記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】かくめい

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今週のエッセイ

◆『かくめい』
 1948年(昭和23年)、太宰治 39歳。
 1947年(昭和22年)12月上旬頃に脱稿。
 『かくめい』は、1948年(昭和23年)1月1日発行の「ろまねすく」第一巻第一号の「独語」欄に発表された。ほかには、辰野隆田村泰次郎伊藤整などが執筆している。

「かくめい

 じぶんで、したことは、そのように、はっきり言わなければ、かくめいも何も、おこなわれません。じぶんで、そうしても(、、、、、)、他におこないをしたく思って、にんげんは、こうしなければならぬ、などとおっしゃっているうちは、にんげんの底からの革命が、いつまでも、できないのです。

 

別所直樹、最後の思い出

 今回のエッセイ『かくめい』は、漢字で書かれた「革命」と平仮名で書かれた「かくめい」が混在し、「にんげん」や「おこない」は全て平仮名で書かれています。"言葉"に敏感だった太宰の書く文章としては、とても異様に感じられます。
 では、太宰は、なぜこのような文章を書いたのか。それは、「革命」や「人間」を漢字で書くのが嫌だったからではないでしょうか。
 太宰にとって「革命」とは、青年時代に関与した非合法の共産主義革命のことでした。長かった戦争が終わり、新しい時代が訪れ、「革命」が起こると期待する声もありました。しかし、革命は起こりませんでした。
 太宰の心の中にも、青年時代の夢が甦っていたかもしれません。でも現実は、エゴイスト、時流に乗じた便乗思想家、エセ文化人が横行しただけでした。
 かつて「天皇陛下万歳」と叫んでいた人たちが、今度は「民主主義万歳」と叫んでいるだけ。「人間」は変わらず、口にする言葉が変わっただけ。それでは、「革命」なんか起こらない。まずは、「人間」が変わる必要がある。そんな想いから、太宰はこのエッセイを執筆したのかもしれません。

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 今回のエッセイ『かくめい』は、太宰の弟子・別所直樹の書いたエッセイにも登場します。別所の著書郷愁の太宰治所収『最後の正月』を引用して紹介します。

 ぼくが最後に太宰さんにお逢いしたのは、昭和二十三年一月八日であった。宮崎譲さんと一緒だった。新年の挨拶に、三鷹の"千草"に行った。
 ぼくはその家のことをおぼろげに知っていたが、仕事が忙しいと思うので、何時(いつ)もお宅の方ばかり訪ねていた。そして(ほとん)ど逢えなかった。
 ある時、田中英光さんに、その話をした。
 ――秘訣を教えてあげよう。あんただからいいだろう」
 英光さんはニヤリと笑って"千草"を教えてくれたのである。
 太宰さんは、ごく親しい人、仕事関係の人にしかこの連絡場所を教えなかったようである。
 ぼくらは"千草"の座敷に通され、コタツに入って待っていた。太宰さんは(あご)()でながら着物姿で現われた。明るい、元気な声と共に、裏口から入って来た。その時はもう大分酔っておられたらしい。
 ――丁度いい所に来てくれた。今日、ぼくを家までつれてって下さい」
 太宰さんはそう呟いて、後を振り返るような仕種(しぐさ)をした。山崎富栄さんの影におびえているような、それをお道化(どけ)て表現したような口調だった。
 ――おんなは、狐みたいだね。細長い顔をして、それに眼がつり上ってるんだ。怒っている時がすごい。
 何か気に食わないことがあると、階段をダダダダと()け下りて、便所の戸をガラガラピシャンとやって……。それから、シャーだ」
 太宰さんは、さも怖ろしそうな様子で、首を(ふすま)の方に向けた。

 

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■山崎富栄 1947年(昭和22年)に太宰と出逢った頃。太宰の話題、「何か気に食わないことがあると…」のくだりは、小説眉山にも登場するエピソード。

 

 太宰さんの話の通り、山崎さんの部屋は、玄関のとっつき、すぐに階段があり、二階の六畳だった。階段の突き当りに、そう言えば便所があった。
 ――そして、俺を脅迫するんだ。私は何時(いつ)でも薬を持っていますからね、なんて言ってね。俺の留守中に家に行って、子供に毒でも飲まされたら最後だからなあ。女はこわい、こわい……。
 大体、あの女は、一人でなら二年ぐらい暮せる貯金があったんだ。そいつを、俺がみんな飲んじゃったんだ」
 そんなことを言って、首をすくめて見せながら、
 ――ところで、俺に若い恋人が出来たんだ」
 ――当ててみせましようか。年は二十五」
 ぼくは即座に返答した。
 ――いや、いや、違う。もっと若いんだ。二十三だ」
 太宰さんは真面目そうな顔でそう言ったが、眼は笑っていた。
 やがて、山崎さんがやって来た。髪をアップに結い上げ、細い襟足を見せた山崎さんの顔を、ぼくはまじまじとみつめた。
 そんな、自分の噂を知ってか知らずか、山崎さんは太宰さんの傍にいそいそと坐るのだった。
 太宰さんは慌てて話題を転換した。
 ――別所の詩を「(ます)」の特集でみた。あんなもので安心しちゃ駄目だぞ。大体、詩は、やたらに行を代えるけれど、行を代える必然性がないじゃないか。
 どうしても、行を代えなければならぬ、絶句して、とても、このままでは続けられぬ、という所に来て、行を代えるのでなければ本物じゃない。今の、日本の詩は、その点だけでも安易すぎる」
 ぼく自身、非常にあやふやな気持で行分けに疑問を持ち、散文詩も書いたりしていたので、この言葉は耳に痛かった。ぼくは話題を転換して、この苦境を乗り切ろうと図った。
 ――先生の「かくめい」というエッセイを拝見しました。あの文章が載っている「ろまねすく」という雑誌は、友人の本多高明がやってるんです」
 ――意味が判るか」
 さて、とぼくは思った。非常に短いエッセイだが、平仮名ばかりで書かれたもので、少々酔いの廻ってきたぼくには、その意味がはっきり思い出せないのである。
 ――駄目だぞ、別所は……。よく理解出来ぬのに、人の作品について、とやかく言っては……」
 滅多に怒られたことのないぼくは、常に似ぬ太宰さんの(はげ)しい言葉に、しゅんとなって(しま)った。ぼくはがぶがぶと酒を(あお)った。

 

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■1948年(昭和23年)撮影 写真左「瀧本歯科」と書かれた電柱奥の長屋に「千草」があった。道路を挟んだ向かい、「永塚葬儀社」の看板がある建物の2階が富栄の下宿先。富栄の下宿先から「千草」は、歩幅にして10歩ほどの距離しかない。道の突き当りが、玉川上水。富栄の部屋から玉川上水は、約70歩ほどの距離しかなかった。

 

 太宰さんは、ちょっと失敬、といって身体を横たえ、右手で頭を支えていたが、急に起き直ってまた話し出す。
 ――日本人は、世界中のもてあまし者にならねばいけない。日の丸の国旗なんか、もういらないのだ。のん気な父さんかなんかを国旗にするんだナ。ものすごくでかいのん気な父さんを(ひろ)げるんだ。外国の飛行機が来て、そいつを見たら、もう、馬鹿馬鹿しくなって、戦争なんかしかけなくなるだろう。ぼくらはリベルタン無頼派にならなくちゃいけない。それだけが日本を救う道だ」
 ぼくらはけらけら笑い、のん気な父さんの国旗説に同感した。しかし、笑いは表面だけでぼくは心の中でギクリとしていた。太宰さんは酔ってこのような言葉を言ったのではない。それは真実の言葉なのだ。
 ぼくは酒を殺して飲んでいた。外に出ると酔いが一時に廻って、だらしなくよろめいた。人喰い川に沿って、四人は太宰さん宅に向った。
 桜の枝が流れに影を落していた。狂い咲きの小さな花びらが、それでもニ、三輪咲いて、弱い陽差しの中でふるえていた。

 

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玉川上水沿いに(たたず)む太宰 玉川上水は「人喰い川」とも呼ばれた。太宰が山崎富栄と心中した1948年(昭和23年)、太宰は16人目の投身者だった。1948年(昭和23年)2月23日、田村茂撮影。

 

 ぼくは無性に太宰さんに甘えたかった。本当に久しぶりでお眼にかかれたのである。昔が懐しかった。戦争中は太宰さんを訪問する人が限られていた。行けば大抵逢えた。それが、今は違う。
 太宰さんは滅多に家には居ない。仕事場に行っては失礼だと思うから、次第に太宰さんに逢う機会は少くなったのである。
 その頃ぼくは、多くのジャーナリストを憎んだ。太宰さんの周囲には、何時(いつ)もジャーナリストがいたから……。
 ぼくは甘ったれて太宰さんの肩を抱いた。太宰さんは苦笑した、弱々しい声が流れた。
 ――別所、重いよ」
 太宰さんの身体が衰弱していることを、おろかなぼくは見抜けなかったのだ。太宰さんの顔色は、酒の故もあったろうが、明るかった。ぼくはその顔色に安心していたのだ。
 道の曲り角に来た。太宰さんが突然言った。
 ――別所は大変酔っているから、あなたが駅まで送って行ってあげなさい」
 そして太宰さんは、(たもと)からラッキー・ストライクを取り出して山崎さんに渡した。
 ――これは別所のお土産だ」
 太宰さんと宮崎さんは行ってしまった。
 ぼくは山崎さんと三鷹駅へ向った。突然、山崎さんの下駄の鼻緒が切れたぼくはすぐにポケットからハンカチーフを出して破いた。もう大分使い古したハンカチーフはすぐに破れた。ぼくはしゃがんで、おぼつかない手つきで鼻緒をすげた。
 ――有難う」
 山崎さんの嬉しそうな声が響く。
 ああ、しかし、鼻緒はまたも切れたのである。ぼくはまたハンカチーフを破いた。ぼくはその時ほど自分の貧乏がうらめしかったことはない。新しいハンカチーフが欲しかった。純白の丈夫なハンカチーフが……。ぼくらは駅の前で別れた。握手した。それが山崎さんと逢った最後であった。太宰さんともそれが最後だった。
 ――別所。重いよ」
 その言葉が、今もぼくの耳にはっきり残っている。ぼくは最後まで太宰さんに甘ったれ通しだったのだ。
 ぼくは淋しくて仕様がなかった。その足で新宿、花園町の田中英光さんを訪ねた。
 英光さんは二間の家の、奥の部屋で仕事の最中だった、あの部屋は六畳だったろうか。玄関の、とっつきの部屋がたしか三畳間だった。

 

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■太宰の弟子・田中英光と長女・弓子 1949年(昭和24年)10月、宮城県鳴子温泉にて。

 

 ドテラを着た英光さんは、アグラをかいて、茶ブ台に(ひろ)げた原稿用紙に小さな丸まっちい字を埋めていた。六尺豊かな英光さんらしかぬ、小さな字であった。英光さんの傍には敬子さんが、ハンテンを羽織って坐っていた。この女性は、後になって英光さんが半狂乱の果て、腹を刺した女性である。家も彼女の物だった。英光さんは当時、(ほと)んどこの家で生活していた。夫人、子供さんたちは静岡県三津浜にいたのである。
 英光さんは傍に置いてある一升瓶を持って茶碗に焼酎をついでくれた。英光さんも、ぐびり、ぐびりと焼酎をあふりながら仕事をしていたのだった。
 ぼくは、よほど、哀れな顔をしていたらしい。そして、ポケットからラッキー・ストライクを取り出して、英光さんにすすめた。
 ――オッ、すごいじゃないの……」
 ――ええ、太宰さんに戴いて来たんです。ぼく、太宰さんに、酔っぱらいすぎて、おこられちゃった……」
 ――どうしたの?」
 英光さんは、ちょっとぼくの眼を覗き込んだ。
 ――酔っぱらって、太宰さんの肩を抱いたんです。そしたら、別所、重いよって言われて、追い返されちゃったんです。この煙草、太宰さんにお土産に戴いたんです」
 ――大丈夫、大丈夫、別所さん、太宰さんは本気でなんかおこっていやしませんよ。元気を出して、焼酎でも飲みなさい」
 英光さんは笑いながらぼくを激励してくれた。
 その日、英光さんは急ぎの仕事をしている様子だったので、ぼくは間もなく別れた。
 それからのぼくは、何時(いつ)も冷やかされるのであった。ぼく一人の時も、他の人が傍にいても、
 ――別所さんはねえ、太宰さんにおこられたといって、おんおん泣きながら、ぼくの家に来たんですよ」
 そして、いたずらっぽい眼でぼくの眼を覗き込むのだった。
 ――ひでえなあ、英光さん、ぼく、おんおんなんて泣きゃしませんよ」
 ぼくは何時(いつ)も慌てて否定するのだった。

 

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■別所直樹 詩人、評論家。太宰の弟子。三鷹にある、禅林寺の太宰の墓に詣でる別所。

 【了】

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【参考文献】
・別所直樹『郷愁の太宰治』(審美社、1964年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
 ※引用にあたり、一部人名表記を改めました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】小志

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今週のエッセイ

◆『小志』
 1947年(昭和22年)、太宰治 38歳。
 1947年(昭和22年)11月10日前後頃に脱稿。
 『小志』は、1947年(昭和22年)11月17日発行の「朝日新聞」第二二一六三号の第二面「学芸」欄に新仮名遣いで発表された。

「小志

 イエスが十字架につけられて、そのとき脱ぎ捨て(たま)いし真白な下着は、上から下まで縫い目なしの全部その形のままに織った実にめずらしい衣だったので、兵卒どもはその品の高尚典雅に嘆息をもらしたと聖書に録されてあったけれども、
 妻よ、
 イエスならぬ市井(しせい)のただの弱虫が、毎日こうして苦しんで、そうして、もしも死なねばならぬ時が来たならば、縫い目なしの下着は望まぬ、せめてキャラコの純白のパンツ一つを作ってはかせてくれまいか。

 

太宰とキリスト

 太宰の弟子・小山清は、「太宰治が、その文学活動の初期から最後に至るまで、最も関心を持っていた対象はキリストであろう」と書いています。
 小山の指摘する通り、太宰はその生涯にわたって、キリストに対し深い関心を持っていました。そして、太宰のキリスト像、太宰にとってのキリストの意味は、その時期によって変化していきました。その時期は、

 ①1936年(昭和11年)
 ②1941~1942年(昭和16~17年)
 ③1946~1948年(昭和21~23年)

の3つに分けることができます。

①1936年(昭和11年)

 この頃の太宰は、新しい文学を目指し、「二十世紀の旗手」(二十世紀旗手)との自負を持っていましたが、作品はなかなか正当に評価されず、悩んでいた時期でした。そのため、自分の意に反し、韜晦(とうかい)的な態度と作品への説明が必要だと考えます。
 しかし、本来は自作への解説を嫌う太宰は、「なんじら断食するとき、かの偽善者のごとく、悲しき面持ちをすな。(マタイ六章十六)キリストだけは、知っていた」(虚構の春)と書きます。つまり、太宰は、キリストに自分と同じ考えを見い出し、自身の支えとしました。

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 やがて、太宰にとってキリストは、同一化の対象となっていきます。佐藤春夫との約束により受賞を信じていた第三回芥川賞は落選。太宰は文壇の約束違反と抗議しますが、かえって自分を窮地に追い込む結果となります。
 この体験を通して、太宰は、無実にもかかわらず罰せられたキリストに自分の姿を見い出し、重ね合わせていきます。キリストと自身を同一化することで、慰めを得ようとしました。
 このキリスト受容は、東京武蔵野病院で、さらに展開します。
 「あざむ」かれ、「脳病院にぶちこまれ」た(HUMAN LOST)と感じていた太宰は、キリストとの同一化により、自己合理化を行い、キリストを「他者に理解されない苦しみと孤独において共感する相手」と位置づけました。

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■太宰が武蔵野病院入院中に手にした聖書 太宰と同様に入院していた医師・斎藤達也から借りた、黒崎幸吉編『新約聖書略註 全』(四六版、日英堂書店、1934年)。

 やがて、キリストは他者との和解という、退院への道筋やその後の身の振り方を太宰に示していきます。さらに退院後、不安と絶望のどん底にいた太宰に、「生きる力」()を与えました。
 キリストは、同一化の対象から、「生」の指針を与える存在として、位置づけが移っていきました。


②1941~1942年(昭和16~17年)

 この頃の太宰は、「明日の事を思うな、とあの人も言って居られます。朝めざめて、きょう一日を、充分に生きる事、それだけを私はこのごろ心掛けて居ります」(私信)、「一日一日を、たっぷり生きて行くより他は無い。明日のことを思い煩うな。明日は明日みずから思い煩わん。きょう一日を、よろこび、努め、人には優しくして暮したい」(新郎)と、この時期を生きる自分の決意を語っています。

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 「明日の事を思うな」「明日の事を思い煩うな。明日は明日みずから思い煩わん」は、マタイ伝六章三十四節にあるキリストの言葉です。
 戦争の激化という明日の命さえ分からない状況を生きる太宰にとって、自分を支え、励ましてくれる存在として、キリストは位置していました。

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■ロシアの画家 ニコライ・ゲー『最後の晩餐(1861~1863)』 「ロシヤのゲエとかいう画家のかいた『最後の晩餐』の絵は、みんな寝そべっているそうである。キリストの精神とは、全く関係の無い事だが、僕には、とても面白かった。」(正義と微笑


③1946~1948年(昭和21~23年)

 敗戦により、太宰は今までの習俗的倫理の崩壊による、人間性の解放を期待しました。しかし、現実は、エゴイスト、時流に乗じた便乗思想家、エセ文化人が横行していました。太宰は、彼らに対し、「もっと気弱くなれ! 偉いのはお前じゃないんだ! 学問なんて、そんなものは捨てちまえ! おのれを愛するが如く、汝の隣人を愛せよ。それからでなければ、どうにもこうにもなりやしないのだよ(十五年間)」と批判しています。

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 さらに、如是我聞では、外国文学者、志賀直哉らを「家庭のエゴイズム」「自己肯定のすさまじさ」、つまり「愛する能力」の欠如ゆえに攻撃し、それは「反キリスト的なものへの戦い」と位置づけられます。太宰にとってキリストは、彼等と対極の存在であり、自己の批判を「反キリスト的なものへの戦い」と位置づけることによって、批判は意味を持ち、正当化が可能となりました。
 つまり、太宰はキリストに自分を擬すことで、批判の、さらに存在の根拠を得ていたと考えられます。
 その一方、「私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスという人の、『己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ』という難題一つにかかっている」(如是我聞)と、キリストは太宰の存在を揺るがしてくる存在でもありました。
 この時期の太宰にとって、キリストは、存在の根拠であると同時に、「苦悩」をも与える、二律背反的な意味を持っていたと考えられます。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】わが半生を語る

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今週のエッセイ

◆『わが半生を語る』
 1947年(昭和22年)、太宰治 38歳。
 1947年(昭和22年)9月下旬に脱稿。
 『わが半生を語る』は、1947年(昭和22年)11月1日発行の「小説新潮」第一巻第三号の「()が半生を語る」欄に『文学の曠野(こうや)に』と題して発表された。この欄には、ほかに『到る処青山あり』(林芙美子)が掲載された。初出本文の末尾には、「(在文責記者)」とあり、談話筆記とみられる。発表後、太宰治の生前の刊本には収められず、没後、新潮社版「如是我聞」に『わが半生を語る』として初めて収録された。

「わが半生を語る

  生い立ちと環境

 私は田舎のいわゆる金持ちと云われる家に生れました。たくさんの兄や姉がありまして、その末ッ子として、まず何不自由なく育ちました。その為に世間知らずの非常なはにかみやになって終いました。この私のはにかみが何か他人(ひと)からみると自分がそれを誇っているように見られやしないかと気にしています。
 私は(ほとん)ど他人には満足に口もきけないほどの弱い性格で、従って生活力も(ゼロ)に近いと自覚して、幼少より今(まで)すごして来ました。ですから私はむしろ厭世(えんせい)主義といってもいいようなもので、余り生きることに張合いを感じない。ただもう一刻も早くこの生活の恐怖から逃げ出したい。この世の中からおさらばしたいというようなことばかり、子供の頃から考えている(たち)でした。
 こういう私の性格が私を文学に志さしめた動機となったと云えるでしょう。育った家庭とか肉親とか(ある)いは故郷という概念、そういうものがひどく抜き難く根ざしているような気がします。
 私は自分の作品の中で、私の生れた家を自慢しているように思われるかも知れませんが、かえって、まだ自分の家の事実の大きさよりも更に遠慮して、(ほとん)どそれは半分、いや、もっとはにかんで語っている程です。
 一事が万事、なにかいつも自分がそのために人から非難せられ、仇敵視(きゅうてきし)されているような、そういう恐怖感がいつも自分につきまとって居ります。そのためにわざと、最下等の生活をしてみせたり、(ある)いはどんな汚いことにでも平気になろうと心がけたけれども、しかしまさか私は縄の帯は締められない。
 それが人はやはりどこか私を思い上っていると思う第一の原因になっているようであります。けれども私に言わせれば、それが私の弱さの一番の原因なので、そのために自分の身につけているもの全部をほうり出して差上げたいような思いをしたことが幾度あったかしれません。
 例えば恋愛にしても、私だってそれは女から好意を寄せられることはたまにありますけれども、自分がそんな金持ちの子供に生れたという点で女に好意をもたれているに過ぎないというように、人から思われるのが嫌で、恋愛をさえ幾度となく自分で断念したこともあります。
 現に私の兄がいま青森県民選知事をしておりますが、そう云うことを女にひと(こと)でも云えば、それを種に女を口説くと思われはせぬかというので、(かえ)っていつも芝居をしているように、自分をくだらなく見せるというような、(ほとん)ど愚かといってもいいくらいの努力をして生きて参りました。これは自分でももて余していて、どうにも解決のしようが未だに発見出来ません。


  文壇生活?……

 私がまだ東大の仏文科でまごまごしていた二十五歳の時、改造社の「文芸」という雑誌から何か短篇を書けといわれて、その時、あり合せの「逆行」という短篇を送った。それが二、三ヶ月後くらいに新聞の広告に大きく名前が諸先輩と並んで出て、それが後日第一回芥川賞の時に候補に上げられました。
 その「逆行」と(ほとん)ど前後して同人雑誌「日本浪漫派(にほんろうまんは)」に「道化の華」が発表されました。それが佐藤春夫先生の推奨にあずかり、その後、文学雑誌に次々と作品を発表することができました。
 それで自分も文壇生活というか、小説を書いて(ある)いは生活が出来るのではないかしらとかすかな希望をもつようになりました。それは大体年代からいうと昭和十年頃です。
 省みますと、自分でははっきりと斯々(かくかく)の動機で文学を志したということは、判らないことで、(ほとん)ど無意識といってもいい位に、私はいつの間にやら文学の野原を歩いていたような気がするのです。気がついたらそれこそ往くも千里、帰るも千里というような、のっぴきならない文学の野原のまん中に立っていたのに気がついて、たいへん驚いたというようなところが真に近いかと思います。


  先輩・好きな人達

 私がおつき合いをお願いしている先輩は井伏鱒二氏一人といっていい位です。あと評論家では河上徹太郎亀井勝一郎、この人達も「文學界」の関係から飲み友達になりました。もっと年とった方の先輩では、これは交友というのは失礼かもしれないけれど、お宅に上らせて頂いた方は佐藤先生と豊島与志雄先生です。そうして井伏さんにはとうとう現在の家内を媒酌(ばいしゃく)して頂いた程、願っております。
 井伏さんといえば、初期の「夜ふけと梅の花」という本の諸作品は、(ほとん)ど宝石を並べたような印象を受けました。また嘉村磯多(かむらいそた)なども昔から大変えらい人だと思っています。
 これは弱い性格の人間の特徴かも知れませんが、人が余り騒ぐような、また尊敬しているような作品には一応、疑惑を持つ癖があります。
 明治文壇では国木田独歩の短篇は非常にうまいと思っております。
 フランス文学では、十九世紀だったらばたいてい皆、バルザック、フローベル、そういう所謂(いわゆる)大文豪に心服していなければ、なにか文人たるものの資格に欠けるというような、へんな常識があるようですけれども、私はそんな大文豪の作品は、本当はあまり読んで好きじゃないのです。(かえ)ってミュッセ、ドーデー、あの辺の作家をひそかに愛読しております。ロシア語ではトルストイ、ドストイエフスキーなど、やはりみな、それに感心しなければ、万人の資格に欠けるというようなことが常識になっていて、それは確かにそういうものなのでしょうけれども、やはり自分はチェホフとか、誰よりもロシアではプーシュキン一人といってもいい位に傾倒しています。


  私は変人に非ず

 三月号の小説新潮の、文壇「話の泉」の会で、私は変人だと云うことになっているし、なにか縄帯でも締めているように思われている。また私の小説もただ風変わりで珍しい位に云われてきて、私はひそかに憂鬱な気持ちになっていたのです。世の中から変人とか奇人などといわれている人間は、案外気の弱い度胸のない、そういう人が自分を(まも)るための擬装をしているのが多いのではないかと思われます。やはり生活に対して自信のなさから出ているのではないでしょうか。
 私は自分を変人とも、変った男だとも思ったことはなく、きわめて当り前の、また(ふる)い道徳などにも非常にこだわる(たち)の男です。それなのに、私が道徳など全然無視しているように思っている人が多いようですが、事実は全くその反対だ。
 けれども、私は前にも云ったように、弱い性格なのでその弱さというものだけは認めなければならないと思っているのです。また人と議論することも私にはできない、これも自分の弱さといってもいいけれども、何か自分のキリスト主義みたいなものも多少含まれているような気がするのです。
 キリスト主義といえば、私はいまそれこそ文字通りのあばら家に住んでいます。私だってそれは人並の家に住みたいとは思っています。子供も可哀そうだと思うこともあります。けれども私にはどうしてもいい家に住めないのです。それはプロレタリア意識とか、プロレタリアイデオロギーとか、そんなものから教えられたものでなく、キリストの汝等(なんじら)己を愛する如く隣人を愛せよという言葉をへんに頑固に思いこんでしまっているらしい。しかし己を愛する如く隣人を愛するということは、とてもやり切れるものではないと、この頃つくづく考えてきました。人間はみな同じものだ。そういう思想はただ人を自殺にかり立てるだけのものではないでしょうか。
 キリストの己を愛するが如く汝の隣人を愛せよという言葉を、私はきっと違った解釈をしているのではなかろうか。あれはもっと別の意味があるのではなかろうか。そう考えた時、己を愛するが如くという言葉が思い出される。やはり己も愛さなければいけない。己を嫌って、(ある)いは己を(しいた)げて人を愛するのでは、自殺よりほかはないのが当然だということを、かすかに気がついてきましたが、(しか)しそれはただ理屈です。自分の世の中の人に対する感情はやはりいつもはにかみで、背の丈を二寸くらい低くして歩いていなければいけないような実感をもって生きてきました。こんなところにも、私の文学の根拠があるような気がするのです。
 また私は社会主義というものはやはり正しいものだという実感をもって居ります。そうしていま社会主義の世の中にやっとなったようで、片山総理などが日本の大将になったということは、やはり嬉しいことではないかと思いながらも、私は昔と同じように、いや(ある)いは昔以上に(すさ)んだ生活をしなければならん。この自分の不幸を思うと、もう自分に幸福というものは一生ないのかと、それはセンチメンタルな気持でなく、何だかいやに明瞭にわかってきたようにこの頃感じます。
 あれ、これと考え出すと私は酒を飲まずにおれなくなります。酒によって自分の文学観や作品が左右されるとは思いませんが、ただ酒は私の生活を非常にゆすぶっている。前にも申しましたように人と会っても満足に話が出来ず、後であれを言えばよかった、こうも言えばよかったなどと口惜(くや)しく思います。いつも人と会うときには(ほとん)どぐらぐら眩暈(めまい)をして、話をしていなければならんような性格なので、つい酒を飲むことになる。それで健康を害し、(ある)いは経済の破綻(はたん)などもしばしばあって、家庭はいつも貧寒の趣きを呈しております。寝てからいろいろその改善を企図することもあるけれども、これはどうにも死ななきゃ直らないというような程度に(まで)なっているようです。
 私も、もう三十九になりますが、世間にこれから暮してゆくということを考えると、呆然(ぼうぜん)とするだけで、まだ何の自信もありません。だから、そういういわば弱虫が、妻子を養ってゆくということは、むしろ悲惨といってもいいのではないかと思うこともあります。

 

太宰治、"残りの半生"

 『わが半生を語る』と題されたこのエッセイは、太宰の死の前年にあたる、1947年(昭和22年)9月下旬に脱稿されました。太宰が、愛人・山崎富栄玉川上水で心中する約9ヶ月前です。

 今回は、太宰の年譜を追いながら、太宰の"残りの半生"を見ていきます。

 

1947年(昭和22年)

《9月1日》
「新潮」九月号に『斜陽(長篇連載第三回)』として、」「を発表。

《9月10日》
「日本小説代表作全集14昭和二十一年前半期」(小山書店)にを収載。

《9月24日》
伊馬春部の友人である銀座の貴金属宝石・古美術商の若主人・小野英一の招待で、太宰は、伊馬、山崎富栄と熱海「松の寮」に一泊旅行をし、昔風な出の衣裳姿の妓を見た。

《10月1日》
「新潮」十月号に『斜陽(連載長篇完結)』として、」「を、「改造」十月号におさんを発表。
なお、魚服記以来15年間、自身で丹念に書き続けて来た「創作年表」は、このおさんで絶たれている。
織田作之助選集附録第一号」(中央公論社)に織田君の死が再録。

《10月5日》
単行本「女神」(白文社)を刊行。

《10月頃》
八雲書店から、全集刊行の申し入れがあった。亀島貞夫によると、「あれは、まったく私の思いつきだったのです。原稿を書いてもらえない心のあせりから、いかに八雲書店が太宰さんの作品に執心しているかという姿勢をみせたかったから言ったまでのことなのです。とても承諾してもらおうとは思いませんでした。」とのこと。亀島の全集刊行の申し入れに対し、太宰は一瞬きっと身構え、息をのみ、やがて呟くように「そうだね。もう、このへんで出してもいいかもしれないな」と言ったという。
八雲書店の申し入れから30分~1時間程度遅れ、実業之日本社からも全集刊行の申し入れがあった。2、3回の話し合いの末、八雲書店に決定し、準備に入った。八雲書店の社長・中村梧一郎によると、編集部の大方の意見は、全集ではなく、選集説だったという。

《10月14日》
憲法実施により、11宮家51名の宮が、皇族籍を離脱した。同日、「時事新報」掲載の『離脱その前夜・三若宮自由談義』の一節に、治憲王の発言として、斜陽に「身につまされ」るとあった。

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《11月1日》
小説新潮」十一月号の「()が半生を語る」欄に『文学の曠野(こうや)に』(のち『わが半生を語る』と改題)を発表。
単行本正義と微笑(永晃社)を「青春文庫3」として刊行。

《11月12日》
愛人・太田静子に娘・太田治子が誕生。

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■太田静子と娘・治子 1948年(昭和23年)春に撮影。

《11月15日》
太田静子の弟・太田通が来訪し、静子の生んだ「子供が、太宰治の子であるという(あか)し」と「命名」とを要請されたため、認知の「(あかし)」を記して渡した。

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《11月17日》
朝日新聞」にエッセイ『小志』を発表。

《11月25日》
全集印刷の打ち合わせのため、八雲書店の編集部・亀島貞夫を訪問。
この頃から、太宰の仕事部屋は山崎富栄の部屋に移っていたという。

《12月8日》
東宝映画から、斜陽映画化の申し入れがあったが、断った。

《12月9日》
太宰の弟子・田中英光が、山崎敬子を伴って訪れた。

《12月10日》
「晩年」を「新潮文庫」の1冊として、新潮社から刊行。

《12月15日》
単行本斜陽(新潮社)を刊行。たちまちベストセラーとなり、初版1万部、再版5,000部、三版5,000部、四版1万部と版を重ね、「翌年七月の新版と併せて昭和二十四年三月までに十二万部」を越した。

《12月17日》
太宰の弟子・田中英光が、雑誌社、出版社などからの集金のために上京。ともに出版社回りをし、痛飲。

《12月18日》『春の枯葉』
(いで)英利が、春の枯葉俳優座での上演の用件で訪れた。

《12月19日》
太宰の弟子・堤重久が、八雲書店版「太宰治全集」のための「年表完成」の助力を依頼した、奈良女子高等師範学校横田俊一を伴って上京。翌20日の午前7時に三鷹の太宰宅を訪問した。
同日の午前8時、俳優座で上演する劇春の枯葉の下稽古の件で、(いで)英利が訪れ、続けて「群像」の編集長が訪れた。正午頃、堤、横田と共に「千草」へ行き、それから二日三晩酒宴をした。堤は12月30日まで宿泊し、横田は三泊して関西へ帰った。

《12月23日》
「上野浮浪児記」を執筆するため、「日本小説」の雑誌記者・氏家と、上野に行って浮浪児を見て歩いた。これが後、美男子と煙草となった。

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《12月30日》
三鷹下連雀の自宅で堤重久と夕食を共にし、夜行列車に乗る堤を三鷹駅まで送った。

 

1948年(昭和23年)

《1月1日》
中央公論」新年号に犯人を、「光」新年特大号に饗応夫人を、「地上」新年号に酒の追憶を、「ろまねすく」新年号に『かくめい』を発表。

《1月8日》
美男子と煙草の稿を起こした。この作品の5枚目以降は、上野に同行した氏家記者が口述筆記している。

《1月10日》
「今朝、血痰がひどく出られた由。お体も、めっきりおやせになられた。」と、山崎富栄が日記に書いている。

《1月25日》
単行本「花燭」思索社)を刊行。

《2月4日~7日》
俳優座の「劇作家研究会」の第一回公演として、春の枯葉一幕三場が、千田是也の演出によって毎日ホールで上演された。野中弥一を永井智雄、節子を三戸部スエ、しづを東山千栄子、奥田義雄を天野総治郎、菊代を中村美代子が、それぞれ演じた。各日13時、17時の開演で、同時に阪中正夫作、青山杉作演出の「馬」が上演された。

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《2月9日》
大映女優・関千恵子が、大映宣伝部・杉田邦男と共に、太宰の三鷹の自宅に訪れ、対談した。約1時間半にわたった対談の内容は、「大映ファン」五月号に、関千恵子太宰治先生訪問記として発表された。

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《2月10日》
出版社数社が合同主催した、木挽町織田作之助ゆかりの料亭「鼓」での「織田作之助一周忌追悼会」に、輪島昭子林芙美子坂口安吾青山光ニなどと出席した。「鼓」のすぐ近くに住んでいた、太宰の先妻・小山初代の叔父・吉沢祐五郎は、直前に予告記事を新聞で読み、夫人・みつをその料亭に使いに出し、太宰に「お帰りの途中、お寄り頂きたい」との意を伝えさせたが、太宰はひたすら揉み手をして、「いつか、きっと」と断ったという。

《2月19日》
妻・美知子の妹・吉原愛子が危篤に陥った。東京帝大病院へ見舞いに行き、そのあと、豊島与志雄山崎富栄と共に訪問。

《2月21日》
吉原愛子の病状がさらに悪化し、夜、美知子が「千草」に迎えに来た。

《2月23日》
写真家・田村茂によって、27枚の写真が撮影された。

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《2月29日》
吉原愛子が、夫・吉原健夫と弟・石原明に見守られて逝去し、3月3日に葬儀が行われ、参列した。享年31歳。

《3月1日》
「日本小説」三月号に美男子と煙草を、「小説新潮」三月号に眉山を、「新潮」三月号に如是我聞を、「個性」三月号のアンケート「小説とは何か」欄に『小説の面白さ』と題する回答を発表。
如是我聞は、太宰が「どうしても書きたい」と希望し、1年間連載する予定だった。

《3月はじめ》
朝日新聞東京本社学芸部長・末常卓郎が、午後3時過ぎに小説連載の依頼に「千草」を訪れ、階下で話した。この依頼が、太宰の絶筆となるグッド・バイに結実する。

《3月3日》
午後、当時朝日新聞東京本社論説委員だった平岡敏男が、同社学芸部副部長だった古谷綱正と共に来訪し、山崎富栄方で21時過ぎまで飲み、語った。

《3月7日》
東京発12時40分熱海行。筑摩書房主・古田晁の計らいで、熱海駅の裏手にある熱海市咲見町林ヶ久保の高台に建つ櫻井兵五郎の別荘を旅館にした、眺望のいい「起雲閣」別館に滞在、外部との交渉を断って、翌3月8日から、人間失格の執筆に専念した。この熱海行きには、山崎富栄も同行していた。

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《3月19日》
人間失格第一の手記を脱稿して、担当の「展望」編集者・石井立に原稿を送り、いったん帰京した。

《3月21日》
再び熱海に向かった。

《3月28日》
「展望」連載一回分の人間失格103枚、第二の手記までを脱稿し、3月31日、帰京。

《4月1日
「八雲」四月号に女類を、「群像」四月号に渡り鳥を、「文藝時代」四月号に『徒党について』を発表。
長女・津島園子が小学校に入学した。

《4月2日~4月28日》
三鷹下連雀の仕事部屋で、「展望」連載第二回分、人間失格第三の手記 一51枚を執筆脱稿した。
美知子によると、この頃は自宅近くの内科医に寄って、ザルブロの注射を打ってから、仕事部屋へ出かけるのがきまりで、そのほか常用するビタミン剤などの注射はおびただしい数に上り、常人の何倍かの量を用いていたという。

《4月6日》
如是我聞野平健一に口述筆記させた。

《4月25日》
豊島与志雄山崎富栄と共に訪問した。豊島と太宰が会ったのは、これが最後となった。

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■山崎富栄

《4月29日》
筑摩書房主・古田晁の計らいで、埼玉県大宮市大門町三丁目百三番地の小野沢清澄方の、奥の八畳と三畳との二間を借り、三畳間を仕事部屋として、人間失格第三の手記 二を執筆した。この大宮行きには、山崎富栄も同行した。
小野沢は、大宮駅前の繁華街で「天清」という天ぷら屋を営業していて、その店の客として親しかった古谷に依頼されて、引き受けたという。小野沢によれば、「毎朝九時ごろに起き、昼ごろから茶ぶ台に向かった。かたわらに辞書を置き、三時間ほどペンを走らせ、夜はゆっくり時間をかけて食事をするという、規則正しい生活を送っていた。」「書損じの原稿用紙で、くずかごは毎日一杯で」「連れの女の人は、いつも静かに編み物をしていた」という。太宰が大宮に滞在中、部屋に食事を運んでいたのが、小野沢の姪にあたる藤縄信子だった。

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■小野沢宅のある路地

《4月30日》
単行本「春の枯葉」鎌倉書房)を「戦後文学選4」として刊行。

《5月1日》
「世界」五月号に
桜桃を、「新潮」五月号に如是我聞(ニ)を発表。

《5月8日》
人間失格第三の手記 二46枚を脱稿。

《5月9、10日頃》
人間失格
あとがきを執筆し、人間失格全206枚を脱稿した。

《5月12日》
石井立の迎えを得て、小野沢に「グッド・バイも、ぜひここで書きたいので、部屋を空けておいて下さい」と言い残して、帰京。

《5月12日~14日》
如是我聞(三)野平健一に口述筆記させ、脱稿。

《5月14日》
末常卓郎が来訪し、「朝日新聞」への連載小説(グッド・バイ)の執筆条件などについて相談。1日分3枚半、1枚500円、全旅費を負担、6月20日頃から連載開始となった。

《5月15日》
朝日新聞」に80回ほど連載予定のグッド・バイの稿を起こした。

《5月18日》
『グッド・バイ』
変心(二)までを脱稿。

《5月20日
単行本「ろまん燈籠」改造社)を刊行。

《5月27日》
『グッド・バイ』10回分の
怪力(三)までを脱稿、朝日新聞東京本社学芸部に渡された。

《6月1日》
「展望」六月号に人間失格(第一回)』として、
はしがき」「第一の手記」「第二の手記までを、「新潮」六月号に如是我聞(三)を発表。

《6月3日頃》
『グッド・バイ』
13回分の
コールド・ウォー(二)までを脱稿。

矢代静一(いで)英利とが春の枯葉の舞台写真を届けに訪れた。

《6月3日》
夕方、自宅から打電して、「新潮」編集記者・野平健一を呼び、ほとんど徹夜して、
如是我聞(四)を口述筆記させ、6月5日に脱稿した。

《6月6日》
朝、いつものように「仕事部屋に行ってくるよ」と言って、気軽に家を出たまま、自宅には帰らなかった。

《6月12日》
昼過ぎ、大宮の宇治病院を訪れ、「古田さん、いる?」と尋ねた。古田晁の不在を聞いた太宰は、三鷹へ戻った。立ち去る太宰の後ろ姿は、何か寂しげだったという。

《6月13日》
午後11時半から、翌14日午前4時頃までの間に、大宮を訪れた時と同じ、グレーのズボンに白いワイシャツで下駄履きという格好で、山崎富栄と家を出、玉川上水に入水した。死亡時刻は、6月14日午前1時頃と推定されており、戸籍上の太宰の死亡日は「6月14日」となっている。

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■入水直後の富栄の部屋 撮影:毎日新聞・石井周治。

《6月14日》
遺書が見つかる。美知子、仕事部屋先の鶴巻幸之助(「千草」の店主)、出版雑誌社、友人宛などがあり、3人の子供たちへの蟹の玩具、友人たちへの遺品、グッド・バイ10回分の校正刷りと、13回までの草稿も残されていた。
近親者、三鷹署などの手で連日捜索が続けられ、林聖子野平健一が、玉川上水沿いで山崎富栄の家のガラスの皿とビンを発見した。

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《6月19日》
午前6時50分頃、死体発見。「千草」で検視のあと、堀ノ内の火葬場で荼毘に付され、午後6時過ぎに骨が拾われた。

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 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・『太宰治全集 13 草稿』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】新しい形の個人主義

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今週のエッセイ

◆『新しい形の個人主義
 1947年(昭和22年)、太宰治 38歳。
 1946年(昭和21年)11月頃に脱稿。
 『新しい形の個人主義』は、1947年(昭和22年)1月1日発行の「月刊東奥」第九巻第一号(春季文芸特輯)の巻頭に発表された。目次には「巻頭言」とのみある。

「新しい形の個人主義

 所謂(いわゆる)社会主義の世の中になるのは、それは当り前の事と思わなければならぬ。民主々義とは云っても、それは社会民主々義の事であって、昔の思想と違っている事を知らなければならぬ。倫理に()いても、新しい形の個人主義の台頭しているこの現実を直視し、肯定するところにわれらの生き方があるかも知れぬと思索することも必要かと思われる。

 

戦中・戦後、太宰の思想

 今回のエッセイは、太宰が故郷・金木に疎開していた頃に執筆されたものと思われます。太宰は、1945年(昭和20年)7月31日から1946年(昭和21年)11月12日まで、戦禍から逃れ、故郷・金木で疎開生活を送っていました。金木で疎開生活を送る太宰のもとには、弟子・田中英光芥川比呂志が訪れています。
 また、太宰の訪問者の中には、地元の文学青年たちもおり、その中の1人に小野才八郎がいました。小野は、1945年(昭和20年)に友人2人と一緒に太宰を訪問し、以後、太宰に師事しました。

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■小野才八郎(1920~2014) 現在は、太宰と同じ三鷹禅林寺に眠っている。

 今回は、太宰の言葉を多く書き留めた小野の著書太宰治語録から、戦中・戦後にかけて、故郷・津軽疎開していた太宰が小野に語った言葉を紹介します。

僕は没落するものの味方です。保守派なんだと、はっきり言います。今に革命時代がくれば、真先に断頭台に送られる組ですね。

共産主義が成功するには、流血革命をやらなければ決して成功しません。まあ、やらしてみるのですね。そうすれば、自己の無力をはっきり知るでしょう。一時は地()らしされるでしょうが、じき凸凹(でこぼこ)が出来てきます。

日本の左翼は、子供っぽくて駄目です。はにかみがないのです。詩のない主義者なんて、嫌いです。レーニンなんかは素晴らしい詩人で、はにかみのある人格者です。どんな思想にしろ、その祖述者はいずれも天衣の詩人なのですが、それを行う後世の人々が駄目にしてしまうのです。(大高正博「太宰治覚書」)

マルクス主義は正しい」とも太宰さんは書いている。かつては、正式党員だったかどうかは分からないが、少なくともシンパ活動をしたことは確かであり、それが長兄にばれて、結果的には活動から離れざるを得なかった。同志への裏切り、民衆への裏切りといった悔恨が残ったであろう。亀井勝一郎太宰治の「罪の意識」の中に、この悔恨の存在を指摘している。その太宰さんが戦後は保守派を宣言し、「今こそ天皇陛下万歳を叫ぶべきだ」などと言い出したのはどういう訳であろうか。当時太宰さんは、疎開中の文化人たちが、あちこちで講演会に引っぱり出され、「民主主義」を説くのを眺めて、これこそ地方文化と言って軽蔑していた。「共産主義もいまや、サロンの談話におちた」などと、われわれを笑わせたが、太宰さんのアンチ共産主義談話を、深刻なものとは受け取らなかった。ただ、太宰さんが、「いくら制度が変わったって、人間が変わらなければ、革命も何もないさ」と、呟くように言われるのを聞いて、太宰さんの苦悶の深さを感じたものである。
 今になってみると、口にこそ出して言わなかったが、ヤマゲンという大地主の(せがれ)としての自覚からも、当時の風潮には、真剣に危機感を抱いていたのではないかと思う。

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一切の思想は試されてしまった。駄目だと分かった。われらに残されたものはなんだろう。エゴイズムしかない。新しい形のエゴイズムだ。

「新しい形のエゴイズム」とはどんなものか。われわれには新しい課題だった。その後「冬の花火」「春の枯葉」が完成し、いずれの場合も生原稿のままわれらに読んで聞かせてくれた。二つとも、ご本人が言うごとく、絶望の悲劇である。「春の枯葉」の中の登場人物の一人、奥田義雄に語らせている。
「人類がだめになったんですよ。〈略〉大理想も大思潮もタカが知れてる。そんな時代になったんですよ。僕はいまでは、エゴイストです。いつのまにやら、そうなって来ました。〈略〉僕たち二十代の者は、或る点では、あなたたちよりもずっと大人かも知れません」
 ここのところを、私は朗読の途中で聞き返した。
「お前、聞いていなかったな」と、太宰さんは私を叱りながらも中休みになり、新しいエゴイズムについて説明してくれた。私の理解したところでは、要するに、従来のような我利我利(、、、、)一点張りではなく、現実をまともに見つめ、柔軟に対処できるタイプのようであった。しかし、あまりよくは分からなかったというのが正直なところである。

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思想とは勇気だ

 この言葉を私は二度聞いた。実行の伴わない思想なんて、といった感じだった。戦後喧伝されたのは「実存主義」である。太宰さんは自分の考えは実存主義に近いと言っていた。そして人間実行の地獄に飛び込む勇気のない思想は、思想とは言えないとよく口にした。その頃、太宰さんは「空無」という言葉をさかんに使った。「虚無」とは違う。虚無にはまだ底に何か残っている。「空無」には何もない。どん底である。人間、どん底まで落ちてはじめて跳ね返り得ると、よく言っていた。サルトル実存主義は甘いとも言った。日本の哲学者田辺元が唱える「空無」に共感すると。

 【了】

********************
【参考文献】
・小野才八郎『太宰治語録』(津軽書房、1998年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】海

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今週のエッセイ

◆『海』
 1946年(昭和21年)、太宰治 37歳。
 1946年(昭和21年)5月下旬頃に脱稿。
 『海』は、1946年(昭和21年)7月1日発行の「文學通信」第一巻第三号の「随筆」欄に発表された。

「海

 東京の三鷹の家にいた頃は、毎日のように近所に爆弾が落ちて、私は死んだってかまわないが、しかしこの子の頭上に爆弾が落ちたら、この子はとうとう、海というものを一度も見ずに死んでしまうのだと思うと、つらい気がした。私は津軽平野のまんなかに生れたので、海を見ることがおそく、十歳くらいの時に、はじめて海を見たのである。そうして、その時の大興奮は、いまでも、私の最も貴重な思い出の一つになっているのである。この子にも、いちど海を見せてやりたい。
 子供は女の子で五歳である。やがて、三鷹の家は爆弾でこわされたが、家の者は誰も傷を負わなかった。私たちは妻の里の甲府市へ移った。しかし、まもなく甲府市も敵機に襲われ、私たちのいる家は全焼した。しかし、戦いは(なお)つづく。いよいよ、私の生れた土地へ妻子を連れて行くより他は無い。そこが最後の死場所である。私たちは甲府から、津軽の生家に向って出発した。三昼夜かかって、やっと秋田県東能代(ひがしのしろ)までたどりつき、そこから五能線に乗り換えて、少しほっとした。
「海は、海の見えるのは、どちら側です。」
 私はまず車掌に尋ねる。この線は海岸のすぐ近くを通っているのである。私たちは、海の見える側に(すわ)った。
「海が見えるよ。もうすぐ見えるよ。浦島太郎さんの海が見えるよ。」
 私ひとり、何かと騒いでいる。
「ほら! 海だ。ごらん、海だよ、ああ、海だ。ね、大きいだろう、ね、海だよ。」
 とうとうこの子にも、海を見せてやる事が出来たのである。
「川だわねえ、お母さん。」と子供は平気である。
「川?」私は愕然(がくぜん)とした。
「ああ、川。」妻は半分眠りながら答える。
「川じゃないよ。海だよ。てんで、まるで、違うじゃないか! 川だなんて、ひどいじゃないか。」
 実につまらない思いで、私ひとり、黄昏(たそがれ)の海を眺める。

 

深浦の「海べでのまどい」

 1945年(昭和20年)4月2日未明、太宰の住む三鷹アメリカ空軍の攻撃にさらされ、自宅周辺一帯に爆撃を受けました。太宰宅は、自宅裏と西側とに爆弾が落とされ、家の西側が破壊されたそうです。
 三鷹が狙われたのは、軍需省航空兵器局の管轄下にある中島飛行機があり、「一大軍需工業地帯」と呼ばれるような場所だったからでした。
 この夜の空爆で、三鷹下連雀二町会の住民56人が亡くなったそうです。

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 三鷹爆撃の4、5日後、太宰は先に故郷の山梨県甲府市疎開させていた妻・津島美知子を頼り、甲府へと身を寄せました。
 しかし、同年7月6日の午後11時23分、甲府に空襲警報が発令されます。アメリカ軍の爆撃機B29から、約10,400発、970トン余りの焼夷弾が市街一円に投下されました。この甲府空襲では市街地の約74%が焼き尽くされ、負傷者は1,239名、被害戸数は18,094戸、死者は1,127名にも及んだそうです。
 太宰が疎開していた美知子の実家も、この空襲で全焼しました。

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 甲府空襲後、太宰は、美知子の実家・石原家と交流があった山梨高等工業専門学校(現在の山梨大学)教授・大内勇の好意で、大内宅に身を寄せていましたが、炎熱の気候の中、肩身の狭い生活に半ば力尽きた太宰は、自身の故郷・津軽への疎開を決意しました。長らく故郷から遠ざかっていた太宰ですが、前年1944年(昭和19年)5月には、小説津軽を執筆するための取材旅行も行っており、精神的な抵抗感も少し弱くなっていたのかもしれません。
 太宰は、津軽への疎開準備を進め、同年7月28日に甲府駅を出発。上野駅から一路津軽を目指します。東北線、陸羽線、奥羽線と乗り継ぎ、二晩、駅のコンクリートの上で、リュックサックを枕に夜を過ごしました。朝に目覚めた太宰は、「乞食の境地がちょっと分かったね」と美知子に言ったそうです。

 2日後の同年7月30日、秋田県北部にある能代駅に辿り着いた太宰一行は五能線に乗り換えます。青森県深浦町で途中下車し、その日の夜は、秋田屋旅館に宿泊しました。この旅館は、太宰の次兄・津島英治の友人・島川貞一が経営しており、津軽執筆の取材旅行時にも宿泊、もてなしを受けていました。
 駅構内で過ごす夜が続いた上、甲府出発以来、飲むことができなかったアルコールに今夜は出会えるかもしれない、という期待を抱いての宿泊でした。美知子は、この時のことを「前夜もその前夜も駅の構内でごろ寝して、暑いさ中の乳幼児をかかえての旅で私は疲れきっていた。一刻も早く目的地に着きたいとも思わないが、まわり道したくなかった。」と回想しています。

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秋田屋旅館 現在はふかうら文学館として公開。2018年、著者撮影。

 期待していたアルコールですが、旅館で出迎えてくれたのは、17、8歳の娘さん。主人は長患いの床に就いているとのことで、娘さんは自分の在籍している学校が2日前の青森市の空襲で焼失してしまい、これから一体どうなるのだろう、と興奮気味に語りました。
 夕食として出されたのは2つの膳で、そこにお酒の姿はありませんでした。美知子は「窓も電灯も遮光幕で(おお)って、手もとが(わず)かに見えるほどの暗い部屋で、とうてい、お銚子をと言い出すことが出来なくて、あてにして来た太宰が気の毒であった。」と回想します。

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 翌7月31日の朝、深浦駅で列車の時刻を確認した後、太宰一行は海辺へ向かいます。この時の様子を、美知子の著書回想の太宰治から引用します。

 翌日は晴天で、窓をあけてみると空地に網や漁具が干してあって、漁港に泊ったことを実感した。宿に頼んでワカメを土産用に買って駅に向かった。
 (中略)
 夕方までに金木へ着けばよいので、のんびりした気持で駅で発車の時間をたしかめてから、足はしぜんに海べに向かった。
 朝の海は()いでいて大小様々の岩が点在し、磯遊びには絶好であった。
 四つの長女はまだ海を見たことがない。一家で子供中心の行楽の旅に出たこともなかったから、私たちははしゃいで、しばらく海べでのまどいを楽しんだ。

 今回紹介したエッセイ『海』は、この時の様子を回想したものだったのでしょうか。
 実は、美知子の回想には続きがあります。

 太宰が金木で書いた「海」というコントがある。
 海を指して教えても川と海の区別ができない子、居眠りしながら子の言葉にうなずく母――海というと私に浮かぶのは、あの深浦の朝の楽しかった家庭団欒(だんらん)(ひと)ときである。「浦島さんの海だよ、ほら小さいお魚が泳いでいるよ」とはしゃいだのはだれだろう。太宰自身ではないか。なぜ家庭団欒を書いてはいけないのか――私は「海」を読んでやり切れない気持であった。

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 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】津軽地方とチェホフ

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今週のエッセイ

◆『津軽地方とチェホフ』
 1946年(昭和21年)、太宰治 37歳。
 1946年(昭和21年)4月下旬頃に脱稿。
 『津軽地方とチェホフ』は、1946年(昭和21年)5月15日発行の「アサヒグラフ」第四十五巻第十四号に発表された。

津軽地方とチェホフ

 こないだ三幕の戯曲を書き上げて、それからもっと戯曲を書いてみたくなり、長兄の本棚からさまざまの戯曲集を持ち出して読んでみたが、日本の大正時代の戯曲のばからしさには(あき)れた。よくもまあ、こんなものを、書く人も退屈せずに書いたもの(かな)、そうしてこんなものでもたいてい大劇場に(おい)て当時の名優に依って演ぜられたものらしいが、よくもまあ、名優たちもこんなつまらない台詞を大真面目で暗誦したもの(かな)、よくもまあ、観客も辛抱して見ていたもの(かな)、つくづく(あき)れ、不愉快にさえなった。
 女  此頃お仕事をなさいませんのね。
 男  出来ないのです。行き詰まって其処(そこ)から奥へどうしても突き入れないんです。
 女  今にお出来になりますわ。せきとめられた水が(せき)を破って出るような勢で。
 馬鹿にするな、と言ってやりたい。これはほんの一例であるが、まあ、たいていこんな按配で、とても読んで行けない。戯曲に限らず、大正時代の文学で、たいへん有名なものでも、今読むと実にひどいのが多い。いちど全部、大掃除の必要があるように思われる。それで、その戯曲の話だが、いろいろ読んで、私にはやはりチェホフの戯曲が一ばん面白かった。チェホフの有名な戯曲は、たいてい田舎の生活を主題にしている。いま私は、戦災のため田舎暮しを余儀なくされているが、ちょうどいまの日本の津軽地方の生活が、そっくりチェホフ劇だと言ってよいような気さえした。津軽地方にも、いまはおびただしく所謂(いわゆる)「文化人」がいる。そうしてやたらに「意味」ばかり求めている。たとえば、「伯父ワーニャ」のアーストロフ氏の言の如く、
ーーインテリゲンチャには閉口です。あの連中は我々の善良なる友人であるが、考えが偏狭で感情はうそ寒く、自分の鼻からさきの事はまるで見えない……何の事はない、ただもう馬鹿なんです。少し利巧な見ばえのするような人間は、これはまたヒステリイ、疑いと卑屈に蟲食われてしまっています……こういう手合いは愚痴を言う、人を憎む、病的に讒謗(ざんぼう)(たくま)しうする。そして人に接するのにも、わきの方からそっと寄って行って、じろりと横目で見て、「ああ、あれは変態だ!」とか、「あれは法螺(ほら)ふきだ!」とか一口に言って片づけてしまう。ところが、例えば私の額に、どういうレッテルを貼ればいいか分からないような時には、「あれは妙な奴だ、どうも妙な奴だ!」と言う。私が森がすきならこれも妙、私が肉を食わなければこれもやっぱり妙だと来る。まあ、こう言ったようなもので、自然や人間に対する素直な、清い、鷹揚な態度は既にないのです……ない、全くない!
 それからまた「桜の園」のトロフィーモフ氏の言の如く、
ーー僕の知っているインテリゲンチャの大部分は、何物も、求めていないし、そうして何一つ仕事もせず、労働に対しては今のところ無能です。彼らは自らインテリゲンチャと称しながら、召使に向っては「お前」と呼び捨てにするし、百姓などはまるで動物扱いにして、ろくすっぽ勉強はせず、本気に読書という事もしない。全く何一つしないで、科学もただ口先で云々(うんぬん)するだけだし、芸術の事だってろくろく分りやしないんです。その癖、みんな真面目で、みんな厳粛な顔をして、みんな高尚な事ばかり言って、哲学者気取りでいますが、それでいて我々の大多数は百人のうち九十九人まで、まるで野蛮人のような生活をして、ちょっとどうかすると、すぐ(いが)み合ったり、悪口をつき合ったりします。そんなわけで我々の口にする美しいみたいな話は、みんなただ自他の目を誤魔化すために過ぎないのです。それはもう見え透いています。現にこの頃やかましい労働者の小児預り所は、一体どこにあるんです? 国民図書館はどこにあるんです? 一つ教えて下さいませんか。そんなものは小説に書いてるだけで、本当にはまるでありやしない。あるものはただ(あか)と、凡俗と、アジア風の生活ばかりです……僕はあまり糞真面目な顔が、おそろしくもあれば嫌いでもあります。僕は糞真面目な話を恐れます。それよりいっそ黙っていた方がいい。
 さらにまた「三人姉妹」に於いては、トウゼンバッハ氏とマーシャさんが、次のような会話を交している。
 トウゼンバッハ__二百年三百年はおろか、たとえ百万年の後でも、生活はやはりこれまでの通りです。我々に何の関係もない--少くとも、我々の到底知ることの出来ないような、それ自身の法則に従いながら、生活は永久に変ることなく、常に一定の形を保って続いて行くでしょう。渡り鳥、まあ、例えば鶴などが飛んで行くとする。そして高級なものか低級なものか、とにかく、どんな考えがその鶴の頭に宿っているとしたところで、彼等は依然として飛んで行きます。そしてなぜ、どこへという事は知らないのです。たとえ、どんな哲学者が彼等の間に現れようと、彼等は現在も飛んでいるし、また未来も飛んで行くことでしょう。何とでも勝手に理屈をこね(まわ)すがいい、おれ達はただ飛べばいいんだってね……
 マーシャ__それにしても意味というものが__
 トウゼンバッハ__意味ですって……いま雪が降っている、それに何の意味があります?
 津軽地方のインテリゲンチャたちも、実にこの「意味」の追及に熱心である。月日は流れる水の如く、と言えば、それはどんな意味ですとすぐに反問する。
 所謂(いわゆる)サンボリズムの習練などは全く無い。

 

太宰とチェーホフ

 今回のエッセイのタイトルになっている「チェホフ」は、ロシアを代表する劇作家、小説家でもあるチェーホフ(1860~1904)のことです。代表作にワーニャ伯父さん(1899~1900)、三人姉妹(1901)、桜の園(1904)などがあります。チェーホフは、近代演劇の創始者であり、短篇小説の名手でもあります。

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■アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(1860~1904) ロシアを代表する劇作家であり、多くの優れた短篇を遺した小説家。

 太宰は事あるごとに、好きなロシア作家として、チェーホフの名前を挙げています。
 太宰の友人・檀一雄も「何といっても、西洋の文学で太宰の一番の愛読書はチェホフだ。短編のすべての根幹にその激しい影響がみられるだろう」と指摘しています。

 走れメロス新ハムレットお伽草紙など、既存の物語を換骨奪胎して自身の小説に仕上げてしまうのは、太宰の創作手法のひとつですが、チェーホフの作品に影響を受けて執筆された小説もあります。
 太宰の小説彼は昔の彼ならずで、「真似しますのよ。あの人の意見なんかあるものか。みんな女からの影響よ(略)」「まさか。そんなチェホフみたいな。」と書いていますが、これはチェホフの『可愛い女』の換骨奪胎です。主人公・オーレニカは夫運が悪く、夫が変わる度に新しい夫の意見をそのまま自分の考えにして、借りものの人生を生きる女性でしたが、彼は昔の彼ならずの青扇は、女が変わる度に女に合わせるという人物でした。太宰の男女同権も、チェーホフ『煙草の害について』を換骨奪胎した作品です。

 また戦後、太宰は「傑作を書きます。大傑作を書きます。日本の『桜の園』を書くつもりです。没落階級の悲劇です。」と言って、小説斜陽を執筆しています。

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■『斜陽』初版復刻本 1992年(平成4年)、日本近代文学館より『名著初版本復刻 太宰治文学館』として復刻された初版本。

 斜陽が執筆されたのは、1947年(昭和22年)。
 2年前の1945年(昭和20年)12月、GHQ(連合軍総司令部)は「農地改革に関する覚書」を発表。これを受けて日本政府は、翌1946年(昭和21年)2月に農地調整法を改正し、地主、小作人の協議による土地の売買を推し進めました。しかし、GHQはその内容が不徹底であることに強い不満を示し、第二次農地改革が始められました。同年10月に自作農創設特別措置法が公布され、国が地主から買収して、小作人に売却する形が取られ、これによって「寄生地主」が壊滅することになりました。
 また、農地改革と並行して1946年(昭和21年)11月、財産税法も公布されました。これは、極端な累進課税で、翌1947年(昭和22年)3月3日には、強制的に金融申告をすることが義務付けられました。年収10万円以上は25%、1,500万円以上は90%の税率を課すというもので、物納も可能だったため、大地主はこぞって所有していた土地を手放していきました。
 戦禍から逃れ、1945年(昭和20年)7月末から翌年11月まで故郷・津軽疎開していた太宰は、一連の農地改革による地主の土地所有制の解体を目の当たりにし、大きな衝撃を受けたものと思われます。
 津島家も斜陽を迎え、1948年(昭和23年)6月26日、津島家の長兄・津島文治は、当時の金木町長・角田唯五郎に約250万円で家屋敷を売却しています。

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■太宰の生家 1948年(昭和23年)6月に角田氏へ売却されたが、使い道がなかったため、2年後に旅館として開業。現在は、太宰治記念館「斜陽館」として五所川原市の施設となっている。また、近代和風住宅の代表例として2004年(平成16年)に国の重要文化財に指定されている。

 チェーホフ桜の園では、昔ながらの地主貴族だったヒロイン・ラネーフスカヤ夫人が、急変する現実を受け入れることができず、昔の夢におぼれたため、先祖代々の領地を手放さざるを得なくなってしまいます。土地を買い取る成金商人・ロパーヒンの登場や、過去の生活に未練を持たず新しい生活に飛び込んでいく娘・アーニャに未来が託される展開は、太宰の斜陽に通ずる部分です。
 夕映えのごとく消えゆく貴族階級の哀愁が描かれた桜の園を読みながら、太宰は無意識に自身の生家を重ねていたかもしれません。

 実際に斜陽が執筆されたのは、金木での疎開生活を終えて帰京してから約半年後でしたが、太宰の妻・津島美知子は、「作品の構想は既に金木にいる間に芽生えていて、斜陽という題名も定っていた」と回想しています。

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 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
安藤宏太宰治論』(東京大学出版会、2021年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】返事

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今週のエッセイ

◆『返事』
 1946年(昭和21年)、太宰治 37歳。
 1946年(昭和21年)2月9日に脱稿。
 『返事』は、1946年(昭和21年)5月1日発行の「東西」第一巻第二号の「文学的通信」欄に『返事の手紙』と題して発表された。ほかには、『太宰治君への手紙』(貴司山治)、『貴司への返事をかねて』(なかの・しげはる)、『中野重治へ』(貴司山治)が掲載された。

「返事

 拝復。長いお手紙をいただきました。
 縁というものは、妙なものですね。(なんて、こんな事を言うと、非科学的だといって叱られるかしら。うるさい時代が過ぎて、二三日、ほっとしたと思ったら、また、うるさい時代がやって来ました。縁などというのは迷信である。必然的と言わなければならぬ、なんて、一言一言とがめられる、あの右翼のやっかい以前の左翼のやっかい時代が、また来るのかしら。あれももう私は、ごめんです)あなたも作家、私も作家、けれども今まで一度も逢った事は無し、またお互いにその作品を一度も読んだ事のない者どうしが、ふっとした事で、こうして長い手紙を交換する。縁と言ったってかまやしません。
 このたび私の「惜別」が橋になって、あなたから長いお手紙をいただきましたが、私は、たいへんうれしかった。あなたのお手紙の文面が、やさしく正直なのも大きな悦びでありましたが、それよりも何よりも、私にはあのお手紙の長さが有難かったのです。本当にもうこのごろは、お互い腹のさぐり合いで、十年来の友人でも、あいまいな事をちょっとだけ書いて寄こして、あなたみたいに、長い手紙を書いてはくれません。何も用心しなくたっていいじゃないか。私がマ司令に密告するわけじゃあるまいし。
 きょうは、あなたのお手紙の長さに感奮し、その返礼の気持もあり、こんな馬鹿正直の無警戒の手紙を差上げる事になりました。
 私たちは程度の差はあっても、この戦争に於いて日本に味方をしました。馬鹿な親でも、とにかく血みどろになって喧嘩(けんか)をして敗色が濃くていまにも死にそうになっているのを、黙って見ている息子も異質的(エクセントリック)ではないでしょうか。「見ちゃ居られねえ」というのが、私の実感でした。
 実際あの頃の政府は、馬鹿な悪い親で、大ばくちの尻ぬぐいに女房子供の着物を持ち出し、箪笥(たんす)はからっぽ、それでもまだ、ばくちをよさずにヤケ酒なんか飲んで女房子供は飢えと寒さにひいひい泣けば、うるさい! 亭主を何と心得ている、馬鹿にするな! いまに大金持になるのに、わからんか! この親不孝者どもが! など叫喚(きょうかん)して手がつけられず、私なども、雑誌の小説が全文削除になったり、長篇の出版が不許可になったり、情報局の注意人物なのだそうで、本屋からの注文がぱったり無くなり、そのうちに二度も罹災(りさい)して、いやもう、ひどいめにばかり遭いましたが、しかし、私はその馬鹿親に孝行を尽そうと思いました。いや、妙な美談の主人公になろうとして、こんな事を言っているのではありません。他の人も、たいていそんな気持で、日本のために力を尽したのだと思います。
 はっきり言ったっていいんじゃないかしら。私たちはこの大戦争に於いて、日本に味方した。私たちは日本を愛している、と。
 そうして、日本は大敗北を喫しました。まったく、あんな有様でしかもなお日本が勝ったら、日本は神の国ではなくて、魔の国でしょう。あれでもし勝ったら、私は今ほど日本を愛する事が出来なかったかも知れません。
 私はいまこの負けた日本の国を愛しています。(つて無かったほど愛しています。早くあの「ポツダム宣言」の約束を全部果して、そうして小さくても美しい平和の独立国になるように、ああ、私は命でも何でもみんな捨てて祈っています。
 しかし、どうも、このごろのジャーナリズムは、いけませんね。私は大戦中にも、その頃の新聞、雑誌のたぐいを一さい読むまいと決意した事がありましたが、いまもまた、それに似た気持が起って来ました。
 あなたの大好きな魯迅(ろじん)先生は、所謂(いわゆる)「革命」に依る民衆の幸福の可能性を懐疑し、まず民衆の啓蒙(けいもう)に着眼しました。またかつて私たちの敬愛の的であった田舎親爺(おやじ)の大政治家レニンも、常に後輩に対し、「勉強せよ、勉強せよ、そして勉強せよ」と教えていた(はず)であります。教養の無いところに、真の幸福は絶対に無いと私は信じています。
 私はいまジャーナリズムのヒステリックな叫びの全部に反対であります。戦争中に、あんなにグロテスクな嘘をさかんに書き並べて、こんどはくるりと裏がえしの同様の嘘をまた書き並べています。講談社がキングという雑誌を復活させたという新聞広告を見て、私は列国の教養人に対し、冷汗をかきました。恥ずかしくてならないのです。
 どうして、こんなに厚顔無恥なのでしょう。カルチベートされた人間は、てれる事を知っています。レニンは、とても、てれやだったそうではありませんか。(こと)に外国からやって来た素見(ひやかし)の客(たとえば、松岡とか大島とかいう人たち)に対しては、まるでもう処女の如くはにかみ、顔を真赤にしたという話を聞きました。松岡などに逢ったら、多少でも良心のあるひとなら誰でも、へどもどしますよ。それを当の松岡は(これは譬噺(たとえばなし)で、事実談ではありません)レニンに(あき)れられているという事にも気づかず、「なんだ、レニンってのは、噂ほどにも無い男だ、我輩の眼光におされてしどろもどろではないか、意気地が無い!」と断じて、悠然と引上げ、「ああ、やっぱり、ヒットラーに限る! あの颯爽(さっそう)たる雄姿、動作の俊敏、天才的の予言!」などという馬鹿な事になるようですが、私はそのヒットラーの写真を拝見しても、全くの無教養、ほとんどまるで床屋の看板の如く、仁丹(じんたん)の広告の如く、われとわが足音を高くする目的のために長靴(ちょうか)(かかと)にこっそり鉛をつめて歩くたぐいの伍長あがりの山師としか思われず、私は、この事は、大戦中にも友人たちに言いふらして、そんな事からも、私は情報局の注意人物というわけになったのかも知れません。
 はにかみを忘れた国は、文明国で無い。今のソ(れん)は、どうでしょうか。いまの日本の共産党は、どうでしょうか。
 私たちの魯迅先生が、いま生きていたら、何と言われるでしょう。また、プウシキンの読者だったあのレニンが、いま生きていたら、何と言うでしょう。
 またまた、イデオロギイ小説が、はやるのでしょうか。あれは大戦中の右翼小説ほどひどくは無いが、しかし小うるさい点に於いては、どっちもどっちというところです。私は無頼派(リベルタン)です。束縛に反抗します。時を得顔のものを嘲笑(ちょうしょう)します。だから、いつまで経っても、出世できない様子です。
 私はいまは保守党に加盟しようと思っています。こんな事を思いつくのは私の宿命です。私はいささかでも便乗みたいな事は、てれくさくて、とても、ダメなのです。
 宿命と言い、縁と言い、こんな言葉を使うと、またあのヒステリックな科学派、または「必然組」が、とがめ立てするでしょうが、もうこんどは私もおびえない事にしています。私は私の流儀でやって行きます。
 汝等(なんじら)おのれを愛するが如く、汝の隣人を愛せよ。
 これが私の最初のモットーであり、最後のモットーです。
 さようなら。またおひまの折には、おたよりを下さい。しかし、妙な縁でしたね。お大事に。敬具。

 

全文削除となった花火

 エッセイ中で、太宰は「雑誌の小説が全文削除になったり」と書いています。
 この全文削除になった小説とは、花火(のちに日の出前と改題)です。花火は、戦時中の1942年(昭和17年)8月11日頃から、箱根に行き、箱根ホテルに滞在しながら執筆されました。

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箱根ホテル 富士屋ホテルチェーン直営で、1923年(大正12年)開業。創業者・山口仙之助は「外国人の金を取るをもって目的とす」という言葉を残しており、「外国人を対象とした本格的なリゾートホテル」を目指したといいます。

 花火39枚は、もともと加納正吉が編集していた雑誌「八雲」(小山書店発行)のために執筆されたもので、当初は『名月』という題だったそうです。
 同年8月末頃に脱稿されたものと推定されますが、原稿を読んだ加納が「時局にふさわしくない内容」であることを憂慮して掲載が見合わされ、「八雲」には代わりに小説帰去来が掲載されました。帰去来は、1941年(昭和16年)8月17日、故郷の母が衰弱していると聞き、10年振りに故郷へ帰ったときのことを題材に書かれた小説です。

 「時局にふさわしくない」ことを理由に掲載が見送られた花火は、1935年(昭和10年)11月3日の深夜に、東京市本郷区弓町1丁目25番地で実際に起こった事件をモチーフに執筆されました。

 父親の医師・徳田寛(当時52歳)と母親・徳田はま(当時46歳)が共謀して保険金詐欺を企み、日本大学専門部歯科3年在籍の不良だった長男・徳田貢(当時23歳)を、母親と妹・徳田栄子(当時21歳)が惨殺したこの事件は、「日大生殺し」として世上に取り沙汰されました。長男には生命保険3社がかけられており、保険金は66,000円(現在の貨幣価値で1億3,000万円)にも及びました。当時、生命保険はそれほど普及しておらず、妻や他の子供には生命保険はかけられていなかったそうです。日本で最初の保険金殺人事件と言われています。

 太宰は、事件の翌年1936年(昭和11年)2月22日に刊行された『日大生殺し/徳田栄子の手記 ー肉親犯罪の謎を解けー』(第百書房)を入手して執筆したと思われます。同書は「序のことば」「徳田栄子の手記」の諸稿から成っています。

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■一審判決を伝える「東京朝日新聞」記事 1937年(昭和12年)7月20日発行。

 一度掲載が見送られた花火ですが、3ヶ月後の1942年(昭和17年)10月1日発行の総合雑誌「文藝」十月号に発表されました。しかし、「文藝」発売後に「風俗削除処分」が下され、全文削除を命じられます。

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内務省警保局の秘密文書「出版警察報」145号 1942年(昭和17年)10月8日削除処分。処分の理由について、「一般家庭人ニ対シ悪影響アルノミナラズ、不快極マルモノ」とある。

 戦時中の出版検閲は、「善良なる風俗を害する事項」に下される"風俗禁止"と、「共産主義の煽動」に対する"安寧禁止"の2つの基準で運用されていました。
 内務省警保局の秘密文書「出版警察報」には、花火「一般家庭人ニ対シ悪影響アルノミナラズ、不快極マルモノ」であることを理由に削除処分を下したと書かれています。つまり、"風俗禁止"に該当するという判断でした。また、主人公「勝治」が「マルキストヲ友トシ」とも言及されてることから、"安寧禁止"の要素も含まれてると判断されていたようです。

 特別高等警察特高警察)によってでっち上げられた、戦時下最大の思想・言論弾圧事件と言われる横浜事件のきっかけになった細川嘉六の論文『世界史の動向と日本』は、花火発表の前月、前々月の「文藝」八月号、九月号に掲載されており、花火もまた、当時の風潮の中で、格好の的にされたものと思われます。

 全文削除を命じられた花火ですが、4年後の1946年(昭和21年)11月20日に新紀元社から刊行された「薄明」日の出前と改題されて収録されました。

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■『花火』が収録された単行本「薄明」 1992年(平成4年)に日本近代文学館より刊行された『名著初版本復刻 太宰治文学館』。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
日本近代文学館 編『太宰治 創作の舞台裏』(春陽堂書店、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「【公式】箱根ホテル
・HP「「母さん許して!」なぜ“我欲の鬼女”は叫ぶ我が子を出刃包丁でメッタ刺しにしたのか?」(文春オンライン
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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