記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【太宰治】初出誌で読む『メリイクリスマス』

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 2023年は、太宰治 没後75年でした。

 今年は1本も記事を投稿していませんでしたが、何か1本だけでも更新したいと考えているうちに、ついに年の瀬を迎えてしまいました。
 そして、あれやこれやしていたら、投稿できるのがクリスマスになってしまったので、逆にこれはいい機会!とばかりに、今回は皆さんと一緒に短篇メリイクリスマス初出誌(しょしゅつしで楽しめたらと思います。

 ちなみに、「初出誌」とは、作家が初めて世に出す、活字になったものを言います。単行本の最初の版である初版本(しょはんぼんも人気ですが、単行本として出版される前に、先に雑誌に掲載されているケースも多く、この雑誌が「初出誌」です。「初版本」より先にその小説が発表された本ということになります。

 太宰は、「文豪」と呼ばれる文学作家の中でも、現代において、その全作品を手に取りやすい作家の1人です。
 今回紹介するメリイクリスマスも、書店の本棚に並んでいる新潮文庫グッド・バイや、ちくま文庫太宰治全集〈8〉で簡単に手に取ることができます。新潮文庫ちくま文庫では、太宰の全小説作品を読むことができますが、図書館に置いてあるような全集ではなく、文庫本で全ての小説に触れられる作家は稀です。

 作品自体は容易に手に取ることができますが、好きな小説が初めて世に出た瞬間に触れるのは、また特別で、何だかどきどきわくわく、楽しく嬉しい気持ちになります。小説を「初出誌」で読む機会は、読書好きな方でなければ、なかなか無いかも知れませんが、今回はこの機会に、太宰作品が最初に読者の目に触れた、幸せで素敵な瞬間を皆さんと共有できたら嬉しいです。

 

メリイクリスマスの初出誌、総合雑誌中央公論

 短篇メリイクリスマスが初めて発表された雑誌は、1947年(昭和22年)1月1日付発行の中央公論」新年号でした。

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 「中央公論は、1887年(明治20年)に創刊された月刊総合雑誌で、現在でも刊行が続けられています。総合雑誌とは、政治・経済・社会・文化全般についての評論などを掲載する雑誌のことです。
 刊行当初は、中央公論社(旧社)から発行されていましたが、1999年(平成11年)以降は、中央公論新社が発行しています。

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 現在の雑誌と同様、裏表紙には企業広告が掲載されていますが、当時の雰囲気を感じさせてくれるものが多く、こういった時代の空気を味わう事ができるのも、「初出誌」ならではの魅力です。

 

メリイクリスマスについて

 続いて、メリイクリスマスについて紹介します。

  東京は、かなしい活気を呈していた、とさいしょの書き出しの一行いちぎょうに書きしるすというような事になるのではあるまいか、と思って東京に舞い戻って来たのに、私の眼には、何の事も無い相変らずの「東京生活」のごとくに映った。
 私はそれまで一年三箇月間、津軽の生家で暮し、ことしの十一月の中旬に妻子を引き連れてまた東京に移住して来たのであるが、来て見ると、ほとんどまるで二三週間の小旅行から帰って来たみたいの気持がした。

 冒頭、太宰自身を思わせる「私」の語りからはじまるメリイクリスマス。実際に、太宰が故郷・津軽での疎開生活を終え、家族と共に東京・三鷹に移住してきたのは1946年(昭和21年)11月14日でした。

 メリイクリスマスにはシズエ子とそのが登場しますが、この2人は、太宰の知人である林聖子と聖子の母・秋田富子がモデルになっています。
 「シズエ子」という名前は、少し不思議な感じですが、聖子は画家・林倭衛(はやししずえ)の娘だったことから、太宰がこのように命名したのだと思われます。

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■林聖子の母・秋田富子と父・林倭衛 1937年(昭和12年)撮影。

 太宰と秋田富子、林聖子がはじめて出会ったのは、1941年(昭和16年)の夏。この時の エピソードについては、こちらの記事で詳しく紹介しています。

 そして、メリイクリスマスの中に、

  私は本屋にはいって、或る有名なユダヤ人の戯曲集を一冊買い、それをふところに入れて、ふと入口のほうを見ると、若い女のひとが、鳥の飛び立つ一瞬前のような感じで立って私を見ていた。口を小さくあけているが、まだ言葉を発しない。
 吉か凶か。
 昔、追いまわした事があるが、今では少しもそのひとを好きでない、そんな女のひととうのは最大の凶である。そうして私には、そんな女がたくさんあるのだ。いや、そんな女ばかりと言ってよい。
 新宿の、あれ、……あれは困る、しかし、あれかな?
「笠井さん。」女のひとはつぶやくように私の名を言い、かかとをおろしてかすかなお辞儀をした。
 緑色の帽子をかぶり、帽子のひもあごで結び、真赤なレンコオトを着ている。見る見るそのひとは若くなって、まるで十二、三の少女になり、私の思い出の中の或る影像とぴったり重って来た。
「シズエ子ちゃん。」
 吉だ。
「出よう、出よう。それとも何か、買いたい雑誌でもあるの?」
「いいえ。アリエルというご本を買いに来たのだけれども、もう、いいわ。」
 私たちは、師走ちかい東京の街に出た。
「大きくなったね。わからなかった。」

という、シズエ子と語り手「笠井」の再会シーンが出てきます。このシーンは、実際に帰京直後の太宰と林聖子が再会したときのことを元に書かれているそうです。

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■林聖子(1928~2022) 東京都新宿区新宿5丁目で文壇バー「風紋」を営んでいた。2022年(令和4年)2月23日、老衰のため亡くなった。享年93歳。写真は2018年6月18日、「風紋」閉店間際に訪問した際、著者撮影。

 この再会の場面について、林聖子は著書風紋五十年所収の「いとぐるま」で、次のように回想しています。

 二十一年十一月初めの日曜日、私は駅前の三鷹書店を覗いた。有島生馬さんが父のことを書いたという「ロゴス」を買おうと思ったのです。夕方の店内は、活字に飢えた人たちで一杯だった。店の人に「ロゴス」の所在を聞くため、一歩踏み出そうとしたとき、レジを離れようとしている男の人と向き合う形となった。私は魔法をかけられたようになった。「太宰さんの小父(おじ)さん」といいかけて、「小父(おじ)さん」の言葉を呑み込んだ。太宰さんには、もう三年余りも会っていない、多分、私のことなどもう覚えておられないだろう。「小父(おじ)さん」などという親し気な呼び方は、今の私には、もう許されない。ふとそう感じたのである。それに、今の私は、決して昔のような子供ではない。
 しかし、太宰さんは、やはり昔のままの太宰さんだった。「聖子ちゃん?」「やはり聖子ちゃんかあー」といいながら、近寄って来られた太宰さんは、温かい手をソッと私の肩に置いて、「無事だったのか、よかった、よかった」というように私の顔をのぞき込んだ。
 決して夢でも、人違いでもなかった。しかし、太宰さんをわが家にご案内する間も、やはり、私は、夢の中にいるような気がした。上京して初めて味わうような幸せな気持だった。その夜、私たち母娘は、改めて再会の喜びを分ち合った。
 それから半月ほどして、着物姿の太宰さんがわが家に来られた。そして、懐から「中央公論」新年号を取り出し、ひどく真面目な顔をして、「これは、ぼくのクリスマスプレゼント」といった。
 母と私は、早速、雑誌を開いた。そして、頬を寄せながら、太宰さんの「メリイクリスマス」を読んだ。「ロゴス」が「アリエル」となっていることと私が広島の原爆孤児になっていること以外は、半月前の再会のときの模様が、そっくりそのまま、というより、より洗練された形で、そこに定着されていた。
 私は、「メリイクリスマス」を手にするたびに、なんの苦もなく、四十年前の自分に還ることができる。母と太宰さんのおかげである。

 山内祥史の太宰治の年譜によると、メリイクリスマスは1946年(昭和21年)12月10日過ぎまでに脱稿されたそうです。太宰と聖子の再会から、雑誌が刊行されるまで「半月ほど」しか経っていなかったそうですし、そもそも、太宰が津軽から帰京したのは同年11月14日だったことも考えると、短篇とはいえ、三鷹に着いてから驚くべき速さで執筆されたようです。
 「ぼくのクリスマスプレゼント」を受け取り、喜んでくれる顔が早く見たくて、執筆に精を出す太宰の姿が、目に浮かびます。

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初出誌で読むメリイクリスマス

 前置きが長くなりましたが、いよいよ今回の本題、中央公論」新年号に掲載されたメリイクリスマスを読んでいきたいと思います。
 「初出誌」に掲載されたメリイクリスマスを読みながら、掲載当時の雰囲気を一緒に感じて頂けると嬉しいです。

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  東京は、かなしい活気を呈していた、とさいしょの書き出しの一行いちぎょうに書きしるすというような事になるのではあるまいか、と思って東京に舞い戻って来たのに、私の眼には、何の事も無い相変らずの「東京生活」のごとくに映った。
 私はそれまで一年三箇月間、津軽の生家で暮し、ことしの十一月の中旬に妻子を引き連れてまた東京に移住して来たのであるが、来て見ると、ほとんどまるで二三週間の小旅行から帰って来たみたいの気持がした。
「久し振りの東京は、よくも無いし、悪くも無いし、この都会の性格は何も変って居りません。もちろん形而下けいじかの変化はありますけれども、形而上の気質に於いて、この都会は相変らずです。馬鹿は死ななきゃ、なおらないというような感じです。もう少し、変ってくれてもよい、いや、変るべきだとさえ思われました。」
 と私は田舎いなかるひとに書いて送り、そうして、私もやっぱり何の変るところも無く、久留米絣くるめがすりの着流しに二重まわしをひっかけて、ぼんやり東京の街々を歩き廻っていた。
 十二月のはじめ、私は東京郊外の或る映画館、(というよりは、活動小屋と言ったほうがぴったりするくらいの可愛らしくお粗末な小屋なのであるが)その映画館にはいって、アメリカの写真を見て、そこから出たのは、もう午後の六時頃で、東京の街には夕霧ゆうぎりけむりのように白く充満して、その霧の中を黒衣の人々がいそがしそうに往来し、もう既にまったく師走しわすちまたの気分であった。東京の生活は、やっぱり少しも変っていない。
 私は本屋にはいって、或る有名なユダヤ人の戯曲集を一冊買い、それをふところに入れて、ふと入口のほうを見ると、若い女のひとが、鳥の飛び立つ一瞬前のような感じで立って私を見ていた。口を小さくあけているが、まだ言葉を発しない。
 吉か凶か。
 昔、追いまわした事があるが、今では少しもそのひとを好きでない、そんな女のひととうのは最大の凶である。そうして私には、そんな女がたくさんあるのだ。いや、そんな女ばかりと言ってよい。
 新宿の、あれ、……あれは困る、しかし、あれかな?
「笠井さん。」女のひとはつぶやくように私の名を言い、かかとをおろしてかすかなお辞儀をした。
 緑色の帽子をかぶり、帽子のひもあごで結び、真赤なレンコオトを着ている。見る見るそのひとは若くなって、まるで十二、三の少女になり、私の思い出の中の或る影像とぴったり重って来た。
「シズエ子ちゃん。」
 吉だ。
「出よう、出よう。それとも何か、買いたい雑誌でもあるの?」
「いいえ。アリエルというご本を買いに来たのだけれども、もう、いいわ。」
 私たちは、師走ちかい東京の街に出た。
「大きくなったね。わからなかった。」
 やっぱり東京だ。こんな事もある。
 私は露店から一袋十円の南京豆ナンキンまめを二袋買い、財布さいふをしまって、少し考え、また財布を出して、もう一袋買った。むかし私はこの子のために、いつも何やらお土産みやげを買って、そうして、この子の母のところへ遊びに行ったものだ。
 母は、私と同じとしであった。そうして、そのひとは、私の思い出の女のひとの中で、いまだしぬけに逢っても、私が恐怖困惑せずにすむ極めてまれな、いやいや、唯一、と言ってもいいくらいのひとであった。それは、なぜであろうか。いま仮りに四つの答案を提出してみる。そのひとは所謂いわゆる貴族の生れで、美貌びぼうで病身で、と言ってみたところで、そんな条件は、ただキザでうるさいばかりで、れいの「唯一のひと」の資格にはなり得ない。大金持ちの夫と別れて、おちぶれて、わずかの財産で娘と二人でアパート住いして、と説明してみても、私は女の身の上話には少しも興味を持てないほうで、げんにその大金持ちの夫と別れたのはどんな理由からであるか、わずかの財産とはどんなものだか、まるで何もわかってやしないのだ。聞いても忘れてしまうのだろう。あんまり女に、からかわれつづけて来たせいか、女からどんな哀れな身の上話を聞かされても、みんないい加減のうそのような気がして、一滴の涙も流せなくなっているのだ。つまり私はそのひとが、生れがいいとか、美人だとか、しだいに落ちぶれて可哀かわいそうだとか、そんなわばロオマンチックな条件にって、れいの「唯一のひと」としてえらび挙げていたわけでは無かった。答案は次の四つに尽きる。第一には、綺麗きれい好きな事である。外出から帰ると必ず玄関で手と足とを洗う。落ちぶれたと言っても、さすがに、きちんとした二部屋のアパートにいたが、いつも隅々すみずみまで掃除そうじが行きとどき、殊にも台所の器具は清潔であった。第二には、そのひとは少しも私にれていない事であった。そうして私もまた、少しもそのひとに惚れていないのである。性慾にいての、あのどぎまぎした、いやらしくめんどうな、思いやりだか自惚うぬぼれだか、気を引いてみるとか、ひとり角力ずもうとか、何が何やら十年一日どころか千年一日の如き陳腐ちんぷな男女闘争をせずともよかった。私の見たところでは、そのひとは、やはり別れた夫を愛していた。そうして、その夫の妻としての誇を、胸の奥深くにしっかり持っていた。第三には、そのひとが私の身の上に敏感な事であった。私がこの世の事がすべてつまらなくて、たまらなくなっている時に、この頃おさかんのようですね、などと言われるのは味気ないものである。そのひとは、私が遊びに行くと、いつでもその時の私の身の上にぴったり合った話をした。いつの時代でも本当の事を言ったら殺されますわね、ヨハネでも、キリストでも、そうしてヨハネなんかには復活さえ無いんですからね、と言った事もあった。日本の生きている作家に就いては一言も言った事が無かった。第四には、これが最も重大なところかも知れないが、そのひとのアパートには、いつも酒が豊富に在った事である。私は別に自分を吝嗇りんしょくだとも思っていないが、しかし、どこの酒場にも借金が溜って憂鬱ゆううつな時には、いきおいただで飲ませるところへ足が向くのである。戦争が永くつづいて、日本にだんだん酒が乏しくなっても、そのひとのアパートを訪れると、必ず何か飲み物があった。私はそのひとのお嬢さんにつまらぬ物をお土産として持って行って、そうして、泥酔でいすいするまで飲んで来るのである。以上の四つが、なぜそのひとが私にとって、れいの「唯一のひと」であるかという設問の答案なのであるが、それがすなわちお前たち二人の恋愛の形式だったのではないか、と問いつめられると、私は、間抜け顔して、そうかも知れぬ、と答えるより他は無い。男女間の親和は全部恋愛であるとするなら、私たちの場合も、そりゃそうかも知れないけれど、しかし私は、そのひとに就いて煩悶はんもんした事は一度も無いし、またそのひとも、芝居がかったややこしい事はきらっていた。
「お母さんは? 変りないかね。」
「ええ。」
「病気しないかね。」
「ええ。」
「やっぱり、シズエ子ちゃんと二人でいるの?」
「ええ。」
「お家は、ちかいの?」
「でも、とっても、きたないところよ。」
「かまわない。さっそくこれから訪問しよう。そうしてお母さんを引っぱり出して、どこかその辺の料理屋で大いに飲もう。」
「ええ。」
 女は、次第に元気が無くなるように見えた。そうして歩一歩、おとなびて行くように見えた。この子は、母の十八の時の子だというから、母は私と同じとしの三十八、とすると、……。
 私は自惚れた。母に嫉妬しっとするという事も、あるに違いない。私は話頭を転じた。
「アリエル?」
「それが不思議なのよ。」案にたがわず、いきいきして来る。「もうせんにね、あたしが女学校へあがったばかりの頃、笠井さんがアパートに遊びにいらして、夏だったわ、お母さんとのお話の中にしきりにアリエル、アリエルという言葉が出て来て、あたし何の事かわからなかったけど、妙に忘れられなくて、」急におしゃべりがつまらなくなったみたいに、ふうっと語尾を薄くして、それっきり黙ってしまって、しばらく歩いてから、切って捨てるように、「あれは本の名だったのね。」
 私はいよいよ自惚れた。たしかだと思った。母は私に惚れてはいなかったし、私もまた母に色情を感じた事は無かったが、しかし、この娘とでは、あるいは、と思った。
 母はおちぶれても、おいしいものを食べなければ生きて行かれないというたちのひとだったので、対米英戦のはじまる前に、早くも広島辺のおいしいもののたくさんある土地へ娘と一緒に疎開そかいし、疎開した直後に私は母から絵葉書の短いたよりをもらったが、当時の私の生活は苦しく、疎開してのんびりしている人に返事など書く気もせずそのままにしているうちに、私の環境もどんどん変り、とうとう五年間、その母子との消息が絶えていたのだ。
 そうして今夜、五年振りに、しかも全く思いがけなく私と逢って、母のよろこびと子のよろこびと、どちらのほうが大きいのだろう。私にはなぜだか、この子の喜びのほうが母の喜びよりも純粋で深いもののように思われた。果してそうならば、私もいまから自分の所属を分明にして置く必要がある。母と子とに等分に属するなどは不可能な事である。今夜から私は、母を裏切って、この子の仲間になろう。たとい母から、いやな顔をされたってかまわない。こいを、しちゃったんだから。
「いつ、こっちへ来たの?」と私はきく。
「十月、去年の。」
「なあんだ、戦争が終ってすぐじゃないか。もっとも、シズエ子ちゃんのお母さんみたいな、あんなわがまま者には、とても永く田舎で辛抱しんぼうできねえだろうが。」
 私は、やくざな口調になって、母の悪口を言った。娘の歓心をかわんがためである。女は、いや、人間は、親子でも互いに張り合っているものだ。
 しかし、娘は笑わなかった。けなしても、ほめても、母の事を言い出すのは禁物の如くに見えた。ひどい嫉妬だ、と私はひとり合点がてんした。
「よく逢えたね。」私は、すかさず話頭を転ずる。「時間をきめてあの本屋で待ち合せていたようなものだ。」
「本当にねえ。」と、こんどは私の甘い感慨に難なく誘われた。
 私は調子に乗り、
「映画を見て時間をつぶして、約束の時間のちょうど五分前にあの本屋へ行って、……」
「映画を?」
「そう、たまには見るんだ。サアカスの綱渡りの映画だったが、芸人が芸人にふんすると、うまいね。どんな下手へたな役者でも、芸人に扮すると、うめえ味を出しやがる。根が、芸人なのだからね。芸人の悲しさが、無意識のうちに、にじみ出るのだね。」
 恋人同士の話題は、やはり映画に限るようだ。いやにぴったりするものだ。
「あれは、あたしも、見たわ。」
「逢ったとたんに、二人のあいだに波が、ざあっと来て、またわかれわかれになるね。あそこも、うめえな。あんな事で、また永遠にわかれわかれになるということも、人生には、あるのだからね。」
 これくらい甘い事も平気で言えるようでなくっちゃ、若い女のひとの恋人にはなれない。
「僕があのもう一分いっぷんまえに本屋から出て、それから、あなたがあの本屋へはいって来たら、僕たちは永遠に、いや少くとも十年間は、逢えなかったのだ。」
 私は今宵こよい邂逅かいこうを出来るだけロオマンチックにあおるように努めた。
 路は狭く暗く、おまけにぬかるみなどもあって、私たちは二人ならんで歩く事が出来なくなった。女が先になって、私は二重まわしのポケットに両手をつっ込んでその後に続き、
「もう半丁? 一丁?」とたずねる。
「あの、あたし、一丁ってどれくらいだか、わからないの。」
 私も実は同様、距離の測量に於いては不能者なのである。しかし、恋愛に阿呆あほう感は禁物である。私は、科学者の如く澄まして、
「百メートルはあるか。」と言った。
「さあ。」
「メートルならば、実感があるだろう。百メートルは、半丁だ。」と教えて、何だか不安で、ひそかに暗算してみたら、百メートルは約一丁であった。しかし、私は訂正しなかった。恋愛に滑稽こっけい感は禁物である。
「でも、もうすぐ、そこですわ。」
 バラックの、ひどいアパートであった。薄暗い廊下をとおり、五つか六つ目の左側の部屋のドアに、陣場という貴族の苗字がしるされてある。
陣場さん!」と私は大声で、部屋の中に呼びかけた。
 はあい、とたしかに答えが聞えた。つづいて、ドアのすりガラスに、何か影が動いた。
「やあ、いる、いる。」と私は言った。
 娘は棒立ちになり、顔に血の気を失い、下唇を醜くゆがめたと思うと、いきなり泣き出した。
 母は広島の空襲で死んだというのである。死ぬる間際まぎわのうわごとの中に、笠井さんの名も出たという。
 娘はひとり東京へ帰り、母方の親戚しんせきの進歩党代議士、そのひとの法律事務所に勤めているのだという。
 母が死んだという事を、言いそびれて、どうしたらいいか、わからなくて、とにかくここまで案内して来たのだという。
 私が母の事を言い出せば、シズエ子ちゃんが急に沈むのも、それ故であった。嫉妬でも、恋でも無かった。
 私たちは部屋にはいらず、そのまま引返して、駅の近くの盛り場に来た。
 母は、うなぎが好きであった。
 私たちは、うなぎ屋の屋台の、のれんをくぐった。
「いらっしゃいまし。」
 客は、立ちんぼの客は私たち二人だけで、屋台の奥に腰かけて飲んでいる紳士がひとり。
大串おぐがよござんすか、小串が?」
「小串を。三人前。」
「へえ、承知しました。」
 その若い主人は、江戸っ子らしく見えた。ばたばたと威勢よく七輪しちりんをあおぐ
「お皿を、三人、べつべつにしてくれ。」
「へえ。もうひとかたは? あとで?」
「三人いるじゃないか。」私は笑わずに言った。
「へ?」
「このひとと、僕とのあいだに、もうひとり、心配そうな顔をしたべっぴんさんが、いるじゃねえか。」こんどは私も少し笑って言った。
 若い主人は、私の言葉を何と解したのか、
「や、かなわねえ。」
 と言って笑い、鉢巻ちまきの結び目のところあたりへ片手をやった。
「これ、あるか。」私は左手で飲む真似まねをして見せた。
「極上がございます。いや、そうでもねえか。」
「コップで三つ。」と私は言った。
 小串の皿が三枚、私たちの前に並べられた。私たちは、まんなかの皿はそのままにして、両端の皿にそれぞれはしをつけた。やがてなみなみと酒が充たされたコップも三つ、並べられた。
 私は端のコップをとって、ぐいと飲み、
「すけてやろうね。」
 と、シズエ子ちゃんにだけ聞えるくらいの小さい声で言って、母のコップをとって、ぐいと飲み、ふところから先刻買った南京豆の袋を三つ取り出し、
「今夜は、僕はこれから少し飲むからね、豆でもかじりながら附き合ってくれ。」と、やはり小声で言った。
 シズエ子ちゃんは首肯うなずき、それっきり私たちは一言も、何も、言わなかった。
 私は黙々として四はい五はいと飲みつづけているうちに、屋台の奥の紳士が、うなぎ屋の主人を相手に、やたらと騒ぎはじめた。実につまらない、不思議なくらいに下手くそな、まるっきりセンスの無い冗談を言い、そうしてご本人が最も面白そうに笑い、主人もお附き合いに笑い、「トカナントカイッチャテネ、ソレデスカラネエ、ポオットシチャテネエ、リンゴ可愛イヤ、気持ガワカルトヤッチャテネエ、ワハハハ、アイツ頭ガイイカラネエ、東京駅ハオレノ家ダト言ッチャテネエ、マイッチャテネエ、オレノ妾宅しょうたくハ丸ビルダト言ッタラ、コンドハ向ウガマイッチャテネエ、……」という工合ぐあいの何一つ面白くも、可笑おかしくもない冗談がいつまでも、ペラペラと続き、私は日本の酔客のユウモア感覚の欠如に、いまさらながらうんざりして、どんなにその紳士と主人が笑い合っても、こちらは、にこりともせず酒を飲み、屋台の傍をとおる師走ちかい人の流れを、ぼんやり見ているばかりなのである。
 紳士は、ふいと私の視線をたどって、そうして、私と同様にしばらく屋台の外の人の流れをながめ、だしぬけに大声で、
「ハロー、メリイ、クリスマアス。」
 と叫んだ。アメリカの兵士が歩いているのだ。
 何というわけもなく、私は紳士のそのかいぎゃくにだけはき出した。
 呼びかけられた兵士は、とんでもないというような顔をして首を振り、大股おおまたで歩み去る。
「この、うなぎも食べちゃおうか。」
 私はまんなかに取り残されてあるうなぎの皿に箸をつける。
「ええ。」
「半分ずつ。」
 東京は相変らず。以前と少しも変らない。 

 皆さんは、書店でのシズエ子と笠井の再会のシーン、シズエ子の服装が緑色の帽子をかぶり、帽子のひもあごで結び、真赤なレンコオトを着ていると、クリスマスカラーになっていることに気がつきましたか?
 読者へのサービス精神に溢れる太宰ですが、こんなところにも仕掛けが散りばめられています。

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■作中に登場する「うなぎ屋の屋台」のモデル、若松屋の初代主人・小川隆司と太宰 太宰は15時に執筆を終えると、よく若松屋で飲んでいた。左隅で顔を覗かせているのは女将。1947年(昭和22年)撮影。若松屋は現在、三鷹から国分寺に場所を移して営業を続けている。

【若松屋
◆〒185‐0022 東京都国分寺市東元町2‐13‐19
 TEL:042‐325‐5647
◆営業時間:17:00~22:00
◆定休日:火曜日、水曜日

 【了】

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【参考文献】
・「風紋三十年アルバム」(「風紋三十年」のアルバムをつくる会、1991年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・林聖子『風紋五十年』(パブリック・ブレイン、2012年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
森まゆみ聖子ー新宿の文壇BAR「風紋」の女主人』(亜紀書房、2021年)
・南田偵一『文壇バー風紋青春記 何歳からでも読める太宰治』(未知谷、2023年)
 ※画像は、上記参考文献より引用・加工しました。
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太宰治39年の生涯を辿る。
 "太宰治の日めくり年譜"はこちら!】

太宰治の小説、全155作品はこちら!】

太宰治のエッセイ、163作品はこちら!】

【太宰治】初出誌で読む『桜桃』

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 2022年は、太宰治 没後74年。
 今日6月19日は、74回目桜桃忌です。

 桜桃忌は、太宰が死の直前に執筆した短篇桜桃にちなみ、太宰と同郷で交流のあった作家・今官一(こんかんいち)によって名付けられました。

 今回は、桜桃忌の由来となった短篇桜桃初出誌(しょしゅつし)をわが家にお迎えする事ができたので、皆さんと一緒に初出誌で桜桃を読んでいきたいと思います。

 ちなみに、「初出誌」とは、作家が初めて世に出す、活字になったものを言います。最近では、単行本の最初の版にあたる初版本(しょはんぼんが人気ですが、単行本として出版される前に、先に雑誌に掲載されているケースも多く、この雑誌の事を「初出誌」と言います。いわゆる、「初版本」より先にその小説が発表された雑誌です。

 太宰は、「文豪」と呼ばれる文学作家の中でも、現代において、その全作品を手に取りやすい作家の1人です。
 今回紹介する桜桃も、書店の本棚に並んでいる新潮文庫ヴィヨンの妻や、ちくま文庫太宰治全集〈9〉で容易に手に取る事ができます。新潮文庫ちくま文庫では、太宰の全小説作品を読む事ができますが、図書館に置いてあるような全集ではなく、文庫本で全ての小説を読む事ができる作家は稀です。

 作品自体は容易に読む事ができますが、好きな小説が初めて世に出た瞬間に触れるのは、また特別で、何だかどきどきわくわく、楽しく嬉しい気持ちになります。小説を「初出誌」で読む機会は、読書好きな方でなければ、なかなか無いかも知れませんが、今日は桜桃忌という事で、太宰作品が最初に読者の目に触れた、幸せで素敵な瞬間を皆さんと共有できたら嬉しいです。

 

桜桃の初出誌、総合雑誌「世界」

 短篇桜桃が初めて発表された雑誌は、1948年(昭和23年)5月1日付発行の「世界」五月号太宰が玉川上水で心中する、約1ヶ月半前に発行されました。

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 「世界」は、1946年(昭和21年)に岩波書店が創刊した総合雑誌で、現在でも刊行が続けられています。総合雑誌とは、政治・経済・社会・文化全般についての評論などを掲載する雑誌の事です。

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 現在の雑誌と同様、裏表紙には企業広告が掲載されていますが、当時の雰囲気を感じさせるものが多く、こういった時代の空気を味わう事ができるのも、「初出誌」ならではの魅力です。

 

桜桃について

 続いて、桜桃について紹介します。

 まず最初に見て頂きたいのが、冒頭の一文結びの一文です。

【冒頭】
子供より親が大事、と思いたい。

【結び】
しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種をき、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。 

 これだけ読んでも小説の内容が気になり、さながら映画の予告編を見ているような気持ちにさせてくれます。

 太宰は、冒頭の一文結びの一文が秀逸な作品が多く、私は勝手に太宰治は、コピーライター。と呼んでいます。
 2019年、太宰治生誕110周年記念と題して更新していた【日刊 太宰治全小説】では、最初に冒頭と結果を示しながら、太宰の小説全155作品を紹介しました。この記事を参考に、お気に入り作品を見つけてみてみるのも、面白いかもしれません。

 

初出誌で読む桜桃

 さて、前置きが長くなりましたが、いよいよ今回の本題、総合雑誌「世界」五月号に初めて掲載された桜桃を読んでいきたいと思います。
 「初出誌」に掲載された桜桃を読みながら、掲載当時の雰囲気を感じて頂けると嬉しいです。

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  われ、山にむかいて、目をぐ。

               ――詩篇、第百二十一。


 子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。少くとも、私の家庭においては、そうである。まさか、自分が老人になってから、子供に助けられ、世話になろうなどという図々しいむしのよい下心は、まったく持ち合わせてはいないけれども、この親は、その家庭において、常に子供たちのご機嫌きげんばかり伺っている。子供、といっても、私のところの子供たちは、皆まだひどく幼い。長女は七歳、長男は四歳、次女は一歳である。それでも、既にそれぞれ、両親を圧倒し掛けている。父と母は、さながら子供たちの下男下女の趣きを呈しているのである。
 夏、家族全部三畳間に集まり、大にぎやか、大混乱の夕食をしたため、父はタオルでやたらに顔の汗をき、
「めし食って大汗かくもげびた事、と柳多留やなぎだるにあったけれども、どうも、こんなに子供たちがうるさくては、いかにお上品なおとうさんといえども、汗が流れる」
 と、ひとりぶつぶつ不平を言い出す。
 母は、一歳の次女におっぱいを含ませながら、そうして、お父さんと長女と長男のお給仕をするやら、子供たちのこぼしたものを拭くやら、拾うやら、鼻をかんでやるやら、八面六臂はちめんろっぴのすさまじい働きをして、
「お父さんは、お鼻に一ばん汗をおかきになるようね。いつも、せわしくお鼻を拭いていらっしゃる」
 父は苦笑して、
「それじゃ、お前はどこだ。内股うちまたかね?」
「お上品なお父さんですこと」
「いや、何もお前、医学的な話じゃないか。上品も下品も無い」
「私はね」
 と母は少しまじめな顔になり、
「この、お乳とお乳のあいだに、……涙の谷、……」
 涙の谷。
 父は黙して、食事をつづけた。

 私は家庭にっては、いつも冗談を言っている。それこそ「心には悩みわずらう」事の多いゆえに、「おもてには快楽けらく」をよそわざるを得ない、とでも言おうか。いや、家庭に在る時ばかりでなく、私は人に接する時でも、心がどんなにつらくても、からだがどんなに苦しくても、ほとんど必死で、楽しい雰囲気ふんいきつくる事に努力する。そうして、客とわかれた後、私は疲労によろめき、お金の事、道徳の事、自殺の事を考える。いや、それは人に接する場合だけではない。小説を書く時も、それと同じである。私は、悲しい時に、かえって軽い楽しい物語の創造に努力する。自分では、もっとも、おいしい奉仕のつもりでいるのだが、人はそれに気づかず、太宰だざいという作家も、このごろは軽薄である、面白さだけで読者を釣る、すこぶる安易、と私をさげすむ。
 人間が、人間に奉仕するというのは、悪い事であろうか。もったいぶって、なかなか笑わぬというのは、い事であろうか。
 つまり、私は、糞真面目くそまじめで興覚めな、気まずい事、、、、、に堪え切れないのだ。私は、私の家庭においても、絶えず冗談を言い、薄氷を踏む思いで冗談を言い、一部の読者、批評家の想像を裏切り、私の部屋の畳は新しく、机上は整頓せいとんせられ、夫婦はいたわり、尊敬し合い、夫は妻を打った事など無いのは無論、出て行け、出て行きます、などの乱暴な口争いした事さえ一度も無かったし、父も母も負けずに子供を可愛がり、子供たちも父母に陽気によくなつく。
 しかし、これは外見。母が胸をあけると、涙の谷、父の寝汗も、いよいよひどく、夫婦は互いに相手の苦痛を知っているのだが、それに、さわらないように努めて、父が冗談を言えば、母も笑う。
 しかし、その時、涙の谷、と母に言われて父は黙し、何か冗談を言って切りかえそうと思っても、とっさにうまい言葉が浮かばず、黙しつづけると、いよいよ気まずさが積り、さすがの「通人」の父も、とうとう、まじめな顔になってしまって、
だれか、人を雇いなさい。どうしたって、そうしなければ、いけない」
 と、母の機嫌きげんを損じないように、おっかなびっくり、ひとりごとのようにつぶやく。
 子供が三人。父は家事には全然、無能である。蒲団ふとんさえ自分で上げない。そうして、ただもう馬鹿げた冗談ばかり言っている。配給だの、登録だの、そんな事は何も知らない。全然、宿屋住いでもしているような形。来客。饗応きょうおう仕事部屋しごとべやにお弁当を持って出かけて、それっきり一週間も御帰宅にならない事もある。仕事、仕事、といつも騒いでいるけれども、一日に二、三枚くらいしかお出来にならないようである。あとは、酒。飲みすぎると、げっそりせてしまって寝込む。そのうえ、あちこちに若い女友達ともだちなどもある様子だ。
 子供、……七歳の長女も、ことしの春に生れた次女も、少し風邪をひきやすいけれども、まずまあ人並。しかし、四歳の長男は、痩せこけていて、まだ立てない。言葉は、アアとかダアとか言うきりで一語も話せず、また人の言葉を聞きわける事も出来ない。って歩いていて、ウンコもオシッコも教えない。それでいて、ごはんは実にたくさん食べる。けれども、いつも痩せて小さく、髪の毛も薄く、少しも成長しない。
 父も母も、この長男について、深く話し合うことを避ける。白痴、おし、……それを一言でも口に出して言って、二人で肯定し合うのは、あまりに悲惨だからである。母は時々、この子を固く抱きしめる。父はしばしば発作的に、この子を抱いて川に飛び込み死んでしまいたく思う。
「唖の次男を斬殺ざんさつす。×日正午すぎ×区×町×番地×商、何某(五三)さんは自宅六畳間で次男何某(一八)君の頭を薪割まきわりで一撃して殺害、自分はハサミでのどを突いたが死に切れず附近の医院に収容したが危篤きとく、同家では最近二女某(二二)さんに養子を迎えたが、次男が唖の上に少し頭が悪いので娘可愛さから思い余ったもの」
 こんな新聞の記事もまた、私にヤケ酒を飲ませるのである。
 ああ、ただ単に、発育がおくれているというだけの事であってくれたら! この長男が、いまに急に成長し、父母の心配を憤り嘲笑ちょうしょうするようになってくれたら! 夫婦は親戚しんせきにも友人にも誰にも告げず、ひそかに心でそれを念じながら、表面は何も気にしていないみたいに、長男をからかって笑っている。
 母も精一ぱいの努力で生きているのだろうが、父もまた、一生懸命であった。もともと、あまりたくさん書ける小説家では無いのである。極端な小心者なのである。それが公衆の面前に引き出され、へどもどしながら書いているのである。書くのがつらくて、ヤケ酒に救いを求める。ヤケ酒というのは、自分の思っていることを主張できない、もどっかしさ、いまいましさで飲む酒の事である。いつでも、自分の思っていることをハッキリ主張できるひとは、ヤケ酒なんか飲まない。(女に酒飲みの少いのは、この理由からである)
 私は議論をして、勝ったためしが無い。必ず負けるのである。相手の確信の強さ、自己肯定のすさまじさに圧倒せられるのである。そうして私は沈黙する。しかし、だんだん考えてみると、相手の身勝手に気がつき、ただこっちばかりが悪いのではないのが確信せられて来るのだが、いちど言い負けたくせに、またしつこく戦闘開始するのも陰惨だし、それに私には言い争いはなぐり合いと同じくらいにいつまでも不快な憎しみとして残るので、怒りにふるえながらも笑い、沈黙し、それから、いろいろさまざま考え、ついヤケ酒という事になるのである。
 はっきり言おう。くどくどと、あちこち持ってまわった書き方をしたが、実はこの小説、夫婦喧嘩ふうふげんかの小説なのである。
「涙の谷」
 それが導火線であった。この夫婦は既に述べたとおり、手荒なことはもちろん、口汚くちぎたなののしり合った事さえないすこぶるおとなしい一組ではあるが、しかし、それだけまた一触即発の危険におののいているところもあった。両方が無言で、相手の悪さの証拠固めをしているような危険、一枚のふだをちらと見ては伏せ、また一枚ちらと見ては伏せ、いつか、出し抜けに、さあ出来ましたと札をそろえて眼前にひろげられるような危険、それが夫婦を互いに遠慮深くさせていたと言って言えないところが無いでも無かった。妻のほうはとにかく、夫のほうは、たたけばたたくほど、いくらでもホコリの出そうな男なのである。
「涙の谷」
 そう言われて、夫は、ひがんだ。しかし、言い争いは好まない。沈黙した。お前はおれに、いくぶんあてつける気持で、そう言ったのだろうが、しかし、泣いているのはお前だけでない。おれだって、お前に負けず、子供の事は考えている。自分の家庭は大事だと思っている。子供が夜中に、へんなせき一つしても、きっとがさめて、たまらない気持になる。もう少し、ましな家に引越して、お前や子供たちをよろこばせてあげたくてならぬが、しかし、おれには、どうしてもそこまで手がまわらないのだ。これでもう、精一ぱいなのだ。おれだって、凶暴きょうぼうな魔物ではない。妻子を見殺しにして平然、というような「度胸」を持ってはいないのだ。配給や登録の事だって、知らないのではない、知るひま、、が無いのだ。……父は、そう心の中でつぶやき、しかし、それを言い出す自信も無く、また、言い出して母から何か切りかえされたら、ぐうのも出ないような気もして、
「誰か、ひとを雇いなさい」
 と、ひとりごとみたいに、わずかに主張してみた次第なのだ。
 母も、いったい、無口なほうである。しかし、言うことに、いつも、つめたい自信を持っていた。(この母に限らず、どこの女も、たいていそんなものであるが)
「でも、なかなか、来てくれるひともありませんから」
「捜せば、きっと見つかりますよ。来てくれるひとが無いんじゃ無い、いて、、くれるひとが無いんじゃないかな?」
「私が、ひとを使うのが下手へただとおっしゃるのですか?」
「そんな、……」
 父はまた黙した。じつは、そう思っていたのだ。しかし、黙した。
 ああ、誰かひとり、雇ってくれたらいい。母が末の子を背負って、用足しに外に出かけると、父はあとの二人の子の世話を見なければならぬ。そうして、来客が毎日、きまって十人くらいずつある。
「仕事部屋のほうへ、出かけたいんだけど」
「これからですか?」
「そう。どうしても、今夜のうちに書き上げなければならない仕事があるんだ」
 それは、うそでなかった。しかし、家の中の憂鬱ゆううつから、のがれたい気もあったのである。
「今夜は、私、妹のところへ行って来たいと思っているのですけど」
 それも、私は知っていた。妹は重態なのだ。しかし、女房が見舞いに行けば、私は子供のお守りをしていなければならぬ。
「だから、ひとを雇って、……」
 言いかけて、私は、よした。女房の身内のひとの事に少しでも、ふれると、ひどく二人の気持がややこしくなる。
 生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血がき出す。
 私は黙って立って、六畳間の机の引出しから稿料のはいっている封筒を取り出し、たもとにつっ込んで、それから原稿用紙と辞典を黒い風呂敷に包み、物体でないみたいに、ふわりと外に出る。
 もう、仕事どころではない。自殺の事ばかり考えている。そうして、酒を飲む場所へまっすぐに行く。
「いらっしゃい」
「飲もう。きょうはまた、ばかに綺麗きれいしまを、……」
「わるくないでしょう? あなたのく縞だと思っていたの」
「きょうは、夫婦喧嘩でね、いんにこもってやりきれねえんだ。飲もう。今夜は泊るぜ。だんぜん泊る」
 子供より親が大事、と思いたい。子供よりも、その親のほうが弱いのだ。
 桜桃が出た。
 私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかもしれない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。つるを糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚さんごの首飾りのように見えるだろう。
 しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種をき、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。 

 今日6月19日は、74回目桜桃忌
 桜桃忌をきっかけに、太宰治の世界に浸る1日も面白いかもしれません。

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 【了】

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【参考文献】
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用・加工しました。
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太宰治39年の生涯を辿る。
 "太宰治の日めくり年譜"はこちら!】

太宰治の小説、全155作品はこちら!】

太宰治のエッセイ、163作品はこちら!】

【太宰治】雨じゃない玉川心中

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 2022年は、太宰治 没後74年。
 今日6月19日は、74回目桜桃忌です。

 桜桃忌は、太宰が死の直前に執筆した短篇桜桃にちなみ、太宰と同郷で交流のあった作家・今官一(こんかんいち)によって名付けられました。

 今回は、1年の中で一番太宰治に関心が集まるであろうこの日に、桜桃忌ついて世間一般でよく誤解されている2つの事実について紹介します。

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太宰治と「桜桃忌」の名付け親・今官一 1947年(昭和22年)、撮影:伊馬春部。今は太宰の文才を早くから見抜いた一人。デビューの際、古谷綱武らの同人誌「海豹」に太宰の短篇魚服記を推薦するなど、一貫して太宰のよき理解者だった。

 

命日じゃない桜桃忌

 1つ目の事実は、命日じゃない桜桃忌です。

 太宰を(しの)ぶ日である桜桃忌は、俳句の夏の季語でもあり、多くの人に知られています。()という言葉には"命日"という意味があるため、桜桃忌太宰治の命日と勘違いされがちですが、実はそうではありません。

 では、「6月19日は何の日?」というと、玉川上水で愛人・山崎富栄と一緒に入水自殺を遂げた、太宰の遺体が発見された日です。
 6月19日は、太宰が入水してから5日間続けられた捜索の最終日。この日に遺体が発見されなければ捜索は打ち切られる予定でしたが、投身現場から1キロ半下流玉川上水新橋下で、午前6時50分頃に発見されました。

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■太宰の遺体が発見された新橋 新橋の先右側には、明星学園がある。2021年9月23日、著者撮影。

 現在の玉川上水からは想像できませんが、当時の玉川上水は水深が深く、流れも速かったため、上水に落ちると瞬く間に飲み込まれてしまうことから「人食い川」と呼ばれていました。
 玉川上水に投身する人も多く、当時の「朝日新聞」報道(1948年(昭和23年)6月17日付)によると、太宰心中の前年1947年(昭和22年)には33人、1948年(昭和23年)は太宰で16人目だったそうです。

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◾️1948年(昭和23年)6月16日付「朝日新聞」 太宰治氏情死」の見出しで取り上げられている。記事内容の詳細については、こちらの記事で紹介しています。

 また、遺体が発見された6月19日は、奇しくも太宰の誕生日でした。そこで、太宰の故郷・青森県五所川原市(旧金木町)では、太宰生誕90周年を迎えた1999年(平成11年)から、「生誕地には生誕を祝う祭の方がふさわしい」という理由で、桜桃忌から太宰治生誕祭と名称を改めています。

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■太宰の生家「斜陽館」 2011年、著者撮影。

 

 ここまで読んで、「じゃあ、太宰の命日はいつなの?」と思われた方もいると思います。

 津島修治(太宰の本名)の戸籍簿を見ると、「昭和23年6月14日午前零時死亡」と書かれてあるそうで、この6月14日太宰治の命日に当たります。太宰の妻・津島美知子も、太宰との日々の回想回想の太宰治の中で、「14日に死亡」と書いています。
 太宰の正確な死亡時刻は明らかではありませんが、1948年(昭和23年)6月13日の午後11時半から、翌6月14日の午前4時頃までの間に、玉川上水に入水したとされています。
 当時の太宰の出立ちは、グレーのズボンに白いワイシャツ、下駄履き。太宰が死の直前まで滞在していた、富栄の自宅から玉川上水までは、歩いて70歩ほどの距離しかありませんでした。

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◾️1948年(昭和23年)撮影 写真右「永塚葬儀社」の看板がある建物の2階が富栄の下宿先。道の突き当りが、玉川上水。富栄の部屋から玉川上水までは、約70歩ほどの距離しかなかった。

 

 太宰が心中した理由について、その真相は明らかになっていません。

 長らく師事していた師匠・井伏鱒二の事を、なぜ遺書に井伏さんは悪人ですと書いたのか?といった謎も残されています。

 「富栄が太宰の首を絞めて殺した」という無理心中説も、文壇人や国文学者を中心に定説として捉えられ、世間一般に流布されました。
 私は、太宰が戦中から戦後にかけて多くの作品を発表し、新進作家として今後が期待されていたため、「出版の権利やその他の利害関係」「太宰の命を奪った富栄への嫉妬心」が入り混じって創られていったのではないかと考えています。

 太宰亡き今、その真相は闇の中ですが、その心中の理由について【考察】太宰治は、本当に首を絞められたのか?という考察記事を書いていますので、興味のある方は、ぜひご覧下さい。

 

雨じゃない玉川心中

 2つ目の事実は、雨じゃない玉川心中です。

 太宰は、1948年(昭和23年)6月13日の午後11時半から、翌6月14日の午前4時頃までの間に、玉川上水に入水したとされています。
 太宰が心中した際の天候は雨だったと言われ、これにより、いわゆる雨の玉川心中というイメージが世間一般では定着しているようです。
 また、この降雨が原因で、玉川上水が増水し、遺体の発見が遅れたとも言われています。

 太宰評伝の定番である、相馬正一評伝 太宰治 第三部でも、

(前略)二人の足どりを関係者の回想記や新聞記事などから辿ってみると、およそ次のようになる。六月十三日の深夜、太宰と富栄は降りしきる雨の中を野川家から出て、近くを流れる玉川上水に入水した、と推定される。

と書かれています。


相馬正一評伝 太宰治 第三部 筑摩書房、1985年)

 ここに書かれてある通り、関係者の回想記には、雨の中の心中だったと書かれているものが多くあります。

 

 しかし、本当に当日の天候は雨だったのでしょうか。

 ここで、太宰研究者・長篠康一郎(ながしのこういちろう)氏の「人間太宰治の空白」(東郷克美 編別冊國文学№47 太宰治事典所収)から引用してみたいと思います。
 長篠氏は、自ら標榜する「実証的研究」によって、世間一般に定着する太宰のマイナスイメージを全面的に否定しました。全国各地の太宰ゆかりの地を徹底的に取材。時には自ら人体実験を行い、麻薬中毒や左翼運動への関与、数度にわたって行われた自殺・心中未遂など、太宰の死の直後から伝えられてきた「虚像」をひっくり返しました。

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長篠康一郎(ながしのこういちろう)(1926~2007)

往年三鷹に住んでおられた山口秀雄氏より、当時の詳細な日記(コピー)を頂戴しているので、御了承を得て一部分をここに引用させていただくこととする。

昭和二十三年六月三日~二十一日
 ―東京地方(西部)天気状況―

昭和二十三年六月三日(木)
 起床 〇六、〇〇
 就床 二二、〇〇
 天候 晴のち霧雨(以下省略)

昭和二十三年六月四日(金)
 起床 〇五、四五
 就床 二二、〇〇
 天候 快晴(以下省略)

昭和二十三年六月五日(土)
 起床 〇五、五〇
 就床 二二、〇〇
 天候 晴のち曇り(以下省略)

昭和二十三年六月六日(日)
 起床 〇五、三〇
 就床 二一、〇〇
 天候 晴(以下省略)

昭和二十三年六月七日(月)
 起床 一〇、〇〇
 就床 ―――――
 天候 晴(以下省略)

昭和二十三年六月八日(火)
 起床 ―――――
 就床 二一、〇〇
 天候 晴(以下省略)

昭和二十三年六月九日(水)
 起床 〇五、四〇
 就床 二二、三〇
 天候 晴(以下省略)

昭和二十三年六月十日(木)
 起床 〇五、五五
 就床 二一、四〇
 天候 晴(以下省略)

昭和二十三年六月十一日(金)
 起床 〇五、二〇
 就床 二二、〇〇
 天候 晴(以下省略)

昭和二十三年六月十二日(土)
 起床 〇四、〇〇
 就床 二三、三〇
 天候 朝曇りのち晴(以下省略)

昭和二十三年六月十三日(日)
 起床 〇五、一五
 就床 二一、〇〇
 天候 晴(以下省略)

昭和二十三年六月十四日(月)
 起床 〇五、五〇
 就床 二二、三〇
 天候 曇り(以下省略)

昭和二十三年六月十五日(火)
 起床 〇五、二五
 就床 二一、五〇
 天候 朝雨のち曇り(以下省略)

昭和二十三年六月十六日(水)
 起床 〇五、一五
 就床 二二、〇〇
 天候 雨(以下省略)

昭和二十三年六月十七日(木)
 起床 〇五、五〇
 就床 二二、〇〇
 天候 雨のち曇り(以下省略)

昭和二十三年六月十八日(金)
 起床 〇五、五〇
 就床 二一、五〇
 天候 曇りのち雨(以下省略)

昭和二十三年六月十九日(土)
 起床 〇五、五〇
 就床 二二、〇〇
 天候 雨(以下省略)

昭和二十三年六月二十日(日)
 起床 〇八、〇〇
 就床 二〇、三〇
 天候 雨のち曇り(以下省略)

昭和二十三年六月二十一日(月)
 起床 〇五、五〇
 就床 二一、五〇
 天候 曇り(以下省略)

 三鷹在住の山口秀雄氏の日記によると、六月初旬から「晴」の日が続き、なかなか雨が降りません。ようやく「雨」が降るのは、「朝雨のち曇り」6月15日」。太宰の失踪が判明し、三鷹署による捜索活動が開始された日です。
 その後、太宰の遺体が発見される6月19日まで、連日「雨」が続いているため、捜索活動中はずっと雨だったという事が分かります。6月16日、三鷹署は捜査のために武蔵野市関町の境浄水場水門を閉め、減水してくれるよう水道局に依頼しています。

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 また、生前の富栄の事を知る梶原悌子氏の著書玉川上水情死行にも、次のように書かれています。

 整理がすんで部屋を出たのは十三日の午後十一時ごろと推定されている。雨は降っていなかった。
 太宰の入水は雨の中というのが通説だが、実際にはこの年の六月半ばまで雨は少なかった。一九四八(昭和二十三)年六月十三日付け朝日新聞には《工場に休電日・十四日から》という見出しで、「カラ梅雨で一向に雨が降らないため、電力事情がまた悪くなったので〔……〕」との記事が出ている。
 当日の天気予報は「南の風くもり時々雨・晩東の風時々雨」とあるが、雨はほとんど降らなかった。翌十四日の予報は「北西の風くもり時々晴れ」で、この日は風が非常に強く吹いた。雨が降りだしたのは、二人の行方不明が知れわたった十五日の午後になってからであった。
 十七日付け読売新聞には《電力五日分降る》の見出しで、「十五日来の雨は十六日夜明けごろから本降り、やがて土砂降りとなって〔……〕」の記事がある。


■梶原悌子『玉川上水情死行(作品社、2002年)

 当時の「読売新聞」を引用しながら、当時「雨は降っていなかった」とする玉川上水情死行の記述は、山口秀雄氏の日記の内容と合致しています。

 

 それでは、なぜ雨の玉川心中というイメージが定着してしまったのか。
 それは、から梅雨で電力事情も心配されていた中、久し振りに降った雨であり、太宰の遺体捜索中にもずっと降り続いていた事から、記憶の中に「雨」の印象が強く植え付けられ、そのままのイメージを関係者が回想記に綴った事で、いつの間にか定説化されてしまったのではないでしょうか。

 

 今回は桜桃忌という事で、太宰の心中事件に関連した、世間一般でよく誤解されている2つの事実について紹介しました。

 今日は、太宰13回目の生誕祭
 当ブログでは、【日めくり太宰治】【日刊 太宰治全小説】【週刊 太宰治のエッセイ】という連載を更新し続けてきました。ぜひ過去の記事にも目を通して頂きながら、太宰に想いを馳せる1日を過ごすきっかけとなれば幸いです。

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■芦野公園の太宰治像(青森県五所川原市金木町) 生家「斜陽館」の近くにある公園で、太宰が少年の頃、よく遊んだ場所として知られている。2022年4月24日、撮影。

 【了】

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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治武蔵野心中』(広論社、1982年)
相馬正一評伝 太宰治 第三部 』(筑摩書房、1985年)
・東郷克美 編『別冊國文学№47 太宰治事典』(學燈社、1995年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・梶原悌子『玉川上水情死行』(作品社、2002年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用・加工しました。
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太宰治39年の生涯を辿る。
 "太宰治の日めくり年譜"はこちら!】

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【週刊 太宰治のエッセイ】完結のお礼

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 2021年4日5日(月)から、毎週月曜6時に更新を続けていた週刊 太宰治のエッセイですが、本日2022年5月9日(月)6時の更新分を以て、全163本の投稿が完了しました。

 2018年:太宰治 没後70年
 2019年:太宰治 生誕110周年
 2020年:太宰治 生誕111周年

 3年間、作家・太宰治にとっての節目となる年が続いた事をきっかけに、当ブログでは、太宰関連記事の更新を続けてきました。

 

 2019年は、生誕110年記念企画として、太宰治の小説作品に改めて触れて欲しいという思いから、全155作品を毎日1作品ずつ紹介する日刊 太宰治全小説を更新。
 太宰治は、コピーライター。」をキャッチコピーに、各小説の「冒頭」と「結句」を先に引用し、太宰が小説作品に込めた「読者に対するサーヴィス」を堪能できるという切り口で全155作品を紹介しました。

 

 2020年は、生誕111周年記念企画として、その日、太宰はどのように過ごしていたのかを毎日紹介する日めくり太宰治を更新。
 日めくり太宰治は更新終了後に、年代順に記事を並び替えた太宰治の日めくり年譜として再編集も行いました。
 「今日、太宰はどんな事をして過ごしていたんだろう…」という興味から日めくり太宰治を見ても良し、「この時代の太宰は、どんな事をしていたんだろう…」という年譜的な興味から太宰治の日めくり年譜を見ても良し、という形で構成してみました。

 

 そして、2021年には、過去2年間の好評を受け、小説以上に太宰のエッセンスが凝縮されていながら、意外と知られていないエッセイを毎週紹介する週刊 太宰治のエッセイを更新しました。
 エッセイのみの紹介ではなく、エッセイの内容に関連するコラムも一緒に投稿する事で、一歩踏み込んだ形で太宰の世界を紹介する事ができたのではないかと思います。

 

 三日坊主で飽き性の私が、3年間も太宰関連ブログの更新を継続して来られたのは、応援して下さったり、アドバイスを下さったり、毎回楽しみに読んで下さる方々の支えがあったからだと思っています。
 企画が完結する毎に綴って来た「完結のお礼」でも繰り返し書いて来ましたが、改めて読者の皆さんに感謝の気持ちを伝えたい思いでいっぱいです。

 本当にありがとうございます。

 

今後の展望ついて

 3年間、更新を続けて来た太宰関連ブログについて、今後の展望を少し綴ってみたいと思います。

 そもそも、太宰関連の発信をブログでしてみようと思ったのは、太宰を「ソウルフレンド」と意識したのがきっかけでした。
 4年前に太宰への思いを綴った記事を太宰治に乾杯!と題して投稿しています(この記事を書いているのは、2022年5月8日ですが、偶然にも太宰治に乾杯!の投稿日が2018年5月8日だったので、ちょっと運命を感じました)。

 その後、太宰に興味を持ち、インターネットで太宰について色々と調べたのですが、情報が溢れているネットでさえも、太宰について自分が欲しい情報が得られない事に気づき、自分が太宰についてもっと理解を深め、知りたい人にも知ってもらうためには、新たなプラットフォームを構築する必要があるのではないか…と思うようになりました。
 理想は、いわゆる太宰関連のWikipediaのような存在です。私の記事を「ダザペディア」と呼んでいただいた事もあり、そのような内容が目指していたところでもあったため、とても嬉しかったのを覚えています。

 今後についてですが、私が太宰と同じ青森生まれで、小説津軽への思い入れが強い事もあり、太宰の津軽取材旅行についての記事のリライトや、太宰治の日めくり年譜をより一歩発展させ、歴史上では何が起こっていたか?という、取り巻く環境も盛り込んだ上で、その時太宰は何をしていたのか、という「歴史の中での太宰治というテーマに興味を惹かれ、構想を練っているところです。

 次の更新をはじめるためには、勉強が必要な事も多くあり、ある程度の準備期間も必要かと考えています。
 しかし、太宰に少し興味のある方から、コアなファンの方まで、楽しく読んでいただけるような記事づくりをしていきたい、という思いは、今も変わりません。
 少し時間はかかるかも知れませんが、Twitterを通じて、近況についてシェアしていきたいと思っています。今後の更新についても、ご興味がある方については、ぜひフォローしていただけますと幸いです。

 また、「太宰のこういう記事が読みたい!」「太宰のこういう事が知りたい!」というご意見がありましたら、ぜひコメントを寄せていただけると嬉しいです。今後、執筆を続けていく際の糧や参考となります。

以上でだいたい語り尽したようにも思われる。私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。ー津軽

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 【了】

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【参考文献】
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用・加工しました。
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太宰治39年の生涯を辿る。
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太宰治のエッセイ、全163作品はこちら!】

【週刊 太宰治のエッセイ】如是我聞(四)

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今週のエッセイ

◆『如是我聞(にょぜがもん)(四)』
 1948年(昭和23年)、太宰治 39歳。
 1948年(昭和23年)6月5日に脱稿。
 『如是我聞(四)』は、1948年(昭和23年)7月1日発行の「新潮」第四十五年第七号に掲載された。

「如是我聞(四)

 或る雑誌の座談会の速記録を読んでいたら、志賀直哉というのが、妙に私の悪口を言っていたので、さすがにむっとなり、この雑誌の先月号の小論に、附記みたいにして、こちらも大いに口汚なく言い返してやったが、あれだけではまだ自分も言い足りないような気がしていた。いったい、あれは、何だってあんなにえばったものの言い方をしているのか。普通の小説というものが、将棋だとするならば、あいつの書くものなどは、詰将棋である。王手、王手で、そうして詰むにきまっている将棋である。旦那芸の典型である。勝つか負けるかのおののきなどは微塵(みじん)もない。そうして、そののっぺら棒がご自慢らしいのだからおそれ入る。
 どだい、この作家などは、思索が粗雑だし、教養はなし、ただ乱暴なだけで、そうして己れひとり得意でたまらず、文壇の片隅にいて、一部の物好きのひとから愛されるくらいが関の山であるのに、いつの間にやら、ひさしを借りて、図々しくも母屋に乗り込み、何やら巨匠のような構えをつくって来たのだから失笑せざるを得ない。
 今月は、この男のことについて、手加減もせずに、暴露してみるつもりである。
 孤高とか、節操とか、潔癖とか、そういう讃辞を得ている作家には注意しなければならない。それは、(ほと)んど狐狸(こり)性を所有しているものたちである。潔癖などということは、ただ我儘(わがまま)で、頑固で、おまけに、抜け目無くて、まことにいい気なものである卑怯でも何でもいいから勝ちたいのである。人間を家来にしたいという、ファッショ的精神とでもいうべきか。
 こういう作家は、いわゆる軍人精神みたいなものに満されているようである。手加減しないとさっき言ったが、さすがに、この作家の「シンガポール陥落」の全文章をここに掲げるにしのびない。阿呆の文章である。東条でさえ、こんな無神経なことは書くまい。甚だ、奇怪なることを書いてある。もうこの辺から、この作家は、駄目になっているらしい。
 言うことはいくらでもある。
 この者は人間の弱さを軽蔑している。自分に金のあるのを誇っている。「小僧の神様」という短篇があるようだが、その貧しき者への残酷さに自身気がついているだろうかどうか。ひとにものを食わせるというのは、電車でひとに席を譲る以上に、苦痛なものである。何が神様だ。その神経は、まるで新興成金そっくりではないか。 またある座談会で(おまえはまた、どうして僕をそんなに気にするのかね。みっともない。)太宰君の「斜陽」なんていうのも読んだけど、閉口したな。なんて言っているようだが、「閉口したな」などという卑屈な言葉遣いには、こっちのほうであきれた。
 どうもあれには閉口、まいったよ、そういう言い方は、ヒステリックで無学な、そうして意味なく(たか)ぶっている道楽者の言う口調である。ある座談会の速記を読んだら、その頭の悪い作家が、私のことを、もう少し真面目にやったらよかろうという気がするね、と言っていたが、唖然(あぜん)とした。おまえこそ、もう少しどうにかならぬものか。
 さらにその座談会に於て、貴族の娘が山出しの女中のような言葉を使う、とあったけれども、おまえの「うさぎ」には、「お父さまは、うさぎなどお殺せ(、、、)なさいますの?」とかいう言葉があった(はず)で、まことに奇異なる思いをしたことがある。「お殺せ」いい言葉だねえ。恥しくないか。
 おまえはいったい、貴族だと思っているのか。ブルジョアでさえないじゃないか。おまえの弟に対して、おまえがどんな態度をとったか、よかれあしかれ、てんで書けないじゃないか。家内中が、流行性感冒にかかったことなど一大事の如く書いて、それが作家の本道だと信じて疑わないおまえの馬面(うまづら)がみっともない。
 強いということ、自信のあるということ、それは何も作家たるものの重要な条件ではないのだ。
 かつて私は、その作家の高等学校時代だかに、桜の幹のそばで、いやに構えている写真を見たことがあるが、何という嫌な学生だろうと思った。芸術家の弱さが、少しもそこになかった。ただ無神経に、構えているのである。薄化粧したスポーツマン。弱いものいじめ。エゴイスト。腕力は強そうである。年とってからの写真を見たら、何のことはない植木屋のおやじだ。腹掛(どんぶり)がよく似合うだろう。
 私の「犯人」という小説について、「あれは読んだ。あれはひどいな。あれは初めから落ちが判ってるんだ。こちらが知ってることを作家が知らないと思って、一生懸命書いている。」と言っているが、あれは、落ちもくそもない、初めから判っているのに、それを自分の慧眼(けいがん)だけがそれを見破っているように言っているのは、いかにももうろくに近い。あれは探偵小説ではないのだ。むしろ、おまえの「雨蛙(あまがえる)」のほうが幼い「落ち」じゃないのか。
 いったい何だってそんなに、自分でえらがっているのか。自分ももう駄目ではないかという反省を感じたことがないのか。強がることはやめなさい。人相が悪いじゃないか。
 さらにまた、この作家に就いて悪口を言うけれども、このひとの最近の佳作だかなんだかと言われている文章の一行を読んで実に不可解であった。
 すなわち、「東京駅の屋根のなくなった歩廊に立っていると、風はなかったが、冷え冷えとし、着て来た一重外套(がいとう)で丁度よかった。」馬鹿らしい。冷え冷えとし、だからふるえているのかと思うと、着て来た一重外套で丁度よかった、これはどういうことだろう。まるで滅茶苦茶である。いったいこの作品には、この少年工に対するシンパシーが少しも現われていない。つっぱなして、愛情を感ぜしめようという古くからの俗な手法を用いているらしいが、それは失敗である。しかも、最後の一行、昭和二十年十月十六日の事である、に到っては噴飯のほかはない。もう、ごまかしが、きかなくなった。
 私はいまもって滑稽(こっけい)でたまらぬのは、あの「シンガポール陥落」の筆者が、(遠慮はよそうね。おまえは一億一心は期せずして実現した。今の日本には親英米などという思想はあり得ない。吾々の気持は明るく、非常に落ちついて来た。などと言っていたね。)戦後には、まことに突如として、内村鑑三先生などという名前が飛び出し、ある雑誌のインターヴューに、自分が今日まで軍国主義にもならず、節操を保ち得たのは、ひとえに、恩師内村鑑三の教訓によるなどと言っているようで、インターヴューは、当てにならないものだけれど、話半分としても、そのおっちょこちょいは笑うに堪える。
 いったい、この作家は特別に尊敬せられているようだが、何故、そのように尊敬せられているのか、私には全然、理解出来ない。どんな仕事をして来たのだろう。ただ、大きい活字の本をこさえているようにだけしか思われない。「万暦赤絵」とかいうものも読んだけれど、阿呆らしいものであった。いい気なものだと思った。自分がおならひとつしたことを書いても、それが大きい活字で組まれて、読者はそれを読み、襟を正すというナンセンスと少しも違わない。作家もどうかしているけれども、読者もどうかしている。
 所詮は、ひさしを借りて母屋にあぐらをかいた狐である。何もない。ここに、あの作家の選集でもあると、いちいち指摘出来るのだろうが、へんなもので、いま、女房と二人で本箱の隅から隅まで探しても一冊もなかった。縁がないのだろうと私は言った。夜更(よふ)けていたけれども、それから知人の家に行き、何でもいいから志賀直哉のものを借してくれと言い、「早春」と「暗夜行路」と、それから「灰色の月」の掲載誌とを借りることが出来た。
 「暗夜行路」
 大袈裟な題をつけたものだ。彼は、よくひとの作品を、ハッタリだの何だのと言っているようだが、自分のハッタリを知るがよい。その作品が、殆んどハッタリである。詰将棋とはそれを言うのである。いったい、この作品の何処に暗夜があるのか。ただ、自己肯定のすさまじさだけである。
 何処がうまいのだろう。ただ自惚(うぬぼ)れているだけではないか。風邪をひいたり、中耳炎を起したり、それが暗夜か。実に不可解であった。まるでこれは、れいの綴方(つづりかた)教室、少年文学では無かろうか。それがいつのまにやら、ひさしを借りて、母屋に、無学のくせにてれもせず、でんとおさまってけろりとしている。
 しかし私は、こんな志賀直哉などのことを書き、かなりの鬱陶(うっとう)しさを感じている。何故だろうか。彼は所謂(いわゆる)よい家庭人であり、程よい財産もあるようだし、傍に良妻あり、子供は丈夫で父を尊敬しているにちがいないし、自身は風景よろしきところに住み、戦災に遭ったという話も聞かぬから、手織りのいい(つむぎ)なども着ているだろう、おまけに自身が肺病とか何とか不吉な病気も持っていないだろうし、訪問客はみな上品、先生、先生と言って、彼の一言隻句にも感服し、なごやかな空気が一杯で、近頃、太宰という思い上ったやつが、何やら先生に向って言っているようですが、あれはきたならしいやつですから、相手になさらぬように、(笑声)それなのに、その嫌らしい、(直哉の(いわ)く、僕にはどうもいい点が見つからないね)その四十歳の作家が、誇張でなしに、血を吐きながらでも、本流の小説を書こうと努め、その努力が(かえ)ってみなに嫌われ、三人の虚弱の幼児をかかえ、夫婦は心から笑い合ったことがなく、障子の骨も、(ふすま)のシンも、破れ果てている五十円の貸家に住み、戦災を二度も受けたおかげで、もともといい着物も着たい男が、短か過ぎるズボンに下駄ばきの姿で、子供の世話で一杯の女房の代りに、おかずの買物に出るのである。そうして、この志賀直哉などに抗議したおかげで、自分のこれまで附き合っていた先輩友人たちと、全部気まずくなっているのである。それでも、私は言わなければならない。(たぬき)(きつね)のにせものが、私の労作に対して「閉口」したなどと言っていい気持になっておさまっているからだ。
 いったい志賀直哉というひとの作品は、厳しいとか、何とか言われているようだが、それは嘘で、アマイ家庭生活、主人公の柄でもなく甘ったれた我儘、要するに、その容易で、楽しそうな生活が魅力になっているらしい。成金に過ぎないようだけれども、とにかく、お金があって、東京に生れて、東京に育ち、(東京に生れて、東京に育ったということの、そのプライドは、私たちからみると、まるでナンセンスで滑稽(こっけい)に見えるが、彼らが、田舎者(、、、)という時には、どれだけ深い軽蔑(けいべつ)感が含まれているか、おそらくそれは読者諸君の想像以上のものである。)道楽者、いや、少し不良じみて、骨組頑丈、顔が大きく眉が太く、自身で裸になって角力(すもう)をとり、その力の強さがまた自慢らしく、何でも勝ちゃいいんだとうそぶき、「不快に思った」の何のとオールマイティーの如く生意気な口をきいていると、田舎出の貧乏人は、とにかく一応は度胆をぬかれるであろう。彼がおならをするのと、田舎出の小者のおならをするのとは、全然意味がちがうらしいのである。「人による」と彼は、言っている。頭の悪く、感受性の鈍く、ただ、おれが、おれが、で明け暮れして、そうして一番になりたいだけで、(しかも、それは、ひさしを借りて母屋をとる式の卑劣な方法でもって)どだい、目的のためには手段を問わないのは、彼ら腕力家の特徴ではあるが、カンシャクみたいなものを起して、おしっこの出たいのを我慢し、中腰になって、彼は、くしゃくしゃと原稿を書き飛ばし、そうして、身辺のものに清書させる。それが、彼の文章のスタイルに歴然と現われている。残忍な作家である。何度でも繰返して言いたい。彼は、古くさく、乱暴な作家である。古くさい文学観をもって、彼は、一寸も身動きしようとしない。頑固。彼は、それを美徳だと思っているらしい。それは、狡猾(こうかつ)である。あわよくば、と思っているに過ぎない。いろいろ打算もあることだろう。それだから、嫌になるのだ。倒さなければならないと思うのだ。頑固とかいう親爺が、ひとりいると、その家族たちは、みな不幸の溜息(ためいき)をもらしているものだ。気取りを止めよ。私のことを「いやなポーズがあって、どうもいい点が見つからないね」とか言っていたが、それは、おまえの、もはや石膏(せっこう)のギブスみたいに固定している馬鹿なポーズのせいなのだ。
 も少し弱くなれ。文学者ならば弱くなれ。柔軟になれ。おまえの流儀以外のものを、いや、その苦しさを(わか)るように努力せよ。どうしても、解らぬならば、だまっていろ。むやみに座談会なんかに出て、恥をさらすな。無学のくせに、カンだの何だの頼りにもクソにもならないものだけに、すがって、十年一日(ごと)く、ひとの蔭口(かげぐち)をきいて、笑って、いい気になっているようなやつらは、私のほうでも「閉口」である。勝つために、実に卑劣な手段を用いる。そうして、俗世に(おい)て、「あれはいいひとだ、潔癖な立派なひとである」などと言われることに成功している。(ほと)んど、悪人である。
 君たちの得たものは、(所謂(いわゆる)文壇生活何年か知らぬが、)世間的信頼だけである。志賀直哉を愛読しています、と言えばそれは、おとなしく、よい趣味人の証拠ということになっているらしいが、恥しくないか。その作家の生前に於て、「良風俗」とマッチする作家とは、どんな種類の作家か知っているだろう。
 君は、代議士にでも出ればよかった。その厚顔、自己肯定、代議士などにうってつけである。君は、あの「シンガポール陥落」の駄文(あの駄文をさえ頬かむりして、ごまかそうとしているらしいのだから、おそるべき良心家である。)その中で、木に竹を継いだように、(すこぶ)る唐突に、「謙譲」なんていう言葉を用いていたが、それこそ君に一番欠けている徳である。君の恰好(かっこう)の悪い頭に充満しているものは、ただ、思い上りだけだ。この「文藝」という座談会の記事を一読するに、君は若いものたちの前で甚だいい気になり、やに下り、また若いものたちも、妙なことばかり言って()びているが、しかし私は若いものの悪口は言わぬつもりだ。私に何か言われるということは、そのひとたちの必死の行路を無益に困惑させるだけのことだという事を知っているからだ。「こっちは太宰の年上だからね」という君の言葉は、年上だから悪口を言う権利があるというような意味に聞きとれるけれども、私の場合、それは逆で、「こっちが年上だからね」若いひとの悪口は遠慮したいのである。なおまた、その座談会の記事の中に、「どうも、評判のいいひとの悪口を言うことになって困るんだけど」という箇所があって、何という(みにく)(いや)しいひとだろうと思った。このひとは、案外、「評判」というものに敏感なのではあるまいか。それならば、こうでも言ったほうがいいだろう。「この頃評判がいいそうだから、苦言を呈して、みたいんだけど」少くともこのほうに愛情がある。彼の言葉は、ただ、ひねこびた虚勢だけで、何の愛情もない。見たまえ、自分で自分の「邦子」やら「児を盗む話」やらを、少しも照れずに自慢し、その長所、美点を講釈している。そのもうろくぶりには、噴き出すほかはない。作家も、こうなっては、もうダメである。
「こしらえ物」「こしらえ物」とさかんに言っているようだが、それこそ二十年一日の如く、カビの生えている文学論である。こしらえ物のほうが、日常生活の日記みたいな小説よりも、どれくらい骨が折れるものか、そうしてその割に所謂批評家たちの気にいられぬということは、君も「クローディアスの日記」などで思い知っている筈だ。そうして、骨おしみの横着もので、つまり、自身の日常生活に自惚れているやつだけが、例の日記みたいなものを書くのである。それでは読者にすまぬと、所謂、虚構を案出する、そこにこそ作家の真の苦しみというものがあるのではなかろうか。所詮、君たちは、なまけもので、そうして狡猾にごまかしているだけなのである。だから、生命がけでものを書く作家の悪口を言い、それこそ、首くくりの足を引くようなことをやらかすのである。いつでもそうであるが、私を無意味に苦しめているのは、君たちだけなのである。
 君について、うんざりしていることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解っていないことである。
 日蔭者の苦悶(くもん)
 弱さ。
 聖書。
 生活の恐怖。
 敗者の祈り。
 君たちには何も解らず、それの解らぬ自分を、自慢にさえしているようだ。そんな芸術家があるだろうか。知っているものは世知だけで、思想もなにもチンプンカンプン。()いた口がふさがらぬとはこのことである。ただ、ひとの物腰だけで、ひとを判断しようとしている。下品とはそのことである。君の文学には、どだい、何の伝統もない。チェホフ? 冗談はやめてくれ。何にも読んでやしないじゃないか。本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である。隠者の装いをしていながら、周囲がつねに(にぎ)やかでなかったならば、さいわいである。その文学は、伝統を打ち破ったとも思われず、つまり、子供の読物を、いい年をして大えばりで書いて、調子に乗って来たひとのようにさえ思われる。しかし、アンデルセンの「あひるの子」ほどの「天才の作品」も、一つもないようだ。そうして、ただ、えばるのである。腕力の強いガキ大将、お山の大将、乃木大将。
 貴族がどうのこうのと言っていたが、(貴族というと、いやにみなイキリ立つのが不可解)或る新聞の座談会で、宮さまが、「斜陽を愛読している、身につまされるから」とおっしゃっていた。それで、いいじゃないか。おまえたち成金の(やっこ)の知るところでない。ヤキモチ。いいとしをして、恥かしいね。太宰などなさいますの? 売り言葉に買い言葉、いくらでも書くつもり。

 

志賀直哉、太宰の死について

 太宰最後のエッセイとなる『如是我聞』は、1948年(昭和23年)3月1日発行の「新潮」第四十五年第三号から同年7月1日発行の「新潮」第四十五年第七号にかけて、4回にわたって連載されました(ただし、同年4月1日発行の「新潮」第四十五年第四号は休載)。

 今回は、如是我聞の中で言及されている作家・志賀直哉(1883~1971)が太宰について書いた太宰治の死を紹介します。太宰治の死は、太宰が亡くなって3ヶ月半後の、1948年(昭和23年)10月1日発行の「文藝」第五巻第十号の「評論」欄に発表されました。

 太宰君の小説は八年程前に一つ読んだが、今は題も内容も忘れて(しま)った。読後の印象はよくなかった。作家のとぼけたポーズが(いや)だった。それも図迂々々(ずうずう)しさから来る人を喰ったものだと一種の面白味を感じられる場合もあるが、弱さの意識から、その弱さを隠そうとするポーズなので、若い人として好ましい傾向ではないと思った。その後、もう一つ「伊太利亜館」というのを読んだ。伊太利亜館というのは昔、伊太利亜人が始めたという新潟の西洋料理屋で、私も前に一度行った事があるので、その興味から読んで見たが、これは前のもの程ポーズはないが、それでも、頼まれて講演に来た事を如何(いか)にも冷淡な調子で書きながら、内心得意でいるようなところが素直でない感じがした。こういう事は誰れにもある事で、その事は仕方がないとして、作品に書く場合、作家はもう少しその事に神経質であってもいいと思った。冷淡に書けば読者もその通りに受取ると思っているようなところが暢気(のんき)だと思った。
 それから私は最近まで、太宰君のものは一つも読まなかった。そして、去年の秋、「文學行動」の座談会で太宰君の小説をどう思うかと(たず)ねられ、とぼけたようなポーズが嫌いだと答えたのであるが、太宰君はそれを読んで、不快を感じたらしく、「新潮」の何月号かに、「ある老大家」という間接な()い方で、私に反感を示したという事だ。私はそれを見落し、今もその内容は知らない。
 今年になって私は本屋から「斜陽」を(もら)い、評判のものゆえ、読みかけたが、話している貴族の娘の言葉が如何(いか)にも変なので、読み続けられず、初めの方でやめて(しま)った。続いて「中央公論」に出た、「犯人」という短いものを読んだが、読んでいるうちに話のオチが分って(しま)ったので、中村眞一郎佐々木基一両君との「文藝」の座談会で、「斜陽」の言葉と、このオチの分った話とをした。(むし)ろオチは最初に書いて、其処(そこ)までの道程に力を入れた方がいいと話した。二度読んで、二度目に興味の薄らぐようなものは書かない方がいいとも()ったのである。この時の私の言葉の調子は必ずしも淡々としたものではなかった。何故なら、私は太宰君が私に反感を持っている事を知っていたから、自然、多少は悪意を持った言葉になった。

 

 

 私は不幸にして、太宰君の作品でも出来の悪いものばかりを読んだらしい。太宰君が死んでから、「展望」で「人間失格」の第二回目を読んだが、これは少しも(いや)だと思わなかった。それ故、この文書を書くにしても、私は太宰君の作品中、目ぼしいものを()ト通り読んでから書くのが本当かとも考えたが、前のような先入観を持っている私として、これは却々(なかなか)実行できそうもないので、作品は眼に触れたものだけで、別に太宰君の死に就いて、自分の思った事を少し書いて見ようと思う。
 私は織田作之助君に就いても、太宰君に就いても、自身ペンを執って、積極的に書くつもりはなかったが、座談会で、どう思うかと(たず)ねられると、思っている事をいって、それがそれらの人の心を傷つける結果になった。それも淡々とした気持でいったのでない事は、太宰君の場合は今いったようなわけだし、織田君の場合にも私には次のような気持があった。それは、戦後、永井荷風氏の「踊子」が発表された時、私はこれがきっかけとなって、屹度(きっと)この亜流が続々と出るだろうと思った事である。戦争中、荷風氏がそういうものを書いて、幾つかの写本にしているという噂を聞いていたから、「踊子」が出た時、これはいい事だと思ったが、若い作家がこの真似をして、こういうものを続々と書きだしては堪らないとも思った。荷風氏のものでは場面の描写にも節度があり、醜さも醜いと感じさせないだけに書いてあるが、その感覚を持たない悪流に節度なく、こういう事を書き出されては困ると思った。私は西鶴に感心し、モウパッサンの「メゾン・テリエ」なども愛読した方で、文学作品にそういう要素の入る事を悪いとは思っていないが、節度なく容易に、それが書かれる事は我慢出来ない方である。そこに織田君の「世相」が出た。私は一昨年の夏、奈良でした谷崎潤一郎君との対談の機り、朝日の吉村正一郎君から()かれるままに、「きたならしい」と()った。この対談は「朝日評論」に載ったものだが、その後東京朝日の人が来ての話に、私のこの言葉だけ、織田君の()め、抹殺して欲しいと大阪朝日から電話がかかったが、断ったと()っていた。私は(いず)れでもいいと思ったが、既に断った後でもあり、前に()ったような気持もあったから黙っていた。大体、世話焼きな性分で、若し織田君を個人的に知っていれば、同じ事も、もっと親切な言葉でいったかも知れないが、知らぬ人で、その親切が私にはなかった。「文藝」の座談会での太宰君の場合は、太宰君が心身共に、それ程衰えている人だという事を知っていれば、もう少し()いようがあったと、今は残念に思っている。

 

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織田作之助 1947年(昭和22年)1月10日、東京病院宿痾(しゅくあ)の肺結核のため激しく喀血して逝去。織田の死に接した太宰は、織田君の死を執筆した。

 

 太宰君の心中を知った時、私はイヤな気持になった。私の()った事が多少ともその原因に含まれているのではないかと考え、憂鬱になった。この憂鬱は四五日続いたが、一方ではこれはどうも仕方のない事だと思った。これを余り大きく感ずる事は自分に危険な事だとも思った。それ(ゆえ)、死後発表される「如是我聞」で、私に悪意を示しているという噂を聴いた時、イヤな気もしたが、それ位の事は私も()われた方がいいと()うような一種の気安さをも一緒に感じた。
 (しか)し、私は太宰君の心中という事にはどうしても同情は出来なかった。死ぬなら何故、一人で死ななかったろうと思った。私は廣津君に太宰君の死は「恋飛脚大和往来」の忠兵衛の死と同じではないかと()って、否定されたが、個人的に全く知らないから、主張は出来ないが、今でも私は太宰君には忠兵衛と似た所があるような気がしている。新聞の写真で見た「井伏さんは悪人です」という遺書の断片を見て、井伏君には気の毒だが、忠兵衛と八右衛門の関係を連想した。封印切りの幕で見ると、八右衛門は悪者のようになっているが、その前の忠兵衛の家の前では忠兵衛の事を本当に心配しているいい友達で、忠兵衛も感激し、(この感激が少し空々しいところもあるが)君は親兄弟以上の人だなど()っている。それが茶屋の大勢人のいる場ではまるで態度を変え、八右衛門を悪者にして(しま)って、結局、小判の封印を切り、滅茶苦茶になる。忠兵衛は忠兵衛、太宰君は太宰君で、滅多に同じ人間はいないが、研究する人があれば(この)二人の間には色々共通な点を見出せるのではないかと思っている。(あるい)は単なる私の連想かも知れぬ。

 

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井伏鱒二 太宰の遺書には「井伏さんは悪人です」と書かれていた。

 

 自殺という事は私は昔は認めない事にしていたが、近年はそれを認め、他の動物とちがい、人間にその能力のある事をありがたい事に思っている。最近の「リーダーズ・ダイジェスト」でユーサネジア(慈悲死)という言葉を知ったが、自殺は自分で行うユーサネジアだという意味で私は認めている。(しか)し、心中という事には私は今も嫌悪を感ずる。対手(たいしゅ)の女は女らしい感情で一緒に死にたがるかも知れないが、その時をはずせば案外あとは気楽に生きていけるかも知れないし、第一、残る家族にとって、自殺と心中ではその打撃に大変な差がある。細君にとって良人が他の女と心中したという事は一生拭い難い侮辱となるであろうし、子供にとっても母親が侮辱されたという事で、割切れぬ不快な印象が残るだろうと思う。
 (しか)し、この事でも廣津君はちがった考えを持っていて、太宰君の子供が大人になった時、太宰君の死の止むを得なかった事に同情する時が来るだろうと()っていたが、事実は(いず)れになるか分らないが、私は自身の気持から推してそうは思わない。(もっと)も、子供が両方の気持を持つ場合もあり得るから、(いず)れとも片づけられない事かも知れない。

 

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玉川上水沿いに(たたず)む太宰 死の4ヶ月前の1948年(昭和23年)2月23日、田村茂が撮影。

 

 私は太宰君の心中は太宰君が主動的な立場で行われたと思っていたから、一層そういう風に考えたが、先日、瀧井孝作が来ての話では女の方が主動的だったらしいとの事だった。それ(ゆえ)、人は太宰君の心中を心中として取扱わず、自殺として取扱っているわけが(わか)ったが、()(かく)同時代の所謂(いわゆる)知識人が心中するという事は()んだか腑に落ちぬ事である。太宰君は一時赤になった事もあるというし、恐らくそんな事はあるまいが、()し心中に多少ともイリュージョンを感じていたという事があれば、これは一層我慢ならぬ事である。「新潮」の「如是我聞」は七月号のは読んだが、八月号の分は読まなかった。私は前から、無名の端書(はしがき)や手紙で、悪意を示される場合、一寸(ちょっと)見れば分るので、直ぐ火中するか、破って棄てて(しま)う事にしている。批評でも明らかに悪意で書いていると感じた場合、先は読まない事にしている。私にとって無益有害な事だからであるが、太宰君の場合は死んだ人の事だし、読まないのは悪いような気もしたが、矢張り、読む気がせず、読まなかった。今年十七になる私の末の娘が「如是我聞」を読んで、私の「兎」という小品文の中で、この娘の()った「お父様、兎はお殺せになれない」という言葉の事が書いてあると()って(いや)な顔をしていた。私は「お殺せになれない」で少しも変でない、と慰めてやったが、「そのほか、どんな事が書いてある」と()いたら、「シンガポール陥落の事が書いてある」と答えた。「分った/\」と私はそれ以上聴かなかったが、書いてある事は読まなくても大概分った気がした。
 ()(かく)、私の()った事が心身共に弱っていた太宰君には何倍かになって響いたらしい。これは太宰君には(まこと)に気の毒な事で、太宰君にとっても、私にとっても不幸な事であった。瀧井の話で、井伏君が二行でもいいから()めて()らえばよかったと()っていたという事を聴き、私の心は痛んだ。その後に読んだ「人間失格」の第二回目で私は少しも悪いとは思わなかったのだから、もっと沢山読んでいれば太宰君のいいところも見出せたかも知れないと思った。

 

 

 廣津君と瀧井の来ていた時、太宰君が崖の上に立っている人だという事を知らず、一寸(ちょっと)指で突いたような感じで、(はなは)だ寝覚めが悪いと()ったら、廣津君は「そんな事はない、そんな事はない」と強く否定して、太宰君は()の道、生きてはいられない人だったと()って、私を慰めてくれた。瀧井も同じ事を()った。そして廣津君は太宰君の自殺の一番元の原因は共産主義からの没落意識だと思うと()っていた。心の面の不健康の原因には(あるい)はそういう事もあるかも知れぬと思った。(しか)し、結局は肉体の不健康が一番大きな原因だったと思う。
 太宰君でも織田君でも、初めの頃は私にある好意を持ってくれたような噂を聴くと、個人的に知り合う機会のなかった事は残念な気がする。知っていれば私は恐らく病気の徹底的な療養を二人に勧めたろうと思う。
 私は太宰君の死に就いては何も書かぬつもりでいたが、「文藝」八月号の中野好夫君の「志賀と太宰」という文章を見て、これを書く気になった。中野君の文章には非常な誇張がある。面白ずくで、この誇張がそのまま、伝説になられては困るのでこれを書く事にした。
   (八月十五日)

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志賀直哉太宰治

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】如是我聞(三)

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今週のエッセイ

◆『如是我聞(にょぜがもん)(三)』
 1948年(昭和23年)、太宰治 39歳。
 1948年(昭和23年)5月12日から14日までの間に脱稿。
 『如是我聞(三)』は、1948年(昭和23年)6月1日発行の「新潮」第四十五年第六号に掲載された。

「如是我聞(三)

 謀叛(むほん)という言葉がある。また、官軍、賊軍という言葉もある。外国には、それとぴったり合うような感じの言葉が、あまり使用せられていないように思われる。裏切り、クーデタ、そんな言葉が主として使用せられているように思われる。「ご謀叛でござる。ご謀叛でござる。」などと騒ぎまわるのは、日本の本能寺あたりにだけあるように思われる。そうして、所謂官軍は、所謂賊軍を、「すべて烏合(うごう)の衆なるぞ」と歌って気勢をあげる。謀叛は、悪徳の中でも最も甚だしいもの、所謂賊軍は最もけがらわしいもの、そのように日本の世の中がきめてしまっている様子である。謀叛人も、賊軍も、よしんば勝ったところで、所謂三日天下であって、ついには滅亡するものの如く、われわれは教えられてきているのである。考えてみると、これこそ陰惨な封建思想の露出である。
 むかしも、あんなことをやった奴があって、それは権勢慾、或いは人気とりの軽業に過ぎないのであって、言わせておいて黙っているうちに、自滅するものだ、太宰も、もうこれでおしまいか、忠告せざるべからず、と心配して下さる先輩もあるようであるが、しかも古来、負けるにきまっていると思われている所謂謀叛人が、必ずしも、こんどは、負けないところに民主革命の意義も存するのではあるまいか。
 民主主義の本質は、それは人によっていろいろに言えるだろうが、私は、「人間は人間に服従しない」あるいは、「人間は人間を征服出来ない、つまり、家来にすることが出来ない」それが民主主義の発祥の思想だと考えている。
 先輩というものがある。そうして、その先輩というものは、「永遠に」私たちより偉いもののようである。彼らの、その、「先輩」というハンデキャップは、(ほとん)ど暴力と同じくらいに荒々しいものである。例えば、私が、いま所謂先輩たちの悪口を書いているこの姿は、ひよどり越えのさか落しではなくて、ひよどり越えのさか上りの(てい)のようである。岩、かつら、土くれにしがみついて、ひとりで、よじ登って行くのだが、しかし、先輩たちは、山の上に勢ぞろいして、煙草をふかしながら、私のそんな浅間しい姿を見おろし、馬鹿だと言い、きたならしいと言い、人気とりだと言い、逆上気味と言い、そうして、私が少し上に登りかけると、極めて無雑作に、彼らの足もとの石ころを一つ蹴落(けおと)してよこす。たまったものではない。ぎゃっという醜態の悲鳴とともに、私は落下する。山の上の先輩たちは、どっと笑い、いや、笑うのはまだいいほうで、蹴落して知らぬふりして、マージャンの卓を囲んだりなどしているのである。
 私たちがいくら声をからして言っても、所謂世の中は、半信半疑のものである。けれども、先輩の、あれは駄目だという一言には、ひと頃の、勅語の如き効果がある。彼らは、実にだらしない生活をしているのだけれども、所謂世の中の信用を得るような暮し方をしている。そうして彼らは、ぬからず、その世の中の信頼を利用している。 永遠に、私たちは、彼らよりも駄目なのである。私たちの精一ぱいの作品も、彼らの作品にくらべて、読まれたものではないのである。彼らは、その世の中の信頼に便乗し、あれは駄目だと言い、世の中の人たちも、やっぱりそうかと容易に合点し、所謂先輩たちがその気ならば、私たちを気狂(きちが)い病院にさえ入れることが出来るのである。
 奴隷(どれい)根性。
 彼らは、意識してか或いは無意識か、その奴隷根性に最大限にもたれかかっている。
 彼らのエゴイズム、冷たさ、うぬぼれ、それが、読者の奴隷根性と実にぴったりマッチしているようである。或る評論家は、ある老大家の作品に三拝九拝し、そうして曰く、「あの先生にはサーヴィスがないから偉い。太宰などは、ただ読者を面白がらせるばかりで、……」
 奴隷根性も極まっていると思う。つまり、自分を、てんで問題にせず恥しめてくれる作家が有り難いようなのである。評論家には、このような謂わば「半可通」が多いので、胸がむかつく。墨絵の美しさがわからなければ、高尚な芸術を解していないということだ、とでも思っているのであろうか。光琳(こうりん)の極彩色は、高尚な芸術でないと思っているのであろうか。渡辺崋山(かざん)の絵だって、すべてこれ優しいサーヴィスではないか。
 頑固。怒り。冷淡。健康。自己中心。それが、すぐれた芸術家の特質のようにありがたがっている人もあるようだ。それらの気質は、すべて、すこぶる男性的のもののように受取られているらしいけれども、それは、かえって女性の本質なのである。男は、女のように容易には怒らず、そうして優しいものである。頑固などというものは、無教養のおかみさんが、持っている(すこぶ)る下等な性質に過ぎない。先輩たちは、も少し、弱いものいじめを、やめたらどうか。所謂「文明」と、最も遠いものである。それは、腕力でしかない。おかみさんたちの、井戸端会議を、お聞きになってみると、なにかお気附きになる筈である。
 後輩が先輩に対する礼、生徒が先生に対する礼、子が親に対する礼、それらは、いやになるほど私たちは教えられてきたし、また、多少、それを遵奉(じゅんぽう)してきたつもりであるが、しかし先輩が後輩に対する礼、先生が生徒に対する礼、親が子に対する礼、それらは私たちは、一言も教えられたことはなかった。
 民主革命。
 私はその必要を痛感している。所謂有能な青年女子を、荒い破壊思想に追いやるのは、民主革命に無関心なおまえたち先輩の頑固さである。
 若いものの言い分も聞いてくれ! そうして、考えてくれ! 私が、こんな如是我聞(にょぜがもん)などという拙文をしたためるのは、気が狂っているからでもなく、思いあがっているからでもなく、人におだてられたからでもなく、(いわ)んや人気とりなどではないのである。本気なのである。昔、誰それも、あんなことをしたね、つまり、あんなものさ、などと軽くかたづけないでくれ。昔あったから、いまもそれと同じような運命をたどるものがあるというような、いい気な独断はよしてくれ。
 いのちがけで事を行うのは罪なりや。そうして、手を抜いてごまかして、安楽な家庭生活を目ざしている仕事をするのは、善なりや。おまえたちは、私たちの苦悩について、少しでも考えてみてくれたことがあるだろうか。
 結局、私のこんな手記は、愚挙ということになるのだろうか。私は文を売ってから、既に十五年にもなる。しかし、いまだに私の言葉には何の権威もないようである。まともに応接せられるには、もう二十年もかかるのだろう。二十年。手を抜いたごまかしの作品でも何でもよい、とにかく抜け目なくジャアナリズムというものにねばって、二十年、先輩に対して礼を尽し、おとなしくしていると、どうやらやっと、「信頼」を得るに到るようであるが、そこまでは、私にもさすがに、忍耐力の自信が無いのである。
 まるで、あの人たちには、苦悩が無い。私が日本の諸先輩に対して、最も不満に思う点は、苦悩というものについて、全くチンプンカンプンであることである。
 何処(どこ)に「暗夜」があるのだろうか。ご自身が人を、許す許さぬで、てんてこ舞いしているだけではないか。許す許さぬなどというそんな大それた権利が、ご自身にあると思っていらっしゃる。いったい、ご自身はどうなのか。人を審判出来るがらでもなかろう。
 志賀直哉という作家がある。アマチュアである。六大学リーグ戦である。小説が、もし、絵だとするならば、その人の発表しているものは、(しょ)である、と知人も言っていたが、あの「立派さ」みたいなものは、つまり、あの人のうぬぼれに過ぎない。腕力の自信に過ぎない。本質的な「不良性」或いは、「道楽者」を私はその人の作品に感じるだけである。高貴性とは、弱いものである。へどもどまごつき、赤面しがちのものである。所詮あの人は、成金に過ぎない。
 おけらというものがある。その人を尊敬し、かばい、その人の悪口を言う者をののしり殴ることによって、自身の、世の中に於ける地位とかいうものを危うく保とうと汗を流して懸命になっている一群のものの(いい)である。最も下劣なものである。それを、男らしい「正義」かと思って自己満足しているものが大半である。国定忠治の映画の影響かも知れない。
 真の正義とは、親分も無し、子分も無し、そうして自身も弱くて、何処かに収容せられてしまう姿に於て認められる。重ね重ね言うようだが、芸術に於ては、親分も子分も、また友人さえ、無いもののように私には思われる。
 全部、種明しをして書いているつもりであるが、私がこの如是我聞という世間的に言って、明らかに愚挙らしい事を書いて発表しているのは、何も「個人」を攻撃するためではなくて、反キリスト的なものへの戦いなのである。
 彼らは、キリストと言えば、すぐに軽蔑(けいべつ)の笑いに似た苦笑をもらし、なんだ、ヤソか、というような、安堵(あんど)に似たものを感ずるらしいが、私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスという人の、「己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ」という難題一つにかかっていると言ってもいいのである。
 一言で言おう、おまえたちには、苦悩の能力が無いのと同じ程度に、愛する能力に於ても、全く欠如している。おまえたちは、愛撫(あいぶ)するかも知れぬが、愛さない。
 おまえたちの持っている道徳は、すべておまえたち自身の、或いはおまえたちの家族の保全、以外に一歩も出ない。
 重ねて問う。世の中から、追い出されてもよし、いのちがけで事を行うは罪なりや。
 私は、自分の利益のために書いているのではないのである。信ぜられないだろうな。
 最後に問う。弱さ、苦悩は罪なりや。

 これを書き終えたとき、私は偶然に、ある雑誌の座談会の速記録を読んだ。それによると、志賀直哉という人が、「二、三日前に太宰君の『犯人』とかいうのを読んだけれども、実につまらないと思ったね。始めからわかっているんだから、しまいを読まなくたって落ちはわかっているし……」と、おっしゃって、いや、言っていることになっているが、(しかし、座談会の速記録、或いは、インタヴィユは、そのご本人に覚えのないことが多いものである。いい加減なものであるから、それを取り上げるのはどうかと思うけれども、志賀という個人に対してでなく、そういう言葉に対して、少し言い返したいのである)作品の最後の一行に於て読者に背負い投げを食わせるのは、あまりいい味のものでもなかろう。所謂「落ち」を、ひた隠しに隠して、にゅっと出る、それを、並々ならぬ才能と見做(みな)す先輩はあわれむべき哉、芸術は試合でないのである。奉仕である。読むものをして傷つけまいとする奉仕である。けれども、傷つけられて喜ぶ変態者も多いようだからかなわぬ。あの座談会の速記録が志賀直哉という人の言葉そのままでないにしても、もしそれに似たようなことを言ったとしたなら、それはあの老人の自己破産である。いい気なものだね。うぬぼれ鏡というものが、おまえの家にもあるようだね。「落ち」を避けて、しかし、その暗示と興奮で書いて来たのはおまえじゃないか。
 なお、その老人に茶坊主の如く阿諛追従(あゆついしょう)して、まったく左様でゴゼエマス、大衆小説みたいですね、と言っている卑しく()せた俗物作家、これは論外。

 

「晩年のころ」の太宰

 太宰最後のエッセイとなる『如是我聞』は、1948年(昭和23年)3月1日発行の「新潮」第四十五年第三号から同年7月1日発行の「新潮」第四十五年第七号にかけて、4回にわたって連載されました(ただし、同年4月1日発行の「新潮」第四十五年第四号は休載)。

 今回は、人間失格が連載された、筑摩書房が発行する総合雑誌「展望」の編集長を務めた臼井吉見(うすいよしみ)(1905~1987)の同時代回想「晩年のころ」(山内祥史 編太宰治に出会った日所収)を引用し、『如是我聞』執筆の頃、太宰の晩年について見ていきます。

 やはり思い出すのは、あの日のことだ。太宰が世を去ったのは二十三年の六月十三日だが、その二十日ほど前かと思う。「人間失格」の「第三の手記」の前半は三鷹で書き、残りの五十枚を書くため、大宮の宿屋へ出かける二三日前だった。たしか日曜日だったと思う。当時ぼくは本郷の筑摩書房の二階に、ひとりで寝おきしていた。ひるすぎ電話が鳴って、いま豊島与志雄の宅に来ているが、よかったら遊びに来ないかと言ってきた。もはや、かなり酔っているらしい声だった。ぼくは豊島さんに面識はあったがお宅へは伺ったことがなかったので、(はなは)だ気が進まなかったが、日曜日のこととてどこへも連絡できないままに、ぼくなどを呼び出したのに相違ないと思ったから、神田の某所へたのんで、ウイスキーを一本都合してもらい、出かけて行った。当時、酒類は簡単には入手できなかったからだ。肴町の停留場から団子坂のほうへ、ぶらぶらやってゆくと、むこうから、サッチャンらしき女が小走りに近づいてくる。サッチャンとは太宰を死の道づれにした女性の通称で、太宰は「スタコラのサッチャン」という愛称で呼んでいた。いかにもスタコラとやってくる。ぼくは立ちどまって、待ちうけたが、すれちがうようになっても、気がつかない様子だった。かの女は強度の近眼だったが、太宰がメガネをきらっていたので、滅多にはかけなかったようだ。呼びかけて聞くと、太宰の今夜服用するクスリを買いに行くのだという。「早く行ってあげてください」と、いそいそとまた小走りにたち去った。

 

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豊島与志雄(とよしまよしお)(1890~1955) 日本の小説家、翻訳家、仏文学者、児童文学者。明治大学文学部教授も勤めた。太宰は、晩年に豊島を最も尊敬し、愛人・山崎富栄を伴って、度々豊島の自宅を訪れては酒を酌み交わした。豊島も太宰の気持ちを受け入れ、その親交は太宰が亡くなるまで続いた。

 

 豊島さんは自慢の鶏料理の腕前をふるわれている最中だった。御両人とも大分酔いがまわっていて、甚だ御機嫌だった。ぼくが意外に思ったのは、太宰はこのとき豊島さんに初対面だったらしいことだ。太宰の全集が八雲書店から出ることになって、その第一巻が出たばかりだったが、各巻の解説を豊島さんが執筆することになったので、その御礼に出かけて来たものらしかった。ぼくの察したところでは、当時八雲書店にKという向う気の強い、ハッタリの若い編集者がいたが、これが太宰と豊島さんとの双方に近づいていたが、豊島さんが太宰に好意をもっているようなことを伝えたに相違なく、戦後青森の疎開先から上京して、人気の頂上にたち、若い崇拝者にとりかこまれていたかれは、どういうものか、長い間面倒をかけてきた井伏さんから遠ざかるような姿勢を示したり、例の「如是我聞」で、志賀さんに悲壮な反撃を加えたりしていたころだったので、人づてに聞き知った豊島さんの好意に、かれのことだからうれしくてたまらなかったのではなかろうか。花形作家として人気を集め、若い崇拝者たちにとりかこまれていたかれにとって、井伏さんはニガ手だったに相違なく、一種の反撥(はんぱつ)さえ感じていたようにぼくは察している。志賀さんに対しても、かれはかねがね尊敬していたらしいが、自分の作品を酷評されて、猛然反撃に燃えたったというのが真相ではないかと思う。作家は誰だって賞讃されることの嫌いなものはないが、太宰ほどほめられることの好きなものもなかった。処女作ともいうべき短篇「」の冒頭に、「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」というヴェレェヌの言葉をかきつけているかれは、すでに「ヴィヨンの妻」や「斜陽」の作者として、より多く「恍惚」を感じていたであろうが、同時にまた井伏さんの容赦ない眼や志賀さんの手きびしい批評に対して、一種の「不安」もあったかと思われる。それだけに、たとい人づてにせよ、豊島さんの好意を知って、子どものようにうれしかったにちがいない。

 

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 サッチャンも戻ってきて、いよいよ酒席はにぎやかになった。ぼくは師匠の選択をまちがった、ぼくは豊島先生の作品がむかしから大好きだったのに、先生を師匠にしなかったのは残念だ、というようなオベンチャラを太宰はくりかえした。ぼくはこの雰囲気に居たたまらないようなものを感じたので、いいかげんのところで逃げることにした。外へ出ると、サッチャンが追っかけてきて、太宰さんのからだがひどく悪くて、今日など歩くのさえ苦痛らしい、病院へ入って、そこで気のむいたときだけ書くというのがいちばんいいと思うが、わたしというものがついているでしょう、奥さんにすぐわかってしまうし、だからどんなにすすめても入院なんかしないと言っているし、……というようなことをせきこむように話しかけて来た。ぼくはへんなことを言う女だナ、「わたしというものがついているでしょう」とは何だ、入院すれば看護婦でも家政婦でもたのめるわけであり、何も「わたしというもの」などくっついてる必要などどこにあるんだと思ったので、怒ったようにフン、フンと聞きとっただけで、かの女と別れた。これはどうしても、入院させなくちゃならない、少くとも新聞小説を書くなどは無茶だと思い、あれこれと対策を考えながら帰ってきた。太宰は近いうちに、朝日新聞の連載小説を書くことになっていたのである。

 

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■「サッチャン」こと、太宰の愛人・山崎富栄

 

 

 気になったので、翌日夕刻になって、もう一度豊島さんのところへ出かけ、太宰をつれ出してサッチャンと三人づれで帰ってきた。かれはあれから飲みつづけて、豊島さんの宅に一泊し、朝からまた酒になったものらしい。ぼくは自分ながら不興げな顔で、君はむかしから豊島さんの小説が大好きだったというが、いったいどんなのが好きなんだと聞くと、ニヤリと笑って、頬を(でて、「いやア、実は何にも読んでいないんだよ」と答えた。こいつ(、、、と思ってぼくはそれきり口をきかなかった。途中で筑摩書房へ寄るという。書房には、ちょうど唐木順三も来合せており、編集者のおおかたは残っていた。階下の応接室で若い編集者たちにとりかこまれると、にわかに元気づいて、ひどくはしゃいで、さかんな談笑がはじまった。少し若い者どもを教育しなくちゃ、などと言って、かれは大気焔(だいきえんで、若い者たちをからかった。いつのまにか、酒もはじまるという始末だった。そのときの太宰の気焔はなかなか、おもしろかったが、特に忘れられないのは、自分は決しておりない(、、、、という説だった。花札をやる場合に、手がわるいとおりる(、、、だろう、小説だって手がわるいとおりて(、、、しまう、井伏さんだってそうだよ、あんなのは話にならんね、手がわるけりゃおりる(、、、、楽なことだよ、僕あ、どんなに手がわるくたって決しておりないね、というような気熖だった。これは、いまのからだの状態で朝日新聞の小説は無理ではないかという、さっきの帰り道にぼくが遠まわしに言ったことを勘定に入れての言葉にちがいないとぼくは思っていた。唐木などもしきりに、おりる(、、、ときにはおりる(、、、のがいいんだ、君もときどきおりろ(、、、よというようなことを言っていた。ぼくの(うれいは、旅に出たり、釣りに行って慰めるようなものじゃないよ、井伏さんの愁いなどは釣り竿をかつぎ出せば消えちまうものなんだからなアというようなことも言っていた。へんに井伏さんにこだわっているのが気になった。しかし、かれが陽気にはしゃげばはしゃぐほど、さびしげな影がつきまとうような感じだった。間もなく、かれとしてはめずらしいほど、がっくり酔って倒れてしまい、動かすことさえできない状態だった。ぼくのフトンを二階からおろして、板の間に敷き、みんなでかれを運びこんだ。その夜、一組しかないフトンを太宰にゆずって、ぼくは知り合いの家へ行って泊った。翌朝行ってみると、太宰はひどく上機嫌で、若い編集者をつかまえて、井伏鱒二選集第四巻のあとがきを口述していた。

 

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■太宰と井伏 杉並区清水町にて、「小説新潮」のグラビア撮影に臨む。1948年(昭和23年)、撮影:北野邦雄

 

「人間の一生は、旅である。私なども、女房の傍に居ても、子供と遊んで居ても、恋人と街を歩いても、それが自分の所謂(いわゆる)ついに落ち着くことを得ないのであるが、この旅もまた、旅行上手というものと、旅行下手というものと両者が存するようである。旅行下手というものは、旅行の第一日に(おい)て、既に旅行をいやになるほど満喫し、二日目は、旅費の(ほと)んど全部を失っていることに気がつき、旅の風景を享楽するどころか、まことに俗な、金銭の心配だけで、へとへとになり、旅行も地獄、這うようにして女房の(もと)に帰り、そうして女房に怒られているものである。旅行上手の者に到っては事情がまるで正反対である。ここで具体的に井伏さんの旅行のしかたを紹介しよう……」と、井伏さんがいかに旅行上手であるかを語りつづけた。ぼくはこの(よど)みない口述をききながら、改めて太宰のケンランたる才華と、したたかな精神に驚嘆した。昨夜のかれの井伏論をこのようにメタモルホーゼして、しかしそ知らぬ顔で、同じことを述べているわけである。かれは、ぼくのほうをチラッと見て、いたずら子らしく笑い、どう君、ゆうべの議論とまるで正反対だろうと言った。こいつめ(、、、、)と思いながら、とにかくこの異常な才能にぼくは舌をまいた。
 ぼくは思うのだが、このときの太宰の末期の眼には、志賀、井伏の文学と自分のそれとのちがいが、透きとおるほどはっきり映っていたのではなかろうか。「如是我聞」にしても、尊敬する老大家に自分の文学をはっきり対立させている。最近「志賀直哉論」をかいた中村光夫が、「如是我聞」のなかにはおれの言いたいことをみんな言っているよと語ったが、ぼくもそう思う。(前にかいた「『人間失格』のころ」という雑文と一部重複するが、この小文はそれにわざと書きもらしたことを書こうとしたからである。)(「展望」編集長)

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臼井吉見 編集者、評論家、小説家。日本藝術院会員。

 【了】

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【参考文献】
・山内祥史 編『太宰治に出会った日』(ゆまに書房、1998年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】如是我聞(ニ)

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今週のエッセイ

◆『如是我聞(にょぜがもん)(ニ)』
 1948年(昭和23年)、太宰治 39歳。
 1948年(昭和23年)4月6日に脱稿。
 『如是我聞(ニ)』は、1948年(昭和23年)5月1日発行の「新潮」第四十五年第五号に掲載された。

「如是我聞(ニ)

 彼らは言ふのみにて行はぬなり。また重き荷を(くく)りて人の肩にのせ、己は指にて(これ)を動かさんともせず。(かつ)てその所作(しわざ)は人に見られん為にするなり、即ちその経札(きょうふだ)を幅ひろくし、(ころも)(ふさ)を大きくし、饗宴(ふるまい)の上席、会堂の上座、市場にての敬礼、また人にラビと呼ばるることを好む。されど汝らはラビの(となえ)を受くな。また、導師の称を受くな。
 禍害(わざわい)なるかな、偽善なる学者、なんぢらは人の前に天国を閉して、自ら入らず、入らんとする人の入るをも許さぬなり。盲目(めしい)なる手引よ、汝らは(ぶよ)()し出して駱駝(らくだ)を呑むなり。禍害なるかな、偽善なる学者、外は人に正しく見ゆれども、内は偽善と不法とにて満つるなり。禍害なるかな、偽善なる学者、汝らは預言者の墓をたて、義人の碑を飾りて言ふ、「我らもし先祖の時にありしならば、預言者の血を流すことに(くみ)せざりしものを」と。かく汝らは預言者を殺しし者の子たるを自ら(あかし)す。なんぢら己が先祖の桝目を(みた)せ。蛇よ、(ルビ)(すえ)よ、なんぢら(いか)ゲヘナの刑罰を避け得んや。
 L君、わるいけれども、今月は、君にむかってものを言うようになりそうだ。君は、いま、学者なんだってね。ずいぶん勉強したんだろう。大学時代は、あまり「でき」なかったようだが、やはり、「努力」が、ものを言ったんだろうね。ところで、私は、こないだ君のエッセイみたいなものを、偶然の機会に拝見し、その勿体(もったい)ぶりに、甚だおどろくと共に、君は外国文学者(この言葉も頗る奇妙なもので、外国人のライターかとも聞えるね)のくせに、バイブルというものを、まるでいい加減に読んでいるらしいのに、本当に、ひやりとした。古来、紅毛人の文学者で、バイブルに苦しめられなかったひとは、一人でもあったろうか。バイブルを主軸として回転している数万の星ではなかったのか。
 しかし、それは私の所謂あまい感じ方で、君たちは、それに気づいていながらも、君たちの自己破産をおそれて、それに目をつぶっているのかも知れない。学者の本質。それは、私にも(かす)かにわかるところもあるような気がする。君たちの、所謂「神」は、「美貌」である。真白な手袋である。
 自分は、かつて聖書の研究の必要から、ギリシャ語を習いかけ、その異様なよろこびと、麻痺剤をもちいて得たような不自然な自負心を感じて、決して私の怠惰からではなく、その習得を抛棄(ほうき)した覚えがある。あの不健康な、と言っていいくらいの奇妙に空転したプライドの中に君たちが平気でいつも住んでいるものとしたら、それは或いは、あのイエスに、「汝らは白く塗りたる墓に似たり、外は美しく見ゆれども云々」と言われても仕方がないのではないかと思われる。
 勉強がわるくないのだ。勉強の自負がわるいのだ。
 私は、君たちの所謂「勉強」の精華の翻訳を読ませてもらうことによって、実に非常なたのしみを得た。そのことに就いては、いつも私は君たちにアリガトウの気持を抱き続けて来たつもりである。しかし、君たちのこの頃のエッセイほど、みじめな貧しいものはないとも思っている。
 君たちは、(覚えておくがよい)ただの語学の教師なのだ。家庭円満、妻子と共に、おしるこ万才を叫んで、ボオドレエルの紹介文をしたためる滅茶もさることながら、また、原文で読まなければ味がわからぬと言って自身の名訳を誇って売るという矛盾も、さることながら、どだい、君たちには「詩」が、まるでわかっていないようだ。
 イエスから逃げ、詩から逃げ、ただの語学の教師と言われるのも口惜しく、ジャアナリズムの注文に応じて、何やら「ラビ」を装っている様子だが、君たちが、世の中に多少でも信頼を得ている最後の一つのものは何か。知りつつ、それを我が身の「地位」の保全のために、それとなく利用しているのならば、みっともないぞ。
 教養? それにも自信がないだろう。どだい、どれがおいしくて、どれがまずいのか、香気も、臭気も、区別が出来やしないんだから。ひとがいいと言う外国の「文豪」或いは「天才」を、百年もたってから、ただ、いいというだけなんだから。
 優雅? それにも、自信がないだろう。いじらしいくらいに、それに憧れていながら、君たちに出来るのは、赤瓦の屋根の文化生活くらいのものだろう。
 語学には、もちろん自信無し。
 しかし、君たちは何やら「啓蒙家(けいもうか)」みたいな口調で、すまして民衆に説いている。
 洋行。
 案外、そんなところに、君たちと民衆とのだまし合いが成立しているのではないか。まさか、と言うこと(なか)れ。民衆は奇態に、その洋行というものに、おびえるくらい関心を持つ。
 田舎者の上京ということに就いて考えて見よう。二十年前に、上野の何とか博覧会を見て、広小路の牛のすき焼きを食べたと言うだけでも、田舎に帰れば、その身に相当の箔がついているものである。民衆は、これに一目(いちもく)をおくのだから、こたえられまい。(いわ)んや、東京で三年、苦学して法律をおさめた(しかし、それは、通信講義録でも、おさめることが出来るようだが)そのような経歴を持ったとあれば、村の顔役の一人に、いやでも押されるのである。田舎者の出世の早道は、上京にある。しかも、その田舎者は、いい加減なところで必ず帰郷するのである。そこが秘訣だ。その家族と喧嘩をして、追われるように田舎から出て来て、博覧会も、二重橋も、四十七士の墓も見たことがない(或いは見る気も起らぬ)そのような上京者は、私たちの味方だが、いったい日本の所謂「洋行者」の中で、日本から逃げて行く気で船に乗った者は、幾人あったろうか。
 外国へ行くのは、おっくうだが、こらえて三年おれば、大学の教授になり、母をよろこばすことが出来るのだと、周囲には祝福せられ、鹿島立ちとか言うものをなさるのが、君たち洋行者の大半ではなかろうか。それが日本の洋行者の伝統なのであるから、(ろく)な学者の出ないのも無理はないネ。
 私には、不思議でならぬのだが、所謂「洋行」した学者の所謂「洋行の思い出」とでも言ったような文章を拝見するに、いやに、みな、うれしそうなのである。うれしい筈がないと私には確信せられる。日本という国は、昔から外国の民衆の関心の外にあった。(無謀な戦争を起してからは、少し有名になったようだ。それも悪名高し、の方である)私は、かねがね、あの田舎の中学生女学生の団体で東京見物の旅行の姿などに、悲惨を感じている者であるが、もし自分が外国へ行ったら、あの姿そのままのものになるにきまっていると思っている。
 醜い顔の東洋人。けちくさい苦学生赤毛(あかげっと)。オラア、オッタマゲタ。きたない歯。日本には汽車がありますの? 送金延着への絶えざる不安。その憂鬱と屈辱と孤独と、それをどの「洋行者」が書いていたろう。
 所詮は、ただうれしいのである。上野の博覧会である。広小路の牛がおいしかったのである。どんな進歩があったろうか。
 妙なもので、君たち「洋行者」は、君たちの外国生活に於けるみじめさを、隠したがる。いや、隠しているのではなく、それに気づかないのか、もし、そんなだったら話にならぬ。L君、つき合いはお断りだよ。
 ついでだから言うけれども、君たち「洋行者」は、妙にあっさりお世辞を言うネ。酒の席などで、作家は(どんな馬鹿な作家でも)さすがにそうではないけれども、君たちは、ああ、太宰さんですか、お逢いしたいと思っていました、あなたの、××という作品にはまいりました、握手しましょう、などと言い、こっちはそうかと思っていると、その後、新聞の時評やら、または座談会などで、その同一人が、へえ? と思うくらいにミソクソに私の作品をこきおろしていることがたまたまあるようだ。これもまた、君たちが洋行している間に身につけた何かしらではなかろうかと私は思っている。慇懃(いんぎん)と復讐。ひしがれた文化猿。
 みじめな生活をして来たんだ。そうして、いまも、みじめな人間になっているのだ。隠すなよ。
 私事ではあるが、思い出すことがある。自分が、大学へ入ったその春に、兄が上京して来て、(父は死に、兄は若くして、父のかなりの遺産をつぎ、その遺産の使途の一つとして兄は、所謂世界漫遊を思い立った様子なのである。)高田馬場の私の下宿の、近くにあったおそばやで、
「おまえも一緒に行かないか、どうか。自分は一廻りしてくるつもりだが、おまえは途中でフランスあたりにとどまって、フランス文学を研究してもどうでも、それは、おまえの好きなようにするがよい。大学のフランス文科を出てから、フランスへ行くのと、フランスへ行って来てから、大学へ入るのと、どっちが勉強に都合がよかろうか。」
 私は、ほとんど言下に答えた。
「それはやはり、大学で基礎勉強してからのほうがよい。」
「そうだろうか。」
 兄は浮かぬ顔をしていた。兄は私を通訳のかわりとしても、連れて行きたかったらしいのだが、私が断ったので、また考え直した様子で、それっきり外国の話を出さなくなった。
 実は、このとき私は、まっかな嘘をついていたのである。当時、私に好きな女があったのである。そいつと別れたくないばかりに、いい加減の口実を設け、洋行を拒否したのである。この女のことでは、後にひどい苦労をした。しかし、私はいまでは、それらのことを後悔してはいない。洋行するよりは、貧しく愚かな女と苦労することのほうが、人間の事業として、困難でもあり、また、光栄なものであるとさえ思っているからだ。
 とかく、洋行者の土産話ほど、空虚な響きを感じさせるものはない。田舎者の東京土産話というものと、甚だ似ている。名所絵はがき。そこには、市民の生活のにおいが何も無い。
 論文に(たと)えると、あの婦人雑誌の「新婦人の進路」なんていう題の、世にもけがらわしく無内容な、それでいて何やら意味ありそうに乙にすましているあの論文みたいなものだということになりそうだ。
 どんなに自分が無内容でも、卑劣でも、偽善的でも、世の中にはそんな仲間ばかり、ごまんといるのだから、何も苦しんで、ぶちこわしの嫌がらせを言う必要はないだろう、出世をすればいいのだ、教授という肩書を得ればいいのだ、などとひそかにお思いになっていらっしゃるのなら、我また何をか言わんやである。
 しかし、世の学者たちは、この頃、妙に私の作品に就いて、とやかく言うようになった。あいつらは、どうせ馬鹿なんで、いつの世にでも、あんなやつらがいるのだから、気にするなよ、とひとから言われたこともあるが、しかし、私はその不潔な馬鹿ども(悪人と言ってもよい)の言うことを笑って聞き容れるほどの大腹人でもないし、また、批評をみじんも気にしないという脱俗人(そんな脱俗人は、古今東西、ひとりもいなかった事を保証する)ではなし、また、自分の作品がどんな悪評にも絶対にスポイルされないほど(つよ)いものだという自信を持つことも出来ないので、かねて胸くそ悪く思っているひとの言動に対し、いまこそ、自衛の抗議をこころみているわけなのだ。
 或る「外国文学者」が、私の「ヴィヨンの妻」という小説の所謂読後感を某文芸雑誌に発表しているのを読んだことがあるけれども、その頭の悪さに、私はあっけにとられ、これは蓄膿症ではなかろうか、と本気に疑ったほどであった。大学教授といっても何もえらいわけではないけれども、こういうのが大学で文学を教えている犯罪の悪質に慄然(りつぜん)とした。
 そいつが言うのである。(フランソワ・ヴィヨンとは、こういうお方ではないように聞いていますが)何というひねこびた虚栄であろう。しゃれにも冗談にもなってやしない。嫌味にさえなっていない。かれら大学教授たちは、こういうところで、ひそかに自慰しているのであって、これは、所謂学者連に通有のあわれな自尊心の表情のように思われる。また、その馬鹿先生の曰く、(作者は、この作品の蔭でイヒヒヒヒと笑っている)事ここに到っては、自分もペンを持つ手がふるえるくらい可笑しく馬鹿らしい思いがしてくる。何という空想力の貧弱。そのイヒヒヒヒと笑っているのは、その先生自身だろう。実にその笑い声はその先生によく似合う。
 あの作品の読者が、例えば五千人いたとしても、イヒヒヒヒなどという卑穢な言葉を感じたものはおそらく、その「高尚」な教授一人をのぞいては、まず無いだろうと私には考えられる。光栄なる者よ。汝は五千人中の一人である。少しは、恥かしく思え。
 元来、作者と評者と読者の関係は、例えば正三角形の各頂点の位置にあるものだと思われるが、(△の如き位置に、各々外を向いて坐っていたのでは話にもならないが、各々内側に向い合って腰を掛け、作者は語り、読者は聞き、評者は、或いは作者の話に相槌を打ち、或いは不審を(ただ)し、或いは読者に代って、そのストップを乞う。)この頃、馬鹿教授たちがいやにのこのこ出て来て、例えば、直線上に二点を置き、それが作者と読者だとするならば、教授は、その同一線上の、しかも二点の中間に割り込み、いきなり、イヒヒヒヒである。物語りさいちゅうの作者も、また読者も、実にとまどい困惑するばかりである。
 こんなことまでは、さすがに私も言いたくないが、私は作品を書きながら、死ぬる思いの苦しき努力の覚えはあっても、イヒヒヒヒの記憶だけは、いまだ一度も無い、いや、それは当然すぎるほど当然のことではないか。こう書きながらも、つくづくおまえの馬鹿さが嫌になり、ペンが重く顔がしかめ面になってくる。
 最初に掲げた聖書の言葉にもあったとおり、禍害(わざわい)なるかな、偽善なる学者、汝らは預言者の墓をたて、義人の碑を飾りて言う、「我らもし先祖の時にありしならば、預言者の血を流すことに(くみ)せざりしものを」と。
 百年二百年或いは三百年前の、謂わばレッテルつきの文豪の仕事ならば、文句もなく三拝九拝し、大いに宣伝これ努めていても、君のすぐ隣にいる作家の作品を、イヒヒヒヒとしか解することが出来ないとは、折角の君の文学の勉強も、疑わしいと言うより他はない。イエスもあきれたってネ。
 もう一人の外国文学者が、私の「父」という短篇を評して、(まことに面白く読めたが、ルビ(あく)る朝になったら何も残らぬ)と言ったという。このひとの求めているものは、宿酔(ふつかいよい)である。そのときに面白く読めたという、それが即ち幸福感である。その幸福感を、翌る朝まで持ちこたえなければたまらぬという貪婪(どんらん)、淫乱、剛の者、これもまた大馬鹿先生の一人であった。(念の為に言っておく。君たちは誰かからこのように言われると、ことに、私のように或る種の札つきみたいに見られている者から、こんなことを言われると、上品を装った苦笑を伴い、太宰先生のお説によれば、私は貪婪、淫乱、剛の者、大馬鹿先生の一人だそうであるが、などと言って軽くいなそうとする卑劣なしみったれ癖があるようだけれども、あれはやめていただく。こっちは、本気で言っているのだ。それこそ、も少し、真面目になれ。私を憎み、考えよ。)宿酔がなければ満足しないという状態は、それこそほんものの「不健康」である。君たちは、どうしてそんなに、恥も外聞もなく、ただ、ものをほしがるのだろう。
 文学に於て、最も大事なものは、「心づくし」というものである。「心づくし」といっても君たちにはわからないかも知れぬ。しかし、「親切」といってしまえば、身もふたも無い。心趣(こころばえ)。心意気。心遣い。そう言っても、まだぴったりしない。つまり、「心づくし」なのである。作者のその「心づくし」が読者に通じたとき、文学の永遠性とか、或いは文学のありがたさとか、うれしさとか、そういったようなものが始めて成立するのであると思う。
 料理は、おなかに一杯になればいいというものでは無いということは、先月も言ったように思うけれども、さらに、料理の本当のうれしさは、多量少量にあるのでは勿論なく、また、うまい、まずいにあるものでさえ無いのである。料理人の「心づくし」それが、うれしいのである。心のこもった料理、思い当るだろう。おいしいだろう。それだけでいいのである。宿酔を求める気持は、下等である。やめたほうがよい。時に、君のごひいきの作者らしいモームは、あれは少し宿酔させる作家で、ちょうど君の舌には手頃なのだろう。しかし、君のすぐ隣にいる太宰という作家のほうが、少くとも、あのおじいさんよりは粋なのだということくらいは、知っておいてもいいだろうネ。
 何もわからないくせに、あれこれ(もっと)もらしいことを言うので、つい私もこんなことを書きたくなる。翻訳だけしていれあいいんだ。君の翻訳では、ずいぶん私もお蔭を(こうむ)ったつもりなのだ。馬鹿なエッセイばかり書きやがって、この頃、君も、またあのイヒヒヒヒの先生も、あまり語学の勉強をしていないようじゃないか。語学の勉強を怠ったら、君たちは自滅だぜ。
 (ぶん)を知ることだよ。繰り返して言うが、君たちは、語学の教師に過ぎないのだ。所謂「思想家」にさえなれないのだ。啓蒙家? プッ! ヴォルテール、ルソオの受難を知るや。せいぜい親孝行するさ。
 身を以てボオドレエルの憂鬱を、プルウストのアニュイを浴びて、あらわれるのは少くとも君たちの周囲からではあるまい。

(まったくそうだよ。太宰、大いにやれ。あの教授たちは、どだい生意気だよ。まだ手ぬるいくらいだ。おれもかねがね、(しゃく)にさわっていたのだ。)
 背後でそんな声がする。私は、くるりと振向いてその男に答える。
「なにを言ってやがる。おまえよりは、それは、何としたって、あの先生たちは、すぐれているよ。おまえたちは、どだい『できない』じゃないか。『できない』やつは、これは論外。でも、のぞみとあらば、来月あたり、君たちに向って何か言ってあげてもかまわないが、君たちは、キタナクテね。なにせ、まったくの無学なんだから、『文学』でない部分に於いてひとつ撃つ。例えば、剣道の試合のとき、撃つところは、お面、お胴、お小手、ときまっている筈なのに、おまえたちは、試合(プレイ)も生活も一緒くたにして、道具はずれの二の腕や向う(ずね)を、力一杯にひっぱたく。それで勝ったと思っているのだから、キタナクテね。」

 

『如是我聞』執筆の頃の太宰

 太宰最後のエッセイとなる『如是我聞』は、1948年(昭和23年)3月1日発行の「新潮」第四十五年第三号から同年7月1日発行の「新潮」第四十五年第七号にかけて、4回にわたって連載されました(ただし、同年4月1日発行の「新潮」第四十五年第四号は休載)。

 今回は、1946年(昭和21年)8月26日、700名中2名の被採用者として新潮社に入社し(もう1名は野平健一)、高校時代から愛読していた太宰に斜陽の原稿依頼をするなど、太宰が心中するまでの約1年8ヵ月の間、編集者として最も頻繁に接していた野原一夫(1922~1999)の著書回想 太宰治所収「最後に会ったとき」を引用し、如是我聞執筆の頃の太宰について見ていきます。

 昭和二十三年の春、私はある事情で新潮社を退社し、角川書店に入社して『表現』という雑誌の編集部にはいった。
 角川書店は戦後発足したまだ無名にひとしい小出版社で、その企画のレパートリーにも親近感を感じなかったが、編集顧問をしておられた林達夫(はやしたつお)氏の存在が私には大きな魅力だった。
 新潮社に入社早々の頃に、『新潮』に「反語的精神」というエッセイが掲載された。その筆者の柔和な知性と見事な表現力に私は目を見張る思いをしたが、私が林達夫氏文章に触れたのはその時がはじめてであった。そのすぐあと、筑摩書房から『歴史の暮方』というエッセイ集が刊行された。私はその本を買って読み、感銘を受けたが、その著者林達夫氏が中央公論社の出版局長をしていることをやがて私は知った。
 その時期、中央公論社は、太宰さんの『冬の花火』、石川淳氏の『黄金伝説』『文学大概』『かよい小町』、坂口安吾氏の『白痴』、福田恒存氏の『作家の態度』などを次々と刊行していた。それは”戦後”という新しい時代への鋭い切込みと見え、私には新鮮な魅力だった。
 新潮社ではその頃、山本有三氏の選集を刊行していた。山本有三氏に限らず、その頃の私にはなんの関心も持てない古い時代の作家を尊重している向きがあった。老舗(しにせの出版社は守旧的な姿勢を崩しにくいのだろうか、なにも今更と苦々しい気持でいた私にとって、同じ老舗の中央公論社の企画の方は、一種の驚きでさえあった。その方向付けをした林達夫氏が中央公論社をやめて角川書店の顧問をしている。そのことが、角川書店への入社に踏み切った一つの大きな動機であった。
 編集長のような形で迎えたいという角川書店主の言葉も、私の心を動かさなかったとは言えない。季刊誌だった『表現』を月刊誌になおす、編集責任者は林達夫先生になってもらうが、林先生は週に二度ほどしかお見えにならず、アドヴァイスをして下さる程度で、実務いっさいを私にとりしきってもらいたいという話だった。雑誌編集の経験といえば浦和高校時代の校友会誌しかない私だったが、気持が動いたことはたしかだった。

 

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林達夫(1896〜1984) 思想家、評論家。西洋精神史、文明史にわたる著作が多い。


 私がその事を相談に行ったとき、太宰さんは、賛成しがたいという意味のことを言った。硬化している部分もあるだろうが、老舗には老舗の良さがあるのだ、いろいろな出版社と付き合ってきたから俺にはそれが肌でわかる、居辛いことがあっても堪えていたほうがいい、なに、時が解決してくれるさ、と言った。
 しかし私はもう引き返せないところにきていた。はっきりした約束を角川書店主にしたわけではなかったが、心が動き、走り出し、弾みがつき、もう手綱をしめることが出来にくくなっていた。
 角川書店に移りたい理由のひとつとして、私は林達夫氏のことを口にした。太宰さんはつまらなそうな顔をして聞いていたが、
林達夫(りんたっぷ)という人は、朝鮮人かと思っていた。」
 ぽつりと言った。
 私は興覚めがして、口をつぐんだ。

 

 角川書店に移ってからは、三日にあげずの三鷹訪問ということはもうできなくなった。雑誌の編集が、それも、幅の広い思想文芸誌の編集がどんなに大変なものであるかということを、私はいやになるほど知らされた。自分の無力を(なげ)きながら、私はきりきり舞いしていた。
 それでも私は、時間を作って何回か太宰さんのところに行っている。できることなら、太宰さんの原稿を、それも小説を、『表現』に貰いたかったのだが、それはむずかしかった。その時期、太宰さんは、「人間失格」に専念していた。三月いっぱいは熱海の旅館で、帰京してからは「千草」の二階で、四月の末から五月の十二日までは大宮に場所を移し、「人間失格」の執筆に打ち込んでいた。その間、ほかにやった仕事といえば、「如是我聞」と「『井伏鱒二選集』後記」の口述だけで、五月十五日からは絶筆「グッド・バイ」の稿を起している。割り込む余地はなかった。
「原稿を書くことは、いまはとても無理だが、いい小説をひとつあずかっているんだ。お前の雑誌に載せないかね。」
 その頃のある日、太宰さんはそう言って私に原稿を手渡した。宇留野元一という人の五十枚ほどの小説だった。私より少し年上くらいの若い人で、原稿を持って何回か訪ねてきたことがあるという。
「もう最近は、文学青年の来訪は断ることにしているんだ。自分のことで手一杯、ひとの面倒まではとても見られない。だけど、この宇留野君が家に現われたとき、いいものを感じてね。はじらいでいっぱい、といった感じなんだな。どんなものを書くのかと読ませてもらったら、悪くないんだ。この小説が三作めくらいになるんだけど、自分の鉱脈を掘り当てたという感じがある。推奨できるね。俺がいいと言ったものは、これはもう、いいにきまっているんだ。」
 それから、言葉をつないで、
「載せてくれたら、まえがきのようなものを、書いてもいい。」
 このひと言が、嬉しかった。
 私は原稿をあずかって帰り、読んだ。読んで、正直のところ、私はあまり感心できなかった。これくらいのものなら、俺にだって、という(ねた)みのまじった自負心もあった。そかし私はその小説を貰いたいと思った。太宰さんからすすめられた作品を断ることは私にはできにくかったし、それに、太宰さんの文章を掲載することができるのだ。
 その希望を私は編集責任者の林さんに伝えた。君がいいというなら、いいでしょう。太宰君の推薦もあることだし、と林さんは原稿も読まずに即決してくれた。
 その小説「樹海」のまえがきを口述筆記したのはいつごろだったろうか。たしかにその日、朝日新聞学芸部長の末常氏が連載小説「グッド・バイ」の件で来訪し、いっしょに飲んだ記憶がある。「グッド・バイ」の執筆にかかりはじめた頃で、とすると五月の中旬ということになろうか。口述筆記したまえがきに、「やわらかな孤独」という標題を太宰さんはつけてくれた。

 

 私が最後に太宰さんに会ったのは、「樹海」の口述筆記から何日かの後で、もう六月にはいってからのことだった。
 その日、私が三鷹に着いたのは、夜の八時すぎだった。
 格別の用事があったわけではない。なんとなく、急に太宰さんに会いたくなって、ひとりでに私の足は三鷹に向いていた。
 見上げると、富栄さんの部屋には電気がついていた。気のせいか、ガラス戸にうつる電気の光が、へんに薄暗く見えた。一瞬迷ったのち、私は「千草」の表戸をあけた。

 

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■1948年(昭和23年)撮影 写真左「瀧本歯科」と書かれた電柱奥の長屋に「千草」があった。道路を挟んだ向かい、「永塚葬儀社」の看板がある建物の2階が山崎富栄の下宿先。富栄の下宿先から「千草」は、歩幅にして10歩ほどの距離しかない。道の突き当りが、玉川上水

 

 私の姿を認めると、おばさんは下駄をつっかけて土間におりてきた。
「先生は、こちら?」
「いえ、先生はね、」
 とおばさんは身をすり寄せ、耳をすり寄せ、耳もとでささやくように、
「先生はね。前にいらっしゃいますよ。だけどね、」
 と、さらに声をひそめて、
「特別な人のほかは、もう誰とも会っていないようだよ。いえね、先生が会いたがらないんじゃなくて、山崎さんが会わせないんだよ。こないだもね、どこかの出版社の人が山崎さんに玄関払いをくわされて、なんでも(すご)い見幕で追い返されたそうで、それからうちにみえてね、もうさんざん山崎さんの悪口を言うの。ヤケ酒だ、ヤケ酒って、あおるようにお酒をのんで、ずいぶん酔ったんだろうね、ふらふらしながらうちを出ていって、それから、山崎さんの部屋の窓にむかって、山崎のバカヤロウ、大きな声でどなるんだよ。私もはらはらしちゃったけどね。」
 なにか、こわいものを見ているような顔付きでおばさんはそう言った。
 私が会釈して富栄さんの部屋に行こうとすると、
「ちょっと待っててよ。きいてきてあげますから。ま、あなたは特別だから、大丈夫だと思うけど。」
 小走りに走っていったが、すぐ戻ってきて、
「お会いになるそうです。だけど、なんだか、へんな具合だよ。喧嘩(けんか)でもしたのかしら。」
千草」のおばさんに仲立ちしてもらって太宰さんに会うのは、もちろんこれが初めてであった。私は妙な気がした。

 

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■「千草のおばさん」こと増田静江(右)と、夫・鶴巻幸之助。

 

 太宰さんは、お酒を飲んでいなかったような気がする。寝ころんで、文庫本を読んでいた。私を見ると、上半身を起して、目だけで笑った。私は先日の口述筆記のお礼を言った。太宰さんは小さくうなずいて、
「お酒を。」
 と富栄さんに言った。
 富栄さんは部屋の隅でからだを固くしていた。眼が()れぼったいようだったが、泣いたあとだったのだろうか。
 コップをかち合わせると太宰さんは、
「いま、ミュッセの詩篇を読んでいたんだがね、いいもんだ。ミュッセとかメリメ、メリメの短篇もいいんだ。『エトルリアの壺』なんて、絶品だね。フランス文学というと、すぐスタンダールバルザック、フローベルとくるけど、ミュッセ、メリメ、こちらのほうが上質なんだ。あ、それから、ドーデー、これがまたいいものだ。」
 そんなことを、ぽつりぽつりと、大儀そうな口調で言った。
 富栄さんは黙ってそこに坐っていた。太宰さんは、富栄さんの顔を見ないようにしていた。
 この時間、いつもなら「すみれ」か「千草」で訪客にかこまれての酒盛り、気勢をあげている頃で、いや、太宰さんとふたり差し向いで、この部屋で酒をのんだことも何度かあるが、こんなに湿った、へんに静かな酒は、初めてだった。
 私は、一時間もいなかったと思う。帰ります、と言うと、太宰さんは顔をそむけるようにして、うなずいただけだった。
 私が太宰さんを見た、それが最後だった。

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三鷹の若松屋で。左から太宰、若松屋の女将、野原一夫、野平健一。1947年(昭和22年)、伊馬春部の撮影。野原と野平は『斜陽』などを担当した新潮社の担当者。野原は、新潮社を退社して角川書店に入社した後、月曜書房を経て、1953年(昭和28年)9月に筑摩書房に入社。「太宰治全集」を第六次まで担当した。

 【了】

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【参考文献】
・野原一夫『回想 太宰治』(新潮社、1980年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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太宰治39年の生涯を辿る。
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