記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】食通

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今週のエッセイ

◆『食通』
 1942年(昭和17年)、太宰治 33歳。
 1941年(昭和16年)12月中旬に脱稿。
 『食通』は、1942年(昭和17年)1月5日発行の「博浪抄」第七巻第一号に発表された。

「食通

 食通というのは、大食いの事をいうのだと聞いている。私は、いまはそうでも無いけれども、かつて、非常な大食いであった。その時期には、私は自分を非常な食通とばかり思っていた。友人の檀一雄などに、食通というのは、大食いの事をいうのだと真面目な顔をして教えて、おでんや等で、豆腐、がんもどき、大根、また豆腐というような順序で際限も無く食べて見せると、檀君は眼を丸くして、君は余程の食通だねえ、と言って感服したものであった。伊馬鵜平君にも、私はその食通の定義を教えたのであるが、伊馬君は、みるみる喜色を満面に(たた)え、ことによると、僕も食通かも知れぬ、と言った。伊馬君とそれから五、六回、一緒に飲食したが、果して、まぎれもない大食通であった。
 安くておいしいものを、たくさん食べられたら、これに越した事はないじゃないか。当り前の話だ。すなわち食通の奥義である。
 いつか新橋のおでんやで、若い男が、海老の鬼がら焼きを、箸で器用に()いて、おかみに褒められ、てれるどころかいよいよ澄まして、またもや一つ、つるりとむいたが、実にみっともなかった。非常に馬鹿に見えた。手で剝いたって、いいじゃないか。ロシヤでは、ライスカレーでも、手で食べるそうだ。

 

”食通”の太宰

 「食通」「大食いの事」と定義し、自身も「かつて、非常な大食い」だったと言う太宰ですが、実際はどうだったのでしょうか。9年間、太宰のことを支え続けた妻・津島美知子回想の太宰治から引用して紹介します。

 まずは、太宰と結婚して甲府市御崎町56番地の借家に引越した頃のこと。

 引越す前、酒屋、煙草屋、豆腐屋、この三つの、彼に不可欠の店が近くに揃っていてお誂え向きだと、私の実家の人たちにひやかされたが、ほんとにその点便利がよかった。酒は一円五十銭也の地酒をおもにとり、月に酒屋への支払いが二十円くらい。酒の肴はもっぱら湯豆腐で、「津島さんではふたりきりなのに、何丁も豆腐を買ってどうするんだろう」と近隣で噂されているということが、廻り廻って私の耳に入り、呆れたことがある。
 太宰の説によると「豆腐は酒の毒を消す。味噌汁は煙草の毒を消す」というのだが、じつは歯がわるいのと、何丁平らげても高が知れているところから豆腐を好むのである。

 酒屋への支払いが月20円くらいというと、現在の貨幣価値に換算すると、約25,000~29,000円に相当します。

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太宰治 甲府ゆかりの地散策マップ 山梨県立文学館で2019年4月27日~6月23日の会期で開催された「特設展『太宰治 生誕110年ー作家をめぐる物語ー』」の配布資料。一部著者が編集。

 太宰治 甲府ゆかりの地散策マップ」を見ると、「太宰の新居跡」の近くに「①酒屋(窪田酒店)」「②煙草屋(原田親平が営業)」「③豆腐屋分部(わけべ)豆腐店)」があるのが分かります。ちなみに、毎日午後3時頃まで机に向かった後に通ったという温泉「喜久之湯」もあります。結婚後の新居は、まさに太宰にとって「お誂え向き」の立地でした。

 続いて、太宰の食事風景や食の好みについても引用してみます。

 太宰は箸の使い方が大変上手な人だった。長い指で長い箸のさきだって使って、ことに魚の食べ方がきれいだった。箸をつけたらきれいに平らげ、箸をつけない皿はそのまま残した。あれほど箸づかいのすっきりした人は少ないと思う。

 太宰の食物についての言い分を聞いていると結局、うまいものはすべて津軽のもの、材料も料理法も津軽風に限るということになる。たまに郷里から好物が届くと、大の男が有頂天になって喜ぶ。甲府で所帯を持ってその春、陸奥湾に面する蟹田の旧友中村さん(著者注:小説『津軽』のN君)が手籠一ぱい毛蟹を送ってくださった。私が津軽の味を味わった最初で、食べ方、雌雄の見分けなどをこのとき彼に教えてもらった。蟹は第一の好物であった。

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 太宰にとっては鶏肉が、肉類では一ばん馴染のものだった。戦争中、三鷹の農家で鶏一羽、売ってくれることがあって、それが最高の御馳走であったが、農家も出征兵を出していて男手不足なので、おばあさんか、お嫁さんが庭さきに放し飼いされている鶏をつかまえ、バタバタするのをおさえつけて、そのまま渡してくれることもある。木綿ふろしきでくるんで乳母車に子供や野菜と一緒に積みこんで帰ると、主人自ら手をくだすほかないので、酒の勢を借りて、あの虫も殺さぬ優しい人が、えいッとばかりひねってしまう。そのあとの始末を私がやって、流しの(まないた)の上におくとこれからが本番、じつは、太宰には鶏の解剖という隠れた趣味がある。頼んでもやりそうもない人なのに、こればかりは自分の仕事にきめている。但し、いたって大ざっぱな自己流で、肉は骨つきのままぶつ切りに、内臓は捨てるべきものを取り去るだけで、このとき必ず「『トリは食ってもドリ食うな』と言ってね」というせりふが出る(ドリというのは臓物の一部分で食べてはいけないとされていた)。私のカッポウ着を着てその仕事を楽しんでいる最中、来客があって、私に目顔、手まねで合図して居留守をつかってお帰ししたことがある。流しの前と玄関の戸口とほんの僅かしか離れていないので声が出せなかったのだ。
 鶏は大てい水たきか鍋にした。鍋ものが好きで、小皿に少しずつ腹にたまらぬ酒の肴を並べてチビチビやるのでなく、書生流に大いに飲みかつ喰う方だった。

 「ドリ」とは、「ルリ」とも呼ばれる「肺」にあたる部位で、美味しく食べられる部分ではないそうです。

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太宰治文学サロンに展示されている、三鷹の住居模型。 2019年3月、著者撮影。

 写真下方が玄関、右下隅の美知子の人形が立っているのが流し。確かに、この距離感で居留守を使うには、声が出せなさそうです。

 体質からか、頭を使う仕事のせいか肉、魚、内臓などを特別欲したので、私は三鷹では毎日食料集めに奔走した。マーケットの女主人に、毎日卵を買いにくるといって罵られたことがあった。

 最後に、今回のエッセイ『食通』が書かれた頃の食料事情について引用します。

 食料は、三鷹の奥の新川や大沢の方の農家を歩き廻って、野菜や卵、鶏などを入手し乳母車に子供と一緒に積んで帰り、時にはもっと遠くへ買い出しに出かけるなどして、私は食料あつめであけくれていた。郷里の人々の好意にもすがった。食料、燃料、調味料、この三つが揃っていることは稀で、ついに林に入ってヤブ萱草(かんぞう)を採ってきて食べて腹こわししたり、道に落ちている木ぎれを拾うまでになった。
 太宰は体質のせいか肉魚卵などの乏しいのがこたえるようだった。ほんの僅かの魚や肉の配給を取るために長い時間立って待たねばならなかった。配給制になってから今まで煙草をのまなかった人がのむようになった話をきいたが、太宰が甘味に手をのばして砂糖もアルコールも体内に入れば同じものだと言うのには驚いた。酒は苦心してたいてい毎日飲んではいたが、勿論不足だったと思う。

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■長女・園子、次女・里子と、三鷹の自宅にて この写真に写る鶏も、太宰が解体したのでしょうか。

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
・HP「太宰治と甲府 2【御崎町の借家と煙草店】」(峡陽文庫
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】或る忠告

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今週のエッセイ

◆『或る忠告』
 1942年(昭和17年)、太宰治 33歳。
 1941年(昭和16年)11月下旬か12月上旬頃に脱稿。
 『或る忠告』は、1942年(昭和17年)1月1日発行の「新潮」第三十九巻第一号の特集「新しき文学の道」欄に発表された。この欄には、ほかに「現実に徹したい」(石原文雄)、「本質と宿命」(野口冨士男)、「今後の文学の道」(岩上順一)などが掲載された。

「或る忠告

「その作家の日常の生活が、そのまま作品にもあらわれて居ります。ごまかそうたって、それは出来ません。生活以上の作品は書けません。ふやけた生活をしていて、いい作品を書こうたって、それは無理です。
 どうやら『文人』の仲間入り出来るようになったのが、そんなに嬉しいのかね。宗匠頭巾をかぶって、『どうも此頃の青年はテニヲハの使用が滅茶で恐れ入りやす。』などは、げろが出そうだ。どうやら『先生』と言われるようになったのが、そんなに嬉しいのかね。八卦(はっけみ)だって、先生と言われています。どうやら、世の中から名士の扱いを受けて、映画の試写やら相撲の招待をもらうのが、そんなに嬉しいのかね。此頃すこしはお金がはいるようになったそうだが、それが、そんなに嬉しいのかね。小説を書かなくたって名士の扱いを受ける道があったでしょう。殊にお金は、他にもうける手段は、いくらでもあったでしょうに。
 立身出世かね。小説を書きはじめた時の、あの悲壮ぶった覚悟のほどは、どうなりました。
 けちくさいよ。ばかに気取っているじゃないか。それでも何か、書いたつもりでいるのかね。時評に依ると、お前の心境いよいよ澄み渡ったそうだね、あはは。家庭の幸福か。妻子あるのは、お前ばかりじゃありませんよ。
 図々しいねえ。此頃めっきり色が白くなったじゃないか。万葉を読んでいるんだってね。読者を、あんまり、だまさないで下さい。図に乗って、あんまり人をなめていると、みんなばらしてやりますよ。僕が知らないと思っているのですか。
 責任が重いんだぜ。わからないかね。一日一日、責任が重くなっているんだぜ。もっと、まともに苦しもうよ。まともに生き切る努力をしようぜ。明日の生活の計画よりは、きょうの没我のパッションが大事です。戦地に行った人たちの事を考えろ。正直はいつの時代でも、美徳だと思います。ごまかそうたって、だめですよ。明日の立派な覚悟より、きょうの、つたない献身が、いま必要であります。お前たちの責任は重いぜ。」
 と或る詩人が、私の家へ来て私に向って言いました。その人は、酒に酔ってはいませんでした。

 

太宰の覚悟と戒め

 エッセイ『或る忠告』の冒頭に「その作家の日常の生活が、そのまま作品にもあらわれて居ります。ごまかそうたって、それは出来ません。生活以上の作品は書けません。ふやけた生活をしていて、いい作品を書こうたって、それは無理です。」と書いた太宰。太宰がどのような心境でこのように綴ったのか、当時の太宰を取り巻く状況から見てみたいと思います。

 まずは、当時の状況について、太宰の妻・津島美知子回想の太宰治から引用します。

 長女が生まれた昭和十六年(一九四一)の十二月八日に太平洋戦争が始まった。その朝、真珠湾奇襲のニュースを聞いて大多数の国民は、昭和のはじめから中国で一向はっきりしない〇〇事件とか〇〇事変というのが続いていて、じりじりする思いだったのが、これでカラリとした、解決への道がついた、と無知というか無邪気というか、そしてまたじつに気の短い愚かしい感想を抱いたのではないだろうか。その点では太宰も大衆の中の一人であったように思う。この日の感懐を「天の岩戸開く」と表現した文壇の大家がいた。そして皆その名文句に感心していたのである。
 それより一月ほど前に、太宰のところに出頭命令書が舞いこんで、本郷区役所に行くと文壇の人々が集まっていて、徴用のための身体検査を受けた。太宰の胸に聴診器を当てた軍医は即座に免除と決めたそうである。「肺浸潤」という病名であった。助かったという思いと、胸の疾患をはっきり指摘されたこととで私は複雑な気持であった。

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■妻・美知子、長女・園子と太宰

 そんな病気をもつ太宰も昭和十七、十八年と戦局の進展につれて奉公袋を用意し、丙種の点呼や、在郷軍人会の暁天(ぎょうてん)動員にかり出された。暁天動員のときは朝四時に起きて、かなり離れた小学校校庭で訓練を受けた。出なくてもよい査閲に参加して思いもよらず上官から褒められたことを書いているが、それは事実あったことである。隣組を単位としてほとんどすべての生活必需物資が配給制になり、私たち主婦も動員されて藁布団(わらぶとん)を作ったり、タービン工場に乳児を負うて働きに出たりした。
 太宰はずっと和服で通してきていたので、ズボン一つ持ち合わせが無く、いわゆる防空服装を整えるのに苦心した。戦時下にも時勢にふさわしいおしゃれはある。私は来訪される方々が、よい生地の国民服を着て、鉄カブトを背負ったりしているのを見ると、どこで調達されるのだろうかと羨ましかった。

 1941年(昭和16年)6月7日、太宰と美知子の最初の子供・園子が生まれました。その約半年後、美知子が回想するように「昭和のはじめから中国で一向はっきりしない〇〇事件とか〇〇事変というのが続いて」いた中で、同年12月8日、マレー作戦や真珠湾攻撃を皮切りにに太平洋戦争(大東亜戦争)がはじまりました。ちなみに、太平洋戦争の開戦は真珠湾攻撃と言われることもありますが、日本軍がイギリス領マラヤに攻撃をしかけたマレー作戦が、真珠湾攻撃より1時間以上も早く作戦が実行されたため、誤りです。

 さて、真珠湾攻撃が行われる約2週間前の11月17日。「文士徴用令書」を受け取った太宰は、本郷区役所二階の講堂で、文壇の人々とともに、徴用のための身体検査を受けました。
 検査の結果は、「肺浸潤」のため徴用免除。「肺浸潤」とは、結核菌に侵された肺の一部の炎症がだんだん広がっていくことで、過去には肺結核の初期病状のことを指していました。
 美知子は、太宰のこの結果について、「助かったという思いと、胸の疾患をはっきり指摘されたこととで私は複雑な気持であった。」と回想しています。

 太宰は、身体検査の4日後、文士徴用で大阪の中部軍司令部に出頭を命ぜられた小田嶽夫中村地平井伏鱒二高見順寺崎浩豊田三郎を東京駅で見送っています。
 その後も、エッセイ『或る忠告』が発表された1942年(昭和17年)1月に三田循司、同年4月に堤重久、翌々年の1943年(昭和18年)9月に桂英澄と、召集がかかった自身の弟子たちを見送っています。

 この時期、太宰は文壇仲間や弟子たちを戦地に見送りながら、執筆活動に専念します。「戦時中、最も作品を残した作家の1人」とも言われる太宰ですが、どのような気持ちで創作に没頭していたのでしょうか。

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■太宰が出征を見送った弟子たち 左から三田循司堤重久桂英澄

 エッセイは「明日の生活の計画よりは、きょうの没我のパッションが大事です。戦地に行った人たちの事を考えろ。正直はいつの時代でも、美徳だと思います。ごまかそうたって、だめですよ。明日の立派な覚悟より、きょうの、つたない献身が、いま必要であります。お前たちの責任は重いぜ。」「或る詩人」「私」に向かって言った、と締め括られています。「或る詩人」は、酒に酔ってはいなかったそうですが、これは、辻音楽師と自称した太宰自身の覚悟と、自己への戒めの表明のようにも感じられます。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】私信

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今週のエッセイ

◆『私信』
 1941年(昭和16年)、太宰治 32歳。
 1941年(昭和16年)11月26日から30日までに脱稿。
 『私信』は、1941年(昭和16年)12月2日発行の「都新聞」第一九四三七号の第一面「文芸」欄の「大波小波」欄に発表された。この「文芸」欄には、ほかに「精神に就て」(三木清)、「活字の話(三)」(徳永直)、「虎彦龍彦(77)」(坪田譲治)が掲載された。

「私信

 叔母さん。けさほどは、長いお手紙をいただきました。私の健康状態やら、また、将来の暮しに就いて、いろいろ御心配して下さってありがとうございます。けれども、私はこのごろ、私の将来の生活に就いて、少しも計画しなくなりました。虚無ではありません。あきらめでも、ありません。へたな見透しなどをつけて、右すべきか左すべきか、(はかり)にかけて慎重に調べていたんでは、かえって悲惨な(つまづ)きをするでしょう。
 明日の事を思うな、とあの人も言って居られます。朝めざめて、きょう一日を、充分に生きる事、それだけを私はこのごろ心掛けて居ります。私は、嘘を言わなくなりました。虚栄や打算で無い勉強が、少しずつ出来るようになりました。明日をたのんで、その場をごまかして置くような事も今は、なくなりました。一日一日だけが、とても大切になりました。決して虚無では、ありません。
 いまの私にとって、一日一日の努力が、全生涯の努力であります。戦地の人々も、おそらくは同じ気持ちだと思います。叔母さんも、これからは買い溜などは、およしなさい。疑って失敗する事ほど醜い生きかたは、ありません。私たちは、信じているのです。一寸の蟲にも、五分の赤心(せきしん)がありました。苦笑なさっては、いけません。無邪気に信じている者だけが、のんきであります。私は文学をやめません。私は信じて成功するのです。御安心下さい。

 

太宰と叔母とタケ

 エッセイ『私信』が執筆された1941年(昭和16年)11月26日から30日の直前にあたる11月17日、文士徴用令書を受け取った太宰は、本郷区役所二階の講堂で、文壇の人々とともに、徴用のための身体検査を受けました。結果は「肺浸潤」のため、徴用免除。「肺浸潤」とは、結核菌に侵された肺の一部の炎症が、だんだん広がっていくことで、肺結核の初期病状のことを意味していました。
 その4日後の11月21日午前9時、文士徴用で大阪の中部軍司令部に出頭を命ぜられて、特急(つばめ)で東京駅を出発する小田嶽夫中村地平井伏鱒二高見順寺崎浩豊田三郎らを、太宰は見送りに行っています。この時の心境が、多少なりとも今回のエッセイの内容に反映されているように思われます。

 エッセイ『私信』は、「叔母さん」に宛てた「私信」の体裁をとっていますが、この「叔母さん」とは、太宰の母親・津島夕子(たね)の妹で、太宰の叔母にあたる津島キヱ(きえ)のことです。
 今回は、太宰に大きな影響を与えた叔母・津島キヱ)と女中・越野タケ、2人の女性について紹介します。

 津島キヱは、津島惣五郎・イシの次女で、1879年(明治12年)2月18日生まれです。長女・津島夕子は15歳の時、西津軽郡木造村(現在のつがる市)の名門・松木七右衛門の四男・松木永三郎(のちの太宰の父・津島源右衛門)を婿養子に迎え、次女・キヱは同松木家の五男・松木友三郎を婿養子に迎えます。
 松木家は、藩政時代には苗字帯刀を許された郷士で、8代目にあたる七右衛門の時代に薬種問屋に転業するまで、作り酒屋を営んでいました。津島家の姉妹が松木家の兄弟を養子に迎えたことには、津島家繁栄の地盤を固めたいという意図がありました。
 しかし、キヱの夫・友三郎は酒乱の悪癖があったため、2人の娘がいたにもかかわらず、津島家から離婚を申し渡されてしまいます。

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■太宰1歳数か月の頃 前列右から叔母・キヱ(きえ)、太宰、母・夕子たね。後ろは、三上やゑ(やえ)やゑ(やえ)は、金木第一尋常小学校の訓導で、太宰の5つ上の姉・あいの担任で、母と弟と一緒に津島家が経営する銀行の奥の一室に間借りしていた。

 友三郎との離婚後、2人目の夫として、青森市から豊田常吉を婿養子に迎えますが、2人の娘をもうけた後に病没してしまいます。
 キヱはその後、4人の娘たちと共に津島家に同居し、結核症のために病弱な姉・夕子に代わって、祖母・イシのもとで主婦の役割を果たしました。太宰は、この叔母に2歳の時から面倒を見てもらうようになります。
 日中は叔母の娘たちと過ごし、夜になると叔母と添寝する太宰は、自身の幼児体験の中で、叔母のことを自分の「実母」であるという認識を深めていきます。

 1912年(明治45年)5月、太宰が3歳の時、キヱの専任女中として金木村の近村タケ(のちの越野タケ)が雇われ、太宰の子守をすることになりますが、そのタケですら、1年近くも太宰はキヱの長男だと思っていたといいます。
 タケは、1898年(明治31年)7月14日生まれ。五反歩の自作農だった近村永太郎トヨの四女です。近村家は、借金の返済ができないまま津島家の小作農となり、年貢米の一部として、当初はタケの姉・トセが女中として津島家に雇われていましたが、野良仕事が忙しくなったため、タケが交替することになりました。

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■越野タケ(1898~1983) 小泊小学校校庭にて。1973年(昭和48年)11月3日撮影。

 タケが子守になってからは、太宰は日中のほとんどの時間をタケと一緒に過ごしました。叔母・太宰・タケの関係は、太宰が小学校に入学する直前まで続きます。

 太宰は1923年(大正12年)、14歳の時(中学受験の直前)に『僕の幼児』と題した次のような綴り方を書いています。

 僕は母から生れ落ちると直ぐ乳母につけられたのだそうだ。けれども僕はおしいかな其の乳母を物心地がついてからは一度も見た時もないし便りもない。物心地がついてからというものは叔母にかゝったものだ。叔母はよく夏の夜など蚊帳の中で添((ママ))寝しながら昔話を知らせたものだ。僕はおとなしく叔母の出ない乳首をくわ((ママ))ながら聞いて居た。其の頃一番僕の面白かったお話は舌切雀と金太郎であった。こう言うと僕はなんだかおとなしい子の様だが、実は手もあてられない程のワンパク者であったのだ。一番僕にい((ママ)められたのは末の姉様で、或時は折れたものほし竿で姉を追って歩いたり、きたないわらじで姉のほゝをぶったり、頭髪をはさみでちょきんと一つかみ位切って見たりした。
 其の度毎に姉は母様に訴うるけれども母はなんともいわぬ。若しこのことが少しでも叔母の知る所となれば叔母はだまっては居ない。きびしくしかって其の上土蔵に入れられたことも往々ある。そんな時には必ず小間使のたけが僕のかわりにあやまって呉れる。たけは家の小間使でもあり、僕の家庭教師でもあるし、僕の家来でもあるのだ。五六才の時から僕は毎晩毎晩たけの所に行って本を教わったものだ。初めはハタ タコと一字々々覚えて行くのは僕にとっては又たまらなく面白かったのである。そして、一、二ヶ月の間にどうやら巻一は読める様になった。学校に入((ママ))るによくなった頃にはもう巻三にも手をのば((ママ))様になった。うれしくてたまらないから叔母様に読んで見せると必ず昔話一つ知らせて呉れるし、おばあ様に読んで知らせればお菓子を呉れる。母様の前で読んでも何も呉れない。たゞ僕の頭をなでゝ一番とれよと云って呉れる。姉様兄様に読んで見せてもたゞほめるばかりであった。僕は昔話は大そう好きであった。どんなに泣いて居る時でもどんなにおこって居た時でも、昔話を知らせて呉れゝばすぐににこにこするのであった。だから僕は叔母に一番多く読んで見せたものだ。
 僕の一番家でこわいものは父様であった。故に父様の前では常に行儀よくして居た。それ程こわい父様でもたまには又大そう好きになることもある。それはよくぴかぴか光ったおあしや、きれいな御本を呉れるからである。こうゆう風にして僕はずんずん成長して来たのだ。今でも叔母様やたけの事を思うと恋いしくてならない。 (二月四日)

 このようにして、太宰の中で叔母・津島キヱと女中・越野タケのイメージが、鮮明にクローズアップされていくようになっていきました。

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■中学時代の太宰、兄弟たちと 前列左から三兄・圭治、長兄・文治、次兄・英治。後列左から弟・礼治、太宰。太宰の左胸には、成績優秀者の銀バッジが。

 【了】

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【参考文献】
三好行雄 編『別冊国文学No.7 太宰治必携』(學燈社、1980年)
・『太宰治全集 1 初期作品』(筑摩書房、1999年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】私の著作集

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今週のエッセイ

◆『私の著作集』
 1941年(昭和16年)、太宰治 32歳。
 1941年(昭和16年)6月28日に脱稿。
 『私の著作集』は、1941年(昭和16年)7月10日発行の「日本學藝新聞」第百十二号の第七面の「私の著作集」欄に発表された。初出本文の末尾には、「(昭和十六年六月二十九日)」とあり、執筆の日付と推定される。

「私の著作集

 最初の創作集は「晩年」でした。昭和十一年に、砂子屋書房から出ました。初版は、五百部ぐらいだったのでしょうか。はっきり覚えていません。その次が「虚構の彷徨」で新潮社。それから、版画荘文庫の「二十世紀旗手」これは絶版になったようです。
 しばらく休んで、一昨年あたりから多くなりました。紙の質も、悪くなりました。一昨年は、竹村書房から「愛と美について」砂小屋書房から「女生徒」女性徒は、ことしの五月に再版になりました。
 昨年は、竹村書房から「皮膚と心」京都の人文書院から「思ひ出」河出書房から「女の決闘」が出ました。
 ことしは、実業之日本社から「東京八景」が出ました。ニ、三日中に、文藝春秋社から「新ハムレット」が出る(はず)です。それから、すぐまた砂子屋書房から「晩年」の新版が出るそうです。つづいて筑摩書房から「千代女」が、高梨書店から「信天翁(あほうどり)」が出る(はず)です。「信天翁(あほうどり)」には、主として随筆を収録しました。七月までには、みんな出るでしょう。
 少し休みたいと思います。私はことし三十三であります。女の子がひとりあります。

 

太宰の著作集

 太宰が、1941年(昭和16年)6月末時点で刊行された、自身の著作について記したエッセイ『私の著作集』。今回は、エッセイの中で紹介されている著作集について、1992年(平成4年)に日本近代文学館より刊行された『名著初版本復刻 太宰治文学館』に収録されている初版本を使って、紹介します。


◉『晩年』

 1936年(昭和11年)6月25日、砂子屋書房から刊行。
 「太宰治」のペンネームで、1933年(昭和8年)から1936年(昭和11年)にかけて発表された15篇が収録されています。様々な趣向が凝らされた実験作ばかりで、「短篇のデパート」と呼ばれることもあります。後の太宰作品にも通ずる様々なエッセンスが詰め込まれています。
 口絵写真1枚、初版500部、菊判フランス装、241ページ、定価2円でした。

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【目次】
・「
・「思い出
・「魚服記
・「列車
・「地球図
・「猿ヶ島
・「雀こ
・「道化の華
・「猿面冠者
・「逆行
・「彼は昔の彼ならず
・「ロマネスク
・「玩具
・「陰火
・「めくら草紙


◉『虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ』

 1937年(昭和12年)6月1日、新潮社から刊行。
 『晩年』に続く第二創作集で、レトリカルなフィクションが追求されています。三部作である「虚構の彷徨」は、佐藤春夫による命名です。三部作の構想について、1936年(昭和11年)5月1日付の佐藤春夫宛の手紙が残っており、そこには「道化の華狂言の神。虚構の塔。それぞれ、真、善、美のサンボル」をイメージしていると書かれています。『虚構の塔』は、最終的に『虚構の春』というタイトルで発表されました。
 のちに、太宰の妻となる石原美知子、愛人となる太田静子の2人がはじめて手に取った太宰の著作集も、この『虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ』でした。

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【目次】
・虚構の彷徨
 「道化の華
 「狂言の神
 「虚構の春
・「ダス・ゲマイネ


◉『二十世紀旗手』

 1937年(昭和12年)7月20日、版画荘から刊行。
 太宰は、自己暴露の形式を援用したメタ形式の反ロマネスク小説を多く書いていますが、この創作集に収められているのは、そのような趣向の小説3篇です。
 この『二十世紀旗手』は、「版画荘文庫」の第一回配本として刊行されました。

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【目次】
・「雌に就いて
・「二十世紀旗手
・「喝采


◉『愛と美について』

 1939年(昭和14年)5月20日、竹村書房から刊行。
 1939年(昭和14年)1月8日、津島美知子と結婚した後に、はじめて刊行された著作集です。
 この本の函と表紙の挿画は、著者好みのデザインで出すことになり、手近にあった刺繡の図案集を用いたそうです。
 1939年(昭和14年)3月21日付、竹村書房の竹村坦に宛てた「ただいま、やっと、完成いたしました。二百五十一枚です。ささやかなよろこびわかち致したく、不取敢(とりあえず)、お知らせ申します。どうか、よき本にして下さい。」という、書下ろし小説集の原稿ができたことを伝える手紙が残っていますが、この著作集が出版されるまでには、「原稿百枚紛失事件」などの苦労もありました。

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【目次】
・「秋風記
・「新樹の言葉
・「花燭
・「愛と美について
・「火の鳥


◉『女生徒』

 1939年(昭和14年)7月20日、砂子屋書房から刊行。
 1940年(昭和15年)度の北村透谷(きたむらとうこく)賞の次席に選ばれた著作集で、太宰が初期から中期への文学の転換を示した短篇7篇を集大成して収めています。

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【目次】
・「満願
・「女生徒
・「I can speak
・「富嶽百景
・「懶惰の歌留多
・「姥捨
・「黄金風景


◉『皮膚と心』

 1940年(昭和15年)4月20日、竹村書房から刊行。
 『愛と美について』と同じく、竹村書房から刊行されました。1940年(昭和15年)4月頃、太宰は竹村坦に宛てて「竹村さんには、最近の愛情深い作品のみお送りしたつもりであります。美しい短編集にしたいと思って居ります。」「装釘は御一任申し上げます。瀟洒(しょうしゃ)にお願い致します。」という手紙を送っています。

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【目次】
・「俗天使
・「葉桜と魔笛
・「美少女
・「畜犬談
・「兄たち
・「おしゃれ童子
・「八十八夜
・短片集
 「ア、秋
 「女人訓戒
 「座興に非ず
 「デカダン抗議
・「皮膚と心
・「
・「老ハイデルベルヒ


◉『女の決闘』

 1940年(昭和15年)6月15日、河出書房から刊行。
 『女の決闘』や『走れメロス』など、小説の題材を古典などに求めた翻案小説が中心に収められています。

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【目次】
・「女の決闘
・「駈込み訴え
・「古典風
・「誰も知らぬ
・「春の盗賊
・「走れメロス
・「善蔵を思う


◉『東京八景』

 1941年(昭和16年)5月3日、実業之日本社から刊行。
 太宰の身辺が原稿の依頼で慌ただしくなって来た、1940年(昭和15年)後半に執筆された小説5篇を軸とし、旧作も併せて収録されています。妻・津島美知子は、この頃の太宰について、「十四年の十一月、十二月には予定表を作って調整しなければならぬほどで、彼が作家として出発してから初めてのことだった」と回想しています。

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【目次】
・「東京八景
・「HUMAN LOST
・「きりぎりす
・短篇集
 「一燈
 「失敗園
 「リイズ
・「盲人独笑
・「ロマネスク
・「乞食学生


◉『新ハムレット

 1941年(昭和16年)7月2日、文藝春秋社から刊行。
 太宰はじめての書下ろし長篇で、中期を代表する作品の1つです。シェイクスピアの名作『ハムレット』の翻案作品で、1941年(昭和16年)2月から5月まで、かなりの意気込みで執筆されました。この前年に、『女生徒』によって北村透谷賞の次席に選ばれたこともあり、気合いの入っている時期でもありました。

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【目次】
・「新ハムレット


◉『千代女』

 1941年(昭和16年)8月25日、筑摩書房から刊行。
 1941年(昭和16年)の前半に発表された作品が集められています。大陸での「聖戦」の貫徹を期して近衛文麿の提唱した新体制運動も本格化し、国を挙げて戦争に突き進んでいる時期、太宰は落ち着いて作品を執筆し続けていました。戦時中、最も作品を残した作家の1人とも言われています。

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【目次】
・「みみずく通信
・「佐渡
・「清貧譚
・「服装に就いて
・「令嬢アユ
・「千代女
・「①ろまん燈籠


◉『信天翁(あほうどり)

 1942年(昭和17年)11月15日、昭南書房から刊行。
 『私の著作集』では、「高梨書店から「信天翁(あほうどり)」が出る(はず)です。「信天翁(あほうどり)」には、主として随筆を収録しました。七月までには、みんな出るでしょう。」と書かれていた『信天翁(あほうどり)』ですが、戦争の影響でしょうか、出版社を変え、予定から大きく遅れて、翌年11月にようやく刊行されました。
 「文藻集」と銘打たれた今作は、1935年(昭和10年)から1940年(昭和15年)にかけて発表された諸文章が収録されています。太宰のエッセイが1冊にまとめられたのも、この『信天翁(あほうどり)』がはじめてでした。また、これまでの著作集に収録されなかった短篇も一緒に収められています。
 ちなみに、「信天翁(あほうどり)」とは、陸上での動作がのろいため、このように命名されたそうです。

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【目次】
昭和十年(二十七歳)
・もの思う葦
 「はしがき
 「虚栄の市
 「敗北の歌
 「或る実験報告
 「老年
 「難解
 「塵中の人
 「おのれの作品のよしあしをひとにたずねることに就いて
 「書簡集
 「兵法
 「in a word
 「病躯の文章とそのハンデキャップに就いて
 「「衰運」におくる言葉
 「ダス・ゲマイネに就いて
 「金銭について
 「放心について
 「世渡りの秘訣
 「緑雨
 「ふたたび書簡のこと

昭和十一年(二十八歳)
・碧眼托鉢
 「ボオドレエルに就いて
 「ブルジョア芸術に於ける運命
 「定理
 「わが終生の祈願
 「わが友
 「憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥
 「フィリップの骨格に就いて
 「或るひとりの男の精進について
 「生きて行く力
 「わが唯一のおののき
 「マンネリズム
 「作家は小説を書かなければならない
 「挨拶
 「立派ということに就いて
 「Confiteor
 「頽廃の児、自然の児
・「雌に就いて
・「創世記
・「古典龍頭蛇尾
・「喝采

昭和十二年(二十九歳)
・「音に就いて
・「創作余談
・「燈籠

昭和十三年(三十歳)
・「(晩年)に就いて
・「一日の労苦
・「多頭蛇哲学
・「答案落第
・「緒方君を殺した者
・「一歩前進二歩退却

昭和十四年(三十一歳)
・「『人間キリスト記』その他
・「正直ノオト
・「困惑の弁
・「春の盗賊

昭和十五年(三十二歳)
・「諸君の位置
・「義務
・「鬱屈禍
・「自身の無さ
・「作家の像
・「国技館
・「貪婪禍
・「自作を語る
・「パウロの混乱
・「かすかな声

 太宰の初版本に思いを馳せながら、著作集に収録された順で作品に触れてみるのも、面白いかもしれません。

 【了】

********************
【参考文献】
・『名著初版本復刻 太宰治文学館』(日本近代文学館、1992年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】容貌

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今週のエッセイ

◆『容貌』
 1941年(昭和16年)、太宰治 32歳。
 1941年(昭和16年)5月中旬頃に脱稿。
 『容貌』は、1941年(昭和16年)6月5日発行の「博浪沙」第六巻第六号に発表された。

「容貌

 私の顔は、このごろまた、ひとまわり大きくなったようである。もとから、小さい顔ではなかったが、このごろまた、ひとまわり大きくなった。美男子というものは、顔が小さくきちんとまとまっているものである。顔の非常に大きい美男子というのは、あまり実例が無いように思われる。想像する事も、むずかしい。顔の大きい人は、すべてを素直にあきらめて、「立派」あるいは「荘厳」あるいは「盛観」という事を心掛けるより他に仕様がないようである。濱口雄幸氏は、非常に顔の大きい人であった。やはり美男子ではなかった。けれども、盛観であった。荘厳でさえあった。容貌に就いては、ひそかに修養した事もあったであろうと思われる。私も、こうなれば、濱口氏になるように修養するより他は無いと思っている。
 顔が大きくなると、よっぽど気をつけなければ、人に傲慢と誤解される。大きいつらをしやがって、いったい、なんだと思っているんだ等と、不慮の攻撃を受ける事もあるものである。先日、私は新宿の或る店へはいって、ひとりでビイルを飲んでいたら、女の子が呼びもしないのに傍へ寄って来て、「あんたは、屋根裏の哲人みたいだね。ばかに偉そうにしているが、女には、もてませんね。きざに、芸術家気取りをしたって、だめだよ。夢を捨てる事だね。歌わざる詩人かね。よう! ようだ! あんたは偉いよ。こんなところへ来るにはね、まず歯医者にひとつき通ってから、おいでなさいだ。」と、ひどい事を言った。私の歯は、ぼろぼろに欠けているのである。私は返事に窮して、お勘定をたのんだ。さすがに、それから五、六日、外出したくなかった。静かに家で読書した。
 鼻が赤くならなければいいが、とも思っている。

 

1941年(昭和16年)の太宰治

 今回のエッセイ「容貌」が執筆された1941年(昭和16年)は、太宰を取り巻く環境が大きく変化した年でした。この一年の、太宰を取り巻く社会的環境の変化や第二次大戦の戦局、その中で太宰が執筆・発表した作品について見ていきます。
 1939年(昭和14年)、妻・津島美知子と結婚して2年後の事です。

<1941年1月>

1日
ろまん燈籠(その二)』(「婦人画報」新年号)発表。
東京八景』(「文学界」正月号)発表。
みみずく通信』(「知性」一月号)発表。
佐渡』(「公論」新年号)発表。
清貧譚』(「新潮」新年号)発表。
弱者の糧』(「日本映画」新年号)発表。
五所川原』(「西北新報」)発表。

4日
中国、皖南(かんなん)事件。

5日
男女川(みなのがわ)羽左はざ)』(「都新聞」)発表。

6日
官吏制度改革交付、施行。

8日
東條陸相が「戦陣訓」を通達。

11日
新聞紙等掲載制限令、交付。
青森』(「月刊東奥」新年号)発表。

15日
妻・津島美知子と共に伊豆・伊東温泉に一泊旅をした。

16日
大日本青少年団、結成。

22日
閣議で人口政策確立要綱を決定。


<1941年2月>

1日
服装に就いて』(「文藝春秋」二月号)発表。

7日
米穀法改正案を提出(代用食の国家管理)。

11日
日満親善公演<歌う李香蘭>で日劇周辺に警官が出動する騒ぎ。
一夜、山岸外史と遊ぶ。

17日
トルコ、ブルガリア不可侵条約締結。

20日
宮崎譲『竹槍隊』(赤塚書房)に、「序文」として『犯しもせぬ罪を』を起稿。

26日
内閣情報局総合雑誌編集部に執筆禁止者リストを示す。


<1941年3月>

1日
ブルガリア、日独伊三国同盟に加盟。
国民学校令施行規則公布。
連載ろまん燈籠 その三』(「婦人画報」三月号)発表。

2日
ドイツ、ブルガリア領内に進駐。

10日
治安維持法改正、予防拘禁制追加。

15日
「ピノチオ」での阿佐ヶ谷将棋会に出席した。

20日
国家総動員法改正、施行。


<1941年4月>

1日
国民学校令施行。
大都市で米穀配給通帳制実施。
生活必需物資統制令公布。
連載ろまん燈籠 その四』(「婦人画報」四月号)発表。

13日
日ソ中立条約締結。

<1941年5月>

1日
社団法人日本映画社(日映)が設立され、ニュース・文化映画を製作する。
連載ろまん燈籠 その五』(「婦人画報」五月号)発表。

3日
「東京八景」(実業之日本社)刊行。

5日
日本出版配給株式会社が創立される。

6日
スターリンソ連首相に就任。

10日
ドイツ副総統ヘスが英国へ単独飛行し、対英和平打診を企てるが失敗。

11日
野村大使が米ハル国務長官に日米交渉修正案を提出する。

19日
ホーチミンを盟主にベトナム独立同盟を結成。
反仏・反日民族解放路線決定。

27日
米大統領、国家非常事態を宣言。

5月頃、一番弟子・堤重久と吉祥寺辺りの飲み屋を遍歴し、井の頭公園を散歩した。


<1941年6月>

1日
ろまん燈籠 その六』(「婦人画報」六月号)発表。
令嬢アユ』(「新女苑」六月号)発表。
千代女』(「改造」六月号)発表。

5日
『容貌』(「博浪抄」六月号)発表。

7日
午前1時、長女・園子が誕生した。

9日
農林省、麦類配給統制規則を公布する。

11日
山岸外史に再婚を薦める。

18日
弟子・小山清にハガキを送る。

20日
「晩年」と「女性徒」』(「文筆」夏季版)発表。

22日
ドイツ軍300万がバルト海から黒海にわたる戦線でソ連を攻撃。独ソ戦争開始。
続いてイタリア、ルーマニアフィンランドハンガリーソ連へ宣戦布告する。

23日
中共反日独伊・反ファシスト国際統一戦線を呼びかける。

25日
連絡会議において南方施策促進(南部仏印進駐)に関する件を決定。

30日
鶯谷の料亭「志保原」において、佐藤春夫の媒酌で、山岸外史と佐藤やすとの結婚披露宴があり、尽力した。


<1941年7月>

1日
全国の隣組が一斉に常会を開く。

2日
御前会議において、帝国国策要綱を決定する(対ソ戦を準備、南方進出のため対英米戦を辞せず)。
大本営、「関東軍特殊演習」の名目で70万の兵力を満州に動員する。
最初の書下し中篇小説「新ハムレット」(文藝春秋社)刊行。

10日
『私の著作集』(「日本学藝新聞」)発表。

16日
第二次近衛内閣総辞職

18日
第三次近衛内閣成立。

25日
重慶で米・英・中の軍事合作協議が行われる。

27日
満州文芸家協会が設立される。

28日
日本軍が南部仏印に進駐。


<1941年8月>

1日
米、全侵略国への石油輸出を禁止。対日石油輸出が停止となる。

2日
井伏鱒二に手紙を送る。

3日
弟子・菊田義孝、太宰の三鷹の住居を初訪問。

8日
文部省、各学校に全校組織の学校報国隊の編成を訓令する。

12日
ルーズベルト大統領とチャーチル首相が米英共同宣言(大西洋憲章)を発表する。

17日
故郷の母・夕子(たね)の衰弱が甚だしいとの事で、10年振り帰郷。

25日
短篇集「千代女」(筑摩書房)刊行。

30日
大学の学部に軍事教練担当の現役将校を配属する。


<1941年9月>

上旬頃
太田静子、三鷹の家を訪問。

3日
ドイツ軍、アウシュビッツ強制収容所で、ソ連兵捕虜600人とユダヤ人250人に初の毒ガス処刑執行。

6日
日米交渉が難航する中、御前会議が帝国国策遂行要領を決定。10月上旬までに外交交渉が進展しない場合は、対米戦争を決意。

8日
ドイツ軍、レニングラード包囲。

15日
米穀国家管理実施要綱。

産業報国会、勤労秩序確定、勤労総動員。生産力増強のスローガンの下、”働け運動”開始。


<1941年10月>

12日
ドイツ軍、モスクワ攻撃開始。

15日
ソ連共産党員で赤軍第四本部所属のドイツ人スパイ、リヒャルト・ゾルゲ、尾崎秀實、諜報活動容疑で検挙。
世界的』(「早稲田大学新聞」)発表。

16日
第三次近衛文麿内閣が総辞職。

18日
開戦派の東條英機内務省陸相兼務のまま、東條英機内閣成立。

28日
重要産業第一次指定(鉄鋼、石炭、造船など12業種)決定。

31日
国民購買力の吸収と消費節約を狙った臨時増税案要綱が発表。


<1941年11月>

1日
風の便り』(「文学界」十一月号)発表。
』(「文藝」十一月号)発表。

5日
御前会議、帝国国策遂行要領を決定。作戦準備を進め、12月1日までに交渉成立なら、武力発動中止。

15日
兵役法改正。丙種合格で第二国民兵編入者も召集に。

17日
本郷区役所二階講堂で徴用のための検査を受けた。

26日
アメリカがハル・ノート(①中国・仏印からの撤退、②三国同盟死文化、③重慶国民政府以外の中国政府拒否)を提示。大本営連絡会議はハル・ノートを日本への採集通牒と結論。東條陸相は、撤退に断固反対を主張する。
択捉島・単冠湾に集結した機動部隊が出港。無線封鎖を行いながら、ハワイ海域へ向かう。

国民勤労報国協力会設立。


<1941年12月>

1日
旅信』(「新潮」十二月号)発表。
』(「知性」十二月号)発表。

2日
『私信』(「都新聞」)発表。

8日
日本軍、マレー半島に上陸開始。午前3時19分、日本の機動部隊がハワイ真珠湾を奇襲。11時45分、対米英宣戦の大詔発表。
津島美知子「太平洋戦争が始まった」

11日
独伊、対米宣戦布告。

12日
対米英戦を「支那事変」も含め、「大東亜戦争」と呼ぶことに閣議決定

19日
言論・出版・結社等臨時取締法公布。

25日
香港島の英軍降伏。第二三軍、香港を占領する。

中旬、東京駅で太田静子と落ち合い、新宿の「LILAS」という地下レストランで対談した。

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・内海紀子/小澤純/平浩一『太宰治と戦争』(ひつじ書房、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】青森

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今週のエッセイ

◆『青森』
 1941年(昭和16年)、太宰治 32歳。
 1940年(昭和15年)12月下旬頃に脱稿。
 『青森』は、1941年(昭和16年)1月11日発行の「月刊東奥」第三巻第一号の「特集・初春に余す」欄に発表された。この欄には、ほかに「漁村の曙」(鳥谷幡山)、「早ぐ春ア来ればいゝぢゃなア」(今官一)、「コミセと正月のウマコ」(木山捨三)、「第一の春(短歌)」(和田山蘭)など19編が掲載された。

「青森

 青森には、四年いました。青森中学に通っていたのです。親戚の豊田様のお家に、ずっと世話になっていました。寺町の呉服屋の、豊田様であります。豊田の、なくなった「お()さ」は、私にずいぶん力こぶを入れて、何とかはげまして下さいました。私も、「おどさ」に、ずいぶん甘えていました。「おどさ」は、いい人でした。私が馬鹿な事ばかりやらかして、ちっとも立派な仕事をせぬうちになくなって、残念でなりません。もう五年、十年生きていてもらって、私が多少でもいい仕事をして、お()さに喜んでもらいたかった、とそればかり思います。いま考えると「おどさ」の有難いところばかり思い出され、残念でなりません。私が中学校で少しでも)い成績をとると、おどさは、世界中の誰よりも喜んで下さいました。
 私が中学の二年生の頃、寺町の小さい花屋に洋画が五、六枚かざられていて、私は子供心にも、その)に少し感心しました。そのうちの一枚を、二円で買いました。この)はいまにきっと高くなります、と生意気な事を言って、豊田の「おどさ」にあげました。おどさは笑っていました。あの)は、今も豊田家のお家に、あると思います。いまでは百円でも安すぎるでしょう。棟方志功氏の、初期の傑作でした。
 棟方志功氏の姿は、東京で時折、見かけますが、あんまり颯爽と歩いているので、私はいつでも知らぬ振りをしています。けれども、あの頃の棟方氏の)は、なかなか)かったと思っています。もう、二十年ちかく昔の話になりました。豊田様のお家の、あの)が、もっと、うんと、高くなってくれたらいいと思って居ります。

 

太宰と豊田家

 太宰が「お()さ」と書くのは、豊田太左衛門のことです。
 豊田太左衛門は、青森市寺町14番地の呉服・布団の老舗の当主でした。豊田家は、太宰の叔母・津島キヱ(きえ)の二度目の夫・津島常吉の実家で、太左衛門は、常吉の従兄に当たります。また、太左衛門の長女・ちゑは、太宰の父・津島源右衛門の代から津島家へ出入りしていた五所川原の背負呉服商中畑慶吉と結婚しています。

 太宰は、青森中学校に入学してから卒業するまでの4年間を、叔母・キヱきえ)の口利きで豊田家の二階で過ごし、毎日2キロほどの道のりを徒歩で通学しました。また、のちに3歳年下の弟・津島礼治や甥・津島逸郎もここに加わりました。二階の一隅に、囲炉裏もある八畳の一間を与えられ、初めて自分の部屋を持つことが出来たことを、喜んでいたそうです。
 叔母・キヱきえ)の依頼もあったと思われますが、太左衛門は太宰をヤマゲン(津島家の屋号)の人間として丁寧に扱ったため、あまり干渉も受けず、気ままな生活を送ることができました。
  太左衛門は通人でもあり、太宰をよく可愛がり、外出に連れ出しては、小料理屋「おもたか」などでもてなしました。これは、弘前高等学校に入学してからの「遊び」に繋がるきっかけだったのかもしれません。

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■太宰の中学時代 前列左から、豊田太左衛門、津島逸郎、太宰、後列左から、津島礼治、太宰の次姉・津島トシ。

 このような環境の中で、太宰は「津島家の秀才」として中学時代を過ごし、のちに師匠となる井伏鱒二『幽閉』(のちに山椒魚と改題)と出会います。『幽閉』を読んだ太宰は、「埋もれたる無名不遇の天才を発見」「坐っておられないくらい興奮」と、この時のことを回想しています。

 青森中学校を卒業して弘前高等学校へ進学、豊田家を出た太宰ですが、平日は弘前義太夫を習い、週末は青森へ出かけ、豊田家から花柳界へ出入りする、という生活をはじめました。制服制帽で豊田家へ向かった太宰は、角帯に着替え、小料理屋「おもたか」へ繰り出し、芸者・紅子べにこ)小山初代おやまはつよ))を呼び出して遊んだといいます。これが、のちに太宰の最初の結婚へと繋がっていきます。

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■芸者時代の小山初代

 その後も、太宰の長兄・津島文治の命により、太左衛門を名代とする小山家との結納や、鎌倉での太宰と田部あつみとの心中未遂事件(あつみのみ死亡)後に、太宰と初代との仮祝言への立会いを命じられたりと、太宰と深く関わっていくことになりました。

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■豊田家跡 太宰は中学時代、ここに下宿していた。2020年撮影。

 【了】

********************
【参考文献】
・『写真集 太宰治の生涯』(毎日新聞社、1968年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】五所川原

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今週のエッセイ

◆『五所川原
 1941年(昭和16年)、太宰治 32歳。
 1940年(昭和15年)12月下旬頃に脱稿。
 『五所川原』は、1941年(昭和16年)1月発行の「西北新報」に発表されたと推定されています。

五所川原

 叔母が五所川原にいるので、小さい頃よく五所川原へ遊びに行きました。旭座の舞台開きも見に行きました。小学校の三、四年生の頃だったと思います。たしか友右衛門だった(はず)です。梅由兵衛に泣かされました。廻舞台を、その時、生れてはじめて見て、思わず立ち上ってしまった程に驚きました。この旭座は、そののち間もなく火事を起し、全焼しました。その時の火焔(かえん)が、金木から、はっきり見えました。映写室から発火したという話でした。そうして、映画見物の小学生が十人ほど焼死しました。映写の技師が罪に問われました。過失傷害致死とかいう罪名でした。子供にも、どういうわけだか、その技師の罪名と運命を忘れる事が出来ませんでした。旭座という名前が「火」の字に関係があるから焼けたのだという噂も聞きました。二十年も前の事です。
 七ツか。八ツの頃、五所川原の賑やかな通りを歩いて、どぶに落ちました。かなり深くて、水が(あご)のあたりまでありました。三尺ちかくあったのかも知れません。夜でした。上から男の人が手を差し出してくれたのでそれにつかまりました。ひき上げられて衆人環視の中で裸にされたので、実に困りました。ちょうど古着屋のまえでしたので、その店の古着を早速着せられました。女の子の浴衣でした。帯も、緑色の兵古帯(へこおび)でした。ひどく恥かしく思いました。叔母が顔色を変えて走って来ました。
 私は叔母に可愛がられて育ちました。私は、男ッぷりが悪いので、何かと人にからかわれて、ひとりでひがんでいましたが、叔母だけは、私を、いい男だと言ってくれました。他の人が、私の器量の悪口を言うと、叔母は、本気に怒りました。みんな遠い思い出になりました。

 

太宰と叔母・キヱ(きえ)

  太宰が「叔母が五所川原にいるので」と書いているのは、津島キヱ(きえ)のことです。キヱ(きえ)は、太宰の母・津島夕子(たね)の妹で、太宰の叔母に当たります。

 太宰は、生れて間もなく乳母に預けられました。太宰の父・津島源右衛門(げんえもん)衆議院議員に当選したため、妻の夕子(たね)とともに東京、弘前、青森に出掛けることが多く、留守がちだったためです。家に戻ってくるのは、1ヶ月か2ヶ月に1回。滞在期間は1週間程度だったそうです。
 しかし、その乳母が再婚することになり、太宰は、生家(現在の斜陽館)に戻ることになります。その際、叔母・キヱ(きえ)が面倒を見ることになり、娘4人と一緒に十畳一間の部屋で暮らしました。

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■斜陽館 2011年、著者撮影。

 キヱ(きえ)は、17歳の時に義兄・源右衛門(げんえもん)(姉・夕子(たね)の夫)の実弟松木友三郎を婿養子として迎えましたが、友三郎の酒乱や女性交遊が原因で、二児をもうけた後、離婚。その後、2人目の夫として、青森市の豊田家から実直な豊田常吉を迎えましたが、二児をもうけた後に、常吉が病没してしまったため、28歳という若さで未亡人となり、実家に戻って来ていました。
 キヱ(きえ)は、病弱な姉・夕子(たね)とは異なり健康的で、多少勝気な性格の女性で、姉に代わって、津島家の主婦の役割を担っていました。世話好きで、ことのほか太宰を可愛がり、キヱ(きえ)の娘たちも、従弟である太宰を実の弟のように世話を焼いたため、太宰は自分をキヱ(きえ)の長男だと思っていたそうです。
 不眠症だった太宰に、キヱ(きえ)は添寝をして、津軽地方に伝わる昔話を語って寝かしつけたそうですが、この時の体験が、お伽草紙などの作品の根底に流れているのかもしれません。

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■太宰1歳数か月の頃 前列右から叔母・キヱ(きえ)、太宰、母・夕子たね。後ろは、三上やゑ(やえ)やゑ(やえ)は、金木第一尋常小学校の訓導で、太宰の5つ上の姉・あいの担任で、母と弟と一緒に津島家が経営する銀行の奥の一室に間借りしていた。

 キヱ(きえ)は、1916年(大正5年)1月18日に津島家から分家します。四姉・リエの夫・季四郎が、津島歯科医院を開業するために、五所川原へ引越すことになったためでした。太宰は、キヱ(きえ)の一家と共に五所川原に引越し、小学校入学直前までの約2ヶ月を一緒に過ごしました。

 また、太宰が青森中学校に入学する際にも、亡夫・常吉の実家である豊田家に熱心に頼み込み、豊田家が下宿先となりました。
 太宰が長兄・津島文治と義絶中も、文治の留守中に帰郷した太宰を生家に泊めるわけにはいかないため、五所川原の家に迎えたりもしています。

 キヱ(きえ)一家が五所川原に分家した際に建てられ、太宰も訪れた蔵は、現在太宰治「思ひ出」の蔵として、一般公開されています。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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