記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】小照

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今週のエッセイ

◆『小照(しょうしょう)
 1942年(昭和17年)、太宰治 33歳。
 1942年(昭和17年)6月末から7月初め頃までに脱稿。
 『小照(しょうしょう)』は、1942年(昭和17年)7月13日発行の改造社版「新日本文學全集第十四巻・坪田譲治集」の「月報」の第十六号に発表された。この月報には、ほかに「井伏鱒二氏について」(真木英二郎)が掲載された。

小照(しょうしょう)

 いつも自分のところへ遊びに来ている人が、自分の知らぬまに、自分を批評しているような小論文を書いているのを、偶然に雑誌あるいは新聞で見つけた時には、実に、案外な気がするものである。その論の、当、不当にかかわらず、なんだか水臭い、裏切りに似たものをさえ感ずるのは、私だけであろうか。こんど改造社から、井伏さんの作品集が出版せられるそうだが、それに就いて何か書け、と改造社のM君に言われて、私は、たいへん困ったのである。私の家は、東京府下の三鷹町の、ずいぶんわかりにくい謂わば絶域に在るので、わざわざ此の家にまで訪れて来るのは、よほどの苦労であろうと思われる。事実、M君は、たいへんの苦労をして私の家を捜し当て、汗を拭きながら、「何か一つ、井伏さんに就いて。」と言い給うのである。私は恐縮し、かつは窮した。私は今まで、井伏さんには、とてもお世話になっている。いまさら、井伏さんに就いて、書きにくいのである。前にいちど、井伏さんの事を書いて、そのとき、井伏さんに「もう書くなよ」と言われ、私も「もう書きません」と約束をした事があったのだ。どうも、書きにくい。けれどもM君は、遠路わざわざやって来られて、私に書けと言うのである。私は、弱い男らしい。断り切れなかったのである。M君の濶達な人徳も、私に断る事を不可能にさせた一因らしいのである。とにかく私は、ひき受けたのである。書かなければなるまい。井伏さん、御海容下さい。
 何を書けばいいのか。十数年前、私が東京に出て来て、すぐに井伏さんのお宅へ行った。その時、井伏さんは痩せて、こわい顔をしていた。眼が、たいへん大きかった。だんだん太った。けれども、あの、こわさは、底にある。
 こんな事を書いていながら、私は、私の記述の下手さ加減、でたらめに、われながら、うんざりする。たかだか、三枚か四枚で、井伏さんの素描など、不器用な私には出来るわけがないのだ。
「このごろ僕は、人をあんまり追いつめないようにしているのだ。逃げ口を一つ、作ってやるようにしなければーー、」れいの、眼をパチパチさせながら、おっしゃった事がある。このごろ、井伏さんは、ひとの痛がる箇所にあまりさわらないようにしているようだ。わかり過ぎて来たから、かえって、さわらないようにしているのかも知れない。そんな井伏さんを見て、井伏さんを甘いなと、なめたら、悔いる事があるかも知れない。
 まず今回は、これだけにして、おゆるしあれ。どうも書きにくい。これは、下手な文章であった。いずれ、また。

 

"井伏さんは悪人です"

 今回のエッセイ『小照(しょうしょう)』の冒頭「いつも自分のところへ遊びに来ている人が、自分の知らぬまに、自分を批評しているような小論文を書いているのを、偶然に雑誌あるいは新聞で見つけた時には、実に、案外な気がするものである。その論の、当、不当にかかわらず、なんだか水臭い、裏切りに似たものをさえ感ずるのは、私だけであろうか。」
 この部分を読んだ時、私の脳裏には、エッセイが書かれた6年後、1948年(昭和23年)6月13日未明に太宰が愛人・山崎富栄玉川上水で心中した際に残した、「井伏さんは悪人です」と書かれた遺書を思い浮かべました。「井伏さん」とは、太宰の師匠・井伏鱒二のことです。

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太宰治の遺書 左隅に「井伏さんは悪人です」とある。

 1923年(大正12年)、太宰が青森中学1年生の時に、はじめて井伏の『幽閉』(のちに山椒魚として改稿)に出会い、「埋もれたる無名不遇の天才を発見した」と興奮し、弘前高校時代には、同人誌「細胞文芸」への寄稿依頼もしています。
 1930年(昭和5年)5月中旬、東京帝国大学に進学して上京後、井伏との初対面を果たし、以降、長らく井伏に師事しました。
 井伏と太宰の実家・津島家との関係も次第に緊密になり、太宰への仕送りは井伏を通して渡されるようになりました。井伏と太宰の長兄・津島文治が共に早稲田大学の出身という縁もありました。
 そんな太宰が、なぜ人生の最期のタイミングで、「井伏さんは悪人です」と書かなければいけなかったのでしょうか。

 太宰の死の前年にあたる1947年(昭和22年)7月下旬、疎開していた井伏が東京に移住、杉並区清水町24番地の自宅に戻ってきます。この時の太宰は、斜陽執筆の最中でした。
 移住直後の井伏家の家計を心配した太宰は、恩返しのつもりで、自身が全九巻の解説を引き受けることを条件に、井伏鱒二選集」の編纂を筑摩書房の社長・古田晁(ふるたあきら)に提案します。
 選集に収録する作品を選ぶために、井伏の作品を読み返している過程で、太宰は、短篇集「禁札」の中に、『薬屋の雛女房(ひなにょうぼう)という、見たことのないタイトルの短篇を発見しました。

 競技場の正面には、大きな日章旗がたててあった。その横に、「健康なる精神は健康体に宿る」と大書した大きな紙を、戸板に貼って木の幹に立てかけてあった。患者たちは幾つもの組にわかれて競技場の周囲に列をつくり、その各組の右翼にはそれぞれ一本ずつの旗が立ててあった。雛女房と奥さんの応援したい奥さんの御主人は、開襟の半袖シャツを着て白いズボンをはき、「麻薬団応援旗」と書いた旗を立てている組の最右翼にいた。そして(ひさし)のない白い運動帽をかぶっていた。

 1938年(昭和13年)、「婦人公論」十月号に掲載された短篇ですが、太宰は天下茶屋に滞在してい時期だったため知りませんでした。
 『薬屋の雛女房』は、薬屋の若妻を主人公にしつつ、船橋時代の太宰と内縁の妻・小山初代をモデルに描かれているように思えます。太宰の事ともとれるような「奥さんの御主人」が、薬に苦労している様子が面白おかしく書かれており、先程の引用は、精神病院での運動会の様子です。短距離走では、ある組では7人の走者がてんでばらばら、とんでもない方向へ走っていったとも語られています。これを読んだ太宰は「これは僕のことだ」と感じ、激怒しました。

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船橋時代太宰と初代

 1947年(昭和22年)は、3月27日に愛人・山崎富栄と出逢ったり、11月12日に愛人・太田静子が出産したりということがありました。太宰は、妻・津島美知子と結婚する際、井伏に宛てて、「ふたたび私が、破婚を繰りかえしたときには、私を、完全の狂人として、棄てて下さい。」という誓約書を送付していた後ろめたさから、井伏と少しづつ距離を置くようになっていましたが、『薬屋の雛女房』を見つけたことが、井伏と太宰の仲を決定的なものとしました。
 太宰の葬儀の際、井伏は葬儀副委員長を務め、葬儀委員長を務めたのは豊島与志雄でした。太宰は、豊島与志雄を一番尊敬していた、と言っていますが、本来なら、長らく師事していた井伏の名を挙げるのが筋のように思われます。しかし、ここであえて豊島の名前を挙げることからも、太宰の晩年は、井伏との距離が離れていったことが分かります。

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豊島与志雄(とよしまよしお)(1890~1955) 日本の小説家、翻訳家、仏文学者、児童文学者。明治大学文学部教授も勤めた。太宰は、晩年に豊島を最も尊敬し、愛人・山崎富栄を伴って、度々豊島の自宅を訪れては酒を酌み交わした。井伏は富栄を嫌ったが、豊島は富栄を認め、優しく接したことも理由の1つと考えられる。豊島も太宰の気持ちを受け入れ、その親交は太宰が亡くなるまで続いた。

 太宰が「井伏さんは悪人です」という遺書を残したことについて、井伏寄りの文壇人やマスコミは、太宰が薬を飲んで朦朧として書いたや、本心とは反対のことを書いたなどと井伏を擁護し、悪人説を否定しました。

 文壇ではその論調が長く続いていましたが、1975年(昭和50年)頃から、これに異を唱え、「それは、太宰の本心だ」と説いたのが、その半生を敬愛する作家・太宰の研究に捧げた長篠康一郎ながしのこういちろうでした。しかし、長篠の言動をよく思わない勢力が、長篠に対して必要以上の嫌がらせを行いました。長篠の家庭、家族だけではなく、職場にまでも嫌がらせが及んだといいます。

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長篠康一郎(ながしのこういちろう)(1926~2007)

 のちに、長篠に近い考え方を表明したのが、太宰研究家・川崎和啓でした。川崎は、1991年(平成3年)に「師弟の(わかれ ー太宰治の井伏鱒二悪人説ー」という論文を「近代文学史論」に発表し、井伏鱒二悪人説を肯定しました。
 また、川崎の論文の9年後、2000年(平成12年)に作家・猪瀬直樹が小説ピカレスク 太宰治伝を執筆。ここでも、長篠の唱えた「井伏さんは悪人です」ということが肯定されています。
 文壇の大御所である井伏に反旗を翻す内容のものを書くと、文壇では生きていけないという現実があり、井伏鱒二悪人説を肯定する研究者や学者が現われはじめたのは、井伏の亡くなった1993年(平成5年)以降でした。

 2001年(平成13年)、青森県近代文学館から発行された資料集第二輯「太宰治・晩年の執筆メモ」からも、太宰の心境を汲み取ることができます。
 メモの内容は、1947年(昭和22年)、1948年(昭和23年)版の文庫手帳に書かれたもので、ほとんどが作品に関する創作メモですが、実名で井伏を批判している箇所も見られます。

<1948年(昭和23年)の執筆メモ>
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【下段】
井伏鱒二 ヤメロ という、
足をひっぱるという、
「家庭の幸福」
ひとのうしろで、
どさくさまぎれに
ポイントを
かせいでいる、
卑怯、
なぜ、やめろというのか、
「愛?」私はそいつ
にだまされて来た
のだ、

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【上段】
人間は人間を
(4字消し)愛す
る事は出来ぬ、
利用するだけ、
思えば、井伏さん
という人は、人に
おんぶされて
ばかり生きて
来た、孤独
のようでいて、
このひとほど、

【下段】
「仲間」がいないと
生きておれないひと
はない、
井伏の悪口を〓う
ひとは無い、バケ
モノだ、
阿保みたいな
顔をして、作品
をごまかし(手を
抜いて)誰にも
憎まれず、

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【上段】
人の陰口は
ついても、めんと
向かっては、何も
〓わず、わせだ
をのろいながらも
わせだをほめ、
愛校心、
ケッペキもくそも
ありやしない
最も、いやしい

【下段】
政治家である。
ちゃんとしろ。
(すぐに人に向〓〓〓
グチを言う。〓や
しいと思ったら、
黙って、つらい
仕事をはじめ
よ、)
私はお前を捨て
る。お前たちは、

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【上段】
強い。(他のくだらぬものをほめ
たり)どだい
私の文学が
わからぬ、わが
ままものみたい
に見えるだけ
だろう、聖書
は屁のようなも
のだという、
実生活の
駈引きだけ

【下段】
生きている。
イヤシイ。
私は、お前たちに
負けるかも知れ
ぬ。しかし、私は、
ひとりだ。「仲間」を
作らない。お前
は、「仲間」を作
る。太宰は
気違いになっ
たか、などという
仲間を、

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【上段】
ヤキモチ焼き、
悪人、
イヤな事を言う
ようだが、あなた
は、私に、世話
したようにお
っしゃっている
ようだけど、
正確に話し
ましょう、

【下段】
かつて、私は、
あなたに気に
いられるように
行動したが、
少しもうれしく
なかった。

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■太宰と井伏 1940年(昭和15年)4月30日、群馬県、四万温泉にて。撮影:伊馬春部

 【了】

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【参考文献】
・太宰文学研究会 編『探求 太宰治 太宰治の人と芸術 第4号』(1976年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
青森県立図書館/青森近代文学館 編『資料集第二輯 太宰治・晩年の執筆メモ』(2013年)
猪瀬直樹ピカレスク 太宰治伝』(文春文庫、2007年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・橘田茂樹『太宰治と天下茶屋 ー太宰治が遺したもの』(山梨ふるさと文庫、2019年)
加藤典洋完本 太宰と井伏 ふたつの戦後』(講談社文芸文庫、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【井伏から見た戦後の太宰】

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【週刊 太宰治のエッセイ】無題

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今週のエッセイ

◆『無題』
 1942年(昭和17年)、太宰治 33歳。
 1942年(昭和17年)6月上旬頃に脱稿。
 『無題』は、1942年(昭和17年)6月28日発行(七月号)の「現代文學」第五巻第七号の「甘口辛口」欄に発表された。ほかには、青野季吉、中谷孝雄、坂口安吾尾崎一雄などが執筆している。

「無題

 大井廣介(おおいひろすけ)というのは、実にわがままな人である。これを書きながら、腹が立って仕様が無い。十九字二十四行、つまり、きっちり四百五十六字の文章を一つ書いてみろというのである。思い上った思いつきだ。僕は大井廣介(おおいひろすけ)とは、遊んだ事もあまり無いし、今日まで二人の間には、何の恩怨も無かった筈だが、どういうわけか、このような難題を吹きかける。実に、困るのだ。大井君、僕は野暮な男なんだよ。見損っているらしい。きっちり四百五十六字の文章なんて、そんな気のきいた事が出来る男じゃないんだ。「とても書けない」と言って、お断りしたら、「それは困る。こっちの面目丸つぶしです」と言って来た。「丸つぶれ」でなく、「丸つぶし」と言っているのも妙である。これでは僕が、大井廣介(おおいひろすけ)の面目を踏みつぶした事になる。ものの考えかたが、既に常人とちがっている。実に、不可解な人である。僕は、いったい、なんの因果で、四百五十六字という文章を書かなければいけないのか。原稿用紙を三十枚も破った。稿料六十円を請求する。バカ。いま払えなかったら貸して置く。

 

大井廣介(おおいひろすけ)から見た太宰

 今回は、太宰にエッセイ『無題』の執筆を依頼した大井廣介(おおいひろすけ)について紹介します。

 大井廣介(おおいひろすけ)(1912〜1976)は、福岡県出身の文芸評論家、野球評論家。本名は、麻生賀一郎で、政治家の麻生太郎の父親・麻生太賀吉従兄(いとこ)にあたります。

 旧制嘉穂中学校を卒業。早くに父を亡くしたため、伯父から庇護を受けました。
 1930年(昭和5年)に上京し、1939年(昭和14年)に文芸同人誌「(えんじゅ)」を創刊しました。翌1940年(昭和15年)、同誌の誌名を、太宰がエッセイ『無題』を発表した「現代文學」に改めます。平野謙荒正人佐々木甚一杉山英樹たちを迎えて文芸時評を執筆。同誌を昭和10年代の代表的な文芸同人誌に育て上げました。同誌は、戦後の「近代文學」の礎となりましたが、大井は「近代文學」からは距離を置き、党派性を批判して自由人を標榜。イデオロギーを排し、ゴシップ的手法によって社会批判を行いました。

 大井は、異色の野球評論家としても活躍し、「週刊ベースボール」に長期にわたってコラムを連載しました。

 大井は、探偵小説が好きでしたが、「近代文學」の同人には探偵小説好きが多く、戦争中には坂口安吾平野謙荒正人檀一雄らを自宅に集め、犯人あてゲームに興じていました。このゲームは、大井の家が戦災で焼失した後、戦後になってからも埴谷雄高(はにやゆたか)邸に場所を移して行われたそうです。

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大井廣介(おおいひろすけ)(1912〜1976)

 さて、大井の著書『バカの一つおぼえ』(1957年)には、太宰についても書かれているので、引用して紹介します。

 モノを書く人には、談話の方がずっと溌溂(はつらつ)としており、書いた方はぬけ殻のようで、全貌をだし尽くさぬうらみの方がある。坂口や武田麟太郎がそうである。いかにもその人らしく、しゃべっていることと、書いていることが、バランスのとれている人もある。小熊秀雄高見順がそうだ。ところで、書いたモノでは才気煥発(さいきかんぱつ)、あってみると、談話は尋常で、案外才気煥発(さいきかんぱつ)でなかったというひともある。花田清輝太宰治がそうなのだ。何かのはずみで花田清輝がこの小文をみかけ、ひでえとボヤクかもしれないけど、談話のほうが溌溂(はつらつ)として、書いたモノがぬけ殻みたいなより、談話は用を達するていどで、書いたモノが才気煥発(さいきかんぱつ)なほうが、モノを書く人の本懐であり冥利でもあろう。話してみると、太宰は、たどたどしく、ボソッとしていた。東北人的遅鈍さともいうべきものが感じられ、才気煥発(さいきかんぱつ)な文章は地で書き飛ばしたわけではなく、非常に工夫をこらして書いたのではないかと思う。太宰の作品で太宰の地が、素直にでているのは「津軽」だ。あれは単に才気煥発(さいきかんぱつ)では書けない。ほのぼのとした滋味乃至(ないし)厚味といったものがある。
 才筆をこらすのは勿論、得意で、私が400字で何か書いてくれと頼むと、そんなバカなものが書けるものかという主旨をかっきり400字書いてよこした。短編コンクール或いは特集はきっと太宰がさらった。戦時下飲料水が不足していたじぶん、私が何本かアブサンを貯蔵しているのをききつけ、アブサンが好きだとしきりに謎をかけていたが、私はとぼけて話にのらなかった。
 アブサンの栓を抜くなら、そりゃ談論風発の坂口とやるに限る。

 太宰の創作の舞台裏も垣間見ることができる、エッセイ『無題』に対するアンサーのような大井の小文でした。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】食通

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今週のエッセイ

◆『食通』
 1942年(昭和17年)、太宰治 33歳。
 1941年(昭和16年)12月中旬に脱稿。
 『食通』は、1942年(昭和17年)1月5日発行の「博浪抄」第七巻第一号に発表された。

「食通

 食通というのは、大食いの事をいうのだと聞いている。私は、いまはそうでも無いけれども、かつて、非常な大食いであった。その時期には、私は自分を非常な食通とばかり思っていた。友人の檀一雄などに、食通というのは、大食いの事をいうのだと真面目な顔をして教えて、おでんや等で、豆腐、がんもどき、大根、また豆腐というような順序で際限も無く食べて見せると、檀君は眼を丸くして、君は余程の食通だねえ、と言って感服したものであった。伊馬鵜平君にも、私はその食通の定義を教えたのであるが、伊馬君は、みるみる喜色を満面に(たた)え、ことによると、僕も食通かも知れぬ、と言った。伊馬君とそれから五、六回、一緒に飲食したが、果して、まぎれもない大食通であった。
 安くておいしいものを、たくさん食べられたら、これに越した事はないじゃないか。当り前の話だ。すなわち食通の奥義である。
 いつか新橋のおでんやで、若い男が、海老の鬼がら焼きを、箸で器用に()いて、おかみに褒められ、てれるどころかいよいよ澄まして、またもや一つ、つるりとむいたが、実にみっともなかった。非常に馬鹿に見えた。手で剝いたって、いいじゃないか。ロシヤでは、ライスカレーでも、手で食べるそうだ。

 

”食通”の太宰

 「食通」「大食いの事」と定義し、自身も「かつて、非常な大食い」だったと言う太宰ですが、実際はどうだったのでしょうか。9年間、太宰のことを支え続けた妻・津島美知子回想の太宰治から引用して紹介します。

 まずは、太宰と結婚して甲府市御崎町56番地の借家に引越した頃のこと。

 引越す前、酒屋、煙草屋、豆腐屋、この三つの、彼に不可欠の店が近くに揃っていてお誂え向きだと、私の実家の人たちにひやかされたが、ほんとにその点便利がよかった。酒は一円五十銭也の地酒をおもにとり、月に酒屋への支払いが二十円くらい。酒の肴はもっぱら湯豆腐で、「津島さんではふたりきりなのに、何丁も豆腐を買ってどうするんだろう」と近隣で噂されているということが、廻り廻って私の耳に入り、呆れたことがある。
 太宰の説によると「豆腐は酒の毒を消す。味噌汁は煙草の毒を消す」というのだが、じつは歯がわるいのと、何丁平らげても高が知れているところから豆腐を好むのである。

 酒屋への支払いが月20円くらいというと、現在の貨幣価値に換算すると、約25,000~29,000円に相当します。

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太宰治 甲府ゆかりの地散策マップ 山梨県立文学館で2019年4月27日~6月23日の会期で開催された「特設展『太宰治 生誕110年ー作家をめぐる物語ー』」の配布資料。一部著者が編集。

 太宰治 甲府ゆかりの地散策マップ」を見ると、「太宰の新居跡」の近くに「①酒屋(窪田酒店)」「②煙草屋(原田親平が営業)」「③豆腐屋分部(わけべ)豆腐店)」があるのが分かります。ちなみに、毎日午後3時頃まで机に向かった後に通ったという温泉「喜久之湯」もあります。結婚後の新居は、まさに太宰にとって「お誂え向き」の立地でした。

 続いて、太宰の食事風景や食の好みについても引用してみます。

 太宰は箸の使い方が大変上手な人だった。長い指で長い箸のさきだって使って、ことに魚の食べ方がきれいだった。箸をつけたらきれいに平らげ、箸をつけない皿はそのまま残した。あれほど箸づかいのすっきりした人は少ないと思う。

 太宰の食物についての言い分を聞いていると結局、うまいものはすべて津軽のもの、材料も料理法も津軽風に限るということになる。たまに郷里から好物が届くと、大の男が有頂天になって喜ぶ。甲府で所帯を持ってその春、陸奥湾に面する蟹田の旧友中村さん(著者注:小説『津軽』のN君)が手籠一ぱい毛蟹を送ってくださった。私が津軽の味を味わった最初で、食べ方、雌雄の見分けなどをこのとき彼に教えてもらった。蟹は第一の好物であった。

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 太宰にとっては鶏肉が、肉類では一ばん馴染のものだった。戦争中、三鷹の農家で鶏一羽、売ってくれることがあって、それが最高の御馳走であったが、農家も出征兵を出していて男手不足なので、おばあさんか、お嫁さんが庭さきに放し飼いされている鶏をつかまえ、バタバタするのをおさえつけて、そのまま渡してくれることもある。木綿ふろしきでくるんで乳母車に子供や野菜と一緒に積みこんで帰ると、主人自ら手をくだすほかないので、酒の勢を借りて、あの虫も殺さぬ優しい人が、えいッとばかりひねってしまう。そのあとの始末を私がやって、流しの(まないた)の上におくとこれからが本番、じつは、太宰には鶏の解剖という隠れた趣味がある。頼んでもやりそうもない人なのに、こればかりは自分の仕事にきめている。但し、いたって大ざっぱな自己流で、肉は骨つきのままぶつ切りに、内臓は捨てるべきものを取り去るだけで、このとき必ず「『トリは食ってもドリ食うな』と言ってね」というせりふが出る(ドリというのは臓物の一部分で食べてはいけないとされていた)。私のカッポウ着を着てその仕事を楽しんでいる最中、来客があって、私に目顔、手まねで合図して居留守をつかってお帰ししたことがある。流しの前と玄関の戸口とほんの僅かしか離れていないので声が出せなかったのだ。
 鶏は大てい水たきか鍋にした。鍋ものが好きで、小皿に少しずつ腹にたまらぬ酒の肴を並べてチビチビやるのでなく、書生流に大いに飲みかつ喰う方だった。

 「ドリ」とは、「ルリ」とも呼ばれる「肺」にあたる部位で、美味しく食べられる部分ではないそうです。

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太宰治文学サロンに展示されている、三鷹の住居模型。 2019年3月、著者撮影。

 写真下方が玄関、右下隅の美知子の人形が立っているのが流し。確かに、この距離感で居留守を使うには、声が出せなさそうです。

 体質からか、頭を使う仕事のせいか肉、魚、内臓などを特別欲したので、私は三鷹では毎日食料集めに奔走した。マーケットの女主人に、毎日卵を買いにくるといって罵られたことがあった。

 最後に、今回のエッセイ『食通』が書かれた頃の食料事情について引用します。

 食料は、三鷹の奥の新川や大沢の方の農家を歩き廻って、野菜や卵、鶏などを入手し乳母車に子供と一緒に積んで帰り、時にはもっと遠くへ買い出しに出かけるなどして、私は食料あつめであけくれていた。郷里の人々の好意にもすがった。食料、燃料、調味料、この三つが揃っていることは稀で、ついに林に入ってヤブ萱草(かんぞう)を採ってきて食べて腹こわししたり、道に落ちている木ぎれを拾うまでになった。
 太宰は体質のせいか肉魚卵などの乏しいのがこたえるようだった。ほんの僅かの魚や肉の配給を取るために長い時間立って待たねばならなかった。配給制になってから今まで煙草をのまなかった人がのむようになった話をきいたが、太宰が甘味に手をのばして砂糖もアルコールも体内に入れば同じものだと言うのには驚いた。酒は苦心してたいてい毎日飲んではいたが、勿論不足だったと思う。

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■長女・園子、次女・里子と、三鷹の自宅にて この写真に写る鶏も、太宰が解体したのでしょうか。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
・HP「太宰治と甲府 2【御崎町の借家と煙草店】」(峡陽文庫
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

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【週刊 太宰治のエッセイ】或る忠告

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今週のエッセイ

◆『或る忠告』
 1942年(昭和17年)、太宰治 33歳。
 1941年(昭和16年)11月下旬か12月上旬頃に脱稿。
 『或る忠告』は、1942年(昭和17年)1月1日発行の「新潮」第三十九巻第一号の特集「新しき文学の道」欄に発表された。この欄には、ほかに「現実に徹したい」(石原文雄)、「本質と宿命」(野口冨士男)、「今後の文学の道」(岩上順一)などが掲載された。

「或る忠告

「その作家の日常の生活が、そのまま作品にもあらわれて居ります。ごまかそうたって、それは出来ません。生活以上の作品は書けません。ふやけた生活をしていて、いい作品を書こうたって、それは無理です。
 どうやら『文人』の仲間入り出来るようになったのが、そんなに嬉しいのかね。宗匠頭巾をかぶって、『どうも此頃の青年はテニヲハの使用が滅茶で恐れ入りやす。』などは、げろが出そうだ。どうやら『先生』と言われるようになったのが、そんなに嬉しいのかね。八卦(はっけみ)だって、先生と言われています。どうやら、世の中から名士の扱いを受けて、映画の試写やら相撲の招待をもらうのが、そんなに嬉しいのかね。此頃すこしはお金がはいるようになったそうだが、それが、そんなに嬉しいのかね。小説を書かなくたって名士の扱いを受ける道があったでしょう。殊にお金は、他にもうける手段は、いくらでもあったでしょうに。
 立身出世かね。小説を書きはじめた時の、あの悲壮ぶった覚悟のほどは、どうなりました。
 けちくさいよ。ばかに気取っているじゃないか。それでも何か、書いたつもりでいるのかね。時評に依ると、お前の心境いよいよ澄み渡ったそうだね、あはは。家庭の幸福か。妻子あるのは、お前ばかりじゃありませんよ。
 図々しいねえ。此頃めっきり色が白くなったじゃないか。万葉を読んでいるんだってね。読者を、あんまり、だまさないで下さい。図に乗って、あんまり人をなめていると、みんなばらしてやりますよ。僕が知らないと思っているのですか。
 責任が重いんだぜ。わからないかね。一日一日、責任が重くなっているんだぜ。もっと、まともに苦しもうよ。まともに生き切る努力をしようぜ。明日の生活の計画よりは、きょうの没我のパッションが大事です。戦地に行った人たちの事を考えろ。正直はいつの時代でも、美徳だと思います。ごまかそうたって、だめですよ。明日の立派な覚悟より、きょうの、つたない献身が、いま必要であります。お前たちの責任は重いぜ。」
 と或る詩人が、私の家へ来て私に向って言いました。その人は、酒に酔ってはいませんでした。

 

太宰の覚悟と戒め

 エッセイ『或る忠告』の冒頭に「その作家の日常の生活が、そのまま作品にもあらわれて居ります。ごまかそうたって、それは出来ません。生活以上の作品は書けません。ふやけた生活をしていて、いい作品を書こうたって、それは無理です。」と書いた太宰。太宰がどのような心境でこのように綴ったのか、当時の太宰を取り巻く状況から見てみたいと思います。

 まずは、当時の状況について、太宰の妻・津島美知子回想の太宰治から引用します。

 長女が生まれた昭和十六年(一九四一)の十二月八日に太平洋戦争が始まった。その朝、真珠湾奇襲のニュースを聞いて大多数の国民は、昭和のはじめから中国で一向はっきりしない〇〇事件とか〇〇事変というのが続いていて、じりじりする思いだったのが、これでカラリとした、解決への道がついた、と無知というか無邪気というか、そしてまたじつに気の短い愚かしい感想を抱いたのではないだろうか。その点では太宰も大衆の中の一人であったように思う。この日の感懐を「天の岩戸開く」と表現した文壇の大家がいた。そして皆その名文句に感心していたのである。
 それより一月ほど前に、太宰のところに出頭命令書が舞いこんで、本郷区役所に行くと文壇の人々が集まっていて、徴用のための身体検査を受けた。太宰の胸に聴診器を当てた軍医は即座に免除と決めたそうである。「肺浸潤」という病名であった。助かったという思いと、胸の疾患をはっきり指摘されたこととで私は複雑な気持であった。

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■妻・美知子、長女・園子と太宰

 そんな病気をもつ太宰も昭和十七、十八年と戦局の進展につれて奉公袋を用意し、丙種の点呼や、在郷軍人会の暁天(ぎょうてん)動員にかり出された。暁天動員のときは朝四時に起きて、かなり離れた小学校校庭で訓練を受けた。出なくてもよい査閲に参加して思いもよらず上官から褒められたことを書いているが、それは事実あったことである。隣組を単位としてほとんどすべての生活必需物資が配給制になり、私たち主婦も動員されて藁布団(わらぶとん)を作ったり、タービン工場に乳児を負うて働きに出たりした。
 太宰はずっと和服で通してきていたので、ズボン一つ持ち合わせが無く、いわゆる防空服装を整えるのに苦心した。戦時下にも時勢にふさわしいおしゃれはある。私は来訪される方々が、よい生地の国民服を着て、鉄カブトを背負ったりしているのを見ると、どこで調達されるのだろうかと羨ましかった。

 1941年(昭和16年)6月7日、太宰と美知子の最初の子供・園子が生まれました。その約半年後、美知子が回想するように「昭和のはじめから中国で一向はっきりしない〇〇事件とか〇〇事変というのが続いて」いた中で、同年12月8日、マレー作戦や真珠湾攻撃を皮切りにに太平洋戦争(大東亜戦争)がはじまりました。ちなみに、太平洋戦争の開戦は真珠湾攻撃と言われることもありますが、日本軍がイギリス領マラヤに攻撃をしかけたマレー作戦が、真珠湾攻撃より1時間以上も早く作戦が実行されたため、誤りです。

 さて、真珠湾攻撃が行われる約2週間前の11月17日。「文士徴用令書」を受け取った太宰は、本郷区役所二階の講堂で、文壇の人々とともに、徴用のための身体検査を受けました。
 検査の結果は、「肺浸潤」のため徴用免除。「肺浸潤」とは、結核菌に侵された肺の一部の炎症がだんだん広がっていくことで、過去には肺結核の初期病状のことを指していました。
 美知子は、太宰のこの結果について、「助かったという思いと、胸の疾患をはっきり指摘されたこととで私は複雑な気持であった。」と回想しています。

 太宰は、身体検査の4日後、文士徴用で大阪の中部軍司令部に出頭を命ぜられた小田嶽夫中村地平井伏鱒二高見順寺崎浩豊田三郎を東京駅で見送っています。
 その後も、エッセイ『或る忠告』が発表された1942年(昭和17年)1月に三田循司、同年4月に堤重久、翌々年の1943年(昭和18年)9月に桂英澄と、召集がかかった自身の弟子たちを見送っています。

 この時期、太宰は文壇仲間や弟子たちを戦地に見送りながら、執筆活動に専念します。「戦時中、最も作品を残した作家の1人」とも言われる太宰ですが、どのような気持ちで創作に没頭していたのでしょうか。

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■太宰が出征を見送った弟子たち 左から三田循司堤重久桂英澄

 エッセイは「明日の生活の計画よりは、きょうの没我のパッションが大事です。戦地に行った人たちの事を考えろ。正直はいつの時代でも、美徳だと思います。ごまかそうたって、だめですよ。明日の立派な覚悟より、きょうの、つたない献身が、いま必要であります。お前たちの責任は重いぜ。」「或る詩人」「私」に向かって言った、と締め括られています。「或る詩人」は、酒に酔ってはいなかったそうですが、これは、辻音楽師と自称した太宰自身の覚悟と、自己への戒めの表明のようにも感じられます。

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】私信

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今週のエッセイ

◆『私信』
 1941年(昭和16年)、太宰治 32歳。
 1941年(昭和16年)11月26日から30日までに脱稿。
 『私信』は、1941年(昭和16年)12月2日発行の「都新聞」第一九四三七号の第一面「文芸」欄の「大波小波」欄に発表された。この「文芸」欄には、ほかに「精神に就て」(三木清)、「活字の話(三)」(徳永直)、「虎彦龍彦(77)」(坪田譲治)が掲載された。

「私信

 叔母さん。けさほどは、長いお手紙をいただきました。私の健康状態やら、また、将来の暮しに就いて、いろいろ御心配して下さってありがとうございます。けれども、私はこのごろ、私の将来の生活に就いて、少しも計画しなくなりました。虚無ではありません。あきらめでも、ありません。へたな見透しなどをつけて、右すべきか左すべきか、(はかり)にかけて慎重に調べていたんでは、かえって悲惨な(つまづ)きをするでしょう。
 明日の事を思うな、とあの人も言って居られます。朝めざめて、きょう一日を、充分に生きる事、それだけを私はこのごろ心掛けて居ります。私は、嘘を言わなくなりました。虚栄や打算で無い勉強が、少しずつ出来るようになりました。明日をたのんで、その場をごまかして置くような事も今は、なくなりました。一日一日だけが、とても大切になりました。決して虚無では、ありません。
 いまの私にとって、一日一日の努力が、全生涯の努力であります。戦地の人々も、おそらくは同じ気持ちだと思います。叔母さんも、これからは買い溜などは、およしなさい。疑って失敗する事ほど醜い生きかたは、ありません。私たちは、信じているのです。一寸の蟲にも、五分の赤心(せきしん)がありました。苦笑なさっては、いけません。無邪気に信じている者だけが、のんきであります。私は文学をやめません。私は信じて成功するのです。御安心下さい。

 

太宰と叔母とタケ

 エッセイ『私信』が執筆された1941年(昭和16年)11月26日から30日の直前にあたる11月17日、文士徴用令書を受け取った太宰は、本郷区役所二階の講堂で、文壇の人々とともに、徴用のための身体検査を受けました。結果は「肺浸潤」のため、徴用免除。「肺浸潤」とは、結核菌に侵された肺の一部の炎症が、だんだん広がっていくことで、肺結核の初期病状のことを意味していました。
 その4日後の11月21日午前9時、文士徴用で大阪の中部軍司令部に出頭を命ぜられて、特急(つばめ)で東京駅を出発する小田嶽夫中村地平井伏鱒二高見順寺崎浩豊田三郎らを、太宰は見送りに行っています。この時の心境が、多少なりとも今回のエッセイの内容に反映されているように思われます。

 エッセイ『私信』は、「叔母さん」に宛てた「私信」の体裁をとっていますが、この「叔母さん」とは、太宰の母親・津島夕子(たね)の妹で、太宰の叔母にあたる津島キヱ(きえ)のことです。
 今回は、太宰に大きな影響を与えた叔母・津島キヱ)と女中・越野タケ、2人の女性について紹介します。

 津島キヱは、津島惣五郎・イシの次女で、1879年(明治12年)2月18日生まれです。長女・津島夕子は15歳の時、西津軽郡木造村(現在のつがる市)の名門・松木七右衛門の四男・松木永三郎(のちの太宰の父・津島源右衛門)を婿養子に迎え、次女・キヱは同松木家の五男・松木友三郎を婿養子に迎えます。
 松木家は、藩政時代には苗字帯刀を許された郷士で、8代目にあたる七右衛門の時代に薬種問屋に転業するまで、作り酒屋を営んでいました。津島家の姉妹が松木家の兄弟を養子に迎えたことには、津島家繁栄の地盤を固めたいという意図がありました。
 しかし、キヱの夫・友三郎は酒乱の悪癖があったため、2人の娘がいたにもかかわらず、津島家から離婚を申し渡されてしまいます。

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■太宰1歳数か月の頃 前列右から叔母・キヱ(きえ)、太宰、母・夕子たね。後ろは、三上やゑ(やえ)やゑ(やえ)は、金木第一尋常小学校の訓導で、太宰の5つ上の姉・あいの担任で、母と弟と一緒に津島家が経営する銀行の奥の一室に間借りしていた。

 友三郎との離婚後、2人目の夫として、青森市から豊田常吉を婿養子に迎えますが、2人の娘をもうけた後に病没してしまいます。
 キヱはその後、4人の娘たちと共に津島家に同居し、結核症のために病弱な姉・夕子に代わって、祖母・イシのもとで主婦の役割を果たしました。太宰は、この叔母に2歳の時から面倒を見てもらうようになります。
 日中は叔母の娘たちと過ごし、夜になると叔母と添寝する太宰は、自身の幼児体験の中で、叔母のことを自分の「実母」であるという認識を深めていきます。

 1912年(明治45年)5月、太宰が3歳の時、キヱの専任女中として金木村の近村タケ(のちの越野タケ)が雇われ、太宰の子守をすることになりますが、そのタケですら、1年近くも太宰はキヱの長男だと思っていたといいます。
 タケは、1898年(明治31年)7月14日生まれ。五反歩の自作農だった近村永太郎トヨの四女です。近村家は、借金の返済ができないまま津島家の小作農となり、年貢米の一部として、当初はタケの姉・トセが女中として津島家に雇われていましたが、野良仕事が忙しくなったため、タケが交替することになりました。

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■越野タケ(1898~1983) 小泊小学校校庭にて。1973年(昭和48年)11月3日撮影。

 タケが子守になってからは、太宰は日中のほとんどの時間をタケと一緒に過ごしました。叔母・太宰・タケの関係は、太宰が小学校に入学する直前まで続きます。

 太宰は1923年(大正12年)、14歳の時(中学受験の直前)に『僕の幼児』と題した次のような綴り方を書いています。

 僕は母から生れ落ちると直ぐ乳母につけられたのだそうだ。けれども僕はおしいかな其の乳母を物心地がついてからは一度も見た時もないし便りもない。物心地がついてからというものは叔母にかゝったものだ。叔母はよく夏の夜など蚊帳の中で添((ママ))寝しながら昔話を知らせたものだ。僕はおとなしく叔母の出ない乳首をくわ((ママ))ながら聞いて居た。其の頃一番僕の面白かったお話は舌切雀と金太郎であった。こう言うと僕はなんだかおとなしい子の様だが、実は手もあてられない程のワンパク者であったのだ。一番僕にい((ママ)められたのは末の姉様で、或時は折れたものほし竿で姉を追って歩いたり、きたないわらじで姉のほゝをぶったり、頭髪をはさみでちょきんと一つかみ位切って見たりした。
 其の度毎に姉は母様に訴うるけれども母はなんともいわぬ。若しこのことが少しでも叔母の知る所となれば叔母はだまっては居ない。きびしくしかって其の上土蔵に入れられたことも往々ある。そんな時には必ず小間使のたけが僕のかわりにあやまって呉れる。たけは家の小間使でもあり、僕の家庭教師でもあるし、僕の家来でもあるのだ。五六才の時から僕は毎晩毎晩たけの所に行って本を教わったものだ。初めはハタ タコと一字々々覚えて行くのは僕にとっては又たまらなく面白かったのである。そして、一、二ヶ月の間にどうやら巻一は読める様になった。学校に入((ママ))るによくなった頃にはもう巻三にも手をのば((ママ))様になった。うれしくてたまらないから叔母様に読んで見せると必ず昔話一つ知らせて呉れるし、おばあ様に読んで知らせればお菓子を呉れる。母様の前で読んでも何も呉れない。たゞ僕の頭をなでゝ一番とれよと云って呉れる。姉様兄様に読んで見せてもたゞほめるばかりであった。僕は昔話は大そう好きであった。どんなに泣いて居る時でもどんなにおこって居た時でも、昔話を知らせて呉れゝばすぐににこにこするのであった。だから僕は叔母に一番多く読んで見せたものだ。
 僕の一番家でこわいものは父様であった。故に父様の前では常に行儀よくして居た。それ程こわい父様でもたまには又大そう好きになることもある。それはよくぴかぴか光ったおあしや、きれいな御本を呉れるからである。こうゆう風にして僕はずんずん成長して来たのだ。今でも叔母様やたけの事を思うと恋いしくてならない。 (二月四日)

 このようにして、太宰の中で叔母・津島キヱと女中・越野タケのイメージが、鮮明にクローズアップされていくようになっていきました。

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■中学時代の太宰、兄弟たちと 前列左から三兄・圭治、長兄・文治、次兄・英治。後列左から弟・礼治、太宰。太宰の左胸には、成績優秀者の銀バッジが。

 【了】

********************
【参考文献】
三好行雄 編『別冊国文学No.7 太宰治必携』(學燈社、1980年)
・『太宰治全集 1 初期作品』(筑摩書房、1999年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】私の著作集

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今週のエッセイ

◆『私の著作集』
 1941年(昭和16年)、太宰治 32歳。
 1941年(昭和16年)6月28日に脱稿。
 『私の著作集』は、1941年(昭和16年)7月10日発行の「日本學藝新聞」第百十二号の第七面の「私の著作集」欄に発表された。初出本文の末尾には、「(昭和十六年六月二十九日)」とあり、執筆の日付と推定される。

「私の著作集

 最初の創作集は「晩年」でした。昭和十一年に、砂子屋書房から出ました。初版は、五百部ぐらいだったのでしょうか。はっきり覚えていません。その次が「虚構の彷徨」で新潮社。それから、版画荘文庫の「二十世紀旗手」これは絶版になったようです。
 しばらく休んで、一昨年あたりから多くなりました。紙の質も、悪くなりました。一昨年は、竹村書房から「愛と美について」砂小屋書房から「女生徒」女性徒は、ことしの五月に再版になりました。
 昨年は、竹村書房から「皮膚と心」京都の人文書院から「思ひ出」河出書房から「女の決闘」が出ました。
 ことしは、実業之日本社から「東京八景」が出ました。ニ、三日中に、文藝春秋社から「新ハムレット」が出る(はず)です。それから、すぐまた砂子屋書房から「晩年」の新版が出るそうです。つづいて筑摩書房から「千代女」が、高梨書店から「信天翁(あほうどり)」が出る(はず)です。「信天翁(あほうどり)」には、主として随筆を収録しました。七月までには、みんな出るでしょう。
 少し休みたいと思います。私はことし三十三であります。女の子がひとりあります。

 

太宰の著作集

 太宰が、1941年(昭和16年)6月末時点で刊行された、自身の著作について記したエッセイ『私の著作集』。今回は、エッセイの中で紹介されている著作集について、1992年(平成4年)に日本近代文学館より刊行された『名著初版本復刻 太宰治文学館』に収録されている初版本を使って、紹介します。


◉『晩年』

 1936年(昭和11年)6月25日、砂子屋書房から刊行。
 「太宰治」のペンネームで、1933年(昭和8年)から1936年(昭和11年)にかけて発表された15篇が収録されています。様々な趣向が凝らされた実験作ばかりで、「短篇のデパート」と呼ばれることもあります。後の太宰作品にも通ずる様々なエッセンスが詰め込まれています。
 口絵写真1枚、初版500部、菊判フランス装、241ページ、定価2円でした。

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【目次】
・「
・「思い出
・「魚服記
・「列車
・「地球図
・「猿ヶ島
・「雀こ
・「道化の華
・「猿面冠者
・「逆行
・「彼は昔の彼ならず
・「ロマネスク
・「玩具
・「陰火
・「めくら草紙


◉『虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ』

 1937年(昭和12年)6月1日、新潮社から刊行。
 『晩年』に続く第二創作集で、レトリカルなフィクションが追求されています。三部作である「虚構の彷徨」は、佐藤春夫による命名です。三部作の構想について、1936年(昭和11年)5月1日付の佐藤春夫宛の手紙が残っており、そこには「道化の華狂言の神。虚構の塔。それぞれ、真、善、美のサンボル」をイメージしていると書かれています。『虚構の塔』は、最終的に『虚構の春』というタイトルで発表されました。
 のちに、太宰の妻となる石原美知子、愛人となる太田静子の2人がはじめて手に取った太宰の著作集も、この『虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ』でした。

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【目次】
・虚構の彷徨
 「道化の華
 「狂言の神
 「虚構の春
・「ダス・ゲマイネ


◉『二十世紀旗手』

 1937年(昭和12年)7月20日、版画荘から刊行。
 太宰は、自己暴露の形式を援用したメタ形式の反ロマネスク小説を多く書いていますが、この創作集に収められているのは、そのような趣向の小説3篇です。
 この『二十世紀旗手』は、「版画荘文庫」の第一回配本として刊行されました。

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【目次】
・「雌に就いて
・「二十世紀旗手
・「喝采


◉『愛と美について』

 1939年(昭和14年)5月20日、竹村書房から刊行。
 1939年(昭和14年)1月8日、津島美知子と結婚した後に、はじめて刊行された著作集です。
 この本の函と表紙の挿画は、著者好みのデザインで出すことになり、手近にあった刺繡の図案集を用いたそうです。
 1939年(昭和14年)3月21日付、竹村書房の竹村坦に宛てた「ただいま、やっと、完成いたしました。二百五十一枚です。ささやかなよろこびわかち致したく、不取敢(とりあえず)、お知らせ申します。どうか、よき本にして下さい。」という、書下ろし小説集の原稿ができたことを伝える手紙が残っていますが、この著作集が出版されるまでには、「原稿百枚紛失事件」などの苦労もありました。

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【目次】
・「秋風記
・「新樹の言葉
・「花燭
・「愛と美について
・「火の鳥


◉『女生徒』

 1939年(昭和14年)7月20日、砂子屋書房から刊行。
 1940年(昭和15年)度の北村透谷(きたむらとうこく)賞の次席に選ばれた著作集で、太宰が初期から中期への文学の転換を示した短篇7篇を集大成して収めています。

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【目次】
・「満願
・「女生徒
・「I can speak
・「富嶽百景
・「懶惰の歌留多
・「姥捨
・「黄金風景


◉『皮膚と心』

 1940年(昭和15年)4月20日、竹村書房から刊行。
 『愛と美について』と同じく、竹村書房から刊行されました。1940年(昭和15年)4月頃、太宰は竹村坦に宛てて「竹村さんには、最近の愛情深い作品のみお送りしたつもりであります。美しい短編集にしたいと思って居ります。」「装釘は御一任申し上げます。瀟洒(しょうしゃ)にお願い致します。」という手紙を送っています。

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【目次】
・「俗天使
・「葉桜と魔笛
・「美少女
・「畜犬談
・「兄たち
・「おしゃれ童子
・「八十八夜
・短片集
 「ア、秋
 「女人訓戒
 「座興に非ず
 「デカダン抗議
・「皮膚と心
・「
・「老ハイデルベルヒ


◉『女の決闘』

 1940年(昭和15年)6月15日、河出書房から刊行。
 『女の決闘』や『走れメロス』など、小説の題材を古典などに求めた翻案小説が中心に収められています。

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【目次】
・「女の決闘
・「駈込み訴え
・「古典風
・「誰も知らぬ
・「春の盗賊
・「走れメロス
・「善蔵を思う


◉『東京八景』

 1941年(昭和16年)5月3日、実業之日本社から刊行。
 太宰の身辺が原稿の依頼で慌ただしくなって来た、1940年(昭和15年)後半に執筆された小説5篇を軸とし、旧作も併せて収録されています。妻・津島美知子は、この頃の太宰について、「十四年の十一月、十二月には予定表を作って調整しなければならぬほどで、彼が作家として出発してから初めてのことだった」と回想しています。

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【目次】
・「東京八景
・「HUMAN LOST
・「きりぎりす
・短篇集
 「一燈
 「失敗園
 「リイズ
・「盲人独笑
・「ロマネスク
・「乞食学生


◉『新ハムレット

 1941年(昭和16年)7月2日、文藝春秋社から刊行。
 太宰はじめての書下ろし長篇で、中期を代表する作品の1つです。シェイクスピアの名作『ハムレット』の翻案作品で、1941年(昭和16年)2月から5月まで、かなりの意気込みで執筆されました。この前年に、『女生徒』によって北村透谷賞の次席に選ばれたこともあり、気合いの入っている時期でもありました。

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【目次】
・「新ハムレット


◉『千代女』

 1941年(昭和16年)8月25日、筑摩書房から刊行。
 1941年(昭和16年)の前半に発表された作品が集められています。大陸での「聖戦」の貫徹を期して近衛文麿の提唱した新体制運動も本格化し、国を挙げて戦争に突き進んでいる時期、太宰は落ち着いて作品を執筆し続けていました。戦時中、最も作品を残した作家の1人とも言われています。

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【目次】
・「みみずく通信
・「佐渡
・「清貧譚
・「服装に就いて
・「令嬢アユ
・「千代女
・「①ろまん燈籠


◉『信天翁(あほうどり)

 1942年(昭和17年)11月15日、昭南書房から刊行。
 『私の著作集』では、「高梨書店から「信天翁(あほうどり)」が出る(はず)です。「信天翁(あほうどり)」には、主として随筆を収録しました。七月までには、みんな出るでしょう。」と書かれていた『信天翁(あほうどり)』ですが、戦争の影響でしょうか、出版社を変え、予定から大きく遅れて、翌年11月にようやく刊行されました。
 「文藻集」と銘打たれた今作は、1935年(昭和10年)から1940年(昭和15年)にかけて発表された諸文章が収録されています。太宰のエッセイが1冊にまとめられたのも、この『信天翁(あほうどり)』がはじめてでした。また、これまでの著作集に収録されなかった短篇も一緒に収められています。
 ちなみに、「信天翁(あほうどり)」とは、陸上での動作がのろいため、このように命名されたそうです。

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【目次】
昭和十年(二十七歳)
・もの思う葦
 「はしがき
 「虚栄の市
 「敗北の歌
 「或る実験報告
 「老年
 「難解
 「塵中の人
 「おのれの作品のよしあしをひとにたずねることに就いて
 「書簡集
 「兵法
 「in a word
 「病躯の文章とそのハンデキャップに就いて
 「「衰運」におくる言葉
 「ダス・ゲマイネに就いて
 「金銭について
 「放心について
 「世渡りの秘訣
 「緑雨
 「ふたたび書簡のこと

昭和十一年(二十八歳)
・碧眼托鉢
 「ボオドレエルに就いて
 「ブルジョア芸術に於ける運命
 「定理
 「わが終生の祈願
 「わが友
 「憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥
 「フィリップの骨格に就いて
 「或るひとりの男の精進について
 「生きて行く力
 「わが唯一のおののき
 「マンネリズム
 「作家は小説を書かなければならない
 「挨拶
 「立派ということに就いて
 「Confiteor
 「頽廃の児、自然の児
・「雌に就いて
・「創世記
・「古典龍頭蛇尾
・「喝采

昭和十二年(二十九歳)
・「音に就いて
・「創作余談
・「燈籠

昭和十三年(三十歳)
・「(晩年)に就いて
・「一日の労苦
・「多頭蛇哲学
・「答案落第
・「緒方君を殺した者
・「一歩前進二歩退却

昭和十四年(三十一歳)
・「『人間キリスト記』その他
・「正直ノオト
・「困惑の弁
・「春の盗賊

昭和十五年(三十二歳)
・「諸君の位置
・「義務
・「鬱屈禍
・「自身の無さ
・「作家の像
・「国技館
・「貪婪禍
・「自作を語る
・「パウロの混乱
・「かすかな声

 太宰の初版本に思いを馳せながら、著作集に収録された順で作品に触れてみるのも、面白いかもしれません。

 【了】

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【参考文献】
・『名著初版本復刻 太宰治文学館』(日本近代文学館、1992年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】容貌

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今週のエッセイ

◆『容貌』
 1941年(昭和16年)、太宰治 32歳。
 1941年(昭和16年)5月中旬頃に脱稿。
 『容貌』は、1941年(昭和16年)6月5日発行の「博浪沙」第六巻第六号に発表された。

「容貌

 私の顔は、このごろまた、ひとまわり大きくなったようである。もとから、小さい顔ではなかったが、このごろまた、ひとまわり大きくなった。美男子というものは、顔が小さくきちんとまとまっているものである。顔の非常に大きい美男子というのは、あまり実例が無いように思われる。想像する事も、むずかしい。顔の大きい人は、すべてを素直にあきらめて、「立派」あるいは「荘厳」あるいは「盛観」という事を心掛けるより他に仕様がないようである。濱口雄幸氏は、非常に顔の大きい人であった。やはり美男子ではなかった。けれども、盛観であった。荘厳でさえあった。容貌に就いては、ひそかに修養した事もあったであろうと思われる。私も、こうなれば、濱口氏になるように修養するより他は無いと思っている。
 顔が大きくなると、よっぽど気をつけなければ、人に傲慢と誤解される。大きいつらをしやがって、いったい、なんだと思っているんだ等と、不慮の攻撃を受ける事もあるものである。先日、私は新宿の或る店へはいって、ひとりでビイルを飲んでいたら、女の子が呼びもしないのに傍へ寄って来て、「あんたは、屋根裏の哲人みたいだね。ばかに偉そうにしているが、女には、もてませんね。きざに、芸術家気取りをしたって、だめだよ。夢を捨てる事だね。歌わざる詩人かね。よう! ようだ! あんたは偉いよ。こんなところへ来るにはね、まず歯医者にひとつき通ってから、おいでなさいだ。」と、ひどい事を言った。私の歯は、ぼろぼろに欠けているのである。私は返事に窮して、お勘定をたのんだ。さすがに、それから五、六日、外出したくなかった。静かに家で読書した。
 鼻が赤くならなければいいが、とも思っている。

 

1941年(昭和16年)の太宰治

 今回のエッセイ「容貌」が執筆された1941年(昭和16年)は、太宰を取り巻く環境が大きく変化した年でした。この一年の、太宰を取り巻く社会的環境の変化や第二次大戦の戦局、その中で太宰が執筆・発表した作品について見ていきます。
 1939年(昭和14年)、妻・津島美知子と結婚して2年後の事です。

<1941年1月>

1日
ろまん燈籠(その二)』(「婦人画報」新年号)発表。
東京八景』(「文学界」正月号)発表。
みみずく通信』(「知性」一月号)発表。
佐渡』(「公論」新年号)発表。
清貧譚』(「新潮」新年号)発表。
弱者の糧』(「日本映画」新年号)発表。
五所川原』(「西北新報」)発表。

4日
中国、皖南(かんなん)事件。

5日
男女川(みなのがわ)羽左はざ)』(「都新聞」)発表。

6日
官吏制度改革交付、施行。

8日
東條陸相が「戦陣訓」を通達。

11日
新聞紙等掲載制限令、交付。
青森』(「月刊東奥」新年号)発表。

15日
妻・津島美知子と共に伊豆・伊東温泉に一泊旅をした。

16日
大日本青少年団、結成。

22日
閣議で人口政策確立要綱を決定。


<1941年2月>

1日
服装に就いて』(「文藝春秋」二月号)発表。

7日
米穀法改正案を提出(代用食の国家管理)。

11日
日満親善公演<歌う李香蘭>で日劇周辺に警官が出動する騒ぎ。
一夜、山岸外史と遊ぶ。

17日
トルコ、ブルガリア不可侵条約締結。

20日
宮崎譲『竹槍隊』(赤塚書房)に、「序文」として『犯しもせぬ罪を』を起稿。

26日
内閣情報局総合雑誌編集部に執筆禁止者リストを示す。


<1941年3月>

1日
ブルガリア、日独伊三国同盟に加盟。
国民学校令施行規則公布。
連載ろまん燈籠 その三』(「婦人画報」三月号)発表。

2日
ドイツ、ブルガリア領内に進駐。

10日
治安維持法改正、予防拘禁制追加。

15日
「ピノチオ」での阿佐ヶ谷将棋会に出席した。

20日
国家総動員法改正、施行。


<1941年4月>

1日
国民学校令施行。
大都市で米穀配給通帳制実施。
生活必需物資統制令公布。
連載ろまん燈籠 その四』(「婦人画報」四月号)発表。

13日
日ソ中立条約締結。

<1941年5月>

1日
社団法人日本映画社(日映)が設立され、ニュース・文化映画を製作する。
連載ろまん燈籠 その五』(「婦人画報」五月号)発表。

3日
「東京八景」(実業之日本社)刊行。

5日
日本出版配給株式会社が創立される。

6日
スターリンソ連首相に就任。

10日
ドイツ副総統ヘスが英国へ単独飛行し、対英和平打診を企てるが失敗。

11日
野村大使が米ハル国務長官に日米交渉修正案を提出する。

19日
ホーチミンを盟主にベトナム独立同盟を結成。
反仏・反日民族解放路線決定。

27日
米大統領、国家非常事態を宣言。

5月頃、一番弟子・堤重久と吉祥寺辺りの飲み屋を遍歴し、井の頭公園を散歩した。


<1941年6月>

1日
ろまん燈籠 その六』(「婦人画報」六月号)発表。
令嬢アユ』(「新女苑」六月号)発表。
千代女』(「改造」六月号)発表。

5日
『容貌』(「博浪抄」六月号)発表。

7日
午前1時、長女・園子が誕生した。

9日
農林省、麦類配給統制規則を公布する。

11日
山岸外史に再婚を薦める。

18日
弟子・小山清にハガキを送る。

20日
「晩年」と「女性徒」』(「文筆」夏季版)発表。

22日
ドイツ軍300万がバルト海から黒海にわたる戦線でソ連を攻撃。独ソ戦争開始。
続いてイタリア、ルーマニアフィンランドハンガリーソ連へ宣戦布告する。

23日
中共反日独伊・反ファシスト国際統一戦線を呼びかける。

25日
連絡会議において南方施策促進(南部仏印進駐)に関する件を決定。

30日
鶯谷の料亭「志保原」において、佐藤春夫の媒酌で、山岸外史と佐藤やすとの結婚披露宴があり、尽力した。


<1941年7月>

1日
全国の隣組が一斉に常会を開く。

2日
御前会議において、帝国国策要綱を決定する(対ソ戦を準備、南方進出のため対英米戦を辞せず)。
大本営、「関東軍特殊演習」の名目で70万の兵力を満州に動員する。
最初の書下し中篇小説「新ハムレット」(文藝春秋社)刊行。

10日
『私の著作集』(「日本学藝新聞」)発表。

16日
第二次近衛内閣総辞職

18日
第三次近衛内閣成立。

25日
重慶で米・英・中の軍事合作協議が行われる。

27日
満州文芸家協会が設立される。

28日
日本軍が南部仏印に進駐。


<1941年8月>

1日
米、全侵略国への石油輸出を禁止。対日石油輸出が停止となる。

2日
井伏鱒二に手紙を送る。

3日
弟子・菊田義孝、太宰の三鷹の住居を初訪問。

8日
文部省、各学校に全校組織の学校報国隊の編成を訓令する。

12日
ルーズベルト大統領とチャーチル首相が米英共同宣言(大西洋憲章)を発表する。

17日
故郷の母・夕子(たね)の衰弱が甚だしいとの事で、10年振り帰郷。

25日
短篇集「千代女」(筑摩書房)刊行。

30日
大学の学部に軍事教練担当の現役将校を配属する。


<1941年9月>

上旬頃
太田静子、三鷹の家を訪問。

3日
ドイツ軍、アウシュビッツ強制収容所で、ソ連兵捕虜600人とユダヤ人250人に初の毒ガス処刑執行。

6日
日米交渉が難航する中、御前会議が帝国国策遂行要領を決定。10月上旬までに外交交渉が進展しない場合は、対米戦争を決意。

8日
ドイツ軍、レニングラード包囲。

15日
米穀国家管理実施要綱。

産業報国会、勤労秩序確定、勤労総動員。生産力増強のスローガンの下、”働け運動”開始。


<1941年10月>

12日
ドイツ軍、モスクワ攻撃開始。

15日
ソ連共産党員で赤軍第四本部所属のドイツ人スパイ、リヒャルト・ゾルゲ、尾崎秀實、諜報活動容疑で検挙。
世界的』(「早稲田大学新聞」)発表。

16日
第三次近衛文麿内閣が総辞職。

18日
開戦派の東條英機内務省陸相兼務のまま、東條英機内閣成立。

28日
重要産業第一次指定(鉄鋼、石炭、造船など12業種)決定。

31日
国民購買力の吸収と消費節約を狙った臨時増税案要綱が発表。


<1941年11月>

1日
風の便り』(「文学界」十一月号)発表。
』(「文藝」十一月号)発表。

5日
御前会議、帝国国策遂行要領を決定。作戦準備を進め、12月1日までに交渉成立なら、武力発動中止。

15日
兵役法改正。丙種合格で第二国民兵編入者も召集に。

17日
本郷区役所二階講堂で徴用のための検査を受けた。

26日
アメリカがハル・ノート(①中国・仏印からの撤退、②三国同盟死文化、③重慶国民政府以外の中国政府拒否)を提示。大本営連絡会議はハル・ノートを日本への採集通牒と結論。東條陸相は、撤退に断固反対を主張する。
択捉島・単冠湾に集結した機動部隊が出港。無線封鎖を行いながら、ハワイ海域へ向かう。

国民勤労報国協力会設立。


<1941年12月>

1日
旅信』(「新潮」十二月号)発表。
』(「知性」十二月号)発表。

2日
『私信』(「都新聞」)発表。

8日
日本軍、マレー半島に上陸開始。午前3時19分、日本の機動部隊がハワイ真珠湾を奇襲。11時45分、対米英宣戦の大詔発表。
津島美知子「太平洋戦争が始まった」

11日
独伊、対米宣戦布告。

12日
対米英戦を「支那事変」も含め、「大東亜戦争」と呼ぶことに閣議決定

19日
言論・出版・結社等臨時取締法公布。

25日
香港島の英軍降伏。第二三軍、香港を占領する。

中旬、東京駅で太田静子と落ち合い、新宿の「LILAS」という地下レストランで対談した。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・内海紀子/小澤純/平浩一『太宰治と戦争』(ひつじ書房、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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太宰治39年の生涯を辿る。
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