記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】女人創造

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今週のエッセイ

◆『女人創造(にょにんそうぞう)
 1938年(昭和13年)、太宰治 29歳。
 1938年(昭和13年)9月末か10月初めの頃に脱稿。
 『女人創造』は、1938年(昭和13年)11月1日発行の「日本文學」第一巻第七号の「秋の随想集」欄に発表された。この欄には、ほかに「大島紀行」(中村地平)、「秋と若い女」(田島準子)が掲載された。

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■『女性』初版復刻版 1942年(昭和17年)6月30日付、博文館より刊行された。『十二月八日』『女生徒』『葉桜と魔笛』『きりぎりす』『燈籠』『誰も知らぬ』『皮膚と心』『』『待つ所収。写真は、1992年(平成4年)、日本近代文学館より刊行された「名著初版本復刻 太宰治文学館」。

女人創造(にょにんそうぞう)

 男と女は、ちがうものである。あたりまえではないか、と失笑し給うかも知れぬが、それでいながら、くるしくなると、わが身を女に置きかえて、さまざまの女のひとの心を推察してみたりしているのだから、あまり笑えまい。男と女はちがうものである。それこそ、馬と火鉢ほど、ちがう。思いにふける人たちは、これに気がつくこと、(はなは)だおそい。私も、このごろ、気がついた。名前は忘れたが或る外国人のあらわしたショパン伝を読んでいたら、その中に小泉八雲の「男は、その一生涯に、少くとも一万回、女になる。」という奇怪な言葉が引用されていたが、そんなことはないと思う。それは、安心していい。
 日本の作家で、ほんとうの女を描いているのは、秋江(しゅうこう)であろう。秋江に出て来る女は、甚だつまらない。「へえ。」とか、「そうねえ。」とか呟いているばかりで、思索的でないこと、おびただしい。けれども、あれは、正確なのである。謂わば、なつかしい現実である。
 江戸の小咄(こばなし)にも、あるではないか。朝、垣根越しにとなりの庭を覗き見していたら、寝巻姿のご新造が出て来て、庭の草花を眺め、つと腕をのばし朝顔の花一輪を摘み取った。ああ風流だな、と感心して見ていたら、やがて新造は、ちんとその朝顔で鼻をかんだ。
 モオパスサンは、あれは、女の読むものである。私たち一向に面白くないのは、あれには、しばしば現実の女が、そのままぬっと顔を出して来るからである。(すこぶ)る、高邁(こうまい)でない。モオパスサンは、あれほどの男であるから、それを意識していた。自分の才能を、全人格を厭悪(えんお)した。作品の裏のモオパスサンの憂鬱(ゆううつ)懊悩(おうのう)は、一流である。気が狂った。そこにモオパスサンの毅然(きぜん)たる男性が在る。男は、女になれるものではない。女装することは、できる。これは、皆やっている。ドストエフスキイなど、毛臑(けずねまるだしの女装で、大真面目である。ストリンドベリイなども、ときどき熱演のあまり(かつら)を落して、それでも平気で大童(おおわらわ)である。
 女が描けていない、ということは、何も、その作品の決定的な不名誉ではない。女を描けないのではなくて、女を描かないのである。そこに理想主義の獅子奮迅が在る。美しい無智がある。私は、しばらく、この態度に()ろうと思っている。この態度は、しばしば、盲目に似ている。時には、滑稽(こっけい)でさえある。けれども、私は、「あらまあ、しばらく。」なぞという挨拶にはじまる女人の実態を活写し得ても、なんの感激も有難さも覚えないのだから、仕方がないのである。私は、ひとりになっても、やはり、観念の女を描いてゆくだろう。五尺七寸の毛むくじゃの男が、大汗かいて、念写する女性であるから笑い上戸(じょうご)の二、三人の人はきっと腹をかかえて大笑いするであろう。私自身でさえ、少し可笑おか)しい。男の読者のほとんど全部が、女性的という反省に、くるしめられた経験を。お持ちであろう。けれども、そんなときには、女をあらためて、も一度見ることである。つくづくその女の動きを見ているうちに、諸君は、安心するであろう。ああ僕は、女じゃない。女は、瞑想(めいそう)しない。女は、号令しない。女は、創造しない。けれども、その現実の女を、あらわに軽蔑(けいべつ)しては、間違いである。こんなことは、書きながら、顔が赤くなって来て、かなわない。まあ、やさしくしてやるんだね。
 絶望は、優雅を生む。そこには、どうやら美貌(びぼう)のサタンが一匹住んでいる。けれども、その辺のことは、ここで軽々しく言い切れることがらでない。
 こんな、とりとめないことを、だらだら書くつもりでは、なかったのである。このごろまた、小説を書きはじめて、女性を描くのに、多少、秘法に気がついた。私には、まだ、これといって誇示できるような作品がないから、あまり大きいことは言えないが、それは、ちょっと、へんな作法である。言い出そうとして、流石(さすが)に、口ごもるのである。言っては、いけないことかも知れない。へんなものである。なに、まえから無意識にやっていたのを、このごろ、やっと大人になって、それに気づいたというだけのことかも知れない。言い出せば、それは、あたりまえのことで、なあんだということになるのかも知れないが、下手に言い出して曲解され、損をするのは、いやだ。やはり、黙っていよう。
叡智(えいち)は悪徳である。けれども作家は、これを失ってはならぬ。」

 

太宰の女性独白体

 太宰ならではの文体の形式に「女性独白体」があります。

 太宰の「女性独白体」は、1937年(昭和12年)に書かれた燈籠で初めて見られました。今回紹介したエッセイ『女人創造』が書かれた時点では、燈籠の1作のみでしたが、最終的には燈籠含め、全16作品が執筆されました。太宰の小説作品は、全部で155作品あるので、全作品の1割強が「女性独白体」で書かれているということになります。

 「女性独白体」で書かれた16作品は、以下の通りです。(※初出雑誌掲載順に並んでいます。作品名の後の年号は、執筆された年です。)

【前期】
燈籠・・・・・1937年(昭和12年)

【中期】
女生徒・・・・1939年(昭和14年)
葉桜と魔笛・・1939年(昭和14年)
皮膚と心・・・1939年(昭和14年)
誰も知らぬ・・1940年(昭和15年)
きりぎりす・・1940年(昭和15年)
千代女・・・・1941年(昭和16年)
・・・・・・1941年(昭和16年)
待つ・・・・・1942年(昭和17年)
十二月八日・・1941年(昭和16年)
雪の夜の話・・1944年(昭和19年)

【後期】
貨幣・・・・・1945年(昭和20年)
ヴィヨンの妻・1947年(昭和22年)
斜陽・・・・・1947年(昭和22年)
おさん・・・・1947年(昭和22年)
饗応夫人・・・1947年(昭和22年)

 「女性独白体」の文体は、太宰らしい表現方法のように感じられますが、その執筆時期のほとんどが、中期~後期に集中しているのは、一体なぜなのでしょう。

 太宰は、前期の作品において、自分の気持ちを素直に小説に記しますが、彼の表現方法は、必ずしも快く世の中に受け入れられませんでした。
 1940年(昭和15年)に執筆された作品春の盗賊で、太宰は次のように書いています。

(前略)かなしいかな、この日頃の私には、それだけの余裕さえ無かった。おのれの憤怒と絶望を、どうにか素直に書きあらわせた、と思ったとたん、世の中は、にやにや笑って私のひたいに、「救い難き白痴」としての焼印を、打とうとして手を挙げた。いけない! 私は気づいて、もがき脱れた。危いところであった。打たれて、たまるか。私は、いまは、大事のからだである。真実、そのものを愛し、そのもののために主張してあげたい、その価値を有する弱い尊いものをさえ、私は、いまは見つけたような気がしている。私は、いまは、何よりも先ず、自身の言葉に、権威を持ちたい。何を言っても気ちがい扱いで、相手にされないのでは、私は、いっそ沈黙を守る。激情の果の、無表情。あの、微笑の、能面のうめんになりましょう。この世の中で、その発言に権威を持つためには、まず、つつましい一般市井人しせいじんの家を営み、その日常生活の形式に於いて、無欲。

 「おのれの憤怒と絶望を、どうにか素直に書きあらわせた」と思っていた太宰ですが、「世の中は、にやにや笑って」太宰の(ひたい)に、『救い難き白痴』としての焼印を、打とうとして手を挙げ」てきました。太宰の小説前期の後半、文体は乱れ、パビナール中毒となった事も拍車をかけ、社会生活においても不安定になっていきました。「『救い難き白痴』の焼印」というフレーズから、1936年(昭和11年)10月13日、師匠の井伏鱒二たちによって、パビナール中毒療養という名目で、東京武蔵野病院の閉鎖病棟に収容された事へのショックが、太宰の中で尾を引いていることが想像できます。

 太宰は、何とかその状況から逃れようと、もがき苦しみ、「この世の中で、その発言に権威を持つ」ことを目標に掲げ、「一般市井人(しせいじん)の家を営」むために生み出した文体が、「女性独白体」だったのかもしれません。

 最初の「女性独白体」作品で、前期最後の作品である燈籠が脱稿されたのは、1937年(昭和12年)8月23日、24日頃だと推測されています。これは、同年3月中旬、上京後7年間生活を共にした最初の妻・小山初代(おやまはつよ)との水上心中事件を経て、同年6月に初代と離別した後に当たります。
 『燈籠は、1936年(昭和11年)11月24日に脱稿されたHUMAN LOST以来、約9ヶ月ぶりに執筆された作品であり、太宰が、小説家として再起を懸けて臨んだ作品であることが想像できます。

 燈籠の次に「女性独白体」で執筆されたのは、2年後の1939年(昭和14年)、女生徒です。同年1月には石原美知子(いしはらみちこ)と結婚。安定し、健康的な生活を送りながら、職業作家として歩み始めた時期でした。

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■太宰と津島美知子

 女生徒は、「『女生徒』のような作品に出会えることは、時評家の偶然の幸福なのである。そのために、賛辞が或いは多少の誇張にわたるのは、文学を愛する者の当然の心事である。(中略)『女生徒』を借りて作者自身の女性的なるものすぐれていることを現した、典型的な作品である」(川端康成)、「最近のものでは、『女生徒』が一ばん出色のものだった」(浅見(ふかし))、「『女生徒』は世評の高かった作品であるが、これが成功した原因は、単に傍観的に少女を描いたのではなくて、少女に仮託して、自己の心懐を述べたーそのために生じた肉づけの豊かさに在るだろう」(中村地平)といったように、「世の中」に受け入れられます。これによって、太宰は手応えを感じたでしょうし、その後、中期~後期にかけて、「女性独白体」による作品を多く執筆したことにも納得がいくように思えます。

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■「女性独白体」作品の名を冠した単行本 1992年(平成4年)、日本近代文学館より刊行された「名著初版本復刻 太宰治文学館」より。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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