記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】9月12日

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9月12日の太宰治

  1912年(大正元年)9月12日。
 太宰治 3歳。

 九月十三日、乃木大将夫妻が殉死した。

『将軍』と芥川龍之介

 1912年(大正元年)9月13日。乃木希典(のぎまれすけ)(1849~1912)夫妻が殉死しました。乃木は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、教育者です。日露戦争(1904~1905)における旅順攻囲戦の指揮や、1912年(明治45年)7月30日に崩御した明治天皇を慕って殉死したことで、国際的にも有名です。
 階級は、陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院長に命じられ、迪宮裕仁親王(みちのみやひろひとしんのう)昭和天皇)の教育係も務めました。「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれることも多く、「乃木神社」や「乃木坂」に名前を残しています。

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乃木希典(のぎまれすけ)

 太宰が、青森県立青森中学校4年生だった、1926年(大正15年)。6月5日付で発行した同人誌「蜃気楼」六月号に、津島修治(太宰の本名)の署名で、「乃木大将」を題材にした短篇『将軍』を発表しました。

『将軍』

 無論、僕は将軍を頑固な、そして「ハラキリ」より他に芸のない恐ろしいヤカマシ屋だと思って居た。
 僕は彼等を尊敬しては居なかった。(しか)し嫌いだというわけでもなかった。ただ単に「彼はホントはエラかったのだそうだ」位に思って居た。
 その将軍の遺物展覧会とも称((ママ))べきものが、この町に開かれた。学校でそれを「拝観」の為に生徒が全部、教師に所謂「引率」されて会場に行くことになった。
 僕ははじめから、行くことに気乗りがしなかった。いずれ将軍の「ハラキリ」の時用いた、短剣に血糊のドス黒くコビリついて居るものや、又将軍が物珍しさにまかせて、いじくり廻した農具…………といったような物を見せられることだろうと思って居た。
 それで渋面をしながら(ホンとにそんなツラをしたのだ)会場に入って見た。
 有る。有る。果して刀が会場の入口にピカッ――と輝いて控えて居る。
 前々から覚悟はして居たが、こんなに早く「切腹用の刀」が出現しようとは思わなかった。
 さぞ血糊も、くっついて居ることであろうナとホントに恐る恐るその傍に近附いて見る。
 意外にも血糊がない。ビカビカと黒光りがしてある。傍の説明文句を読む。
「?国?」の名刀とある。ハァーさては将軍はこれで切腹したんではないナと思って又刀を見直す。成程名刀にちがいない。将軍の珍重されて居た名刀だそうだ。将軍も流石にこの名刀で腹は切れなかったらしい。なにしろ名刀だからな、いかにもこいつは名刀だ。「これを振り廻して見たいナ」と野心を起したりして見る。とにかく名刀と、いうからには切れるにきまってる。
一寸(ちょっと)隣りに立って居る人の頭を切って見たいナ」と、よからぬ考を持つ。隣に立って同じように名刀に見とれて居る友達の頭をチョイと横目で見る。その時友達の頭は不思議にも南瓜(かぼちゃ)のように見えた。これなら切ってのけるのに、わけア無いナと思う。
 名刀を見て居るうちに、皆にその床に座れという命令だ。とにかく座る。講演があるんだそうだ。将軍の甥だとかいう中佐が将軍に関しての色々の講話をなさるんだそうだ。
 僕はヤレヤレと思った。又あの頑固老爺が自分の子をいかにヤカマシク教育した事や、まるで守銭奴のようにして迄、質素、倹約をした御講話であろうと思ったからである。

 

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■殉死当日の乃木希典と妻・静子

 

 直ちにその御講話なるものが始まる。果して将軍の頑固振りを述べたてた。なんでも、その甥の中佐が小さい時、将軍の命令で墓参をしたが、その時その墓に書いてあった文句を暗記して来ないと言って、ひどく叱られたとか言う話だ。
 馬鹿馬鹿しいと思った。更に興味が起らなかったから僕が座って居る所の床板にある小さな小さな穴を見つけこれがどうゆう理由で出来たのだろうか? ということを考えて居ることにした。
 それも直き()きて来たから、又講話を拝聴する。
 中佐は一段と声を高めて言った。
 …………「大将は又決して『昼ね』はしませんでした」……僕だって「昼ね」をしないヨ。…………「併し私は今考えて見まするとヤッパリ大将だって夜間演習などで一睡もしないで帰宅したりする時には『昼ね』をしたようです。『裏二階は梯子段が急だから上ってはいけない』と大将は常に私達に言って居ました。が今から考えて見ると大将はあの裏二階に言って常に『昼ね』したように思われます。いわば裏二階は大将の自由の天地でした。そして大将はそこで勝手に寝たり、倒立(さかだ)ちしたり、飛んだり、はねたりして居たように思われます」…………フン…………仲々話せるナと僕は思った、やや興味が起って来る。
 …………「それから又こんな事もございました。或日(あるひ)大将と二人の子供と、それから私と四人で墓参の帰途『そばや』に立ち寄りました。大将はお前達の好きなものを食えと言((ママ))ましたから、私達はまだ幼なかったものですから、それもこれも一人で十五六種もあつらえました。大将はニコニコして笑って居ました。『そば』はすぐ出来て来ましたが仲々食ってしまうことが出来ません。二三杯食ってしまうともう苦しくなりました。大将はもっと食え食えと言((ママ))ますがとても食べられませんから皆で大将に、おわびを申しました。大将は笑って別に叱りもしませんでした。それから帰るという段になりましたが皆腹がはって誰も歩いて帰るだけの勇気はありませんでした。それで大将は『そば』の代を全部そば屋に払ってから車やを呼びにやってそして私達を一人ずつおぶって車に乗せて呉れました」…………増々面白味を感じて来る。愉快になって来る。将軍も実際はいいオジイサンだったんだ。ケチケチしては居なかったんだ。(こと)に皆をおぶって車に乗せて呉れるなど……僕にもこんなオジイサンがあればいいなと思って見るように迄成って居た。僕は全く晴々しい気分でその話に聴き入った。中佐はそれから将軍が書籍が好きであって面白い本があれば、よくヒトにそれを貸して読ませた。そして時々そのヒトにそれを読んだ後の感想を話させたものであると言うようなことも言った。
 僕は思わず微笑した。将軍のその感想を聞く時の心理が僕には余りにハッキリわかって居たからだ。否僕も実はそれと同じようなことをした時が、あったからだ。ホー将軍は僕と似たようなこともしたんだナ、僕は驚きとも、喜びともつかない妙な気分を味った。将軍も人間だったんだよ。僕は一大発見をしたように目を輝かした。
 中佐は更に話を続けた。
 それからの中佐の話はどれも、これも皆愉快なことばかりだった。中佐はこんなことも言った。将軍が外国に行った時には実に豪奢(ごうしゃ)を極めたものだそうだ。宿るにはその町で一番上等のホテルに、又シガーなんかでも最上等のものを用いたんだそうだ。一寸そこに行くと言う場合でも自動車でブーブーだ。
 僕はこれを聞いて、いよいよ愉快になって来た。将軍はやっぱり人間だった。シャレるということを知って居たんだ。如何(いか)にそれが我国の威を示そうと目的であったとはいえ、とにかく将軍はシャレたんだ。僕はもう愉快でたまらなかった。()し許したなら僕はあの時大声で将軍の万歳を三唱したに違いない。
 僕の大好きな将軍よ! 僕はアナタをウソに見てしまって居たんだ。失敬したナ、僕はもう酔ってしまったようになって居た。もしもあの時僕の傍のヒトが一寸気をつけて居るならば僕の顔が常にニヤニヤニヤして居たのを発見したであろう。
 中佐の話はそれから少し続いた。
 そして間もなく「十分間休んで又講話を続けるから、その間遺物を拝観するように」と言った。僕はニヤニヤしながら、立って、たくさんの遺物を見た。こんどは、どれにもこれにも、あの人なつこい細い目をした将軍の白髭の顔が表われて来るような気がした。懐かしくってたまらなかった。
 血糊のついたハラキリ刀も見たが、別に気持が悪くなかった。かえって、あのオジイサンが真顔で「ハラキリ」をした光景を思い浮べて、滑稽な感じさえした。講話の続きを聞いて行きたいとは思ったが、なんとなく気がソワソワして外に出たくて、たまらなくなったからコソコソ会場を出た。
 僕はブラブラと道を歩いた。僕はこんな嬉しい気持ちで歩けることは一生涯に二回も三回もあるであろうか。「フフン」僕はさも得意そうに鼻を動かした。そしてつぶやいた。
 ”He is not what he was.”

 太宰は、芥川龍之介(1892~1927)から強い影響を受けたと言われており、1924年(大正13年)の頃から芥川の小説に親しむようになりました。芥川は、乃木を皮肉った短篇『将軍』を書いています。前半が官憲の検閲によって伏字だらけになっていますが、太宰は、芥川の『将軍』を模倣して、この短篇『将軍』を執筆したものと思われます。

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芥川龍之介

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
太宰治『地図 初期作品集』(新潮文庫、2009年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】9月11日

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9月11日の太宰治

  1933年(昭和8年)9月11日。
 太宰治 24歳。

 九月十一日付で、木山捷平(きやましょうへい)に手紙を送る。

木山捷平(きやましょうへい)への手紙

 木山捷平(きやましょうへい)(1904~1968)は、岡山県小田郡新山村(現在の、笠岡市)生まれの詩人、小説家。姫路師範学校(現在の、神戸大学)を経て、東洋大学専門学部文化学科に進学。在学中の1925年(大正14年)、赤松月船主催の詩誌「朝」に同人として加わり、その後、1929年(昭和4年)に第一詩集『野』を刊行するなど、当初は詩人として活動していました。
 1933年(昭和8年)3月、太宰、古谷綱武らと、同人「海豹」を創刊し、初めて小説『出石』を発表して、小説家としてデビューしました。
 太宰が、古谷の家で「海豹」創刊号に発表する魚服記の校正をしていたところ、そこに居合わせた木山は、校正が完了して屑籠にまるめて捨てられそうになった原稿を見て、「太宰君、ちょっと待った。その原稿は僕に進呈してくれないか」と声を掛け、「こんなもの、何にするんだい?」と不思議がる太宰に、「君が将来大文豪の列に列した時、我が家の財産にするために保存したいんだ」と言ったそうです。
 1934年(昭和9年)には、太宰、檀一雄中原中也山岸外史らと、同人誌青い花を創刊します。しかし、青い花は創刊号で廃刊となり、1935年(昭和10年)4月、「日本浪漫派」に合流していくことになります。「日本浪漫派」創刊にあたり、木山は、中谷孝雄から、太宰、山岸、中村地平を誘い入れるように言われ、太宰を訪問しますが、太宰は「僕は同人雑誌にはくたびれたよ。同人雑誌はもうごめんだ」と言ったそうです。最終的に「日本浪漫派」に参加した太宰は、そこに道化の華を発表しました。
 また、木山は、1937年(昭和12年)に高円寺へ引っ越したことをきっかけに、太宰も参加した「阿佐ヶ谷将棋会」(通称:阿佐ヶ谷会)を発足させます。この阿佐ヶ谷会は、「中央沿線に住む文士連が、適当な時期に午後一時頃から夕方まで将棋をさして、夜は酒を飲む会」でした。
 阿佐ヶ谷会での太宰の活動の様子については、2月5日や3月15日の記事で紹介しています。


 それでは、1933年(昭和8年)9月11日付で、太宰が木山に送った手紙を紹介します。

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木山捷平 書斎にて。

  東京市杉並区天沼一ノ一三六 飛島方より
  東京市杉並区馬橋四ノ四四〇
   木山捷平

 拝啓
 その後御ぶさた申しています。お伺いもいたさず失礼申しました。そのうちぜひお伺いしようと思っています。「海豹」九月号、一昨日、小池氏から一部もらいました。貴兄の創作を拝読しました。
 ひとはなんと言われたか知れませんが、私は、あれでいいと思いました。立派だと思いました。
「出石」、「うけとり」、と進まれた貴兄の足跡がとうとう頂上にたどりついたと存じました。ひとつの山を征服された貴兄が、すぐまた、目前のより高い山を睨んでいることを信じます。また、そのゆえにこそ「子への手紙」が尊いのだと存じられます。

 塩月兄のも、たいへんよかったと愚考いたします。彼氏の取組んでいる山は、ずいぶん大きいのに好意が持てます。頑固に、執拗に、ひとつの山と取り組んでいます。あの山を征服したら、たいしたものと思います。今月のは、なまなかに(ストオリイ)など作らず、ひたむきにあの女のひとの情熱を追及して行ったら、より成功したのではないか、と考えています。
 私も少しずつ勉強しています。よい仕事をしたいと思っています。また、ひとの立派な仕事にも接したいと思っています。よい作品を書きたいし、また読みたいと念じています。私は二瓶氏の先月の作品に興味を持ちました。いまにいゝものを書くひとだと期待していますが、どうでしょう。先月のは出来があまりよくなかったようですが、筆にねばりけがあって、力強く感じられました。
 そのうち私もお伺いいたしますが、貴兄もおひまの折お遊びにおいで下さい。

 まずは恥かしい愚見をさらして、しつれいいたします。
 塩月兄にもよろしく。
          太宰 治
 木山捷平

 同人雑誌「海豹」九月号に掲載された木山の創作が、『子への手紙』でした。
 「塩月兄」とは、塩月赳(しおつきたけし)のことです。太宰は、1943年(昭和18年)に塩月が結婚するにあたり、結納を届けたり、式の打ち合わせに行ったりと、仲人役を務めて奔走しました。塩月の結婚式については、4月28日の記事で紹介しています。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】9月10日

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9月10日の太宰治

  1946年(昭和21年)9月10日。
 太宰治 37歳。

 九月上旬頃、雑誌「新潮」編集長斎藤十一(さいとうじゅういち)に依頼されて、昭和二十一年春に新潮社に入社し出版部にいた野原一夫(のはらかずお)が、「新潮」への小説連載の依頼状を投函した。

野原一夫(のはらかずお)、太宰に原稿依頼

 野原一夫(のはらかずお)(1922~1999)は、東京府出身の編集者、作家です。
 東京府立第五中学校(現在の、都立小石川高等学校)から浦和高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学逸文学科を卒業。1943年(昭和18年)12月の学徒出陣で、二等水兵として横須賀市の武山海兵団に入隊、その後、海軍の第四期兵科予備学生となりました。1944年(昭和19年)12月、海軍少尉任官、埼玉県大和田通信隊に勤務し、1945年(昭和20年)4月、南九州鹿屋基地に第五航空隊司令部付として赴任。終戦を大分で迎えました。
 復員後の1946年(昭和21年)8月26日、700名中2名の被採用者の1人として、新潮社に入社(もう1人は、野平健一)。出版部に配属されます。高校時代から愛読し、学生時代に4度訪問して親交があった太宰に斜陽の原稿依頼をするなど、太宰が玉川上水で心中するまでの約1年8ヵ月の間、編集者として最も頻繁に、太宰と接していました。
 今日は、野原の回想 太宰治から、野原が復員し、太宰に原稿依頼するまでを引用して紹介します。

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三鷹の若松屋 左から太宰、女将、野原一夫、野平健一。1947年(昭和22年)、撮影:伊馬春部

  復員した翌年の二十一年の夏、非常な競争率だった入社試験にどうしたわけか合格して、私は新潮社に入社した。新入社員は、京大の仏文化を出た野平健一君と私の二人だけだった。入社した日に私たちは社長室によばれ、幹部社員としての自覚を持って励んで欲しい旨を佐藤義夫社長から言われた。私は出版部に、野平君は雑誌『新潮』の編集部に配属された。
 二十年四月の空襲で家は焼かれてしまったので、そのころ私は、国電板橋駅から十五分ほどの安アパートの一室に住んでいた。雨漏りのため畳はふやけ、得体の知れぬ臭いが壁にしみついているひどいアパートだったが、そんなところでも住みこめたのは僥倖(ぎょうこう)だった。知人がやっていた闇屋まがいの仕事の手伝いを私がし、妻はチューインガム鉤状に働いて、やっと食いつないでいた毎日だった。そのころ私は一冊の雑誌も読まなかったような気がする。定職に就けたのは、それも一流出版社といわれているところに就職できたのは嬉しかった。焼跡の東京を、板橋から池袋、池袋から新宿と満員電車に揉まれ、新宿から都電で牛込矢来町へと、私は毎日張り切って通勤した。
 当時の新潮社は、全社員合わせても三十人足らずではなかったか。出版部が佐藤哲夫部長以下五人、『新潮』編集部が斎藤十一編集長以下四人、児童雑誌『銀河』が発刊準備を進めていた。
 仕事は、あまり忙しくなかった。印刷所も製本所もまだ機能を十分に回復していなかったし、なによりも用紙事情が悪化していた。次々と本を出せる状態ではなかった。それと、敗戦による時代の激変にどう対応したらよいのか、そのとまどいと惑乱が新潮社の幹部のなかにあったようにも思う。
 はじめにやらされた仕事は、編集顧問をしていた河盛好蔵氏の企画による『新文学講座』の編集だった。新しい時代の新しい目で文学を見直そうという四巻の講座だった。プランも出したが、主な仕事は原稿取りに走りまわることだった。当時は、電話のある執筆者などほとんどなかった。原稿の督促も在否をたしかめずに足を運ぶしかなく、足の便がまたひどく悪かった。編集とは、肉体労働なのかと思いながら、私はけっこう楽しかった。文学の世界の片隅にやっと戻ってこれたのだという悦びを、私は噛みしめていた。
 日本の現代文学をほとんど知らなかったので、私はその勉強もはじめた。丹羽文雄、舟橋誠一、石川達三、井坂洋次郎、井伏鱒二高見順林芙美子、社の書庫から本を借り出して次々と読んだが、井伏鱒二の初期の短篇と高見順の『故旧忘れ得べき』が印象に残ったくらいだった。その年の三月に『新日本文学』が創刊され、宮本百合子の「播州平野」と徳永直の「妻よねむれ」の連載がはじまったが、興味がなかった。そんななかで、私は二人の作家を発見した。石川淳坂口安吾。名前さえほとんど知らなかったこの二人の作家の、「無尽燈」を「焼跡のイエス」を「堕落論」を「白痴」を「女体」を、新刊の雑誌で読み、私は興奮した。日本の新しい文学はここから始まるのだとさえ思った。石川淳坂口安吾と、そして太宰治、この三人の作家を大事にしていこうと思った。

 

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坂口安吾 銀座のバー・ルパンにて。1946年(昭和21年)11月25日、撮影:林忠彦

 

  その太宰治は、遠く津軽にいた。

 昭和十九年から二十年にかけて、つまり私が軍隊にいたあいだに、太宰さんは「新釈諸国噺」を完成し、「津軽」「惜別」「お伽草紙」の三作を書き下している。私はそのことを入社してまもなく知ったが、しかしその「新釈諸国噺」も「津軽」も「惜別」も「お伽草紙」も、私は手に入れることができなかった。焼跡にすこしずつ出現しはじめた本屋の店頭にも、それらの本はなかった。戦争が終わってまもなく「パンドラの匣」という長篇小説を仙台の新聞に連載したことも知ったが、読むすべもなかった。さいわい、『新潮』の二月号に「」という短篇が発表され、その雑誌が編集部に保存されてあった。私はその雑誌を借り、無人の屋上に出て、立って風に吹かれたまま、そのコントふうの短篇を読んだ。実に、三年ぶりの、太宰さんとの再会だった。そのあと、『展望』の六月号に掲載されていた「冬の花火」という三幕の戯曲を、やはり編集部の保存本で読んだ。まもなく『人間』に戯曲「春の枯葉」が発表された。この二つの戯曲から私は、太宰さんの心の奥底の(うめ)きのようなものを聞いた。

 

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株式会社新潮社 1896年(明治29年)設立。東京都新宿区矢来町71。

 

 その頃、神楽坂の通りをつれだって歩いていたとき、『新潮』編集長の斎藤十一氏から好きな作家は誰かと訊かれた。私は即座に太宰治の名前をあげた。
「若い人に人気があるのかね。」
「それは知りません。」
「どんなところが好きなの。」
 私は返答に窮した。
「なつかしいひとです。」
 斎藤氏は妙な顔をした。私はかいつまんで太宰さんとの事を話した。
「きみが新潮社に入ったことは連絡したの。」
「まだです。」
「すぐしたまえ。」
 斎藤氏は強い口調で言った。
 しかし私には、躊躇(ちゅうちょ)するものが、あった。たった四度しか会っていないのに、旧知のような顔をすることへの気羞(きはずか)しさ。それに三年も経っている。戦中戦後の激変の三年。もう憶えていないのではないか。忘れられていることへの不安。
 やがてある日、私は斎藤氏に呼ばれ、『新潮』に太宰治の長篇を連載したいから依頼の手紙を出して欲しいと言われた。
 もうお忘れになっていらっしゃることと思うが、という書き出しで、私は太宰さんに手紙を書いた。浦高生のとき講演をお願いに行った、大学に入ってから小説を読んでもらったことがある、――書いているうちに、太宰さんの横目が目にうかび、その言葉の端々が記憶によみがえってきた。もっと早くに便りをすればよかった、ああ、早く会いたい、と思った。
 すこしして、太宰さんからの返事がきた。
 残念ながらその葉書は紛失してしまったが、きみのことはよく憶えている、『新潮』への連載は考えてみる、いずれ年内には東京に帰るからその時にゆっくり会おう、というような文面だった。
 その簡単な文面を私は何度も読み返した。小躍りしたい気持だった。斎藤氏にその葉書を見せたとき、私の顔はきっと上気していたにちがいない。
 それからニ、三度手紙の往復があって、十一月十四日には東京に帰り着くだろうという連絡があった。

 【了】

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【参考文献】
・野原一夫『回想 太宰治』(新潮文庫、1983年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】9月9日

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9月9日の太宰治

  1943年(昭和18年)9月9日。
 太宰治 34歳。

 桂英澄(かつらひでずみ)の壮行会が、本郷区千駄木町五十六番地の桂宅であり、石澤深美、堤重久、池田正憲などと出席、一夕をともにした。

桂英澄(かつらひでずみ)、入隊前夜

 桂英澄(かつらひでずみ)(1918~2001)は、東京市本郷区生まれの小説家。京都帝国大学哲学科を卒業し、NHKに入社、戦後放浪生活に入り、8年ほど療養生活をしたのち、「立像」「現代人」など同人誌に創作を発表。1971年(昭和46年)、「早稲田文学」に連載した『寂光』直木賞候補作品となりました。
 桂は、京大在学中の1942年(昭和17年)4月から、太宰に師事。1944年(昭和19年)5月までの約2年間、交流がありました。

 1943年(昭和18年)9月9日、桂の土浦海軍航空隊への入隊前夜。桂の自宅で出征壮行会が行われ、太宰は、石澤深美堤重久池田正憲などと一緒に参加しました。このときの様子を、桂の回想『入隊前夜』を引用して紹介します。

 私が京都大学を繰り上げ卒業したのは昭和十八年九月のことだが、すでに令状が来ていて、九月十日には土浦海軍航空隊に入隊することになっていた。とくべつに繰り上げてもらった卒業論文の口頭試問を済ませ、京都の下宿からあわただしく東京本郷(現文京区)千駄木町の生家へ帰ってきたのは入隊三日前のことである。太宰治の許によく一緒に出入りしたリーダー格の堤重久をはじめ、高校時代からの親友三人が送別会をやろうと言ってくれたのだが、もはや余裕もないので、入隊前夜、私の生家に来てもらうことにした。
 入隊前日の午後、私はこれが最後というつもりで三鷹の太宰宅を訪ねたが、堤たちが集まることを告げると、太宰は言下に「僕もゆこう」と言ってくれた。おっとり刀で駆けつけるような太宰の心意気が私には身に染みて有り難かった。明日からは軍隊と思うと、途中、電車のなかの束の間も貴重な気がして、思い浮かぶままに何かと質問を発したりした。
 たまたま島崎藤村の死が報じられた直後のことで、私は藤村について訊いた。
「うん。だけど、藤村が死んでも、どうということはないよ。僕には、徳田秋声のほうが懐かしいね。秋声は、生死すれすれの境を何度も通り抜けてきてるんだよ」
 太宰はそう言い、藤村は自分の血の宿命とほん気で取り組んではいない、と評した。そのころ私はメリメ全集を読み続けていたので、メリメについても訊いたりした。
「メリメというのは、サロンで女にもてたくてね、面白い話を考えたんだよ」
 太宰が加えたそんなどくとくの批評は、いまも忘れることなく私の記憶に残っている。
 新宿で友人たちと落ち合い、皆を千駄木の私の生家へ案内した。
 応接間でひと憩みしてもらっていると、母が出てきた。よろずにてきぱきした母は、あけっぴろげに太宰に挨拶すると、和服に袴をつけた太宰は、へどもどして口の中で何か言いながら、ひどく照れ臭そうに挨拶していた。

 

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■桂英澄の壮行会 前列右から、桂、太宰、堤重久。後列右から、石澤深美、池田正憲。

 

 座敷に移ってくつろいでもらい酒になった。母は張り切ってありったけの材料を揃え、料理の腕をふるおうとしていた。画家の姉ユキ子(のち、ゆき)も弟も出てきて、私たち若者が先生、先生とこぞって私淑する珍客の思いがけぬ来訪を家中で歓迎する気配であった。
 その前年の夏、太宰は箱根ホテルに滞在して執筆したが、私も弟が箱根町で療養中だったことから、太宰に誘われて十日ほどを太宰の身辺で過ごしており、そのとき弟は何べんも太宰に会っていた。姉桂ユキ子は当時満三十歳を迎えようとしていたが、独自の才能を期待される前衛洋画家としてすでに一家をなしていた。単身でまわっていた満州旅行からちょうど帰ってきたばかりのところで、ハルビンで手に入れたというスコッチウィスキーをとり出して太宰に勧めた。物資のとみに欠乏しはじめていたその頃、貴重なものだったに違いないが、太宰はいっこうに興味を示さず、コップのビールにじゃぶじゃぶそそぎ入れたりしていた。

「軍隊に入るとね、誰も、いたわってなんかくれないんだよ。だけど、りきんだりしちゃいけない。無理をしないで、人並に、平凡に、ということを忘れないようにし給え」
 太宰は繰り返してそう言い、軍隊生活も”軽み”の感覚で過ごせ、という言葉をはなむけとして贈ってくれた。
 そのほかには、どのような話をしたかいまは定かではないが、聖書が話題になったことだけは確かである。当時、私たちには世界が刻々と暗黒の渕に沈んでいくような実感があり、太宰治の許に足しげく通ったりしたのも、暗冥のなかに一条の光を求めるような気持が強かったからだが、何が真実かを判断する規準のような思いで、私たちの誰もが聖書をよく読んでいたのである。
 酒が進むにつれて、いつものことだが太宰の口からは的を射抜くような警句や殺し文句がとび出し、席は賑わっていった。
 だが、太宰治は急に坐り直すようにすると
「だけど、桂はね、家ということを忘れてはいけない。いつも、桂という家のことをね……」
 声を励ますようにして、しきりに家、家というのである。
 太宰らしくない唐突な言葉だと思いながらも、私はかしこまって受けとめた。
 皆で写真を撮ることになり、姉がシャッターを押すと、太宰は「いやあ」と頭に手を当て、ひどく照れていた。その夜、姉のユキ子は黒衣(くろご)に徹して、万事表立たず、裏にまわってサービスに努めてくれた。

 

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■桂英澄の壮行会 右から、桂、石澤深美、太宰、堤重久、池田正憲。

 

 夜も更け、皆は帰ることになったが、私は別れがたい思いもあり、追分町の都電停留所まで送るつもりで皆と一緒に門を出た。戦時下の暗い街の通りをたどる途中、太宰は、
「ああいうお姉さんいいね、好きだよ」と、はずんだ声でしきりに言うのだった。
 都電はなかなか来なかった。さほどの時間とは思えなかったが、戦況の逼迫は日常の随所に陰を落として現われはじめており、早い終電がすでにいってしまったあととも考えられる。私は皆に引き返して泊ってゆくように勧めた。そのとき、太宰治は、
「いや、気を遣うな。桂はとにかく帰れ。電車が無ければ、僕らは駅のベンチで寝てもいいんだ」
 実に断固とした調子でそう言ったのである。
 後に堤から聞いた話だが、太宰はその夜、私と別れたとたん、堤に向かって、
「お前が学者、パリサイ人なんて言うから、お前の一言でいっさいがダメになったじゃないか。せっかくうまくいっていたのに……」
 そう嘆いて、堤に怨み言を言ったそうである。
 私の父が学者であり、聖書のなかの学者、パリサイ人というのは、キリストを処刑に追い込んだ陰険な保守勢力だからだが、堤はむろん、他意なく言ったものに違いなかった。
「ああいうとき、父親というのは、かならず襖の外で聴き耳を立てているものなんだ」
 太宰はさらにそう断定するように言った由である。
 私はその話を聞いて、あのとき太宰が、「”家”ということを忘れてはいけない」などと、急に声を高くして繰り返したわけが頷けたのであるが、思わず吹き出しそうになった。厳格な頑固おやじとして大学でも有名な父が、襖の外で聴き耳を立てる図など、想像もできなかったからだ。
 けれども、それから五十年余を経て、父の全貌を思い返すことのできるいま、父はひょっとすると、あのとき実際に隣室の襖に耳をつけて聴いていたのではなかったか、いや、確かにそうだったに違いない、と、そんなイメージさえ果ては浮かんでくるのである。
 これも後日のことだが、画家の姉桂ユキ子が太宰治について問わずに語りに述懐するのを、私の家内があるとき聞いたという。
「太宰さんのような人なら、結婚してもいいと思った」
 この姉の言葉を聞いたときも、私はあっけにとられたような衝撃を受けた。戦前の男社会のなかで、世間の無理解に傷を受け続けながら、さりげなくやり過ごすかわりに、容易に人に()れることなく独身を維持した姉が、心の奥でどれほど血を流しているか、熟知している私には、最も意外な言葉と受けとれたのだが、しかし、それ故にまた、なるほどと深く頷れもするのである。
 私が入隊してまもなく、銀座で催された姉の個展を太宰治は堤と一緒に見にいったそうである。けれども姉自身は、実際に太宰治に会って言葉をかわしたことなど、私の入隊前夜のあの折りのほかには、後にも先にもいちどもなかったはずだ。太宰治のいのちの波長を、いわば自分にふさわしいもののように姉は姉なりの印象から感じとったに違いない。あれこれといまにして思い迷ったりするのだが、いずれにしろ私の生家の家族それぞれの孤独が、あのとき太宰治によっていちはやくちゃんと見届けられていたような気がするのである。

 【了】

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【参考文献】
・山内祥史 編『太宰治に出会った日』(ゆまに書房、1998年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】9月8日

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9月8日の太宰治

  1947年(昭和22年)9月8日。
 太宰治 38歳。

 1947年(昭和22年)1月1日付発行の「鱒」第一号に「同じ星」を発表。「同じ星」は、1946年(昭和21年)9月8日に脱稿された。

『同じ星』と宮崎譲(みやざきゆずる)

 今日は最初に、太宰のエッセイ『同じ星』を紹介します。
 『同じ星』は、1947年(昭和22年)1月1日付発行の「鱒」第一巻第一号に発表されました。エッセイの最後に記された日付から、1946年(昭和21年)9月8日に脱稿されたものと推測されます。

『同じ星』

 自分と同年同月同日に生れたひとに対して、無関心で居られるものであろうか。
 私は明治四十二年の六月十九日に生れたのであるが、この「鱒」という雑誌の編集をして居られる宮崎譲(みやざきゆずる)氏も(また)、明治四十二年の六月十九日に生れたという。
 七、八年も前の事であるが、私は宮崎氏からお手紙をもらった。それにはだいたい、次のような事柄が記されてあったと記憶している。
 文芸年間に依って、君が明治四十二年の六月十九日に誕生した事を知った。実に奇怪な感じを受けた。実は僕も明治四十二年の六月十九日に誕生したのである。この不思議な合致をいままで知らずにいたのは残念である。飲もう。君の都合のよい日時を知らせてくれ。僕は詩人である。
 そのような内容のお手紙を受取り、私はへんな、夢見心地に似たものを感じた。
 断言してもよかろうと思われるが、明治四十二年に生れた人で、幸福な人はひとりも無いのである。やりきれない星なのである。しかも、六月。しかも、十九日。
 罪、誕生の時刻に在り。
 自分自身のやりきれなさを、私は自分の誕生の時刻に帰着せしめた事さえあったのである。
 その恐怖すべき日に、ナンテ、そんな「恐怖すべき」ナンテ、そんな、たかがそんな、ありきたりの形容で軽く片づけられるものではなくて、鏡を二つ合せてあの映像の数を勘定するような絶望に似たいやな困難な形容詞が必要なのであるが、とにかく、その日に生れた詩人と一緒にお酒を飲むのが、私にはひどく躊躇せられたのである。
 結果は、しかし、清涼であった。逢ってみたら、この宮崎譲氏は、私の知っている人の中で、最も、ういういしい人であった。ういういしい、という形容も亦、甚だ以てきざであるが、誠実、と置きかえてみても、なおきざである。
 とにかく私は、宮崎氏と会見して、救われたところがあるのだ。救われる、ナンテ言葉も実に軽薄であるが、私は宮崎氏の無事をしんから祈っている、とでも言うより他に仕様が無い。
 お大事に。と千万の(これもどうにもきざだが)祈りをこめて宮崎氏に言いたい。
 こんど雑誌を出されるそうだが、いままでの、いままでの、あなたのとおりに、生きていて下さい。後略。
 昭和二十一年九月八日。

 宮崎譲(みやざきゆずる)(1909~1967)は、佐賀県嬉野村生まれの詩人で、『神』『竹槍隊』などの詩集を発表しています。太宰と宮崎は、同年同月同日の生まれという縁で、付き合いがはじまりました。
 太宰は、1940年(昭和17年)7月5日付で発行された「博浪抄」七月号に掲載されたエッセイ六月十九日に、宮崎のことを記しています。また、1941年(昭和16年)2月20日付で、赤塚書房より刊行された宮崎の詩集『竹槍隊』には、「序文」として、犯しもせぬ罪をを寄稿しています。

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■宮崎譲『竹槍隊』(赤塚書房) 1941年(昭和16年)2月20日発行。定価1円20銭、四六判、114頁、角背フランス装外装無。

 ほか、宮崎本人について知る術はありませんが、宮崎は、1948年(昭和23年)の太宰の死を悲しみ、追悼文太宰治を憶う』を記しています。

太宰治を憶う』

 太宰治の死体が発見され、仕事部屋を借りていた「千草」で検屍を受けている間、雨に濡れながら井伏鱒二氏と私達は表に立っていた。太宰治の恩師であり、彼の結婚の仲人でもある井伏鱒二氏は、太宰が結婚する時ネ、一札入れてあるんだといった。それは太宰治は放浪・孤独にたえかね結婚してもし家をすてるようなことがあったら、私を狂人として絶交してくれという文章だそうである。
 今朝それをとりだして読んできた、という井伏氏の沈痛な面持に、私はうなだれた。その太宰治が妻子を残して、一女性と、人喰川に入水死を遂げたのである。
 彼の文学に親しむ程の人ならば、彼の生への焦躁、死を賭している苦悩を、読みとっていることであろう。
 だが彼のああした死について、私は疑問を抱いている。健康も相当害していた。しかし、あと半年や一年は生きることができたであろう。この夏も信州の山の温泉に旅行する日どりまで決めてあったのである。
 恐らくは、泥酔の果て、冗談のような、サッチャン(山崎富栄さんのこと)とのトラブルに駒がでて、不本意な死に引きずりこまれたのではないだろうか。泥酔の彼の遺書などは、ほんとうの死に対してはたいした意味をもたない。彼は陰惨な冗談で、そうしたものを書き捨てるのである。
 土堤をすべり落ちる瞬間、ハッ、と冷たく覚め、驚愕と苦悩の抵抗を続けたのではないだろうか。現場の、草はむしれ、深すぎる土のえぐれた跡を見て、私は慄然と、流れに落ち悶絶するまでの太宰治の動顚した苦悩を思う。
おしゃれ童子」や「火の鳥」を書いた彼。

     *

 宮崎さん、独りで泣くことありませんか? たしか去年の十一月頃だったと思う。サッチャンと、もう一人若い男と四人、「千草」でしたたかに飲み、自宅にかえるという太宰治と皆表に出た。若者は足許もさだかでなく彼にからみつき、サッチャンにからみつき、醜態であった。彼は閉口して、駅まで連れていってあげなさい、とサッチャンにいいつけて煙草を一箱にぎらせた。
 それから、私は彼を、おくって家にゆき、彼が冷酒を台所からコップに二つなみなみとついで持ってきたのを飲みだしたが、彼も私も、もう飲めなかった。彼は、一寸御免、といって床の間に頭をのせて目をつむり、掌を顔にあててひくい涙声でそういった。

     *

 私が彼を知ったのは九年前である。「デカダン抗議」という短篇を読み、私はその一篇で、尊敬などというよりも、ほれこんだといった方が適切な、関心を抱くようになった。その短篇は当時私の模索している文学の型態をいかんなく発揮しているものであると思われた。私は自分自身の心の奥にもやもやしているものを、えぐりとり、さらけ出してもらったような驚きと、共感と、快い敗北の感動をうけた。
 私は銀座でひどく酔って彼に手紙を書いた。一緒に飲もう、都合のよい日時を知らして下さい、という意味のものであったかと思う。同年同月同日の生れという者同志は、こうも、ものの感じ方や性格が似ているものであろうかと思ったのであった。私は花の中で一番、(あざみ)の花が好きなのであるが、彼も(あざみ)のとげとげした中に抱かれているやわらかい牡丹刷毛(ぼたんばけ)のような花をいっそう愛していたということを、彼の死後「千草」のおばさんにきいた。
 人一倍(きずつ)きやすい魂を抱いている彼が荒々しい時代にもまれもまれて生き悩んだ苦痛が私にも切なく同感される。

     *

 太宰治の死がいまだに私には実感されない。すべり落ちた現場の、抜けた雑草、えぐれている土肌をみても、お通夜をし、お葬式に参列しても。
 なんだか仕事先の山の温泉か、海辺の旅館から、騒がせてすみません、などと、はにかみの文字を秘めた手紙がひょっこり配達されてきはしないかなどと、その死がはっきりした現実であることが百も承知でありながら、なんだかふっと、そんな気がしたりして変にさびしくなったりする。
 お葬式もすみ一段落した太宰家で、新潮社の若い婦人記者達と、そうしたことなど話していると、廿一二(にじゅういちに)の記者が、
人間失格」のなかのネ、関西訛りの女給、
「こんなの、おすきか?」
「お酒だけか? うちも飲もう。」
 サッチャンが、こうした感じの女性だったら今日の太宰さんを死なせはしなかったろうといかにも残念そうに、「こんなのおすきか」とつぶやき関西訛りの女をいとおしむ、とてもやさしい表情をして語るのであった。

     *

 老年というものを(あじ)うことなく彼は去った。
 含羞屋こそ骨がらみのおしゃれ心をもっているものである。
 恐らく彼は老年を恐怖したであろう。
 四十歳、それは彼の場合、決して、早くもなく、またおそくもなかった。
 彼は身をもって人間の聡明を立証した。
 いまは、清涼な世界に憂鬱もなく、苦悩もなく、五月雨を聴く無明の静謐にすむ彼に、私はなにを語ろう。
 馬糞、鉄粉、泥ほこり、むっとする人間臭、うずのうずの灼熱の、恐ろしい夏の汗みどろの、涙とためいきの、
 あなたのすむ世界のこちらがわ、
 なまぐさい生地獄にあえぎながら、
 私はあなたになにを語ろう。

 以前、宮崎譲についての記事を書いた際、得られる情報が少なかったため、情報提供を求めたところ、「ゆふいん文学の森」さんが、佐賀県伊万里市民図書館に照会をかけ、その内容をフィードバックして下さいました。その際にご提供頂いた情報も、本記事を執筆する上で、参考にさせて頂きました。改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。 

 【了】

********************
【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
河出書房新社編集部 編『太宰よ! 45人の追悼文集』(河出文庫、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「稀覯本の世界
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】9月7日

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9月7日の太宰治

  1941年(昭和16年)9月7日。
 太宰治 32歳。

 九月上旬頃、太田静子(おおたしずこ)、児玉信子、金子良子などが三鷹の家を訪問。

太宰と太田静子の出逢い

 太田静子(おおたしずこ)(1912~1982)は、1912年(大正2年)8月18日、父・太田守、母・太田きさの四女として、滋賀県愛知郡愛知川沓掛で生まれました。愛知川小学校から愛知川高女を経て、東京の実践女学校に進学しました。1929年(昭和4年)頃から鳴海要吉の口語短歌に感心を寄せるようになり、1930年(昭和5年)に実践女学校を中退。1934年(昭和9年)2月には、口語歌集『衣装の冬』を出版しました。
 1938年(昭和13年)11月12日、計良長雄と結婚し、東京市大田区馬込に新居を構えます。翌1939年(昭和14年)11月15日に、長女・満里子が誕生しましたが、翌月に死亡。1940年(昭和15年)に計良と協議離婚し、大岡山の母の許に戻りました。
 1941年(昭和16年)の春、弟・太田通に勧められて太宰の作品に親しむようになりましたが、道化の華の書き出しは、静子の心を大きく揺さぶりました。

「ここを過ぎて悲しみの(まち)
 友はみな、僕からはなれ、かなしき眼もて僕を眺める。友よ、僕と語れ、僕を笑え。ああ、友はむなしく顔をそむける。友よ、僕に問え。僕はなんでも知らせよう。僕はこの手もて、園を水にしずめた。僕は悪魔の傲慢さもて、われよみがえるとも園は死ね、と願ったのだ。もっと言おうか。ああ、けれども友は、ただかなしき眼もて僕を眺める。

 この文章が、静子の心をぐっと作者・太宰に近づけたのは、満里子が死んだのは自分の責任だと思い込んでいたからでした。静子と太宰作品の出会いについては、8月7日の記事でも紹介しました。

 静子は、太宰に師事したいと思い、作品と手紙を送ると、

 ただいま、作品とお手紙、拝誦いたしました。
 才能はおありになると思いますが、おからだが余り丈夫でないようですから、小説は、無理かも知れません。私は、新ハムレットという長い作品を書いて、すっかり疲れてしまいました。
 お気が向いたら、どうぞおあそびにいらして下さい。
 毎日ぼんやりしていますから。
 では、お待ち申し上げております。不一

という、「さびしそうな、きれいな字」で書かれた、太宰からの返事を受け取りました。

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■太田静子 実践女大学在学中、兄弟との写真。

  この後、静子は三鷹の太宰宅を訪問するのですが、この時の様子を、静子の『あはれわが歌』から引用して紹介します。ちなみに、静子は、「園子」という名前で登場します。

 園子は秋になってから、三鷹の太宰の家を訪ねた。雨が降っていたので園子と美子は揃いの薄いウールの上衣を着て、ギャバジンのコオトを着て家を出たが、三鷹に着いた頃から空が晴れて、暖かくなって来た。町外れで洋傘(こうもり)直しのおじいさんに間違った道を教えられ、一時間以上もかかって、やっと杉垣の路地の奥に、『太宰治』と書いた標札を見出した。入口に竹が植えてあり、格子戸がひっそり閉っていた。垣根の向うに、お襁褓(むつ)が干してあった。

 

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三鷹の太宰宅の玄関

 

「赤ちゃんがいらっしゃるのね」と言いながら、格子戸をあけて、
「ごめんください」と尋ねると、顔色の蒼い女のひとが、隣の部屋から半分ばかり顔を出して、
「いま、ちょっと出掛けておりますが」と聴きとれないような低い声で答えた。
「大森の、大谷でございますが」と告げると、
「伺っておりました」と答えたようだった。
「外でお待ち申し上げておりましても、よろしいでしょうか」
 路地を出て少し歩いて、石垣にもたれてたたずんでいると、蝶が二匹、たわむれながら二人の前を通り過ぎた。高原の、秋の蝶に似ていた。
「太宰さん」不意に美子が叫んだ。面をあげて向うを見ると、霧深い林の中から、太宰治らしいひとが煙草を吹かしながら出て来た。見る見る大きくなった。園子は大地が足許から消えてゆくような気がした。足音が直ぐ近くに響いた。彼女はおそるおそる顔をあげて、そうして不意に、彼の前へ出て行った。彼は立ちどまり、
「大森の、大谷さん?」と尋ねた。

 

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「君たちはいいんだ。君たちみたいなひとはいいんだ。僕の後からおいでなさい」と言って、直ぐまた歩き出した。
 玄関をあがったところの六畳が、治の部屋になっていて、入口に、ダ・ヴィンチの「基督(キリスト)の顔」を入れた、紫壇の額がかかっていた。繊細で、どこか女性的な感じのする基督(キリスト)だった。園子は治に似ている基督(キリスト)だと思った。
 床の間には原稿用紙や本が積み重ねてあり、傍にグラジオラスが活けてあった。あかいグラジオラスはひらき切って、すでに崩れかけていた。
 縁側に籐の寝椅子がひとつ置いてあって、庭には陽があたり、玉蜀黍(トウモロコシ)の葉が風に揺れていた。治は机の前に坐ると直ぐ、
「この間の作品、拝見しました。文章の分るひとだと思いました。満里子ちゃんというのは、ほんとうの名前ですか?」と大きい声で尋ねた。
「はい」園子は面をあげて、治を見た。「虚構の彷徨」の写真より、ずっと現実的で、遥かに強く男らしい感じがした。そうして思ったよりひどい猫背だった。

 

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■『虚構の彷徨』の口絵写真

 

「園子さんがお送りいたしました作品、お分りになりましたでしょうか?」 美子が傍から尋ねた。
「分りました」
「ああいう作品は、何というのでしょうか?」と園子が自分の書いたものの事を尋ねた。
散文詩です。ボードレール散文詩と同じものなんだ。僕も昔、あんな作品を書いたことがあります。ああいう物ばかり書いていると、苦しくなって、しまいに狂ってしまいますよ。小説は、もっと、楽な気持で、ゆっくり低い声で、話すように書くものです。夜中に、好きな人に、話しかけるような気持で書いてごらんなさい。きっと、いいものが書けると思うんだ」
 それから美子に向い、
「あなたは、まだ、塾へ行きますか? 園子さんといっしょに、見てあげてもいいと思います」
と尋ねた。
「ええ。……でも私には、園子さんのように、どうしても書かなければならぬという、告白がございません。私が塾へまいっておりますのは、教養のためなのですから、そんなつもりでもうしばらく塾へまいります」
「このひとが塾を退めてしまいましたら、アリー・シェールだって、お淋しいでしょうし、それに、このひとには私たちみたいな傷痕がないのです」
 治は(にわか)に立ちあがり、奥の間へ行った。と思うと二分と経たぬうちに、さっぱりとした久留米絣に、着更えて出て来た。

 

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■太田静子と太田治子

 

 間もなく三人は、夕靄(ゆうもや)のたちこめる井の頭公園の松林を歩いていた。治はときどき立ちどまり煙草の火をつけた。
 治は、園子に、好きな作家を尋ねた。
ドストエフスキイプルースト、プーシュキン、チェーホフ……」園子は考えながら、答えた。
「日本の作家では?」
漱石、三重吉、芥川、岡本かの子」と答えると、
「かの子?」と訊きかえし、「女流作家は、よした方がよい」と治は、さもおかしそうに笑った。
 小高い丘にのぼって、池に面した茶店の籐椅子に腰をおろした。治は澄んだ美しい眼ざしをして、靄の濃い池のあたりを眺めていた。園子は治の眼を、夢を見ているような眼だと思った。テーブルの上に、青い、大きい本を置いて、治は、
「この、鴎外全集を、友人に返しにゆくと言って、家を出て来たんだ。着物を着更えながら突差に思いついたんだ。君たちは、何と言って家を出て来たの?」と尋ねた。
「太宰さんのお家へ行ってまいります、と言って出てまいりましたが」と園子が答えると、
「そうか、そうだったのか。じゃあ、遅くなってはいけない」と慌てて立ちあがった。吉祥寺の駅前で、治は、
「握手しよう」と手をさしだした。園子も美子も握手した。駅の階段をおりると、直ぐに東京行がはいって来た。電車のなかは明るくて、立派な洋服を着た紳士や、学生たちが乗っていたが、尊敬する作家に逢って来た園子の眼には、みんな魂の抜けた、ただの生きものに見えた。

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■太田静子の著書『斜陽日記』と『あはれわが歌』

 【了】

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【参考文献】
・太田静子『あはれわが歌』(ジープ社、1950年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】9月6日

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9月6日の太宰治

  1936年(昭和11年)9月6日。
 太宰治 27歳。

 九月(日付不詳)に、井伏鱒二に手紙を送る。

第2創作集の出版を急ぐ太宰

 今日は、1936年(昭和11年)9月に、太宰が師匠・井伏鱒二(いぶせますじ )に宛てて書いた手紙を紹介します。この手紙は、日付不詳となっていますが、おそらくこの位の時期に書かれたものと思われます。

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井伏鱒二 荻窪駅構内で。1928年(昭和3年)頃、撮影。

  千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
  東京市杉並区清水町二四
   井伏鱒二

 井伏さん
 血肉のはらから、先生とお呼びいたし、または馴々しく、井伏さんなどと甘え、蒲田の梅屋敷へ田中貢太郎先生を追って、とうとう追いつくことの出来なんだ。あれから七年経って居ります。
 迂愚のものも、井伏さんにきびしくきたえられ、井伏さん御存命のあいだは、私も何とかして生きてゆきます。
 圭介ちゃんの「こわい叔父さん」もしくは「はなせる禿ちゃびん」など言われて、そうして私できるだけの力つくして、私のように心もからだも蒟蒻の男にしたくございませぬ。
 一生のおねがい申します。ことしの内に私の単行本もう一冊出したく、どうかお世話下さい。砂子屋書房山崎剛平氏、ならびに清澄の先輩浅見さんにおねがいしてきっと出していただけます様子でございます。けれども内心、印税五十円でも、六十円でもほしいのでございます。砂子屋書房は印税なしです。かえって、私、広告費負たんいたしました。

 

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■砂小屋書房主・山崎剛平 太宰の処女短篇集晩年は砂小屋書房から出版された。

 

 ちかごろ経済状態、からから枯渇、火の車ゆえ、竹村書房でも、なんでもかまいませぬ、あながち豪華版でなくても、私一向意にかけませぬ。
 佐藤先生のおつけになられた題の三部作「虚構の彷徨道化の華一〇〇枚、狂言の神四〇枚、架空の春一六〇枚、以上、三部曲、三百枚、ことにも「架空の春」(一六〇)は、全部書き直し、ほとんど書き下ろしの態でございます。自信ございます。そうして付録として、「ダス・ゲマイネ」六〇枚添えようと考えました。きっと売れると存じます。
 井伏さん、軽い散歩外出のゆかたがけのお気持で、装幀して下さい。切願。
 佐藤先生に序を書いてもらいます。
 「二十世紀旗手」というかなしいロマンス書き()えて、昨日、文藝春秋へ持ち込み、千葉静一氏におたのみいたしました。自信ある作品ゆえ、井伏さんの顔汚すこと全くございませぬ。どうか、よろしくお力添え下さいまし。
 佐藤先生のお宅へ、遊びにいって、かえりの路、きっとわが思い、ぐんと高くなっています。井伏さんからのかえり路、わが思い、きっとぐんと深くなっています。
 一はヒマラヤの高峰、一はモオゼ以来のむかし、ロマンス沈めて静かの紅海、私は幸福です。
 おねがい申します。
 てれて、どうもだめです。生涯いちどのおねがいです。はっきり引き受け、ともすれば、デスペラへ崩れたがる私を叱ってそうして力つけて希望もたせて卑屈にしないで下さい。
          修 治 九拝
  井伏鱒二先生

 「ことしの内に私の単行本もう一冊出したく、どうかお世話下さい」とありますが、太宰は、この年の6月25日に処女短篇集晩年を出版し、7月11日に出版記念会を開催したばかりでした。

 次の出版を急ぐのが、創作意欲に駆られているからかと思いきや、「ちかごろ経済状態、からから枯渇、火の車ゆえ」というのが理由のようです。
 太宰の第2創作集虚構の彷徨  ダス・ゲマイネは、翌1937年(昭和12年)6月1日付で、新潮社から「新選純文学叢書」の1冊として出版されました。ちなみに、架空の春虚構の春と改題されました。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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