記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】一日の労苦

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今週のエッセイ

◆『一日の労苦』
 1938年(昭和13年)、太宰治 29歳。
 1938年(昭和13年)1月22日頃に脱稿。
 『一日の労苦』は、1938年(昭和13年)3月1日発行の「新潮」第三十五年第三号の「日記」欄に発表された。この欄には、ほかに「感想日記抄」(岡本かの子)が掲載された。

「一日の労苦

 一月二十二日。
 日々の告白という題にしようつもりであったが、ふと、一日の労苦は一日にて足れり、という言葉を思い出し、そのまま、一日の労苦、と書きしたためた。
 あたりまえの生活をしているのである。かくべつ報告したいこともないのである。
 舞台のない役者は存在しない。それは、滑稽である。
 このごろだんだん、自分の苦悩について自惚れを持って来た。自嘲し切れないものを感じて来た。生れて、はじめてのことである。自分の才能について、明確な客観的把握を得た。自分の知識を粗末にしすぎていたということにも気づいた。こんな男を、いつまでも、ごろごろさせて置いては、もったいない、と冗談でなく、思いはじめた。生れて、はじめて、自愛という言葉の真意を知った。エゴイズムは、雲散霧消している。
 やさしさだけが残った。このやさしさは、ただものでない。ばか正直だけが残った。これも、ただものでない。こんなことを言っている、おめでたさ、これも、ただものでない。
 その、ただものでない男が、さて、と立ちあがって、何もない。為すべきことが何もない。手がかり一つないのである。苦笑である。
 発表をあきらめて、仕事をしているというのは、これは、作者の人のよさではない。これは、悪魔以上である。なかなか、おそろしいことである。
 くだらないことばかり言っている。訪客あきれて、帰り支度をはじめる。べつに引きとめない。孤独の覚悟も、できている筈だ。
 もっともっと孤独が来るだろう。仕方がない。かねて腹案の、長い小説に、そろそろ取りかかる。
 いやらしい男さ。このいやらしさを恐れてはならない。私は私自身のぶざまに花を咲かせ得る。かつて、排除と反抗は作家修業の第一歩であった。きびしい潔癖を有難いものに思った。完成と秩序をこそあこがれた。そうして、芸術は枯れてしまった。サンボリズムは、枯死の一瞬前の美しい花であった。ばかどもは、この神棚の下で殉死した。私もまた、おくればせながら、この神棚の下で凍死した。死んだつもりでいたのだが、この首筋ふとき北方の百姓は、何やらぶつぶつ言いながら、むくむく起きあがった。大笑いになった。百姓は、恥かしい思いをした。
 百姓は、たいへんに困った。一時は、あわてて死んだふりなどしてみたが、すべていけないのである。
 百姓は、くるしい思いをした。誰にも知られぬ、くるしい思いをした。この懊悩よ、有難う。
 私は、自身の若さに気づいた。それに気づいたときには、私はひとりで涙を流して大笑いした。
 排除のかわりに親和が、反省のかわりに、自己肯定が、絶望のかわりに、革命が。すべてがぐるりと急転回した。私は、単純な男である。
 浪漫的完成もしくは、浪漫的秩序という概念は、私たちを救う。いやなもの、きらいなものを、たんねんに整理していちいちこれの排除に努力しているうちに日が暮れてしまった。ギリシャをあこがれてはならない。これはもう、はっきりこの世に二度と来ないものだ。これは、あきらめなければいけない。これは、捨てなければいけない。ああ、古典的完成、古典的秩序、私は君に、死ぬるばかりのくるしい恋着の思いをこめて敬礼する。そうして、言う。さようなら。
 むかし、古事記の時代に在っては、作者はすべて、また、作中人物であった。そこに、なんのこだわりもなかった。日記は、そのまま小説であり、評論であり、詩であった。
 ロマンスの洪水の中に生育して来た私たちは、ただそのまま歩けばいいのである。一日の労苦は、そのまま一日の収穫である。「思い煩うな。空飛ぶ鳥を見よ。()かず。刈らず。蔵に収めず。」
 骨のずいまで小説的である。これに閉口してはならない。無性格、よし。卑屈、結構。女性的、そうか。復讐心、よし。お調子もの、またよし。怠惰、よし。変人、よし。化物、よし。古典的秩序へのあこがれやら、訣別(けつべつ)やら、何もかも、みんなもらって、ひっくるめて、そのまま歩く。ここに生長がある。ここに発展の路がある。称して浪漫的完成、浪漫的秩序。これは、まったく新しい。鎖につながれたら、鎖のまま歩く。十字架に張りつけられたら、十字架のまま歩く。牢屋にいれられても、牢屋を破らず、牢屋のまま歩く。笑ってはいけない。私たち、これより他に生きるみちがなくなっている。いまは、そんなに笑っていても、いつの日にか君は、思い当る。あとは、敗北の奴隷か、死滅か、どちらかである。
 言い落した。これは、観念である。心構えである。日常坐臥(ざが)は十分、聡明に用心深く為すべきである。
 君の聞き上手に乗せられて、うっかり大事をもらしてしまった。これは、いけない。多少、不愉快である。
 君に聞くが、サンボルでなければものを語れない人間の、愛情の細かさを、君、わかるかね。
 どうも、たいへん、不愉快である。多少でも、君にわからせようと努めた、私自身の焦慮(しょうりょ)に気づいて、私は、こんなに不機嫌になってしまった。私自身の孤独の破綻が不愉快なのである。こうなって来ると、浪漫的完成も、自分で言い出して置きながら、十分あやしいものである。とたんに声あり、そのあやしさをも、ひっくるめて、これを浪漫的完成と称するのである。
 私は、ディレッタントである。物好きである。生活が作品である。しどろもどろである。私の書くものが、それがどんな形式であろうが、それは、きっと私の全存在に素直なものであった筈である。この安心は、たいしたものだ。すっかり居直ってしまった形である。自分ながらあきれている。どうにも、手のつけようがない。
 ひとつ君を、笑わせてあげよう。これは小声で言うことであるが、どうも私は、このごろ少し太りすぎてしまいまして。
 できすぎてしまった。図体が大きすぎて、内々、閉口している。晩成すべき大器かも知れぬ。一友人から、銅像演技(スタチュ・プレイ)という讃辞を贈られた。恰好の舞台がないのである。舞台を踏み抜いてしまう。野外劇場はどうか。
 俳優で言えば、彦三郎、などと、訪客を大いに笑わせて、さてまた、小声で呟くことには、「悪魔(サタン)はひとりすすり泣く。」この男、なかなか食えない。
 作家は、ロマンスを書くべきである。

 

太宰と日記体

  今回のエッセイ『一日の労苦』は、日露戦争が開戦した1904年(明治37年)に創刊された文芸誌「新潮」の「日記」欄に発表されました。そこで、太宰の文体の形式の1つである「日記体」で書かれた作品について紹介します。

 太宰作品の中で「日記体」で書かれた代表作として斜陽が挙げられます。斜陽は、ヒロイン・かず子の手紙と独白、弟・直治の遺書と日記によって構成されており、太宰の愛人・太田静子が執筆した斜陽日記をベースに書かれています。

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■『斜陽』と下敷きとなった太宰の愛人・太田静子が執筆した『斜陽日記

 『斜陽は、太宰作品を代表する作品であり、自身の出自と重ね合わせた形で、滅びゆく華族の生活が描かれています。「私(かず子)は、最後の貴婦人であると思われるお母さまと二人で下曽我に住んでおり、戦地に出向く弟(直治)の帰りを待っている。直治は戦地から戻って来るも、家に寄りつかない。私は妻子ある作家・上原(太宰)との恋を実らせ、上原との子供を身籠るが、直治が自殺してしまう。直治、上原、かず子は、道徳の犠牲者として描かれ、かず子は、生まれて来る子供とともに古い道徳と戦う決意をする」という内容です。
 斜陽には、直治の「夕顔日誌」という遺書が登場しますが、この内容は斜陽日記ではなく、1935年(昭和10年)からはじまる、太宰自身のパビナール中毒の体験が盛り込まれていると思われます。

 また、斜陽には、太宰が太田静子と同時期に交際していた愛人・山崎富栄との恋も大きな影響を与えています。

 代表作斜陽の他にも、女生徒』『正義と微笑』『パンドラの匣も、日記・手紙・回想・生活の記録を題材にしたり、着想を得て書かれた、同系列の作品といえます。著者が2020年に作成した記事太宰治の日めくり年譜で、斜陽以外の作品の執筆経緯も紹介していますので、ぜひご覧ください。

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■太宰「日記体」の代表作である『女生徒』『正義と微笑』『パンドラの匣』『斜陽 1992年(平成4年)、日本近代文学館より『名著初版本復刻 太宰治文学館』として復刻された初版本。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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