記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】もの思う葦(その二)③

f:id:shige97:20210214143058j:plain

今週のエッセイ

◆『もの思う葦(その二)』③
  ―当りまえのことを当りまえに語る。
 1935年(昭和10年)、太宰治 26歳。
 1935年(昭和10年)11月17、18日頃に脱稿。
 『もの思う葦(そのニ)』③「Alles oder Nichts」は、1935年(昭和10年)11月、『文藝放談』のために執筆されたが、同誌の廃刊によって掲載されなかった。太宰の生前の刊本には収録されず、没後、1950年(昭和25年)8月10日発行の『葦』夏号に「もの思う葦ーAlles oder Nichts」として、新仮名遣いで発表された。
 なお、標題に付している「(そのニ)」は、定本としている太宰治全集 11 随想筑摩書房、1999年)において、便宜上付されたもので、週刊 太宰治のエッセイでもこれを踏襲した。

f:id:shige97:20210328093536j:image

「Alles oder Nichts

 イプセンの劇より発し少しずつヨオロッパ人の口の()に上りしこの言葉が、流れ流れて、今では、新聞当選のたよりげなき長編小説の中にまで、易々とはいりこんでいたのを、ちらと見て、私自身、嘲弄(ちょうろう)されたと思いこみむっとなった。私の思念の底の一すじのせんかんたる渓流もまた、この言葉であったのだから。
 私は小学校のときも、中学校のときも、クラスの首席であった。高等学校へはいったら、三番に落ちた。私はわざと手段を講じてクラスの最下位にまで落ちた。大学へはいり、フランス語が下手で、屈辱の予感からほとんど学校へ出なかった。文学に於いても、私は、誰のあなどりも許すことが出来なかった。完全に私の敗北を意識したなら、私は文学をさえ、止すことが出来る。
 けれども私は、或る文学賞の候補者として、私に一言の通知もなく、そうして私が蹴落されていることまで、付け加えて、世間に発表された。人おのおの、不抜の自尊心のほどを、思いたまえ。しかるに受賞者の作品を一読するに及び、告白すれば、私、ひそかに安堵した。私は敗北しなかった。私は書いてゆける。誰にも許さぬ私ひとりの路をあるいてゆける確信。
 私、幼くして、峻厳酷烈(しゅんげんこくれつ)なる亡父、ならびに長兄に叩きあげられ、私もまた、人間として少し頑迷なるところもあり、文学に於いては絶対に利己的なるダンディズムを奉じ、十年来の親友をも、みだりに許さず、死して、なお、旗を右手に歯ぎしりしつつ(ちまた)をよろばいあるくわが身の執拗なる(ごう)をも感じて居るのだ。一朝、生活にことやぶれ、万事窮したる揚句の果には、耳をつんざく音と共に、わが身は、酒井眞人と同じく、「文芸放談」。どころか、「文芸糞談」。という雑誌を身の生業(なりわい)として、石にかじりついても、生きのびて行くかも知れぬ。秀才、はざま貫一、勉学を廃止して、ゆたかな金貸し業をこころざしたというテエマは、これは今のかずかずの新聞小説よりも、いっそう切実なる世の中の断面を見せて呉れる。
 私、いま、自らすすんで、君がかなしき藁半紙(わらばんし)に、わが心臓つかみ出したる詩を、しるさん。私、めったの人には断じて見せなかった未発表の大事の詩一篇。
 附言する。われ藁半紙(わらばんし)のゆえにのみしるす也と思うな。原稿用紙二枚に走り書きしたる君のお手紙を読み、謂わば、屑籠(くずかご)の中の(はちす)を、確実に感じたからである。君もまたクライストのくるしみを苦しみ、凋落のボオドレエルの姿態に胸を焼き、焦がれ、たしかに私と甲乙なき一二の佳品かきたることあるべしと推量したからである。ただし私、書くこと、この度一回に限る。私どんなひとでも、馴れ合うことは、いやだ。
  因果
  射的を
  好む
  頭でっかちの
  弟。
  兄は、いつでも、生命を、あげる。

 

「Alles oder Nichts」とは

  「イプセンの劇より発し」たという、今回のエッセイのタイトル「Alles oder Nichts」イプセンとは、ヘンリック・イプセン(1823~1906)のこと。イプセンは、ノルウェーの劇作家、詩人、舞台監督で、近代演劇の創始者であり、「近代演劇の父」と呼ばれています。イングランドの劇作家、詩人であるウィリアム・シェイクスピア(1564~1616)以後、世界で最も盛んに上演されている劇作家とも言われています。代表作に『ブラン』『ペール・ギュント』『人形の家』『野鴨』『ロスメルスホルム』『ヘッダ・ガーブレル』などがあります。

f:id:shige97:20210516092553j:image
■ヘンリック・イプセン

 「Alles oder Nichts」は、イプセンの代表作のひとつであり、五幕から成る詩劇『ブラン』(1866)の主人公・牧師ブランの信条で、英訳すると「All or Nothing」、日本語だと「全か無か、妥協を許さない、全てを賭けた」という意味になります。

 「私は小学校のときも、中学校のときも、クラスの首席であった」という過去から、「或る文学賞の候補者として、私に一言の通知もなく、そうして私が蹴落されていることまで、付け加えて、世間に発表された」という現在までを回想する太宰。「或る文学賞」とは、創設されたばかりの芥川龍之介賞のことです。自身の逆行が候補5作品の中に選出され、浮足立っていた太宰ですが、結果は思い通りにはいきませんでした。

 太宰は「Alles oder Nichts」の言葉に何を想いながら、このエッセイを記したのでしょうか。

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

太宰治39年の生涯を辿る。
 "太宰治の日めくり年譜"はこちら!】

太宰治の小説、全155作品はこちら!】