記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】徒党について

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今週のエッセイ

◆『徒党について』
 1948年(昭和23年)、太宰治 39歳。
 1948年(昭和23年)2月29日に脱稿。
 『徒党について』は、1948年(昭和23年)4月1日発行の「月刊讀物」第一巻第五号に新仮名遣いで発表された。カットは阿部合成。ほかには、「知事と太宰治」(小林浮浪人)、「礼文島と私」(稲見五郎)、「李順永」(竹内俊吉)、「友遠方より来たらず」(平井信作)、「恋愛ばやり」(沙和宗一)などが掲載された。

「徒党について

 徒党は、政治である。そうして、政治は、力だそうである。そんなら、徒党も、力という目標を(もっ)て発明せられた機関かも知れない。しかもその力の、頼みの綱とするところは、やはり「多数」というところにあるらしく思われる。

 

 ところが、政治の場合に()いては、二百票よりも、三百票が絶対の、ほとんど神の審判の前に()けるがごとき勝利にもなるだろうが、文学の場合に()いては少しちがうようにも思われる。

 

 孤高。それは昔から下手(へた)なお世辞の言葉として使い古され、そのお世辞を奉られている人にお目にかかってみると、ただいやな人間で、誰でもその人につき合うのはご免、そのような(たち)の人が多いようである。そうして、その所謂(いわゆる)「孤高」の人は、やたらと口をゆがめて「群」をののしる。なぜ、どうしてののしるのかわけがわからぬ。ただ「群」をののしり、己れの所謂(いわゆる)「孤高」を誇るのが、外国にも、日本にも昔はみな偉い人たちが「孤高」であったという伝説に便乗して、以て吾が身の()びしさをごまかしている様子のようにも思われる。

 

「孤高」と自らを号しているものには注意をしなければならぬ。第一、それは、キザである。ほとんど例外なく、「見破られかけたタルチュフ」である。どだい、この世の中に、「孤高」ということは、無いのである。孤独ということは、あり得るかもしれない。いや、むしろ、「孤低」の人こそ多いように思われる。

 

 私の現在の立場から言うならば、私は、いい友達が欲しくてならぬけれども、誰も私と遊んでくれないから、勢い、「孤低」にならざるを得ないのだ。と言っても、それも嘘で、私は私なりに「徒党」の苦しさが予感せられ、むしろ「孤低」を選んだほうが、それだって決して結構なものではないが、むしろそのほうに住んでいたほうが、気楽だと思われるから、()えて親友交歓を行わないだけのことなのである。

 

 それでまた「徒党」について少し言ってみたいが、私にとって(ほかの人は、どうだか知らない)最も苦痛なのは、「徒党」の一味の馬鹿らしいものを馬鹿らしいとも言えず、かえって賞賛を送らなければならぬ義務の負担である。「徒党」というものは、はたから見ると、所謂(いわゆる)「友情」によってつながり、十把一(じっぱひと)からげ、と言っては悪いが、応援団の拍手のごとく、まことに小気味よく歩調だか口調だかそろっているようだが、じつは、最も憎悪しているものは、その同じ「徒党」の中に居る人間なのである。かえって、内心、頼りにしている人間は、自分の「徒党」の敵手の中に居るものである。

 

 自分の「徒党」の中に居る好かない奴ほど始末に困るものはない。それは一生、自分を憂鬱にする種だということを私は知っているのである。

 新しい徒党の形式、それは仲間同士、公然と(、、、)裏切るところからはじまるかもしれない。

 

 友情。信頼。私は、それを「徒党」の中に見たことが無い。

 

「孤低」の太宰

 太宰は自身を「孤低」と表現し、「むしろそのほうに住んでいたほうが、気楽だと思われるから、()えて親友交歓を行わない」と理由を述べています。

 今回は、弟子・菊田義孝の著書太宰治の弱さの気品に収録されている太宰治の「弱さ」について』を引用しながら、太宰の"弱さ"について見ていきます。

 林房雄三島由紀夫両氏の対話をまとめた『日本人論』という本を最近読んだ。そのなかで、太宰治の「弱さ」ということが、徹底的に論難されている。それに対して私は必ずしも太宰を弁護しようというのではないが、私なりに多少疑問に思う点もあるので、その疑問を述べてみたい。まず両氏の太宰批判がどのような概念にもとづいてなされているかを知るために、二、三、関係箇所を抜粋しておく。

 

 三島 太宰治の小説なんかの、いまもっている青年に対する意味というものね、僕は太宰嫌いだから、偏見もあるかも知れないけれども、やはりいまでもアピールしていることはたしかですよ。自己憐憫(れんびん)、それから、「生まれて、すみません」。それから、「自分はこんなに駄目な人間だけれども、駄目な人間でも一言いわせてもらいたい」。あれが埋没された青年というものに訴えるのですね。青年というものは、いかに大きなことを言っていても、やはり自分が埋没している。埋もれている。そうして、それをなんとかして肯定する方法はないかと思っている。非常な自己憐憫、そういうものじゃないと、結局わからないところがあるのですね。
  文学自体は弱いものだが、弱いものの味方であるというのは嘘です。どこまでも強いものの、美しきものの味方でしょう。太宰の小説は自分の弱さをさらけ出すことによって、弱いものの見方顔をしている。(略)人間に重要なものは、あなたの言う、克己(こっき)、自制、勇気、英雄的行動です。この自覚はつらいことだ。悲劇的結末に通ずるから。……だが、そうじゃなければいけないのです。人間の弱さに妥協してはいけない。(以下略)
 三島 (上略)近代文化は、人間の弱さ、ないしは人間の真実を露呈する。それはたしかに近代文学の発見だったかも知れない。しかし、どこに真実があるのか、弱さにだけ真実があるというのはほんとうだろうかというのが、僕の根本的な疑問だった。(以下略)

 

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三島由紀夫

 

 太宰には、非常な弱さがあった。それはたしかにそのとおりである。しかし、単に自己憐憫から、弱さを弱さそのものとして、まるごと肯定していたのだろうか。自分の弱さをさらけ出しさえすれば、人間の真実を表現することになる。それによって、自他の救いさえもたらすことができるかもしれない。そのように考えていたのだろうか。彼は自分の弱さそのものではなく、その弱さのうちにこもっている、言いかえれば、自分をしてそのように弱きものたらしめている何ものか、その何ものかの価値を、かたく信じていたからこそ、その弱さの表現ということを終始一貫、自己の文学のライトモチーフとしたのではないか。

 

 「ただ太宰というのはたいへんなレトリシャンで、うまいですよ。比喩や形容が。その意味の天才だ。たいへんな才能ですよ。」と林氏は言っておられるが、林氏はたとえば、「HUMAN LOST」のなかの《享楽のための注射一本、求めなかった。おめん! の声のみ盛大の二、三の剣術先生的文士を避けたにすぎぬ。「水の火よりも(つよ)きを知れ、キリストの嫋々(じょうじょう)の威厳をこそ学べ。」》という一節を読んでも、やはりそこに太宰の(たく)みなレトリックしか感得できないのであろうか。そこになにか、権威という言葉さえ使いたくなるほどの高く強い調子であらわされている、太宰の「自信」の強さが、いったいどこから来たものかと、首をひねる気にもならないのであろうか。
 「その弱さ、優しさこそ、太宰その人の人格であり、天性であり、良質だったのであり、良心だったのである。ひとは、ただひとつの本質を、いろいろの角度から、まるで異質なものでもあるように命名したがるものだが、その弱さこそ太宰の感性だったわけであり、その優しさこそ、太宰のヒューマニティーだったのである。太宰の実存はテンダーネスの一語につきるとぼくは確信するようになっている。」(山岸外史『人間太宰治』)

 

 太宰は、単なる弱虫ではなかった。<優しい人間>だったのである。<優しさ>が、太宰の神であった。彼の弱さは、その優しさゆえに、余儀なくかぶらざるをえなかった仮面のごときものでさえあった。優しさは、他者に関する事がらである。自己憐憫はけっして優しさではない。むしろエゴイズムである。太宰の弱さが自己憐憫から来たものではなく、その優しさから来たものであるということ、そのけじめを明確にすることは彼の実存を理解する上にきわめて重要である。

 

 太宰は、その動機がたとえ彼の<優しさ>から発したものであったにせよ、あるときついに「人間の弱さ」に妥協していたのではなかったか。そのことも十分に考えてみる必要はある。特にその小説『人間失格』の構想が、「人間の弱さ」への妥協から生まれたものであるか、それとも人間性の内にひそむ悪をギリギリの一線まで追いつめて見ようとしたものであったかは、なおまだ問題にする余地がのこされているように思う。

 

 『日本人論』の中で林氏は、<通俗な意味では、キリスト教も仏教も人間の弱さから出発している。救済とか済度とかの観念の基底には「人間の弱さ」が横たえられている。キリスト教には原罪があり、十戒があり、仏教には五欲六情があり、無明があり、無常がある。人間の弱さを強調しすぎると、現世利益の通俗宗教になってしまう。人間の弱さに挑戦し、人間を強くするものが宗教であるという大切な点が見落とされて、弱さの肯定になってしまう。ニーチェのキリストに対する反発はそこから生まれたのではなかったかね。>と言っておられる。<優しさ>が太宰の神であった、とすれば、他者に対する純正な優しさに生きぬくこと、それが太宰にとっての「宗教」であったということもできるであろう。「人間の弱さに挑戦し、人間を強くするものが宗教である」という命題を、太宰の上に当てはめるとすれば、太宰はその優しさによって人間(おのれ)の弱さに挑戦し、人間(おのれ)を強くすることができなければならなかったはずである、という結論が生まれる。ところで、実際はどうであったか。太宰自身のことはさておき、小説『人間失格』の構想に即して考えてみると、その主人公・大庭葉蔵(おおばようぞう)は、彼自身が持って生まれた優しさ、さきにあげた山岸氏の言葉に置きかえてみれば、<テンダーネス>のゆえに、敗北また敗北、ついには精神病院にぶち込まれた揚句(あげく)、白痴同然の身になって終わるのである。その優しさによって、あるいは優しさを守ることを目的として、おのれの弱さに挑戦し克服しようとつとめた形跡も見当たらない。結局において「弱さの肯定」に終始した、というほかはないようである。作者もまた、その主人公をほとんど全的に肯定している。そこで私としては、葉蔵(ようぞう)の(したがってその作者の)あり方がどこかで完全に狂っているのか、それとも林氏が提出された「宗教」の定義のどこかに間違い(もしくは欠陥)があるのか、あらためて考えてみなければならない。

 

 葉蔵は弱かった、しかし悪人ではなかった。太宰はそう言いたがっているようである。

 

 人間の弱さに挑戦し、人間を強くするものが宗教である、というとき、林氏は人間の「悪」の問題をどのように考えておられたのであろうか。キリスト教には原罪があり、十戒があり、仏教には五欲六情があり、無明がある、とは林氏も言われるところだが、まことにそのとおりである。特にキリスト教の場合、「弱さ」からの救済に立って、まず「罪」からの救済が強調される。キリスト教では、弱さ=罪、とは考えない。いかに強い人間でも、神の前ではひとしく罪人とみるのである。強いか弱いかよりも、義人か罪人か、それがまず問題になるのだ。罪を完全にきよめられて、はじめて人間は真の生命の満ちあふれた存在になることができる、というのがキリスト教の基本理念である。林氏がキリスト教や仏教を代表的な宗教と考えておられるものとすれば、人間の弱さに挑戦し人間を強くするものが宗教だ、というとき当然、人間を罪から解放しそれによって人間を強くするものが宗教だ、という考えを否定できなかったはずである。

 

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 大庭葉蔵を、極端に弱い人間ではあるが、しかしこの世の「悪」とだけは完全に対立する人間として造型しようとしたかに見える太宰は、それにもかかわらず、葉蔵を宗教的な救いにあずからせることだけは最後まで否定した。というのは、はじめに「罪」からの救済、しかるのちに「弱さ」からの救済という、あの宗教的な"道"を踏ませることを否定したということである。葉蔵は、最後まで、強い人間になってはいけなかった。それは、<優しさ>という彼の神に逆うことだったからである。
 林房雄氏は、いわば「転向の名人」である。公衆の面前で、いくどか変身を重ねてきたが、その変身ぶりはいつも颯爽としていた。変身による破れを、少しも見せなかった。「人間が、自分の誠実、シンセリティーを保つためには、しばしば自分の思想を裏切ることがある。」「思想は裏切ってもいい。しかし、どうしても裏切れない究極の何物かに行きあたる。」と、『日本人論』の中で自ら語っている。それにたいして三島氏は、「林さんのようにお生きになって、林さんのように好き勝手なことをおっしゃって、そうして思想的一貫性というものはりっぱにあるのですよ。思想的というか、論理的一貫性と言ったほうがいいいか、論理的一貫不惑ということです。」とこたえている。シンセリティー。それを、一個の人間として当然とるべき責任、と言いかえてもさして不都合はないと思うが、林氏はその責任を全うするために、しばしばその「思想」を裏切ってきたというのである。私にも、別に異議はない。ただ、私が言いたいことは林氏の颯爽たる変身ぶりに比べて、太宰は「転向」のじつに下手糞な男であったということである。左翼運動からの転向にしてもそうだし、日本の敗戦を迎えたあと、占領下現実に処するためには当然変身しなければならなかった、そのときの変身ぶりが、またじつにぶざまをきわめたものであった。君子豹変などと口では唱えながら、ただもうギクシャクして、とても変身などと言えたものではなかった。終戦を迎えて三年そこそこで、川にはいって死んでしまった。太宰にも、シンセリティーはあったと思う。何ものかに対する責任感はあったと思う。むしろ「責任」というものにこだわりすぎる性格であったから、自分がいったんあげた旗を、容易におろすことができなかったのである。無理におろそうとすると、赤面逆上、しどろもどろになって、揚句の果てはただ死のう、と思いつめるほかない性格であった。林氏の場合は、シンセリティーが、その転向を、颯爽たるものにする。太宰の場合は、シンセリティーが全く逆の作用をする。どうしてそういうことになるのか、不思議なものである。

 

 「思想は裏切ってもいい。しかし、どうしても裏切れない究極の何物かに行きあたる。」と林氏は言うが、太宰はいつでもあまりに早く、「どうしても裏切れない究極の何物か」を意識してしまう人だったのかもしれない。ここまではいい、しかしここから先は絶対だめ、という分別をつけることが、どうしてもできない性分だったのかもしれない。それも結局は若さ、未熟さ、というところに帰着するのだろうか。それはさておき、太宰にとって「どうしても裏切れない究極の何物か」というものがもしあったとしたら、それは何であっただろうか。太宰は究極、何に対して誠実であったのか。自己に対して。自己の優しさに対して。太宰の場合「思想」を裏切ることは、そのままただちに自分を信頼してくれている他人を裏切ることであった。その人たちの、心を傷つけることであった。そして、それは取りもなおさず、<優しさ>という彼の神に背反することだったのである。彼の変身が常に拙劣(せつれつ)をきわめたのは結局、そのためである。

 

 太宰は、自己を超克する原理を持たなかった。彼の神は、彼自身に内在する優しさだったのだから、その神に絶対的に服従することは、結局において自分自身を絶対的に肯定することであった。優しさを守って弱さに徹し、完全に没落することが、彼にあっては自我のむしろめずらしいほどの強固さを示すことでさえあったのである。彼の外面に現われた弱さを、彼の自我そのものの弱さと見ることはあやまりである。
 しかし、彼が、その強固であった自我そのものを超克する原理を持たなかったということ、自我そのものを否定し、ささげて、仕えるべき神を持たなかったということは、たしかに一つの大きな空白を感じさせる。たとえて言えば『人間失格』の裏側に書きのこされた空白とでも言おうか。
 ところで、太宰の場合、自我を否定するということは<優しさ>という偶像神を捨てることにほかならない。したがってまた<弱さ>を根源的に否定することにもなったであろう。
 イエス・キリストの父なる絶対神の愛=義と、彼自身の内にある優しさ、そのいずれを取っていずれを捨てるか、それが太宰の迫られた最終的な決断だったと思う。『人間失格』が、それに対する最後の応答となった。

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■菊田義孝 神田すずらん通りで。

 【了】

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【参考文献】
・菊田義孝『太宰治の弱さの気品』(旺国社、1976年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】小説の面白さ

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今週のエッセイ

◆『小説の面白さ』
 1948年(昭和23年)、太宰治 39歳。
 1947年(昭和22年)12月中旬から1948年(昭和23年)1月までの間に脱稿。
 『小説の面白さ』は、1948年(昭和23年)3月1日発行の「個性」第一巻第三号の「小説とは何か」(アンケート)欄に発表された。この欄には、ほかに『或る小説家の言』(豊島与志雄)、『素朴なる賭博者』(椎名麟三)などが掲載された。

「小説の面白さ

 小説と()うものは、本来、女子供の読むもので、いわゆる利口な大人が目の色を変えて読み、しかもその読後感を卓を叩いて論じ合うと云うような性質のものではないのであります。小説を読んで、(えり)を正しただの、頭を下げただのと云っている人は、それが冗談ならばまた面白い話柄でもありましょうが、事実そのような振舞いを致したならば、それは狂人の仕草と申さなければなりますまい。たとえば家庭に於いても女房が小説を読み、亭主が仕事に出掛ける前に鏡に向ってネクタイを結びながら、この頃どんな小説が面白いんだと聞き、女房答えて、ヘミングウェイの「()がために鐘は鳴る」が面白かったわ。亭主、チョッキのボタンをはめながら、どんな筋だいと、馬鹿にしきったような口調で(たず)ねる。女房、(にわ)かに上気し、その筋書を縷々(るる)と述べ、自らの説明に感激しむせび泣く。亭主、上衣を着て、ふむ、それは面白そうだ。そうして、その働きのある亭主は仕事に出掛け、夜は()るサロンに出席し、(いわ)く、この頃の小説ではやはり、ヘミングウェイの「()がために鐘は鳴る」に限るようですな。
 小説と云うものは、そのように情無いもので、実は、婦女子をだませばそれで大成功。その婦女子をだます手も、色々ありまして、(ある)いは謹厳を装い、(ある)いは美貌をほのめかし、あるいは名門の出だと偽り、(ある)いはろくでもない学識を総ざらいにひけらかし、(ある)いは我が家の不幸を恥も外聞も無く発表し、(もっ)て婦人のシンパシーを買わんとする意図明々白々なるにかかわらず、評論家と云う馬鹿者がありまして、それを捧げ奉り、また自分の飯の種にしているようですから、(あき)れるじゃありませんか。
 最後に云って置きますが、むかし、滝沢馬琴と云う人がありまして、この人の書いたものは余り面白く無かったけれど、でも、その人のライフ・ワークらしい里見八犬伝の序文に、婦女子のねむけ(ざま)しともなれば幸なりと書いてありました。そうして、その婦女子のねむけ(ざま)しのために、あの人は目を(つぶ)してしまいまして、それでも、口述筆記で続けたってんですから、馬鹿なもんじゃありませんか。
 余談のようになりますが、私はいつだか藤村と云う人の夜明け前と云う作品を、眠られない夜に朝までかかって全部読み尽し、そうしたら眠くなってきましたので、その部厚の本を枕元に投げ出し、うとうと眠りましたら、夢を見ました。それが、ちっとも、何にも、ぜんぜん、その作品と関係の無い夢でした。あとで聞いたら、その人が、その作品の完成のために十年間かかったと云うことでした。

 

太宰の書く小説

 「小説とは何か」というアンケートに対し、「小説の面白さ」と題し、「小説と云うものは、そのように情無いもので、実は、婦女子をだませばそれで大成功。」と結論づける。太宰お得意の逆説的な手法です。

 今回は、太宰の小説について、太宰の師匠筋にあたる佐藤春夫が太宰の死後に書いた文章稀有(けう)の文才』を紹介します。

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佐藤春夫

 佐藤春夫(1892~1964)は、門弟三千人と言われ、その門人には、井伏鱒二檀一雄吉行淳之介稲垣足穂龍胆寺雄柴田錬三郎中村真一郎五味康祐遠藤周作安岡章太郎古山高麗雄など、一流の作家になった者が多くいました。
 太宰との関係では、芥川賞をめぐる確執が有名です。佐藤は、自分を慕う者の面倒はどこまでも見るが、自分を粗略にした(または、そう思った)者は、親しい付き合いがあっても、すぐに関係を絶つという、物事を白・黒でしか見ない傾向があったそうです。

 芥川賞の季節になるといつも太宰治を思い出す。彼が執念深く賞を(もら)いたがったのが忘れられないからである。事のてんまつは一度書いた事もある。当時それをバクロ小説か何かのように読んだ人もあった模様であったので久しく打捨てて作品集にも入れなかったが、この間「文藝」に再録されたのを久しぶりに再読してみて一言半句の悪意もない事を自分で確かめたので改めて作品集にも安心して加えた。

 

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■佐藤が書いた事の顛末(あの作品)が再録された「文藝」 1953年(昭和28年)12月1日発行。

 

 あの作品には何の悪意もなくむしろ深い友情から出た忠告があったつもりであるが、今冷静に読んでくれればこの事は何人にも了解して(もら)えると思う。しかしあの作品は遠慮会釈なく本当の事をズバリと()っている。自分は本当の事なら誰にも(はばか)らず()っていいと信じている。世俗人ではなく、(いやしく)も文学にたずさわる程の人間ならこんな事ぐらいは常識と思っているのに、あまり本当の事を()われたのが太宰には気に入らなかったと見える。見え坊の彼には鏡の前にアリアリと写った自分の姿が正視するに堪えず恥ずかしかったのであろう。そういう見え坊の慚羞(ざんしゅう)や気取が太宰の文学をハイカラに洒脱な、その代りに幾分か弱いものにしてしまっている。
 あまりに本当の事を見、本当の事を()いすぎる自分のところへ、彼はいつの間にか出入しなくなってしまって(もっぱ)ら井伏のところあたりに行っていたようである。僕もコワレもののように用心しながらつき合わなければならない人間はやっかいだから、出入しなくなった彼を強いて迎える要もないと思いながらもその才能は最初から(おおい)に認めていたつもりである。芥川賞などは(もら)わないでも立派に一家を成す才能と信じ、それを彼に自覚させたかったのが「芥川賞」と題した彼をモデルにした作品を書いた動機でもあった。
 世俗人や凡庸(ぼんよう)な文芸人などがそれをどう読もうと問題ではなかったが、太宰自身がそれを自分の読ませたいように読み得なかったのは自分にとって(すこぶ)る残念であった。そうしてそれ以来自分のところへ近づかなくなった彼に対しては多少遺憾に思いながら遠くからその動静を見守っていたものである。

 

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■『芥川賞 ー憤怒こそ愛の極点(太宰治)ー』 「あの作品」が初めて掲載された、1936年(昭和11年)11月1日発行「改造」。太宰が創世記に、佐藤との約束があったにもかかわらず第3回芥川賞に落選した、と書いたことに対して、佐藤はこの実名小説をもって太宰を批判し、文壇に波紋を投げかけた。

 

 昭和十八年の秋、南方の戦線に出かけて行った自分は十九年の春、昭南でデング熱(おか)されて一週間ほど病臥(びょうが)した事があった。その時、(たまたま)、ホテルの人が枕頭に持って来てくれた改造のなかにあったのが彼の「佳日」という短篇であった。
 自分は一読して今更に彼の文才に驚歎(きょうたんした。全く彼の文才というものは(たがいに相許した友、檀一雄のそれと双璧をなすもので他にはちょっと見当らないと思う。(もっとも彼と檀とでは本質的には対蹠(アンチホートするものがあって、そこが彼等の深い友情の成立した秘密かも知れない。
 檀の南国的で男性的に粗暴で軽挙妄動するのに対して彼は北国人で女性的に細心で意識過剰である等々。
 自分は病余のつれづれに、いつまでも枕頭にあった「佳日」を日課のように毎日読んだ。外には新聞より読むものがないのだから新聞を拾い読みした後では必ず「佳日」を愛読したものである。そうしてしまいには(ただ)読んだだけでは面白くないから、どこかに文章の乃至(ないし)はその他の欠点はないものだろうか一つそれを見つけてくれようという意地の悪い課題を自分に与えて読んでみた。そうして無用な気取りやはにかみなどの今さらならぬ根本的な不満は別として、その短篇の構成にも文章の洗練の上でも、自分は再読し三読して毛を吹いて(きず)を求めるように意地悪く、というよりも依怙地(いこじ)になってかかったが結局どこにも欠点と(おぼ)しいものは見つからなかった。この事は自分の帰ったのを知って会いに来てくれた時、彼に直接話したような気がする――もしそうならば十九年の六月頃が彼に会った最後である。それとも直接話したのではなくて彼から本を(もら)ったお礼の(ついで)に書いたものであったかも知れない。それならば二十二年の春ではなかったか知ら、もう記憶の明確は期しがたくなっている。
 彼の死は信州の山中にあって知った。(いず)れはそんな最期をしなければならない運命にある彼のような気がして、折角(せっかく)幾度も企てて失敗している事を今度は成し遂げさせたいような妙に非人情に虚無的な考えになっていた自分は、他人ごとならず重荷をおろしたような気軽なそれでいて腹立たしい変な気がしたのを得忘れない。
津軽」は出版の当時読まないで近年になって――去年の暮だったか今年のはじめだったか中谷孝雄から本を借りて読んで、非常に感心した。あの作品には彼の欠点は全く目立たなくてその長所ばかりが現われているように思われる。他のすべての作品は全部抹殺してしまってもこの一作さえあれば彼は不朽(ふきゅう)の作家の一人だと()えるだろう。

 

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■小説『津軽

 

 あの作品に現われている土地は、彼の故郷の金木(かなぎの地の(ほか)は全部自分も見て知っているつもりであるが、土地の風土と人情とをあれほど見事に組み合せた彼の才能はまことにすばらしいものである。生前これを読んで直接彼に讃辞を(てい)する事のできなかったのが千秋の恨事(こんじ)である。
 それまでは大方信州にいて出られなかった桜桃忌の七周年に今年、はじめて自分は夫妻で出席して彼の遺孤(いこ)の成長したのも見たが、席上求められるままに話したのがおおよそ、この文と同じことであった。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
河出書房新社編集部 編『太宰よ! 45人の追悼文集』(河出文庫、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】かくめい

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今週のエッセイ

◆『かくめい』
 1948年(昭和23年)、太宰治 39歳。
 1947年(昭和22年)12月上旬頃に脱稿。
 『かくめい』は、1948年(昭和23年)1月1日発行の「ろまねすく」第一巻第一号の「独語」欄に発表された。ほかには、辰野隆田村泰次郎伊藤整などが執筆している。

「かくめい

 じぶんで、したことは、そのように、はっきり言わなければ、かくめいも何も、おこなわれません。じぶんで、そうしても(、、、、、)、他におこないをしたく思って、にんげんは、こうしなければならぬ、などとおっしゃっているうちは、にんげんの底からの革命が、いつまでも、できないのです。

 

別所直樹、最後の思い出

 今回のエッセイ『かくめい』は、漢字で書かれた「革命」と平仮名で書かれた「かくめい」が混在し、「にんげん」や「おこない」は全て平仮名で書かれています。"言葉"に敏感だった太宰の書く文章としては、とても異様に感じられます。
 では、太宰は、なぜこのような文章を書いたのか。それは、「革命」や「人間」を漢字で書くのが嫌だったからではないでしょうか。
 太宰にとって「革命」とは、青年時代に関与した非合法の共産主義革命のことでした。長かった戦争が終わり、新しい時代が訪れ、「革命」が起こると期待する声もありました。しかし、革命は起こりませんでした。
 太宰の心の中にも、青年時代の夢が甦っていたかもしれません。でも現実は、エゴイスト、時流に乗じた便乗思想家、エセ文化人が横行しただけでした。
 かつて「天皇陛下万歳」と叫んでいた人たちが、今度は「民主主義万歳」と叫んでいるだけ。「人間」は変わらず、口にする言葉が変わっただけ。それでは、「革命」なんか起こらない。まずは、「人間」が変わる必要がある。そんな想いから、太宰はこのエッセイを執筆したのかもしれません。

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 今回のエッセイ『かくめい』は、太宰の弟子・別所直樹の書いたエッセイにも登場します。別所の著書郷愁の太宰治所収『最後の正月』を引用して紹介します。

 ぼくが最後に太宰さんにお逢いしたのは、昭和二十三年一月八日であった。宮崎譲さんと一緒だった。新年の挨拶に、三鷹の"千草"に行った。
 ぼくはその家のことをおぼろげに知っていたが、仕事が忙しいと思うので、何時(いつ)もお宅の方ばかり訪ねていた。そして(ほとん)ど逢えなかった。
 ある時、田中英光さんに、その話をした。
 ――秘訣を教えてあげよう。あんただからいいだろう」
 英光さんはニヤリと笑って"千草"を教えてくれたのである。
 太宰さんは、ごく親しい人、仕事関係の人にしかこの連絡場所を教えなかったようである。
 ぼくらは"千草"の座敷に通され、コタツに入って待っていた。太宰さんは(あご)()でながら着物姿で現われた。明るい、元気な声と共に、裏口から入って来た。その時はもう大分酔っておられたらしい。
 ――丁度いい所に来てくれた。今日、ぼくを家までつれてって下さい」
 太宰さんはそう呟いて、後を振り返るような仕種(しぐさ)をした。山崎富栄さんの影におびえているような、それをお道化(どけ)て表現したような口調だった。
 ――おんなは、狐みたいだね。細長い顔をして、それに眼がつり上ってるんだ。怒っている時がすごい。
 何か気に食わないことがあると、階段をダダダダと()け下りて、便所の戸をガラガラピシャンとやって……。それから、シャーだ」
 太宰さんは、さも怖ろしそうな様子で、首を(ふすま)の方に向けた。

 

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■山崎富栄 1947年(昭和22年)に太宰と出逢った頃。太宰の話題、「何か気に食わないことがあると…」のくだりは、小説眉山にも登場するエピソード。

 

 太宰さんの話の通り、山崎さんの部屋は、玄関のとっつき、すぐに階段があり、二階の六畳だった。階段の突き当りに、そう言えば便所があった。
 ――そして、俺を脅迫するんだ。私は何時(いつ)でも薬を持っていますからね、なんて言ってね。俺の留守中に家に行って、子供に毒でも飲まされたら最後だからなあ。女はこわい、こわい……。
 大体、あの女は、一人でなら二年ぐらい暮せる貯金があったんだ。そいつを、俺がみんな飲んじゃったんだ」
 そんなことを言って、首をすくめて見せながら、
 ――ところで、俺に若い恋人が出来たんだ」
 ――当ててみせましようか。年は二十五」
 ぼくは即座に返答した。
 ――いや、いや、違う。もっと若いんだ。二十三だ」
 太宰さんは真面目そうな顔でそう言ったが、眼は笑っていた。
 やがて、山崎さんがやって来た。髪をアップに結い上げ、細い襟足を見せた山崎さんの顔を、ぼくはまじまじとみつめた。
 そんな、自分の噂を知ってか知らずか、山崎さんは太宰さんの傍にいそいそと坐るのだった。
 太宰さんは慌てて話題を転換した。
 ――別所の詩を「(ます)」の特集でみた。あんなもので安心しちゃ駄目だぞ。大体、詩は、やたらに行を代えるけれど、行を代える必然性がないじゃないか。
 どうしても、行を代えなければならぬ、絶句して、とても、このままでは続けられぬ、という所に来て、行を代えるのでなければ本物じゃない。今の、日本の詩は、その点だけでも安易すぎる」
 ぼく自身、非常にあやふやな気持で行分けに疑問を持ち、散文詩も書いたりしていたので、この言葉は耳に痛かった。ぼくは話題を転換して、この苦境を乗り切ろうと図った。
 ――先生の「かくめい」というエッセイを拝見しました。あの文章が載っている「ろまねすく」という雑誌は、友人の本多高明がやってるんです」
 ――意味が判るか」
 さて、とぼくは思った。非常に短いエッセイだが、平仮名ばかりで書かれたもので、少々酔いの廻ってきたぼくには、その意味がはっきり思い出せないのである。
 ――駄目だぞ、別所は……。よく理解出来ぬのに、人の作品について、とやかく言っては……」
 滅多に怒られたことのないぼくは、常に似ぬ太宰さんの(はげ)しい言葉に、しゅんとなって(しま)った。ぼくはがぶがぶと酒を(あお)った。

 

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■1948年(昭和23年)撮影 写真左「瀧本歯科」と書かれた電柱奥の長屋に「千草」があった。道路を挟んだ向かい、「永塚葬儀社」の看板がある建物の2階が富栄の下宿先。富栄の下宿先から「千草」は、歩幅にして10歩ほどの距離しかない。道の突き当りが、玉川上水。富栄の部屋から玉川上水は、約70歩ほどの距離しかなかった。

 

 太宰さんは、ちょっと失敬、といって身体を横たえ、右手で頭を支えていたが、急に起き直ってまた話し出す。
 ――日本人は、世界中のもてあまし者にならねばいけない。日の丸の国旗なんか、もういらないのだ。のん気な父さんかなんかを国旗にするんだナ。ものすごくでかいのん気な父さんを(ひろ)げるんだ。外国の飛行機が来て、そいつを見たら、もう、馬鹿馬鹿しくなって、戦争なんかしかけなくなるだろう。ぼくらはリベルタン無頼派にならなくちゃいけない。それだけが日本を救う道だ」
 ぼくらはけらけら笑い、のん気な父さんの国旗説に同感した。しかし、笑いは表面だけでぼくは心の中でギクリとしていた。太宰さんは酔ってこのような言葉を言ったのではない。それは真実の言葉なのだ。
 ぼくは酒を殺して飲んでいた。外に出ると酔いが一時に廻って、だらしなくよろめいた。人喰い川に沿って、四人は太宰さん宅に向った。
 桜の枝が流れに影を落していた。狂い咲きの小さな花びらが、それでもニ、三輪咲いて、弱い陽差しの中でふるえていた。

 

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玉川上水沿いに(たたず)む太宰 玉川上水は「人喰い川」とも呼ばれた。太宰が山崎富栄と心中した1948年(昭和23年)、太宰は16人目の投身者だった。1948年(昭和23年)2月23日、田村茂撮影。

 

 ぼくは無性に太宰さんに甘えたかった。本当に久しぶりでお眼にかかれたのである。昔が懐しかった。戦争中は太宰さんを訪問する人が限られていた。行けば大抵逢えた。それが、今は違う。
 太宰さんは滅多に家には居ない。仕事場に行っては失礼だと思うから、次第に太宰さんに逢う機会は少くなったのである。
 その頃ぼくは、多くのジャーナリストを憎んだ。太宰さんの周囲には、何時(いつ)もジャーナリストがいたから……。
 ぼくは甘ったれて太宰さんの肩を抱いた。太宰さんは苦笑した、弱々しい声が流れた。
 ――別所、重いよ」
 太宰さんの身体が衰弱していることを、おろかなぼくは見抜けなかったのだ。太宰さんの顔色は、酒の故もあったろうが、明るかった。ぼくはその顔色に安心していたのだ。
 道の曲り角に来た。太宰さんが突然言った。
 ――別所は大変酔っているから、あなたが駅まで送って行ってあげなさい」
 そして太宰さんは、(たもと)からラッキー・ストライクを取り出して山崎さんに渡した。
 ――これは別所のお土産だ」
 太宰さんと宮崎さんは行ってしまった。
 ぼくは山崎さんと三鷹駅へ向った。突然、山崎さんの下駄の鼻緒が切れたぼくはすぐにポケットからハンカチーフを出して破いた。もう大分使い古したハンカチーフはすぐに破れた。ぼくはしゃがんで、おぼつかない手つきで鼻緒をすげた。
 ――有難う」
 山崎さんの嬉しそうな声が響く。
 ああ、しかし、鼻緒はまたも切れたのである。ぼくはまたハンカチーフを破いた。ぼくはその時ほど自分の貧乏がうらめしかったことはない。新しいハンカチーフが欲しかった。純白の丈夫なハンカチーフが……。ぼくらは駅の前で別れた。握手した。それが山崎さんと逢った最後であった。太宰さんともそれが最後だった。
 ――別所。重いよ」
 その言葉が、今もぼくの耳にはっきり残っている。ぼくは最後まで太宰さんに甘ったれ通しだったのだ。
 ぼくは淋しくて仕様がなかった。その足で新宿、花園町の田中英光さんを訪ねた。
 英光さんは二間の家の、奥の部屋で仕事の最中だった、あの部屋は六畳だったろうか。玄関の、とっつきの部屋がたしか三畳間だった。

 

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■太宰の弟子・田中英光と長女・弓子 1949年(昭和24年)10月、宮城県鳴子温泉にて。

 

 ドテラを着た英光さんは、アグラをかいて、茶ブ台に(ひろ)げた原稿用紙に小さな丸まっちい字を埋めていた。六尺豊かな英光さんらしかぬ、小さな字であった。英光さんの傍には敬子さんが、ハンテンを羽織って坐っていた。この女性は、後になって英光さんが半狂乱の果て、腹を刺した女性である。家も彼女の物だった。英光さんは当時、(ほと)んどこの家で生活していた。夫人、子供さんたちは静岡県三津浜にいたのである。
 英光さんは傍に置いてある一升瓶を持って茶碗に焼酎をついでくれた。英光さんも、ぐびり、ぐびりと焼酎をあふりながら仕事をしていたのだった。
 ぼくは、よほど、哀れな顔をしていたらしい。そして、ポケットからラッキー・ストライクを取り出して、英光さんにすすめた。
 ――オッ、すごいじゃないの……」
 ――ええ、太宰さんに戴いて来たんです。ぼく、太宰さんに、酔っぱらいすぎて、おこられちゃった……」
 ――どうしたの?」
 英光さんは、ちょっとぼくの眼を覗き込んだ。
 ――酔っぱらって、太宰さんの肩を抱いたんです。そしたら、別所、重いよって言われて、追い返されちゃったんです。この煙草、太宰さんにお土産に戴いたんです」
 ――大丈夫、大丈夫、別所さん、太宰さんは本気でなんかおこっていやしませんよ。元気を出して、焼酎でも飲みなさい」
 英光さんは笑いながらぼくを激励してくれた。
 その日、英光さんは急ぎの仕事をしている様子だったので、ぼくは間もなく別れた。
 それからのぼくは、何時(いつ)も冷やかされるのであった。ぼく一人の時も、他の人が傍にいても、
 ――別所さんはねえ、太宰さんにおこられたといって、おんおん泣きながら、ぼくの家に来たんですよ」
 そして、いたずらっぽい眼でぼくの眼を覗き込むのだった。
 ――ひでえなあ、英光さん、ぼく、おんおんなんて泣きゃしませんよ」
 ぼくは何時(いつ)も慌てて否定するのだった。

 

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■別所直樹 詩人、評論家。太宰の弟子。三鷹にある、禅林寺の太宰の墓に詣でる別所。

 【了】

********************
【参考文献】
・別所直樹『郷愁の太宰治』(審美社、1964年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
 ※引用にあたり、一部人名表記を改めました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】小志

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今週のエッセイ

◆『小志』
 1947年(昭和22年)、太宰治 38歳。
 1947年(昭和22年)11月10日前後頃に脱稿。
 『小志』は、1947年(昭和22年)11月17日発行の「朝日新聞」第二二一六三号の第二面「学芸」欄に新仮名遣いで発表された。

「小志

 イエスが十字架につけられて、そのとき脱ぎ捨て(たま)いし真白な下着は、上から下まで縫い目なしの全部その形のままに織った実にめずらしい衣だったので、兵卒どもはその品の高尚典雅に嘆息をもらしたと聖書に録されてあったけれども、
 妻よ、
 イエスならぬ市井(しせい)のただの弱虫が、毎日こうして苦しんで、そうして、もしも死なねばならぬ時が来たならば、縫い目なしの下着は望まぬ、せめてキャラコの純白のパンツ一つを作ってはかせてくれまいか。

 

太宰とキリスト

 太宰の弟子・小山清は、「太宰治が、その文学活動の初期から最後に至るまで、最も関心を持っていた対象はキリストであろう」と書いています。
 小山の指摘する通り、太宰はその生涯にわたって、キリストに対し深い関心を持っていました。そして、太宰のキリスト像、太宰にとってのキリストの意味は、その時期によって変化していきました。その時期は、

 ①1936年(昭和11年)
 ②1941~1942年(昭和16~17年)
 ③1946~1948年(昭和21~23年)

の3つに分けることができます。

①1936年(昭和11年)

 この頃の太宰は、新しい文学を目指し、「二十世紀の旗手」(二十世紀旗手)との自負を持っていましたが、作品はなかなか正当に評価されず、悩んでいた時期でした。そのため、自分の意に反し、韜晦(とうかい)的な態度と作品への説明が必要だと考えます。
 しかし、本来は自作への解説を嫌う太宰は、「なんじら断食するとき、かの偽善者のごとく、悲しき面持ちをすな。(マタイ六章十六)キリストだけは、知っていた」(虚構の春)と書きます。つまり、太宰は、キリストに自分と同じ考えを見い出し、自身の支えとしました。

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 やがて、太宰にとってキリストは、同一化の対象となっていきます。佐藤春夫との約束により受賞を信じていた第三回芥川賞は落選。太宰は文壇の約束違反と抗議しますが、かえって自分を窮地に追い込む結果となります。
 この体験を通して、太宰は、無実にもかかわらず罰せられたキリストに自分の姿を見い出し、重ね合わせていきます。キリストと自身を同一化することで、慰めを得ようとしました。
 このキリスト受容は、東京武蔵野病院で、さらに展開します。
 「あざむ」かれ、「脳病院にぶちこまれ」た(HUMAN LOST)と感じていた太宰は、キリストとの同一化により、自己合理化を行い、キリストを「他者に理解されない苦しみと孤独において共感する相手」と位置づけました。

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■太宰が武蔵野病院入院中に手にした聖書 太宰と同様に入院していた医師・斎藤達也から借りた、黒崎幸吉編『新約聖書略註 全』(四六版、日英堂書店、1934年)。

 やがて、キリストは他者との和解という、退院への道筋やその後の身の振り方を太宰に示していきます。さらに退院後、不安と絶望のどん底にいた太宰に、「生きる力」()を与えました。
 キリストは、同一化の対象から、「生」の指針を与える存在として、位置づけが移っていきました。


②1941~1942年(昭和16~17年)

 この頃の太宰は、「明日の事を思うな、とあの人も言って居られます。朝めざめて、きょう一日を、充分に生きる事、それだけを私はこのごろ心掛けて居ります」(私信)、「一日一日を、たっぷり生きて行くより他は無い。明日のことを思い煩うな。明日は明日みずから思い煩わん。きょう一日を、よろこび、努め、人には優しくして暮したい」(新郎)と、この時期を生きる自分の決意を語っています。

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 「明日の事を思うな」「明日の事を思い煩うな。明日は明日みずから思い煩わん」は、マタイ伝六章三十四節にあるキリストの言葉です。
 戦争の激化という明日の命さえ分からない状況を生きる太宰にとって、自分を支え、励ましてくれる存在として、キリストは位置していました。

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■ロシアの画家 ニコライ・ゲー『最後の晩餐(1861~1863)』 「ロシヤのゲエとかいう画家のかいた『最後の晩餐』の絵は、みんな寝そべっているそうである。キリストの精神とは、全く関係の無い事だが、僕には、とても面白かった。」(正義と微笑


③1946~1948年(昭和21~23年)

 敗戦により、太宰は今までの習俗的倫理の崩壊による、人間性の解放を期待しました。しかし、現実は、エゴイスト、時流に乗じた便乗思想家、エセ文化人が横行していました。太宰は、彼らに対し、「もっと気弱くなれ! 偉いのはお前じゃないんだ! 学問なんて、そんなものは捨てちまえ! おのれを愛するが如く、汝の隣人を愛せよ。それからでなければ、どうにもこうにもなりやしないのだよ(十五年間)」と批判しています。

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 さらに、如是我聞では、外国文学者、志賀直哉らを「家庭のエゴイズム」「自己肯定のすさまじさ」、つまり「愛する能力」の欠如ゆえに攻撃し、それは「反キリスト的なものへの戦い」と位置づけられます。太宰にとってキリストは、彼等と対極の存在であり、自己の批判を「反キリスト的なものへの戦い」と位置づけることによって、批判は意味を持ち、正当化が可能となりました。
 つまり、太宰はキリストに自分を擬すことで、批判の、さらに存在の根拠を得ていたと考えられます。
 その一方、「私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスという人の、『己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ』という難題一つにかかっている」(如是我聞)と、キリストは太宰の存在を揺るがしてくる存在でもありました。
 この時期の太宰にとって、キリストは、存在の根拠であると同時に、「苦悩」をも与える、二律背反的な意味を持っていたと考えられます。

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】わが半生を語る

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今週のエッセイ

◆『わが半生を語る』
 1947年(昭和22年)、太宰治 38歳。
 1947年(昭和22年)9月下旬に脱稿。
 『わが半生を語る』は、1947年(昭和22年)11月1日発行の「小説新潮」第一巻第三号の「()が半生を語る」欄に『文学の曠野(こうや)に』と題して発表された。この欄には、ほかに『到る処青山あり』(林芙美子)が掲載された。初出本文の末尾には、「(在文責記者)」とあり、談話筆記とみられる。発表後、太宰治の生前の刊本には収められず、没後、新潮社版「如是我聞」に『わが半生を語る』として初めて収録された。

「わが半生を語る

  生い立ちと環境

 私は田舎のいわゆる金持ちと云われる家に生れました。たくさんの兄や姉がありまして、その末ッ子として、まず何不自由なく育ちました。その為に世間知らずの非常なはにかみやになって終いました。この私のはにかみが何か他人(ひと)からみると自分がそれを誇っているように見られやしないかと気にしています。
 私は(ほとん)ど他人には満足に口もきけないほどの弱い性格で、従って生活力も(ゼロ)に近いと自覚して、幼少より今(まで)すごして来ました。ですから私はむしろ厭世(えんせい)主義といってもいいようなもので、余り生きることに張合いを感じない。ただもう一刻も早くこの生活の恐怖から逃げ出したい。この世の中からおさらばしたいというようなことばかり、子供の頃から考えている(たち)でした。
 こういう私の性格が私を文学に志さしめた動機となったと云えるでしょう。育った家庭とか肉親とか(ある)いは故郷という概念、そういうものがひどく抜き難く根ざしているような気がします。
 私は自分の作品の中で、私の生れた家を自慢しているように思われるかも知れませんが、かえって、まだ自分の家の事実の大きさよりも更に遠慮して、(ほとん)どそれは半分、いや、もっとはにかんで語っている程です。
 一事が万事、なにかいつも自分がそのために人から非難せられ、仇敵視(きゅうてきし)されているような、そういう恐怖感がいつも自分につきまとって居ります。そのためにわざと、最下等の生活をしてみせたり、(ある)いはどんな汚いことにでも平気になろうと心がけたけれども、しかしまさか私は縄の帯は締められない。
 それが人はやはりどこか私を思い上っていると思う第一の原因になっているようであります。けれども私に言わせれば、それが私の弱さの一番の原因なので、そのために自分の身につけているもの全部をほうり出して差上げたいような思いをしたことが幾度あったかしれません。
 例えば恋愛にしても、私だってそれは女から好意を寄せられることはたまにありますけれども、自分がそんな金持ちの子供に生れたという点で女に好意をもたれているに過ぎないというように、人から思われるのが嫌で、恋愛をさえ幾度となく自分で断念したこともあります。
 現に私の兄がいま青森県民選知事をしておりますが、そう云うことを女にひと(こと)でも云えば、それを種に女を口説くと思われはせぬかというので、(かえ)っていつも芝居をしているように、自分をくだらなく見せるというような、(ほとん)ど愚かといってもいいくらいの努力をして生きて参りました。これは自分でももて余していて、どうにも解決のしようが未だに発見出来ません。


  文壇生活?……

 私がまだ東大の仏文科でまごまごしていた二十五歳の時、改造社の「文芸」という雑誌から何か短篇を書けといわれて、その時、あり合せの「逆行」という短篇を送った。それが二、三ヶ月後くらいに新聞の広告に大きく名前が諸先輩と並んで出て、それが後日第一回芥川賞の時に候補に上げられました。
 その「逆行」と(ほとん)ど前後して同人雑誌「日本浪漫派(にほんろうまんは)」に「道化の華」が発表されました。それが佐藤春夫先生の推奨にあずかり、その後、文学雑誌に次々と作品を発表することができました。
 それで自分も文壇生活というか、小説を書いて(ある)いは生活が出来るのではないかしらとかすかな希望をもつようになりました。それは大体年代からいうと昭和十年頃です。
 省みますと、自分でははっきりと斯々(かくかく)の動機で文学を志したということは、判らないことで、(ほとん)ど無意識といってもいい位に、私はいつの間にやら文学の野原を歩いていたような気がするのです。気がついたらそれこそ往くも千里、帰るも千里というような、のっぴきならない文学の野原のまん中に立っていたのに気がついて、たいへん驚いたというようなところが真に近いかと思います。


  先輩・好きな人達

 私がおつき合いをお願いしている先輩は井伏鱒二氏一人といっていい位です。あと評論家では河上徹太郎亀井勝一郎、この人達も「文學界」の関係から飲み友達になりました。もっと年とった方の先輩では、これは交友というのは失礼かもしれないけれど、お宅に上らせて頂いた方は佐藤先生と豊島与志雄先生です。そうして井伏さんにはとうとう現在の家内を媒酌(ばいしゃく)して頂いた程、願っております。
 井伏さんといえば、初期の「夜ふけと梅の花」という本の諸作品は、(ほとん)ど宝石を並べたような印象を受けました。また嘉村磯多(かむらいそた)なども昔から大変えらい人だと思っています。
 これは弱い性格の人間の特徴かも知れませんが、人が余り騒ぐような、また尊敬しているような作品には一応、疑惑を持つ癖があります。
 明治文壇では国木田独歩の短篇は非常にうまいと思っております。
 フランス文学では、十九世紀だったらばたいてい皆、バルザック、フローベル、そういう所謂(いわゆる)大文豪に心服していなければ、なにか文人たるものの資格に欠けるというような、へんな常識があるようですけれども、私はそんな大文豪の作品は、本当はあまり読んで好きじゃないのです。(かえ)ってミュッセ、ドーデー、あの辺の作家をひそかに愛読しております。ロシア語ではトルストイ、ドストイエフスキーなど、やはりみな、それに感心しなければ、万人の資格に欠けるというようなことが常識になっていて、それは確かにそういうものなのでしょうけれども、やはり自分はチェホフとか、誰よりもロシアではプーシュキン一人といってもいい位に傾倒しています。


  私は変人に非ず

 三月号の小説新潮の、文壇「話の泉」の会で、私は変人だと云うことになっているし、なにか縄帯でも締めているように思われている。また私の小説もただ風変わりで珍しい位に云われてきて、私はひそかに憂鬱な気持ちになっていたのです。世の中から変人とか奇人などといわれている人間は、案外気の弱い度胸のない、そういう人が自分を(まも)るための擬装をしているのが多いのではないかと思われます。やはり生活に対して自信のなさから出ているのではないでしょうか。
 私は自分を変人とも、変った男だとも思ったことはなく、きわめて当り前の、また(ふる)い道徳などにも非常にこだわる(たち)の男です。それなのに、私が道徳など全然無視しているように思っている人が多いようですが、事実は全くその反対だ。
 けれども、私は前にも云ったように、弱い性格なのでその弱さというものだけは認めなければならないと思っているのです。また人と議論することも私にはできない、これも自分の弱さといってもいいけれども、何か自分のキリスト主義みたいなものも多少含まれているような気がするのです。
 キリスト主義といえば、私はいまそれこそ文字通りのあばら家に住んでいます。私だってそれは人並の家に住みたいとは思っています。子供も可哀そうだと思うこともあります。けれども私にはどうしてもいい家に住めないのです。それはプロレタリア意識とか、プロレタリアイデオロギーとか、そんなものから教えられたものでなく、キリストの汝等(なんじら)己を愛する如く隣人を愛せよという言葉をへんに頑固に思いこんでしまっているらしい。しかし己を愛する如く隣人を愛するということは、とてもやり切れるものではないと、この頃つくづく考えてきました。人間はみな同じものだ。そういう思想はただ人を自殺にかり立てるだけのものではないでしょうか。
 キリストの己を愛するが如く汝の隣人を愛せよという言葉を、私はきっと違った解釈をしているのではなかろうか。あれはもっと別の意味があるのではなかろうか。そう考えた時、己を愛するが如くという言葉が思い出される。やはり己も愛さなければいけない。己を嫌って、(ある)いは己を(しいた)げて人を愛するのでは、自殺よりほかはないのが当然だということを、かすかに気がついてきましたが、(しか)しそれはただ理屈です。自分の世の中の人に対する感情はやはりいつもはにかみで、背の丈を二寸くらい低くして歩いていなければいけないような実感をもって生きてきました。こんなところにも、私の文学の根拠があるような気がするのです。
 また私は社会主義というものはやはり正しいものだという実感をもって居ります。そうしていま社会主義の世の中にやっとなったようで、片山総理などが日本の大将になったということは、やはり嬉しいことではないかと思いながらも、私は昔と同じように、いや(ある)いは昔以上に(すさ)んだ生活をしなければならん。この自分の不幸を思うと、もう自分に幸福というものは一生ないのかと、それはセンチメンタルな気持でなく、何だかいやに明瞭にわかってきたようにこの頃感じます。
 あれ、これと考え出すと私は酒を飲まずにおれなくなります。酒によって自分の文学観や作品が左右されるとは思いませんが、ただ酒は私の生活を非常にゆすぶっている。前にも申しましたように人と会っても満足に話が出来ず、後であれを言えばよかった、こうも言えばよかったなどと口惜(くや)しく思います。いつも人と会うときには(ほとん)どぐらぐら眩暈(めまい)をして、話をしていなければならんような性格なので、つい酒を飲むことになる。それで健康を害し、(ある)いは経済の破綻(はたん)などもしばしばあって、家庭はいつも貧寒の趣きを呈しております。寝てからいろいろその改善を企図することもあるけれども、これはどうにも死ななきゃ直らないというような程度に(まで)なっているようです。
 私も、もう三十九になりますが、世間にこれから暮してゆくということを考えると、呆然(ぼうぜん)とするだけで、まだ何の自信もありません。だから、そういういわば弱虫が、妻子を養ってゆくということは、むしろ悲惨といってもいいのではないかと思うこともあります。

 

太宰治、"残りの半生"

 『わが半生を語る』と題されたこのエッセイは、太宰の死の前年にあたる、1947年(昭和22年)9月下旬に脱稿されました。太宰が、愛人・山崎富栄玉川上水で心中する約9ヶ月前です。

 今回は、太宰の年譜を追いながら、太宰の"残りの半生"を見ていきます。

 

1947年(昭和22年)

《9月1日》
「新潮」九月号に『斜陽(長篇連載第三回)』として、」「を発表。

《9月10日》
「日本小説代表作全集14昭和二十一年前半期」(小山書店)にを収載。

《9月24日》
伊馬春部の友人である銀座の貴金属宝石・古美術商の若主人・小野英一の招待で、太宰は、伊馬、山崎富栄と熱海「松の寮」に一泊旅行をし、昔風な出の衣裳姿の妓を見た。

《10月1日》
「新潮」十月号に『斜陽(連載長篇完結)』として、」「を、「改造」十月号におさんを発表。
なお、魚服記以来15年間、自身で丹念に書き続けて来た「創作年表」は、このおさんで絶たれている。
織田作之助選集附録第一号」(中央公論社)に織田君の死が再録。

《10月5日》
単行本「女神」(白文社)を刊行。

《10月頃》
八雲書店から、全集刊行の申し入れがあった。亀島貞夫によると、「あれは、まったく私の思いつきだったのです。原稿を書いてもらえない心のあせりから、いかに八雲書店が太宰さんの作品に執心しているかという姿勢をみせたかったから言ったまでのことなのです。とても承諾してもらおうとは思いませんでした。」とのこと。亀島の全集刊行の申し入れに対し、太宰は一瞬きっと身構え、息をのみ、やがて呟くように「そうだね。もう、このへんで出してもいいかもしれないな」と言ったという。
八雲書店の申し入れから30分~1時間程度遅れ、実業之日本社からも全集刊行の申し入れがあった。2、3回の話し合いの末、八雲書店に決定し、準備に入った。八雲書店の社長・中村梧一郎によると、編集部の大方の意見は、全集ではなく、選集説だったという。

《10月14日》
憲法実施により、11宮家51名の宮が、皇族籍を離脱した。同日、「時事新報」掲載の『離脱その前夜・三若宮自由談義』の一節に、治憲王の発言として、斜陽に「身につまされ」るとあった。

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《11月1日》
小説新潮」十一月号の「()が半生を語る」欄に『文学の曠野(こうや)に』(のち『わが半生を語る』と改題)を発表。
単行本正義と微笑(永晃社)を「青春文庫3」として刊行。

《11月12日》
愛人・太田静子に娘・太田治子が誕生。

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■太田静子と娘・治子 1948年(昭和23年)春に撮影。

《11月15日》
太田静子の弟・太田通が来訪し、静子の生んだ「子供が、太宰治の子であるという(あか)し」と「命名」とを要請されたため、認知の「(あかし)」を記して渡した。

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《11月17日》
朝日新聞」にエッセイ『小志』を発表。

《11月25日》
全集印刷の打ち合わせのため、八雲書店の編集部・亀島貞夫を訪問。
この頃から、太宰の仕事部屋は山崎富栄の部屋に移っていたという。

《12月8日》
東宝映画から、斜陽映画化の申し入れがあったが、断った。

《12月9日》
太宰の弟子・田中英光が、山崎敬子を伴って訪れた。

《12月10日》
「晩年」を「新潮文庫」の1冊として、新潮社から刊行。

《12月15日》
単行本斜陽(新潮社)を刊行。たちまちベストセラーとなり、初版1万部、再版5,000部、三版5,000部、四版1万部と版を重ね、「翌年七月の新版と併せて昭和二十四年三月までに十二万部」を越した。

《12月17日》
太宰の弟子・田中英光が、雑誌社、出版社などからの集金のために上京。ともに出版社回りをし、痛飲。

《12月18日》『春の枯葉』
(いで)英利が、春の枯葉俳優座での上演の用件で訪れた。

《12月19日》
太宰の弟子・堤重久が、八雲書店版「太宰治全集」のための「年表完成」の助力を依頼した、奈良女子高等師範学校横田俊一を伴って上京。翌20日の午前7時に三鷹の太宰宅を訪問した。
同日の午前8時、俳優座で上演する劇春の枯葉の下稽古の件で、(いで)英利が訪れ、続けて「群像」の編集長が訪れた。正午頃、堤、横田と共に「千草」へ行き、それから二日三晩酒宴をした。堤は12月30日まで宿泊し、横田は三泊して関西へ帰った。

《12月23日》
「上野浮浪児記」を執筆するため、「日本小説」の雑誌記者・氏家と、上野に行って浮浪児を見て歩いた。これが後、美男子と煙草となった。

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《12月30日》
三鷹下連雀の自宅で堤重久と夕食を共にし、夜行列車に乗る堤を三鷹駅まで送った。

 

1948年(昭和23年)

《1月1日》
中央公論」新年号に犯人を、「光」新年特大号に饗応夫人を、「地上」新年号に酒の追憶を、「ろまねすく」新年号に『かくめい』を発表。

《1月8日》
美男子と煙草の稿を起こした。この作品の5枚目以降は、上野に同行した氏家記者が口述筆記している。

《1月10日》
「今朝、血痰がひどく出られた由。お体も、めっきりおやせになられた。」と、山崎富栄が日記に書いている。

《1月25日》
単行本「花燭」思索社)を刊行。

《2月4日~7日》
俳優座の「劇作家研究会」の第一回公演として、春の枯葉一幕三場が、千田是也の演出によって毎日ホールで上演された。野中弥一を永井智雄、節子を三戸部スエ、しづを東山千栄子、奥田義雄を天野総治郎、菊代を中村美代子が、それぞれ演じた。各日13時、17時の開演で、同時に阪中正夫作、青山杉作演出の「馬」が上演された。

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《2月9日》
大映女優・関千恵子が、大映宣伝部・杉田邦男と共に、太宰の三鷹の自宅に訪れ、対談した。約1時間半にわたった対談の内容は、「大映ファン」五月号に、関千恵子太宰治先生訪問記として発表された。

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《2月10日》
出版社数社が合同主催した、木挽町織田作之助ゆかりの料亭「鼓」での「織田作之助一周忌追悼会」に、輪島昭子林芙美子坂口安吾青山光ニなどと出席した。「鼓」のすぐ近くに住んでいた、太宰の先妻・小山初代の叔父・吉沢祐五郎は、直前に予告記事を新聞で読み、夫人・みつをその料亭に使いに出し、太宰に「お帰りの途中、お寄り頂きたい」との意を伝えさせたが、太宰はひたすら揉み手をして、「いつか、きっと」と断ったという。

《2月19日》
妻・美知子の妹・吉原愛子が危篤に陥った。東京帝大病院へ見舞いに行き、そのあと、豊島与志雄山崎富栄と共に訪問。

《2月21日》
吉原愛子の病状がさらに悪化し、夜、美知子が「千草」に迎えに来た。

《2月23日》
写真家・田村茂によって、27枚の写真が撮影された。

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《2月29日》
吉原愛子が、夫・吉原健夫と弟・石原明に見守られて逝去し、3月3日に葬儀が行われ、参列した。享年31歳。

《3月1日》
「日本小説」三月号に美男子と煙草を、「小説新潮」三月号に眉山を、「新潮」三月号に如是我聞を、「個性」三月号のアンケート「小説とは何か」欄に『小説の面白さ』と題する回答を発表。
如是我聞は、太宰が「どうしても書きたい」と希望し、1年間連載する予定だった。

《3月はじめ》
朝日新聞東京本社学芸部長・末常卓郎が、午後3時過ぎに小説連載の依頼に「千草」を訪れ、階下で話した。この依頼が、太宰の絶筆となるグッド・バイに結実する。

《3月3日》
午後、当時朝日新聞東京本社論説委員だった平岡敏男が、同社学芸部副部長だった古谷綱正と共に来訪し、山崎富栄方で21時過ぎまで飲み、語った。

《3月7日》
東京発12時40分熱海行。筑摩書房主・古田晁の計らいで、熱海駅の裏手にある熱海市咲見町林ヶ久保の高台に建つ櫻井兵五郎の別荘を旅館にした、眺望のいい「起雲閣」別館に滞在、外部との交渉を断って、翌3月8日から、人間失格の執筆に専念した。この熱海行きには、山崎富栄も同行していた。

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《3月19日》
人間失格第一の手記を脱稿して、担当の「展望」編集者・石井立に原稿を送り、いったん帰京した。

《3月21日》
再び熱海に向かった。

《3月28日》
「展望」連載一回分の人間失格103枚、第二の手記までを脱稿し、3月31日、帰京。

《4月1日
「八雲」四月号に女類を、「群像」四月号に渡り鳥を、「文藝時代」四月号に『徒党について』を発表。
長女・津島園子が小学校に入学した。

《4月2日~4月28日》
三鷹下連雀の仕事部屋で、「展望」連載第二回分、人間失格第三の手記 一51枚を執筆脱稿した。
美知子によると、この頃は自宅近くの内科医に寄って、ザルブロの注射を打ってから、仕事部屋へ出かけるのがきまりで、そのほか常用するビタミン剤などの注射はおびただしい数に上り、常人の何倍かの量を用いていたという。

《4月6日》
如是我聞野平健一に口述筆記させた。

《4月25日》
豊島与志雄山崎富栄と共に訪問した。豊島と太宰が会ったのは、これが最後となった。

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■山崎富栄

《4月29日》
筑摩書房主・古田晁の計らいで、埼玉県大宮市大門町三丁目百三番地の小野沢清澄方の、奥の八畳と三畳との二間を借り、三畳間を仕事部屋として、人間失格第三の手記 二を執筆した。この大宮行きには、山崎富栄も同行した。
小野沢は、大宮駅前の繁華街で「天清」という天ぷら屋を営業していて、その店の客として親しかった古谷に依頼されて、引き受けたという。小野沢によれば、「毎朝九時ごろに起き、昼ごろから茶ぶ台に向かった。かたわらに辞書を置き、三時間ほどペンを走らせ、夜はゆっくり時間をかけて食事をするという、規則正しい生活を送っていた。」「書損じの原稿用紙で、くずかごは毎日一杯で」「連れの女の人は、いつも静かに編み物をしていた」という。太宰が大宮に滞在中、部屋に食事を運んでいたのが、小野沢の姪にあたる藤縄信子だった。

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■小野沢宅のある路地

《4月30日》
単行本「春の枯葉」鎌倉書房)を「戦後文学選4」として刊行。

《5月1日》
「世界」五月号に
桜桃を、「新潮」五月号に如是我聞(ニ)を発表。

《5月8日》
人間失格第三の手記 二46枚を脱稿。

《5月9、10日頃》
人間失格
あとがきを執筆し、人間失格全206枚を脱稿した。

《5月12日》
石井立の迎えを得て、小野沢に「グッド・バイも、ぜひここで書きたいので、部屋を空けておいて下さい」と言い残して、帰京。

《5月12日~14日》
如是我聞(三)野平健一に口述筆記させ、脱稿。

《5月14日》
末常卓郎が来訪し、「朝日新聞」への連載小説(グッド・バイ)の執筆条件などについて相談。1日分3枚半、1枚500円、全旅費を負担、6月20日頃から連載開始となった。

《5月15日》
朝日新聞」に80回ほど連載予定のグッド・バイの稿を起こした。

《5月18日》
『グッド・バイ』
変心(二)までを脱稿。

《5月20日
単行本「ろまん燈籠」改造社)を刊行。

《5月27日》
『グッド・バイ』10回分の
怪力(三)までを脱稿、朝日新聞東京本社学芸部に渡された。

《6月1日》
「展望」六月号に人間失格(第一回)』として、
はしがき」「第一の手記」「第二の手記までを、「新潮」六月号に如是我聞(三)を発表。

《6月3日頃》
『グッド・バイ』
13回分の
コールド・ウォー(二)までを脱稿。

矢代静一(いで)英利とが春の枯葉の舞台写真を届けに訪れた。

《6月3日》
夕方、自宅から打電して、「新潮」編集記者・野平健一を呼び、ほとんど徹夜して、
如是我聞(四)を口述筆記させ、6月5日に脱稿した。

《6月6日》
朝、いつものように「仕事部屋に行ってくるよ」と言って、気軽に家を出たまま、自宅には帰らなかった。

《6月12日》
昼過ぎ、大宮の宇治病院を訪れ、「古田さん、いる?」と尋ねた。古田晁の不在を聞いた太宰は、三鷹へ戻った。立ち去る太宰の後ろ姿は、何か寂しげだったという。

《6月13日》
午後11時半から、翌14日午前4時頃までの間に、大宮を訪れた時と同じ、グレーのズボンに白いワイシャツで下駄履きという格好で、山崎富栄と家を出、玉川上水に入水した。死亡時刻は、6月14日午前1時頃と推定されており、戸籍上の太宰の死亡日は「6月14日」となっている。

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■入水直後の富栄の部屋 撮影:毎日新聞・石井周治。

《6月14日》
遺書が見つかる。美知子、仕事部屋先の鶴巻幸之助(「千草」の店主)、出版雑誌社、友人宛などがあり、3人の子供たちへの蟹の玩具、友人たちへの遺品、グッド・バイ10回分の校正刷りと、13回までの草稿も残されていた。
近親者、三鷹署などの手で連日捜索が続けられ、林聖子野平健一が、玉川上水沿いで山崎富栄の家のガラスの皿とビンを発見した。

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《6月19日》
午前6時50分頃、死体発見。「千草」で検視のあと、堀ノ内の火葬場で荼毘に付され、午後6時過ぎに骨が拾われた。

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 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・『太宰治全集 13 草稿』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】新しい形の個人主義

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今週のエッセイ

◆『新しい形の個人主義
 1947年(昭和22年)、太宰治 38歳。
 1946年(昭和21年)11月頃に脱稿。
 『新しい形の個人主義』は、1947年(昭和22年)1月1日発行の「月刊東奥」第九巻第一号(春季文芸特輯)の巻頭に発表された。目次には「巻頭言」とのみある。

「新しい形の個人主義

 所謂(いわゆる)社会主義の世の中になるのは、それは当り前の事と思わなければならぬ。民主々義とは云っても、それは社会民主々義の事であって、昔の思想と違っている事を知らなければならぬ。倫理に()いても、新しい形の個人主義の台頭しているこの現実を直視し、肯定するところにわれらの生き方があるかも知れぬと思索することも必要かと思われる。

 

戦中・戦後、太宰の思想

 今回のエッセイは、太宰が故郷・金木に疎開していた頃に執筆されたものと思われます。太宰は、1945年(昭和20年)7月31日から1946年(昭和21年)11月12日まで、戦禍から逃れ、故郷・金木で疎開生活を送っていました。金木で疎開生活を送る太宰のもとには、弟子・田中英光芥川比呂志が訪れています。
 また、太宰の訪問者の中には、地元の文学青年たちもおり、その中の1人に小野才八郎がいました。小野は、1945年(昭和20年)に友人2人と一緒に太宰を訪問し、以後、太宰に師事しました。

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■小野才八郎(1920~2014) 現在は、太宰と同じ三鷹禅林寺に眠っている。

 今回は、太宰の言葉を多く書き留めた小野の著書太宰治語録から、戦中・戦後にかけて、故郷・津軽疎開していた太宰が小野に語った言葉を紹介します。

僕は没落するものの味方です。保守派なんだと、はっきり言います。今に革命時代がくれば、真先に断頭台に送られる組ですね。

共産主義が成功するには、流血革命をやらなければ決して成功しません。まあ、やらしてみるのですね。そうすれば、自己の無力をはっきり知るでしょう。一時は地()らしされるでしょうが、じき凸凹(でこぼこ)が出来てきます。

日本の左翼は、子供っぽくて駄目です。はにかみがないのです。詩のない主義者なんて、嫌いです。レーニンなんかは素晴らしい詩人で、はにかみのある人格者です。どんな思想にしろ、その祖述者はいずれも天衣の詩人なのですが、それを行う後世の人々が駄目にしてしまうのです。(大高正博「太宰治覚書」)

マルクス主義は正しい」とも太宰さんは書いている。かつては、正式党員だったかどうかは分からないが、少なくともシンパ活動をしたことは確かであり、それが長兄にばれて、結果的には活動から離れざるを得なかった。同志への裏切り、民衆への裏切りといった悔恨が残ったであろう。亀井勝一郎太宰治の「罪の意識」の中に、この悔恨の存在を指摘している。その太宰さんが戦後は保守派を宣言し、「今こそ天皇陛下万歳を叫ぶべきだ」などと言い出したのはどういう訳であろうか。当時太宰さんは、疎開中の文化人たちが、あちこちで講演会に引っぱり出され、「民主主義」を説くのを眺めて、これこそ地方文化と言って軽蔑していた。「共産主義もいまや、サロンの談話におちた」などと、われわれを笑わせたが、太宰さんのアンチ共産主義談話を、深刻なものとは受け取らなかった。ただ、太宰さんが、「いくら制度が変わったって、人間が変わらなければ、革命も何もないさ」と、呟くように言われるのを聞いて、太宰さんの苦悶の深さを感じたものである。
 今になってみると、口にこそ出して言わなかったが、ヤマゲンという大地主の(せがれ)としての自覚からも、当時の風潮には、真剣に危機感を抱いていたのではないかと思う。

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一切の思想は試されてしまった。駄目だと分かった。われらに残されたものはなんだろう。エゴイズムしかない。新しい形のエゴイズムだ。

「新しい形のエゴイズム」とはどんなものか。われわれには新しい課題だった。その後「冬の花火」「春の枯葉」が完成し、いずれの場合も生原稿のままわれらに読んで聞かせてくれた。二つとも、ご本人が言うごとく、絶望の悲劇である。「春の枯葉」の中の登場人物の一人、奥田義雄に語らせている。
「人類がだめになったんですよ。〈略〉大理想も大思潮もタカが知れてる。そんな時代になったんですよ。僕はいまでは、エゴイストです。いつのまにやら、そうなって来ました。〈略〉僕たち二十代の者は、或る点では、あなたたちよりもずっと大人かも知れません」
 ここのところを、私は朗読の途中で聞き返した。
「お前、聞いていなかったな」と、太宰さんは私を叱りながらも中休みになり、新しいエゴイズムについて説明してくれた。私の理解したところでは、要するに、従来のような我利我利(、、、、)一点張りではなく、現実をまともに見つめ、柔軟に対処できるタイプのようであった。しかし、あまりよくは分からなかったというのが正直なところである。

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思想とは勇気だ

 この言葉を私は二度聞いた。実行の伴わない思想なんて、といった感じだった。戦後喧伝されたのは「実存主義」である。太宰さんは自分の考えは実存主義に近いと言っていた。そして人間実行の地獄に飛び込む勇気のない思想は、思想とは言えないとよく口にした。その頃、太宰さんは「空無」という言葉をさかんに使った。「虚無」とは違う。虚無にはまだ底に何か残っている。「空無」には何もない。どん底である。人間、どん底まで落ちてはじめて跳ね返り得ると、よく言っていた。サルトル実存主義は甘いとも言った。日本の哲学者田辺元が唱える「空無」に共感すると。

 【了】

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【参考文献】
・小野才八郎『太宰治語録』(津軽書房、1998年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】海

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今週のエッセイ

◆『海』
 1946年(昭和21年)、太宰治 37歳。
 1946年(昭和21年)5月下旬頃に脱稿。
 『海』は、1946年(昭和21年)7月1日発行の「文學通信」第一巻第三号の「随筆」欄に発表された。

「海

 東京の三鷹の家にいた頃は、毎日のように近所に爆弾が落ちて、私は死んだってかまわないが、しかしこの子の頭上に爆弾が落ちたら、この子はとうとう、海というものを一度も見ずに死んでしまうのだと思うと、つらい気がした。私は津軽平野のまんなかに生れたので、海を見ることがおそく、十歳くらいの時に、はじめて海を見たのである。そうして、その時の大興奮は、いまでも、私の最も貴重な思い出の一つになっているのである。この子にも、いちど海を見せてやりたい。
 子供は女の子で五歳である。やがて、三鷹の家は爆弾でこわされたが、家の者は誰も傷を負わなかった。私たちは妻の里の甲府市へ移った。しかし、まもなく甲府市も敵機に襲われ、私たちのいる家は全焼した。しかし、戦いは(なお)つづく。いよいよ、私の生れた土地へ妻子を連れて行くより他は無い。そこが最後の死場所である。私たちは甲府から、津軽の生家に向って出発した。三昼夜かかって、やっと秋田県東能代(ひがしのしろ)までたどりつき、そこから五能線に乗り換えて、少しほっとした。
「海は、海の見えるのは、どちら側です。」
 私はまず車掌に尋ねる。この線は海岸のすぐ近くを通っているのである。私たちは、海の見える側に(すわ)った。
「海が見えるよ。もうすぐ見えるよ。浦島太郎さんの海が見えるよ。」
 私ひとり、何かと騒いでいる。
「ほら! 海だ。ごらん、海だよ、ああ、海だ。ね、大きいだろう、ね、海だよ。」
 とうとうこの子にも、海を見せてやる事が出来たのである。
「川だわねえ、お母さん。」と子供は平気である。
「川?」私は愕然(がくぜん)とした。
「ああ、川。」妻は半分眠りながら答える。
「川じゃないよ。海だよ。てんで、まるで、違うじゃないか! 川だなんて、ひどいじゃないか。」
 実につまらない思いで、私ひとり、黄昏(たそがれ)の海を眺める。

 

深浦の「海べでのまどい」

 1945年(昭和20年)4月2日未明、太宰の住む三鷹アメリカ空軍の攻撃にさらされ、自宅周辺一帯に爆撃を受けました。太宰宅は、自宅裏と西側とに爆弾が落とされ、家の西側が破壊されたそうです。
 三鷹が狙われたのは、軍需省航空兵器局の管轄下にある中島飛行機があり、「一大軍需工業地帯」と呼ばれるような場所だったからでした。
 この夜の空爆で、三鷹下連雀二町会の住民56人が亡くなったそうです。

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 三鷹爆撃の4、5日後、太宰は先に故郷の山梨県甲府市疎開させていた妻・津島美知子を頼り、甲府へと身を寄せました。
 しかし、同年7月6日の午後11時23分、甲府に空襲警報が発令されます。アメリカ軍の爆撃機B29から、約10,400発、970トン余りの焼夷弾が市街一円に投下されました。この甲府空襲では市街地の約74%が焼き尽くされ、負傷者は1,239名、被害戸数は18,094戸、死者は1,127名にも及んだそうです。
 太宰が疎開していた美知子の実家も、この空襲で全焼しました。

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 甲府空襲後、太宰は、美知子の実家・石原家と交流があった山梨高等工業専門学校(現在の山梨大学)教授・大内勇の好意で、大内宅に身を寄せていましたが、炎熱の気候の中、肩身の狭い生活に半ば力尽きた太宰は、自身の故郷・津軽への疎開を決意しました。長らく故郷から遠ざかっていた太宰ですが、前年1944年(昭和19年)5月には、小説津軽を執筆するための取材旅行も行っており、精神的な抵抗感も少し弱くなっていたのかもしれません。
 太宰は、津軽への疎開準備を進め、同年7月28日に甲府駅を出発。上野駅から一路津軽を目指します。東北線、陸羽線、奥羽線と乗り継ぎ、二晩、駅のコンクリートの上で、リュックサックを枕に夜を過ごしました。朝に目覚めた太宰は、「乞食の境地がちょっと分かったね」と美知子に言ったそうです。

 2日後の同年7月30日、秋田県北部にある能代駅に辿り着いた太宰一行は五能線に乗り換えます。青森県深浦町で途中下車し、その日の夜は、秋田屋旅館に宿泊しました。この旅館は、太宰の次兄・津島英治の友人・島川貞一が経営しており、津軽執筆の取材旅行時にも宿泊、もてなしを受けていました。
 駅構内で過ごす夜が続いた上、甲府出発以来、飲むことができなかったアルコールに今夜は出会えるかもしれない、という期待を抱いての宿泊でした。美知子は、この時のことを「前夜もその前夜も駅の構内でごろ寝して、暑いさ中の乳幼児をかかえての旅で私は疲れきっていた。一刻も早く目的地に着きたいとも思わないが、まわり道したくなかった。」と回想しています。

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秋田屋旅館 現在はふかうら文学館として公開。2018年、著者撮影。

 期待していたアルコールですが、旅館で出迎えてくれたのは、17、8歳の娘さん。主人は長患いの床に就いているとのことで、娘さんは自分の在籍している学校が2日前の青森市の空襲で焼失してしまい、これから一体どうなるのだろう、と興奮気味に語りました。
 夕食として出されたのは2つの膳で、そこにお酒の姿はありませんでした。美知子は「窓も電灯も遮光幕で(おお)って、手もとが(わず)かに見えるほどの暗い部屋で、とうてい、お銚子をと言い出すことが出来なくて、あてにして来た太宰が気の毒であった。」と回想します。

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 翌7月31日の朝、深浦駅で列車の時刻を確認した後、太宰一行は海辺へ向かいます。この時の様子を、美知子の著書回想の太宰治から引用します。

 翌日は晴天で、窓をあけてみると空地に網や漁具が干してあって、漁港に泊ったことを実感した。宿に頼んでワカメを土産用に買って駅に向かった。
 (中略)
 夕方までに金木へ着けばよいので、のんびりした気持で駅で発車の時間をたしかめてから、足はしぜんに海べに向かった。
 朝の海は()いでいて大小様々の岩が点在し、磯遊びには絶好であった。
 四つの長女はまだ海を見たことがない。一家で子供中心の行楽の旅に出たこともなかったから、私たちははしゃいで、しばらく海べでのまどいを楽しんだ。

 今回紹介したエッセイ『海』は、この時の様子を回想したものだったのでしょうか。
 実は、美知子の回想には続きがあります。

 太宰が金木で書いた「海」というコントがある。
 海を指して教えても川と海の区別ができない子、居眠りしながら子の言葉にうなずく母――海というと私に浮かぶのは、あの深浦の朝の楽しかった家庭団欒(だんらん)(ひと)ときである。「浦島さんの海だよ、ほら小さいお魚が泳いでいるよ」とはしゃいだのはだれだろう。太宰自身ではないか。なぜ家庭団欒を書いてはいけないのか――私は「海」を読んでやり切れない気持であった。

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 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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