日めくり太宰治
11月3日の太宰治。 1932年(昭和7年)11月3日。 太宰治 23歳。 小舘保(こだてたもつ)とともに杉並署(?)に出頭を命ぜられ、別々に調べられて、小舘保は一晩、修治は二晩留置されたという。 太宰の留置とペンネーム「太宰」 1932年(昭和…
11月2日の太宰治。 1942年(昭和17年)11月2日。 太宰治 33歳。 美知子、園子と共に五、六日生家に滞在したが、明日帰京と決まった日の午後、美知子、園子を連れて芦野(あしの)公園に遊び、十一月上旬に帰京した。 明日帰京と決まった日の午後…
11月1日の太宰治。 1936年(昭和11年)11月1日。 太宰治 27歳。 十一月一日付発行の「文藝通信」十一月号に「先生三人」を発表。 『先生三人』 今日は、太宰のエッセイ『先生三人』を紹介します。 『先生三人』は、1936年(昭和11年)1…
10月31日の太宰治。 1935年(昭和10年)10月31日。 太宰治 26歳。 十月三十一日付で、井伏鱒二に手紙を送る。 「難関をひとりで切り抜ける覚悟」 1935年(昭和10年)10月31日付で、太宰は師匠・井伏鱒二に宛てて手紙を投函します。…
10月30日の太宰治。 1940年(昭和15年)10月30日。 太宰治 31歳。 十月三十一日付発行の「現代文学」十一月号に「パウロの混乱」を発表。 『パウロの混乱』 今日は、太宰のエッセイ『パウロの混乱』を紹介します。 『パウロの混乱』は、19…
10月29日の太宰治。 1940年(昭和15年)10月29日。 太宰治 31歳。 十月三十日付発行の「文筆」五週(ママ)年記念随筆特集号に「浪漫万歳」(のち「砂子屋(すなごや)」と改題)を発表。 『砂子屋(すなごや)』 今日は、太宰のエッセイ『砂子屋(…
10月28日の太宰治。 1942年(昭和17年)10月28日。 太宰治 33歳。 八時青森着、十一時頃五所川原着、旭町七十一番地の中畑慶吉(なかはたけいきち)宅で一休みのあと、金木の生家を訪れた。 美知子、初めての金木 1942年(昭和17年)1…
10月27日の太宰治。 1938年(昭和13年)10月27日。 太宰治 29歳。 十月三十一日付発行の「帝国大学新聞」に「校長三代/弘前=校長検事局へ行く」(のち「校長三代」のみの標題とする)を発表。 『校長三代』 今日は、太宰のエッセイ『校長…
10月26日の太宰治。 1938年(昭和13年)10月26日。 太宰治 29歳。 十月二十六日付で、中畑慶吉(なかはたけいきち)に手紙を送る。 「だめな男だとも思っていません」 1938年(昭和13年)10月24日、太宰が師匠・井伏鱒二に宛てて、…
10月25日の太宰治。 1945年(昭和20年)10月25日。 太宰治 36歳。 十月二十五日付で『お伽草紙』を筑摩書房から刊行。 終戦直後、『お伽草紙』を刊行 1945年(昭和20年)10月25日付で、『お伽草紙』が筑摩書房から刊行されました…
10月24日の太宰治。 1938年(昭和13年)10月24日。 太宰治 29歳。 井伏鱒二宛、二度と破婚はしない旨を記した誓約書を送付した。 太宰、井伏への「誓約書」 1938年(昭和13年)、天下茶屋に滞在中の太宰は、9月18日に師匠・井伏鱒…
10月23日の太宰治。 1940年(昭和15年)10月23日。 太宰治 31歳。 十月下旬から十一月上旬の頃、田中英光(たなかひでみつ)『オリンポスの果実』の出版に関し、神田区小川町二丁目十番地高山書院編集部大道寺浩一と交渉、序文を書くなど尽力…
10月22日の太宰治。 1945年(昭和20年)10月22日。 太宰治 36歳。 十月二十二日付発行の「河北新報(かほくしんぽう)」と「東奥日報(とうおうにっぽう)」とに、「パンドラの匣」を連載開始した。 『パンドラの匣』連載開始 1945年(昭和…
10月21日の太宰治。 1925年(大正14年)10月21日。 太宰治 16歳。 十月二十日付で青森中学校「校友会誌」第三十五号が発行され、辻魔首氏の筆名で「角力(すもう)」を発表。 『角力(すもう)』 今日は、太宰が青森県立青森中学校3年生の時に…
10月20日の太宰治。 1934年(昭和9年)10月20日。 太宰治 25歳。 淀橋区上落合二丁目八百二十九番地尾崎一雄宅での「青い花」創刊号の相談会に出席した。 太宰と中原中也① 1934年(昭和9年)、太宰は文芸同人誌「青い花」の創刊に注力し…
10月19日の太宰治。 1936年(昭和11年)10月19日。 太宰治 27歳。 太宰の入院中の三十一日間、毎日「看護日誌」が記録されている。 東京武蔵野病院入院中の太宰① 1936年(昭和11年)10月13日、太宰はパビナール中毒療養のため、北…
10月18日の太宰治。 1944年(昭和19年)10月18日。 太宰治 35歳。 十月十六日付発行の「東京新聞」に「純真」を発表した。 『純真』 今日は、太宰のエッセイ『純真』を紹介します。 『純真』は、1944年(昭和19年)10月16日発行の…
10月17日の太宰治。 1941年(昭和16年)10月17日。 太宰治 32歳。 十月十五日付発行の「早稲田大学新聞」に「世界的」を発表。 『世界的』 今日は、太宰のエッセイ『世界的』を紹介します。 『世界的』は、1941年(昭和16年)10月1…
10月16日の太宰治。 1946年(昭和21年)10月16日。 太宰治 37歳。 議会で上京していた長兄文治が午前十時の汽車で四か月振りに帰宅、早速伸びていた祖母イシの葬儀の相談をした。 祖母・津島イシの葬儀 太宰は、1945年(昭和20年)7…
10月15日の太宰治。 1936年(昭和11年)10月15日。 太宰治 27歳。 篠原病院に入院中の小舘善四郎には、母小舘せい(勢以)が上京し付添い看護する予定であったが、都合で来られなくなり、小舘礼子に代って初代が付添い、看護をすることにな…
10月14日の太宰治。 1940年(昭和15年)10月14日。 太宰治 31歳。 午前八時、新宿駅待合室に集合し、佐藤春夫、井伏鱒二、山岸外史などとともに甲州に行き、勝沼の葡萄(ぶどう)園で葡萄狩りを楽しんだ。 葡萄(ぶどう)を狩るの記 今日紹介す…
10月13日の太宰治。 1936年(昭和11年)10月13日。 太宰治 27歳。 朝、北芳四郎(きたよししろう)、中畑慶吉(なかはたけいきち)が船橋に来訪、井伏鱒二とともに麻薬中毒治療のために入院するよう説得。遂に入院を決意した。 太宰、東京武蔵野…
10月12日の太宰治。 1946年(昭和21年)10月12日。 太宰治 37歳。 十月十二日付で、村上辰雄と戸石泰一に手紙を送る。 疎開先で弟子を気遣う太宰 太宰は、1945年(昭和20年)7月31日から、三鷹、甲府を経て、故郷・金木町へ疎開し…
10月11日の太宰治。 1946年(昭和21年)10月11日。 太宰治 37歳。 太田静子に手紙を送る。 金木から「小田静夫」への手紙 1945年(昭和20年)7月31日、太宰は三鷹、そして甲府を経て、故郷・金木へ疎開します。太宰は、翌1946…
10月10日の太宰治。 1925年(大正14年)10月10日。 太宰治 16歳。 長兄文治が金木町長に就任した。 太宰の初恋『思い出』の「みよ」 1925年(大正14年)10月10日、太宰の長兄・津島文治が金木町長に就任し、以後、2年間務めまし…
10月9日の太宰治。 1936年(昭和11年)10月9日。 太宰治 27歳。 小舘善四郎(こだてぜんしろう)が、手首の静脈を切って鰭崎潤(ひれざきじゅん)宅に駆け込んだ。 小舘善四郎(こだてぜんしろう)の自殺未遂 1936年(昭和11年)10月10日…
10月8日の太宰治。 1932年(昭和7年)10月8日。 太宰治 23歳。 十月六日、日本共産党熱海会議の準備資金獲得のために、大森町の川崎第百銀行大森支店を襲い、現金三万一千二百三十四円を強奪する、俗称「大森ギャング事件」が発生した。 日本初…
10月7日の太宰治。 1936年(昭和11年)10月7日。 太宰治 27歳。 初代がパビナール中毒を心配して井伏鱒二を訪れ、相談。 初代、太宰の身を案じて井伏宅へ 1936年(昭和11年)10月7日、太宰の最初の妻・小山初代は、太宰のパビナール…
10月6日の太宰治。 1934年(昭和9年)10月6日。 太宰治 25歳。 午後七時から、銀座の「山の小舎」で、「青い花」同人の初顔合せ会が開かれた。 なかなかの熱の入れ方「青い花」 1934年(昭和9年)9月中旬頃、太宰は、ドイツ浪漫派の詩人…
10月5日の太宰治。 1938年(昭和13年)10月5日。 太宰治 29歳。 十月六日付発行の「国民新聞」に「富士に就いて」を発表。 『富士に就いて』 今日は、太宰のエッセイ『富士に就いて』を紹介します。 『富士に就いて』は、1938年(昭和13…