記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】もの思う葦(その一)③

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今週のエッセイ

◆『もの思う葦(その一)』③
  -当りまえのことを当りまえに語る。
 1935年(昭和10年)、太宰治 26歳。
 1935年(昭和10年)9月30日頃までに脱稿。
 『もの思う葦(その一)』は、1935年(昭和10年)8月1日発行の「日本浪漫派(にほんろうまんは)」八月号から4回にわたって発表された。
 なお、標題に付している「(その一)」は、定本としている太宰治全集 11 随想筑摩書房、1999年)において、便宜上付されたもので、週刊 太宰治のエッセイでもこれを踏襲した。
 掲載の3回目である1935年(昭和10年)11月1日発行の「日本浪漫派(にほんろうまんは)」十一月号第八号には、「書簡集」「兵法」「in a word」「病躯(びょうく)の文章とそのハンディキャップに就いて」の4篇が掲載。初出誌の本文末尾には、「来月は放心ということについて書く。」と予告が記された。

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「書簡集

 おや? あなたは、あなたの創作集よりも、書簡集のほうを気にして居られる。――作家は悄然(しょうぜん)とうなだれて答えた。ええ、わたくしは今まで、ずいぶんたくさんの愚劣な手紙を、ほうぼうへ撒きちらして来ましたから。(深い溜息をついて、)大作家にはなれますまい。
 これは笑い話ではない。私は不思議でならないのだ。日本では偉い作家が死んで、そのあとで上梓する全集へ、必ず書簡集なるものが一冊か二冊、添えられてある。書簡のほうが、作品よりずっと多量な全集さえ、あったような気がするけれど、そんなのには又、特殊な事情があったのかも知れない。
 作家の、書簡、手帳の破片、それから、作家御十歳の折の文章、自由画。私には、すべてくだらない。故作家と生前、特に親交あり、いま、その作家を追慕するのあまり、彼の戯れにものした絵集一巻、上梓して内輪(うちわ)の友人親戚間にわけてやるなど、これはまた自ら別である。あかの他人のかれこれ容喙(ようかい)すべき事がらでない。
 私は一読者の立場として、たとえばチェホフの読者として、彼の書簡集から何ひとつ発見しなかった。私には、彼の作品「(かもめ)」の中のトリゴーリンの独白を書簡集のあちこちの隅からかすかに聴取できただけのことであった。
 読者あるいは、諸作家の書簡集を読み、そこに作家の不用意きわまる素顔を発見したつもりで得々としているのかも知れないが、彼等がそこでいみじくも、掴まされたものはこの作家もまた一日に三度三度のめしを食べた、あの作家もまた房事を好んだ、等々の平俗な生活記録にすぎない。すでに判り切ったことである。それこそ、言うさえ野暮な話である。それにもかかわらず、読者は、一度掴んだ鬼の首を離そうともせず、ゲエテはどうも梅毒らしい、プルウストだって出版屋には三拝九拝だったじゃないか、孤蝶と一葉とはどれくらいの仲だったのかしら。そうして、作家が命をこめた作品集は、文学の初歩的なるものとしてこれを軽んじ、もっぱら日記や書簡集だけをあさり廻るのである。曰く、将を射んと欲せば馬を射よ。文学論は更に聞かれず、行くところ行くところ、すべて人物月旦(げったん)はなやかである。
 作家たるもの、またこの現象を黙視し得ず、作品は二の次、もっぱらおのれの書簡集作成にいそがしく、十年来の親友に送る書簡にも、袴をつけ扇子を持って、一字一句、活字になったときの字づらの効果を考慮し、他人が(のぞ)いて読んでも判るよう文章にいちいち要らざる注釈を書き加えて、そのわずらわしさ、ために作品らしき作品一つも書けず、いたずらに手紙上手の名のみ高い、そういうひとさえ出て来るわけではないか。
 書簡集に持ちいるお金があったなら、作品集をいよいよ立派に装釘するがいい。発表されると予期しているような、また予期していないような、あやふやな書簡、及び日記。蛙を掴まされたようで、気持ちがよくないのである。いっそどちらかにきめたほうが、まだしもよい。
 かつて私は、書簡もなければ日記もない、詩十篇ぐらいに訳詞十篇ぐらいの、いい遺作集を愛読したことがある。富永太郎というひとのものであるが、あの中の詩二篇、訳詞一篇は、いまでも私の暗い胸のなかに灯をともす。唯一無二のもの。不朽のもの。書簡集の中には絶対にないもの。


「兵法」


 文章の中の、ここの箇所は切り捨てたらよいものか、それとも、このままのほうがよいものか、途方にくれた場合には、必ずその箇所を切り捨てなければいけない。いわんや、その箇所に何か書き加えるなど、もってのほかというべきであろう。


「in a word」


 久保田万太郎か小島政ニ郎か、誰かの文章の中でたしかに読んだことがあるような気がするのだけれども、あるいは、これは私の思いちがいかも知れない。芥川龍之介が、論戦中によく「つまり?」という問を連発して論敵をなやましたものだ、という懐古談なのだ。久保万か、小島氏か、一切忘れてしまったけれども、とにかく、ひどくのんびり語っていた。これには、わたくしたち、ほとほと閉口いたしましたもので、というような口調であった。いずくんぞ知らん、芥川はこの「つまり」を掴みたくて血まなこになって追いかけ追いかけ、はては、看護婦、子守娘にさえ易々(やすやす)とできる毒薬自殺をしてしまった。かつての私もまた、この「つまり」を追及するに急であった。ふんぎりが欲しかった。路草を食う楽しさを知らなかった。循環小数の奇妙を知らなかった。動かざる、久遠の心理を、いますぐ、この手で掴みたかった。
「つまりは、もっと勉強しなくちゃいかんということさ。」「お互いに。」徹宵(てっしょう)、議論の揚句の果は、ごろんと寝ころがって、そう言って二人うそぶく。それが結論である。それでいいのだとこのごろ思う。
 私はたいへんな問題に足を踏みいれてしまったようである。はじめは、こんなことを言うつもりじゃなかった。
 In a word という小題で、世人、シェストフを贋物の一言で言い切り、横光利一駑馬(どば)の二字で片づけ、懐疑説の矛盾をわずか数語でもって指摘し去り、ジッドの小説は二流也と一刀のもとに(ほふ)り、日本浪漫派は苦労知らずと蹴って落ちつき、はなはだしさは読売新聞の壁評論氏の如く、一篇の物語(私の「猿ヶ島」)を一行の諷刺、格言に圧縮せんと努めるなど、さまざまの殺伐なるさまを述べようと思っていたのだが、秋空のせいか、ふっと気がかわって、われながら変なことになってしまった。これは、明かに失敗である。


病躯(びょうく)の文章とそのハンディキャップに就いて」


 確かに私は、いま、甘えている。家人は私を未だ病人あつかいにしているし、この戯文を読むひとたちもまた、私の病気を知っている筈である。病人ゆえに、私は苦笑でもって許されている。
 君、からだを頑健にして置きたまえ。作家はその伝記の中で、どのような三面記事をも作ってはいけない。 

 

太宰治と書簡集

  太宰の書簡は、新版の全集が刊行される度に補充されており、1999年に刊行された第十一次筑摩書房版『太宰治全集 12 書簡』に799通が収録。その受信者は117名に及んでいます。
 太宰は、『もの思う葦』「書簡集」の冒頭で、「書簡集に持ちいるお金があったなら、作品集をいよいよ立派に装釘するがいい。発表されると予期しているような、また予期していないような、あやふやな書簡、及び日記。蛙を掴まされたようで、気持ちがよくないのである。」と書いています。今では、全集の中の一冊が書簡集に充てられる太宰ですが、生前に自身で構成した八雲書店版『太宰治全集』では、「書簡集」刊行の予定はありませんでした。

八雲書店版『太宰治全集』ラインナップ

第一巻「晩年」
第二巻「虚構の彷徨」
第三巻「短編集」
第四巻「短編集」
第五巻「短編集」
第六巻「短編集」
第七巻「短編集」
第八巻「津軽
第九巻「新釈諸国噺
第十巻「苦悩の年鑑」
第十一巻「ヴィヨンの妻
第十二巻「斜陽」
第十三巻「人間失格
第十四巻「戯曲集」
第十五巻「感想集」
第十六巻「研究・索引」

※太宰の死後、全16巻刊行の予定が全18巻に変更されましたが、1950年(昭和25年)4月、出版不況と労働争議が原因で八雲書店が倒産したため、14巻で刊行中絶となりました(第12巻「パンドラの匣」、第16巻「随想集」、第17巻「書簡集」、第18巻「未発表作品、補遺」が未刊行)。

 太宰の妻・津島美知子は、「書簡雑感」回想の太宰治所収)の中で、「はがきの簡便さを好むが、和紙の美しい詩箋や封筒に毛筆で書くことも好きだった」と書いていますが、最新の全集に799通も書簡が収録されていることからも、筆まめだった太宰の様子がうかがえます。
 全集に収録されている個人別の書簡で一番通数が多いのは、106通の山岸外史です。1939年(昭和4年)3月8日付の絵はがきには、「二年、三年、君と私と音信不通の場合があっても、やはり、君と、私と、同じ文学の道を理解しながら歩いてゆくのではないかと思う」と、山岸に啓発され、暗示を受けていることが語られています。

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■山岸外史

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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太宰治39年の生涯を辿る。
 "太宰治の日めくり年譜"はこちら!】

太宰治の小説、全155作品はこちら!】

【週刊 太宰治のエッセイ】もの思う葦(その一)②

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今週のエッセイ

◆『もの思う葦(その一)』②
  -当りまえのことを当りまえに語る。
 1935年(昭和10年)、太宰治 26歳。
 1935年(昭和10年)8月23日頃までに脱稿。
 『もの思う葦(その一)』は、1935年(昭和10年)8月1日発行の「日本浪漫派(にほんろうまんは)」八月号から4回にわたって発表された。
 なお、標題に付している「(その一)」は、定本としている太宰治全集 11 随想筑摩書房、1999年)において、便宜上付されたもので、週刊 太宰治のエッセイでもこれを踏襲した。
 掲載の2回目である1935年(昭和10年)10月1日発行の「日本浪漫派(にほんろうまんは)」十月号第七号には、「老年」「難解」「塵中(じんちゅう)の人」「おのれの作品のよしあしをひとにたずねることに就いて」の4篇が掲載。初出誌の本文末尾には、「来月は、病躯(びょうく)の文章とそのハンディキャップということに就いて書く。」と予告が記された。

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「老年(

 ひとにすすめられて、「花伝書」を読む。「三十四五歳。このころの能、さかりのきわめなり。ここにて、この条条を極めさとりて、かんのう((堪能))になれば、定めて天下にゆるされ、めいぼう((名望))を得つべし。(もし)、この時分に、天下のゆるされも不足に、めいぼうも思うなどなくは、如何なる上手なりとも、未まことの花を極めぬして((仕手))と知るべし。もし極めずは、四十より能はさがるべし。それ後の証拠なるべし。さる程に、あがるは三十四五までの(ころ)、さがるは四十以来なり。返返(かえすがえす)この(ころ)天下のゆるされを得ずは能を極めたりとおもうべからず。云々。」またいう。「四十五十。この(ころ)よりの手だて、大方かわるべし。たとい、天下にゆるされ、能に得法したりとも、それにつけても、よき脇のして((仕手))を持つべし。能はさがらねども、ちからなく、ようよう年()けゆけば、身の花も、よそ目の花も失するなり。(まず)すぐれたるびなん((美男))は知らず、よき程の人も、ひためん((直面))申楽(さるがく)は、年よりては見えぬ物なり。さるほどに此一方は欠けたり。この(ころ)よりは、さのみにこまかなる物まねをばすまじきなり。大方似あいたる風体を、安安とほねを折らで、脇のして((仕手))に花をもたせて、あいしらいのように、少少(すくなすくな)とすべし。たとい脇のして((仕手))なからんにつけても、いよいよ細かに身をくだく能をばすまじきなり。云々。」またいう。「五十有余。この(ころ)よりは、大方せぬならでは、手だてあるまじ。麒麟も老いては土馬に劣ると申す事あり。云々。」
 次は藤村の言葉である。「芭蕉は五十一で死んだ。(中略)これには私は驚かされた。老人だ、老人だ、と少年時代から思い込んで居た芭蕉に対する自分の考えかたを変えなければ成らなくなって来た。(中略)『四十ぐらいの時に、芭蕉はもう翁という気分で居たんだね。』と馬場君も言っていた。(中略)兎に角、私の心の驚きは今日まで自分の胸に描いて来た芭蕉の心像を十年も二十年も若くした。云々。」
 露伴の文章がどうのこうのと、このごろ、やかましく言われているけれども、それは露伴五重塔一口剣(いっこうけん)などむかしの佳品を読まないひとの言うことではないのか。
 玉勝間(たまかつま)にも以下の文章あり。「今の世の人、神の御社は寂しく物さびたるを尊しと思うは、(いにしえ)の神社の盛りなりし世の様をば知らずして、ただ今の世に大方古く尊き神社どもはいみじくも衰えて荒れたるを見なれて、古く尊き神社は本よりかくあるものと心得たるからのひがごとなり。」
 けれども私は、老人に就いて感心したことがひとつある。黄昏の銭湯の、流し場の隅でひとりこそこそやっている老人があった。観ると、そまつな日本剃刀(かみそり)(ひげ)を剃っているのだ。鏡もなしに、薄暗闇のなかで、落ちつき払ってやっているのだ。あのときだけは唸るほど感心した。何千回、何万回という経験が、この老人に鏡なしで手さぐりで顔の髭をらくらくと剃ることを教えたのだ。こういう具合の経験の堆積には、私たち、逆立ちしたって負けである。そう思って、以後、気をつけていると、私の家主の六十有余の爺もまた、なんでもものを知っている。植木を植えかえる季節は梅雨時に限るとか、蟻を退治するのには、こうすればよいとか、なかなか博識である。私たちより四十も多く夏に逢い、四十回も多く花見をし、とにかく、四十回も其の余も多くの春と夏と秋と冬とを見て来たのだ。けれども、こと芸術に関してはそうはいかない。「点三年、棒十年」などというやや悲壮な修業の掟は、むかしの職人の無智な英雄主義にすぎない。鉄は赤く熱しているうちに打つべきである。花は満開のうちに眺むべきである。私は晩成の芸術というものを否定している。


「難解」


太初(はじめ)(ことば)あり。(ことば)は神と(とも)にあり。(ことば)は神なりき。この(ことば)太初(はじめ)に神とともに在り。万の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あり。この生命は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る。(しか)して暗黒(くらき)は之を悟らざりき。云々。」私はこの文章を、この想念を、難解だと思った。ほうぼうへ持って廻ってさわぎたてたのである。
 けれども、あるときふっと角度をかえて考えてみたら、なんだ、これはまことに平凡なことを述べているにすぎないのである。それから私はこう考えた。文学に於いて、「難解」はあり得ない。「難解」は「自然」のなかにだけあるのだ。文学というものは、その難解な自然を、おのおの自己流の角度から、すぱっと()っ(たふりをし)て、その斬り口のあざやかさを誇ることに潜んで在るのではないのか。


塵中(じんちゅう)の人」


 寒山詩は読んだが、お経のようで面白くなかった。なかに一句あり。
  悠悠たる塵中の人、
  常に塵中の趣を楽む。
  云々。
「悠悠たる」は嘘だと思うが、「塵中の人」は考えさせられた。
 玉勝間にもこれあり。
「世々の物知り人、また今の世に学問する人なども、みな住みかは里遠く静かなる山林を住みよく好ましくするさまにのみいうなるを、われは、いかなるにか、さはおぼえず、ただ人(しげ)く賑わしき処の好ましくて、さる世放れたる処などは、さびしくて、心もしおるるようにぞおぼゆる。云々。」
 健康とそれから金銭の条件さえ許せば、私も銀座のまんなかにアパアト住いをして、毎日、毎日、とりかえしのつかないことを言い、とりかえしのつかないことを行うべきであろうと、いま、白砂青松の地にいて、籐椅子(とういす)にねそべっているわが身を(つね)っている始末である。住み難き世を人一倍に痛感しまことに受難の子とも呼ぶにふさわしい、佐藤春夫井伏鱒二、中谷孝雄、いまさら出家遁世もかなわず、なお都の塵中にもがき喘いでいる姿を思うと、――いやこれは対岸の火事どころの話でない。


「おのれの作品のよしあしをひとにたずねることに就いて」


 時分の作品のよしあしは自分が最もよく知っている。千に一つでもおのれによしと許した作品があったならば、さいわいこれに過ぎたるはないのである。おのおの、よくその胸に聞きたまえ。

 

同人誌「日本浪漫派(にほんろうまんは)

  エッセイ『もの思う葦』が掲載された同人誌日本浪漫派(にほんろうまんは)は、太宰も同人として参加していた文芸雑誌です。1935年(昭和10年)3月に創刊、1938年(昭和13年)8月の第二十九号まで毎月刊行。保田與重郎(やすだよじゅうろう)らを中心として、近代批判と古代賛歌を支柱として、「日本の伝統への回帰」を提唱しました。
 1934年(昭和9年)12月に創刊した同人誌青い花が頓挫したままになっていた太宰が、檀一雄たちと日本浪漫派(にほんろうまんは)に合流したのは第三号(五月号)からでした。この号に発表された同人名は、伊東静雄伊藤佐喜雄伊馬鵜平(のちの伊馬春部)、芳賀檀淀野隆三山岸外史木山捷平など、計22名にのぼります。

 同人の1人である中谷孝雄は、青い花から太宰、檀一雄中村地平山岸外史の4人を誘いたかったが、太宰の意向を汲んで、結局は青い花の同人全員を吸収することになったといいます。

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  中谷に誘われた太宰は、書き溜めた原稿の入った袋を用意しており、その中から道化の華を選んで見せたそうです。道化の華は、1935年(昭和10年)5月1日付発行の日本浪漫派(にほんろうまんは)第一巻第三号(五月号)に発表されましたが、原稿自体は1933年(昭和8年)秋頃に脱稿されていることからも、日本浪漫派(にほんろうまんは)を意識して書かれたものではないことは明らかです。
 また、太宰が日本浪漫派(にほんろうまんは)に発表した小説は道化の華のみで、その他は『もの思う葦』碧眼托鉢などのアフォリズムだけでした。
 これらのエピソードから、太宰は日本浪漫派(にほんろうまんは)自体に思い入れがあった訳ではなく、情熱を注いだ青い花が創刊号で頓挫し、作品を発表する場所を求めていたところ、中谷の勧誘のタイミングが偶然に一致したものと考えられます。

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■太宰、山岸外史、檀一雄 「三馬鹿」と呼ばれた3人。
 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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太宰治39年の生涯を辿る。
 "太宰治の日めくり年譜"はこちら!】

太宰治の小説、全155作品はこちら!】

【週刊 太宰治のエッセイ】もの思う葦(その一)①

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今週のエッセイ

◆『もの思う葦(その一)』①
  -当りまえのことを当りまえに語る。
 1935年(昭和10年)、太宰治 26歳。
 1935年(昭和10年)7月10日までに脱稿。
 『もの思う葦(その一)』は、1935年(昭和10年)8月1日発行の「日本浪漫派(にほんろうまんは)」八月号から4回にわたって発表された。
 なお、標題に付している「(その一)」は、定本としている太宰治全集 11 随想筑摩書房、1999年)において、便宜上付されたもので、週刊 太宰治のエッセイでもこれを踏襲した。
 掲載の1回目である1935年(昭和10年)8月1日発行の「日本浪漫派(にほんろうまんは)」八月号第六号には、「はしがき」「虚栄の市」「敗北の歌」「或る実験報告」の4篇が掲載。初出誌の本文末尾には「来月は老年ということに就いて書く。」と予告が記された。

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「はしがき(

 もの思う葦という題名にて、日本浪漫派の機関雑誌におよそ一箇年ほどつづけて書かせてもらおうと思いたったのには、次のような理由がある。
 「生きて居ようと思ったから。」私は生業(なりわい)につとめなければいけないではないか。簡単な理由なんだ。
 私は、この四五年のあいだ既に、ただの小説を七篇も発表している。ただとは、無銭の謂いである。けれども、この七篇はそれぞれ、私の生涯の小説の見本の役目をなした。発表の当時こそ命かけての意気込みもあったのであるが、結果からしてみると、私はただ、ジャアナリズムに七篇の見本を提出したに過ぎないということになったようである。私の小説に買い手がついた。売った。売ってから考えたのである。もう、そろそろ、ただの小説を書くことはやめよう。欲がついた。
 「人は生涯、同一水準の作品しか書けない。」コクトオの言葉と記憶している。きょうの私もまた、この言葉を楯に執る。もう一作拝見、もう一作拝見、ちょうがましい市場の呼び声に私は答える。「同じことだ。――舞台を与えよ――私はお気に入りに入るだろう。――こいしくばたずね来てみよ。私は袋の中から七篇の見本をとりだして、もいちどお目にかけるまでのことだ。私はその七篇にぶち撒かれた私の血や汗のことは言わない。見れば判るにきまっている。すでにすでに私には選ばれる資格があるのだ。」買い手がなかったらどうしようかしら。
 私には欲がついて、よろずにけち臭くなって、ただで小説を発表するのが惜しくなって来たのだけれども、もし買いに来るひとがなかったら、そのうちに、私の名前がだんだんみんなに忘れられていって、たしかに死んだ筈だがと薄暗いおでんやなどで噂をされる。それでは私の生業(なりわい)もなにもあったものでない。いろいろ考えてからもの思う葦という題で毎月、あるいは隔月くらいに五六枚ずつ様々のことを書き綴ってゆこうというところに落ちついたのだ。みなさんに忘れられないように私の勉強ぶりをときたま、ちらっと覗かせてやろうという卑猥な魂胆のようである。

「虚栄の市」

 デカルトの「激情論」は名高いわりに面白くない本であるが、「崇敬とはわれに益するところあらんと願望する情けの謂いである。」としてあったものだ。デカルトあながちぼんくらじゃないと思ったのだが、「羞恥とはわれに益するところあらんと願望する情けの謂いである。」もしくは、「軽蔑とはわれに益するところあらんと云々。」といった工合いに手当たりしだいの感情を、われに益する云々ちょう句に填め込んでいってみても、さほど不体裁な言葉にならぬ。いっそ、「どんな感情でも、自分が可愛いからこそ起る。」と言ってしまっても、どこやら耳あたらしい一理屈として通る。献身とか謙譲とか義侠とかの美徳なるものが、自分のためという欲念を、まるできんたまかなにかのようにひたがくしにかくさせてしまったので、いま出鱈目に、「自分のため」と言われても、ああ慧眼と恐れいったりすることがないともかぎらぬような事態にたちいるので、えつだん卓見を述べたわけではないのである。人は弱さ、しゃれた言いかたをすれば、肩の木の葉の跡とおぼしき箇所に、射込んだふうの矢を真実と呼んでほめそやす。けれども、そんな判り切った弱さに射込むよりは、それを知っていながら、わざとその箇所をはずして射ってやって、相手に、知っているなと感ずかせ、しかも自分はあくまでも、知らずにしくじったと呟いて、ほんとうに知らなかったような気になったりするのもまた面白くないか。虚栄の市の誇りもここにあるのだ。この市に集うもの、すべて、むさぼりくらうこと豚のごとく、さかんなること狒狒(ヒヒ)のごとく、凡そわれに益するところあらんと願望するの情、この市に住むものたちより強きはない。しかるにまた、献身、謙譲、義侠のふうをてらい、鳳凰、極楽鳥の秀抜、華麗を装わんとするの情、この市に住むものたちより激しきはないのである。そう言う私だとて病人づらをして、世評などは、と涼しげにいやいやをして見せながらも、内心如夜叉、敵を論破するためには私立探偵を十円くらいでたのんで来て、その論敵の氏と育ちと学問と素行と病気と失敗とを赤裸々に洗わせ、それを参考にしてそろそろとおのれの論陣をかためて行く。因果。
「私は、はかなくもばかげたこの虚栄の市を愛する。私は生涯、この虚栄の市に住み、死ぬるまでさまざまの甲斐なき努力をしつづけて行こうと思う。」
 虚栄の子のそのような想念をうつらうつらまとめてみているうちに、私は素晴らしい仲間を見つけた。アントン・ファン・ダイク。彼が二十三歳の折に描いた自画像である。アサヒグラフ所載のものであって、小島喜久雄というひとの解説がついている。「背景は例の暗褐色。豊かな金髪をちぢらせてふさふさと額に垂らしている。伏目につつましく控えている碧い神経質な鋭い目も、官能的な桜桃色の唇も相当なものである。肌理の細かい女のような皮膚の下から綺麗な血の色が、薔薇色に透いて見える。黒褐色の服に雪白の襟と袖口。濃い藍色の絹のマントをシックに羽織っている。この()伊太利亜で描いたもので、肩からかけて居る金鎖はマントワ候の贈り物だという。」またいう、「彼の作品は常に作後の喝采を目標として、病弱の五体に鞭うつ彼の虚栄心の結晶であった。」そうであろう。堂々と自分のつらを、こんなにあやしいほど美しく書き装うてしかもおそらくは、ひとりの貴婦人へ(すこぶ)る高価に売りつけたにちがいない二十三歳の小僧の、臆面もなきふてぶてしさを思うと、――いたたまらぬほど憎くなる。

「敗北の歌」

 ()かれるものの小唄という言葉がある。痩馬(そうば)に乗せられ刑場へ曳かれて行く死刑囚が、それでも自分のおちぶれを見せまいと、いかにも気楽そうに馬上で低吟する小唄の謂いであって、ばかばかしい負け惜しみを(あざわら)う言葉のようであるが、文学なんかも、そんなものじゃないのか。早いところ、身のまわりの倫理の問題から話をすすめてみる。私が言わなければ誰も言わないだろうから、私が次のようなあたりまえのことを言うても、何やら英雄の言葉のように響くかも知れないが、だいいちに私は私の老母がきらいである。生みの親であるが好きになれない。無智。これゆえにたまらない。つぎに私は、四谷怪談伊右衛門に同情を持つ者であるということを言わなければならない。まったく、女房の髪が抜け、顔いちめん腫れあがって膿が流れ、おまけにちんば、それで朝から晩までめそめそ泣きつかれていた日には、伊右衛門でなくても、蚊帳を質にいれて遊びに出かけたくなるだろうと思う。つぎに私は、友情と金銭の相互関係について、つぎに私は師弟の挨拶について、つぎに私は兵隊について、いくらでも言えるのであるが、いますぐ牢へいれられるのはやはりいやであるからこの辺で止す。つまり私には良心がないということを言いたいのである。はじめからそんなものはなかった。鞭影への恐怖、言いかえれば世の中から爪弾きされはせぬかという懸念、牢屋への憎悪、そんなものを人は良心の呵責と呼んで落ちついているようである。自己保存の本能なら、馬車馬にも番犬にもある。けれども、こんな日常倫理のうえの判り切った出鱈目を、知らぬ顔して踏襲して行くのが、また世の中のなつかしいところ、血気にはやってばかな真似をするなよ、と同宿のサラリイマンが私をいさめた。いや、と私は気を取り直して心のなかで呟く。ぼくは新しい倫理を樹立するのだ。美と叡智とを基準にした新しい倫理を創るのだ。美しいもの、怜悧なるものは、すべて正しい。醜と愚鈍とは死刑である。そうして立ちあがったところで、さて、私には何が出来た。殺人、放火、強姦、身をふるわせてそれらへあこがれても、何ひとつできなかった。立ちあがって、尻餅ついた。サラリイマンは、また現われて、諦念と怠惰のよさを説く。姉は、母の心配を思え、と愚劣きわまる手紙を寄こす。そろそろと私の狂乱がはじまる。なんでもよい、人のやるなと言うことを計算なく行う。きりきり舞って舞って舞い狂って、はては自殺と入院である。そうして、私の「小唄」もこの直後からはじまるようである。曳かれるもの、身は痩馬にゆだねて、のんきに鼻歌を歌う。「私は神の継子。ものごとを未解決のままで神の裁断にまかせることを嫌う。なにもかも自分で割り切ってしまいたい。神は何ひとつ私に手伝わなかった。私は霊感を信じない。知性の職人。懐疑の名人。わざと下手くそに書いてみたりわざと面白くなく書いてみたり、神を恐れぬよるべなき子。判り切っているほど判っているのだ。ああ、ここから見おろすと、みんなおろかで薄汚い。」などと賑やかなことであるが、おや、刑場はすぐもうそこに見えている。そうしてこの男も「創造しつつ痛ましく勇ましく没落して行くにちがいない。」とツァラツストラがのこのこ出て来ていらざる注釈を(ひと)こと附け加えた。

「或る実験報告」

 人は人に影響を与えることもできず、また、人から影響を受けることもできない。

 

太宰治、商業誌デビューまで

  "太宰治"というペンネームは、今回紹介したエッセイ『もの思う葦』を執筆する2年前、1933年(昭和8年)1月頃に決定したと推測されます。

 "太宰治"の筆名で最初に執筆、発表されたのはエッセイ田舎者ですが、エッセイに次いで最初に執筆、発表された小説は、1933年(昭和8年)2月19日付「東奥日報」日曜特集版の別題号付録「サンデー東奥」に掲載された短篇列車でした。
 太宰は、『もの思う葦』「はしがき」「この四五年のあいだ既に、ただの小説を七篇も発表している。ただとは、無銭の謂いである」と書いています。「ただの小説」とは、同人誌に発表し、原稿料の無い小説のことです。"七篇"とは、魚服記(「海豹」)、思い出(「海豹」)、(「鷭」)、猿面冠者(「鷭」)、彼は昔の彼ならず(「世紀」)、ロマネスク(「青い花」)、道化の華(「日本浪漫派」)のことと推定されます(発表順)。
 太宰は、先の文章に続けて「私の小説に買い手がついた。売った。売ってから考えたのである。もう、そろそろ、ただの小説を書くことはやめよう。欲がついた。」と書いていますが、太宰が最初に同人誌以外に"太宰治"の名で小説を発表したのは、1935年(昭和10年)2月1日付発行の「文藝」二月号に発表した『逆光』蝶蝶」「決闘」「くろんぼの3篇。

 太宰が"太宰治"の筆名で小説を発表し、はじめて原稿料を受け取ったのは、ペンネーム決定から2年後のことでした。

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 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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太宰治39年の生涯を辿る。
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【週刊 太宰治のエッセイ】魚服記に就て

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今週のエッセイ

◆「魚服記(ぎょふくき)(つい)て」
 1933年(昭和8年)、太宰治 24歳。
 1933年(昭和8年)3月5日から3月23日頃までに脱稿。
 1933年(昭和8年)3月25日発行の海豹通信第七便の一面に発表された。この第七便には、ほかに「貞君の痔」(金子光晴)が掲載されている。

魚服記(ぎょふくき)(つい)て」

 魚服記というのは支那の古い書物におさめられている短い物語の題だそうです。それを日本の上田秋成が翻訳して、題も夢応(むおう)鯉魚(りぎょ)と改め、雨月物語巻の二に収録しました。
 私はせつない生活をしていた期間にこの雨月物語をよみました。夢応(むおう)鯉魚(りぎょ)は、三井寺興義(こうぎ)という鯉の()のうまい僧の、ひととせ大病にかかって、その魂魄が金色の鯉となって琵琶湖を心ゆくまで逍遥(しょうよう)した、という話なのですが、私は之をよんで、魚になりたいと思いました。魚になって日頃私を辱め虐げている人たちを笑ってやろうと考えました。
 私のこの企ては、どうやら失敗したようであります。笑ってやろう、などというのが、そもそもよくない料簡だったのかも知れません。

 

魚服記』について

  魚服記は、1933年(昭和8年)3月1日付発行の「海豹」創刊号の巻頭に掲載された短篇です。太宰の自叙伝的小説十五年間によると、「作家生活の出発」となった作品で、かなり入念に作品世界が構築されています。
 短篇ながら、主人公である15歳の少女・スワの儚い人生と、太宰の故郷・津軽の美しい風景と滝の音や雪の音や山での不思議な音が絡み合い、鮮明な印象を覚える作品です。スワの生への懐疑、単調な日々の繰り返しに対する鬱積した思いが次第に強まっていく中で、学生の死、三郎と八郎の民話が巧みな伏線となり、スワの投身、変身、死へと発展していきます。

 中期の太宰はお伽草紙のように、既存の作品を換骨脱退した翻案的小説を多く執筆していますが、魚服記の最後の場面(魚となり自由に遊泳する部分)は、その先駆的側面も持っています。
 江戸時代後期の読本(よみほん)作家・上田秋成(うえだあきなり)が執筆した怪異小説雨月物語巻二「夢応(むおう)鯉魚(りぎょ)」を描写のヒントにし、その骨子を借用しています。

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■『雨月物語』巻二「夢応の鯉魚」挿絵

 「海豹」創刊号への掲載は、太宰と同い年の同郷作家・今官一(こんかんいち)が、同人誌「海豹」の同人仲間に太宰を推薦したのがきっかけでした。
 「海豹」の巻頭に掲載された魚服記は、識者の注目を集め、「たちまち『海豹』といえば太宰治のいる雑誌」と言われるようになりました。

 魚服記は、まだ無名の新人だった太宰を文壇へ送り出す大きなきっかけになります。

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太宰治今官一

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】創刊のお知らせ!

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はじめに

 2018年は、太宰治 没後70年。
 2019年は、太宰治 生誕110周年。
 2020年は、太宰治 生誕111周年。

 3年間、作家・太宰治にとって節目となる年が続き、私自身も、2019年に生誕110周年記念企画として、太宰治の小説全155作品を毎日1作品ずつ紹介する日刊 太宰治全小説、2020年に生誕111周年記念企画として、その日を太宰はどのように過ごしていたのかを毎日紹介する日めくり太宰治と、2年連続で太宰関連ブログを更新してきました。
 日めくり太宰治の完結を以て、ひとまず定期的な太宰関連ブログの更新を終了するつもりだったのですが、毎日の定期更新が無くなって早3ヶ月、太宰ロスとでもいうのか、再び太宰に関する記事を定期的に投稿していきたいという思いが芽生えてきました。
 しかし、太宰の小説作品を全て紹介し、太宰治の日めくり年譜を作成した今、次に何を更新しようか悩んだ結果、思いついたのが太宰治のエッセイの紹介でした。

 太宰のエッセイは、2020年に更新していた日めくり太宰治でも一部紹介しましたが、小説作品に比べ、皆さんが接する機会が少ないこともあってか、「初めて読んだ」「こんなエッセイがあることを知らなかった」という感想を多く頂きました。この機会に、論争や自作に対する解説、文学観が語られるなど、様々な太宰のエッセンスを感じることができるエッセイを楽しんで頂けると嬉しいです。

 

「週刊 太宰治のエッセイ」について

 太宰治のエッセイでは2021年4月5日(月)から、毎週月曜日朝6時に1本ずつ(作品により異なる場合があります)太宰のエッセイを紹介していきます。
 エッセイは、1999年に筑摩書房から刊行された太宰治全集 11 随想を定本とし、旧仮名づかいで書かれたものは、新仮名づかいに改め、旧字体で書かれているものは、原則として新字体に改めてあります。


『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)

 続いて紹介するのは、今後紹介していくエッセイのタイトル一覧です。更新済みのエッセイはリンクを貼り付けていくので、下記一覧の読みたいエッセイのタイトルをクリックすると、該当のページにジャンプすることもできます。
 なお、既に日めくり太宰治で紹介済みのエッセイについては、日めくり太宰治の該当ページのリンクが貼り付けてあります。

  

「週刊 太宰治のエッセイ」タイトル一覧

 週刊 太宰治のエッセイ」全163本のタイトル一覧です。
 更新済のエッセイは、クリックすると該当ページにジャンプすることができます。
 なお、一覧中の太宰の年齢は満年齢で記載しています。

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【1933年(昭和8年)】
 太宰治 24歳

  1.「田舎者
  2.「魚服記に就て

【1935年(昭和10年)】
 太宰治 26歳

<もの思う葦(その一)>
  3.「はしがき
  4.「虚栄の市
  5.「敗北の歌
  6.「或る実験報告
  7.「老年
  8.「難解
  9.「塵中の人
 10.「おのれの作品のよしあしをひとにたずねることに就いて
 11.「書簡集
 12.「兵法
 13.「in a word
 14.「病躯の文章とそのハンデキャップに就いて
 15.「「衰運」におくる言葉
 16.「ダス・ゲマイネに就いて
 17.「金銭について
 18.「放心について
 19.「世渡りの秘訣
 20.「緑雨
 21.「ふたたび書簡のこと

<もの思う葦(そのニ)>
 22.「我が儘という事
 23.「百花繚乱主義
 24.「ソロモン王と賤民
 25.「文章
 26.「感謝の文学
 27.「審判
 28.「無間奈落
 29.「余談
 30.「Alles Oder Nichts

 31.「川端康成へ

【1936年(昭和11年)】
 太宰治 27歳

<もの思う葦(その三)>
 32.「葦の自戒
 33.「感想について
 34.「すらだにも
 35.「慈眼
 36.「重大のこと
 37.「
 38.「健康
 39.「K君
 40.「ポオズ
 41.「絵はがき
 42.「いつわりなき申告
 43.「乱麻を焼き切る
 44.「最後のスタンドプレイ
 45.「冷酷ということについて
 46.「わがかなしみ
 47.「文章について
 48.「ふと思う
 49.「Y子
 50.「言葉の奇妙
 51.「まんざい
 52.「わが神話
 53.「最も日常茶飯事的なるもの
 54.「蟹について思う
 55.「わがダンディズム
 56.「『晩年』に就いて
 57.「気がかりということに就いて
 58.「宿題

碧眼托鉢
 -馬をさえ眺むる雪の朝かな->
 59.「ボオドレエルに就いて
 60.「ブルジョア芸術に於ける運命
 61.「定理
 62.「わが終生の祈願
 63.「わが友
 64.「憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥
 65.「フィリップの骨格に就いて
 66.「或るひとりの男の精進について
 67.「生きて行く力
 68.「わが唯一のおののき
 69.「マンネリズム
 70.「作家は小説を書かなければならない
 71.「挨拶
 72.「立派ということに就いて
 73.「Confiteor
 74.「頽廃の児、自然の児

 75.「人物に就いて
 76.「古典龍頭蛇尾
 77.「悶悶日記
 78.「走ラヌ名馬
 79.「先生三人


【1937年(昭和12年)】
 太宰治 28歳
 80.「音に就いて
 81.「檀君の近業について
 82.「思案の敗北
 83.「創作余談


【1938年(昭和13年)】
 太宰治 29歳
 84.「『晩年』に就いて
 85.「一日の労苦
 86.「多頭蛇哲学
 87.「答案落第
 88.「緒方君を殺した者
 89.「一歩前進二歩退却
 90.「富士に就いて
 91.「校長三代
 92.「女人創造
 93.「九月十月十一月


【1939年(昭和14年)】
 太宰治 30歳
 94.「春昼
 95.「当選の日
 96.「正直ノオト
 97.「ラロシフコー
 98.「『人間キリスト記』その他
 99.「市井喧争


【1940年(昭和15年)】
 太宰治 31歳
100.「困惑の弁
101.「心の王者
102.「このごろ
103.「鬱屈禍
104.「酒ぎらい
105.「知らない人
106.「諸君の位置
107.「無趣味
108.「義務
109.「作家の像
110.「三月三十日
111.「国技館
112.「大恩は語らず
113.「自身の無さ
114.「六月十九日
115.「貪婪禍
116.「自作を語る
117.「砂子屋
118.「パウロの混乱
119.「文盲自嘲
120.「かすかな声


【1941年(昭和16年)】
 太宰治 32歳
121.「弱者の糧
122.「男女川と羽左衛門
123.「五所川原
124.「青森
125.「容貌
126.「『晩年』と『女生徒』
127.「私の著作集
128.「世界的
129.「私信


【1942年(昭和17年)】
 太宰治 33歳
130.「或る忠告
131.「食通
132.「一問一答
133.「無題
134.「小照
135.「炎天汗談
136.「天狗


【1943年(昭和18年)】
 太宰治 34歳
137.「わが愛好する言葉
138.「金銭の話


【1944年(昭和19年)】
 太宰治 35歳
139.「横綱
140.「革財布
141.「『惜別』の意図
142.「芸術ぎらい
143.「郷愁
144.「純真
145.「一つの約束


【1945年(昭和20年)】
 太宰治 36歳
146.「


【1946年(昭和21年)】
 太宰治 37歳
147.「返事
148.「津軽地方とチェホフ
149.「政治家と家庭
150.「
151.「同じ星


【1947年(昭和22年)】
 太宰治 38歳
152.「新しい形の個人主義
153.「織田君の死
154.「わが半生を語る
155.「小志


【1948年(昭和23年)】
 太宰治 39歳
156.「かくめい
157.「小説の面白さ
158.「徒党について
159.「黒石の人たち
160.「如是我聞(一)
161.「如是我聞(ニ)
162.「如是我聞(三)
163.「如是我聞(四)

 

 それでは、2021年4月5日(月)6時から、毎週月曜日の更新をお楽しみに!

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 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用・加工しました。
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太宰治39年の生涯を辿る。
 "太宰治の日めくり年譜"はこちら!】

太宰治の小説、全155作品はこちら!】

【日めくり太宰治】完結のお礼

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【日めくり太宰治】完結のお礼

 本日7時の更新を以て、2020年 太宰治生誕111周年記念企画【日めくり太宰治】全368本(11月22日11月25日には座談会<特別編>も更新)の投稿が終了しました。

 継続することが苦手で、三日坊主で終わることが多い私が、毎日投稿しようと決意したのが、まさかの閏年。4年に1度しかやって来ない1日多い年。ほかの年より1本多い366回投稿しなくてはいけないタイミングで取り組むことになったのも、今となっては、太宰のお茶目なイタズラだったような気がしています。

 また、【日めくり太宰治】を企画した動機の1つには、"歴史"という枠組みの中で"太宰治"を捉え直したい、太宰が生きた時代背景を知る事で、より太宰に近づけるのではないか、という意図もありました。
 太宰は、第二次世界大戦中、最も多くの作品を執筆した作家です。「コロナ禍の中、毎日記事を更新し続ける姿が、戦禍の中で作品を執筆し続ける太宰の姿に重なる」という言葉も頂きました。明るい話題の少ない中、毎日の些細な楽しみを提供できればという、当初は想定していなかった気持ちも、更新を継続していく中で生まれてきました。

 予定していた記事の投稿は全て完了しましたが、毎日楽しみに記事を読んで下さった方々に、もう一度楽しんでもらいたい、また違った視点で記事を読んでもらいたいという思いから、最後にちょっとした「おまけ」をご用意させて頂きました。

 

太宰治の日めくり年譜

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 それが、太宰治の日めくり年譜」です。
 毎日更新していた【日めくり太宰治】の記事を年代順に並べ替えることで、太宰治の生涯を追体感することができるのではないか、という狙いがあります。
 太宰の年齢は満年齢で記載し、各年の冒頭には、1年間お世話になった山内祥史『太宰治の年譜を参考に、その年の太宰の動きが把握できるよう、概略を添えました。
 39年間という、短すぎる太宰の生涯を辿る際の、道案内となれば幸いです。

 

【1909年(明治42年)】
 太宰治  0歳
津島修治の誕生。

 6月19日:ダザイのトリセツ

 

 【1912年(明治45年・大正元年)】
 太宰治  3歳
1月、長姉タマ逝去。3月、タマ夫・良太郎実家に復籍。5月、近村タケが住込みで子守担当。父・源右衛門が衆議院議員に当選。母・夕子(たね)も療養のため、父母共に留守がちとなる。7月、弟・礼治が誕生。秋頃、父母が東京に一家を構え、在京が多くなる。

 5月 3日:タケさん、修ちゃんの子守りに
 5月18日:津島源右衛門、衆議院議員に当選
 9月12日:『将軍』と芥川龍之介

 

【1913年(大正2年)】
 太宰治  4歳
5月、叔母・キヱと地蔵堂の縁日に行く。絵本や童話を好み、タケに字を教わる。次姉・トシが津島市太郎と婚姻。

 

【1914年(大正3年)】
 太宰治  5歳
南大寺の日曜学校に通い、生玉(いくたま)和尚の話を聞く。4月、三上やゑに勧められ、金木第一尋常小学校に通い始める。11月、従姉・リエが季四郎と、従姉・フミが傍島(そばじま)正守と婚姻。

 

【1915年(大正4年)】
 太宰治  6歳
金木第一尋常小学校に休まず通学。3月、父・源右衛門が衆議院議員選挙への立候補を辞退。4月、長兄・文治が東京中学校に進学。7月、従姉・キヌが逝去。

 

【1916年(大正5年)】
 太宰治  7歳
1月、叔母・キヱが分家し、五所川原へ。4月、尋常小学校に入学。8月、父・源右衛門が叙勲。大正6年2月頃、タケ、叔母の女中となって金木を去る。

 1月18日:叔母キヱと「太宰治『思ひ出』の蔵」 
 4月21日:太宰、金木第一尋常小学校に入学

【1918年(大正7年)】
 太宰治  9歳
春頃、タケが実家に帰る。7月、タケが小泊に嫁ぐ。

 

【1920年(大正9年)】
 太宰治 11歳
2月、金木に町制が施行された。3月、金木銀行が増資され株式会社となり、父・源右衛門が引き続き頭取に就任。この頃から文学に関心をもつ。6月、級友代表で弔詞を読む。

 2月 2日:太宰と越野タケ
 6月16日:太宰が級友に読んだ弔詞

 

【1922年(大正11年)】
 太宰治 13歳
3月、金木第一尋常小学校を卒業。4月、明治高等小学校に入学。在学中、傍島正守から綴方などの個人指導を受ける。5月、長兄・文治が婚姻。12月、父・源右衛門が貴族院議員となる。

 4月 1日:学力補充のため、高等小学校へ
 5月 8日:長兄・文治に「嫁っこ、きたよお」
12月17日:源右衛門、貴族院議員に

 

【1923年(大正12年)】
 太宰治 14歳
1、2月、受験準備のため課題綴方を書く。3月、長兄・文治が大学卒業。父・源右衛門逝去。中学校受験。4月、青森中学校に入学し、豊田太左衛門方に下宿。5月頃、ユーモア小説を書く。ランニング、柔道、水泳に励む。夏休み、「幽閉」を読み興奮。二学期から級長に任ぜられる。

 3月 4日:太宰の父・源右衛門の死
 5月 2日:青森中学時代の太宰

 

【1924年(大正13年)】
 太宰治 15歳
芥川龍之介菊池寛などの小説に親しみ、文学書を多く読む。次兄・英治が婚姻。津島家が貴族院議員有資格者名簿から姿を消す。

 

【1925年(大正14年)】
 太宰治 16歳
2月、最初の創作「最後の太閤」を発表。4月、弟・礼治が青森中学に進学し、同居。10月、回覧誌「星座」に戯曲、詩、コント、随想などを寄稿。長兄・文治が金木町長に就任。宮越トキが津島家に住み込む。「校友会誌」に創作を発表し、11月、「蜃気楼」を創刊し以後各号に創作を発表。秋、西村教諭に平手打ちされ、生徒たちが抗議集会を開く。

 3月24日:最初の創作『最後の太閤』
 4月23日:「N君」中村貞次郎が語る中学時代
10月10日: 太宰の初恋『思い出』の「みよ」
10月21日:『角力』
11月 5日:同人誌「蜃気楼」創刊

 

【1926年(大正15年・昭和元年)】
 太宰治 17歳
1月、日記をつける。1、2、4、6、7、9、11、12月発行の「蜃気楼」と、9、10月発行の「青んぼ」とに、種々の文章を発表。4月、三姉・あいが婚姻。夏休み、飛島定城から高校受験の指導を受けた。11月、弁論大会に出場。12月、宮越トキが津島家を去った。

 1月23日:「蜃気楼」と『負けぎらいト敗北ト』
 7月16日:『哄笑に至る』
 8月18日:太宰、中学4年生の夏休み
11月 8日:『モナコ小景』
11月11日:「ユーモアに就いて」熱弁を振る
12月20日:『怪談』

 

【1927年(昭和2年)】
 太宰治 18歳
2月、「蜃気楼」最終号発行。3月、青森中学校四年修了。4月、弘前高校に入学し、藤田方に下宿。Bruhlの授業で英作文を書く。7月、芥川龍之介の自殺に感動。義太夫を習い始める。8月、鈴木信太郎弘前高校の校長に就任。9月、長兄・文治が青森県会議に当選。10月頃から青森で芸妓と遊ぶようになる。

 4月18日:太宰、弘前高等学校に入学
 7月24日:「河童忌」芥川龍之介の命日

 

【1928年(昭和3年)】
 太宰治 19歳
5月、「細胞文藝」を創刊し、6、7、8月号と4号を発行。8月、芸妓・紅子(小山初代)と識って親しくなる。10月、「猟騎兵」同人となる。12月、弘高新聞雑誌部委員に任命される。「校友会雑誌」に作品を発表。

10月 3日:太宰、「猟騎兵」の同人に
11月25日:太宰、平岡敏男と痛飲
12月15日:『此の夫婦』

 

【1929年(昭和4年)】
 太宰治 20歳
1月、弟・礼治が逝去。2月から12月に「弘高新聞」「猟騎兵」「校友会雑誌」等に創作や評論を掲載。2月、弘高鈴木校長の公金無断流用が発覚。同盟休校し、戸沢が校長就任。11月頃、心中未遂。12月、多量のカルモチンを嚥下し昏睡状態となる。意識回復後、母・夕子と大鰐温泉で静養。

 1月 5日:太宰を慕う弟の死
 8月29日:『虎徹宵話』
 9月25日:『花火』
11月 7日:太宰、最初の心中未遂?
12月10日:カルモチン服用による自殺未遂 

 

【1930年(昭和5年)】
 太宰治 21歳
1月から「座標」に長篇連載。4月、東京帝大に入学。戸塚諏訪の下宿で工藤永蔵に勧誘され、共産党支持者の組織に参加。5月、井伏鱒二と面会。6月、三兄・圭治が逝去。9月、小山初代が出奔上京。11月、長兄・文治と会談。除籍。結納目録。田部あつみとカルモチンを嚥下、あつみは絶命。12月、自殺幇助罪容疑。小山初代と仮祝言

 3月13日:太宰の東大受験
 3月25日:太宰、東京帝国大学に合格
 5月19日:師匠・井伏鱒二との出会い
 6月21日:三兄・圭治の死
 9月 4日:”一人の若い左翼運動者”津島修治
 9月17日:太宰、小山初代に「上京せよ」
10月 1日:初代、赤羽で降車し、太宰と再会
11月23日:分家除籍と初代との結納
11月28日:太宰、田部あつみと小動崎へ
11月29日:鎌倉腰越町小動崎での情死事件
12月 2日:田部あつみの葬儀と中畑の後始末
12月 7日:太宰、自殺幇助罪に問われる

 

【1931年(昭和6年)】
 太宰治 22歳
1月、長兄・文治と会談し「覚」を交わす。2月、初代が上京し、神田岩本町に住み、五反田に移転。党要人にアジトを提供するようになる。3月頃、俳諧運座を開催。9月、工藤永蔵が検挙される。以後、共産党と青森労組との連絡先となる。10月か11月か西神田署に出頭。その後、神田和泉町に移転。11月、起訴され刑務所に収監された工藤永蔵に送金。

 1月27日:長兄・文治と交わした「覚」
 2月 7日:太宰と初代の新婚生活
 2月 8日:太宰と工藤永蔵
 2月18日:共産党へのアジト提供
 4月14日:同郷の在京学生を左翼運動に勧誘?
 4月15日:「俳人」太宰治

 

【1932年(昭和7年)】
 太宰治 23歳
2月か3月か、淀橋柏木に転居。6月、金木の生家に特高刑事が訪問。送金停止される。新富町、八丁堀に移転。7月、青森警察特高課に出頭。静浦村に滞在し、創作に専念。9月、芝白金三光町に移転。やがて飛島定城一家が同居。11月、警察署に出頭。12月、渡辺惣助が逮捕される。

 4月27日:太宰と小舘善四郎
 6月28日:太宰の逃避行とその終焉
 8月12日:創作活動を再開、静浦村での日々
 9月14日:太宰の朗読会
 9月28日:太宰、芝区白金三光町へ引越し
10月 8日:日本初の銀行強盗、大森ギャング事件
11月 3日:太宰の留置とペンネーム「太宰」

 

【1933年(昭和8年)】
 太宰治 24歳
1月、筆名「太宰治」を決定。青森検事局に出頭し、左翼運動との絶縁を誓約。「晩年」の諸作を発表し始める。2月、「海豹」に参加。飛島家と共に、2月、天沼三丁目に、5月、天沼一丁目に移転。8月上旬頃までに「海豹」脱退。12月、太宰卒業の見込みがないことが判明、長兄・文治に叱責される。

 1月 3日:ペンネームの由来 
 1月 9日:太宰と左翼運動
 1月19日:太宰と今官一
 2月15日:『田舎者』と今官一
 2月19日:太宰治として最初の小説
 2月27日:奥さんの母・小山きみ宛の書簡
 7月 5日:手製の『思い出』
 7月12日:久保隆一郎への手紙
 9月11日:木山捷平への手紙

 

【1934年(昭和9年)】
 太宰治 25歳
4月、井伏鱒二の名で合作を、また黒木舜平の筆名で創作を発表。「鷭」一、ニ輯に創作発表。7月、三島に滞在し創作執筆。9月、「青い花」の発刊を企画。12月、「晩年」の14篇完成。12月、「青い花」発刊。

 1月22日:太宰と久保隆一郎の交流
10月 6日:なかなかの熱の入れ方「青い花」
10月20日:太宰と中原中也①
11月10日:太宰と中原中也②
12月18日:文藝同人誌「青い花」創刊

 

【1935年(昭和10年)】
 太宰治 26歳
2月、商業誌に創作初掲載逆行)。3月、失踪、縊死未遂。4月、入院し手術を受け、麻薬性鎮痛剤の使用開始。5月、「日本浪漫派」参加。7月、船橋に転居。8月、芥川賞候補となり、落選。9月、東大除籍される。10月、芥川賞選考を巡り川端康成と相剋。

 1月24日:東京帝大を卒業するために
 2月 1日:太宰の文壇デビュー
 3月14日:太宰の就職活動
 3月16日:鎌倉八幡宮の裏山で縊死未遂
 3月18日:縊死未遂からの帰還
 3月21日:縊死未遂事件の顛末
 4月 4日:太宰は、本当に麻薬中毒だったのか?
 7月 1日:「最も愛着が深かった」船橋へ
 7月29日:「なぜ、君は遊びに来ないのか」
 7月31日:弟のように可愛がった小舘善四郎
 8月21日:第一回芥川賞、落選直後
 8月22日:太宰と佐藤春夫、初めての出逢い
 8月23日: 鰭崎潤と「聖書知識」
 8月31日:「僕は君を愛している」
 9月22日:太宰、三浦正次への手紙
 9月26日:はじめての原稿料で湯河原旅行①
 9月27日:はじめての原稿料で湯河原旅行②
 9月29日:荒れた竹藪の中の、かぐや姫
10月31日:「難関をひとりで切り抜ける覚悟」
11月27日:『人物に就いて』
12月 4日:小舘善四郎と津村信夫に宛てた手紙
12月12日:『碧眼托鉢』
12月19日:太宰、「碧眼托鉢」の旅へ

 

【1936年(昭和11年)】
 太宰治 27歳
2月、佐藤春夫の紹介で麻薬中毒治療のため済生会芝病院に入院。3月頃、麻薬注射再会。5~8月、「狂言の神」を巡って騒動があった。6月、『晩年』上梓。7月、出版記念会。8月、水上谷川へ行く。10月、東京武蔵野病院の閉鎖病棟に収容される。小山初代が小舘善四郎の付添看護。11月、中毒全治退院。天沼一丁目に居住。11~12月、熱海に遊ぶ。

 1月28日:佐藤春夫に宛てた4mの書簡
 2月10日:太宰の芝済生会病院入院
 2月14日:太宰、入院中に檀一雄と病院脱出
 2月16日:太宰と鰭崎潤
 2月22日:外村繁と追悼文「太宰君のこと」
 3月12日:太宰のパビナール中毒
 4月17日:太宰、お金の無心をする
 6月 1日:『悶悶日記』
 6月22日:出来上がったばかりの『晩年』を
 6月25日:処女短篇集『晩年』刊行
 6月29日:佐藤春夫と川端康成からの手紙
 7月 6日:井伏の叱責と、太宰の言い訳
 7月 8日:太宰、佐藤春夫への誘い
 7月11日:『晩年』の出版記念会
 7月25日:『走ラヌ名馬』
 7月26日:中畑慶吉に宛てた自身の近況報告
 7月27日:佐藤春夫へ「オ許シ下サイ」
 8月 4日:『白猿狂乱』顛末記
 8月 8日:長兄・文治への近況報告
 8月14日:川久保屋旅館と第三回芥川賞落選
 8月25日:川久保屋旅館滞在中の手紙
 9月 6日:第2創作集の出版を急ぐ太宰
 9月19日:「小説かきたくて、うずうず」
 9月24日:信州でのサナトリアム生活を計画
10月 4日:伊馬鵜平と小山祐士の船橋訪問
10月 7日:初代、太宰の身を案じて井伏宅へ
10月 9日:小舘善四郎の自殺未遂
10月13日:太宰、東京武蔵野病院へ入院
10月15日:初代、小舘善四郎を付添い看護
10月19日:東京武蔵野病院入院中の太宰①
11月 1日:『先生三人』
11月 4日:東京武蔵野病院入院中の太宰②
11月12日:太宰、東京武蔵野病院を退院
12月28日:熱海事件(付け馬事件)①
12月29日:熱海事件(付け馬事件)②

 

【1937年(昭和12年)】
 太宰治 28歳
3月、小舘善四郎と初代との不倫を知る。初代と谷川岳で心中未遂。初代との離別を決意。4月、三姉・あいが逝去。5月、長兄・文治が選挙違反で公民権停止。6月、『虚構の彷徨、ダス・ゲマイネ』上梓。初代との離別決定し、天沼一丁目に単身移転。7月、『二十世紀旗手』上梓。10月、津島逸郎が服薬自殺。

 3月 5日:小山初代と小館善四郎の過ち
 3月20日:太宰治水上心中
 3月23日:水上心中事件の顛末
 4月 5日:太宰にとっての初代
 5月 9日:太宰、石神井にて合コンす
 5月30日:太宰、三宅島に遊ぶ
 6月23日:太宰、鎌滝富方に引越す
 7月19日:太宰と離別後の小山初代
 7月22日:平岡敏男への近況報告
12月 1日:『思案の敗北』
12月11日:『創作余談』

 

【1938年(昭和13年)】
 太宰治 29歳
6月頃、本気で文筆活動を志願。7月、結婚話が始まる。9月、御坂峠の天下茶屋に止宿。石原美知子と見合い。10月、津島甫が自殺。11月、石原美知子と婚約。甲府西竪町に止宿。12月、石原家に結納金を納める。

 1月11日: 『「晩年」に就いて』
 7月 4日:長尾良と太宰の出会い
 8月 1日:『緒方君を殺した者』
 8月 7日:著作をめぐる2人の女性の物語
 8月11日:井伏鱒二へのお礼と決意表明
 9月13日:太宰、御坂峠の天下茶屋へ
 9月18日:太宰、石原美知子とのお見合い
10月 5日:『富士に就いて』
10月24日:太宰、井伏への「誓約書」
10月26日:「だめな男だとも思っていません」
10月27日:『校長三代』
11月 6日:太宰と美知子の結婚披露宴
11月16日:太宰、天下茶屋を後にする
12月 9日:『九月十月十一月』
 

【1939年(昭和14年)】
 太宰治 30歳
1月、甲府御崎町に移転。井伏鱒二宅で結婚式を挙行。短篇小説コンクール当選(『黄金風景』)。5月、『愛と美について』上梓。7月、三鷹の貸家を契約。『女生徒』上梓。9月、三鷹下連雀の借家に移転。鰭崎潤、久富邦夫等と頻繁に往来。青森県出身在京藝術家座談会に出席。

 1月 4日:太宰結婚の立役者・高田英之助
 1月 7日:太宰の甲府転居 
 1月 8日:石原美知子との新婚生活
 1月16日:結婚のお礼回り
 1月26日:『女生徒』誕生の舞台裏
 2月 4日:「原稿百枚紛失」事件
 3月 2日:結婚後、最初の仕事
 5月 5日:太宰と美知子の信州旅行
 5月10日:『当選の日』
 5月15日:『正直ノオト』
 5月26日:太宰、東京への移転を切望
 5月31日:「全く望外の印税」速達で届く
 6月 4日:難航する東京での貸家捜し
 6月 8日:『春昼』
 6月 9日:太宰、創作集の装幀を依頼する
 7月10日:『「人間キリスト記」その他』
 7月15日:太宰、三鷹の借家を契約
 7月20日:太宰、お見合いをセッティング
 8月 9日:三鷹の家が、予定どおり完成せず
 9月 1日:念願の、甲府から三鷹への引越し
 9月20日:太宰「うるせえ、黙ってろ」
11月13日:『困惑の弁』
12月27日:高田英之助からの吉報を聞いて

 

【1940年(昭和15年)】
 太宰治 31歳
1月から「月刊文章」に創作連載(『女の決闘』)。3月、田中英光三鷹に訪問。4月、『皮膚と心』上梓。四万温泉に遊ぶ。6月、『思い出』『女の決闘』上梓。7月から「若草」に創作連載(『乞食学生』)。7月、湯ケ野、熱川、谷津温泉に行く。10月、東京商科大で講演。11月、短篇ラジオ小説放送(『リイズ』)。小山清三鷹に訪問。新潟高校で講演。12月から「婦人画報」に創作連載(『ろまん燈籠』)。12月、戸石泰一、三田循司、堤重久ら文学青年が三鷹に訪れるようになる。第四回北村透谷記念文学牌を受ける。

 1月 2日:佐藤春夫宅へ年始の挨拶に
 1月25日:『心の王者』
 1月30日:『このごろ』
 2月12日:『鬱屈禍』
 3月 1日:『酒ぎらい』
 3月22日:田中英光との出会い
 3月26日:『作家の像』
 4月30日:太宰、四万温泉:湯元 四萬舘に遊ぶ
 5月 6日:「昔の恩義を忘れず」
 5月 7日:『大恩は語らず』
 6月20日:『蒼穹答えず』
 7月 3日:湯ケ野温泉「福田屋」での執筆
 7月13日:太宰、「洪水に急襲」される
 8月 5日:『貪婪禍』
 8月20日:太宰と木村庄助の書簡
 9月 3日:『自作を語る』
10月 2日:太宰の講演「近代の病」
10月14日:葡萄を狩るの記
10月23日:『オリンポスの果実』出版に尽力
10月29日:『砂子屋』
10月30日:『パウロの混乱』
11月18日:太宰、新潟へゆく
11月26日:『かすかな声』
12月13日:太宰、山岸に「君は一番強いよ。」

 

【1941年(昭和16年)】
 太宰治 32歳
5月、『東京八景』上梓。6月、長女・園子が誕生。7月、『新ハムレット』上梓。8月、衰弱した母・夕子を見舞う。『千代女』上梓。9月、太田静子らが三鷹に訪問。10月、三保に遊ぶ。11月、身体検査を受け、徴用免除となる。

  1月15日:太宰と旅行
 2月11日:山岸外史から見た第一印象
 2月20日:全く同じ日に生まれた詩人・宮崎譲
 3月15日:太宰と将棋
 5月28日:真夜中のサイダー
 6月 7日:長女・園子の誕生
 6月11日:太宰、山岸に再婚のすゝめ
 6月18日:小山清にとってのLast man
 6月30日:山岸外史の「再婚機」
 8月 2日:セルフレビューと仮入歯
 8月 3日:菊田義孝、三鷹の住居を初訪問
 8月17日:太宰、10年振りに故郷・金木へ
 9月 7日:太宰と太田静子の出逢い
10月17日:『世界的』
11月17日:太宰に文士徴用令書が届く
11月22日:『日記抄』と太平洋戦争中の太宰
12月 8日:「太平洋戦争が始まった」
12月26日:「ぼくの生命を園子にあずける」
 

【1942年(昭和17年)】
 太宰治 33歳
1月、限定版『駈込み訴へ』上梓。2月、奥多摩御岳に遊ぶ。3月、奥多摩で稿を継ぐ(『正義と微笑』)。4月、堤重久とその友人達と奥多摩に遊ぶ。『風の便り』上梓。5月、『老ハイデルベルヒ』上梓。6月、『正義と微笑』『女性』上梓。8月、箱根で執筆(『花火』)。9月、繰上げ卒業の戸石泰一らと別れの宴を開催した。10月、母・夕子が重態のため初対面の妻子と帰郷。11月、『信天翁』上梓。甲府で短篇を執筆した(『黄村先生言行録』『故郷』『禁酒の心』)。12月、母危篤の報を受け単身帰郷。母・夕子が逝去した。

 1月 1日:正月の井伏鱒二宅訪問
 1月20日:『散華』のモデル・三田循司
 2月 5日:太宰の御嶽ハイキング
 2月23日:堤重久、甲府の太宰を訪問
 2月28日:ひばりのモデル・木村庄助
 3月19日:タイミングの悪い小山清
 4月 9日:堤重久の出征壮行会
 4月10日:堤重久の出征壮行会の帰途
 4月11日:『一問一答』
 4月26日:「吉祥寺のおばさん」のコスモス
 7月21日:太宰、義弟の下宿探し
 8月19日:義弟の下宿、見つかる
 8月13日:箱根の太宰治
 9月 5日:『天狗』
 9月15日:堤重久の除隊
10月28日:美知子、初めての金木
11月 2日:明日帰京と決まった日の午後
12月 3日:井伏の徴用解除と母・夕子の逝去

 

【1943年(昭和18年)】
 太宰治 34歳
1月、『富嶽百景』上梓。「右大臣実朝」の原稿に苦心した。3月、義母・石原くらを亭主に茶会を催す。4月、塩月赳の結婚式に尽力。。5月、木村庄助が自殺した。アッツ島部隊玉砕。9月、『右大臣実朝』上梓。10月、「雲雀の声」を完成したが、上梓を見合わせる。

 1月31日:太宰の「実朝時代」
 3月 6日:太宰と阿部合成
 3月 7日:山岸の送った絶交状
 3月31日:床の間の掛軸
 4月24日:太宰と阿部「思い出果てなし」
 4月28日:太宰、友人のために奔走する
 6月24日:『革財布』
 8月16日:『ユダヤ人実朝』事件
 8月24日:戦後の太宰と師匠・井伏鱒二
 9月 9日:桂英澄、入隊前夜
12月23日:阿佐ヶ谷会錬成忘年会

 

【1944年(昭和19年)】
 太宰治 35歳
1月、熱海で「佳日」を脚色。帰途。太田静子を訪問した。3月、甲府石原家へ行く。5月、津軽に旅行し、中村貞次郎、越野タケらと逢い、6月に帰宅。6月から9月まで、甲府石原家と自宅を頻繁に往来した。7月、小山初代が逝去。8月、長男・正樹が誕生した。『佳日』上梓。9月、「四つの結婚」が封切られた。10月、隣組長、防火群長に就任。11月、『津軽』上梓。空襲で印刷中の「雲雀の声」が全焼した。12月、魯迅調査のため仙台へ行く。

 1月12日:太宰と映画
 1月13日:太宰と相撲
 1月17日: 『「惜別」の意図』
 3月29日:根市良三/資生堂パーラー
 4月 2日:『芸術ぎらい』
 5月12日:太宰の『津軽』旅行①:三鷹~蟹田
 5月17日:太宰の『津軽』旅行②:今別~竜飛
 5月24日:太宰の『津軽』旅行③:金木~深浦
 5月27日:太宰の『津軽』旅行④:鰺ヶ沢~小泊
 6月 3日:太宰の『津軽』旅行⑤:蟹田~三鷹
 7月23日:小山初代の命日
 8月10日:長男・正樹の誕生
 8月26日:太宰と別所直樹との出逢い
 8月27日:津村信夫と『郷愁』
 9月16日:太宰と菊田義孝の甲府行
10月18日:『純真』
11月24日:戦時下における三鷹での太宰
12月 6日:太宰、小山清への近況報告
12月21日:『惜別』執筆準備のため、仙台へ
12月31日:菊田義孝と過ごす大晦日
 

【1945年(昭和20年)】
 太宰治 36歳
1月、『新釈諸国噺』上梓。3月、小山清が避難して来て、妻子を甲府疎開させる。4月、三鷹被爆し、甲府へ行く。7月、甲府被爆し、石原家が全焼。大内家に寄寓の後、津軽へ家族と再疎開。8月、終戦。9月、『惜別』上梓。10月、『お伽草紙』上梓。「河北新報」に小説連載開始する(『パンドラの匣』)。11月、四姉・きやうが逝去。12月、農地改革。

 2月13日:太宰と野田宇太郎
 2月25日:太宰が住んだ街、三鷹
 3月10日:太宰と東京大空襲
 4月 3日:「東京大空襲」以後、甲府疎開まで
 4月13日:太宰、甲府へ疎開する
 5月29日:太宰、甲府で「荷物疎開」
 6月26日:太宰と弟子・菊田義孝
 7月 7日:太宰、「甲府空襲」に遭う
 7月17日: 「甲府空襲」罹災後の太宰
 7月28日:太宰、甲府から津軽へ疎開
 8月 6日:田中英光、金木の太宰を訪問
 8月15日:金木で迎えた終戦
 8月28日:疎開先から弟子と師匠に送る手紙
 9月21日:太宰、終戦後の希望を書く
 9月23日:捗る仕事、断わる仕事
 9月30日:『パンドラの匣』にかける熱量
10月22日:『パンドラの箱』連載開始
10月25日:終戦直後、『お伽草子』を刊行
11月 9日:「大へん疲れてしまいました」
11月21日:太宰の四姉・きやうの死

 

【1946年(昭和21年)】
 太宰治 37歳
2月、青森中学で講演。3月、金木文化会に出席。4月、長兄・文治が衆議院議員に当選した。5月、芥川比呂志が来訪。6月、『パンドラの匣』上梓。7月、祖母・イシが逝去。11月、金木を離れ帰京。『薄明』上梓。坂口安吾織田作之助らとの座談会に出席。

 1月14日:太宰、初の新聞連載
 2月 6日:太宰の「勉強論」と「聖諦」
 3月 3日:長兄・文治の選挙応援
 3月17日:太宰、友人の小野正文を訪ねる
 4月19日:戦後の原稿用紙不足
 4月22日:堤重久に宛てた手紙
 4月25日:疎開中の太宰に「たけさん現わる」
 5月20日:芥川比呂志、太宰を訪問する
 6月15日:『政治家と家庭』
 9月10日:野原一夫、太宰に原稿依頼
10月11日:金木から「小田静夫」への手紙
10月12日:疎開先で弟子を気遣う太宰
10月16日:祖母・津島イシの葬儀
11月14日:太宰、金木から三鷹へ帰京
11月20日:野原一夫、三鷹通いのはじまり
11月22日:『現代小説を語る』
11月25日:『歓楽極まりて哀情多し』
12月14日:「太宰さんの文学はきらい」
12月16日:太宰「校正お世話になります」
12月24日:太宰の年越し準備
12月25日:「ぼくのクリスマスプレゼント」

 

【1947年(昭和22年)】
 太宰治 38歳
1月、織田作之助が逝去。同居していた小山清が夕張に出発。2月、伊豆への途中、下曽我の太田静子を訪問。静子の日記を携え、三津浜で稿を起こす(『斜陽』)。3月、山崎富栄を識る。次女・里子が誕生。5月、「春の枯葉」NHKラジオ放送。7月、『冬の花火』『ろまん燈籠』上梓。7月から「新潮」に創作を連載(『斜陽』)。「千草」を仕事場とする。「パンドラの匣」映画化。8月、『ヴィヨンの妻』上梓。9月、熱海に行く。11月、太田治子が誕生。

 1月 6日:太宰と日記
 1月10日: 『織田君の死』
 1月21日:生前に出版された『太宰治全集』
 1月29日:太宰と小山清
 2月21日:太宰、太田静子の日記を手にする
 2月24日:太宰、尾崎一雄宅を訪問
 2月26日:『斜陽』を執筆した安田屋旅館
 3月11日:太宰と「千草」
 3月27日:太宰と富栄の出逢い
 3月30日:次女・里子の誕生
 4月12日:田辺精肉店の裏のアパート
 5月 1日:富栄、薄ら寒い夜の記憶
 5月 4日:富栄、歓びと葛藤と
 5月21日:太宰を占う、若い女性占い師
 5月25日:太田静子の三鷹来訪
 6月 2日:太宰作品のNHKラジオ放送
 6月10日: 太宰、富栄に「別れよう――」
 6月27日:「太宰さんと旅をする」
 7月 9日:太宰の3通の手紙
 7月14日:菊田義孝「愛情うすし」
 7月30日:富栄、募る太宰への想い
 8月30日:「僕の内臓の一部のような気がする」
 9月 2日:富栄、太宰に会えぬ日々
 9月 8日:『同じ星』と宮崎譲
11月15日:證「この子は 私の 可愛い子」
11月19日:富栄「こうした私の心の飛躍」
11月30日:太宰に付き添う富栄
12月 5日:富栄「修ちゃんを、守りたい」
12月22日:富栄「お人好しの仙女では…」
12月30日:山崎富栄「女一人」

 

【1948年(昭和23年)】
 太宰治 39歳
2月、俳優座が「春の枯葉」を公演。大映女優・関千恵子が来訪し対談した。織田作之助の追悼会に出席。義妹・吉原愛子が逝去。3月から「新潮」に随想を連載した(『如是我聞』)。熱海へ行く。『太宰治随想集』上梓。4月、『太宰治全集』(八雲書店)を刊行開始。大宮へ行く。6月から「展望」に創作を連載(『人間失格』)。6月、山崎富栄と家出し入水した。自宅で葬儀。7月、五七日の法要。『人間失格』『桜桃』上梓。11月、『如是我聞』上梓。

 2月 3日:三鷹の仕事部屋
 2月 9日:「太宰治先生訪問記」
 2月17日:『晩年』への熱い想い
 2月29日:酒だけが俺を生かしておいてくれる
 3月 8日:起雲閣で『人間失格』の執筆開始
 3月 9日:太宰が富栄に告げた言葉
 3月28日:太宰の近況 ー富栄の日記から
 4月 6日:『如是我聞』の口述筆記①
 4月 7日:『井伏鱒二選集 第三巻 後記』
 4月 8日:太宰と林聖子さん
 4月16日:富栄、太田静子への手紙を代筆
 4月20日:最初の全集を刊行した八雲書店
 4月29日:『人間失格』執筆のため大宮へ
 5月11日:太宰、大宮を後にする
 5月13日:『如是我聞』の口述筆記②
 5月14日:太宰の「朝日新聞」連載小説
 5月16日:太宰と3人の女性たち
 5月22日:「恋している女があるんだ」
 5月23日:「修治さんに、憂鬱な嫉妬と不安」
 6月 5日:『如是我聞』の口述筆記③
 6月 6日:最後の「行ってくるよ」
 6月12日:太宰心中前日、大宮を訪問
 6月13日:太宰と富栄、玉川上水に入水す
 6月14日:太宰治の命日
 6月17日:心中事件後の朝日新聞報道
 7月 2日:『黒石の人たち』
 7月18日:太宰、三鷹「禅林寺」に葬られる

 

これから

 2019年の【日刊 太宰治全小説】、2020年の【日めくり太宰治】と、2年続けて太宰治関連の発信を続けたことで、多くの方との出会いがあり、貴重な資料のご提供やご助言を頂くなど、多くのご支援に支えられて、無事に更新を終えることができました。私の部屋には、頂いた資料や、自分で購入した書籍も含め、記事を書くために部分的にしか目を通していない多くの蔵書、貴重な資料が多く残りました。これからは、ゆっくり丁寧に目を通しながら、不定期更新ではありますが、ソウルフレンド・太宰治の魅力発信を続けていきたいと考えています。

 また、毎朝7時に投稿を続けた【日めくり太宰治】の記事の中には、個人的に納得のいっていないもの、後で追加エピソードを知ったもの、太宰治の日めくり年譜」を作成した際に、他の記事との関係で調整を加えたいものがあるため、適宜、加筆修正をしていく予定です。たまに思い出した時、覗いてみると、新しい発見があるかもしれません。

 1年間継続して来れたのは、毎日読んで下さった方々、応援して下さった方々のおかげです。1年間お付き合い頂き、本当にありがとうございました。

 最後は、今後の再会への期待も込めて、太宰治の名作津軽の名フレーズで締めたいと思います。

さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。

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 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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【今日は何の日?
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【日めくり太宰治】12月31日

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12月31日の太宰治

  1944年(昭和19年)12月31日。
 太宰治 35歳。

 大晦日に、さそわれて菊田義孝宅を訪れた。

菊田義孝と過ごす大晦日

 1944年(昭和19年)12月31日。太宰は、大晦日に弟子・菊田義孝(きくたよしたか)に誘われ、菊田宅を訪れました。この時の様子を、菊田の太宰治と罪の問題所収の回想『邂逅と別離』から引用します。

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■菊田義孝(1916~2002) 仙台生まれの小説家、詩人。太宰の弟子。

 その年の大晦日、私はあの人を中野の自分の家へ案内した。
「女房が一度先生をお()びしたいと言っていますが」
「よし、行こう」ということで、その日、昼過ぎ、私が迎えに行くと、あの人はさっそく外出の仕度をして、ズボンの上にゲートルを巻いた。時代のついた黒い羅紗(ラシャ)の詰襟服だったように思う。くにの次兄から送られたものだ。そんなこともそのとき、聞いたように思う。綿入れの防空頭巾を首に掛けた。鉄カブトだけは下げなかった。その頃はあの人でさえも外出に際しては、そんな服装をしなければならなくなっていたのだ。最初の本土大空襲の日が、三カ月後に迫っていた。

私はもちろん国防服にゲートルを巻き、戦闘帽を被り、鉄カブト、防空頭巾を背負っていた。駅の改札前で、私が先ほど降りるとき買って用意しておいた切符をあの人へ渡すと、「これは、君にしては、気がきいたね」と言われた。「恋は、人を知恵者にする。」私はこっそり胸の中で呟いていた。あの人は「惜別」を書くために、魯迅が仙台の医学校に在学当時の資料調査のため仙台にいって帰って来た直後のことであった。仙台は私の故郷である。

「仙台へ着くと、河北新報の記者が駅に迎えに出ていてくれた。その人とふたりで街を歩いていたら、思わず、汚ねえまちだなあ、という嘆声がもれちゃったんだ。そうしたらその河北の人が、実に不満げな顔をして、なんとかかんとか、弁解していたよ」途々そんなことを言って、私を苦笑させた。家に着いてみると、近所からもらい集める手筈になっていた酒が思うように集らなくて、焼酎がわずか三合ばかりしかないことがわかった。
「いや、大丈夫。焼酎は、お茶で薄めて飲んでもいいんだ。案外、乙な味がするものだよ」あの人が取りなし顔に言う。私もやや力を得て、さっそく湯をわかし、茶を()れさせた。
「どれどれ、僕が薄めてやろう。なかなかこれは、加減が要るんだ」あの人は土瓶を受けとると、加減しいしい焼酎の中へ注ぎこんだ。
「うむ。まずこのへんで、いいだろう」それから猪口(ちょこ)でゆっくりと飲み出した。何の話をしたのか、いまはほとんど忘れてしまったが、ともかく話は、次ぎから次ぎと、尽きなかった。
「僕はこんど、魯迅のおかげで、すっかり支那通になっちゃたよ」あの人が冗談めかしてそう言ったのを憶えている。私は時の移るのも忘れていた。焼酎もおかげで案外長もちした。朝から薄曇りの日であったが、部屋の中に暮色が忍び入ってたがいの顔も(おぼ)ろげになった頃、ようやく焼酎も終わりを告げた。話が自然に途絶えた瞬間、私が立ち上がってパチと電燈を点けると、二人ともふっと(にわ)かに眼が醒めた気持になった。二人で顔を見合わせた途端に、
「今日は、完全に、戦争の事を忘れられたね」そう言って、ちょっと嬉しそうだった。言われて気がつくと、まさしくその二、三時間ばかりというもの、この部屋の中では戦争気分というものが、ほとんど完全に影をひそめていたのである。女房が乏しい材料をかき集めて作った粗末な料理があれこれと卓子(たくし)の上に並べてあったが、あの人はそれに一つも手をつけていなかった。最後に女房がすすめると、天ぷらの皿をとり上げて、素早くぺろりと平らげた。更にすすめると、もう一皿お代わりをした。それを最後に立ち上がったあの人について、私も外へ出た。玄関で靴紐を結びながら、あの人は、「菊田君には、これでもどこかいいところもあるんですから、いつまでも棄てないでやって下さい」と、ずいぶん消極的なとりなしをして、女房を笑わせた。家の前は畑で、そこを通り過ぎると、舗装された往還へ出る。白っぽい往還の上を、防空服装の人がひとり、自転車に乗って走り過ぎた。大晦日といっても、全くなんの風情もない。忘れていた戦争の気配がたちまちどこからかひそひそと忍び寄ってくる。すこし猫背のあの人は、防空頭巾を背負ったその背を一層かがませて、足許を見つめながら歩いていたが、
聖諦第一義(しょうたいだいいちぎ)、という言葉を知っているか。達磨(だるま)大師が、支那の皇帝から禅とは何か、と聞かれたとき答えた言葉だそうだ。聖諦。神聖の聖の字に、あきらめ。どうだ、いいだろう。深いだろう」

 私は薄暮の、曇った大空に、眼をやった。聖諦。まさかそんな大それたものではなかったが、私の中にも一種のあきらめはあった。「われ主のために何を棄てし」讃美歌のなかに、たしかそういう文句があった。おれは果してこの人のために、何を棄てたことがあるだろう。いつだってまったく一方的に、サービスを受けるばかりなのだ。この人は、疑いもなく、大作家だ。それだけに、この人の荷物は重い。しかもおれは、この人のたださえ重い荷物を一層重くするような事ばかりしている。おれにできる一ばんいい事といったら、いっそ二度とこの人に会わない事かもしれない。しかし、それが、今さらできるくらいなら!……あきらめろ。この人は、「風の便り」の井原退蔵のように、遊びの責任を全部自分の肩に背負って、ずかずかと足音高く遊ぶ人だった。これからもまたそうだろう。おれはもうこの人にお返ししようなんて、思うまい。お返ししようなんて思うこと、それさえ卑しいことではないのか。おれは招かれざる訪問者としての役割を、自分の宿命として受け入れる。今までこの人に掛けて来た全部の迷惑を肯定する。いつかはこの人を(さば)くその神と、同じ神におれも(さば)かれるのだ。この人への借りは、そのまま神への借りなのだ。……それと同時に、自ら直接身を置いたことはない戦場の事が、漠然と思われた。戦場もここも同じ空の下。そしてすべては、「永遠」の中の一コマ。そういう感覚が、奇妙にまざまざと心を包んだ。
「聖諦か。いいですね」私は口の中でぼそぼそ呟きながら、わざと深く面を伏せてけだもののように(、、、、、、、、)歩いていた。その翌年書かれた「お伽草子」の「浦島さん」のなかに、この「聖諦」という文字が出てくる。

 かすかに、琴の音が脚下に聞える。日本の琴の音によく似ているが、しかしあれほど強くはなく、もっと柔かで、はかなく、そうしてへんに嫋々たる余韻がある。菊の露。薄ごろも。夕空。きぬた。浮寝。きぎす。どれでもない。風流人の浦島にも、何だか見当のつかぬ可憐な、たよりない、けれども陸上では聞く事の出来ぬ気高いさびしさが、その底に流れている。
「不思議な曲ですね。あれは、何という曲ですか。」
 亀もちょっと耳をすまして聞いて、
「聖諦。」と一言、答えた。
「せいてい?」
「神聖の聖の字に、あきらめ。」
「ああ、そう、聖諦。」と呟いて浦島は、はじめて海の底の龍宮の生活に、自分たちの趣味と段違いの崇高なものを感得した。

 私はその夜あの人について吉祥寺まで行き、又もやあのスタンドで大酒を飲んで、夜ふけてから帰宅したのであった。

 

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 【了】

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【参考文献】
・菊田義孝『太宰治と罪の問題』(審美社、1964年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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