様。住所がきまったなら、おしらせする。要用のみで失敬。武蔵野新聞社学芸部、長沢伝六。」

 月日。
「太宰さん。とうとう正義温情の徒にみごと一ぱい食わせられましたね。はじめから御注意申しあげて置いたら、こんなことにはならなかったのでございますが、雑誌は、どこでもそうらしいですが、ひとりの作家を特に引きたててやることは、固く禁じられて居りますし、そのうえ、この社には、重役附きのスパイが多く、これからもあることゆえ、ものやわらかの人物には気をつけて下さいまし。軽々しく、ふるまってはいけません。春田は、どんな言葉でおわびをしたのか、わかりませぬけれど、貴方あなたに書き直しさせたと言って、この二、三日大自慢で、それだけ、私は、小さくなっていなければならず、まことに味気ないことになりました。太宰さん、あなたもよくない。春田が、どのような巧言を並べたてたかは、存じませぬけれど、何も、あんなにセンチメンタルな手紙を春田へ与える必要ございません。醜態です。猛省ねがいます。私、ちゃんとあなたのための八十円用意していたのに、春田などにたのんでは十円も危い。作家を困らせるのを、雑誌記者の天職と心得て居るのだから、始末がわるい。私ひとりで、やきもきしてたって仕様がない。太宰さん。あなたの御意見はどうなんです。こんなになめられて口惜くやしく思いませんか。私は、あなたのお家のこと、たいてい知って居ります。あなたの読者だからです。背中のあざの数まで知って居ります。春田など、太宰さんの小説ひとつ読んでいないのです。私たちの雑誌の性質上、サロンの出いりも繁く、席上、太宰さんのうわさなど出ますけれど、そのような時には、春田、夏田になってしまって熱狂の身ぶりよろしく、筆にするに忍びぬ下劣の形容詞を一分間二十発くらいの割合いで猛射撃。可成かなりの変質者なのです。以後、浮気は固くつつしまなければいけません。このみそかは、それじゃ困るのでしょう? 私は、もうお世話ごめんこうむります。八十円のお金、よそへまわしてしまいました。おひとりで、やってごらんなさい。そんな苦労も、ちっとは、身になります。八方ふさがったときには、御相談下さい。苦しくても、ぶていさいでも、死なずにいて下さい。不思議なもので、大きい苦しみのつぎには、きっと大きいたのしみが来ます。そうして、これは数学の如くに正確です。あせらず御養生専一にねがいます。来春は東京の実家へかえって初日を拝むつもりです。その折、お逢いできればと、いささか、たのしみにして居ります。良薬の苦味、おゆるし下さい。おそらくは貴方を理解できる唯一人の四十男、無二の小市民、高橋九拝。太宰治学兄。」


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