今週のエッセイ
◆『
1942年(昭和17年)、太宰治 33歳。
1942年(昭和17年)6月末から7月初め頃までに脱稿。
『
「
小照 」
いつも自分のところへ遊びに来ている人が、自分の知らぬまに、自分を批評しているような小論文を書いているのを、偶然に雑誌あるいは新聞で見つけた時には、実に、案外な気がするものである。その論の、当、不当にかかわらず、なんだか水臭い、裏切りに似たものをさえ感ずるのは、私だけであろうか。こんど改造社から、井伏さんの作品集が出版せられるそうだが、それに就いて何か書け、と改造社のM君に言われて、私は、たいへん困ったのである。私の家は、東京府下の三鷹町の、ずいぶんわかりにくい謂わば絶域に在るので、わざわざ此の家にまで訪れて来るのは、よほどの苦労であろうと思われる。事実、M君は、たいへんの苦労をして私の家を捜し当て、汗を拭きながら、「何か一つ、井伏さんに就いて。」と言い給うのである。私は恐縮し、かつは窮した。私は今まで、井伏さんには、とてもお世話になっている。いまさら、井伏さんに就いて、書きにくいのである。前にいちど、井伏さんの事を書いて、そのとき、井伏さんに「もう書くなよ」と言われ、私も「もう書きません」と約束をした事があったのだ。どうも、書きにくい。けれどもM君は、遠路わざわざやって来られて、私に書けと言うのである。私は、弱い男らしい。断り切れなかったのである。M君の濶達な人徳も、私に断る事を不可能にさせた一因らしいのである。とにかく私は、ひき受けたのである。書かなければなるまい。井伏さん、御海容下さい。
何を書けばいいのか。十数年前、私が東京に出て来て、すぐに井伏さんのお宅へ行った。その時、井伏さんは痩せて、こわい顔をしていた。眼が、たいへん大きかった。だんだん太った。けれども、あの、こわさは、底にある。
こんな事を書いていながら、私は、私の記述の下手さ加減、でたらめに、われながら、うんざりする。たかだか、三枚か四枚で、井伏さんの素描など、不器用な私には出来るわけがないのだ。
「このごろ僕は、人をあんまり追いつめないようにしているのだ。逃げ口を一つ、作ってやるようにしなければーー、」れいの、眼をパチパチさせながら、おっしゃった事がある。このごろ、井伏さんは、ひとの痛がる箇所にあまりさわらないようにしているようだ。わかり過ぎて来たから、かえって、さわらないようにしているのかも知れない。そんな井伏さんを見て、井伏さんを甘いなと、なめたら、悔いる事があるかも知れない。
まず今回は、これだけにして、おゆるしあれ。どうも書きにくい。これは、下手な文章であった。いずれ、また。
"井伏さんは悪人です"
今回のエッセイ『
この部分を読んだ時、私の脳裏には、エッセイが書かれた6年後、1948年(昭和23年)6月13日未明に太宰が愛人・山崎富栄と玉川上水で心中した際に残した、「井伏さんは悪人です」と書かれた遺書を思い浮かべました。「井伏さん」とは、太宰の師匠・井伏鱒二のことです。
■太宰治の遺書 左隅に「井伏さんは悪人です」とある。
1923年(大正12年)、太宰が青森中学1年生の時に、はじめて井伏の『幽閉』(のちに『山椒魚』として改稿)に出会い、「埋もれたる無名不遇の天才を発見した」と興奮し、弘前高校時代には、同人誌「細胞文芸」への寄稿依頼もしています。
1930年(昭和5年)5月中旬、東京帝国大学に進学して上京後、井伏との初対面を果たし、以降、長らく井伏に師事しました。
井伏と太宰の実家・津島家との関係も次第に緊密になり、太宰への仕送りは井伏を通して渡されるようになりました。井伏と太宰の長兄・津島文治が共に早稲田大学の出身という縁もありました。
そんな太宰が、なぜ人生の最期のタイミングで、「井伏さんは悪人です」と書かなければいけなかったのでしょうか。
太宰の死の前年にあたる1947年(昭和22年)7月下旬、疎開していた井伏が東京に移住、杉並区清水町24番地の自宅に戻ってきます。この時の太宰は、『斜陽』執筆の最中でした。
移住直後の井伏家の家計を心配した太宰は、恩返しのつもりで、自身が全九巻の解説を引き受けることを条件に、「井伏鱒二選集」の編纂を筑摩書房の社長・
選集に収録する作品を選ぶために、井伏の作品を読み返している過程で、太宰は、短篇集「禁札」の中に、『薬屋の
競技場の正面には、大きな日章旗がたててあった。その横に、「健康なる精神は健康体に宿る」と大書した大きな紙を、戸板に貼って木の幹に立てかけてあった。患者たちは幾つもの組にわかれて競技場の周囲に列をつくり、その各組の右翼にはそれぞれ一本ずつの旗が立ててあった。雛女房と奥さんの応援したい奥さんの御主人は、開襟の半袖シャツを着て白いズボンをはき、「麻薬団応援旗」と書いた旗を立てている組の最右翼にいた。そして
庇 のない白い運動帽をかぶっていた。
1938年(昭和13年)、「婦人公論」十月号に掲載された短篇ですが、太宰は天下茶屋に滞在してい時期だったため知りませんでした。
『薬屋の雛女房』は、薬屋の若妻を主人公にしつつ、船橋時代の太宰と内縁の妻・小山初代をモデルに描かれているように思えます。太宰の事ともとれるような「奥さんの御主人」が、薬に苦労している様子が面白おかしく書かれており、先程の引用は、精神病院での運動会の様子です。短距離走では、ある組では7人の走者がてんでばらばら、とんでもない方向へ走っていったとも語られています。これを読んだ太宰は「これは僕のことだ」と感じ、激怒しました。
■船橋時代太宰と初代
1947年(昭和22年)は、3月27日に愛人・山崎富栄と出逢ったり、11月12日に愛人・太田静子が出産したりということがありました。太宰は、妻・津島美知子と結婚する際、井伏に宛てて、「ふたたび私が、破婚を繰りかえしたときには、私を、完全の狂人として、棄てて下さい。」という誓約書を送付していた後ろめたさから、井伏と少しづつ距離を置くようになっていましたが、『薬屋の雛女房』を見つけたことが、井伏と太宰の仲を決定的なものとしました。
太宰の葬儀の際、井伏は葬儀副委員長を務め、葬儀委員長を務めたのは豊島与志雄でした。太宰は、豊島与志雄を一番尊敬していた、と言っていますが、本来なら、長らく師事していた井伏の名を挙げるのが筋のように思われます。しかし、ここであえて豊島の名前を挙げることからも、太宰の晩年は、井伏との距離が離れていったことが分かります。
■
太宰が「井伏さんは悪人です」という遺書を残したことについて、井伏寄りの文壇人やマスコミは、太宰が薬を飲んで朦朧として書いたや、本心とは反対のことを書いたなどと井伏を擁護し、悪人説を否定しました。
文壇ではその論調が長く続いていましたが、1975年(昭和50年)頃から、これに異を唱え、「それは、太宰の本心だ」と説いたのが、その半生を敬愛する作家・太宰の研究に捧げた
■
のちに、長篠に近い考え方を表明したのが、太宰研究家・川崎和啓でした。川崎は、1991年(平成3年)に「師弟の
また、川崎の論文の9年後、2000年(平成12年)に作家・猪瀬直樹が小説『ピカレスク 太宰治伝』を執筆。ここでも、長篠の唱えた「井伏さんは悪人です」ということが肯定されています。
文壇の大御所である井伏に反旗を翻す内容のものを書くと、文壇では生きていけないという現実があり、井伏鱒二悪人説を肯定する研究者や学者が現われはじめたのは、井伏の亡くなった1993年(平成5年)以降でした。
2001年(平成13年)、青森県近代文学館から発行された資料集第二輯「太宰治・晩年の執筆メモ」からも、太宰の心境を汲み取ることができます。
メモの内容は、1947年(昭和22年)、1948年(昭和23年)版の文庫手帳に書かれたもので、ほとんどが作品に関する創作メモですが、実名で井伏を批判している箇所も見られます。
<1948年(昭和23年)の執筆メモ>
【下段】
井伏鱒二 ヤメロ という、
足をひっぱるという、
「家庭の幸福」
ひとのうしろで、
どさくさまぎれに
ポイントを
かせいでいる、
卑怯、
なぜ、やめろというのか、
「愛?」私はそいつ
にだまされて来た
のだ、
【上段】
人間は人間を
(4字消し)愛す
る事は出来ぬ、
利用するだけ、
思えば、井伏さん
という人は、人に
おんぶされて
ばかり生きて
来た、孤独
のようでいて、
このひとほど、【下段】
「仲間」がいないと
生きておれないひと
はない、
井伏の悪口を〓う
ひとは無い、バケ
モノだ、
阿保みたいな
顔をして、作品
をごまかし(手を
抜いて)誰にも
憎まれず、
【上段】
人の陰口は
ついても、めんと
向かっては、何も
〓わず、わせだ
をのろいながらも
わせだをほめ、
愛校心、
ケッペキもくそも
ありやしない
最も、いやしい【下段】
政治家である。
ちゃんとしろ。
(すぐに人に向〓〓〓
グチを言う。〓や
しいと思ったら、
黙って、つらい
仕事をはじめ
よ、)
私はお前を捨て
る。お前たちは、
【上段】
強い。(他のくだらぬものをほめ
たり)どだい
私の文学が
わからぬ、わが
ままものみたい
に見えるだけ
だろう、聖書
は屁のようなも
のだという、
実生活の
駈引きだけ
で【下段】
生きている。
イヤシイ。
私は、お前たちに
負けるかも知れ
ぬ。しかし、私は、
ひとりだ。「仲間」を
作らない。お前
は、「仲間」を作
る。太宰は
気違いになっ
たか、などという
仲間を、
【上段】
ヤキモチ焼き、
悪人、
イヤな事を言う
ようだが、あなた
は、私に、世話
したようにお
っしゃっている
ようだけど、
正確に話し
ましょう、【下段】
かつて、私は、
あなたに気に
いられるように
行動したが、
少しもうれしく
なかった。
■太宰と井伏 1940年(昭和15年)4月30日、群馬県、四万温泉にて。撮影:伊馬春部
【了】
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【参考文献】
・太宰文学研究会 編『探求 太宰治 太宰治の人と芸術 第4号』(1976年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・青森県立図書館/青森近代文学館 編『資料集第二輯 太宰治・晩年の執筆メモ』(2013年)
・猪瀬直樹『ピカレスク 太宰治伝』(文春文庫、2007年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・橘田茂樹『太宰治と天下茶屋 ー太宰治が遺したもの』(山梨ふるさと文庫、2019年)
・加藤典洋『完本 太宰と井伏 ふたつの戦後』(講談社文芸文庫、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【井伏から見た戦後の太宰】
【太宰治39年の生涯を辿る。
"太宰治の日めくり年譜"はこちら!】
【太宰治の小説、全155作品はこちら!】
【太宰治の全エッセイ、
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