記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】五所川原

f:id:shige97:20210214143058j:plain

今週のエッセイ

◆『五所川原
 1941年(昭和16年)、太宰治 32歳。
 1940年(昭和15年)12月下旬頃に脱稿。
 『五所川原』は、1941年(昭和16年)1月発行の「西北新報」に発表されたと推定されています。

五所川原

 叔母が五所川原にいるので、小さい頃よく五所川原へ遊びに行きました。旭座の舞台開きも見に行きました。小学校の三、四年生の頃だったと思います。たしか友右衛門だった(はず)です。梅由兵衛に泣かされました。廻舞台を、その時、生れてはじめて見て、思わず立ち上ってしまった程に驚きました。この旭座は、そののち間もなく火事を起し、全焼しました。その時の火焔(かえん)が、金木から、はっきり見えました。映写室から発火したという話でした。そうして、映画見物の小学生が十人ほど焼死しました。映写の技師が罪に問われました。過失傷害致死とかいう罪名でした。子供にも、どういうわけだか、その技師の罪名と運命を忘れる事が出来ませんでした。旭座という名前が「火」の字に関係があるから焼けたのだという噂も聞きました。二十年も前の事です。
 七ツか。八ツの頃、五所川原の賑やかな通りを歩いて、どぶに落ちました。かなり深くて、水が(あご)のあたりまでありました。三尺ちかくあったのかも知れません。夜でした。上から男の人が手を差し出してくれたのでそれにつかまりました。ひき上げられて衆人環視の中で裸にされたので、実に困りました。ちょうど古着屋のまえでしたので、その店の古着を早速着せられました。女の子の浴衣でした。帯も、緑色の兵古帯(へこおび)でした。ひどく恥かしく思いました。叔母が顔色を変えて走って来ました。
 私は叔母に可愛がられて育ちました。私は、男ッぷりが悪いので、何かと人にからかわれて、ひとりでひがんでいましたが、叔母だけは、私を、いい男だと言ってくれました。他の人が、私の器量の悪口を言うと、叔母は、本気に怒りました。みんな遠い思い出になりました。

 

太宰と叔母・キヱ(きえ)

  太宰が「叔母が五所川原にいるので」と書いているのは、津島キヱ(きえ)のことです。キヱ(きえ)は、太宰の母・津島夕子(たね)の妹で、太宰の叔母に当たります。

 太宰は、生れて間もなく乳母に預けられました。太宰の父・津島源右衛門(げんえもん)衆議院議員に当選したため、妻の夕子(たね)とともに東京、弘前、青森に出掛けることが多く、留守がちだったためです。家に戻ってくるのは、1ヶ月か2ヶ月に1回。滞在期間は1週間程度だったそうです。
 しかし、その乳母が再婚することになり、太宰は、生家(現在の斜陽館)に戻ることになります。その際、叔母・キヱ(きえ)が面倒を見ることになり、娘4人と一緒に十畳一間の部屋で暮らしました。

f:id:shige97:20200229130058j:plain
■斜陽館 2011年、著者撮影。

 キヱ(きえ)は、17歳の時に義兄・源右衛門(げんえもん)(姉・夕子(たね)の夫)の実弟松木友三郎を婿養子として迎えましたが、友三郎の酒乱や女性交遊が原因で、二児をもうけた後、離婚。その後、2人目の夫として、青森市の豊田家から実直な豊田常吉を迎えましたが、二児をもうけた後に、常吉が病没してしまったため、28歳という若さで未亡人となり、実家に戻って来ていました。
 キヱ(きえ)は、病弱な姉・夕子(たね)とは異なり健康的で、多少勝気な性格の女性で、姉に代わって、津島家の主婦の役割を担っていました。世話好きで、ことのほか太宰を可愛がり、キヱ(きえ)の娘たちも、従弟である太宰を実の弟のように世話を焼いたため、太宰は自分をキヱ(きえ)の長男だと思っていたそうです。
 不眠症だった太宰に、キヱ(きえ)は添寝をして、津軽地方に伝わる昔話を語って寝かしつけたそうですが、この時の体験が、お伽草紙などの作品の根底に流れているのかもしれません。

f:id:shige97:20200103095713j:image
■太宰1歳数か月の頃 前列右から叔母・キヱ(きえ)、太宰、母・夕子たね。後ろは、三上やゑ(やえ)やゑ(やえ)は、金木第一尋常小学校の訓導で、太宰の5つ上の姉・あいの担任で、母と弟と一緒に津島家が経営する銀行の奥の一室に間借りしていた。

 キヱ(きえ)は、1916年(大正5年)1月18日に津島家から分家します。四姉・リエの夫・季四郎が、津島歯科医院を開業するために、五所川原へ引越すことになったためでした。太宰は、キヱ(きえ)の一家と共に五所川原に引越し、小学校入学直前までの約2ヶ月を一緒に過ごしました。

 また、太宰が青森中学校に入学する際にも、亡夫・常吉の実家である豊田家に熱心に頼み込み、豊田家が下宿先となりました。
 太宰が長兄・津島文治と義絶中も、文治の留守中に帰郷した太宰を生家に泊めるわけにはいかないため、五所川原の家に迎えたりもしています。

 キヱ(きえ)一家が五所川原に分家した際に建てられ、太宰も訪れた蔵は、現在太宰治「思ひ出」の蔵として、一般公開されています。

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

太宰治39年の生涯を辿る。
 "太宰治の日めくり年譜"はこちら!】

太宰治の小説、全155作品はこちら!】

太宰治の全エッセイ、
 バックナンバーの一覧はこちら!】