記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】もの思う葦(その三)②

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今週のエッセイ

◆『もの思う葦(その三)』②
 1936年(昭和11年)、太宰治 27歳。
 1935年(昭和10年)11月上旬後半から中旬前半の頃に脱稿。
 『もの思う葦(その三)』②は、1936年(昭和11年)1月1日発行の「文藝通信」第四巻第一号の「作家の感想」欄に、「もの思う葦」の題で、「健康」「K君」「ポオズ」「絵はがき」「いつわりなき申告」「乱麻を焼き切る」「最後のスタンドプレイ」の7篇が発表された。
 なお、標題に付している「(その三)」は、定本としている太宰治全集 11 随想筑摩書房、1999年)において、便宜上付されたもので、週刊 太宰治のエッセイでもこれを踏襲した。

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「健康

 なんにもしたくないという無意志の状態は、そのひとが健康だからである。少くとも、ペエンレツスの状態である。それでは、上は、ナポレオン、ミケランジェロ、下は、伊藤博文尾崎紅葉にいたるまで、そのすべての仕事は、みんな物狂いの状態から発したものなのか。然り。間違いなし。健康とは、満足せる豚。眠たげなポチ。


「K君」

 おそるおそる、たいへんな秘密をさぐるが如き、ものものしき仕草で私に尋ねた。「あなたは、文学をお好きなのですか。」私はだまって答えなかった。面貌だけは凛乎(りんこ)たるところがあったけれど、なんの知識もない、十八歳の少年なのである。私のとって、唯一無二の苦手であった。


「ポオズ」

 はじめから、空虚なくせに、にやにや笑う。「空虚のふり。」


「絵はがき」

 この点では、私と山岸外史とは異るところがある。私、深山のお花畑、初雪の富士の霊峰。白砂に這い、ひろがれる千本松原、または紅葉に見えかくれする清姫瀧、そのような絵はがきよりも浅草仲店の絵はがきを好むのだ。人ごみ。喧噪。他生の縁あってここに集い、折も折、写真にうつされ、背負って生れた宿命にあやつられながら、しかも、おのれの運命開拓の手段を、あれこれと考えて歩いている。私には、この千に余る人々、誰ひとりを笑うことが許されぬ。それぞれ、努めて居るにちがいないのだ。かれら一人一人の家屋。ちち、はは。妻と子供ら。私は一人一人の表情と骨格とをしらべて、二時間くらいの時を忘却する。


「いつわりなき申告」

 黙然たる被告は、突如立ちあがって言った。
「私は、よく、ものごとを()ろうと思っています。私は率直であります。率直に述べようと思っています。」
 裁判長、傍聴人、弁護士たちでさえ、すこぶる陽気に笑いさざめいた。被告は座ったまま、ついにその日一日おのれの顔を両手もて覆っていた。夜、舌を噛み切り、冷くなった。


「乱麻を焼き切る」

 小説論が、いまのように、こんぐらかって来ると、一言、以て之を覆いたくなって来るのである。フランスは、詩人の国。十九世紀の露西亜は、小説家の国なりき。日本は、古事記日本書紀。万葉の国なり。長編小説などの国には非ず。小説家たる君、まず異国人になりたまえ。あれも、これも、と()き工合いには、断じていかぬよう也。君の兄たり友たり得るもの、プウシキン、レエルモントフ、ゴオゴリ、トルストイドストエフスキイアンドレエフ、チェホフ、たちまち十指にあまる勢いではないか。


「最後のスタンドプレイ」

 ダヴィンチの評伝を走り読みしていたら、はたと一枚の挿絵に行き当った。最後の晩餐の図である。私は目を見はった。これはさながら地獄の絵掛地。ごったがえしの、天地震動の大騒ぎ。否。人の世の最も切なき阿修羅の姿だ。
 十九世紀のヨオロッパの文豪たちも、幼くしてこの絵を見せられ、こわき説明をされたにちがいない。
「われを売る者、この中にひとりあり。」キリストはそう呟いて、かれの一切の希望をさらっと捨て去った、刹那の姿を巧みにとらえた。ダヴィンチは、キリストの底しれぬ深い憂愁と、われとわが身を静粛に投げ出したるのちの無限のいつくしみの念とを知っていた。そうしてまた、十二の使徒のそれぞれの利己的なる崇敬の念をも悉知(しっち)していた。よし。これを一つ、日本浪漫派(にほんろうまんは)の同人諸兄にたのんで、芝居をしてもらおう。精悍無比の表情を装い、斬人斬馬の身ぶりを示して居るペテロは誰。おのれの潔白を証明することにのみ急なる態のフィリッポスは誰。ただひたすらに、あわてふためいて居るヤコブは誰。キリストの胸のおん前に眠るが如くうなだれて居るこの小鳩のように優美なるヨハネは誰。そうして、最後に、かなしみ極りてかえって、ほのかに明るき(かお)の、キリストは誰。
 山岸、あるいは、自らすすんでキリストの役を買って出そうであるが、果して、どういうものであるか。中谷孝雄なる()き青年の存在をもゆめ忘れてはならないし、そのうえ、「日本浪漫派(にほんろうまんは)」という目なき耳なき混沌の怪物までひかえて居る。ユダ。左もて何やらんおそろしきものを防ぎ、右手もて、しっかと金嚢(きんのう)を掴んで居る。君、その役をどうか私にゆずってもらいたい。私、「日本浪漫派(にほんろうまんは)」を愛すること最も深く、また之を憎悪するの念もっとも高きものがあります故。

 

太宰と山岸外史

 今回のエッセイ「絵はがき」に登場した太宰の親友、山岸外史について紹介します。

 山岸外史(1904~1977)は、東京都生まれの詩人・評論家。鹿児島七高を経て東京帝国大学哲学科に学びました。卒業後は文筆家を志し、1931年(昭和6年)に同人雑誌「アカデモス」を主宰。1934年(昭和9年)には同人雑誌「散文」を創刊します。この創刊号に掲載した『「紋章」と「禽獣」の作家達』川端康成に認められ、同じく佐藤春夫論』佐藤春夫の知遇を得ました。同年、太宰と意気投合し、同人雑誌青い花を創刊しますが、創刊号の刊行をもって休刊となってしまいました。

 翌1935年(昭和10年)には、旧青い花同人と一緒に日本浪漫派(にほんろうまんは)に加わり、この間に太宰や檀一雄と交友を結びました。太宰、山岸、檀の三人は「三馬鹿」と呼ばれていたそうです。
 1999年(平成11年)に筑摩書房から刊行された太宰治全集 12 書簡に収録されている個人別書簡数の中で、山岸宛の書簡が106通と最も多く、2人の親交の深さがうかがえます。1939年(昭和14年)3月8日付の絵はがきには、次のように書かれています。

(前略)二年、三年、君と私と音信不通の場合があっても、やはり、君と、私と、同じ文学の道を理解しながら歩いてゆくのではないかと思う。君に啓発されたところ、暗示をうけたところ、今日まででも、たくさんあるのです。

 山岸は太宰の死後、太宰との交友関係を人間太宰治』『太宰治おぼえがきにまとめています。

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■山岸外史

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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