記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】7月8日

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7月8日の太宰治

  1936年(昭和11年)7月8日。
 太宰治 27歳。

 七月八日付で、佐藤春夫に手紙を送る。

太宰、佐藤春夫への誘い

 今日は、1936年(昭和11年)7月8日付で、井伏鱒二の師匠筋・佐藤春夫に送ったハガキを紹介します。この佐藤宛のハガキは、6枚綴りのハガキのうち、5枚を使って書かれました。
 太宰がこのハガキを書いたのは、6月25日に処女短篇集晩年が刊行されて間もなくのこと。このハガキを書く2日前には、井伏から小説虚構の春で手紙を許可なく引用して使用したことを叱責する手紙が届き、それに言い訳をする手紙を書いていました。

  千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
  東京市小石川区関口町二〇七
   佐藤春夫

先生 オイデカト日ニ、三度ズツ 玄関ガラリサット色メキ、(私ハ サニアラズ 先生ノ 教エ 受ケタル者トシテ 恥カシカラヌ 落チツキ 失ハズ、勉強、カラダ ジュウ 耳ニシテ、身構エ。)アワレヤ、修養足リヌ者、センタクノ手、エプロンニテ 拭キ、拭キ、シカモ一方 エプロン ハズシテ、ムザン、スベテ女ノ不可思議なる猿的 早ワザ、ハシナク、バクロ、シカモ当人、生キタ気モセズ マックラガリノユメノ由。華ヤカナル被告」。十六歳ノオ嫁。「ゴメン

(コノ一文、笑ウベキコトニハ鏡花先生ノ悪影響、アルゾ、アルゾ。)
船橋御来駕ノコト、ソノ日、ソノ日ノ風ノ工合イデ、キメテ下サイ。イカナルムリノ意志ヲモチイズ)
①ノツヅキ。ナセエ、コノワタリニ住ム 九十歳、フビンノ婆、九十歳、ハイ。」ワレラ 間抜ケテ 顔 見合セ、(シマッタ!)落チツキノアル男、「何ガ オカシイッ。モット マジメノ生キカタ ガ アッタ筈。」ナド鴉声忠告、内心、咽喉 焼ケルホドニ風ワルク、ピシャと襖シメキリ、御勉強、クシャクシャ、茶話デナシニ、イロハ歌留多、ワレラノ倫理、有閑 虚栄ノマコト美シサ、富者万燈ノ物語、座席ニ
(御来訪、少シオックウナラバ、気軽ニ御中止。スベテ天ナリ。命ナリ。)

②ノツヅキ。千円 柱ハスベテ津軽塗リノ飛バナイ飛行器、コレハコレダケノモノ、座席ニ 腰カケ、ヤガテ、下リル。マタ、万華鏡ノトキメキ、マキ絵の独楽(コマ)。独楽ノヒモ、金絲、銀絲。(先日、坪田譲治氏ノ コマノ小説。アレカラ、ズイブン サガシマシタケレドモ、見当ラズ、ソノウチ異様ノ不安ニ襲ワレ、ゴメン下サイ、アレハ私ノ 幻想ラシク、モシ、ソノトキハ、叱ラズニタスケテ下サイ。チットモ、悪イ気デ ツイタ嘘デ ゴザイマセヌ。坪田氏ニモ傷ツケタカ不安ニテ、)
船橋御来訪ノコト。ソノ日ソノ日ノ工合イデオキメ下サイ。)

③ノツヅキ。オノノイテ居リマス。私ハ坪田氏ヲ ケイベツシタノデハゴザイマセヌ。日頃、先輩、スグレタ先輩ノヒトリ ト思イ、畏怖ヲサエ 感ジテイマス。以後 キット、バカナコト申シマセヌユエ、黙許 タノミマス。)
 デカダン イロハ ノ小説、題ヲ イマ考エテイマス。イ、ロ、ハ、ニ、順々 短キ ウタ ヲシタタメ、ソレニツカズ ハナレズ ノ物語 シタタメマス。四十枚、前人未踏ノ作品デキル筈、生涯アザムカザル誠実モテススメバ、ワタル世間モ鬼千匹ニアラズ、サリトテ苦悩ノ密
船橋 御来駕。イカナル御仕度モナク。イカナルムリノ御意志用イズ、風ニ委セテ、フラフラ)

④ノツヅキ。雲タエマナクシテ、正確ニハ、鬼千匹仏千体、在ス ナリ ト言イ得ルノデハナイカシラ?「晩年。」ミンナ、アリガトウ ト オ礼 ヨコシテ クレマシタ。フルサトノ長兄ト 日 一日 ナカヨクナリ、私、短気オコシテ 怒ラヌカギリ、キット オ金持チニナレルノデス。金持チ ケンカ セズ ナド ツブヤイテ、マルゼン ヨリ、ベラボウ 高イ カメラ雑誌 買イ、スマシテ居リマス。
船橋 御来訪ノコト、御都合アシキ場合、ドンドンオ断リ御自由ニテ、コチラハ平気)

 6枚綴りのハガキのうち、5枚も使って書かれたこの手紙。内容はさて置き、ハガキの末尾に必ず添えられる、「船橋へ来て下さい」の一言が目に留まります。この5枚のハガキが同日付というのが、なかなか信じられません。

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佐藤春夫(1892~1964)

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】7月7日

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7月7日の太宰治

  1945年(昭和20年)7月7日。
 太宰治 36歳。

 明け方、愛子が久保寺家でもらってきたおにぎりを、焼け跡で受け取った。

太宰、「甲府空襲」に遭う

 1945年(昭和20年)6月末にお伽草紙全4篇200枚の原稿を完成させた直後の出来事です。

 1945年(昭和20年)7月6日の午後11時23分、空襲警報が発令。同午後11時47分に、グアムのマリアナ基地から飛び立った131機のアメリカ空軍機B29型重爆撃機甲府上空に達し、市街北方の塚原地区と東北の愛宕山付近とにANーМ46照明爆弾47発を投下。太宰の妻・津島美知子は、「燈火管制のくらやみがにわかに、真夏のま昼どきのように明るくなった」と回想しています。続いて、B29から、約10,400発、970トン余りの焼夷弾が市街一円に投下されました。
 美知子の実家がある水門町一帯に焼夷弾が投下、絨毯爆撃が開始されたのは、「遅れて発令された空襲警報のサイレンが鳴り始めた同じ時分」の午後11時54分頃だったと、美知子は回想します。B29が、最後の投弾を済ませ、甲府市街の上空から姿を消したのは、翌7月7日の午前1時48分。午前2時20分頃に空襲警報は解除されました。
 空襲当日の天候は晴れ、空襲前の気温は22度でした。

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■空襲後の甲府市街地 焼け残ったビルは、松林軒デパート(甲府会館)。

 このB29の甲府への爆撃を甲府空襲」といい、空襲を受けた日付から「たなばた空襲」とも呼ばれます。甲府盆地は、南太平洋から富士山を目標に到達するアメリカ軍機の飛来ルートだったため、頻繁に上空を通過するアメリカ軍機と空襲警報に、人々はすっかり慣れ切っていました。甲府には軍事工場や飛行場がなく、東京から疎開してくる人も多く、甲府は安全なところだという共通認識が出来上がっていました。
 当時、甲府空襲に参加したB29搭乗員たちは、

「私は1945年7月6日のミッションに参加しました。しかし、あの夜自分たちには特に重大なことは何もおきなかったと思います」

「正直にいって、その日のことは特に覚えていないのです。夜の空襲はどれもほとんど違いは無いのです」

「地方都市の爆撃は”3日に1度の牛乳配達のような日常的なもの”だった」

と証言したそうです。
 甲府空襲は、長期化する戦争の中で、日本の軍事上重要な都市には爆撃を加えて被害を与え、すでに大きな目標がなくなり、明確な目的や意思がないまま、東京に近く、それなりの規模があるという理由で行われたものでした。
  この甲府空襲により、市街地の約74%が焼き尽くされました。負傷者は1,239名、被害戸数18,094戸、死者は1,127名とされています。


 太宰が疎開していた美知子の水門町の実家も全焼。太宰と美知子が新婚時代に住んだ、御崎町56番地の借家もこの時に焼失しています。

 太宰は、お伽草紙の原稿、預かっていた原稿、創作手帖、万年筆など机辺のもの一切を、5歳になる長女・津島園子を背負って、朝日国民学校に避難しました。
 その日、美知子の妹・石原愛子は、1人で布団をかぶり、7キロの夜道を千代田村の久保寺家に助けを求めに行きました。この久保寺家は、太宰が「荷物疎開」をさせてもらっていた家で、美知子の祖父の姉の嫁ぎ先でした。

 久保寺家の長女・福子は、母・りゆうに愛子が、「おばちゃん、全部焼けちゃって何もないさ」と、泣きながら話してるのを見たといいます。

 7月7日の明け方。太宰は、愛子が久保寺家でもらって来たおにぎりを、焼け跡で受け取りました。太宰が美知子と結婚する際、太宰の嫁探しを手伝った、甲府の交通網を担っている御岳自動車社長・斉藤文二郎の次女・佐和子は、朝日国民学校の正面玄関の東の橋で、リヤカーを引く太宰と美知子に会いました。リヤカーには、荷物と子供を乗せており、「これから連隊の北の知り合いのところに行く」と話していたそうです。太宰は、2日ほど愛子の知人宅に泊めてもらいました。

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■太宰と石原家の人びと 前列左から、太宰、義母・石原くら、中列左から、義妹・愛子、美知子、義姉・富美子、後列は義弟・昭。1939年(昭和14年)正月、甲府市水門町の石原家の玄関横で撮影。

 その後、水門町の焼け跡で、石原家の人々の安否を気遣って見に来た、山梨高等工業専門学校(現在の山梨大学)教授・大内勇と出会い、大内の勧めで、甲府市柳町6番地の大内勇方に避難。太宰は、白いシャツにカーキ色の作業ズボン姿で、園子の手を引いていました。太宰は、金木に疎開するまでの約20日間を大内家で過ごします。大内は以前、水門町に住んでいて、新柳町に転居した後も、石原家と親交が続いていました。美知子の母・石原くらと大内の妻・かねとは、互いに県外出身者で親しかったそうです。
 大内家は、八畳三間、六畳一間、玄関四畳半、台所、風呂がありましたが、太宰一家は、八畳二間を使用しました。

 愛子は、太宰と一緒に「水門町の焼け跡の片付けに行っても」知らぬ間に消えて「夜の十時ごろ酒を飲んで帰ってきた」、「夕飯の時間に帰ってこない」太宰を、美知子は「食べずに帰りを待っていた」と回想しています。一面焼け野原という混乱した町で、「いったいどこで飲んでいたのか」と周辺の人は不思議に思ったといいます。大内家の娘・和子は、「酒を飲みに行くときなどいつも、唐草模様の大きな木綿の風呂敷に、どっさり何やら包んで持ち歩いていた。書き上げた原稿用紙のようだった」といいます。
 万が一、再び空襲に見舞われても原稿が焼失しないよう、肌身離さず持ち歩いていたのでしょうか。太宰は、大内家の東側の八畳間にちゃぶ台を出して机代わりにし、原稿の執筆を続けていました。
 太宰は、1946年(昭和21年)11月に発表した小説薄明に、甲府空襲や大内家に滞在した時のことを書いています。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「甲府空襲」(甲府市
・HP「戦後72年 なぜ標的に? “甲府空襲” 語り継ぐ 」(NHK、MIRAIMAGAGINE)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】7月6日

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7月6日の太宰治

  1936年(昭和11年)7月6日。
 太宰治 27歳。

 七月六日付で、井伏鱒二に手紙を送る。

井伏の叱責と、太宰の言い訳

 今日は、太宰が、1936年(昭和11年)7月6日付で、師匠・井伏鱒二に送った手紙を紹介します。
 太宰は、同年6月25日付で、処女短篇集晩年を刊行しており、その直後に書かれた手紙です。

 この日、太宰は井伏から譴責(けんせき)のハガキを受け取り、それに対する返信の手紙だったようです。

  千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
  東京市杉並区清水町二四
   井伏鱒二

 井伏さん「どういうことになっているのか伺います。」
 太宰、沈思数刻、顔あげ、誠実こめて「かなしきことになって居ります。」
 井伏様
 おハガキただいま拝誦いたし、くりかえしくりかえし、わが心の奥にも言い聞かせ眼が熱くなって、それから、はね起きて、れいの悪筆不文、お目の汚れにならぬよう、それでも一字、一字、懸命でございます。
 被告の如き気持ちにて、この六月、完全にひと月間、二、三百のお金のことで、毎日、毎日、東京、テクテク歩きまわって、運の悪いことのみつづいて、死ぬること考え、己の無知の家人には、つとめて華やか、根も葉もなきそらごとのみ申しきかせ、死ぬる紀念に家人をつれて、同伴六年ぶり千葉市へあそびに行きました。

 

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■太宰と、太宰が「己の無知の家人」と書いた妻・小山初代

 

 千葉のまちまちは、老萎のすがた、一つの見るべきもの無之、活動写真館へ、ラムネと、水気なきナシと、を買いいれて、はいり、暗闇の中で大いに泣きました。
 ときどき、ひとりで泣きます。男の「くやしなみだ」のほうが多く、たまには「めそめそ」いたします、六月中、多くの人の居るまえで、声たてて泣いたこと二度。誠実のみ、愛情のみ、ふたつのこりました。わが誠実、わが愛情、これを触知し得ぬひと、二人、三人、われから離れ、われをののしり居ること、耳にはいり、神の子キリストの明敏、慈愛、献身を以ってしてさえ、なかなかにゆるされ得ぬ、かの審判の大権が、いま東京の一隅にて、しかも不敏、早合点にて用いられて居るらしいのがかなしく、すぐさま井伏さんへわが愚痴、聞いていただき度く、いつわりませぬ、三度書いては破り、書いては破りいたし、このわが手簡もむずかしく、かきはじめてきょうで五日目でございます。友人の陰口申したくなかったからです。御明察ねがいます。
 井伏さんからは、お手紙の不許可掲載については、どのような叱正をも、かえってありがたく、私、内心うれしくお受けするつもりでございました。、けれども、他の四、五人の審判の被告にはなりたくございませぬ。

 

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■太宰と井伏

 

文學界」の小説の中の、さまざまの手簡、四分の三ほどは私の虚構、あと三十枚ほどは事実、それも、その御当人に傷つけること万々なきこと確信、その御当人の誠実、胸あたたかに友情うれしく思われたるお手紙だけを載せさせてもらいました。御当人一点のごめいわくなしと確信して居ります。真実にまで切迫し、その言々尊く、生き行かん意欲、懸命の叫びこもれるお手紙だけを載せさせてもらいました。
 私は、今からだを損じて寝ています。けれども、死にたくございませぬ。未だちっとも仕事らしいもの残さず、四十歳ごろ辛じて、どうにか恥かしからぬもの書き得る気持ちで、切実、四十まで生きたく存じます。
 タバコやめました。注射きれいにやめました。酒もやめました。ウソでございません。生き伸びるために、誠実、赤手、全裸、不義理の借銭ございますが、これは国の兄へ、かしていただくようたのみ、明日お金着いて皆へ返却申す筈でございます。死なず生きて行くために、友人すべて許して呉れることと存じます。私ひとり、とがめられ罰せられます。私の心いたらず、私の文いたらぬ故と、夜々おのれを攻めて居ります。(十夜に一夜は、わが身ふびんに思うことございます。)
 近日、おわびに参上いたします。「武者ひとり叱られている土用干(どようぼし)。」という川柳思い出し、なつかしく微笑。子供が土用干の家宝のかぶとかぶって母に叱られて泣いている図。むかしのままの私です。まごまご、吃咄。迂愚のすがた。
 夾竹桃咲いているうちに、いちどおいで下さい。(伊馬兄も。)成田山、中山の鬼子母神さますぐ近く、慶ちゃま、ばば様、奥様、みんなおいで下さってもちっとも困らず、生涯たのしき思い出になります。

 

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■太宰と、「伊馬兄」こと伊馬春部

 

 お願いいたします。ヒナ子ちゃん、大ちゃん、ずいぶん伸びたことと、お目にかかる日、たのしみでございます。
 言ってしまったら、からっとして、もう、みんな飛散消滅、なにも、のこらず、ただ深き蒼空のみ。誠実一路。
     修 治 拝
  井 伏 鱒 二 様
 追伸 出版記念会すべて本屋に一任いたしました。

  太宰が井伏に叱責されたのは、手紙中に出てくる、井伏の「お手紙の不許可掲載」が原因。井伏の手紙が「不許可掲載」されたのは、「『文學界』の小説」『虚構の春でした。
 虚構の春は、書簡体の小説。「太宰治」と呼ばれる新進作家に宛てて書かれた、多くの発信者による83通の書簡集が並べられた、変わった体裁の作品です。
 虚構の春で手紙を引用列挙されたのは、井伏のほかにも、小林倉三郎、楢崎勤、山岸外史、今官一浅見淵保田與重郎、白石凡、飛島定城、佐藤春夫、中村地平、竹内俊吉、津島逸郎、井伏鱒二檀一雄田中英光、小野正文、田村文雄、小舘善四郎、内山徹、鰭崎潤、伊馬春部、中畑慶吉など。
 1936年(昭和11年)7月1日付発行「文學界」に初出の際は、実名で登場していましたが、短篇集虚構の彷徨  ダス・ゲマイネ収録時には、名前が改変されました。私信を実名引用されたことへの抗議を受けた上での配慮だったのでしょう。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】7月5日

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7月5日の太宰治

  1933年(昭和8年)7月5日。
 太宰治 24歳。

 「良暦記」に「津島修治至。成思出装画十二葉。」とある。

手製の『思い出』

 「良暦記」は、青森出身の画家・根市良三(ねいちりょうぞう)(1914~1947)が書いていた日記です。根市は、太宰の友人である小舘善四郎と従兄弟で、また、根市の兄・根市祐三は、青森中学時代の太宰と同級生で、同人誌蜃気楼(しんきろう)の同人でもありました。
 根市については、3月29日の記事でも紹介しました。

 さて、1933年(昭和8年)7月5日付の根市の日記「良暦記」に、「津島修治至。成思出装画十二葉。」という記述があります。
 この頃、太宰は、同人誌海豹(かいひょう)に連載し、「幼年及び少年時代」の自身の告白を記したという小説思い出を切り取って、「手製で薄ッぺらな本」を三、四冊作りました。
 太宰の最初の妻・小山初代の叔父・吉沢祐によると、この本は、「同郷の、足の悪い松葉杖の青年が、日本紙に手摺の木版刷にして作った」といいます。この「青年」が根市です。根市は、幼少の頃に小児麻痺にかかり、足が不自由でした。

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■根市良三

 「手製」のその本は、 A5判一段組38ページ。「一章」が15ページ、「二章」が12ページ、「三章」が11ページあり、思い出のみで構成されていました。
 表紙は厚手の和紙で、木版刷り。表紙全面が藍色で塗られていて、「中心から左下にかけて大小三輪の薔薇の花が描かれている。深紅で縁どられたピンクの花の周りには、葉脈まで描きこまれた暗緑色の六枚の花も添えられている。また右上方には縦書きの黒い文字で「思い出」と記されて」いたそうです。

 作られた「三、四冊」は、吉沢祐古谷綱武那須辰造などに寄贈されました。

 吉沢に送られた一冊は、のちに太宰の手元に。古谷に送られた一冊は、のちに檀一雄の手元に。那須に送られた一冊は、のちに思い出の草稿とともに「ある人」の手元に渡りました。
 古谷に薦められて思い出を読んだ檀は、「作為された肉感が明滅するふうのやるせない抒情人生だ」と、心惹かれたそうです。

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檀一雄

 【了】

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【参考文献】
檀一雄『小説 檀一雄』(岩波現代文庫、2000年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】7月4日

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7月4日の太宰治

  1938年(昭和13年)7月4日。
 太宰治 29歳。

 七月上旬、長尾(はじめ)が初めて鎌滝方に訪れ、、以後「満二ヶ月の間、殆ど生活を共にした」という。

長尾(はじめ)と太宰の出会い

 長尾(はじめ)(1915~1972)は、兵庫県飾磨郡(現在の姫路市家島町真浦出身の作家。東京帝国大学文学部卒で、平林英子中谷孝雄に師事し、「コギト」の同人として小説を書きます。 「コギト」のタイトルは、1932年(昭和7年)に旧制大阪高校出身の東京帝国大学生を中心に創刊。ドイツの哲学者・デカルトの「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」が由来です。
 太宰らと親しく、檀一雄の異父妹の高岩忍と結婚。出版社「ぐろりあ・そさえて」の編集者としても働いていました。
 今日は、長尾の『太宰 治』から、長尾と太宰の出会いについて、引用して紹介します。

 太宰の住所を教えてくれたのは、文芸雑誌 「コギト」の編集発行人肥下恒夫であった。
 「コギト」という雑誌は、昭和七年、当時大学在学中であった保田与重郎、中島栄治郎、田中克己などがはじめた同人雑誌であるが、伊東静雄など二、三人の人を除くと、同人の殆どは大阪高等学校の卒業生で、私には高等学校の先輩に当っていた。

 

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■文芸雑誌「コギト」創刊号 1932年(昭和7年)7月、定価30銭。

 

 だから、昭和十一年、二・二六事件のあった直後に大阪から東京の大学に来て以来、高円寺の大和町に住んでいた肥下氏の家には始終遊びに行っていた。この七月、荻窪に移って来た翌日、訪ねて行った。
 予め移転通知を出していたので、玄関で顔を見るなり、
「よう変るな、君。住所変更、君が一番やで」
 と、言い、応接間に入ると、
荻窪なら、――太宰がいるな。もう、太宰のところ、、行った?」
 と、訊ねた。
「いいえ」
 わざと語尾を強めて言った。
 私は太宰が荻窪に住んでいるなど、全然知らなかったし、また、たとえ知っていたとしても、一面識もない太宰のところへ、荻窪へ移って来たからと言ってのこのこ遊びに行くようなことは私の柄でないぐらいは、肥下氏もわかっていそうなものだと思った。
 しかし、肥下氏は、どんなつもりからか、
「住所知らんか? 住所、わかるで」
 こういって、親切にも雑誌の寄贈者名簿を出して来て、紙切れに太宰の住所を書いてくれたのであった。
 しかし私は、別段、わざわざ太宰の住所を探して訪ねて行こうという気はなかった。「天沼」という妙な名前の土地も、屹度(きっと)荻窪と阿佐ヶ谷との中間辺りにある、辺鄙(へんぴ)な場所に違いないと思い込んでいた。
 ところが毎日、私は河村で子供の相手ばかりしていたので、つい退屈なものだから、二、三日経つとまた、肥下氏を訪ねて行った。
 ところが、応接間に入って行くなり、肥下氏は、
「太宰のところ、行った?」
 と、訪ねた。
「いいえ」
 何気なく答えると、途端に眉が曇った。
「行けばいいのに――」
 全く、じれったいといった口振りであった。
 肥下恒夫という人は、(かん)の強い詩人の田中克己でさえ、「肥下は聖人みたいなものや」と言うように、温厚篤実、怒りを色に現わさず、といった人柄であった。
 その肥下氏から露骨に腹立たしさを示されたことさえ、不思議な気がしたのであったが、以前には誠実で清潔な作品を「コギト」に発表して注目されていた肥下氏のような人が、どうして佐藤春夫氏が「芥川賞」という小説の中で徹頭徹尾、キザっぽく、嫌味な男に書いておられる太宰のところへ、私が遊びに行くように奨めるのか、解せない気持であった。
 不服な顔付きをしていた私に、何か感じたらしく、暫くして、
「太宰の小説、嫌いか?」
 と、訊ねた。
「嫌いというわけじゃないけど、ショートケーキみたいでね」
 と答えた。
 太宰の小説は、単行本で「晩年」と、「虚構の彷徨」を読んでいた。目に眩ゆいばかりに華麗な、豊かな才能が確かにあった。しかし、太宰が自称していたような”天才”の作品とは思わなかった。
 当時、ゲーテばかり読んでいた私は、太宰には誠実さとか、叡智とか、神のものが欠けていると思っていた。
 後に鎌滝の下宿で、太宰がルノアールの裸婦の絵に頻りに感心して見入っているのを見かけたが、私は太宰の小説もこれだなと思ったものであった。
「ふ、ふっ」と、笑って肥下氏は、「きついこというのやな」と、言った。
 しかし、私の言葉には不満な様子であった。
 二、三年前、肥下氏は郷里の家で首を縊って自殺をした。その肥下氏には何か太宰に共感するものがあったのかも知れない。

 

 私は「天沼」という場所が、こんなに近くに、私が毎日通っている道筋にあるとは、夢にも思っていなかった。
 こんなに近くにあるとすれば、番地の数の上から考えて、たいしてここから離れていないとすると、一度、訪ねて行かなければいけないが、まあ、今日は鎌滝の在りかぐらい探しておこうと、番地の数の増して行く東の方に向って、一軒一軒、表札の番地を覗きながら、歩いて行った。
 二一〇番地になったとき、道路の左端に垣根のある広い屋敷があった。夕靄(ゆうもや)が漂っている暗いひいらぎの生垣に、白い花が二つ三つ、ぼつ、ぼつと浮んでいた。垣根の隙間から覗くと、庭には夏草が茫々と茂っていた。その中に、工員寮か、鉄道員の寮のような、鍵形になった大きい二階家が空家のようにひっそりと鎮まり返っていた。
 門らしいものはなかった。番地もわからなかった。垣根に沿って左に曲り、露地に入った。すると、すぐそこに破れかけた見窄(みすぼ)らしい木戸があった。裏口かと思ったが、腐りかけた木の杭に表札らしい板切れがかかっていた。近寄って見ると、消えかかった墨が、やっと「鎌滝」と読めた。
 意外な感じであった。太宰は見栄っぱりだから、洋風まがいの洒落れた素人下宿に住んでいることとばかり、私は思ってきたのであった。多分、太宰は二階の八畳ぐらいの広い部屋を借りていて、部屋の隅に小卓を置いて原稿紙を拡げているに違いない、卓子に背を(もた)せかけ、スタンドの笠から自分の顔が(かげ)に入るように坐っている、含羞(はにか)んだ様子をして俯向いたり、何かしながら、それでいて”天才”らしい気負った態度で、「君、小説書く?」「小説家なんか、止めたほうがいいよ」「小説書くなんてコトは、人間のまっとうな営みじゃねえんだ。業だよ、まるで業なんだ、これは」「だから、小説なんかは書かないに越したことはねえんだよ」「僕は忠告するよ、僕は、僕のところへ来る青年達に、皆、忠告しているんだ」などと、後輩である私に言うに違いないと想像していた。こんな想像が実は、太宰を訪ねようとはしなかった理由にもなっていた。
 が、私の想像は、全然、外れてしまった。こんな筈ではなかったと、暫く私は、木戸の前に立っていた。
 しかし、考えてみると、こんな工員寮のような下宿に住んでいるなら、案外、遊びにも来やすいかもわからないと思った。何といっても私は、この夏休みを河村の子供達だけを相手に過ごすことは、とても難しいと考えはじめていたからであった。荻窪に家を持っている松村達雄もとっくに大阪へ帰っていた。
 私は破れかけて傾いている木戸を押して、屋敷の中にはいった。立木の多い屋敷の中は、外よりも暗くなっていた。木戸から奥の方へは小径が続いていた。無花果(いちじく)が傘のように枝を拡げて鬱蒼と茂っていた。無気味な暗さであった。その下を潜ると、前に開け放しになっている玄関が見え、十燭光ぐらいの薄暗い電灯が一つだけ侘しそうに点っていた。荒涼といった感じであった。
「ごめん下さい」
 と、呼んでみた。
 しかし、空家のように何処からも返事は返って来なかった。
「ごめん下さい」
「ごめん下さい」
 次第に私は、声を高くしていった。
 五、六回も呼んだろう。
「ハーイ」
 やっと奥から返答が聞えて来た。しかし、その声はいかにも面倒臭く、煩しそうであった。
 それからも暫く、私は玄関に立っていた。
 すると、不意にヌーッっと女の頭だけが左手の壁に裏から出て来た。まるで牛の頭が現われて来たようだった。バサバサの日本髪の頭であった。三十四、五の田舎者らしいおかみであったが、ぷっと頬を膨ませ、上唇をそっくり返して、いかにも不機嫌そのものといった顔付きで私の顔を睨んだ。
 こんなおかみにかかっちゃ、太宰も大変だろうと、何となくソクラテスの妻を想い出していた。

 

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 だから、
「太宰さんは、いらっしゃいますか」
 わざと丁寧に訊ねてみた。
 しかし、おかみは私の方には、一瞥もくれなかった。何か口の中でぶつぶつ呟きながら、土間を見廻していた。土間には男物の杉下駄が一足だけ、ひっくり返っていた。
 恐らく、「いるのか、いないのか、わかりゃしねえんだから、この人は。ほんに厄介な男さ」ぐらいのことを考えていたのであろう。
「さっき、出かけちゃったんだな」独語のように呟いた。そして、「いませんよ」と言うと、ぷいっと壁の奥に姿を消してしまったのであった。
 太宰もおかみからは工員達と同じように一止宿人としてしか見られていないことはよいとして、むしろ「厄介な止宿人」であるらしい様子が察しられた。
 それから二、三日経った夕方、河村からの帰りに、やはり横町から横町へと潜り抜けるように歩いていると、偶然、鎌滝の生垣に出た。夕方はいないのかもしれないと思ったが、アパートへ帰っても仕方ないので、鎌滝へ寄ってみることにした。木戸を押して玄関に入って行った。先日のおかみの故智にならって、土間を見てみた。歯のちびた男物の杉下駄が四、五足散らかっていた。この日は、太宰がいるような気がした。
 床柱に背を(もた)れかけて立膝して坐っていた男が、初めて、のっぺりした顔を上げた。
「どうぞ、どうぞ」

 懐手をしていた右手を差し出して、私を招き入れるような恰好をした。これが太宰であった。
「僕、長尾、いいます」
 一寸、頭を下げたが、突立ったままであった。言い方も、随分ぶっきら棒であった。しかし、この時の私としては、相手に対して「長尾」という名前を持った「人間」という意味だけで受け取って欲しいと要求したものであった。「相手」と「私」との関係がどうなるか。それはすべて将来のことだというのである。
 誰も私の闖入を気に掛けている様子はなかった。
「こちらへいらっしゃい」
 さっきのロイド眼鏡の青年が少し尻を上げて席を空けてくれた。するといま一人の浴衣がけの青年との間から将棋盤が見えた。何か重大な謀議でもしているように見えたのは、将棋を指していたのだとわかった。
 それでも私は立ったまま、坐るのを(ためら)っていた。というのは、煙草や蚊取線香の灰が、畳の上にあちこち落ちていて、坐る気がしなかったからであった。
 太宰はすぐ、気付いたらしく、
「座蒲団はねえかい、座蒲団は」
 わざと二人に囁くように低い声で訊ねると、畳の上を葡い廻るような恰好で座蒲団を探し始めた。
 しかし、部屋の中には、ロイド眼鏡の青年が敷いているのが一枚しかなかった。それも木綿の煎餅蒲団であった。
「なーんだ、塩月。それを出さねえかい。君が敷いてるって法はねえよ」
 と、太宰が言った。
 塩月と言われたロイドの青年は、
「おっと、失礼。はい、どうぞ」
  座蒲団を外してくれた。
 私は将棋盤の横で、太宰と向い合って坐った。そして、塩月といま一人、まだ名前のわからない浴衣がけの青年とが指している将棋を観戦していた。浴衣の青年の方がいくらか強そうであった。しかし岡目八目ということを差引いても、私より強いというほどではなさそうであった。私は心の中で、将棋があるなら、時々遊びに来てもよい。そうすると、これから二ヶ月近くもある夏休みも退屈せずにすむだろうと考えていた。
「君、将棋する?」
 突然、太宰が訊ねて来た。
「ええ、少し」
 と、わざと言葉を濁した。
 現に指している二人の力から考えて、太宰もそう強くはないに違いない。だから一つ太宰を負かしてやろうと思っていた。それにはあまり強そうに思わせない方がよかった。

 

●太宰と将棋について、3月15日の記事でも紹介しています。

 

「よーし、それじゃ後で君とやろう」
 太宰の声は意外なほど弾んでいた。多分、毎日毎日、同じ相手とばかり指しているので、将棋にも倦んで新顔と指すことに期待をかけていたということでもあろうが、又、自分達とは何処か肌あいが違い、まだ正体のわからない闖入者との間に、やっと共通の遊びを発見した、安堵感のようなものもあったに違いない。
 というのは、太宰は私と向い合って坐っていて、将棋を見ている風をしていたのだが、終始、落着かない様子でいた。一座の棟梁然として床柱に(もた)れて立膝をし、顎に右手を当てて観戦している格好はしているのだが、それもポーズだけのようであった。すぐにやにや微笑って頻りに頬や(あご)を撫でて見たり、忽ち気取って澄ましてみたり、盤の上に視線を落としてみたり、まるでカメレオンのようにポーズと表情だけを次から次へと変えて行くのであった。
 凡てが前にいる私を意識してであったが、私は太宰の相手をしているわけにはいかないので、知らぬ顔をして将棋を見ていた。
 前の年、新潮社から出版された「虚構の彷徨」を読み、巻頭の太宰の写真を見た時から、太宰という人は変った人だと考えていた。ポーズの中で生きているといってもよかった。以来、キザな男、というのが太宰に対して懐いていた正直な感情であった。だから佐藤春夫氏が「芥川賞」という小説の中で、「君子之交淡々如水」の論語の文句を引用しながら、芥川賞の妄執に憑かれた太宰の醜態な行状を完膚なきまでに書かれたときは、わが意を得たりと小気味よくさえ感じたものであった。

 

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■『虚構の彷徨』の巻頭写真

 

 しかし、目の前にいる太宰を見ていると、これは気の毒な人だと思わないわけにはいかなかった。気が弱く、人が好く、親切そうでもあり、私は好感さえ持ち始めていた。
 そんな時に、太宰が突然、にこにことして話しかけてきた。
「君、この間、僕に手紙をくれましたね」
 余りの意外さに、私は呆気に取られて暫く太宰の顔を見ていた。太宰はそれを確信し、しかもそれで将棋を指している他の二人に優越感を示そうとしている風にさえ窺えた。
「いいえ」
 私は強く否定した。
 私は侮辱されたような気落ちさえした。しかし、太宰のことだから、人違いをしているかもしれないとも思った。
「僕ではないですよ」
 と、言った。
 すると太宰は、一瞬、困惑したような顔付きをした。が、すぐ気持を取り直したように笑顔を作った。何かを思い付いたに違いない。
「いや、君だったよ、確かに。君だよ。一週間ばかり前だよ」
 まるで、手紙を出したことがきまり悪くて、私が嘘を言っているかのように聞えるのである。
 私の方もいくらか意地悪くなって来た。
「いやー、僕じゃないですよ」と、言いながら、「僕は手紙など書きませんからね」とつけ加えた。僕はファンではありませんからね、というつもりであった。
 しかし太宰の方は依然確信あり気に、そんなこと言っても駄目だよ、俺はちゃんと知っているんだから、と、言わぬばかりに私の眼を見て微笑っていた。そして、
「でも、僕の愛読者でしょう」
 押しつけるような口調で言った。
 太宰としてはこれだけは確信があって言ったに違いなかった。愛読者でもない青年が、夕方のこのこ下宿まで遊びに来る筈はないし、実際、太宰には若い愛読者で手紙を寄来したり、原稿を送って来るものも多くいたようであった。
 ところが困ったことに、私は愛読者でないばかりか、さっきからの言葉のやりとりで依怙地になっていた。
 だからつい、
「いいえ」
 と、言い返してしまった。
将棋を指しながら私達のやりとりに聞き入っていた塩月が、くすっと笑って肩をすぼめた。それがいかにもわざとらしく、タイムリィであったから、よけいに太宰を滑稽な立場に立たせることになった。
 さっきまで鷹揚に浮べていた微笑が、太宰の顔から消えた。(まなじり)を下げて、のっぺりとした顔が今にも泣き出して潰れそうになっていた。そして、顎に手を当てたまま、悄気きって黙り込んでしまったのであった。
 私は、悪かったなと思ったが、どうしようもなく、太宰には知らぬ顔をして将棋を見ていた。
 そのうちに、やっと将棋が終った。何回もヘマをしては攻め込まれて危かった浴衣がけの青年の方が、ようやく押し返して勝ったのであった。
 青年は遠慮がちに低い声で、「終った、終った」と、将棋盤を太宰の方に押しやった。そして、鼻からずり落ちそうになっている、度の強い眼鏡の中から、兎のようにあどけない眼を私の方に向けた。
「この間、コギトに小説書いておられた長尾さんですね」
 と、話し掛けた。
「ええ、そうです」
「『日は輝かずとも』というのでしたね。美しい、いい小説だったよ」
 太宰に対して半ば私を紹介するように言ってくれた。
「なーんだ、緑川。君、知っていたのか。早く言ってくれればいいのに」
 太宰がほっとしたように言った。しかし、太宰以上に私もほっとしていた。
 又、私も、この時初めて浴衣がけの青年が日本浪漫派の同人で、「コギト」にもつい最近、小説を書いていた緑川貢君であることを知ったのであった。
 緑川は太宰の言葉を聞くと、可笑しそうに、
「僕は初めからそう思っていたんだよ。関西弁だったからな。……でも、面白かったよ、ね、塩月」
 いかにも、「初恋」とか、「花園」とか、清純な小説を書いている人らしい訥々とした口調で言った。
 太宰は、太宰で弁解するように、
「コギト、この頃、僕のところへ送って来ないんだ。今度、来るとき、持って来てくれないかい。君の小説、読んでみたいからね」
 と、言った。
 しかし、「コギト」は太宰のところへ持って行かなかった。自分の小説を太宰に読んでもらうために持って行くなど、まるで太宰に弟子入りするみたいであったからだ。
 この後で、太宰は塩月と将棋をして負け、私は緑川として負けた。時刻が十二時に近かったので、私は太宰とはしなかったが、太宰の方も私とは指したくなさそうな気配であった。
「じゃ、僕――」
 余り遅くまでいては、悪いかもしれないと、私は立ち上った。
 すると、太宰が、
「皆、帰るから、一緒に出よう」
 鎌滝の木戸を出た途端に、後の暗闇の中で、ジャー、ジャー、物凄い音がした。ふっと、振り返ると、三人が揃って鎌滝の生垣に放尿していた。
 私は長い間、自分が放尿を忘れていたことに気付いた。「コギト」の同人達は、概してみんな行儀がよかった。放尿などしているのを見掛けたことはなかった。やはり、評論家や詩人が多かったせいでもあろうが、肥下氏が私を太宰のところへ遊びに行かせようとしたのも、何かそういった配慮でもあったのかと思ったのであった。
 十三間道路に出て、荻窪駅の北口の方へ歩いて行った。当時は

、駅前の商店街といっても、バラック建の商店が二十軒ばかり並んでいるだけであった。十二時近い駅前には、氷屋が二、三軒店を開けているだけであった。
 太宰が塩月と何かひそひそと話し合っていた。駅前に来ると、太宰が、
「氷を食べないかい」
 と、誘った。
 氷屋の椅子に腰掛けて、皆、一杯五銭のみぞれを二杯ずつ取った。そして、暫く話し合った。主に大学のことであったが、塩月赳氏が私にとっては美術史学科の先輩になることがわかったので、卒業論文のテーマのことなど話した。
 みぞれを食べ終って店を出るとき、塩月が太宰に五拾銭銅貨を一個渡していた。太宰はそれで氷代を払っていたが、さっき太宰が塩月と話していたのは、この五拾銭の借金を申し入れていたのだった。
 駅の南側にあるアパートに帰る塩月を踏切まで送って行き、ここで皆別れた。

 

 後に太宰と親しくなってから、よく、この日のことを太宰に持ち出しては揶揄った。
「僕に、『でも、君、僕の愛読者でしょう』って言うんやからな」
 と。
 すると、きっと太宰は顔を赤くしたが、ある時、
「だって、あの一月ばかり前に、私服の憲兵が訪ねて来たことがあるんだ。頭を丸刈りにしているから可愛いいんだ。愛読者ですっていうから、普通の文学青年だと思って、文学の話をしていたんだ。そうしたら、君、だんだん、話か戦争のことになって来るだろう。変だなと思って訊ねたら、君、憲兵なんだよ。でも、僕の愛読者だというから、帰れともいえないしさ。だから、君にだって、愛読者でしょうっていっておけば一番間違いないと思っていたんだ」
 と、弁解していた。
 大学時代、共産党に関係していた太宰は、憲兵隊にとってやはり、要視察人物であったのであろうが、この頃の太宰は、まったくマルキシズムとは無縁の人であった。

 【了】

********************
【参考文献】
・長尾良『太宰 治』(宮川書房、1967年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「173 肥下恒夫が発行した『コギト』/松原市
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】7月3日

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7月3日の太宰治

  1940年(昭和15年)7月3日。
 太宰治 31歳。

 静岡県賀茂郡上河津村の湯ケ野温泉に着いて旅館福田屋(福田家)に宿をとり、その二階の六畳間で「東京八景」の稿を起こした。

湯ケ野温泉「福田屋」での執筆

 1940年(昭和15年)7月3日、太宰は「大判の東京明細地図」を携え、東京駅を午後0時5分に出発する米原行き713列車で熱海まで行き、熱海で伊東線に乗り換えて、伊東から東海自動車東海岸線下田行きの路線バスに乗り、河津沿いにある小さな温泉地、静岡県賀茂郡上河津村の湯ケ野温泉に着いて、「福田屋」に宿をとり、その2階の六畳間で東京八景の稿を起こしました。
 当時の福田屋の宿帳には、万年筆書きの太宰の自筆で「七月三日(前夜宿泊地)自宅。(住所)東京府三鷹下連雀一一三。(職業)文筆。(氏名)太宰治。男三十二」と書いてあるそうです。

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 福田屋は、川端康成伊豆の踊子の舞台となった旅館で、現在の住所は、静岡県賀茂郡河津町湯ケ野236です。

 太宰は、この福田屋で、それまでの10年間の東京生活を回顧した小説東京八景を執筆します。太宰は東京八景の冒頭で、この地を選んだ理由や福田屋について書いているので、引用して紹介します。

 伊豆の南、温泉が湧き出ているというだけで、他には何一つとるところの無い、つまらぬ山村である。戸数三十という感じである。こんなところは、宿泊料も安いであろうという、理由だけで、私はその索漠たる山村を選んだ。昭和十五年、七月三日の事である。その頃は、私にも、少しお金の余裕があったのである。けれども、それから先の事は、やはり真暗であった。小説が少しも書けなくなる事だってあるかも知れない。二箇月間、小説が全く書けなくなったら、私は、もとの無一文になる筈である。思えば、心細い余裕であったが、私にとっては、それだけの余裕でも、この十年間、はじめての事であったのである。私が東京で生活をはじめたのは、昭和五年の春である。そのころ既に私は、Hという女と共同の家を持っていた。

 

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■「Hという女」こと、太宰の最初の妻・小山初代

 

田舎の長兄から、月々充分の金を送ってもらっていたのだが、ばかな二人は、贅沢を戒め合っていながらも、月末には必ず質屋へ一品二品を持運んで行かなければならなかった。とうとう六年目に、Hとわかれた。私には、蒲団と、机と、電気スタンドと、行李一つだけが残った。多額の負債も不気味に残った。それから二年経って、私は或る先輩のお世話で、平凡な見合い結婚をした。

 

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■「平凡な見合い結婚」の相手、妻・津島美知子

 

さらに二年を経て、はじめて私は一息ついた。貧しい創作集も既に十冊近く出版せられている。むこうから注文が来なくても、こちらで懸命に書いて持って行けば、三つに二つは買ってもらえるような気がして来た。これからが、愛嬌も何も無い大人の仕事である。書きたいものだけを、書いて行きたい。
 甚だ心細い、不安な余裕ではあったが、私は真底から嬉しく思った。少なくとも、もう一箇月間は、お金の心配をせずに好きなものを書いて行ける。私は自分の、その時の身の上を、嘘みたいな気がした。恍惚と不安の交錯した異様な胸騒ぎで、かえって仕事に手が附かず、いたたまらなくなった。
 東京八景。私は、その短篇を、いつかゆっくり、骨折って書いてみたいと思っていた。十年間の私の東京生活を、その時々の風景に託して書いてみたいと思っていた。私は、ことし三十二歳である。日本の倫理に於ても、この年齢は、既に中年の域にはいりかけたことを意味している。また私が、自分の肉体、情熱に尋ねてみても、悲しい哉それを否定できない。覚えて置くがよい。おまえは、もう青春を失ったのだ。もっともらしい顔の三十男である。東京八景。私はそれを、青春への訣別の辞として、誰にも媚びずに書きたかった。
  (中略)
 東京市の大地図を一枚買って、東京駅から、米原行の汽車に乗った。遊びに行くのでは、ないんだぞ。一生涯の、重大な記念碑を、骨折って造りに行くのだぞ、と繰返し繰返し、自分に教えた。熱海で、伊東行の汽車に乗りかえ、伊東から下田行のバスに乗り、伊豆半島東海岸に沿うて三時間、バスにゆられて南下し、その戸数三十の見る影もない山村に降り立った。ここなら、一泊三円を越えることは無かろうかと思った。憂鬱堪えがたいばかりの粗末な、小さい宿屋が四軒だけ並んでいる。私は、Fという宿屋を選んだ。四軒の中では、まだしも、少しまともなところが、あるように思われたからである。

 

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意地の悪そうな、下品な女中に案内されて二階に上り、部屋に通されて見ると、私は、いい年をして、泣きそうな気がした。三年まえに、私が借りていた荻窪の下宿屋の一室を思い出した。その下宿屋は、荻窪でも、最下等の代物であったのである。けれども、この蒲団部屋の隣りの六畳間は、その下宿の部屋よりも、もっと安っぽく、侘しいのである。
「他に部屋が無いのですか」
「ええ。みんな、ふさがって居ります。ここは涼しいですよ」
「そうですか」
 私は、馬鹿にされていたようである。服装が悪かったせいかも知れない。
「お泊りは、三円五十銭と四円です。御中食は、また、別にいただきます。どういたしましょうか」
「三円五十銭のほうにして下さい。中食は、たべたい時に、そう言います。十日ばかり、ここで勉強したいと思って来たのですが」
「ちょっとお待ち下さい」女中は、階下へ行って、しばらくして、また部屋にやって来て、「あの永い御滞在でしたら、前に、いただいて置く事になって居りますけれど」
「そうですか。いくら差し上げたら、いいのでしょう」
「さあ、いくらでも」と口ごもっている。
「五十円あげましょうか」
「はあ」
 私は机の上に、紙幣を並べた。たまらなく」なって来た。
「みんな、あげましょう。九十円あります。煙草銭だけは、僕は、こちらの財布に残してあります」
 なぜ、こんなところに来たのだろうと思った。
「相すみません。おあずかり致します」
 女中は、去った。怒ってはならない。大事な仕事がある。いまの私の身分には、これ位の待遇が、相応しているのかも知れない、と無理矢理、自分に思い込ませて、トランクの底からペン、インク、原稿用紙などを取り出した。

 

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 十年ぶりの余裕は、このような結果であった。けれども、この悲しさも、私の宿命の中に規定されて在ったのだと、もっともらしく自分に言い聞かせ、(こら)えてここで仕事をはじめた。
 遊びに来たのでは無い。骨折りの仕事をしに来たのだ。私はその夜、暗い電燈の下で、東京市の大地図を机いっぱいに(ひろ)げた。

  もう少し良い書き方はなかったのか、とも思いますが、太宰独特の、誇張した表現法のような気もします。
 太宰は、この「福田屋」に7月3日から7月12日まで滞在し、中期の代表作である東京八景を書き上げました。

 【了】

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【参考文献】
・鈴木邦彦『文士たちの伊豆漂白』(1998年、静岡新聞社
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「伊豆の踊子の宿 福田家/明治十二年創業
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】7月2日

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7月2日の太宰治

  1948年(昭和23年)7月2日。
 太宰治 39歳。

 七月一日付発行の「月刊読物」薫風号に「黒石の人たち」を発表。

『黒石の人たち』

 今日は、1948年(昭和23年)7月1日発行の「月刊読物」第一巻第五号に新仮名遣いで発表されたエッセイ『黒石の人たち』を紹介します。このエッセイは、太宰の死後に掲載、カットは、太宰と青森県立中学校の同級生だった阿部合成でした。
 この雑誌には、ほかに『知事と太宰治』(小林浮浪人)、『礼文島と私』(稲見五郎)、『李順栄』(竹内俊吉)、『友遠方より来たらず』(平井信作)、『恋愛ばやり』(沙和宗一)が掲載されていました。

『黒石の人たち』

 津軽疎開中、黒石町にいちど遊びに行った事があります。黒石民報の中村さんのところへ遊びに行ったのです。中村さんは、(しま)ズボンをはいていました。いつも、はにかんで、赤面し、微笑していました。頭のいいひとは、たいてい、こんな表情をしているものです。中村さんは、私に字を書かせました。そうして私の書いているのを傍で見ていながら、「こないだ、××さんにも書いてもらったが、あのひとは、うまかった」と言いかけ、ご自身ひとりで、ひどく狼狽していました。私の時には、いたく失望なさったらしいのですが、無理もないんです。

 

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■太宰、疎開中の書

 

 黒石民報社の主筆の福士さんは、黒石の詩人や作家たちを、私に紹介して下さいました。私のワイシャツの袖口のボタンなどはずれていると、福士さんはそれを気にして、無言で直してくれるのでした。私も安心して黙って福士さんに直してもらい、まるで私は福士さんにとって中風のおじいさんのようでした。
 北山さんという詩人は、雪の夜路を私と二人で歩いて、北山さんはその夜、特に新しい軍靴をはいて私に歓迎の心意気のほどを見せてくれたのですが、新しい軍靴は雪に滑って、北山さんは、何度も何度もころびました。北山さんは、一升瓶を持参していたので、私は、北山さんのころぶ度に、ひやりとしました。
 また対馬さんという詩人は、私を黒石の隣村に連れて行って、座談会をひらきましたが、村の人は坊主のお説教と間違ったのか、じいさん、ばあさんが、たくさん集ったのには、閉口しました。そのうちに、村の若者のひとりが、私を無視して、ご自分で演説をはじめ、甚だ座が白け、対馬さんは、その若者に演説をやめさせようとして大苦心の態でした。
 そこを引き上げて、私たち二人は、その村のお医者さんのところへ行き、お酒を飲んでも、ちっとも意気が上がりませんでした。実に、みじめな座談会ですが。
 また、黒石の近くの別の村の村長さんで神さんというおじいさんがあって、この人は、「津島のオンチャは、まだまだ、ものになっておらん、勉強しろ、こら、ばか者めが」と言って、やたらと私を叱るのです。叱られて、うれしい思いがしました。
 いまは仕事に追われて、ゆっくり書けませんが、こんどまた機会を見て、何か書かせていただきます。

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■金木の芦野公園にて

 【了】

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【参考文献】
・『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』(新潮社、1983年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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