記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】三月三十日

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今週のエッセイ

◆『三月三十日』
 1940年(昭和15年)、太宰治 31歳。
 1940年(昭和15年)3月30日に脱稿。
 『三月三十日』は、1940年(康徳7年)4月1日発行の「物資と配給」第二巻第四号の「随筆」欄に発表された。「物資と配給」の発行所は満州生活必需品株式会社(新京特別市大同大街一三〇二)で、編集人は石黒直男、発行人は肱岡武夫。初出誌の本文末尾には、「(完)」とある。この欄には、ほかに「家のはなし」(木崎龍)、「私の職場日記」(北浦きみ)、「ヴィタミンC」(浅見淵)が掲載された。
 『三月三十日』は、著者書入のある雑誌の切抜きが残っており、標題の『三月三十日』は抹消されて、『祝建国』と改題されている。

「三月三十日

 満州のみなさま。
 私の名前は、きっとご存じ無い事と思います。私は、日本の、東京市外に住んでいるあまり有名でない貧乏な作家であります。東京は、このニ、三日ひどい風で、武蔵野のまん中にある私の家には、砂ほこりが、容赦無く舞い込み、私は家の中に在りながらも、まるで地べたに、あぐらをかいて坐っている気持でありました。きょうは、風もおさまり、まことに春らしく、静かに晴れて居ります。満州は、いま、どうでありましょうか。やはり、梅が咲きましたか。東京は、もう梅は、さかりを過ぎて、花弁も汚くしなび掛けて居ります。桜の蕾は、大豆くらいの大きさにふくらんで居ります。もう十日くらい経てば、花が開くのではないかと存じます。きょうは、三月三十日です。南京に、新政府の成立する日であります。私は、政治の事は、あまり存じません。けれども、「和平建国」というロマンチシズムには、やっぱり胸が躍ります。日本には、戦争を主として描写する作家も居りますけれど、また、戦争は、さっぱり書けず、平和の人の姿だけを書き続けている作家もあります。きのう永井荷風という日本の老大家の小説集を読んでいたら、その中に、
「下々の手前達が兎や角と御政事向の事を取沙汰致すわけでは御座いませんが、先生、昔から唐土の世には天下太平の兆には綺麗な鳳凰とかいう鳥が舞い下ると申します。然し当節のようにこう何も彼も一概に綺麗なもの手数のかかったもの無益なものは相成らぬと申してしまった日には、鳳凰なんぞは卵を生む鶏じゃ御座いませんから、いくら出て来たくも出られなかろうじゃ御座いませんか。外のものは兎に角と致して日本一お江戸の名物と唐天竺まで名の響いた錦絵まで御差止めに成るなぞは、折角天下太平のお祝いをお申し出て来た鳳凰(くび)をしめて毛をむしり取るようなものじゃ御座いますまいか。」
 という一文がありました。これは「散柳窓夕栄」という小説の中の、一人物の感慨として書かれているのであります。天保年間の諸事御倹約の御触に就いて、その一人物が大いに、こぼしているところなのであります。私は、永井荷風という作家を、決して無条件に崇拝しているわけではありません。きのう、その小説集を読んでいながらも、幾度か不満を感じました。私みたいな、田舎者とは、たちの(ことなる作家のようであります。けれども、いま書き抜いてみた一文には、多少の共感を覚えたのです。日本には、戦争の時には、ちっとも役に立たなくても、平和になると、のびのびと驥足きそく)をのばし、美しい平和の歌を歌い上げる作家も、いるのだということを、お忘れにならないようにして下さい。日本は、決して好戦の国ではありません。みんな、平和を待望して居ります。
 私は、満州の春を、いちど見たいと思っています。けれども、たぶん、私は満州に行かないでしょう。満州は、いま、とてもいそがしいのだから、風景などを見に、のこのこ出かけたら、きっとお邪魔だろうと思うのです。日本から、ずいぶん作家が出掛けて行きますけれど、きっと皆、邪魔がられて帰って来るのではないかと思います。ひとの大いそがしの有様を、お役人の案内で「視察」するなどは、考え様に依っては、失礼な事とも思われます。私の知人が、いま三人ほど満州に住んで大いそがしで働いて居ります。私は、その知人たちに逢い、一夜しみじみ酒を酌み合いたく、その為ばかりにでも、私は満州に行きたいのですが、満州は、いま、大いそがしの最中なのだという事を思えば、ぎゅっと真面目になり、浮いた気持もなくなります。
 私のような、すこぶ)る「国策型」で無い、無力の作家でも、満州の現在の努力には、こっそり声援を送りたい気持なのです。私は、いい加減な嘘は、吐きません。それだけを、誇りにして生きている作家であります。私は、政治の事は、少しも存じませんが、けれども、人間の生活に就いては、わずかに知っているつもりであります。日常生活の感情だけは、少し知っているつもりであります。それを知らずに、作家とは言われません。日本から、たくさんの作家が満州に出掛けて、お役人の御案内で「視察」をして、一体どんな「生活感情」を見つけて帰るのでしょう。帰って来てからの報告文を読んでも、甚だ心細い気が致します。日本でニュウス映画を見ていても、ちゃんとわかる程度のものを発見して、のほほん顔でいるようであります。此の上は、五年十年と、満州に、「一生活人」として平凡に住み、そうして何か深いものを体得した人の言葉に、期待するより他は、ありません。私の三人の知人は、心から満州を愛し、素知らぬ振りして満州に住み、全人類を貫く「愛と信実」の表現に苦闘している様子であります。

 

エッセイ『三月三十日』の時代背景

 1932年(昭和7年)3月1日、関東軍(日本帝国陸軍の総軍の1つ)の主導で、奉天市(中華民国満州国にかつて存在した、現在の中華人民共和国瀋陽市に相当する都市)において「満州国」の建国を宣言します。首都は長春(新京)とし、年号は大同に改められました。さらに、同年9月、満州国の執政に、大清帝国第12代にして最後の皇帝・愛新覚羅あいしんかくら) 溥儀ふぎ)が就任しました。
 満州国は、建国以降、関東軍南満州鉄道の強い影響下にあり、1933年(昭和8年)8月8日に閣議決定された「満州国指導方針要綱」では、「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていました。当時の国際連盟加盟国の多くは、満州地域は法的には中華民国の主権下にあるべきと主張し、国際連盟が派遣したリットン調査団の報告書をもとに満州国の非承認を決定します。このことが、1933年(昭和8年)3月27日に日本が国際連盟を脱退する大きな理由となりました。
 1932年(昭和7年)頃の太宰は、左翼運動の支援をしていましたが、長兄・津島文治の働きかけを受けて、青森警察特高課に出頭。左翼運動から足を洗い、ペンネームを太宰治と決め、本格的に作家を志した時期です。

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満州国皇帝・溥儀

 今回のエッセイ『三月三十日』が掲載された雑誌「物資と配給」の発行所である「満州生活必需品株式会社」は、「満州国において生活必需品の配給合理化をはかり、あわせて物資政策の徹底的遂行を容易ならしめる」ことを目的として新京に本店が設立された、大配給会社でした。

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■新京の関東軍総司令部

 エッセイ冒頭、太宰は「きょうは、三月三十日です。南京に、新政府の成立する日であります。」と書いていますが、これは、1940年(昭和15年)3月30日から1945年(昭和20年)8月16日まで存在した、中華民国の国民政府中華民国国民政府」(「中華民国南京国民政府」とも呼ばれる)のことです。1937年(昭和12年)7月7日から1945年(昭和20年)9月9日まで、大日本帝国中華民国の間で行われた日中戦争において、日本軍占領地に成立した親日政権で、「和平・反共・建国」を標語として掲げており、行政院長(首相)には、汪兆銘おうちょうめい)が就任しました。

 文芸評論家の中村光夫(1911~1988)は、1940年(昭和15年)という年について、「昭和十五年という年は、斎藤、津田問題が象徴するように、国の動向を批判する自由がすべて失われた年、正月の門松も立てられず、デパートの売出しも「自粛」させられ」た年だったと回想しています。
 泥沼化していく中国との戦争の中、1938年(昭和13年)5月に「国家総動員法」が施行され、言論・出版も統制の対象となり、その取締りは年々厳しくなっていきました。
 エッセイ終盤、太宰は「私のような、すこぶ)る「国策型」で無い、無力の作家でも、満州の現在の努力には、こっそり声援を送りたい気持なのです。」と書いていますが、1940年(昭和15年)1月1日付発行の「知性」新年号に発表した小説(かもめ)には、次のように書いていました。

 私は醜態の男である。なんの指針をも持っていない様子である。私は波の動くがままに、右にゆらり左にゆらり無力に漂う、あの、「群集」の中の一人に過ぎないのではなかろうか。そうして私はいま、なんだか、おそろしい速度の列車に乗せられているようだ。この列車は、どこに行くのか、私は知らない。まだ、教えられていないのだ。汽車は走る。轟々ごうごうの音をたてて走る。イマハ山中ヤマナカ、イマハハマ、イマハ鉄橋、ワタルゾト思ウ間モナクトンネルノ、闇ヲトオッテ広野ヒロノハラ、どんどん過ぎて、ああ、過ぎて行く。

 小説の語り手に、先行きの見えないまま加速して行く状況への不安を語らせてもいた太宰。戦時中、最も多くの作品を発表したと言われる太宰ですが、「知人が、いま三人ほど満州に住んで大いそがしで働いて居」る状況の中、どのような心境で作品を発表し続けていたのでしょうか。

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■1940年(昭和15年)、群馬県四万温泉にて

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・内海紀子/小澤純/平浩一 編『太宰治と戦争』(ひつじ書房、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)・HP「満州国生活必需品配給会社案の要綱」(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 アジア諸国(10-053))
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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