今週のエッセイ
◆『五所川原』
1941年(昭和16年)、太宰治 32歳。
1940年(昭和15年)12月下旬頃に脱稿。
『五所川原』は、1941年(昭和16年)1月発行の「西北新報」に発表されたと推定されています。
「五所川原」
叔母が五所川原にいるので、小さい頃よく五所川原へ遊びに行きました。旭座の舞台開きも見に行きました。小学校の三、四年生の頃だったと思います。たしか友右衛門だった筈 です。梅由兵衛に泣かされました。廻舞台を、その時、生れてはじめて見て、思わず立ち上ってしまった程に驚きました。この旭座は、そののち間もなく火事を起し、全焼しました。その時の火焔 が、金木から、はっきり見えました。映写室から発火したという話でした。そうして、映画見物の小学生が十人ほど焼死しました。映写の技師が罪に問われました。過失傷害致死とかいう罪名でした。子供にも、どういうわけだか、その技師の罪名と運命を忘れる事が出来ませんでした。旭座という名前が「火」の字に関係があるから焼けたのだという噂も聞きました。二十年も前の事です。
七ツか。八ツの頃、五所川原の賑やかな通りを歩いて、どぶに落ちました。かなり深くて、水が顎 のあたりまでありました。三尺ちかくあったのかも知れません。夜でした。上から男の人が手を差し出してくれたのでそれにつかまりました。ひき上げられて衆人環視の中で裸にされたので、実に困りました。ちょうど古着屋のまえでしたので、その店の古着を早速着せられました。女の子の浴衣でした。帯も、緑色の兵古帯 でした。ひどく恥かしく思いました。叔母が顔色を変えて走って来ました。
私は叔母に可愛がられて育ちました。私は、男ッぷりが悪いので、何かと人にからかわれて、ひとりでひがんでいましたが、叔母だけは、私を、いい男だと言ってくれました。他の人が、私の器量の悪口を言うと、叔母は、本気に怒りました。みんな遠い思い出になりました。
太宰と叔母・キヱ
太宰が「叔母が五所川原にいるので」と書いているのは、津島
太宰は、生れて間もなく乳母に預けられました。太宰の父・津島
しかし、その乳母が再婚することになり、太宰は、生家(現在の斜陽館)に戻ることになります。その際、叔母・
■斜陽館 2011年、著者撮影。
不眠症だった太宰に、
■太宰1歳数か月の頃 前列右から叔母・
また、太宰が青森中学校に入学する際にも、亡夫・常吉の実家である豊田家に熱心に頼み込み、豊田家が下宿先となりました。
太宰が長兄・津島文治と義絶中も、文治の留守中に帰郷した太宰を生家に泊めるわけにはいかないため、五所川原の家に迎えたりもしています。
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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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