記憶の宮殿

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【日刊 太宰治全小説】#12「逆行」蝶蝶(『晩年』)

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【冒頭】
老人ではなかった。二十五歳を越しただけであった。けれどもやはり老人であった。

【結句】
老人の、ひとのよい無学ではあるが利巧(りこう)な、若く美しい妻は、居並ぶ近親たちの手前、嫉妬(しっと)ではなく(ほお)をあからめ、それから(さじ)を握ったまま声しのばせて泣いたという。

 

逆行(ぎゃっこう) 蝶蝶(ちょうちょう)」について

新潮文庫『晩年』所収。
・昭和8年1月頃初稿脱稿、昭和9年10月頃発表稿脱稿。
・昭和10年2月1日、『文藝』二月号に発表。
同人誌以外に、太宰治の筆名で小説を発表したのは、これが最初


晩年 (新潮文庫)

 

 全文掲載(「青空文庫」)

 老人ではなかった。二十五歳を越しただけであった。けれどもやはり老人であった。ふつうの人の一年一年を、この老人はたっぷり三倍三倍にして暮したのである。二度、自殺をし損った。そのうちの一度は情死であった。三度、留置場にぶちこまれた。思想の罪人としてであった。ついに一篇も売れなかったけれど、百篇にあまる小説を書いた。しかし、それはいずれもこの老人の本気でした仕業ではなかった。わば道草であった。いまだにこの老人のひしがれた胸をとくとく打ち鳴らし、そのこけた頬をあからめさせるのは、酔いどれることと、ちがった女を眺めながらあくなき空想をめぐらすことと、二つであった。いや、その二つの思い出である。ひしがれた胸、こけた頬、それはうそでなかった。老人は、この日に死んだのである。老人の永い生涯に於いて、嘘でなかったのは、生れたことと、死んだことと、二つであった。死ぬる間際まで嘘をいていた。
 老人は今、病床にある。遊びから受けた病気であった。老人には暮しに困らぬほどの財産があった。けれどもそれは、遊びあるくのには足りない財産であった。老人は、いま死ぬることを残念であるとは思わなかった。ほそぼそとした暮しは、老人には理解できないのである。
 ふつうの人間は臨終ちかくなると、おのれの両のてのひらをまじまじと眺めたり、近親のひとみをぼんやり見あげているものであるが、この老人は、たいてい眼をつぶっていた。ぎゅっと固くつぶってみたり、ゆるくあけてまぶたをぷるぷるそよがせてみたり、おとなしくそんなことをしているだけなのである。蝶蝶が見えるというのであった。青い蝶や、黒い蝶や、白い蝶や、黄色い蝶や、むらさきの蝶や、水色の蝶や、数千数万の蝶蝶がすぐ額のうえをいっぱいにむれ飛んでいるというのであった。わざとそういうのであった。十里とおくは蝶のかすみ。百万の羽ばたきの音は、真昼のあぶのうなりに似ていた。これは合戦をしているのであろう。翼の粉末が、折れた脚が、眼玉が、触角が、長い舌が、降るように落ちる。
 食べたいものは、なんでも、と言われて、あずきかゆ、と答えた。老人が十八歳で始めて小説というものを書いたとき、臨終の老人が、あずきかゆ、を食べたいとつぶやくところの描写をなしたことがある。
 あずきかゆは作られた。それは、おかゆにゆで小豆を散らして、塩で風味をつけたものであった。老人の田舎のごちそうであった。眼をつぶって仰向のまま、二さじすすると、もういい、と言った。ほかになにか、と問われ、うす笑いして、遊びたい、と答えた。老人の、ひとのよい無学ではあるが利巧な、若く美しい妻は、居並ぶ近親たちの手前、嫉妬しっとでなく頬をあからめ、それから匙を握ったまま声しのばせて泣いたという。

 

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