記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】3月21日

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3月21日の太宰治

  1935年(昭和10年)3月21日。
 太宰治 25歳。

 三月二十日頃、小田嶽夫が天沼の住居を訪れた時、「太宰治は首にまっ白い包帯をしていた」。

縊死(いし)未遂事件の顛末

 長兄・津島文治に東京帝大を卒業できなかったら仕送りを止めると言われたため、単位ゼロにもかかわらず、東奔西走するも、卒業に失敗し、中退。

 「それなら、代りに!」と、就職活動。友人の中村地平を頼りに、都新聞社の入社試験を受けるも、また失敗。

 八方塞がりとなってしまった太宰は、鎌倉へ向かい、鎌倉八幡宮の裏山で縊死(いし)を図りますが、紐が切れ、未遂に終わります。
 鎌倉での縊死未遂については、鎌倉へ向かい、縊死が未遂に終わるまでを3月16日の記事で、突然の太宰失踪を心配して集まる友人・知人の元に太宰が戻って来るまでを3月18日の記事で紹介しました。

 今日は、太宰3度目の自殺未遂について紹介する三部作の完結編ということで、縊死未遂事件の顛末(てんまつ)について紹介します。


 太宰が、突然の失踪を心配して集まる友人・知人の元に戻った3月18日の翌日。3月19日付の「東京日日新聞」に、師匠・井伏鱒二「どうか頼む! 太宰君、帰って来てくれ。今日も私は三浦半島へ君を捜しに行って帰って来たところだ。」という訴えの記された、「芸術と人生」と題する文章が掲載されました。
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 杉並署へ捜索願を出し、自ら三浦半島へ太宰を捜しに行った井伏の、切々たる気持ちが伝わってきます。

 この時、何手かに分かれて太宰捜索にあたったようなのですが、この時の様子を、檀一雄『小説 太宰治に書いているので、引用してみます。

 ところで、どうして太宰の出奔を知ったのか、私には記憶がない。多分、初代さんが、私のところへ駆けつけて来たのだったろうと想像するだけである。「晩年」は状袋のまま、もう私が預っていた時だったろう。急いで飛島氏の家に駆けつけた。井伏さん、飛島氏、それに伊馬鵜平、地平達みんな集っているようだった。
 「何処へいったろう? 死に場所は」
 と、まず誰もの疑問はそこへ集った。
 「太宰は自分の行き馴れたところ以外には、決してゆかない男です。さあ、熱海か三島か江ノ島だな」
 と、私は思うままにそう云った。無用の新しい気苦労に耐え切れぬのだろうと、想像するのだが、太宰が自分一人で新しい天地を開拓するという事は全くない。臆病だからである。
 「僕は狂言だと思うがなあー」
 と、中村地平は云っていた。私はそうは思わなかった。(中略)今、太宰の自殺をはっきりとたしかめてから云うわけではないが、太宰は自分の文学が自殺を待たねば完成をみないという強烈な妄想を早くから持っていた。その妄想に関してだけ、驚くほど誠実である。これはもちろん功名心にも随分関与したものだった。人の批評に耐えられない。また、自分の名声にも安堵がゆかぬ。
 この時も、確実な手段にさえ思い到れば、やっぱり死ぬだろう、と私はそう思った。とすると、行く先は熱海か、三島か、江ノ島だった。
 「じゃ、檀君。心当りを廻ってみてくれない?」と、井伏さんと、飛島氏から頼まれた。旅費も預かる。私は急いで家に帰って、今度は留守の間古谷綱武の家に妹を預けにいった。
 可笑しい、平常、太宰とよく家をあけてその都度妹をほったらかした癖に、太宰の失踪を知って、きっと気弱くなっていたのだろう。
 熱海に降りた。夜だった。私は早速警察に駆け込んで一切の宿帳をくってみた。どんな匿名を使っていても、その語感から私は即座に見分け得る自信を持っていた。年齢と名前の調子をさえ見れば。しかし、宿帳の控にはそれらしい者は見当らなかった。女の心当りはなかったが男女同宿の部も注意深く読んでみた。制服制帽で出掛けているから、職業を隠す事は難しい。それにしても、最後を制服制帽で出掛けたのは、潔癖な太宰らしいエレガンスだと私は思った。
 「このニ、三日、界隈に自殺者はありませんか?」
 「いや、ないですなあー」と巡査は云っていた。「今から、消防自動車を出して上げますから廻ってみたら? 外にも捜索の男女を頼まれているのですよ」と、この夜の巡査は大変親切だった。
 私は云われるままに自動車に乗り、夜の街を疾駆したが、警笛と一緒にかき鳴らす鐘に、かえって五里霧中に落入る心地である。暗かった。温泉の街の模様は皆目わからなかった。
 車は坂を降り、それから渚に添ってまた上り、トンネルを抜け「魔の淵」からかなり奥まで捜索してくれた。男女の人影が一度、ライトを浴びてうかび出し、車は急停車して、
 「あなた達何ですか? まさか心中じゃあるまいね?」
 と、相乗りの巡査は言っていたが、男女はクスクスと笑うばかりのようだった。死ぬ風情には見えなかった。
 「逢曳きかあ、今頃ふざけやがって」
 車が走り出すと、巡査は私に笑いながらそういった。警察に舞い戻った。私は鄭重(ていちょう)に礼をのべた。
 「明日にでも、そんな男が見附かったらお報らせしますよ」
 私はその巡査に紹介された宿屋へ、出掛けていった。
 夜の湯に一人浸った。眠れぬままに何度も浴室に降りていった。
 翌朝は寝過した。昼近い陽をガラス越しに受けながら、浴槽の中で湯に浸り、自分の足をヒラヒラさせていると不意に、もうどうでもいい、という気持がした。馬鹿々々しいではないか。自分は自分だけで、この五体にともっている生命を、大切にはぐくめばよい。
 自愛である。私は、旅装を整えると、まるで遊山者ででもあるように、ブラブラと山の辺りを歩き廻った。
 山腹の傾斜面に、新しく掘削されたのか、温泉が一つ、高く噴き上げているのは、妙に感動的だった。梅の花であったか、小さな花樹が一本、その温泉の飛沫を浴びて濡れていた。
 私は三島を申し訳だけに、そっ気なく廻り、荻窪の飛島氏の家に帰っていった。ほとんど前後して太宰が、フラリと帰って来た。

 かなり、ドライな印象を受けますが、太宰が玉川上水で心中した際に「太宰の芸術は太宰の死によって完成した」と、太宰の死を擁護したという檀一雄。これが、檀なりの愛情表現のカタチだったのかもしれません。
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 続いて、「フラリと帰って来た」太宰を見た人たちの証言。
 飛島多摩は「のどもとに首吊りの跡が薄気味悪くついてい」て、そのあと「首にはしばらく傷あとが残ってい」たといい、小田嶽夫「太宰はまっ白い包帯をしていた」といい、小山書店店主・小山久二郎は「風邪でも引いたのか、首にほう帯をまいていた」といいます。

 この事件のあと、井伏鱒二檀一雄、中村地平の3人が、神田淡路町の関根屋に太宰の長兄・津島文治を訪ね、あと1年の送金を依頼しました。

 長篠康一郎は「長兄からの送金が大学卒業までという条件であったことを考え合わせるならば、この事件も仕送り期間の延長を図った演出のようにも考えられます。」と言っていますが、太宰的にこの顛末は、目論見通りだったのでしょうか………。

 【了】

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との死の遺稿集』(虎見書房、1968年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】3月20日

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3月20日の太宰治

  1933年(昭和12年)3月20日。
 太宰治 27歳。

 三月二十日前後、初代とともに水上(みなかみ)村谷川温泉に行き、川久保屋に一泊。

太宰治水上心中

 3月20日前後、太宰は妻・小山初代(おやまはつよ)とともに、群馬県水上村谷川温泉に行き、川久保屋旅館に一泊します。

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■谷川橋際の元川久保屋旅館の建物

 翌日、太宰と初代は谷川岳山麓(さんろく)で、睡眠剤カルモチンによる心中自殺を図りましたが、未遂に終わりました。

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■鎮静 催眠剤 カルモチン。当時の広告には、「連用によって胃障害を来さず、心臓薄弱者にも安易に応用せられ、無機性ブロム剤よりも優れたる鎮静剤として賞用せらる。」と書かれている。

 2人で山を下りた後、太宰は単身、ほかの宿に移ります。
 初代は、叔父の吉沢祐五郎に電報を打ちました。初代を迎えに来た吉沢は、「宿に着いた時既に太宰は他の宿に移っていて居らず、初代が一人部屋に居た。部屋の窓近くに山が迫っていて、その山裾を拭き払うような勢いで風、イヤ雲が流れ、恐ろしい感じがした。」「帰りの汽車で俺と初代が向い合わせに座ったが、初代は進行方向に向いて座っていたので、水上温泉はどんどん後に消えて行く。初代は、たった一度だけ、後をふり向いた。そして、ハンカチを眼に当てた。明らかに泣いていた。」そして、「目にゴミが入ったのだ」と言い訳をしたと、当時のことを書いています。寒い日だったそうです。

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■小山初代。1932年(昭和7年)撮影。

 東京に戻った初代は、汚れた服装のままで井伏鱒二宅を訪れます。井伏の妻・節代は、「その時の初代の憔悴(しょうすい)した姿があまりにも哀れで、思わず手をとり合って玄関で一緒に泣いてしまった」といいます。 
 その後、初代は、太宰と暮していた碧雲荘(へきうんそう)には帰ることなく、井伏家に滞在し、別居生活を送りました。井伏は、一応このことを太宰の耳に入れておきましたが、太宰からは初代に関して、何の希望も条件も無かったそうです。
 太宰は、その後も時折、井伏家を訪れては、井伏と世間話をしたり、将棋を指したり、荻窪駅前で夜を徹して飲んだりしましたが、初代については一言も触れることはありませんでした。井伏夫人も気遣って、太宰が訪問している時には、初代を自分の部屋から出さないようにしていたそうです。

 これが、7年近くを共に過ごした太宰と初代の、生涯の別れとなりました。

 この、太宰4度目の心中未遂事件は、3月5日の記事に書いた、太宰がパビナール中毒療養のために武蔵野病院に入院していた際、初代が犯してしまった過ちに端を発すると言われています。

 太宰は、この「水上心中事件」を題材に、姥捨(おばすて)を書いています。
 この姥捨(おばすて)、過去の太宰研究者の間では、事実が書かれている私小説とされてきましたが、実際には創作(フィクション)もかなり含まれています。
 太宰は、作品の冒頭で、

 あやまった人を愛撫(あいぶ)した妻と、妻をそのような行為にまで追いやるほど、それほど日常の生活を荒廃させてしまった夫と、お互い身の結末を死ぬことに依ってつけようと思った。早春の一日である。

と書いています。
 この小説を脱稿したのは、翌年1938年(昭和13年)8月13、14日頃。事件から、ちょうど1年半が経った頃のことです。
 あくまでも私見ですが、太宰って、なんでも小説の題材にしてしまうんだなぁ…という思いもあります。

 【了】

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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム』(広論社、1981年)
・長篠康一郎『太宰治水上心中』(広論社、1982年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】3月19日

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3月19日の太宰治

  1942年(昭和17年)3月19日。
 太宰治 32歳。

 小山清(こやまきよし)が旅館に訪れ一泊。

タイミングの悪い小山清

 太宰は、1942年(昭和17年)3月10日から3月20日までの10日間、奥多摩御嶽駅和歌松旅館に滞在し、正義と微笑の原稿を書いていました。
 同年2月5日、太宰は阿佐ヶ谷会で奥多摩御嶽にハイキングに来ています。自分の行き慣れたところ以外には、なかなか出向かなかったという太宰が、小説執筆の地に御嶽を選んだということは、余程この地が気に入ったのでしょうか。ちなみに、同年4月9日にも、太宰は、一番弟子・堤重久の出征壮行会を兼ねて、奥多摩の同じ和歌松旅館に一泊しています。

 太宰は、同年1月に正義と微笑の稿を起こし、途中、甲府での執筆を挟みながら、3月19日、奥多摩御嶽の和歌松旅館で原稿292枚を脱稿しました。
 甲府湯村温泉明治屋に滞在していた際には、堤重久を甲府に招いて共に遊びました。この時の様子は、2月23日の記事で紹介しました。

 さて、正義と微笑を脱稿した3月19日、太宰が滞在していた和歌松旅館に、弟子の小山清が訪問します。

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小山清

 太宰は、甲府湯村温泉明治屋から三鷹に戻った翌日の3月2日、小山清に宛てて、次のハガキを出しています。

 拝啓
 昨夜おそく帰京いたしました。ただいま、貴稿を拝読しました。予想以上というわけでもなし、また、予想以下という事も決してありませんでした。ところどころに貴重なものが光っていて、うごかされました。亀井勝一郎君にたのんで「文学界」に発表できるとよいのですが、近日とにかく亀井君と相談するつもりです。御自愛下さい。       不一。
(一週間ばかり家にいて、また出かけるかも知れませんが、おひまの折には遊びに来給え。)

 「貴稿」とは、小山が書いていた小説の原稿のこと。第二次世界大戦の影響で、この原稿はすぐ世に出ることはありませんでしたが、太宰は小山の原稿を大切に保管しており、太宰亡き後の1952年(昭和27年)に『小さな町』(「文学界」)や『落穂拾い』(「新潮」)として小説を発表。小山は、作家としての地位を確立しました。

 今回の小山の訪問は、太宰からの「おひまの折には遊びに来給え。」という誘いを受けてのものだと思われますが、小山が一泊した翌日の3月20日、新たな来客が訪れます。

 3月20日、太宰が御嶽に出発する際に約束していた通り、妻の美知子が長女・園子を背負い、滞在費を持って迎えに来ました。園子は、前年の6月7日に生まれたばかりでした。

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■津島美知子

 美知子は、「水入らずの団欒(だんらん)を、渓流にのぞむ山の宿で」という「夢」を抱いて御嶽を訪れたのですが、先客に小山がいたことで、その「夢」が「一遍にぺしゃんこになった」と言っています。太宰は、妻子・小山とともに三鷹に帰宅しました。

 3月10日更新、東京大空襲について書いた記事で紹介しましたが、被災した小山が三鷹の太宰の元を訪れ、美知子さんが疎開、太宰と小山が残ることになった際にも、美知子は「小山さんが狭いわが家に闖入(ちんにゅう)してきたために追い出されるような気もして」と書いています。美知子にとって、小山の印象は、あまり良いものではなかったのでしょうか。意図してのことではないでしょうが、タイミングの悪い小山清なのでした。

  【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】3月18日

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3月18日の太宰治

  1935年(昭和10年)3月18日。
 太宰治 25歳。

 夜、井伏鱒二、伊馬鵜平、中村地平、檀一雄飛島定城(とびしまていじょう)、平岡敏男、吉沢祐五郎などの知友が暗然としていると、十二時前後頃、ふらりと頸部(けいぶ)に赤く太い傷痕をつけて帰宅した。

縊死未遂からの帰還

 3月16日の記事で紹介した、太宰の鎌倉八幡宮の裏山での縊死(いし)未遂事件。これは、太宰の3度目の自殺未遂でした。

 今日は、この事件の顛末(てんまつ)について紹介してきます。

 太宰は、この縊死(いし)未遂事件について、狂言の神で、

  今は亡き、畏友(いゆう)笠井一(かさいはじめ)について書きしるす。笠井一。戸籍名、手沼謙蔵。明治四十二年六月十九日、青森県北津軽郡金木町に生まれた。亡父は貴族院議員手沼源右衛門。母は高。謙蔵はその六男たり。
 同町小学校を経て大正二年青森中学校に入学。昭和五年弘前高等学校卒業。同年、東京帝大仏文科入学。若き兵士たり。恥かしくて死にそうだ。眼を閉じると毛の生えた怪獣が見える。なあんてね。笑いながら厳粛のことを語る、と。
 風がわりの作家笠井一の縊死は、三面記事の片隅に咲いていた。さまざまな推察が捲き起ったが、そのどれもがはずれていた。誰も知らない。新聞社の就職試験に落第したから死んだのである。
 落第ときまってから、かれら夫婦のひと月分の生活費、その前夜に田舎の長兄が送ってよこした九十円の小切手を持ち出し、ほろ酔い機嫌で銀座へ出た。
 歌舞伎座の一幕見席にはいる。舞台では菊五郎権八が、みどり色の紋付を着て、赤い脚絆(きゃはん)、はたはたと手を打ち鳴らし、「雉も泣かずば撃たれまいに」と呟いた。嗚咽(おえつ)が出てつづけて見ている勇気がなかった。
 浅草のひさごやという安食堂に行く。四年まえ、出世したらお嫁にしてあげると、その店の一ばん若い女中にそう言って、元気をつけてやったことがあったのだ。その夜は、ひとりで横浜に行き、本牧(ほんもく)のホテルに泊った。女のいる部屋に泊ったのである。
 あくる朝は、雨であった。駅の案内所で、江の島へ行くには? と聞いたのだが、聞いてから、ああ、やっぱり死ぬるところは江の島ときめていたのだな、と思った。
 ながれ去る山々。街道。木橋。いちいち見おぼえがあった。それでは七年まえのあのときにも、やはりこの汽車に乗ったのだな、七年まえには、若き兵士であったそうな。
 ああ、恥かしくて死にそうだ。ある月のない夜に、私ひとりで逃げたのである。とり残された五人の仲間は、すべて命を失った。
 それから有夫の夫人と情死を図った。師走、酷寒の夜半、女はコオトを着たまま、私もマントを脱がずに入水した。女は死んだ。私は、煮えくりかえる追憶からさめて、江の島へ下車した。
 片瀬東浜から腰越海岸までの砂浜を歩き、電車で長谷へ。途中で青松園という病院のまえをとおった。七年まえ、女は死に、私は、病院に収容された。おや? 不思議なことがあるものだ。あの岩が無くなっている。
 ねえ、この岩が、お母さんのような気がしない? あたたかくて、やわらかくて、この岩、好きだな、女のひとがそう言って撫でまわして、私も同感であったあのひらたい岩がなくなった。こんな筈はない。どちらかが夢だ。
 長谷で電車を降り、それから鎌倉二階堂へ出て、深田久弥氏を訪問する。帰途、黄昏(たそがれ)の巷、風を切って歩いた。路傍のほの白き日蓮上人、辻説法の塚がひゅっと私の視野に飛び込み、時われに利あらずという思いもつかぬ言葉が口をついて出た。
 鎌倉駅前の街道入口まで来て、くるりと廻れ右して、たったいま通ってきた道を逆戻り、そのあたりの雑木林の中へはいった。鼻の先に赤土の崖がのっそり立っていた。崖を這い登り、私は一糸みだれぬ整うた意志で死ぬるのだ。私の腕くらいの枝にゆらり。一瞬、藤の花。
 あまりの痛苦に、思わず、ああっと叫んだ。楽じゃないなあ、その己れの声が好きで好きで、たまらなくなって涙を流した。虫の息。三〇分ごとに有るか無しかの一呼吸しているように思われた。
 やめ! 私は、自分のぶざまな姿がいやになってしまった。腕をのばして枝につかまった。縄を取り去ってから、煙草をふかした。どうやら死神が逃げ去ったものらしい。ああ、思いもかけずこのお仕合せな結末。なあんだ。

と書いています。
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鎌倉駅
 「ああ、やっぱり死ぬるところは江の島ときめていたのだな」「七年まえのあのとき」と出て来るのは、1930年(昭和5年)11月の田辺あつみとの心中未遂事件のことを指しています。
 誇張して書かれたり、事実と相違する部分も多くありますが、3月16日に紹介したエピソードをなぞるように小説は進んでいきます。


 3月18日夜中。太宰の突然の失踪を心配した井伏鱒二、伊馬鵜平、中村地平、檀一雄飛島定城(とびしまていじょう)、平岡敏男、吉沢祐五郎など、太宰の知人・友人たちが集まっているところへ、12時前後、ふらりと首)に赤く太い傷痕をつけて、太宰が帰宅しました。

 飛島は、「丁度雨の降る晩だった。吾吾(われわれ)の方は既に死んだものと半ばあきらめていた。そこへヒョッコリ雨にぬれてほんとにヒョッコリと現れて」「けろりとして帰って来た」と、太宰帰宅時のことを書いています。
 飛島は「彼の興奮を恐れて二人だけで彼と話した」そうで、太宰は、「八幡宮の裏山の杉の木の枝か何かでくつひもをほどいて首をくくったのだ」「一時気絶し眼がさめて見たらひもがきれて夜露に打たれていた。」と話したそうです。飛島は、太宰の話を受けて、「帰って来た彼の首筋にはみみずばれが出来ていたので私はこれは狂言じゃないなと思った、けれども彼が一体何で自殺をはかったのか自殺未遂に終ってどんな気持でいるか、いくら(ママ)ねて見てもこれはという原因はつかめなかった」と書いています。

 檀一雄は、太宰帰宅時の様子を『小説 太宰治で、「太宰が、フラリと帰って来た。何も語らない。首筋に熊の月の輪のように、縄目の跡が見えていた。」と書いています。

 また、太宰の首の跡については、太田静子の娘・太田治子『明るい方へ』にも、太宰と静子が「昭和十九年の一月下曽我の庭の池の前に二人して腰かけている時、「その首の跡は、どうしたの?」彼女は静かな声で聞いてきた。鎌倉の山の中で首を吊ろうとして失敗してできた赤いアザだった。太宰は、うつむいていた。むしろ嬉しかったのだと思う。人はそのアザに気付きながら、わざと何もいわなかった。」と書かれています。縊死未遂で太宰の首に残った跡は、ずっと残り続けていたようです。

 太宰の帰宅後、太宰の妻・初代と吉沢祐五郎の妻・つやとが新宿へ買い出しに行き、賑やかな酒宴になって、太宰失踪の騒ぎも一段落したそうです。

()

 【了】

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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム』(広論社、1981年)
檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
太田治子『明るい方へ』(朝日文庫、2012年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】3月17日

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3月17日の太宰治

  1946年(昭和21年)3月17日。
 太宰治 36歳。

 三月上旬、次兄・津島英治の一人息子・津島一雄が、弘前市元寺町の青森師範学校を受験することになり、同行で教職に就いていた小野正文を訪ね、男子部長・築山治三郎に逢った。

太宰、友人の小野正文を訪ねる

 今回は、太宰が故郷の金木町に疎開していた時のエピソード。
 太宰は、次兄・津島英治の一人息子・一雄が弘前市元寺町の青森師範学校を受験することになったため、同行で教職に就いていた友人の小野正文(おのまさふみ)(1913~2007)を訪ねます。

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■小野正文

 小野は、教育者であり、太宰治研究家。青森中学時代に太宰の2年後輩で、敗血症で亡くなった太宰の弟・礼治と同学年でした。

 小野の著書太宰治をどう読むか』から、太宰が小野を訪問した際のエピソードを引用して紹介します。

 青森市が昭和二十年七月二十八日に戦災を受け、私のつとめていた師範学校が炎上し、その暮れ、臨時に弘前市に移転ということになり、ある小学校を使用していた。私はしばらく青森市から汽車通勤していたが、その往復の交通難は言語に絶した。窓からの出入、昇降、吹雪の中の遅延など悪夢のように思い出される。
 年が明けてからは、小学校の大きな作法室に同僚たちとともに寝起きし、ひとりで小使室の炉で飯盒(はんごう)の炊事をした。全く侘しい毎日がつづいていた。
 ある日、中年の上品な婦人が、学校の玄関に立っていた。「修治が、」といって太宰治の手紙を差し出した。太宰の次兄英治の奥さんであった。手紙は、いそいで目を通したが、内容は次のようなものであった。
 「拝啓 御健在の御様子、私は三鷹の家は爆弾で半壊となり、それから甲府の女房の実家に避難しましたが、これまた焼夷弾で丸焼けとなり、万策尽きて昨年八月、終戦直前に、妻子を連れて金木の生家に来て、目下、家兄の居候生活です。このごろはまた、何々主義、何々主義で変調子の運動ばかりで、ばかばかしい限りと考えます。私はいま「冬の花火」という三幕の戯曲を書いています。戯曲もなかなか骨が折れるものです。
 さて、きょうはちょっと御願いがあるのですが、私の二番目の兄英治さんのひとり息子の津島一雄が復員して、こんど師範にはいりたいと言っていますが、その手続きなど、この一雄のお母さんに教えてやって下さい。一雄は温和な性質のようですから、学校の先生に適してしるように思います。さいわい貴兄が師範の先生をしていらっしゃるそうで、一雄にとっても仕合せなことでした。よろしく御願い申します。
 いずれ私も、そのうち弘前へ行く事があるでしょうから、その折には、必ず師範に立ち寄り、久し振りで清談を交したいと思っています。津軽へ来て一ばん困るのは、話相手の無い事です。金木へもひとつ泊りがけで遊びに来て下さい。お大事に。」
 文字通り久し振りの手紙であったし、太宰の近況を知らないでいた私は、(にわか)に身近に彼が出現したような喜びを感じた。それでも、私はまだ太宰の清談の相手になれるほど、成長もしていない自分を省みてさびしい気持がした。
 その何日か後に、当の太宰治が姿を現わした。手には四角な大きな風呂敷包をさげ、カーキ色の乗馬ズボンに背広を着て、軍靴をはいていた。小学校の玄関に、何の屈託もなく、健康な微笑をうかべて立っていた。
 図書室へ通すと、他の二、三の教師がいたが、ストーブを囲んで雑談をした。話の内容は忘れたが、甥のK君のことには一言もふれず、今書いている「冬の花火」のことを話した。「劇というのは、書いて字の通り、全く(はげ)しいものだ。なんというか、小説にくらべて、立体的なダイナミックなものがある。出来あがったら、持ってきて、皆さんにきいていただきましょう。」
 刻み煙草を煙管(きせる)につめて()っていたが、彼の表現では「豪傑」というのみ方だ。一口二口すって、ストーブ(円く平たいまき(、、)用の)鉄板に灰をたたきおとすと、雁首(がんくび)が離れて、一米もむこうの床まですっとんだ。それをのこのこ()ちあがって、そこまで拾いにゆき、雁首をはめこみ、また刻みをつめこんで、二口ほど、すってぽんとたたけば、ぴょんと一米むこうにとんでゆく。また、ゆっくり歩いて拾ってきて煙管の先へはめる。そして話のつづきをはじめる。にこにこ笑いながら、灰を払うためにぽんとたたくと、当然のことでまた雁首がとぶ。それを十回近く繰りかえした。それが、別段わざとらしくもないが、それかといって、全然無意識なはずもなく、全くユーモラスな風景であった。彼の上機嫌な表情は忘れられない。金木から弘前へ出てきたことの開放感のようなものだろうか、と考えて見た。
 彼が帰ってから持参の紙箱をひらくと、大きくやわらかな、真白い餅が入っていた。

 「話の内容は忘れた」にもかかわらず、「別段わざとらしくもないが、それかといって、全然無意識なはずもなく、全くユーモラスな風景」を小野に印象付けた太宰。これが、太宰のコミュニケーション術なんでしょうか?
 次兄の一人息子のために、自身の伝手を頼って行動する太宰の姿も印象的です。

 【了】

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【参考文献】
・小野正文『太宰治をどう読むか』(弘文堂、1962年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】3月16日

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3月16日の太宰治

  1935年(昭和10年)3月16日。
 太宰治 25歳。

 街を見下ろす鎌倉八幡宮の裏山で、縊死(いし)を図ったが紐が切れ、未遂に終わった。

鎌倉八幡宮の裏山で縊死未遂

 3月14日の記事で紹介しましたが、東京帝国大学が落第と分かった太宰は、中村地平を頼りに、都新聞社(現在の東京新聞社)への就職活動を行いますが、失敗してしまいます。

 今日は、都新聞社への就職活動が失敗だと分った後の、太宰の足取りを追ってみます。


【3月13日】
 檀一雄と都新聞社編集局に中村地平を訪ねます。就職活動への助力に対する、お礼の訪問だったのでしょうか。
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■中村地平

【3月14日】
 朝、書置きのようなものを残し、兄・津島文治からの仕送り90円(現在の貨幣価値で、約16~18万円)を日本橋の銀行に取りに行くために外出。
 東京市淀橋区柏木704番地東中野ロッヂ15号のアパートにいた小館善四郎(帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)在籍)を訪れ、来合せていたモデルの女性と3人で銀座に出てバーで飲んだ後、モデルを帰し、小館善四郎と2人で歌舞伎座、浅草で遊び、京浜道路をドライブしながら、横浜本牧に行って宿泊します。
 善四郎は、太宰の四姉・きやうが、長兄・小館貞一に嫁いだことから交友が始まった人物です。
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■小館善四郎。1935年(昭和10年)撮影。

【3月15日】
 午後一時頃、桜木町駅で小館善四郎と別れる。出札口を出た小館善四郎を構内から呼び止め、「ひょっとしたら、僕は死ぬかもしれぬ。」と言って、人混みの中に姿を消してしまいます。
 その後、太宰は単身、鎌倉へと向かいます。

【3月16日】
 鎌倉町大塔宮前の深田久彌(ふかだきゅうや)(1903~1971)・北畠八穂(きたばたけやお)(1903〜1982)夫妻宅を訪問します。
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■深田久彌。1957年(昭和32年)、北アルプス笠ヶ岳山頂にて撮影。

 深田は、石川県大聖寺町生まれの小説家・随筆家・登山家です。1929年(昭和4年)11月、小説津軽の野づら』を雑誌「新思潮」に発表し、同年、児童文学者で詩人でもある北畠八穂(きたばたけやお)と結婚します。その後、「作品」「文藝春秋」「文学クオタリイ」等に『津軽の野づら』を短篇として発表し、新進作家として活躍していました。
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北畠八穂1948年(昭和23年)撮影。

 深田久彌夫人の北畠八穂は、青森市(たばこ)町の生まれ。1920年(大正9年)、青森県立青森高等女学校(現在の青森県立青森高等学校)在学中、「主婦の友」「婦人倶楽部」に投稿して入選を果たしています。
 1922年(大正11年)、高等女学校卒業後に上京し、実践女学校高等女学部国文専攻科に入学しましたが、脊椎カリエスを病んだため、1年半で中退し、青森に帰郷します。
 恢復(かいふく)後、1924年(大正13年)から青森県内の複数の尋常小学校に代用教員として勤務。しかし、脊椎カリエス再発のため、1926年(大正15年)に退職。病気療養中、雑誌「改造」に投稿したことが契機となり、同誌編集者の深田久彌と恋に落ちました。
 1929年(昭和4年)に上京し、千葉県我孫子市東京市本所区で深田と同棲生活を送りますが、深田の父が北畠の健康状態を理由に結婚を反対したため、入籍は叶いませんでした。

 北畠の父は材木商を営んでいて、小館家に嫁いだ太宰の四姉・きやうをよく知っていました。「角帽の太宰さん」は「はにかんで、家の玄関に立っていた」と、この日の太宰のことを北畠は書いています。
 生活や文学のことを語った後、深田・北畠夫妻宅を後にし、同夜、街を見下ろす鎌倉八幡宮の裏山で、縊死(いし)を図るも、紐が切れ、未遂に終わりました。

 太宰の留守宅では、友人数十人が何班かに分かれて、伊豆や房総や三浦半島などに出掛けて捜索しましたが、太宰は見つかりませんでした。太宰の長兄・津島文治が、この春に大学を卒業しなければ、以後いっさい送金をしない、と言って来ていたことから、「或いは生活の途を打開するための狂言ではないか」という意見も出されました。
 しかし、依然として太宰の消息が知れなかったため、同日午後11時、井伏鱒二から、杉並署に捜索願が出され、太宰の長兄・文治も、打電によって津軽から駆けつけています。

【3月17日】
 「読売新聞」に、「新進作家死の失踪?」の見出しで、同日付「国民新聞」には「芥川宗の太宰治君/突然行方(くら)ます」の見出しで、太宰の失踪が報じられました。
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 長篠康一郎は、この自殺未遂について、

 自殺未遂の三番目は、新聞社の入社試験(昭和十年三月)に失敗した太宰が、鎌倉で縊死(いし)を図ったことになっています。しかし、頸部(けいぶ)傷痕(しょうこん)から判断して縊死を企てたとは考えられず、むしろ大学を卒業できない太宰が、長兄に対しての苦肉の策であったとみられないこともありません。太宰が大学の勉学に励んでいたのも一、二年生の頃(昭和六年)だったといわれ、昭和八年以降に発表した作品もその時代に執筆していたものが多いとみられています。大学を卒業できない理由は、卒業年度における授業料未払いのためでした。長兄からの送金が大学卒業までという条件であったことを考え合わせるならば、この事件も仕送り期間の延長を図った演出のようにも考えられます。

と、分析しています。

 「友人数十人」が心配した、太宰の失踪。
 その顛末(てんまつ)については、3月18日更新の記事で紹介します。

 【了】

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機」(https://yaruzou.net/hprice/hprice-calc.html
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】3月15日

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3月15日の太宰治

  1941年(昭和16年)3月15日。
 太宰治 31歳。

 「ピノチオ」での阿佐ヶ谷将棋会に出席した。出席者十二名、会後「ピノチオ」で酒宴。

太宰と将棋

 阿佐ヶ谷会は、2月5日の「御嶽ハイキング」の記事でも紹介しました。

 阿佐ヶ谷会には、将棋会古美術を鑑賞する会との2つがあったそうですが、太宰はどちらの会にも顔を出していたそうです。今日は、そのうち、将棋会に太宰が出席した日。今回は、「阿佐ヶ谷会」に関する初めての資料集「阿佐ヶ谷会」文学アルバムから、阿佐ヶ谷会のメンバーのエッセイを引用しながら、「太宰と将棋」というテーマで紹介します。
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■1940年(昭和15年)、井伏家で将棋を指す太宰。

 この日、集まったメンバーについては、井伏鱒二『阿佐ヶ谷将棋会』(『荻窪風土記』より)に記しています。

 阿佐ヶ谷将棋会が復活したのは、この年の三月であった。この日の小山君の日記が、「小山捷平全集」の第二巻に入っている。会場はピノチオだが、無論このときはシゲルさんの代になっていた。

   三月十五日、土、晴。
   阿佐ヶ谷将棋会。「ピノチオ」にて。会する者十二人。井伏(鱒二)、秋沢(三郎)、亀井(勝一郎)、太宰(治)、浅見(淵)、安成(二郎)、外村(繁)、青柳(瑞穂)、古谷(綱武)、浜野(修)、木山(捷平)。一等井伏、二等秋沢。会後「ピノチオ」で酒宴。将棋会費五十銭、酒宴一円であった。阿佐ヶ谷北口より一人で帰った。
   神兵隊事件判決。(朝日新聞)四十四名悉く刑免除、内乱罪構成せず、殺人予備適用。九年ぶりの判決であった。

 会場となったピノチオ」は、中華料理店。将棋会の開催当初は、阿佐ヶ谷駅の北口の側にあった碁会所を貸切りにして13時頃から18、19時頃まで将棋を指し、そのあとから「飲み会」という流れだったそうです。しかし、「将棋会」というのは「表看板」で、「飲み会」の方に皆の気持ちの中心があったため、いつの間にか会場が、碁会所から「ピノチオ」の離れの日本間に移って行ったそうです。

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小田嶽夫日本における魯迅の紹介者で、『魯迅伝』を記している。小田の助力により、太宰は『魯迅伝』『大魯迅全集』『東亜文化圏』などを入手し、『惜別』執筆の材料とした。

 小田嶽夫(おだたけお)は、『阿佐ヶ谷あたりで大酒飲んだ――中央沿線文壇地図』の中で、1941年(昭和16年)3月8日付で井伏鱒二から届いた、巻紙に筆で書かれた手紙を紹介しています。

 前略過日は失礼いたしました。将棋の会は今月十五日午後一時ピノチオに於てということに亀井君と話をきめました。この旨木山君へ御様子願います。欠席ならば御返事を頂きたいのです。会費は五十銭内外(下略)」とある。むろん此の会費は将棋会だけのものであり、飲み会のほうは、又別途に属するのであった。それにしても五十銭という金額は、何だかゆめのようである。

 この日の参加者名簿を見ると、この日、小田の参加はなかったようですが、手紙の中に「木山君」として名前が出ている木山捷平(きやましょうへい)は、参加していたようです。 
 ちなみに、会費「五十銭」というと、現在の貨幣価値に換算すると、10円あるかないか、というところです。
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木山捷平1933年(昭和8年)に太宰たちと同人誌『海豹』を創刊した、同人仲間でもありました。

 木山は、『阿佐ヶ谷会雑記』で、

 私は度々折畳み式の将棋盤を風呂敷に包んで、ピノチオに行った記憶があざやかに残っている。こんどは、ことによったら優勝してやろうと思って意気込んで行ったからであるが、しかし、私はただの一度も、優勝したことはなかった。
 尤もこの将棋会はたいてい、午後一時の開会で、晩になると、酒になるのが例であった。有志のものが一杯やるのではなく、酒を飲むのも、はじめから「会」の中にはいっているのであった。

 と書いています。「将棋会」は、場所をピノチオに移しながら、次第に「飲み会」となっていったようです。折畳み式の将棋盤を持ち寄って「将棋会」をしていたなんて、なんだか微笑ましいです。

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■安成二郎。

 安成二郎(やすなりじろう)は、太宰治君の写真』の中で、

 酒も将棋も好きで、人柄も人望もある井伏君中心の会といっていい。だから皆個人的に井伏君と親しい人の集りで、従って酒を飲むか将棋をやるか、どっちかで井伏君とウマの合う人々で、大概どっちも一と通りいけるのであるが、太宰君と外村君は将棋はささず、その代り酒はいくらでもいける方であった。

 「あれ?」、太宰って「将棋はささ」なかったの?という疑問。
 阿佐ヶ谷将棋会では、会員の技量毎に等級(クラス)を決めていたようです。
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■中村地平。太宰が東京帝大落第と決まった際、就職活動しようとし、当時、中村が就職していた都新聞の入社試験を受ける。

 中村は、阿佐ヶ谷会について、『将棋随筆』で、

 阿佐ヶ谷会というのは、阿佐ヶ谷を中心とする中央沿線に住まうわかい文学者が、不定期に集まって酒をのんだり、無駄話をする会合である。幹事は小田嶽夫に外村繁の両君であるが、この会でときおりヘボ将棋の会を催して、会員の技量に等級をきめるのである。常連の顔ぶれを挙げてみると、
 井伏鱒二、古谷綱武、浅見淵尾崎一雄、緑川貢、木山捷平小田嶽夫太宰治田畑修一郎亀井勝一郎、塩月赳
などの諸君である。そして、技量もだいたいここに並べた名前の順序のとおりである。

 と書いています。
 太宰、全体の2/3に入るくらいの技量は持っていたようなのですが…。
 太宰の指し方について、小田嶽夫『阿佐ヶ谷将棋会』から引用すると、

 太宰は形勢がわるくなると、もう投げ出したような格好でいやいやそうにさす、それでこちらも油断して思わず緩手をさすと、猛然と逆襲して来る――そんな巧妙な、というよりは可憐なと言いたい心理作戦である。

 どうやら、太宰の将棋のポイントは、「可憐なと言いたい心理作戦」だったようです。

  【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
青柳いづみこ川本三郎 監修『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』(幻戯書房、2007年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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