記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】わが半生を語る

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今週のエッセイ

◆『わが半生を語る』
 1947年(昭和22年)、太宰治 38歳。
 1947年(昭和22年)9月下旬に脱稿。
 『わが半生を語る』は、1947年(昭和22年)11月1日発行の「小説新潮」第一巻第三号の「()が半生を語る」欄に『文学の曠野(こうや)に』と題して発表された。この欄には、ほかに『到る処青山あり』(林芙美子)が掲載された。初出本文の末尾には、「(在文責記者)」とあり、談話筆記とみられる。発表後、太宰治の生前の刊本には収められず、没後、新潮社版「如是我聞」に『わが半生を語る』として初めて収録された。

「わが半生を語る

  生い立ちと環境

 私は田舎のいわゆる金持ちと云われる家に生れました。たくさんの兄や姉がありまして、その末ッ子として、まず何不自由なく育ちました。その為に世間知らずの非常なはにかみやになって終いました。この私のはにかみが何か他人(ひと)からみると自分がそれを誇っているように見られやしないかと気にしています。
 私は(ほとん)ど他人には満足に口もきけないほどの弱い性格で、従って生活力も(ゼロ)に近いと自覚して、幼少より今(まで)すごして来ました。ですから私はむしろ厭世(えんせい)主義といってもいいようなもので、余り生きることに張合いを感じない。ただもう一刻も早くこの生活の恐怖から逃げ出したい。この世の中からおさらばしたいというようなことばかり、子供の頃から考えている(たち)でした。
 こういう私の性格が私を文学に志さしめた動機となったと云えるでしょう。育った家庭とか肉親とか(ある)いは故郷という概念、そういうものがひどく抜き難く根ざしているような気がします。
 私は自分の作品の中で、私の生れた家を自慢しているように思われるかも知れませんが、かえって、まだ自分の家の事実の大きさよりも更に遠慮して、(ほとん)どそれは半分、いや、もっとはにかんで語っている程です。
 一事が万事、なにかいつも自分がそのために人から非難せられ、仇敵視(きゅうてきし)されているような、そういう恐怖感がいつも自分につきまとって居ります。そのためにわざと、最下等の生活をしてみせたり、(ある)いはどんな汚いことにでも平気になろうと心がけたけれども、しかしまさか私は縄の帯は締められない。
 それが人はやはりどこか私を思い上っていると思う第一の原因になっているようであります。けれども私に言わせれば、それが私の弱さの一番の原因なので、そのために自分の身につけているもの全部をほうり出して差上げたいような思いをしたことが幾度あったかしれません。
 例えば恋愛にしても、私だってそれは女から好意を寄せられることはたまにありますけれども、自分がそんな金持ちの子供に生れたという点で女に好意をもたれているに過ぎないというように、人から思われるのが嫌で、恋愛をさえ幾度となく自分で断念したこともあります。
 現に私の兄がいま青森県民選知事をしておりますが、そう云うことを女にひと(こと)でも云えば、それを種に女を口説くと思われはせぬかというので、(かえ)っていつも芝居をしているように、自分をくだらなく見せるというような、(ほとん)ど愚かといってもいいくらいの努力をして生きて参りました。これは自分でももて余していて、どうにも解決のしようが未だに発見出来ません。


  文壇生活?……

 私がまだ東大の仏文科でまごまごしていた二十五歳の時、改造社の「文芸」という雑誌から何か短篇を書けといわれて、その時、あり合せの「逆行」という短篇を送った。それが二、三ヶ月後くらいに新聞の広告に大きく名前が諸先輩と並んで出て、それが後日第一回芥川賞の時に候補に上げられました。
 その「逆行」と(ほとん)ど前後して同人雑誌「日本浪漫派(にほんろうまんは)」に「道化の華」が発表されました。それが佐藤春夫先生の推奨にあずかり、その後、文学雑誌に次々と作品を発表することができました。
 それで自分も文壇生活というか、小説を書いて(ある)いは生活が出来るのではないかしらとかすかな希望をもつようになりました。それは大体年代からいうと昭和十年頃です。
 省みますと、自分でははっきりと斯々(かくかく)の動機で文学を志したということは、判らないことで、(ほとん)ど無意識といってもいい位に、私はいつの間にやら文学の野原を歩いていたような気がするのです。気がついたらそれこそ往くも千里、帰るも千里というような、のっぴきならない文学の野原のまん中に立っていたのに気がついて、たいへん驚いたというようなところが真に近いかと思います。


  先輩・好きな人達

 私がおつき合いをお願いしている先輩は井伏鱒二氏一人といっていい位です。あと評論家では河上徹太郎亀井勝一郎、この人達も「文學界」の関係から飲み友達になりました。もっと年とった方の先輩では、これは交友というのは失礼かもしれないけれど、お宅に上らせて頂いた方は佐藤先生と豊島与志雄先生です。そうして井伏さんにはとうとう現在の家内を媒酌(ばいしゃく)して頂いた程、願っております。
 井伏さんといえば、初期の「夜ふけと梅の花」という本の諸作品は、(ほとん)ど宝石を並べたような印象を受けました。また嘉村磯多(かむらいそた)なども昔から大変えらい人だと思っています。
 これは弱い性格の人間の特徴かも知れませんが、人が余り騒ぐような、また尊敬しているような作品には一応、疑惑を持つ癖があります。
 明治文壇では国木田独歩の短篇は非常にうまいと思っております。
 フランス文学では、十九世紀だったらばたいてい皆、バルザック、フローベル、そういう所謂(いわゆる)大文豪に心服していなければ、なにか文人たるものの資格に欠けるというような、へんな常識があるようですけれども、私はそんな大文豪の作品は、本当はあまり読んで好きじゃないのです。(かえ)ってミュッセ、ドーデー、あの辺の作家をひそかに愛読しております。ロシア語ではトルストイ、ドストイエフスキーなど、やはりみな、それに感心しなければ、万人の資格に欠けるというようなことが常識になっていて、それは確かにそういうものなのでしょうけれども、やはり自分はチェホフとか、誰よりもロシアではプーシュキン一人といってもいい位に傾倒しています。


  私は変人に非ず

 三月号の小説新潮の、文壇「話の泉」の会で、私は変人だと云うことになっているし、なにか縄帯でも締めているように思われている。また私の小説もただ風変わりで珍しい位に云われてきて、私はひそかに憂鬱な気持ちになっていたのです。世の中から変人とか奇人などといわれている人間は、案外気の弱い度胸のない、そういう人が自分を(まも)るための擬装をしているのが多いのではないかと思われます。やはり生活に対して自信のなさから出ているのではないでしょうか。
 私は自分を変人とも、変った男だとも思ったことはなく、きわめて当り前の、また(ふる)い道徳などにも非常にこだわる(たち)の男です。それなのに、私が道徳など全然無視しているように思っている人が多いようですが、事実は全くその反対だ。
 けれども、私は前にも云ったように、弱い性格なのでその弱さというものだけは認めなければならないと思っているのです。また人と議論することも私にはできない、これも自分の弱さといってもいいけれども、何か自分のキリスト主義みたいなものも多少含まれているような気がするのです。
 キリスト主義といえば、私はいまそれこそ文字通りのあばら家に住んでいます。私だってそれは人並の家に住みたいとは思っています。子供も可哀そうだと思うこともあります。けれども私にはどうしてもいい家に住めないのです。それはプロレタリア意識とか、プロレタリアイデオロギーとか、そんなものから教えられたものでなく、キリストの汝等(なんじら)己を愛する如く隣人を愛せよという言葉をへんに頑固に思いこんでしまっているらしい。しかし己を愛する如く隣人を愛するということは、とてもやり切れるものではないと、この頃つくづく考えてきました。人間はみな同じものだ。そういう思想はただ人を自殺にかり立てるだけのものではないでしょうか。
 キリストの己を愛するが如く汝の隣人を愛せよという言葉を、私はきっと違った解釈をしているのではなかろうか。あれはもっと別の意味があるのではなかろうか。そう考えた時、己を愛するが如くという言葉が思い出される。やはり己も愛さなければいけない。己を嫌って、(ある)いは己を(しいた)げて人を愛するのでは、自殺よりほかはないのが当然だということを、かすかに気がついてきましたが、(しか)しそれはただ理屈です。自分の世の中の人に対する感情はやはりいつもはにかみで、背の丈を二寸くらい低くして歩いていなければいけないような実感をもって生きてきました。こんなところにも、私の文学の根拠があるような気がするのです。
 また私は社会主義というものはやはり正しいものだという実感をもって居ります。そうしていま社会主義の世の中にやっとなったようで、片山総理などが日本の大将になったということは、やはり嬉しいことではないかと思いながらも、私は昔と同じように、いや(ある)いは昔以上に(すさ)んだ生活をしなければならん。この自分の不幸を思うと、もう自分に幸福というものは一生ないのかと、それはセンチメンタルな気持でなく、何だかいやに明瞭にわかってきたようにこの頃感じます。
 あれ、これと考え出すと私は酒を飲まずにおれなくなります。酒によって自分の文学観や作品が左右されるとは思いませんが、ただ酒は私の生活を非常にゆすぶっている。前にも申しましたように人と会っても満足に話が出来ず、後であれを言えばよかった、こうも言えばよかったなどと口惜(くや)しく思います。いつも人と会うときには(ほとん)どぐらぐら眩暈(めまい)をして、話をしていなければならんような性格なので、つい酒を飲むことになる。それで健康を害し、(ある)いは経済の破綻(はたん)などもしばしばあって、家庭はいつも貧寒の趣きを呈しております。寝てからいろいろその改善を企図することもあるけれども、これはどうにも死ななきゃ直らないというような程度に(まで)なっているようです。
 私も、もう三十九になりますが、世間にこれから暮してゆくということを考えると、呆然(ぼうぜん)とするだけで、まだ何の自信もありません。だから、そういういわば弱虫が、妻子を養ってゆくということは、むしろ悲惨といってもいいのではないかと思うこともあります。

 

太宰治、"残りの半生"

 『わが半生を語る』と題されたこのエッセイは、太宰の死の前年にあたる、1947年(昭和22年)9月下旬に脱稿されました。太宰が、愛人・山崎富栄玉川上水で心中する約9ヶ月前です。

 今回は、太宰の年譜を追いながら、太宰の"残りの半生"を見ていきます。

 

1947年(昭和22年)

《9月1日》
「新潮」九月号に『斜陽(長篇連載第三回)』として、」「を発表。

《9月10日》
「日本小説代表作全集14昭和二十一年前半期」(小山書店)にを収載。

《9月24日》
伊馬春部の友人である銀座の貴金属宝石・古美術商の若主人・小野英一の招待で、太宰は、伊馬、山崎富栄と熱海「松の寮」に一泊旅行をし、昔風な出の衣裳姿の妓を見た。

《10月1日》
「新潮」十月号に『斜陽(連載長篇完結)』として、」「を、「改造」十月号におさんを発表。
なお、魚服記以来15年間、自身で丹念に書き続けて来た「創作年表」は、このおさんで絶たれている。
織田作之助選集附録第一号」(中央公論社)に織田君の死が再録。

《10月5日》
単行本「女神」(白文社)を刊行。

《10月頃》
八雲書店から、全集刊行の申し入れがあった。亀島貞夫によると、「あれは、まったく私の思いつきだったのです。原稿を書いてもらえない心のあせりから、いかに八雲書店が太宰さんの作品に執心しているかという姿勢をみせたかったから言ったまでのことなのです。とても承諾してもらおうとは思いませんでした。」とのこと。亀島の全集刊行の申し入れに対し、太宰は一瞬きっと身構え、息をのみ、やがて呟くように「そうだね。もう、このへんで出してもいいかもしれないな」と言ったという。
八雲書店の申し入れから30分~1時間程度遅れ、実業之日本社からも全集刊行の申し入れがあった。2、3回の話し合いの末、八雲書店に決定し、準備に入った。八雲書店の社長・中村梧一郎によると、編集部の大方の意見は、全集ではなく、選集説だったという。

《10月14日》
憲法実施により、11宮家51名の宮が、皇族籍を離脱した。同日、「時事新報」掲載の『離脱その前夜・三若宮自由談義』の一節に、治憲王の発言として、斜陽に「身につまされ」るとあった。

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《11月1日》
小説新潮」十一月号の「()が半生を語る」欄に『文学の曠野(こうや)に』(のち『わが半生を語る』と改題)を発表。
単行本正義と微笑(永晃社)を「青春文庫3」として刊行。

《11月12日》
愛人・太田静子に娘・太田治子が誕生。

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■太田静子と娘・治子 1948年(昭和23年)春に撮影。

《11月15日》
太田静子の弟・太田通が来訪し、静子の生んだ「子供が、太宰治の子であるという(あか)し」と「命名」とを要請されたため、認知の「(あかし)」を記して渡した。

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《11月17日》
朝日新聞」にエッセイ『小志』を発表。

《11月25日》
全集印刷の打ち合わせのため、八雲書店の編集部・亀島貞夫を訪問。
この頃から、太宰の仕事部屋は山崎富栄の部屋に移っていたという。

《12月8日》
東宝映画から、斜陽映画化の申し入れがあったが、断った。

《12月9日》
太宰の弟子・田中英光が、山崎敬子を伴って訪れた。

《12月10日》
「晩年」を「新潮文庫」の1冊として、新潮社から刊行。

《12月15日》
単行本斜陽(新潮社)を刊行。たちまちベストセラーとなり、初版1万部、再版5,000部、三版5,000部、四版1万部と版を重ね、「翌年七月の新版と併せて昭和二十四年三月までに十二万部」を越した。

《12月17日》
太宰の弟子・田中英光が、雑誌社、出版社などからの集金のために上京。ともに出版社回りをし、痛飲。

《12月18日》『春の枯葉』
(いで)英利が、春の枯葉俳優座での上演の用件で訪れた。

《12月19日》
太宰の弟子・堤重久が、八雲書店版「太宰治全集」のための「年表完成」の助力を依頼した、奈良女子高等師範学校横田俊一を伴って上京。翌20日の午前7時に三鷹の太宰宅を訪問した。
同日の午前8時、俳優座で上演する劇春の枯葉の下稽古の件で、(いで)英利が訪れ、続けて「群像」の編集長が訪れた。正午頃、堤、横田と共に「千草」へ行き、それから二日三晩酒宴をした。堤は12月30日まで宿泊し、横田は三泊して関西へ帰った。

《12月23日》
「上野浮浪児記」を執筆するため、「日本小説」の雑誌記者・氏家と、上野に行って浮浪児を見て歩いた。これが後、美男子と煙草となった。

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《12月30日》
三鷹下連雀の自宅で堤重久と夕食を共にし、夜行列車に乗る堤を三鷹駅まで送った。

 

1948年(昭和23年)

《1月1日》
中央公論」新年号に犯人を、「光」新年特大号に饗応夫人を、「地上」新年号に酒の追憶を、「ろまねすく」新年号に『かくめい』を発表。

《1月8日》
美男子と煙草の稿を起こした。この作品の5枚目以降は、上野に同行した氏家記者が口述筆記している。

《1月10日》
「今朝、血痰がひどく出られた由。お体も、めっきりおやせになられた。」と、山崎富栄が日記に書いている。

《1月25日》
単行本「花燭」思索社)を刊行。

《2月4日~7日》
俳優座の「劇作家研究会」の第一回公演として、春の枯葉一幕三場が、千田是也の演出によって毎日ホールで上演された。野中弥一を永井智雄、節子を三戸部スエ、しづを東山千栄子、奥田義雄を天野総治郎、菊代を中村美代子が、それぞれ演じた。各日13時、17時の開演で、同時に阪中正夫作、青山杉作演出の「馬」が上演された。

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《2月9日》
大映女優・関千恵子が、大映宣伝部・杉田邦男と共に、太宰の三鷹の自宅に訪れ、対談した。約1時間半にわたった対談の内容は、「大映ファン」五月号に、関千恵子太宰治先生訪問記として発表された。

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《2月10日》
出版社数社が合同主催した、木挽町織田作之助ゆかりの料亭「鼓」での「織田作之助一周忌追悼会」に、輪島昭子林芙美子坂口安吾青山光ニなどと出席した。「鼓」のすぐ近くに住んでいた、太宰の先妻・小山初代の叔父・吉沢祐五郎は、直前に予告記事を新聞で読み、夫人・みつをその料亭に使いに出し、太宰に「お帰りの途中、お寄り頂きたい」との意を伝えさせたが、太宰はひたすら揉み手をして、「いつか、きっと」と断ったという。

《2月19日》
妻・美知子の妹・吉原愛子が危篤に陥った。東京帝大病院へ見舞いに行き、そのあと、豊島与志雄山崎富栄と共に訪問。

《2月21日》
吉原愛子の病状がさらに悪化し、夜、美知子が「千草」に迎えに来た。

《2月23日》
写真家・田村茂によって、27枚の写真が撮影された。

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《2月29日》
吉原愛子が、夫・吉原健夫と弟・石原明に見守られて逝去し、3月3日に葬儀が行われ、参列した。享年31歳。

《3月1日》
「日本小説」三月号に美男子と煙草を、「小説新潮」三月号に眉山を、「新潮」三月号に如是我聞を、「個性」三月号のアンケート「小説とは何か」欄に『小説の面白さ』と題する回答を発表。
如是我聞は、太宰が「どうしても書きたい」と希望し、1年間連載する予定だった。

《3月はじめ》
朝日新聞東京本社学芸部長・末常卓郎が、午後3時過ぎに小説連載の依頼に「千草」を訪れ、階下で話した。この依頼が、太宰の絶筆となるグッド・バイに結実する。

《3月3日》
午後、当時朝日新聞東京本社論説委員だった平岡敏男が、同社学芸部副部長だった古谷綱正と共に来訪し、山崎富栄方で21時過ぎまで飲み、語った。

《3月7日》
東京発12時40分熱海行。筑摩書房主・古田晁の計らいで、熱海駅の裏手にある熱海市咲見町林ヶ久保の高台に建つ櫻井兵五郎の別荘を旅館にした、眺望のいい「起雲閣」別館に滞在、外部との交渉を断って、翌3月8日から、人間失格の執筆に専念した。この熱海行きには、山崎富栄も同行していた。

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《3月19日》
人間失格第一の手記を脱稿して、担当の「展望」編集者・石井立に原稿を送り、いったん帰京した。

《3月21日》
再び熱海に向かった。

《3月28日》
「展望」連載一回分の人間失格103枚、第二の手記までを脱稿し、3月31日、帰京。

《4月1日
「八雲」四月号に女類を、「群像」四月号に渡り鳥を、「文藝時代」四月号に『徒党について』を発表。
長女・津島園子が小学校に入学した。

《4月2日~4月28日》
三鷹下連雀の仕事部屋で、「展望」連載第二回分、人間失格第三の手記 一51枚を執筆脱稿した。
美知子によると、この頃は自宅近くの内科医に寄って、ザルブロの注射を打ってから、仕事部屋へ出かけるのがきまりで、そのほか常用するビタミン剤などの注射はおびただしい数に上り、常人の何倍かの量を用いていたという。

《4月6日》
如是我聞野平健一に口述筆記させた。

《4月25日》
豊島与志雄山崎富栄と共に訪問した。豊島と太宰が会ったのは、これが最後となった。

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■山崎富栄

《4月29日》
筑摩書房主・古田晁の計らいで、埼玉県大宮市大門町三丁目百三番地の小野沢清澄方の、奥の八畳と三畳との二間を借り、三畳間を仕事部屋として、人間失格第三の手記 二を執筆した。この大宮行きには、山崎富栄も同行した。
小野沢は、大宮駅前の繁華街で「天清」という天ぷら屋を営業していて、その店の客として親しかった古谷に依頼されて、引き受けたという。小野沢によれば、「毎朝九時ごろに起き、昼ごろから茶ぶ台に向かった。かたわらに辞書を置き、三時間ほどペンを走らせ、夜はゆっくり時間をかけて食事をするという、規則正しい生活を送っていた。」「書損じの原稿用紙で、くずかごは毎日一杯で」「連れの女の人は、いつも静かに編み物をしていた」という。太宰が大宮に滞在中、部屋に食事を運んでいたのが、小野沢の姪にあたる藤縄信子だった。

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■小野沢宅のある路地

《4月30日》
単行本「春の枯葉」鎌倉書房)を「戦後文学選4」として刊行。

《5月1日》
「世界」五月号に
桜桃を、「新潮」五月号に如是我聞(ニ)を発表。

《5月8日》
人間失格第三の手記 二46枚を脱稿。

《5月9、10日頃》
人間失格
あとがきを執筆し、人間失格全206枚を脱稿した。

《5月12日》
石井立の迎えを得て、小野沢に「グッド・バイも、ぜひここで書きたいので、部屋を空けておいて下さい」と言い残して、帰京。

《5月12日~14日》
如是我聞(三)野平健一に口述筆記させ、脱稿。

《5月14日》
末常卓郎が来訪し、「朝日新聞」への連載小説(グッド・バイ)の執筆条件などについて相談。1日分3枚半、1枚500円、全旅費を負担、6月20日頃から連載開始となった。

《5月15日》
朝日新聞」に80回ほど連載予定のグッド・バイの稿を起こした。

《5月18日》
『グッド・バイ』
変心(二)までを脱稿。

《5月20日
単行本「ろまん燈籠」改造社)を刊行。

《5月27日》
『グッド・バイ』10回分の
怪力(三)までを脱稿、朝日新聞東京本社学芸部に渡された。

《6月1日》
「展望」六月号に人間失格(第一回)』として、
はしがき」「第一の手記」「第二の手記までを、「新潮」六月号に如是我聞(三)を発表。

《6月3日頃》
『グッド・バイ』
13回分の
コールド・ウォー(二)までを脱稿。

矢代静一(いで)英利とが春の枯葉の舞台写真を届けに訪れた。

《6月3日》
夕方、自宅から打電して、「新潮」編集記者・野平健一を呼び、ほとんど徹夜して、
如是我聞(四)を口述筆記させ、6月5日に脱稿した。

《6月6日》
朝、いつものように「仕事部屋に行ってくるよ」と言って、気軽に家を出たまま、自宅には帰らなかった。

《6月12日》
昼過ぎ、大宮の宇治病院を訪れ、「古田さん、いる?」と尋ねた。古田晁の不在を聞いた太宰は、三鷹へ戻った。立ち去る太宰の後ろ姿は、何か寂しげだったという。

《6月13日》
午後11時半から、翌14日午前4時頃までの間に、大宮を訪れた時と同じ、グレーのズボンに白いワイシャツで下駄履きという格好で、山崎富栄と家を出、玉川上水に入水した。死亡時刻は、6月14日午前1時頃と推定されており、戸籍上の太宰の死亡日は「6月14日」となっている。

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■入水直後の富栄の部屋 撮影:毎日新聞・石井周治。

《6月14日》
遺書が見つかる。美知子、仕事部屋先の鶴巻幸之助(「千草」の店主)、出版雑誌社、友人宛などがあり、3人の子供たちへの蟹の玩具、友人たちへの遺品、グッド・バイ10回分の校正刷りと、13回までの草稿も残されていた。
近親者、三鷹署などの手で連日捜索が続けられ、林聖子野平健一が、玉川上水沿いで山崎富栄の家のガラスの皿とビンを発見した。

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《6月19日》
午前6時50分頃、死体発見。「千草」で検視のあと、堀ノ内の火葬場で荼毘に付され、午後6時過ぎに骨が拾われた。

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 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・『太宰治全集 13 草稿』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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太宰治39年の生涯を辿る。
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太宰治の小説、全155作品はこちら!】

太宰治の全エッセイ、
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