記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】津軽地方とチェホフ

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今週のエッセイ

◆『津軽地方とチェホフ』
 1946年(昭和21年)、太宰治 37歳。
 1946年(昭和21年)4月下旬頃に脱稿。
 『津軽地方とチェホフ』は、1946年(昭和21年)5月15日発行の「アサヒグラフ」第四十五巻第十四号に発表された。

津軽地方とチェホフ

 こないだ三幕の戯曲を書き上げて、それからもっと戯曲を書いてみたくなり、長兄の本棚からさまざまの戯曲集を持ち出して読んでみたが、日本の大正時代の戯曲のばからしさには(あき)れた。よくもまあ、こんなものを、書く人も退屈せずに書いたもの(かな)、そうしてこんなものでもたいてい大劇場に(おい)て当時の名優に依って演ぜられたものらしいが、よくもまあ、名優たちもこんなつまらない台詞を大真面目で暗誦したもの(かな)、よくもまあ、観客も辛抱して見ていたもの(かな)、つくづく(あき)れ、不愉快にさえなった。
 女  此頃お仕事をなさいませんのね。
 男  出来ないのです。行き詰まって其処(そこ)から奥へどうしても突き入れないんです。
 女  今にお出来になりますわ。せきとめられた水が(せき)を破って出るような勢で。
 馬鹿にするな、と言ってやりたい。これはほんの一例であるが、まあ、たいていこんな按配で、とても読んで行けない。戯曲に限らず、大正時代の文学で、たいへん有名なものでも、今読むと実にひどいのが多い。いちど全部、大掃除の必要があるように思われる。それで、その戯曲の話だが、いろいろ読んで、私にはやはりチェホフの戯曲が一ばん面白かった。チェホフの有名な戯曲は、たいてい田舎の生活を主題にしている。いま私は、戦災のため田舎暮しを余儀なくされているが、ちょうどいまの日本の津軽地方の生活が、そっくりチェホフ劇だと言ってよいような気さえした。津軽地方にも、いまはおびただしく所謂(いわゆる)「文化人」がいる。そうしてやたらに「意味」ばかり求めている。たとえば、「伯父ワーニャ」のアーストロフ氏の言の如く、
ーーインテリゲンチャには閉口です。あの連中は我々の善良なる友人であるが、考えが偏狭で感情はうそ寒く、自分の鼻からさきの事はまるで見えない……何の事はない、ただもう馬鹿なんです。少し利巧な見ばえのするような人間は、これはまたヒステリイ、疑いと卑屈に蟲食われてしまっています……こういう手合いは愚痴を言う、人を憎む、病的に讒謗(ざんぼう)(たくま)しうする。そして人に接するのにも、わきの方からそっと寄って行って、じろりと横目で見て、「ああ、あれは変態だ!」とか、「あれは法螺(ほら)ふきだ!」とか一口に言って片づけてしまう。ところが、例えば私の額に、どういうレッテルを貼ればいいか分からないような時には、「あれは妙な奴だ、どうも妙な奴だ!」と言う。私が森がすきならこれも妙、私が肉を食わなければこれもやっぱり妙だと来る。まあ、こう言ったようなもので、自然や人間に対する素直な、清い、鷹揚な態度は既にないのです……ない、全くない!
 それからまた「桜の園」のトロフィーモフ氏の言の如く、
ーー僕の知っているインテリゲンチャの大部分は、何物も、求めていないし、そうして何一つ仕事もせず、労働に対しては今のところ無能です。彼らは自らインテリゲンチャと称しながら、召使に向っては「お前」と呼び捨てにするし、百姓などはまるで動物扱いにして、ろくすっぽ勉強はせず、本気に読書という事もしない。全く何一つしないで、科学もただ口先で云々(うんぬん)するだけだし、芸術の事だってろくろく分りやしないんです。その癖、みんな真面目で、みんな厳粛な顔をして、みんな高尚な事ばかり言って、哲学者気取りでいますが、それでいて我々の大多数は百人のうち九十九人まで、まるで野蛮人のような生活をして、ちょっとどうかすると、すぐ(いが)み合ったり、悪口をつき合ったりします。そんなわけで我々の口にする美しいみたいな話は、みんなただ自他の目を誤魔化すために過ぎないのです。それはもう見え透いています。現にこの頃やかましい労働者の小児預り所は、一体どこにあるんです? 国民図書館はどこにあるんです? 一つ教えて下さいませんか。そんなものは小説に書いてるだけで、本当にはまるでありやしない。あるものはただ(あか)と、凡俗と、アジア風の生活ばかりです……僕はあまり糞真面目な顔が、おそろしくもあれば嫌いでもあります。僕は糞真面目な話を恐れます。それよりいっそ黙っていた方がいい。
 さらにまた「三人姉妹」に於いては、トウゼンバッハ氏とマーシャさんが、次のような会話を交している。
 トウゼンバッハ__二百年三百年はおろか、たとえ百万年の後でも、生活はやはりこれまでの通りです。我々に何の関係もない--少くとも、我々の到底知ることの出来ないような、それ自身の法則に従いながら、生活は永久に変ることなく、常に一定の形を保って続いて行くでしょう。渡り鳥、まあ、例えば鶴などが飛んで行くとする。そして高級なものか低級なものか、とにかく、どんな考えがその鶴の頭に宿っているとしたところで、彼等は依然として飛んで行きます。そしてなぜ、どこへという事は知らないのです。たとえ、どんな哲学者が彼等の間に現れようと、彼等は現在も飛んでいるし、また未来も飛んで行くことでしょう。何とでも勝手に理屈をこね(まわ)すがいい、おれ達はただ飛べばいいんだってね……
 マーシャ__それにしても意味というものが__
 トウゼンバッハ__意味ですって……いま雪が降っている、それに何の意味があります?
 津軽地方のインテリゲンチャたちも、実にこの「意味」の追及に熱心である。月日は流れる水の如く、と言えば、それはどんな意味ですとすぐに反問する。
 所謂(いわゆる)サンボリズムの習練などは全く無い。

 

太宰とチェーホフ

 今回のエッセイのタイトルになっている「チェホフ」は、ロシアを代表する劇作家、小説家でもあるチェーホフ(1860~1904)のことです。代表作にワーニャ伯父さん(1899~1900)、三人姉妹(1901)、桜の園(1904)などがあります。チェーホフは、近代演劇の創始者であり、短篇小説の名手でもあります。

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■アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(1860~1904) ロシアを代表する劇作家であり、多くの優れた短篇を遺した小説家。

 太宰は事あるごとに、好きなロシア作家として、チェーホフの名前を挙げています。
 太宰の友人・檀一雄も「何といっても、西洋の文学で太宰の一番の愛読書はチェホフだ。短編のすべての根幹にその激しい影響がみられるだろう」と指摘しています。

 走れメロス新ハムレットお伽草紙など、既存の物語を換骨奪胎して自身の小説に仕上げてしまうのは、太宰の創作手法のひとつですが、チェーホフの作品に影響を受けて執筆された小説もあります。
 太宰の小説彼は昔の彼ならずで、「真似しますのよ。あの人の意見なんかあるものか。みんな女からの影響よ(略)」「まさか。そんなチェホフみたいな。」と書いていますが、これはチェホフの『可愛い女』の換骨奪胎です。主人公・オーレニカは夫運が悪く、夫が変わる度に新しい夫の意見をそのまま自分の考えにして、借りものの人生を生きる女性でしたが、彼は昔の彼ならずの青扇は、女が変わる度に女に合わせるという人物でした。太宰の男女同権も、チェーホフ『煙草の害について』を換骨奪胎した作品です。

 また戦後、太宰は「傑作を書きます。大傑作を書きます。日本の『桜の園』を書くつもりです。没落階級の悲劇です。」と言って、小説斜陽を執筆しています。

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■『斜陽』初版復刻本 1992年(平成4年)、日本近代文学館より『名著初版本復刻 太宰治文学館』として復刻された初版本。

 斜陽が執筆されたのは、1947年(昭和22年)。
 2年前の1945年(昭和20年)12月、GHQ(連合軍総司令部)は「農地改革に関する覚書」を発表。これを受けて日本政府は、翌1946年(昭和21年)2月に農地調整法を改正し、地主、小作人の協議による土地の売買を推し進めました。しかし、GHQはその内容が不徹底であることに強い不満を示し、第二次農地改革が始められました。同年10月に自作農創設特別措置法が公布され、国が地主から買収して、小作人に売却する形が取られ、これによって「寄生地主」が壊滅することになりました。
 また、農地改革と並行して1946年(昭和21年)11月、財産税法も公布されました。これは、極端な累進課税で、翌1947年(昭和22年)3月3日には、強制的に金融申告をすることが義務付けられました。年収10万円以上は25%、1,500万円以上は90%の税率を課すというもので、物納も可能だったため、大地主はこぞって所有していた土地を手放していきました。
 戦禍から逃れ、1945年(昭和20年)7月末から翌年11月まで故郷・津軽疎開していた太宰は、一連の農地改革による地主の土地所有制の解体を目の当たりにし、大きな衝撃を受けたものと思われます。
 津島家も斜陽を迎え、1948年(昭和23年)6月26日、津島家の長兄・津島文治は、当時の金木町長・角田唯五郎に約250万円で家屋敷を売却しています。

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■太宰の生家 1948年(昭和23年)6月に角田氏へ売却されたが、使い道がなかったため、2年後に旅館として開業。現在は、太宰治記念館「斜陽館」として五所川原市の施設となっている。また、近代和風住宅の代表例として2004年(平成16年)に国の重要文化財に指定されている。

 チェーホフ桜の園では、昔ながらの地主貴族だったヒロイン・ラネーフスカヤ夫人が、急変する現実を受け入れることができず、昔の夢におぼれたため、先祖代々の領地を手放さざるを得なくなってしまいます。土地を買い取る成金商人・ロパーヒンの登場や、過去の生活に未練を持たず新しい生活に飛び込んでいく娘・アーニャに未来が託される展開は、太宰の斜陽に通ずる部分です。
 夕映えのごとく消えゆく貴族階級の哀愁が描かれた桜の園を読みながら、太宰は無意識に自身の生家を重ねていたかもしれません。

 実際に斜陽が執筆されたのは、金木での疎開生活を終えて帰京してから約半年後でしたが、太宰の妻・津島美知子は、「作品の構想は既に金木にいる間に芽生えていて、斜陽という題名も定っていた」と回想しています。

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 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
安藤宏太宰治論』(東京大学出版会、2021年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】返事

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今週のエッセイ

◆『返事』
 1946年(昭和21年)、太宰治 37歳。
 1946年(昭和21年)2月9日に脱稿。
 『返事』は、1946年(昭和21年)5月1日発行の「東西」第一巻第二号の「文学的通信」欄に『返事の手紙』と題して発表された。ほかには、『太宰治君への手紙』(貴司山治)、『貴司への返事をかねて』(なかの・しげはる)、『中野重治へ』(貴司山治)が掲載された。

「返事

 拝復。長いお手紙をいただきました。
 縁というものは、妙なものですね。(なんて、こんな事を言うと、非科学的だといって叱られるかしら。うるさい時代が過ぎて、二三日、ほっとしたと思ったら、また、うるさい時代がやって来ました。縁などというのは迷信である。必然的と言わなければならぬ、なんて、一言一言とがめられる、あの右翼のやっかい以前の左翼のやっかい時代が、また来るのかしら。あれももう私は、ごめんです)あなたも作家、私も作家、けれども今まで一度も逢った事は無し、またお互いにその作品を一度も読んだ事のない者どうしが、ふっとした事で、こうして長い手紙を交換する。縁と言ったってかまやしません。
 このたび私の「惜別」が橋になって、あなたから長いお手紙をいただきましたが、私は、たいへんうれしかった。あなたのお手紙の文面が、やさしく正直なのも大きな悦びでありましたが、それよりも何よりも、私にはあのお手紙の長さが有難かったのです。本当にもうこのごろは、お互い腹のさぐり合いで、十年来の友人でも、あいまいな事をちょっとだけ書いて寄こして、あなたみたいに、長い手紙を書いてはくれません。何も用心しなくたっていいじゃないか。私がマ司令に密告するわけじゃあるまいし。
 きょうは、あなたのお手紙の長さに感奮し、その返礼の気持もあり、こんな馬鹿正直の無警戒の手紙を差上げる事になりました。
 私たちは程度の差はあっても、この戦争に於いて日本に味方をしました。馬鹿な親でも、とにかく血みどろになって喧嘩(けんか)をして敗色が濃くていまにも死にそうになっているのを、黙って見ている息子も異質的(エクセントリック)ではないでしょうか。「見ちゃ居られねえ」というのが、私の実感でした。
 実際あの頃の政府は、馬鹿な悪い親で、大ばくちの尻ぬぐいに女房子供の着物を持ち出し、箪笥(たんす)はからっぽ、それでもまだ、ばくちをよさずにヤケ酒なんか飲んで女房子供は飢えと寒さにひいひい泣けば、うるさい! 亭主を何と心得ている、馬鹿にするな! いまに大金持になるのに、わからんか! この親不孝者どもが! など叫喚(きょうかん)して手がつけられず、私なども、雑誌の小説が全文削除になったり、長篇の出版が不許可になったり、情報局の注意人物なのだそうで、本屋からの注文がぱったり無くなり、そのうちに二度も罹災(りさい)して、いやもう、ひどいめにばかり遭いましたが、しかし、私はその馬鹿親に孝行を尽そうと思いました。いや、妙な美談の主人公になろうとして、こんな事を言っているのではありません。他の人も、たいていそんな気持で、日本のために力を尽したのだと思います。
 はっきり言ったっていいんじゃないかしら。私たちはこの大戦争に於いて、日本に味方した。私たちは日本を愛している、と。
 そうして、日本は大敗北を喫しました。まったく、あんな有様でしかもなお日本が勝ったら、日本は神の国ではなくて、魔の国でしょう。あれでもし勝ったら、私は今ほど日本を愛する事が出来なかったかも知れません。
 私はいまこの負けた日本の国を愛しています。(つて無かったほど愛しています。早くあの「ポツダム宣言」の約束を全部果して、そうして小さくても美しい平和の独立国になるように、ああ、私は命でも何でもみんな捨てて祈っています。
 しかし、どうも、このごろのジャーナリズムは、いけませんね。私は大戦中にも、その頃の新聞、雑誌のたぐいを一さい読むまいと決意した事がありましたが、いまもまた、それに似た気持が起って来ました。
 あなたの大好きな魯迅(ろじん)先生は、所謂(いわゆる)「革命」に依る民衆の幸福の可能性を懐疑し、まず民衆の啓蒙(けいもう)に着眼しました。またかつて私たちの敬愛の的であった田舎親爺(おやじ)の大政治家レニンも、常に後輩に対し、「勉強せよ、勉強せよ、そして勉強せよ」と教えていた(はず)であります。教養の無いところに、真の幸福は絶対に無いと私は信じています。
 私はいまジャーナリズムのヒステリックな叫びの全部に反対であります。戦争中に、あんなにグロテスクな嘘をさかんに書き並べて、こんどはくるりと裏がえしの同様の嘘をまた書き並べています。講談社がキングという雑誌を復活させたという新聞広告を見て、私は列国の教養人に対し、冷汗をかきました。恥ずかしくてならないのです。
 どうして、こんなに厚顔無恥なのでしょう。カルチベートされた人間は、てれる事を知っています。レニンは、とても、てれやだったそうではありませんか。(こと)に外国からやって来た素見(ひやかし)の客(たとえば、松岡とか大島とかいう人たち)に対しては、まるでもう処女の如くはにかみ、顔を真赤にしたという話を聞きました。松岡などに逢ったら、多少でも良心のあるひとなら誰でも、へどもどしますよ。それを当の松岡は(これは譬噺(たとえばなし)で、事実談ではありません)レニンに(あき)れられているという事にも気づかず、「なんだ、レニンってのは、噂ほどにも無い男だ、我輩の眼光におされてしどろもどろではないか、意気地が無い!」と断じて、悠然と引上げ、「ああ、やっぱり、ヒットラーに限る! あの颯爽(さっそう)たる雄姿、動作の俊敏、天才的の予言!」などという馬鹿な事になるようですが、私はそのヒットラーの写真を拝見しても、全くの無教養、ほとんどまるで床屋の看板の如く、仁丹(じんたん)の広告の如く、われとわが足音を高くする目的のために長靴(ちょうか)(かかと)にこっそり鉛をつめて歩くたぐいの伍長あがりの山師としか思われず、私は、この事は、大戦中にも友人たちに言いふらして、そんな事からも、私は情報局の注意人物というわけになったのかも知れません。
 はにかみを忘れた国は、文明国で無い。今のソ(れん)は、どうでしょうか。いまの日本の共産党は、どうでしょうか。
 私たちの魯迅先生が、いま生きていたら、何と言われるでしょう。また、プウシキンの読者だったあのレニンが、いま生きていたら、何と言うでしょう。
 またまた、イデオロギイ小説が、はやるのでしょうか。あれは大戦中の右翼小説ほどひどくは無いが、しかし小うるさい点に於いては、どっちもどっちというところです。私は無頼派(リベルタン)です。束縛に反抗します。時を得顔のものを嘲笑(ちょうしょう)します。だから、いつまで経っても、出世できない様子です。
 私はいまは保守党に加盟しようと思っています。こんな事を思いつくのは私の宿命です。私はいささかでも便乗みたいな事は、てれくさくて、とても、ダメなのです。
 宿命と言い、縁と言い、こんな言葉を使うと、またあのヒステリックな科学派、または「必然組」が、とがめ立てするでしょうが、もうこんどは私もおびえない事にしています。私は私の流儀でやって行きます。
 汝等(なんじら)おのれを愛するが如く、汝の隣人を愛せよ。
 これが私の最初のモットーであり、最後のモットーです。
 さようなら。またおひまの折には、おたよりを下さい。しかし、妙な縁でしたね。お大事に。敬具。

 

全文削除となった花火

 エッセイ中で、太宰は「雑誌の小説が全文削除になったり」と書いています。
 この全文削除になった小説とは、花火(のちに日の出前と改題)です。花火は、戦時中の1942年(昭和17年)8月11日頃から、箱根に行き、箱根ホテルに滞在しながら執筆されました。

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箱根ホテル 富士屋ホテルチェーン直営で、1923年(大正12年)開業。創業者・山口仙之助は「外国人の金を取るをもって目的とす」という言葉を残しており、「外国人を対象とした本格的なリゾートホテル」を目指したといいます。

 花火39枚は、もともと加納正吉が編集していた雑誌「八雲」(小山書店発行)のために執筆されたもので、当初は『名月』という題だったそうです。
 同年8月末頃に脱稿されたものと推定されますが、原稿を読んだ加納が「時局にふさわしくない内容」であることを憂慮して掲載が見合わされ、「八雲」には代わりに小説帰去来が掲載されました。帰去来は、1941年(昭和16年)8月17日、故郷の母が衰弱していると聞き、10年振りに故郷へ帰ったときのことを題材に書かれた小説です。

 「時局にふさわしくない」ことを理由に掲載が見送られた花火は、1935年(昭和10年)11月3日の深夜に、東京市本郷区弓町1丁目25番地で実際に起こった事件をモチーフに執筆されました。

 父親の医師・徳田寛(当時52歳)と母親・徳田はま(当時46歳)が共謀して保険金詐欺を企み、日本大学専門部歯科3年在籍の不良だった長男・徳田貢(当時23歳)を、母親と妹・徳田栄子(当時21歳)が惨殺したこの事件は、「日大生殺し」として世上に取り沙汰されました。長男には生命保険3社がかけられており、保険金は66,000円(現在の貨幣価値で1億3,000万円)にも及びました。当時、生命保険はそれほど普及しておらず、妻や他の子供には生命保険はかけられていなかったそうです。日本で最初の保険金殺人事件と言われています。

 太宰は、事件の翌年1936年(昭和11年)2月22日に刊行された『日大生殺し/徳田栄子の手記 ー肉親犯罪の謎を解けー』(第百書房)を入手して執筆したと思われます。同書は「序のことば」「徳田栄子の手記」の諸稿から成っています。

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■一審判決を伝える「東京朝日新聞」記事 1937年(昭和12年)7月20日発行。

 一度掲載が見送られた花火ですが、3ヶ月後の1942年(昭和17年)10月1日発行の総合雑誌「文藝」十月号に発表されました。しかし、「文藝」発売後に「風俗削除処分」が下され、全文削除を命じられます。

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内務省警保局の秘密文書「出版警察報」145号 1942年(昭和17年)10月8日削除処分。処分の理由について、「一般家庭人ニ対シ悪影響アルノミナラズ、不快極マルモノ」とある。

 戦時中の出版検閲は、「善良なる風俗を害する事項」に下される"風俗禁止"と、「共産主義の煽動」に対する"安寧禁止"の2つの基準で運用されていました。
 内務省警保局の秘密文書「出版警察報」には、花火「一般家庭人ニ対シ悪影響アルノミナラズ、不快極マルモノ」であることを理由に削除処分を下したと書かれています。つまり、"風俗禁止"に該当するという判断でした。また、主人公「勝治」が「マルキストヲ友トシ」とも言及されてることから、"安寧禁止"の要素も含まれてると判断されていたようです。

 特別高等警察特高警察)によってでっち上げられた、戦時下最大の思想・言論弾圧事件と言われる横浜事件のきっかけになった細川嘉六の論文『世界史の動向と日本』は、花火発表の前月、前々月の「文藝」八月号、九月号に掲載されており、花火もまた、当時の風潮の中で、格好の的にされたものと思われます。

 全文削除を命じられた花火ですが、4年後の1946年(昭和21年)11月20日に新紀元社から刊行された「薄明」日の出前と改題されて収録されました。

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■『花火』が収録された単行本「薄明」 1992年(平成4年)に日本近代文学館より刊行された『名著初版本復刻 太宰治文学館』。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
日本近代文学館 編『太宰治 創作の舞台裏』(春陽堂書店、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「【公式】箱根ホテル
・HP「「母さん許して!」なぜ“我欲の鬼女”は叫ぶ我が子を出刃包丁でメッタ刺しにしたのか?」(文春オンライン
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】春

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今週のエッセイ

◆『春』
 1945年(昭和20年)、太宰治 36歳。
 1945年(昭和20年)3月6日頃に脱稿。
 『春』は、1945年(昭和20年)春、「藝苑」のために執筆されたが、戦災のため雑誌も出ず、没後、1958年(昭和33年)6月24日発行の「東京新聞」第五七一二号に「未発表遺稿」として「『春』について」(奥野健男)と共に掲載された。

「春

 もう、三十七歳になります。こないだ、或る先輩が、よく、まあ、君は、生きて来たなあ、としみじみ言っていました。私自身にも、三十七まで生きて来たのが、うそのように思われる事があります。戦争のおかげで、やっと、生き抜く力を得たようなものです。もう、子供が二人あります。上が女の子で、ことし五歳になります。下は、男の子で、これは昨年の八月に生れ、まだ何の芸も出来ません。敵機来襲の時には、妻が下の男の子を背負い、私は上の女の子を抱いて、防空壕に飛び込みます。先日、にわかに敵機が降下して来て、すぐ近くに爆弾を落し、防空壕に飛び込むひまも無く、家族は二組にわかれて押入れにもぐり込みましたが、ガチャンと、もののこわれる音がして、上の女の子が、やあ、ガラスがこわれたと、恐怖も何も感じない様子で、無心に騒ぎ、敵機が去ってから、もの音のした方へ行って見ると、やっぱり三畳間の窓ガラスが一枚こわれていました。私は黙って、しゃがんで、ガラスの破片を拾い集めましたが、その指先が震えているので苦笑しました。一刻も早く修理したくて、まだ空襲警報が解除されていないのに、油紙を切って、こわれた跡に張りつけましたが、汚い裏側のほうを外に向け、きれいなほうを内に向けて張ったので、妻は顔をしかめて、あたしがあとで致しますのに、あべこべですよ、それは、と言いました。私は、再び、苦笑しました。
 疎開しなければならぬのですけれど、いろいろの事情で、そうして主として金銭の事情で、愚図々々しているうちに、もう、春がやって来ました。
 ことしの東京の春は、北国の春とたいへん似ています。
 雪溶けの(しずく)の音が、絶えず聞えるからです。上の女の子は、しきりに足袋を脱ぎたがります。
 ことしの東京の雪は、四十年振りの大雪なのだそうですね。私が東京へ来てから、もうかれこれ十五年くらいになりますが、こんな大雪に遭った記憶はありません。
 雪が溶けると同時に、花が咲きはじめるなんて、まるで、北国の春と同じですね。いながらにして故郷に疎開したような気持ちになれるのも、この大雪のおかげでした。
 いま、上の女の子が、はだしにカッコをはいて雪溶けの道を、その母に連れられて銭湯に出かけました。
 きょうは、空襲が無いようです。
 出征する年少の友人の旗に、男児畢生(ひっせい)危機一髪、と書いてやりました。
 忙、閑、ともに間一髪。

 

かぼちゃの花

 今回は、太宰のエッセイ『春』にちなんで、太宰の弟子・小山清(こやまきよし)が書いたエッセイ『かぼちゃの花』を紹介します。ちなみに、かぼちゃの花は、5月中旬から7月上旬頃に開花するそうです。

 小山清(1911~1965)は、東京府浅草区千束生まれの小説家です。
 29歳の時、自作原稿を携えて三鷹の太宰宅を訪れ、以後、太宰に師事します。小山は、その当時仕事にしていた新聞配達のかたわら、度々、太宰宅を訪れました。
 太宰と出会って以降、小山は文筆活動に励むようになり、太宰に原稿を見せては批評を受けていました。太宰の死後、小山は太宰に触れた文章を数多く書いています。

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小山清

 それでは、小山の著書「二人の友」に所収のエッセイ『かぼちゃの花』を引用します。このエッセイの書き出しには、太宰がエッセイ『春』を書いた36歳の頃について触れられています。

 太宰が三十六才の晩秋の頃、私が二度、吉原へ案内した。一度は田中英光(たなかひでみつ)が来ていた。竜泉寺町の飯田さんの古本屋さんは、本所の錦糸堀にある府立三中で堀辰雄と同年であって、夕方から私達は四人、江戸町一丁目の傍のある店で酒を飲んだ。
 タバコはそろそろ無くなったので、その時、私が少しばかりタバコをあげたが、太宰と英光は二人ともに武者振つくほどであった。(くるわ)のある店で、太宰は「みんな、呼ばねえんだよ」と笑っていた。
 甲府疎開していた頃、太宰と私は、よくぶらついていた。病院の二階で女が外を眺めていたが、太宰はそこを通りあわせて、さびしい女の心を、「いいねえ」と言った。
富嶽百景」という作品に、御坂峠へ、色さまざまの遊女たちが、富士を眺めている、暗く、わびしい風景を書いたことがあった。
 田中英光が二十四才で結婚した時、太宰が二十八才で色紙を呉れた。
   はきだめの花
   かぼちゃの花
   わすれられぬなり
    わがつつましき新郎の心を  治
 太宰は千葉船橋に転地して、英光は朝鮮京城にいた。

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 小山のエッセイに登場する田中英光(たなかひでみつ)も、太宰の弟子でした。

 田中英光(1913~1949)は、東京都生まれの小説家です。
 1935年(昭和10年)、田中は早稲田大学政経学部を卒業後、横浜ゴム製造株式会社に入社し、朝鮮京城の同社出張所に赴任しました。同年8月、小説『空吹く風』を同人雑誌「非望」に発表すると、発表間もなく太宰から、「君の小説を読んで、泣いた男がある。(かつ)てなきことである。君の薄暗い荒れた竹藪の中には、かぐや姫がいる。君、その無精髭を剃り給え。」と書かれたハガキを受け取ります。さらに同年12月、太宰はもの思う葦(その一)の中で『空吹く風』を見どころある作品と評価しました。この頃から、太宰への師事がはじまりました。

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田中英光

 田中が太宰から色紙を受取ったのは、1937年(昭和12年)2月。小島喜代と結婚し、朝鮮神宮で挙式をしたことを祝して贈られたものでした。しかし、実はこの段階で、田中と太宰はまだ面識がありませんでした。
 一年が経った1938年(昭和13年)2月、東京本社へ出張となった田中は、杉並区天沼に住んでいた太宰を訪ねますが、不在のため、会うことはできませんでした。
 その後、召集を受けて中国山西省の最前線に従事。1940年(昭和15年)1月に除隊となった後、同年3月に本社販売部勤務となり、単身上京。三鷹を訪れ、初めて太宰と対面しました。
 太宰から最初のハガキを受け取ってから、実に5年後のことでした。

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 【了】

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【参考文献】
小山清『二人の友』(審美社、1965年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】一つの約束

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今週のエッセイ

◆『一つの約束』
 1944年(昭和19年)、太宰治 35歳。
 1944年(昭和19年)頃に脱稿。
 『一つの約束』は、1944年(昭和19年)頃、青森県で発行された雑誌に発表されたものと推定される。この作品には、雑誌切抜が残っている。

「一つの約束

 難破して、わが身は怒涛に巻き込まれ、海岸にたたきつけられ、必死にしがみついた所は、燈台の窓縁である。やれ、嬉しや、たすけを求めて叫ぼうとして、窓の内を見ると、今しも燈台守の夫婦とその幼き女児とが、つつましくも仕合わせな夕食の最中である。ああ、いけねえ、と思った。おれの凄惨な一声で、この団欒(だんらん)が滅茶々々になるのだ、と思ったら(のど)まで出かかった「助けて!」の声がほんの一瞬戸惑った。ほんの一瞬である。たちまち、ざぶりと大波が押し寄せ、その内気な遭難者のからだを一呑みにして、沖遠く(らっ)し去った。
 もはや、たすかる道理は無い。
 この遭難者の美しい行為を、一体、誰が見ていたのだろう。誰も見てやしない。燈台守は何も知らずに一家団欒(だんらん)の食事を続けていたに違いないし、遭難者は怒涛にもまれて(或いは吹雪の夜であったかも知れぬ)ひとりで死んでいったのだ。月も星も、それを見ていなかった。しかも、その美しい行為は厳然だる事実として、語られている。
 言いかえれば、これは作者の一夜の幻想に端を発しているのである。
 けれども、その美談は決して嘘ではない。たしかに、そのような事実が、この世に在ったのである。
 ここに作者の幻想の不思議が存在する。事実は、小説より奇なり、と言う。しかし誰も見ていない事実だって世の中には、あるのだ。そうして、そのような事実にこそ、高貴な宝玉が光っている場合が多いのだ、それをこそ書きたいというのが、作者の生甲斐(いきがい)になっている。
 第一線に於いて、戦って居られる諸君。意を安んじ給え。誰にも知られぬ或る日、或る一隅に於ける諸君の美しい行為は、かならず一群の作者たちに依って、あやまたず、のこりくまなく、子々孫々に語り伝えられるだろう。日本の文学の歴史は、三千年来それを行い、今後もまた、変る事なく、その伝統を継承する。

 

太宰、お気に入りのエピソード

 太宰が生前に語った言葉は、堤重久別所直樹菊田義孝桂英澄戸石泰一小山清など、多くの弟子たちが書き留めていますが、その中の1人に小野才八郎がいます。

 太宰の弟子・小野才八郎(1920~2014)は、青森県北津軽郡嘉瀬村(現在の五所川原市)生まれの小説家です。青森師範学校(現在の国立弘前大学)を卒業後、尋常高等小学校の訓導を経て、2度の徴兵から復員し、青森県の公立小学校に勤務。1945年(昭和20年)11月13日、金木の生家に疎開中の太宰を訪ね、以後師事しました。
 1950年(昭和25年)に上京し、東京都の公立小学校に勤務。1970年代から、文芸雑誌「民主文学」を舞台に創作活動を続けました。太宰の友人・亀井勝一郎の知遇を得て、同人誌「詩と信実」の同人にもなっています。主に、イタコの生涯に取材した作品を執筆しました。また、桜桃忌には、太宰作品を朗読することも多かったそうです。

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■小野才八郎(1920~2014) 現在は、太宰と同じ三鷹禅林寺に眠っている。

 太宰の言葉を多く書き留めた小野の著書太宰治語録から、1つのエピソードを引用します。

  神と作者しか知らぬこと

「私は小説家で、小説のことしか知らない。したがって、君たちに教えることが出来るのはそれだけだ」と言って、太宰さんは、次のような話をしてくれた。
 嵐の夜、難破船から海に飛び込んだひとりの若い水夫が、必死に泳いでやっと岸にたどり着いた。そこは灯台の下だった。やれやれと窓辺にしがみついて中を覗いた。室内ではいましも一家の晩餐が始まろうとしていた。幸福な風景である。自分がいま助けを呼んだらこの幸福はたちまち壊れてしまうと、一瞬(ひる)んだ。そのとき大波が押し寄せて、彼は再び怒涛に吞み込まれてしまう。
「この事を知っているのは誰か。神と作者しかいないのだ」
 当然と言えば当然である。神は別として、作者はこの物語を作った本人なのだから。太宰さんの本意は、作家としてこういう誰も知らない真実を逃してはならない、乃至(ないし)は作れなければならないというところにあった。
 この例話はもちろん太宰さんの創作であろうが、本人は余程これが気に入ったのか、小説に二度、随筆に一度出て来る。珍しいといえば珍しい。

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 「本人は余程これが気に入ったのか、小説に二度、随筆に一度出て来る」という、このエピソード。登場するのは、

 ・小説雪の夜の話(1944年(昭和19年))
 ・随筆『一つの約束』(1944年(昭和19年))
 ・小説惜別(1945年(昭和20年))

の3作品です。
 作品の登場時期は集中しており、太宰が小野に語った時期も同時期であることから、ちょうどこの頃の太宰のお気に入りエピソードだったのかもしれません。

 人間の眼玉は、風景をたくわえる事が出来ると、いつか兄さんが教えて下さった。電球をちょっとのあいだ見つめて、それから眼をつぶっても眼蓋まぶたの裏にありありと電球が見えるだろう、それが証拠だ、それに就いて、むかしデンマークに、こんな話があった、と兄さんが次のような短いロマンスを私に教えて下さったが、兄さんのお話は、いつもでたらめばっかりで、少しもあてにならないけれど、でもあの時のお話だけは、たとい兄さんの嘘のつくり話であっても、ちょっといいお話だと思いました。
 むかし、デンマークの或るお医者が、難破した若い水夫の死体を解剖して、その眼球を顕微鏡でもって調べその網膜に美しい一家団欒だんらんの光景が写されているのを見つけて、友人の小説家にそれを報告したところが、その小説家はたちどころにその不思議の現象に対して次のような解説を与えた。その若い水夫は難破して怒濤どとうに巻き込まれ、岸にたたきつけられ、無我夢中でしがみついたところは、燈台の窓縁であった、やれうれしや、たすけを求めて叫ぼうとして、ふと窓の中をのぞくと、いましも燈台守の一家がつつましくも楽しい夕食をはじめようとしている、ああ、いけない、おれがいま「たすけてえ!」とすごい声を出して叫ぶとこの一家の団欒が滅茶苦茶になると思ったら、窓縁にしがみついた指先の力が抜けたとたんに、ざあっとまた大浪が来て、水夫のからだを沖に連れて行ってしまったのだ、たしかにそうだ、この水夫は世の中で一ばん優しくてそうして気高い人なのだ、という解釈を下し、お医者もそれに賛成して、二人でその水夫の死体をねんごろに葬ったというお話。

(前略)周さんは更にこんな即興の譬話たとえばなしでもって私を啓発してくれた事があった。
「難破して、自分の身が怒濤どとうに巻き込まれ、海岸にたたきつけられ、必死にしがみついた所は、燈台の窓縁。やれ、うれしや、と助けを求めて叫ぼうとして、窓の内を見ると、今しも燈台守の夫婦とその幼い女児とが、つつましくも仕合せな夕食の最中だったのですね。ああ、いけない、と男は一瞬戸惑った。遠慮しちゃったのですね。たちまち、どぶんと大波が押し寄せ、その内気な遭難者のからだを一みにして、沖遠くらっし去った、とまあ、こんな話があるとしますね。遭難者は、もはや助かる筈はない。怒濤にもまれて、ひょっとしたら吹雪ふぶきの夜だったかもしれないし、ひとりで、誰にも知られず死んだのです。もちろん、燈台守は何も知らずに、一家団欒だんらんの食事を続けていたに違いないし、もし吹雪の夜だとしたら、月も星も、それを見ていなかったわけです。結局、誰も知らない。事実は小説よりも奇なり、なんて言う人もあるようですが、誰も知らない事実だって、この世の中にあるのです。しかも、そのような、誰にも目撃せられていない人生の片隅に於いて行われている事実にこそ、高貴な宝玉が光っている場合が多いのです。それを天賦てんぷの不思議な触角で捜し出すのが文芸です。文芸の創造は、だから、世の中に表彰せられている事実よりも、さらに真実に近いのです。文芸が無ければ、この世の中は、すきまだらけです。文芸は、その不公平な空洞を、水が低きに流れるように自然に充溢じゅういつさせて行くのです。」
 そんな話を聞かせてもらうと、私のような野暮やぼな山猿にも、なるほど、そんなものか、やはりこの世の中には、文芸というものが無ければ、油の注入の少い車輪のように、どんなに始めは勢いよく廻転しても、すぐにきしって破滅してしまうものかも知れない、と合点が行くものの、しかし、また一方、あんなに熱心に周さんの医学の勉強を指導して下さっている藤野先生の事を思うと、悲しくなって、深い溜息ためいきの出る事もあるのである。

 同じエピソードであっても、引用の仕方によって、全く異なる印象を与えるところが秀逸です。

 【了】

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【参考文献】
・小野才八郎『太宰治語録』(津軽書房、1998年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「青森県立図書館・青森県立文学館
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】金銭の話

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今週のエッセイ

◆『金銭の話』
 1943年(昭和18年)、太宰治 34歳。
 1943年(昭和18年)9月中旬頃に脱稿。
 『金銭の話』は、1943年(昭和18年)10月1日発行の「雑誌日本」の随筆欄に発表された。なお、この作品には、著者書入のある雑誌切抜が残っている。

「金銭の話

 宵越しの金は持たぬなどという例の江戸っ子気質は、いまは国家のためにもゆゆしき罪悪で、なんとかして二、三千円も貯金してお国の役に立ちたいと思うものの、どういうわけかお金が残らぬ。むかしの芸術家たちには、とかく貯金をいやしむ風習があって、赤貧洗うが如き状態を以て潔しとしていた様子であったが、いまはそのような特殊の生活態度などはゆるされぬ。一億国民ひとしく貯蓄にいそしまなければならぬ重大な時期であると、厳粛に我が身に教えているのだが、どういうわけか、お金が残らぬ。私には貧乏を誇るなんて厭味な、ひねくれた気持はない。どうかして、たっぷりとお金を残したいものだと、いつも思っている。恒産があれば恒心を生ずるという諺をも信じている。貧乏人根性というものは、決していいものではない。貯金のたくさんある人には、やっぱりどこか犯しがたい雅操がある。個人の品位を保つ上にも貯金は不可欠のものであるのに、更にこのたびの大戦の完勝のために喫緊のものであるのだから、しゃれや冗談でなく、この際さらに一段と真剣に貯蓄の工夫をこらすべきである。少し弁解めくけれども、私の職業は貯蓄にいくぶん不適当なのではあるまいか、とも思われる。はいる時には、年に一度か二度、五百円、千円とまとまってはいるのだが、それを郵便局あるいは銀行にあずけて、ほっと一息ついて、次の仕事の準備などをしている間に、もう貯金がきれいに無くなっている、いつのまにやら、無くなっているのである。こまかい事は言いたくないが、私の生活などは東京でも下層に属する生活だと思っている。文字どおりの、あばらやに住んでいる。三鷹の薄汚い酒の店で、生葡萄酒なんかを飲んで文学を談ずるくらいが、唯一の道楽で、ほかには、大きなむだ使いなどをした覚えはない。学生時代には、ばかな浪費をした事もあるが、いまの家庭を営むようになって以来は、私はむしろ吝嗇(りんしょく)になった。けれども、どうもお金が残らぬ。或いは、私は、貧乏性というやつなのかも知れない。一文惜しみの百失いというやつである。一生お金の苦労からのがれられぬ宿業を負って生れて来たのかも知れない。私の耳朶(じだ)は、あまり大きくない。けれども、それだからとて、あきらめてはいけない。お国のためにも、なんとかして工夫をこらすべき時である。結局、私は、下手なのである。やりくりが上手でないのであろう。再思三省すべきであろう。
 私は西鶴の「日本永代蔵」や、「胸算用」を更に熟読玩味する事に依って、貯蓄の妙訣を体得しようと思い立った。西鶴は、いろいろと私には教える。
「人の家にありたきは、梅桜松楓、それよりは金銀米銭ぞかし、庭山にまさりて庭蔵の眺め、」と書いてある。全く賛成である。そうして西鶴は、さまざまな貯蓄の名人の逸事を報告しているのである。
「この男一生のうち草履の鼻緒を踏み切らず、釘のかしらに袖をかけて破らず、よろずに気を付けて其の身一代に二千貫しこためて、行年八十八歳、」で大往生した大長者の話や、または、「腹のへるを用心して、火事の見舞いにも早く進まぬ」若旦那の事や、または、「町並に出る葬礼には、是非なく鳥部山におくりて、人より跡に帰りさまに、六波羅の野辺に奴僕(でっち)もろとも苦参(とうやくを引いて、これを陰干にして腹薬になるぞと、ただは通らず、けつまづく所で燧石(ひうちいし)を拾いて袂に入れける、朝夕の煙を立つる世帯持は、よろず此様に気を付けずしてはあるべからず、此の男、生れ付いて(しは)きにあらず、万事の取りまわし人の(かがみ)にもなりぬべきねがい、(中略)よし垣に自然と朝顔の生へかかりしを、同じ眺めには、はかなき物とて刀豆(なたまめ)に植えかえける。娘おとなしく成りて、やがて嫁入屏風を(こしら)えとらせけるに、洛中づくしを見たらば見ぬ所を歩行(ありき)たがるべし、源氏伊勢物語は心のいたずらになりぬべき物なりと、多田の銀山(かなやま)出盛りし有様書せける」などの殊勝な心掛けの分限者の事やら、「ぬり下駄片足なるを水風呂の下へ焼く時つくづくむかしを思出し、まことに此の木履は、われ十八の時この家に嫁入せし時、雑長持に入れて来て、それから雨にも雪にもはきて、歯のちびたるばかり五十三年になりぬ、われ一代は一足にて(らち)を明けんと思いしに、惜しや片足は野良犬めに(くわ)えられ、はしたになりて是非もなく、きょう煙になす事よと四五度も繰りごとを言いて、」やがて、はらはらと涙を流す隠居の婆様の事など、あきれるばかり事こまかに報告しているのである。すべて、仰望して以て手本となすべき人たちの行跡である。
 私は熟読して、それから立って台所へ行き、何かむだは無いかと、むずかしき顔をして四方を見廻せども、足らぬものはあっても、むだのようなものは一つも発見できなかった。
 一億国民、いまはこの西鶴の物語の中にある大長者たちの如く、こまかき心使いして生活をしているのである。私の狭い庭に於いても、今はかぼちゃの花盛りである。薔薇の花よりも見ごたえがあるようにも思われる。とうもろこしの葉が、風にさやさやと騒ぐのも、なかなか優雅なものである。生垣には隠元豆の(つる)がからみついている。けれども、どうしてだか、私には金が残らぬ。
 どこかに手落ちがあるのだ。或る先輩が、いつか、こうおっしゃった事がある。
「自分の収入を忘れているような人でなくちゃお金が残らぬ。」
 してみると、金銭に淡白な人に、かえってたくさんお金がたまるのかも知れない。いつもお金にこだわって、けちけちしている人にはかえってお金が残らぬものらしい。
 純粋に文章を創る事だけを楽しみ、稿料をもらう事なんぞてんで考えていないような文人にだけ、たくさんの貯金が出来るのかも知れない。

 

太宰自身の「金銭の話」

 太宰の妻・津島美知子は、太宰が「貯金や保険は絶対しない主義だと言明」しており、「生前を通して、死の前後に至るまで税金を納めた記憶がない。一戸構えていて最低限の住民税くらいは納めていた(はず)なのだが、思い出せない。」と回想します。

 太宰は長い間、故郷・津軽から月額90円の仕送りを受けていました(当時の大卒初任給が70~80円)。太宰は、今でこそ「ベストセラー作家」のイメージが強いですが、当時は「知る人ぞ知る作家」でした。
 当時の太宰の様子は「早く仕送りが止まっても困らないようにならなければ、と言うかと思えば、自分がいくら金を遣ったといっても、長兄の遣った金の方がずっと大きいのだ、などとも言い、仕送りを辞退して立派なところを見せたくもあるものの、やはりペン一本に頼る生活には不安な様子であった。」という感じだったそうです。

 美知子は「太宰は裕福な地主の家で育って、自分のかせぎで得た金で生活してゆくべきだとは、考えていなかったと思う。戦前、二人の兄は職についたこともあるが、名誉職のようなもので、報酬を生活費に充てるための「職」ではない。太宰が自分の天分を生かして得た金を特別輝かしいものに考え、これは全部自分の自由に遣ってよい小遣だ、と考えていたのも育ちからいって当然で、これが彼の経済観念のもとになっている。」と分析しています。太宰を慕う来訪客も多く、その接待費にも、多くの収入や仕送りが使われていたことでしょう。
 しかし、美知子は「所帯を持って以来、生活費に窮したことも、質屋に走ったこともない。」とも言っています。

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■太宰と長女・園子を抱く妻・美知子

 

 戦後、小説斜陽がベストセラーになったことで、「知る人ぞ知る作家」だった太宰は、「流行作家」の仲間入りを果たし、大きな転機を迎えます。
 「書けば必ず売れ、印税も時折入るようになってから、太宰は自分の財産は作品だ」と言うようになりました。「銀行も、郵便局も、金の用事はぜんぶ自分でとりしきり、始終、闇商人が出入りして、闇の品を買い入れて」いたといいます。
 しかし、その反面、終戦という大変動機に際会し、仕送りが終止し、地主階級が没落」するという故郷の大きな変化もありました。

 こんな状況の中、1948年(昭和23年)2月に事件が起こります。
 美知子の著書回想の太宰治から引用します。

 武蔵野税務署から、昭和二十三年二月二十五日付で、前年の所得金額を二十一万円と決定したという通知書と、それにかかる所得税額十一万七千余円、納税期限三月二十五日限という告知書が届いたのである。二十一万の所得に対して半分以上の税額とはひどいが、申告しなかったために出た数字であろうか。

 

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■納税告知書及び領収済通知書 1948年(昭和23年)3月25日が振込期限の振込書。所得金額11万7,702円。同年の文学者高額所得番付で、太宰は4位でした(1位は吉川英治)。

 

 (中略)
 彼の身辺には当時難問題が起こって金の必要も切迫していた。前年の夏、全集の出版を契約した社から、いくらかまとまった金を前払いしてもらって住宅資金に当てたいと、私は切望していたのだが、太宰がうかつに選んだその社からは、前払いどころか二十二年の年末から月々一万円くらいを受けとっているだけだった。太宰の周囲にはいつも人がいて、なかなか税金のことについて話し合う時がない。通知書を受けとって一月以内なら、審査の請求ができると注意書にあるのだが、彼は税金のことを放置したまま長篇を書くため熱海に行ってしまって、帰京したときは、審査請求の期限がきれていた。ともかく武蔵野税務署に行ってみる方がよいのでは、と私は勧めた。初めてのことで、太宰本人でなくてはいけないとふたりとも思っていた。太宰は税務署からの通知書を前にして泣いた。そのころ、心身ともによほど弱っていたのだと思う。正月にも、井伏先生のお宅に年始に伺って、それもしぶっているのを毎年の例だからと、押し出すようにしたのだが、帰ってから茶の間で泣いた。みんなが寄ってたかって自分をいじめる、といって泣いた。その泣き方は彼自身が形容している通り、メソメソという泣き方で、坊っちゃんが外で腕白共にいじめられて泣いて訴えているのと同じで、正月にはなんとかなだめて力づけて元気を回復したように見えた。が、税金のこととなると、ふだんいくら入って、どのように消費されているのか知らないのだから、私も途方にくれるばかりである。
 自分のように毎日、酒と煙草で莫大な税金を納めている者が、この上、税金を納めることはない、と駄々ッ子のように言う太宰に私はもうあきらめて、それでは何か書いてくだされば、それを持って行きますからと言った。太宰は原稿用紙に書いた。

     審査請求書
      明治四十二年六月十九日生
      太宰治(著述業)
      都下三鷹下連雀一一三
さきに納税額の通知書を受取りましたが、別紙の如く、調査費の支出(たとえば、旅行、探訪、資料入手等のための支出)おびただしき上に、昨年は病気ばかりして、茅屋に子供たくさん、悲惨の日常生活をしてまいりまして、とても、納入の可能性ございません、よろしく茅屋に御出張の上、再審査のほど願い上げます。
所得金額
 拾万円也、
    内、原稿料、三万円也
      著者印税、七万円也
旅行、探訪、参考書、資料集め、等の著述業に必ずつきまとう諸支出の残りの、昨年昭和二十二年の全所得、右の通りである事を保証します。
  昭和二十三年四月一日
 武蔵野税務署長殿

 

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■審査請求書

 

 自分で保証します、というのもへんだが、太宰という人はそういう人なのである。いろいろ税務署に泣き言を並べているが、弱虫の太宰がこの当時ほど弱っていたことはない。
 前の年の三月末、二女が生まれた。この頃まではぴんとしていた。出生届に元気よく役場に出かけた姿が目に残る。その姿勢が崩れ始めたのは五月頃からである。被害妄想が(こう)じて、むやみに人を恐れたり、住所をくらましたりする日常になっていた。
 私は太宰の書いた「審査請求書」を武蔵野税務署に持参して、用件を話したが、金の出入りを具体的に細かく書いてくるようにとのことで、四月五日に再び行った。長女の入学式の日だった。学校から帰り、大映に用件があって出かける太宰を送り出してから申告を書いたが、自分が関わっていない金のことなので、記入に苦しみ、乳母車に下の歩けない子二人を乗せて、吉祥寺の奥の税務署に着いたのはもう役所の閉まる間際であったが、このときたいへん親切に受理してもらえてホッとしたことを覚えている。けれどもこれで終ったわけではなくて、税金はこのあと国税局へ廻って五月末に呼び出し状が届いた。
 その前、四月二十四日「審査請求中でも税金の徴収は猶予致しません」という通知書の注意書に従って税務署員が来訪し、私は太宰の留守中に届いていた印税から二千円を支払った。延滞金がその日までに二千円になっていた。

 

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■領収証書 太宰の留守中に税務署員が来訪した際、美知子が届いていた印税から2,000円を支払い、残額が11万5,702円となったが、手数料5円、延滞金が1,647円となっていた。

 

 五月二十九日私は国税局へ行った。千代田区代官町という所だったと思う。九段から濠を渡って田安門から入って、いま日本武道館が建っている右手あたりではなかったろうか。臨時の旧兵舎か何かのような古びた木造二階建であった。係の役人から、収支明細書を書き直してくるように言われてその日は帰った。相談しようにも外泊して帰宅しないから、三十一日の朝、自分で書いて計算して、また国税局に行った。係の方と面談したのは昼近くである。鋭く()かれるが、もともと推察だけで書きこんだ数字だから、しどろもどろである。答に窮して苦しい何分間かの面談がやっと打ちきられて、椅子から立ち上がり、出入り口に向かおうとしたとき、初老の和服の方が私の次の順番を待っていたらしく、壁と机の間に立っていた。私はその方の前の狭い空間を、上半身を(かが)めてすり抜けた。鉄無地の夏羽織に袴を召した、肥った立派な方であった。
 廊下のベンチで、赤子に乳をのませて負い直して帰途についた。
 飯田橋駅に向かって、富士見町の商店街の坂道をくだりながら、誕生過ぎの背の子はぐっすり寝入り、初夏のような強い陽ざしに(あわせ)の背は気味わるく汗ばんだ。連日の寝不足と気疲れが一度に押し寄せてきて、半ば朦朧(もうろう)となった私に、子供のとき観たアメリカ映画の名女優が演じた底無し沼に足を踏みこんで、あがけばあがくほど、ずるずる沈んでしまう恐怖の一シーンが浮かんだ。

 六月二日の夜、国税局の係の方が来訪したので太宰の行きつけの酒の店「千草」に案内した。六月に入ってから雨つづきで、ひどいぬかるみの道であった。このとき係の方と太宰との間に、どんな話し合いがあったか私は知らない。未解決の問題をいくつか残して十四日に太宰は死んだ国税局の方々も驚いたことだろう。しかしこの税金のことが、死の原因の一つになっているとは思われない。税金のことは私に一任したと考えていたと思う。

 

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■所得金額訂正取消通知書 太宰が亡くなって半年後、1948年(昭和23年)12月22日付。太宰が「審査請求書」に記載した10万円に近い、133,200円に訂正された。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団 編集・発行『平成三十年度特別展 太宰治 三鷹とともに ー太宰治没後七十年ー』(2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】わが愛好する言葉

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今週のエッセイ

◆『わが愛好する言葉』
 1943年(昭和18年)、太宰治 34歳。
 1943年(昭和18年)6月末か7月初め頃に脱稿。
 『わが愛好する言葉』は、1943年(昭和18年)7月28日発行(八月号)の「現代文學」第六巻第八号の特集随筆「わが愛好する言葉」欄に発表された。この欄には、ほかには、「三つの文」(高木卓)、「好きな詩歌抄」(木山捷平)などが掲載された。

「わが愛好する言葉

 どうも、みんな、()い言葉を使い過ぎます。美辞を姦するおもむきがあります。鷗外がうまい事を言っています。
「酒を傾けて酵母を啜るに至るべからず。」
 故に曰く、私には好きな言葉は無い。

 

真相「生れて、すみません。」

 今回のエッセイで、太宰が引用している森鷗外の"名言"「酒を傾けて酵母を啜るに至るべからず。」。これは、「いくら酒が好きだからといって、酒よりも酵母の味わいを美味いと感じるようになってしまっては行き過ぎである。ものの好きにも限度がある」という意味です。太宰は、これに続けて「故に曰く、私には好きな言葉は無い。」と締め括っていますが、太宰が記した数多くのフレーズの中にも"名言"が多くあります。
 今回の文末コラムでは、太宰の"名言"の中でも有名な「生れて、すみません。」の真相について紹介します。


 1936年(昭和11年)10月、太宰はパビナール中毒療養のために、東京武蔵野病院閉鎖病棟に収容され、約1ヶ月間入院します。「生れて、すみません。」は、退院直後の1937年(昭和12年)1月1日付発行の「改造」新年号に発表された短篇二十世紀旗手エピグラフとして掲げられました。

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■『二十世紀旗手』初版復刻版 1992年(平成4年)、日本近代文学館より刊行された「名著初版本復刻 太宰治文学館」。

 「生れて、すみません。」は、太宰の文学と生き様を象徴する言葉として紹介されることも多いですが、実はこの言葉、太宰のオリジナルではありません。
 
太宰が二十世紀旗手エピグラフにこのフレーズを掲げることになった経緯を、親友・山岸外史の著書人間太宰治に収録されている「"生れてすみません"について」から引用して紹介します。

 その夜のことも、ぼくは、かなり明確におぼえている。
 秋だったか、夏だったかは忘れているが、単衣(ひとえ)だった記憶だけはある。ぼくと太宰とが、銀座にむかって歩いていたときのことである。昭和十一年であることに間違いは無い。太宰が「二十世紀旗手を書く直前であった。神田から歩きだしたのか、東京駅から歩きだしたのか、それはよくおぼえていないが、とにかく、京橋を渡りおえたときのことである。柳の並樹が影のようにならんでいた。その歩道の人混みのなかを歩いていたとき、ぼくはふと(、、)太宰に〈生れてすみません〉という一句の話をはじめたのである。その題は、〈遺書〉で、ただ一行だけの詩であった。ぼくの従兄弟の寺内寿太郎の作品であった。ぼくはその寺内君の奇癖の紹介など含めながらこの一句の話をはじめたようにおぼえている。(この句を太宰が自分の作品「二十世紀旗手の副題に無断で使用してしまったのである。)
 (中略)
 ぼくはその日、太宰に、この寺内寿太郎の話をしながら、〈生れてすみません〉の詩を紹介したのである。
「遺書という題だが、それには、ルビを振って、遺書(かきおき)と読ませる仕組になっているようだ。しかし、なかなかいい句だと思う」ぼくは太宰にいった。「遺書(いしょ)で十分いいと思うのだが、本人は、遺書(かきおき)でなければいけないというのだ」――しかし遺書(かきおき)の方が、古風な情緒がでてよかったようである。
 (中略)
 太宰は、銀座通りの人混みのなかを歩きながら、黙ってその話を聞いていたが、やがてぽつりと、「なかなかいい句だね」といった。太宰もこの句にはなにか深く思いあたるものがあったようだが、それほど単純に、またそれほど簡単に讃めただけで、あとは言葉すくなかったことをおぼえている。その夜は、そんなことで、さらに、話題が他に移っていったのだが、それだけにかえって、太宰にはこの句の感銘が深かったのだろうとぼくは考えるのである。「なかなかいい句だね」しかし太宰としては絶讃なのである。
 (中略)
 しかし、ぼくは、まさか、太宰が、この〈生れてすみません〉の一句をそのまますぐ自分の小説「二十世紀旗手の副題として使用するとは夢にも考えていなかったのである。しかも、今日この句は完全に彼の創作だと思われているように思う。

 「生れて、すみません。」の本当の生みの親は、山岸の従兄弟・寺内寿太郎でした。

 寺内は、川柳なども上手く、当時流行していた探偵小説などの創作にも凝ったことのある慶應大学理財課出身のサラリーマンで、父を幼い時に日露戦争で亡くし、親戚間を転々とした後、叔父の世話で大学を出してもらってから、母親と二人で暮らす、というような生活を送っていました。
 外に対して自分を一貫して主張する行動力に欠け、引き籠りがちなところもあったそうです。伊豆の天城の山中で自殺を図り、親戚の捜索隊に引き戻されるという事件の後、母親と一緒に親戚を頼って岩手県宮古に移り、漁業組合の書記のような仕事で生計を立てるという生活を数年送った後、帰京した寺内に山岸が見せられた7、8篇の詩の中の1つが「生れて、すみません。」でした。
 「ひどく寡作だね」と山岸が言うと、「煮つめてしまうと、数はすくなくなるものだ」と寺内は答えたそうです。
 寺内は太宰の小説を読んでおり、太宰の才能をかなり早い段階から認めていたそうです。

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二十世紀旗手冒頭に掲げられた「ー(生れて、すみません。)」

 それから何ヵ月くらいたったのか記憶ははっきりしていないが、おそらく、一二ヵ月後のことではなかったかと思う。ある日、寺内君が蒼くなって、千駄木町のぼくの家に駆けこんできたのである。血相を変えていた。「外史君、太宰治も、ひどすぎやしないか」といいはじめた。あきらかに、ひどく性急(せき)こんでいた。寺内君としては珍らしく激していた。事情をきいてみると、〈生れてすみません〉の一句を、太宰が自分の作品「二十世紀旗手の副題として盗んでいるというのである。「今月の改造にそのまま載っているのだ」といった。
「これはどうあっても、外史君が関係している。それ以外に、太宰治にあの詩がつたわるはずがない。君の責任を問う」といってきかなかった。寺内君は太宰とぼくとの交友をよく知っていたのである。そして彼は、書店でそれを知ったばかりであった。その足で駆けつけてきたのである。もしそれが事実だとすれば、太宰もずいぶんばかなことをやったものだとぼくも思ったが、どういう処置にしたらいいのかと考えた。作品「二十世紀旗手は、太宰の当時の苦悩をまるだしにしている作品だが、太宰がこの一句を副題としてどうしても欲しかったのだとしても、これが、原作者から無断盗用であることにまちがいはなかった。おまけにこの詩稿が未発表のものであったばかりか、寺内君が、まったく無名の詩人であったから、いっそう具合がわるかった。「生命(いのち)を盗られたようなものなんだ」寺内君が蒼い顔をしていった。
 話をしている間に、ぼくが教唆者でないことだけは寺内君にも次第に解っていったが、寺内君はほんとに暗い顔になった。「駄目にされた。駄目にされた」寺内君は呟くように何回もくりかえした。その言葉がぼくの心にも実感的に響いたものである。
「あの句が君の句であることの証明をぼくがやろう」
 やがてぼくがいった。
「しかし、どんな形で証明する。もう(おそ)すぎる。もう駄目だ」寺内君がいった。「取りかえせばいいのだ。なにかの機会に、文章で、あれは、太宰の盗用だと発表しよう」ぼくは寺内君を(なだ)めながら約束した。むろん寺内君はひどく渋っていたが、それより方法がなかった。ことによると、こんなことで寺内君は、スタートの白線のところで転んでしまったのかも知れない。言葉には生命(いのち)があるとぼくは思っているが、しかし、仕方のないことであった。戦後まもなく八雲書店からでた太宰のはじめての全集のなかに、ぼくは折り込みとしてそのことを書いたのである。戦時中はその機会がなかった。その証明はひどく晩すぎたのである。太宰も死んでいたし、寺内君も行方不明になっていた。
 しかし、当時このことは寺内君にかなりの痛手を与えたものである。寺内君も何年間も愛蔵していた句を失ったのだから無理もないことだと思う。そして、その日、話はこんな形で、だいたい決着がついたのだが、寺内君はまったく銷沈(しょうちん)していった。寺内君はこの頃、その詩をのせる同人誌なども探していたのである。悲劇的な状態があった。しかも、ぼくはそのとき、そんな寺内君とは反対に、いつしか可笑しくなって、不逞にも大いに笑ったりしはじめたものである。ひとの災難を笑ったのではないが、どこかに太宰を(かば)おうとする心理が働いていたのかも知れない。

 1937年(昭和12年)1月1日発行の「改造」新年号に掲載されている二十世紀旗手のエピグラムに自分の詩が掲げられているのを見た寺内。正月早々に取り乱した寺内の心境は、想像に難くありません。
 山岸はこの後、太宰に寺内の反応を告げるのですが、その時の太宰の反応は、次のようなものでした。

 あとになって太宰にこの話をして忠告すると、太宰は「ウムウム」とたしかにぼくの話を胡麻化しながら聞いていたが「じつは、いつとはなく、あの句は山岸君のかと錯覚するようになっていたのですよ」といった。その真偽はまったく不明だったが、太宰はそんな言い方をした。それから「山岸君。どうしたらいいのかね。わるいことをしたな」といった。周章(あわ)てていた。「いまさら仕方がないから、機会をみてぼくが証明文を書くことにしたのだ」とぼくがいった。(そして、戦争となって、その機会は、なかなかやってこなかったのである。また、そういう文章をのせてくれる雑誌はなかった。)そして、たしかに当時、ぼくたちの間には黙契があって、二人の会話のなかから生れた言葉で、その発言者がどちらであったか不明になったような言葉は、早い者勝ちに使用していいことに決めていたのである。早く発表したものの所有になるということである。しかし、それにしても、あの句がぼくの句ではないことは、太宰は知っていたはずだと思う。太宰はこの日、一作だけではあったが、ある先輩作家の代作をやった話などしたところをみると、この頃の太宰には、すこしルーズなところもあったような気がするのである。

 基本的には太宰を(かば)う山岸ですが、「あの句がぼくの句ではないことは、太宰は知っていたはずだと思う」と、擁護しきれない部分もあるようです。

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■寺内寿太郎の従兄弟・山岸外史

 

 太宰に生命(いのち)を盗られた」寺内はその後、どのような人生を送ったのでしょうか。

 寺内君は、その頃から憂鬱症が高じていった。むろん、ここにだけ原因があるとは思わないが、四年ぶりで上京してきて甦生を夢みていた寺内君は、それからそれへと失敗をかさねていった。ついに、敗北者になったのである。敗北に敗退をかさねたといえる。ひとが変ったように暗い無口の人物になった。借家の二階の自分の室を内側から釘づけにしたりした。血縁までひどく(きら)って、階下にいる母親と顔をあわせることさえ忌避した。窓に梯子をかけて自分だけが自分の室に出入りしたのである。ひどく肩を凝らし、首まで太くなり、虚ろな眼つきをするようになった。その後も何回か家出して、いつか行方不明になった。文字どおりに〈生れてすみません〉の作者になったのである。
 戦後まもない頃、寺内君を知っているぼくの知人が、まちがいなく彼と思われる人物を、品川駅のプラットホームの群集のなかでみている。破れたソフト帽をかぶり、汚れきったYシャツに汚れきった背広を着て、遠く地平線でもみているような虚ろな眼つきをして立っていたという。
「すこしおかしいことになっていたのじゃなかろうか」と知人はいったが、それっきり、今日にいたるまで、彼の消息は絶えているのである。〈生れてすみません〉が彼の絶句だったのである。
 そしてこれが、〈生れてすみません〉の原作者の真の姿である。じつをいえば、太宰その人も、この句をはたしてどこまで越えることができたか、ぼくはふとそれを考えることがある。

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 【了】

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【参考文献】
・山岸外史『人間太宰治』(ちくま文庫、1989年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
長部日出雄桜桃とキリスト もう一つの太宰治伝』(文春文庫、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】炎天汗談

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今週のエッセイ

◆『炎天汗談』
 1942年(昭和17年)、太宰治 33歳。
 1942年(昭和17年)6月末から7月初め頃までに脱稿。
 『炎天汗談』は、1942年(昭和17年)7月11日発行の「藝術新聞」第五百七十四号の第二面に発表された。この面には、ほかに「無礼な奴」(島田墨仙)、「画人の文章」(郷倉千靱)が掲載された。

「炎天汗談

 暑いですね。ことしは特に暑いようですね。実に暑い。こんなに暑いのに、わざわざこんな田舎にまでおいで下さって、本当に恐縮に思うのですが、さて、私には何一つ話題が無い。上衣をお脱ぎになって下さい。どうぞ。こんな暑いのに外を歩くのはつらいものです。パラソルをさして歩くと、少したすかるかも知れませんが、男がパラソルをさして歩いている姿は、あまり見かけませんね。
 本当に何も話題が無くていけません。()の話? それも困ります。以前は私も、たいへん画が好きで、画家の友人もたくさんあって、その画家たちの作品を、片端からけなして得意顔をしていた事もあったのですが、昨年の秋に、ひとりでこっそり画をかいてみて、その下手さにわれながら呆れてそれ以来は、画の話は一言もしない事にきめました。このごろは、友人の作品にも、ひたすら感服するように心掛けています。
 これは、画の話ではありませんが、先日、新橋演舞場文楽を見に行きました。文楽は学祭時代にいちど見たきりで、ほとんど十年振りだったものですから、れいの栄三、文五郎たちが、その十年間に於いて、さらに驚嘆すべき程の円熟を芸の上に加えたであろうと大いに期待して出かけたわけですが、拝見するに少しも違っていない。十年前と、そっくりそのまま同じでした。私の期待は、はずれたわけですが、けれども、私は考え直しました。この変っていないという一事こそ、真に驚嘆、敬服に値すべきものではないか。進歩していない、というと悪く聞えますが、退歩していないと言い直したらどうでしょう。退歩しないという事は、之はよほどの事なのです。
 修行という事は、天才に到る方法ではなくて、若い頃の天稟(てんぴん)のものを、いつまでも持ち堪える為にこそ、必要なのです。退歩しないというのは、これはよほどの努力です。ある程度の高さを、いつまでも変らずに持ちつづけている芸術家はよほどの奴です。たいていの人は年齢と共に退歩する。としをとると自然に芸術が立派になって来る、なんてのは嘘ですね。人一倍の修行をしなけれあ、どんな天才だって落ちてしまいます。いちど落ちたら、それっきりです。
 変らないという事、その事だけでも、並たいていのものじゃないんだ。いわんや、芸の上の散歩とか、大飛躍というものは、ほとんど製作者自身には考えられぬくらいのおそろしいもので、それこそ天意を待つより他に仕方のないものなのだ。紙一重のわずかな散歩だって、どうして、どうして。自分では絶えず工夫して進んでいるつもりでも、はたからはまず、現状維持くらいにしか見えないものです。製作の経験も何もない野次馬たちが、どうもあの作家には飛躍が無い、十年一日の如しだね、なんて生意気な事を言っていますが、その十年一日が、どれだけの修行に依って持ち堪えられているものかまるでご存じがないのです。権威ある批評を思ったら、まず、ご自分でも或る程度まで製作の苦労をなめてみる事ですね。
 どうも暑いですね。こんな暑い日にはいっそドテラでも着てみたら、どうかしら。かえって涼しいかも知れない。なにしろ暑い。

 

絵筆を執る太宰

 エッセイの冒頭で()の話? それも困ります。以前は私も、たいへん画が好きで、画家の友人もたくさんあって、その画家たちの作品を、片端からけなして得意顔をしていた事もあったのですが、昨年の秋に、ひとりでこっそり画をかいてみて、その下手さにわれながら呆れてそれ以来は、画の話は一言もしない事にきめました。このごろは、友人の作品にも、ひたすら感服するように心掛けています。」と書く太宰ですが、小説を書くペンを絵筆に持ち替え、実際に絵を描くこともありました。
 しかし、太宰は自身のアトリエや絵筆を持つことはなく、青年期からの友人のアトリエや、三鷹駅前に住む画家・桜井浜江のアトリエで、心を許す知人との交流中に絵筆を執り、即席で絵を仕上げました。

 

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■《久富君像》 昭和11年~12年頃/油彩、スケッチ板(スケッチ板にカンヴァスが貼りつけられている)/佐賀大学美術館蔵/180×137

 この絵のモデルは、画家・久富邦夫(1912~2010)です。
 1940年(昭和15年)11月5日の午後9時30分、「短篇ラジオ小説」で太宰のある画家の母(のちにリイズと改題)がJОAK放送されましたが、この“ある画家”のモデルが、太宰が三鷹時代以前から交流を育んだ、久富です。太宰より3歳年下の久富は、太宰と出会った頃は、帝国美術大学に通う画学生でした。
 太宰は、久富の前で酔筆を走らせることも多く、《久富君像》も、その時に描かれた1枚です。この絵は、久富の画室に終生掛けられていました。
 また、久富は、太宰の義弟・小舘善四郎とも親しく、交流がありました。

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■久富邦夫(右)と小舘善四郎(左)

 

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■《風景(小)》 昭和14年頃/油彩、キャンバスボード/156×225

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■鰭崎潤 画・太宰治 賛《風景》 鰭崎潤の下絵に、太宰が賛を寄せたもの。この頃の太宰は、鰭崎の画室に出入りし、油絵を描くことを楽しみにしていた。昭和14年頃/油彩、スケッチ版/238×330

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■《水仙 昭和14年頃/油彩/スケッチボード/270×211

 太宰の描く絵画の特徴は、一枚にじっくり時間を費やすのではなく、眼前の造形を瞬時に捉える手法にあります。
 昭和14、15年頃は風景画や静物画が描かれることが多かったのに対し、以降は肖像画が増えていきます。特に戦後はその傾向が強く、流行作家となり訪問客が途絶えない太宰にとって、絵筆を執っている時間は、気心のおける友人たちと過ごす、リラックスしている時間だったのかもしれません。

 

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太宰治、堤重久、秋田富子《他画他讃 自讃する 人もありき》 昭和17年1月/油彩、画布/日本近代文学館蔵/400×265

 3人の肖像の付近には「太宰居士像/重久」「堤先生像/治」「富子女史像/富子」と書かれている。
 額縁の裏には「昭和十七年一月、秋田富子(秋田聖子の亡母)の部屋にて、画きかけのカンヴァス上に、太宰治が堤重久の顔を画き、堤が太宰の顔を画き、富子氏が自画像を画いたもの、添書、署名は、すべて太宰が記したものである/堤」という覚書があります。この覚書を書いた堤重久(1917~1999)は、戦中戦後を問わず、太宰が一番愛した弟子と言われています。

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■堤重久(左)と秋田富子(右) 堤重久(1917~1999)は、太宰の一番弟子。太宰が一番愛した弟子と言われている。太宰の小説正義と微笑は、堤の弟・堤康久の日記を基に書かれた。秋田富子(1909~1948)は、太宰の小説水仙のモデル。洋画家・林倭(しずえ)(1895~1945)との娘・林聖子は、太宰の小説メリイクリスマスに登場する「シズエ子ちゃん」のモデル。

 

 戦後、太宰は、三鷹駅前に住む画家・桜井浜江(1908~2007)のアトリエで描くようになります。桜井は、太宰の小説饗応夫人のモデル。太宰の画才を認め、アトリエや画材一式を提供しました。

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■桜井浜江 山形県山形市出身の洋画家。1926年(大正15年)に上京後、画業により部屋が汚れると大家に嫌われ、幾度も引越しを繰り返した。三鷹に落ち着いたのは、都心に中央線一本で行ける利便性と、畑と林に囲まれ、敷地にも竹林が植えられたのどかな環境が気に入り、駅前の築10年の住宅を選んだそう。独立展に出品すれば必ず入選する娘の実力を父が認め、その父の援助により、戦中に太宰も通ったアトリエが増築された。当時は資材不足で、桜井の郷里・山形から材木を運んで来たという。

 桜井と太宰の関係は、1940年(昭和15年)頃に離婚した夫・秋沢三郎(小説家)が、太宰と同じ東大生だったことがきっかけで、はじまりました。1933年(昭和9年)、桜井は東京都杉並区阿佐ヶ谷に住んでいたため、桜井の家は、太宰や井伏鱒二など、中央線沿線に住む文化人の溜まり場となりました。
 偶然にも太宰の住む三鷹へ転居した桜井ですが、1946年(昭和21年)の暮れに三鷹駅前で再会するまで、太宰が三鷹に住んでいることを知らなかったそうです。再会以降の太宰は、親友・檀一雄や編集者・野原一夫などとつるんで、よく桜井のアトリエに転がり込みました。

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■《自画像》 昭和22年/油彩、スケッチ板/333×243

 最後に、1998年(平成10年)3月、三鷹市発行の「グラフみたか」第十一号に掲載された桜井へのインタビューを引用して、桜井から見た太宰について紹介します。

 戦後まもない頃、三鷹駅から降りてきたら、にやっとしてる人がいる。それが太宰さんだった。
 太宰さんは、以前、私が結婚していた主人の東大時代の同級生(※主人・秋沢は昭和3年に大学卒業しているため、同窓生の誤り)なので、うちにもよく遊びに来ていたから、学生時代からの友人。その頃のお客さんは変わった人が多かったけど、太宰さんがいちばん変わっていた。
 私は、離婚してから、画家になって三鷹にアトリエを構えたけど、太宰さんも三鷹に住んでいるなんて全然知らなかった。

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■《無題》 昭和22年頃/油彩、スケッチ板/331×232

 再会してからは、出版社の編集者や仲間を連れて、よくアトリエに訪れてくるようになった。気が向いたらといった感じでちょこちょこ来ていた。私はお酒を飲まないから、一緒に飲みに行くということはなかったが、私は山形だし、太宰さんは青森だから気安さがあったのかもしれない。
 一人で来るということはなくて、いつも大勢。近くの屋台かどこかで仲間と飲んでから、みんなを引き連れてダダダッと入ってくる。私、別に「お入りください」なんて言わないのに。
 貸してくださいも何もなく、私が描いている筆を取り、絵をかき始めるといった具合。人のキャンバスを使って、人の絵筆を使って、描き上げると「もう行こう」なんて、アトリエに出来上がった絵も使った画材も置いたままみんなを連れてかえってしまう。
 普通だったら怒っちゃうようなことだけど、太宰さんの場合は気にはならない。

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■《クラサキサン》 昭和22年頃/油彩、画布/336×245

 ずっと、律儀な人だと思っていた。無頼漢みたいに言う人も多いけど、自分を痛めつけても、人を傷つけるというようなことはない。人を思いやっている感じがする。「何してるのかな」なんてお茶を取りに行きながら描いている様子をのぞいてみると、私より絵の才能があると感心してしまう。好き勝手に描いて、素早くその場で仕上げてしまう。とてもいい絵だ。あれだけ文学に才能のある人は、絵にも才能があると思った。(桜井浜江・談)

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■《三つの顔》 昭和22年頃/油彩、スケッチ板/242×333

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団 編集・発行『平成三十年度特別展 太宰治 三鷹とともに ー太宰治没後七十年ー』(2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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