記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#号外『晩年』について

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 昭和11年(1936年)6月25日、太宰が27歳の時に、砂子屋書房から出版した処女作品集『晩年』

口絵写真一葉。初版500部。菊判フランス装。241頁。定価2円。

そこに収められた15編(全25回)【日刊 太宰治全小説】で全て公開になりました。1編1編、様々な趣向が凝らされ、まるで短編のデパートのような作品です。

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■『晩年』口絵写真

(ちなみに、「【日刊 太宰治全小説】‐前期‐」のサムネイル画像は、『晩年』の口絵写真を加工したものです。)

それを記念して、『晩年』に収められた作品にまつわるエピソードを紹介していきたいと思います。エピソードに触れながら、もう一度作品を読み返し、味わって頂ければ幸いです。

 

『晩年』にかける思い

晩年 (新潮文庫)

 私はこの短篇集一冊のために、十箇年を棒に振った。まる十箇年、市民と同じさわやかな朝めしを食わなかった。私は、この本一冊のために、身の置きどころを失い、たえず自尊心を傷つけられて世のなかの寒風に吹きまくられ、そうして、うろうろ歩きまわっていた。数万円の金銭を浪費した。長兄の苦労のほどに頭さがる。舌を焼き、胸を焦がし、わが身を、とうてい回復できぬまでにわざと損じた。百篇にあまる小説を、破り捨てた。原稿用紙五万枚。そうして残ったのは、辛うじて、これだけである。これだけ。原稿用紙六百枚にちかいのであるが、稿料、全部で六十数円である。

けれども、私は、信じて居る。この短篇集、「晩年」は、年々歳々、いよいよ色濃く、君の眼に、きみの胸に浸透して行くにちがいないということを。私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。きょうよりのちの私は全くの死骸である。私は余生を送って行く。そうして、私がこののち永く生きながらえ、再度、短篇集を出さなければならぬことがあるとしても、私はそれに「歌留多」と名づけてやろうと思って居る。歌留多、もとより遊戯である。しかも、金銭を賭ける遊戯である。滑稽にもそれからのち、さらにさらに生きながらえ、三度目の短篇集を出すことがあるならば、私はそれに、「審判」と名づけなければならないようだ。すべての遊戯にインポテンツになった私には、全く生気を欠いた自叙伝をぼそぼそ書いて行くよりほかに、路がないであろう。旅人よ、この路を避けて通れ。これは、確実にむなしい、路なのだから、と審判という灯台は、この世ならず厳粛に語るだろう。けれども、今宵の私は、そんなに永く生きていたくない。おのれのスパルタを汚すよりは、錨をからだに巻きつけて入水したいものだとさえ思っている。

さもあらばあれ、「晩年」一冊、君のその両手の垢で黒く光って来るまで、繰り返し繰り返し愛読されることを思うと、ああ、私は幸福だ。――一瞬間。ひとは、その生涯に於いて、まことの幸福を味い得る時間は、これは百米十秒一どころか、もっと短いようである。声あり。「嘘だ!不幸なる出版なら、やめるがよい。」答えて曰く、「われは、いまの世に二つとなき美しきもの。メヂチのヴイナス像。いまの世のまことの美の実証を、この世に残さんための出版也。

見よ!ヴイナス像の色に出づるほどの羞恥のさま。これ、わが不幸のはじめ。また、春化秋冬つねに裸体にして、とわに無言、やや寒き貌こそ、(美人薄命、)天のこの冷酷極りなき嫉妬の鞭を、かの高雅なる眼もてきみにそと教えて居る。」

 ―「『晩年』に就いて」(『文芸雑誌』昭和11年1月号)(『もの思う葦』収録)

 この随想は、『晩年』の出版前に発表されたものです。


もの思う葦 (新潮文庫)

共産主義運動への没頭、数度の自殺未遂、パビナール中毒、心中未遂と凄まじい日々を過ごした中で、自らの遺書として発表されたのが『晩年』でした。

太宰の文章には脚色も多いですが、冒頭の「私はこの短篇集一冊のために、十箇年を棒に振った。」「私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。きょうよりのちの私は全くの死骸である。私は余生を送って行く。」という部分に、太宰の強い決意が感じられます。

ちなみに、『晩年』出版の10年前というと、太宰が旧制弘前高等学校に入学した昭和2年(1927年)にあたります。

この頃の太宰についても、後ほど記事にまとめたいと思っていますが、昨年2018年5月30日発行の鵜飼哲夫『三つの空白 太宰治の誕生』(白水社) に詳しく書かれています。

 著者の鵜飼氏は、読売新聞の文芸・読書面を担当されていた方で、現在は読売新聞東京本社編集委員をされています。読みやすい文章三つの空白期から太宰文学をひも解くという新しい視点知らなかった情報満載と、とても読み応えのある本で、おススメです。


三つの空白:太宰治の誕生

 

 『晩年』への追想

「晩年」は、私の最初の小説集なのです。もう、これが、私の唯一の遺著になるだろうと思いましたから、題も、「晩年」として置いたのです。

読んで面白い小説も、二、三ありますから、おひまの折に読んでみて下さい。

私の小説を、読んだところで、あなたの生活が、ちっとも楽になりません。ちっとも偉くなりません。なんにもなりません。だから、私は、あまり、おすすめできません。

「思い出」など、読んで面白いのではないでしょうか。きっと、あなたは、大笑いしますよ。それでいいのです。「ロマネスク」なども、滑稽な出鱈目に満ち満ちていますが、これは、すこし、すさんでいますから、あまり、おすすめできません。

こんど、ひとつ、ただ、わけもなく面白い長篇小説を書いてあげましょうね

。いまの小説、みな、面白くないでしょう?

やさしくて、かなしくて、おかしくて、気高くて、他に何が要るのでしょう。

あのね、読んで面白くない小説はね、それは、下手な小説なのです。こわいことなんかない。面白くない小説は、きっぱり拒否したほうがいいのです。

みんな、面白くないからねえ。面白がらせようと努めて、いっこう面白くもなんともない小説は、あれは、あなた、なんだか死にたくなりますね。

こんな、ものの言いかたが、どんなにいやらしく響くか、私、知っています。それこそ人をばかにしたような言いかたかもわからぬ。

けれども私は、自身の感覚をいつわることができません。くだらないのです。いまさら、あなたに、なんにも言いたくないのです。

激情の極には、人は、どんな表情をするでしょう。無表情。私は微笑の能面になりました。いいえ、残忍のみみずくになりました。こわいことなんかない。私も、やっと世の中を知った、というだけのことなのです。

「晩年」お読みになりましたか?美しさは、人から指定されていて感じいるものではなくて、自分で、自分ひとりで、ふっと発見するものです。「晩年」の中から、あなたは、美しさを発見できるかどうか、それはあなたの自由です。読者の黄金権です。だから、あんまりおすすめしたくないのです。わからん奴には、ぶん殴ったって、こんりんざい判りっこないんだから。

もう、これで、しつれいいたします。私はいま、とっても面白い小説を書きかけているので、なかば上の空で、対談していました。おゆるし下さい。

 ―「『晩年』に就いて」(「他人に語る」改題)(『文筆』昭和13年2月号)

 先ほど引用した随筆と同じタイトルですが、こちらは『晩年』刊行の2年後に書かれました。

文章に温度差はありますが、改めて筆を起していることからも、処女短篇集に対する思い入れの深さが伺えます。

それでは、太宰の強い思いが込められた『晩年』収録の15編を紹介していきます。

 

『葉』

 『晩年』の冒頭を飾る作品です。

撰ばれてあることの

恍惚と不安と

二つわれにあり

  ヴェルレエヌ

このエピグラフは、堀口大學『ヴェルレエヌ詩抄』昭和7年8月・第一書房)からの引用ですが、太宰治その生涯の中で抱き続けたテーマの一つと言っても、過言ではないと思います。

36の断章から構成され、太宰が新進作家として世に出る前に書かれた習作などの中から、捨てがたいエッセンスを抽出し、断片的に配置しています。

「死のうと思っていた。」という書き出しは、この本をはじめて手に取った高校三年生の私にとって、とても衝撃的なものであると同時に、ある種の親近感を抱いたことを、今でも鮮明に覚えています。

「死のうと思っていた。」と、絶望的な自死への懇願で幕を開け、「どうにか、なる。」という、若干の諦めの感情を含みながらも、生きることへの希望を見出す構成は、「死」からの「再生」を示唆しているようにも感じられます。

『思い出』

 紹介した随筆の中で、太宰自身が「読んで面白いのではないでしょうか。きっと、あなたは、大笑いしますよ。」と紹介していた、太宰の幼少期・少年期を書いた自叙伝的な作品です。

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地元・金木町を代表する名士である家庭に生まれ、恵まれた環境での家族との関わりや、初恋の女性「みよ」への仄かな恋心、弟交わす赤い糸の話などが、温かみとユーモアを交えて綴られていきます。

冒頭の三節目までは叔母について書かれており、四節目では小説『津軽にも登場する小間使の「たけ」が書かれます。ここまで読んで、父母や兄弟が登場してこないという点、太宰の幼少期を取り巻く環境の特異性を端的に表しているようにも感じられます。

『晩年』を構成する15編の中で、中核を成す作品です。

『魚服記』

 「本州の北端の山脈は、ぼんじゅ山脈というのである。せいぜい三四百米ほどの丘陵が起伏しているのであるから、ふつうの地図には載っていない。」とはじまりますが、このモデルになった海抜468メートルの梵珠山は、どんな地図にも載っています。

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通常は漢字で表記される「梵珠山」を平仮名で「ぼんじゅ山脈」と、また、あえて地図には載っていないと記すことで、現実離れした伝説的で民話風の雰囲気が醸し出されています。

昭和8年3月1日、太宰が小山捷平に宛てた書簡に、

ここで鳥渡(ちょっと)私の「魚服記」に就いて言わせていたゞきます。あれは、やはり、仕事に取りかゝる前から、結びの一句を考えてやったものでした。「三日のうちにスワの無残な死体が村の桟橋に漂着した」という一句でした。それを後になってけずりました。私の力では、とてもそうした大それた真実迄に飛躍させることが出来ないと絶望したからであります。私は、ずるかったのです。深山の荒鷲を打ち損じるよりは軒の端の雀を打ちとれ、の主義で、その一句を除くと割に作品の構成が破たんのないようでしたから、その為に作品の味がずっとずっと小さくなるのを覚えつゝこっそりけずり取って了ったのです。この態度はよくありませんでした。たとい、その為に、作品の構成が破れ、所謂批評家から味噌糞に言われようと、作者の意図は、声がかれても力が尽きても言い張らねばいけないことでした。私は深く後悔しています。

と書いています。

この結末の有無に思いを巡らせながら、ぜひ再読してみて下さい。

『列車』

太宰治」の筆名を用いて発表された最初の作品

『サンデー東奥』に懸賞小説として掲載されました。

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「私」を主人公とする私小説的作品です。

小説の結び、「のろまな妻は列車の横壁にかかってある青い鉄札の、水玉が一杯ついた文字を此頃習いたてのたどたどしい智識でもって、FOR-A-O-MO-RIとひくく読んでいたのである。」と書かれた「のろまな妻」のモデルは、太宰の最初の妻・小山初代さんでしょうか。

『地球図』

江戸時代、屋久島の恋泊村に流れ着いたイタリアの宣教師 ジョバンニ・バッティスタ・シドッチ(シロオテ)にまつわる実話を基に書かれた、創作小説です。

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シドッチ神父肖像画

夏木立の青い日影を浴び、刀を帯び、かなしい目をして、不思議な日本語をつぶやくシロオテの姿は、不思議なかなしさを呼び起させますが、そこには、芥川賞候補に選ばれながらも、己の作品を認められなかった太宰の無念も投影されているように感じられます。

『猿ヶ島』

 『晩年』掲載時には削除されましたが、初出雑誌では、「ハハン。いや、失礼。私は自身の猿を笑ったのです。(スタヴロギン)」というエピグラフが付されていました。

「はるばると海を越えて、この島に着いたときの憂愁を思い給え。夜なのか昼なのか、島は深い霧に包まれて眠っていた。」という冒頭の情景描写から、その結末は到底想像することができません。

風刺を交えて書かれた作品です。

『雀こ』

 太宰の故郷の言葉・津軽弁で書かれた作品で、土着的な要素と独特なことばの響きが印象的です。

思い出に登場する叔母・きゑは太宰の母代わりで、太宰が夜眠れないとき、添い寝して眠りにつくまで昔話をしてくれたそうです。そんな太宰の原体験が投影されているのでしょう。

ぜひ、津軽弁の音読で楽しんでもらいたい作品です。

道化の華

 のちに狂言の神』『虚構の春を加え、長篇三部曲『虚構の彷徨』の第一部として改めて刊行されました。

太宰21歳の時に、行きずりの銀座のカフェー「ホリウッド」の女給だった田部あつみ(戸籍名:田部シメ子。大正元年12月2日生。19歳)さんと神奈川県鎌倉腰越町小動崎(こゆるがさき)の海岸東側突端の畳岩の上でカルモチン自殺を図り、あつみさんのみ死亡。生き残った太宰は自殺幇助罪に問われるも、起訴猶予となった事件が題材になっています。

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『晩年』の帯文でも、佐藤春夫が絶賛しているように、評価の高かった作品で、逆行

とともに、第一回芥川賞の候補作品になりました。

はじめは「海」という題の素朴な形式の小説だったが、ずたずたに切り刻んで、新しい形式にしたと太宰は語っています。

人間失格の主人公でもある大葉葉蔵のほかに、「僕」という作者が、物語の途中に登場し、注釈や独言を差し挟むという、前衛的な手法が用いられています。

『猿面冠者』

  「文学の糞から生まれたような男」が、小説を書こうと苦悩する様が描かれた、作中作の技法を用いた作品です。

『逆行』

 道化の華とともに、第一回芥川賞の候補に挙げられた作品です。

東京大学中退、都新聞の入社試験にも失敗、三度目の自殺未遂など、どん底の状態に加え、パビナール中毒による借金まで抱えていた太宰は、芥川賞の名誉と賞金に執着していましたが、芥川賞の選考委員だった川端康成私見によれば、目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった」という言葉とともに、芥川受賞を逃してしまいます。

これを起因に、かの有名な芥川賞事件が勃発することとなります。

『彼は昔の彼ならず』

 掲載誌である『世紀』は、昭和9年4月に淀野隆三、外村繁らが創刊した月刊同人誌で、編集後記(浅沼善実)には、「今月から同人持ち廻りで編輯することになり、本号は丹羽と僕が当った。待たれていた外村、丸山、中谷の作品と、同人外ではあるが定評ある太宰治氏の力作を得たことは、編輯者の得意とするところである。」と書かれています。

青扇という男の生活に「遊民のニヒル」「阿呆の時代」の自分を劇画化した作品です。

『ロマネスク』

文芸同人雑誌青い花の巻頭作品として発表された作品です。 

青い花昭和9年12月1日発行。太宰治をはじめ、山岸外史伊馬鵜平檀一雄中原中也森敦小野正文など計18名とともに創刊した同人雑誌でしたが、創刊号のみで廃刊となり、その後、同人は昭和10年4月から『日本浪漫派』に合流しました。

新潮社の編集者であり、親交の深かった野原一夫は著書太宰治 生涯と文学』ちくま文庫)の中で「『青い花』を足掛かりにして、一日も早く文壇に出たいという焦燥が、すくなくともその証(あかし)を立てたいという願いが太宰のなかにあったのではあるまいか。」と推察しています。

太宰治 生涯と文学 (ちくま文庫)

『玩具』

 初出誌『作品』「特集・新進作家小説号」の一篇として雀ことともに掲載されました。

現状から幼児期へ退行する心情を断章として構成していますが、同じく断章の連続であるとの相違点は、既存作品の繋ぎ合わせではなく、断章の内容が連続している点です。

事実と虚構を巧みに繋ぎ合わせるという、新しい小説方法を模索する太宰の姿が見受けられます。

『陰火』

 「誕生」「紙の鶴」「水車」「尼」の4つの掌編で構成されており、それぞれ異なる物語になっていますが、「妻」「女性」への気まずさ・不可解さが共通のテーマとなっているように感じられます。

特に「紙の鶴」には、直接的な妻の裏切りが書かれており、太宰自身の実体験が反映された小説とも言えます。

『めくら草子』

 枕草子にかけて付けられたタイトルで、作中の「太古のすがた、そのままの蒼空。」「夜の言葉。」「始発の電車。」のようなテーマに続いての記述も、枕草子を意識した構成です。

一人称の小説と思って読み進めていると、いきなり作者が顔を出したりと、前衛的な実験小説になっています。

 

【日刊 太宰治全小説】は、2019年1月1日から毎朝7時に一編ずつ作品を更新中です!

下記「創刊のお知らせ!」作品一覧から、更新済の作品が読めます🍒

 

本編中で引用した随筆・書簡は、筑摩書房太宰治全集〈11〉随想』『太宰治全集〈12〉書簡』を底本とし、全て新字新仮名づかいに改めました。

太宰治全集〈11〉随想

決定版 太宰治全集〈12〉書簡

 

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