記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#270「グッド・バイ」行進(五)

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【冒頭】

セットの終ったころ、田島は、そっとまた美容室にはいって来て、一すんくらいの厚さの紙幣(しへい)のたばを、美容師の白い上衣(うわぎ)のポケットに(すべ)りこませ、ほとんど祈るような気持で、
「グッド・バイ。」
とささやき、その声が自分でも意外に思ったくらい、いたわるような、あやまるような、優しい、哀調(あいちょう)に似たものを()びていた。

【結句】

「そんなら、よしたら、どう? 私だって何も、すき好んで、あなたについて歩いているんじゃないわよ。」
脅迫(きょうはく)にちかい。
田島は、ため息をつくばかり。
 

「グッド・バイ 行進(こうしん)(五)について

新潮文庫『グッド・バイ』所収。
・昭和23年5月27日に脱稿。
・昭和23年7月1日、『朝日評論』七月号に掲載。

グッド・バイ (新潮文庫)

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全文掲載(「青空文庫」より)  

 

行進 (五)


 セットの終ったころ、田島は、そっとまた美容室にはいって来て、一すんくらいの厚さの紙幣のたばを、美容師の白い上衣うわぎのポケットに滑りこませ、ほとんど祈るような気持で、
「グッド・バイ。」
 とささやき、その声が自分でも意外に思ったくらい、いたわるような、あやまるような、優しい、哀調に似たものを帯びていた。
 キヌ子は無言で立上る。青木さんも無言で、キヌ子のスカートなど直してやる。田島は、一足さきに外に飛び出す。
 ああ、別離は、くるしい。
 キヌ子は無表情で、あとからやって来て、
「そんなに、うまくも無いじゃないの。」
「何が?」
「パーマ。」
 バカ野郎! とキヌ子を怒鳴ってやりたくなったが、しかし、デパートの中なので、こらえた。青木という女は、他人の悪口など決して言わなかった。お金もほしがらなかったし、よく洗濯もしてくれた。
「これで、もう、おしまい?」
「そう。」
 田島は、ただもう、やたらにわびしい。
「あんな事で、もう、わかれてしまうなんて、あの子も、意久地いくじが無いね。ちょっと、べっぴんさんじゃないか。あのくらいの器量なら、……」
「やめろ! あの子だなんて、失敬な呼び方は、よしてくれ。おとなしいひとなんだよ、あのひとは。君なんかとは、違うんだ。とにかく、黙っていてくれ。君のそのからすの声みたいなのを聞いていると、気が狂いそうになる。」
「おやおや、おそれいりまめ。」
 わあ! 何というゲスな駄じゃれ。全く、田島は気が狂いそう。
 田島は妙な虚栄心から、女と一緒に歩く時には、彼の財布さいふを前もって女に手渡し、もっぱら女に支払わせて、彼自身はまるで勘定などに無関心のような、おうようの態度を装うのである。しかし、いままで、どの女も、彼に無断で勝手な買い物などはしなかった。
 けれども、おそれいりまめ女史は、平気でそれをやった。デパートには、いくらでも高価なものがある。堂々と、ためらわず、いわゆる高級品を選び出し、しかも、それは不思議なくらい優雅で、趣味のよい品物ばかりである。
「いい加減に、やめてくれねえかなあ。」
「ケチねえ。」
「これから、また何か、食うんだろう?」
「そうね、きょうは、我慢してあげるわ。」
「財布をかえしてくれ。これからは、五千円以上、使ってはならん。」
 いまは、虚栄もクソもあったものでない。
「そんなには、使わないわ。」
「いや、使った。あとでぼくが残金を調べてみれば、わかる。一万円以上は、たしかに使った。こないだの料理だって安くなかったんだぜ。」
「そんなら、よしたら、どう? 私だって何も、すき好んで、あなたについて歩いているんじゃないわよ。」
 脅迫にちかい。
 田島は、ため息をつくばかり。

 

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【日刊 太宰治全小説】#269「グッド・バイ」行進(四)

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【冒頭】

キヌ子のアパートは、世田谷方面にあって、朝はれいの、かつぎの商売に出るので、午後二時以後なら、たいていひまだという。

【結句】

青木さんは、キヌ子に白い肩掛けを当て、キヌ子の髪をときはじめ、その眼には、涙が、いまにもあふれ出るほどいっぱい。
キヌ子は平然。
かえって、田島は席をはずした。
 

「グッド・バイ 行進(こうしん)(四)について

新潮文庫『グッド・バイ』所収。
・昭和23年5月27日に脱稿。
・昭和23年7月1日、『朝日評論』七月号に掲載。

グッド・バイ (新潮文庫)

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全文掲載(「青空文庫」より)  

 

行進 (四)


 キヌ子のアパートは、世田谷方面にあって、朝はれいの、かつぎの商売に出るので、午後二時以後なら、たいていひまだという。田島は、そこへ、一週間にいちどくらい、みなの都合のいいような日に、電話をかけて連絡をして、そうしてどこかで落ち合せ、二人そろって別離の相手の女のところへ向って行進することをキヌ子と約す。
 そうして、数日後、二人の行進は、日本橋のあるデパート内の美容室に向って開始せられる事になる。
 おしゃれな田島は、一昨年の冬、ふらりとこの美容室に立ち寄って、パーマネントをしてもらった事がある。そこの「先生」は、青木さんといって三十歳前後の、いわゆる戦争未亡人である。ひっかけるなどというのではなく、むしろ女のほうから田島について来たような形であった。青木さんは、そのデパートの築地つきじの寮から日本橋のお店にかよっているのであるが、収入は、女ひとりの生活にやっとというところ。そこで、田島はその生活費の補助をするという事になり、いまでは、築地の寮でも、田島と青木さんとの仲は公認せられている。
 けれども、田島は、青木さんの働いている日本橋のお店に顔を出す事はめったに無い。田島の如きあか抜けた好男子の出没は、やはり彼女の営業を妨げるに違いないと、田島自身が考えているのである。
 それが、いきなり、すごい美人を連れて、彼女のお店にあらわれる。
「こんちは。」というあいさつさえも、よそよそしく、「きょうは女房を連れて来ました。疎開先から、こんど呼び寄せたのです。」
 それだけで十分。青木さんも、目もと涼しく、はだが白くやわらかで、愚かしいところの無いかなりの美人ではあったが、キヌ子と並べると、まるで銀の靴と兵隊靴くらいの差があるように思われた。
 二人の美人は、無言で挨拶あいさつかわした。青木さんは、既に卑屈な泣きべそみたいな顔になっている。もはや、勝敗の数は明かであった。
 前にも言ったように、田島は女に対して律儀りちぎな一面も持っていて、いまだ女に、自分が独身だなどとウソをついた事が無い。田舎に妻子を疎開させてあるという事は、はじめから皆に打明けてある。それが、いよいよ夫のもとに帰って来た。しかも、その奥さんたるや、若くて、高貴で、教養のゆたからしい絶世の美人。
 さすがの青木さんも、泣きべそ以外、てが無かった。
「女房の髪をね、一つ、いじってやって下さい。」と田島は調子に乗り、完全にとどめを刺そうとする。「銀座にも、どこにも、あなたほどの腕前のひとは無いってうわさですからね。」
 それは、しかし、あながちお世辞でも無かった。事実、すばらしく腕のいい美容師であった。
 キヌ子は鏡に向って腰をおろす。
 青木さんは、キヌ子に白い肩掛けを当て、キヌ子の髪をときはじめ、その眼には、涙が、いまにもあふれ出るほど一ぱい。
 キヌ子は平然。
 かえって、田島は席をはずした。

 

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【日刊 太宰治全小説】#268「グッド・バイ」行進(三)

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【冒頭】

田島は敵の意外の鋭鋒(えいほう)にたじろぎながらも、
「そうさ、全くなってやしないから、君にこうして頼むんだ。往生(おうじょう)しているんだよ。」

【結句】

トンカツ。鶏のコロッケ。マグロの刺身。イカの刺身。支那(シナ)そば。ウナギ。よせなべ。牛の串焼(くしやき)。にぎりずしの盛合せ。海老(えび)サラダ。イチゴミルク。
その上、キントンを所望(しょもう)とは。まさか女は誰でも、こんなに食うまい。いや、それとも?
 

「グッド・バイ 行進(こうしん)(三)について

新潮文庫『グッド・バイ』所収。
・昭和23年5月27日に脱稿。
・昭和23年7月1日、『朝日評論』七月号に掲載。

グッド・バイ (新潮文庫)

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全文掲載(「青空文庫」より)  

 

行進 (三)


 田島は敵の意外の鋭鋒えいほうにたじろぎながらも、
「そうさ、全くなってやしないから、君にこうして頼むんだ。往生しているんだよ。」
「何もそんな、めんどうな事をしなくても、いやになったら、ふっとそれっきりあわなけれあいいじゃないの。」
「そんな乱暴な事は出来ない。相手の人たちだって、これから、結婚するかも知れないし、また、新しい愛人をつくるかも知れない。相手のひとたちの気持をちゃんときめさせるようにするのが、男の責任さ。」
「ぷ! とんだ責任だ。別れ話だの何だのと言って、またイチャつきたいのでしょう? ほんとに助平すけべいそうなツラをしている。」
「おいおい、あまり失敬な事を言ったら怒るぜ。失敬にも程度があるよ。食ってばかりいるじゃないか。」
「キントンが出来ないかしら。」
「まだ、何か食う気かい? 胃拡張とちがうか。病気だぜ、君は。いちど医者に見てもらったらどうだい。さっきから、ずいぶん食ったぜ。もういい加減によせ。」
「ケチねえ、あなたは。女は、たいてい、これくらい食うの普通だわよ。もうたくさん、なんて断っているお嬢さんや何か、あれは、ただ、色気があるから体裁をとりつくろっているだけなのよ。私なら、いくらでも、食べられるわよ。」
「いや、もういいだろう。ここの店は、あまり安くないんだよ。君は、いつも、こんなにたくさん食べるのかね。」
「じょうだんじゃない。ひとのごちそうになる時だけよ。」
「それじゃね、これから、いくらでも君に食べさせるから、ぼくの頼み事も聞いてくれ。」
「でも、私の仕事を休まなければならないんだから、損よ。」
「それは別に支払う。君のれいの商売で、もうけるぶんくらいは、その都度つどきちんと支払う。」
「ただ、あなたについて歩いていたら、いいの?」
「まあ、そうだ。ただし、条件が二つある。よその女のひとの前では一言も、ものを言ってくれるな。たのむぜ。笑ったり、うなずいたり、首を振ったり、まあ、せいぜいそれくらいのところにしていただく。もう一つは、ひとの前で、ものを食べない事。ぼくと二人きりになったら、そりゃ、いくら食べてもかまわないけど、ひとの前では、まずお茶一ぱいくらいのところにしてもらいたい。」
「その他、お金もくれるんでしょう? あなたは、ケチで、ごまかすから。」
「心配するな。ぼくだって、いま一生懸命なんだ。これが失敗したら、身の破滅さ。」
「フクスイの陣って、とこね。」
「フクスイ? バカ野郎、ハイスイ(背水)の陣だよ。」
「あら、そう?」
 けろりとしている。田島は、いよいよ、にがにがしくなるばかり。しかし、美しい。りんとして、この世のものとも思えぬ気品がある。
 トンカツ。鶏のコロッケ。マグロの刺身さしみイカの刺身。支那しなそば。ウナギ。よせなべ。牛の串焼くしやき。にぎりずしの盛合せ。海老えびサラダ。イチゴミルク。
 その上、キントンを所望とは。まさか女は誰でも、こんなに食うまい。いや、それとも?

 

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【日刊 太宰治全小説】#267「グッド・バイ」行進(二)

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【冒頭】

馬子(まご)にも衣裳(いしょう)というが、ことに女は、その(よそお)い一つで、何が何やらわけのわからぬくらいに(かわ)る。元来(がんらい)、化け物なのかも知れない。

【結句】

「引受けてくれるね?」
「バカだわ、あなたは。まるでなってやしないじゃないの。」
 

「グッド・バイ 行進(こうしん)(二)について

新潮文庫『グッド・バイ』所収。
・昭和23年5月27日に脱稿。
・昭和23年7月1日、『朝日評論』七月号に掲載。

グッド・バイ (新潮文庫)

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全文掲載(「青空文庫」より)  

 

行進 (二)


 馬子まごにも衣裳いしょうというが、ことに女は、その装い一つで、何が何やらわけのわからぬくらいに変る。元来、化け物なのかも知れない。しかし、この女(永井キヌ子という)のように、こんなに見事に変身できる女も珍らしい。
「さては、相当ため込んだね。いやに、りゅうとしてるじゃないか。」
「あら、いやだ。」
 どうも、声が悪い。高貴性も何も、一ぺんに吹き飛ぶ。
「君に、たのみたい事があるのだがね。」
「あなたは、ケチで値切ってばかりいるから、……」
「いや、商売の話じゃない。ぼくはもう、そろそろ足を洗うつもりでいるんだ。君は、まだ相変らず、かついでいるのか。」
「あたりまえよ。かつがなきゃおまんまが食べられませんからね。」
 言うことが、いちいちゲスである。
「でも、そんな身なりでも無いじゃないか。」
「そりゃ、女性ですもの。たまには、着飾って映画も見たいわ。」
「きょうは、映画か?」
「そう。もう見て来たの。あれ、何ていったかしら、アシクリゲ、……」
膝栗毛ひざくりげだろう。ひとりでかい?」
「あら、いやだ。男なんて、おかしくって。」
「そこを見込んで、頼みがあるんだ。一時間、いや、三十分でいい、顔を貸してくれ。」
「いい話?」
「君に損はかけない。」
 二人ならんで歩いていると、すれ違うひとの十人のうち、八人は、振りかえって、見る。田島を見るのでは無く、キヌ子を見るのだ。さすが好男子の田島も、それこそすごいほどのキヌ子の気品に押されて、ゴミっぽく、貧弱に見える。
 田島はなじみの闇の料理屋へキヌ子を案内する。
「ここ、何か、自慢の料理でもあるの?」
「そうだな、トンカツが自慢らしいよ。」
「いただくわ。私、おなかがいてるの。それから、何が出来るの?」
「たいてい出来るだろうけど、いったい、どんなものを食べたいんだい。」
「ここの自慢のもの。トンカツの他に何か無いの?」
「ここのトンカツは、大きいよ。」
「ケチねえ。あなたは、だめ。私奥へ行って聞いて来るわ。」
 怪力、大食い、これが、しかし、全くのすごい美人なのだ。取り逃がしてはならぬ。
 田島はウイスキイを飲み、キヌ子のいくらでもいくらでも澄まして食べるのを、すこぶるいまいましい気持でながめながら、彼のいわゆる頼み事について語った。キヌ子は、ただ食べながら、聞いているのか、いないのか、ほとんど彼の物語りには興味を覚えぬ様子であった。
「引受けてくれるね?」
「バカだわ、あなたは。まるでなってやしないじゃないの。」

 

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【日刊 太宰治全小説】#266「グッド・バイ」行進(一)

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【冒頭】

田島は、やってみる気になった。しかし、ここにも難関がある。

【結句】

声の悪いのは、傷だが、それは沈黙を固く守らせておればいい。
使える。
 

「グッド・バイ 行進(こうしん)(一)について

新潮文庫『グッド・バイ』所収。
・昭和23年5月27日に脱稿。
・昭和23年7月1日、『朝日評論』七月号に掲載。

グッド・バイ (新潮文庫)

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全文掲載(「青空文庫」より)  

行進 (一)


 田島は、やってみる気になった。しかし、ここにも難関がある。
 すごい美人。醜くてすごい女なら、電車の停留場の一区間を歩く度毎たびごとに、三十人くらいは発見できるが、すごいほど美しい、という女は、伝説以外に存在しているものかどうか、疑わしい。
 もともと田島は器量自慢、おしゃれで虚栄心が強いので、不美人と一緒に歩くと、にわかに腹痛を覚えると称してこれを避け、かれの現在のいわゆる愛人たちも、それぞれかなりの美人ばかりではあったが、しかし、すごいほどの美人、というほどのものは無いようであった。
 あの雨の日に、初老の不良文士の口から出まかせの「秘訣ひけつ」をさずけられ、何のばからしいと内心一応は反撥はんぱつしてみたものの、しかし、自分にも、ちっとも名案らしいものは浮ばない。
 まず、試みよ。ひょっとしたらどこかの人生の片すみに、そんなすごい美人がころがっているかも知れない。眼鏡の奥のかれの眼は、にわかにキョロキョロいやらしく動きはじめる。
 ダンス・ホール。喫茶店。待合。いない、いない。醜くてすごいものばかり。オフィス、デパート、工場、映画館、はだかレヴュウ。いるはずが無い。女子大の校庭のあさましいかきのぞきをしたり、ミス何とかの美人競争の会場にかけつけたり、映画のニューフェースとやらの試験場に見学と称してまぎれ込んだり、やたらと歩き廻ってみたが、いない。
 獲物は帰り道にあらわれる。
 かれはもう、絶望しかけて、夕暮の新宿駅裏の闇市をすこぶる憂鬱ゆううつな顔をして歩いていた。彼のいわゆる愛人たちのところを訪問してみる気も起らぬ。思い出すさえ、ぞっとする。別れなければならぬ。
「田島さん!」
 出し抜けに背後から呼ばれて、飛び上らんばかりに、ぎょっとした。
「ええっと、どなただったかな?」
「あら、いやだ。」
 声が悪い。鴉声からすごえというやつだ。
「へえ?」
 と見直した。まさに、お見それ申したわけであった。
 彼は、その女を知っていた。闇屋、いや、かつぎ屋である。彼はこの女と、ほんの二、三度、闇の物資の取引きをした事があるだけだが、しかし、この女の鴉声と、それから、おどろくべき怪力にって、この女を記憶している。やせた女ではあるが、十貫は楽に背負う。さかなくさくて、ドロドロのものを着て、モンペにゴム長、男だか女だか、わけがわからず、ほとんど乞食こじきの感じで、おしゃれの彼は、その女と取引きしたあとで、いそいで手を洗ったくらいであった。
 とんでもないシンデレラ姫。洋装の好みも高雅。からだが、ほっそりして、手足が可憐かれんに小さく、二十三、四、いや、五、六、顔はうれいを含んで、なしの花のごとかすかに青く、まさしく高貴、すごい美人、これがあの十貫を楽に背負うかつぎ屋とは。
 声の悪いのは、傷だが、それは沈黙を固く守らせておればいい。
 使える。

 

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【日刊 太宰治全小説】#265「グッド・バイ」変心(二)

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【冒頭】

田島は、泣きべその顔になる。思えば、思うほど、自分ひとりの力では、到底、処理の仕様が無い。金ですむ事なら、わけないけれども、女たちが、それだけで引下るようにも思えない。

【結句】

おぼれる者のワラ。田島は少し気が動いた。
 

「グッド・バイ 変心(へんしん)(二)」について

新潮文庫『グッド・バイ』所収。
・昭和23年5月18日に脱稿。
・昭和23年6月21日、朝日新聞大阪本社発行の『朝日新聞』に掲載。

グッド・バイ (新潮文庫)

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全文掲載(「青空文庫」より)  

 

変心 (二)


 田島は、泣きべその顔になる。思えば、思うほど、自分ひとりの力では、到底、処理の仕様が無い。金ですむ事なら、わけないけれども、女たちが、それだけで引下るようにも思えない。
「いま考えると、まるで僕は狂っていたみたいなんですよ。とんでもなく、手をひろげすぎて、……」
 この初老の不良文士にすべて打ち明け、相談してみようかしらと、ふと思う。
「案外、殊勝しゅしょうな事を言いやがる。もっとも、多情な奴に限って奇妙にいやらしいくらい道徳におびえて、そこがまた、女に好かれる所以ゆえんでもあるのだがね。男振りがよくて、金があって、若くて、おまけに道徳的で優しいと来たら、そりゃ、もてるよ。当り前の話だ。お前のほうでやめるつもりでも、先方が承知しないぜ、これは。」
「そこなんです。」
 ハンケチで顔をく。
「泣いてるんじゃねえだろうな。」
「いいえ、雨で眼鏡の玉がくもって、……」
「いや、その声は泣いてる声だ。とんだ色男さ。」
 闇商売の手伝いをして、道徳的も無いものだが、その文士の指摘したように、田島という男は、多情のくせに、また女にへんに律儀りちぎな一面も持っていて、女たちは、それゆえ、少しも心配せずに田島に深くたよっているらしい様子。
「何か、いい工夫くふうが無いものでしょうか。」
「無いね。お前が五、六年、外国にでも行って来たらいいだろうが、しかし、いまは簡単に洋行なんか出来ない。いっそ、その女たちを全部、一室に呼び集め、ほたるの光でも歌わせて、いや、仰げば尊し、のほうがいいかな、お前が一人々々に卒業証書を授与してね、それからお前は、発狂の真似まねをして、まっぱだかで表に飛び出し、逃げる。これなら、たしかだ。女たちも、さすがにあきれて、あきらめるだろうさ。」
 まるで相談にも何もならぬ。
「失礼します。僕は、あの、ここから電車で、……」
「まあ、いいじゃないか。つぎの停留場まで歩こう。何せ、これは、お前にとって重大問題だろうからな。二人で、対策を研究してみようじゃないか。」
 文士は、その日、退屈していたものと見えて、なかなか田島を放さぬ。
「いいえ、もう、僕ひとりで、何とか、……」
「いや、いや、お前ひとりでは解決できない。まさか、お前、死ぬ気じゃないだろうな。実に、心配になって来た。女にれられて、死ぬというのは、これは悲劇じゃない、喜劇だ。いや、ファース(茶番)というものだ。滑稽こっけいきわみだね。誰も同情しやしない。死ぬのはやめたほうがよい。うむ、名案。すごい美人を、どこからか見つけて来てね、そのひとに事情を話し、お前の女房という形になってもらって、それを連れて、お前のその女たち一人々々を歴訪する。効果てきめん。女たちは、皆だまって引下る。どうだ、やってみないか。」
 おぼれる者のワラ。田島は少し気が動いた。

 

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【日刊 太宰治全小説】#264「グッド・バイ」変心(一)

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【冒頭】

文壇(ぶんだん)の、()る老大家が()くなって、その告別式の終り(ごろ)から、雨が降りはじめた。早春の雨である。

【結句】

大男の文士は口をゆがめて苦笑し、「それは結構だが、いったい、お前には、女が幾人あるんだい?」
 

「グッド・バイ 変心(へんしん)(一)」について

新潮文庫『グッド・バイ』所収。
・昭和23年5月18日に脱稿。
・昭和23年6月21日、朝日新聞大阪本社発行の『朝日新聞』、朝日新聞東京本社発行の『朝日新聞』に掲載。

グッド・バイ (新潮文庫)

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全文掲載(「青空文庫」より)  

変心 (一)


 文壇の、る老大家がくなって、その告別式の終り頃から、雨が降りはじめた。早春の雨である。
 その帰り、二人の男が相合傘あいあいがさで歩いている。いずれも、その逝去せいきょした老大家には、お義理一ぺん、話題は、女にいての、きわめて不きんしんな事。紋服の初老の大男は、文士。それよりずっと若いロイド眼鏡めがねしまズボンの好男子は、編集者。
「あいつも、」と文士は言う。「女が好きだったらしいな。お前も、そろそろ年貢ねんぐのおさめ時じゃねえのか。やつれたぜ。」
「全部、やめるつもりでいるんです。」
 その編集者は、顔を赤くして答える。
 この文士、ひどく露骨で、下品な口をきくので、その好男子の編集者はかねがね敬遠していたのだが、きょうは自身に傘の用意が無かったので、仕方なく、文士のじゃ目傘めがさにいれてもらい、かくは油をしぼられる結果となった。
 全部、やめるつもりでいるんです。しかし、それは、まんざらうそで無かった。
 何かしら、変って来ていたのである。終戦以来、三年って、どこやら、変った。
 三十四歳、雑誌「オベリスク」編集長、田島周二、言葉に少し関西なまりがあるようだが、自身の出生に就いては、ほとんど語らぬ。もともと、抜け目の無い男で、「オベリスク」の編集は世間へのお体裁ていさい、実は闇商売やみしょうばいのお手伝いして、いつも、しこたま、もうけている。けれども、悪銭身につかぬ例えのとおり、酒はそれこそ、浴びるほど飲み、愛人を十人ちかく養っているといううわさ
 かれは、しかし、独身では無い。独身どころか、いまの細君は後妻である。先妻は、白痴の女児ひとりを残して、肺炎で死に、それから彼は、東京の家を売り、埼玉県の友人の家に疎開そかいし、疎開中に、いまの細君をものにして結婚した。細君のほうは、もちろん初婚で、その実家は、かなり内福の農家である。
 終戦になり、細君と女児を、細君のその実家にあずけ、かれは単身、東京に乗り込み、郊外のアパートの一部屋を借り、そこはもうただ、寝るだけのところ、抜け目なく四方八方を飛び歩いて、しこたま、もうけた。
 けれども、それから三年経ち、何だか気持が変って来た。世の中が、何かしら微妙に変って来たせいか、または、彼のからだが、日頃の不節制のために最近めっきりせ細って来たせいか、いや、いや、単に「とし」のせいか、色即是空しきそくぜくう、酒もつまらぬ、小さい家を一軒買い、田舎いなかから女房子供を呼び寄せて、……という里心に似たものが、ふいと胸をかすめて通る事が多くなった。
 もう、この辺で、闇商売からも足を洗い、雑誌の編集に専念しよう。それに就いて、……。
 それに就いて、さし当っての難関。まず、女たちと上手じょうずに別れなければならぬ。思いがそこに到ると、さすが、抜け目の無い彼も、途方にくれて、溜息ためいきが出るのだ。
「全部、やめるつもり、……」大男の文士は口をゆがめて苦笑し、「それは結構だが、いったい、お前には、女が幾人あるんだい?」

 

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