記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】如是我聞(ニ)

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今週のエッセイ

◆『如是我聞(にょぜがもん)(ニ)』
 1948年(昭和23年)、太宰治 39歳。
 1948年(昭和23年)4月6日に脱稿。
 『如是我聞(ニ)』は、1948年(昭和23年)5月1日発行の「新潮」第四十五年第五号に掲載された。

「如是我聞(ニ)

 彼らは言ふのみにて行はぬなり。また重き荷を(くく)りて人の肩にのせ、己は指にて(これ)を動かさんともせず。(かつ)てその所作(しわざ)は人に見られん為にするなり、即ちその経札(きょうふだ)を幅ひろくし、(ころも)(ふさ)を大きくし、饗宴(ふるまい)の上席、会堂の上座、市場にての敬礼、また人にラビと呼ばるることを好む。されど汝らはラビの(となえ)を受くな。また、導師の称を受くな。
 禍害(わざわい)なるかな、偽善なる学者、なんぢらは人の前に天国を閉して、自ら入らず、入らんとする人の入るをも許さぬなり。盲目(めしい)なる手引よ、汝らは(ぶよ)()し出して駱駝(らくだ)を呑むなり。禍害なるかな、偽善なる学者、外は人に正しく見ゆれども、内は偽善と不法とにて満つるなり。禍害なるかな、偽善なる学者、汝らは預言者の墓をたて、義人の碑を飾りて言ふ、「我らもし先祖の時にありしならば、預言者の血を流すことに(くみ)せざりしものを」と。かく汝らは預言者を殺しし者の子たるを自ら(あかし)す。なんぢら己が先祖の桝目を(みた)せ。蛇よ、(ルビ)(すえ)よ、なんぢら(いか)ゲヘナの刑罰を避け得んや。
 L君、わるいけれども、今月は、君にむかってものを言うようになりそうだ。君は、いま、学者なんだってね。ずいぶん勉強したんだろう。大学時代は、あまり「でき」なかったようだが、やはり、「努力」が、ものを言ったんだろうね。ところで、私は、こないだ君のエッセイみたいなものを、偶然の機会に拝見し、その勿体(もったい)ぶりに、甚だおどろくと共に、君は外国文学者(この言葉も頗る奇妙なもので、外国人のライターかとも聞えるね)のくせに、バイブルというものを、まるでいい加減に読んでいるらしいのに、本当に、ひやりとした。古来、紅毛人の文学者で、バイブルに苦しめられなかったひとは、一人でもあったろうか。バイブルを主軸として回転している数万の星ではなかったのか。
 しかし、それは私の所謂あまい感じ方で、君たちは、それに気づいていながらも、君たちの自己破産をおそれて、それに目をつぶっているのかも知れない。学者の本質。それは、私にも(かす)かにわかるところもあるような気がする。君たちの、所謂「神」は、「美貌」である。真白な手袋である。
 自分は、かつて聖書の研究の必要から、ギリシャ語を習いかけ、その異様なよろこびと、麻痺剤をもちいて得たような不自然な自負心を感じて、決して私の怠惰からではなく、その習得を抛棄(ほうき)した覚えがある。あの不健康な、と言っていいくらいの奇妙に空転したプライドの中に君たちが平気でいつも住んでいるものとしたら、それは或いは、あのイエスに、「汝らは白く塗りたる墓に似たり、外は美しく見ゆれども云々」と言われても仕方がないのではないかと思われる。
 勉強がわるくないのだ。勉強の自負がわるいのだ。
 私は、君たちの所謂「勉強」の精華の翻訳を読ませてもらうことによって、実に非常なたのしみを得た。そのことに就いては、いつも私は君たちにアリガトウの気持を抱き続けて来たつもりである。しかし、君たちのこの頃のエッセイほど、みじめな貧しいものはないとも思っている。
 君たちは、(覚えておくがよい)ただの語学の教師なのだ。家庭円満、妻子と共に、おしるこ万才を叫んで、ボオドレエルの紹介文をしたためる滅茶もさることながら、また、原文で読まなければ味がわからぬと言って自身の名訳を誇って売るという矛盾も、さることながら、どだい、君たちには「詩」が、まるでわかっていないようだ。
 イエスから逃げ、詩から逃げ、ただの語学の教師と言われるのも口惜しく、ジャアナリズムの注文に応じて、何やら「ラビ」を装っている様子だが、君たちが、世の中に多少でも信頼を得ている最後の一つのものは何か。知りつつ、それを我が身の「地位」の保全のために、それとなく利用しているのならば、みっともないぞ。
 教養? それにも自信がないだろう。どだい、どれがおいしくて、どれがまずいのか、香気も、臭気も、区別が出来やしないんだから。ひとがいいと言う外国の「文豪」或いは「天才」を、百年もたってから、ただ、いいというだけなんだから。
 優雅? それにも、自信がないだろう。いじらしいくらいに、それに憧れていながら、君たちに出来るのは、赤瓦の屋根の文化生活くらいのものだろう。
 語学には、もちろん自信無し。
 しかし、君たちは何やら「啓蒙家(けいもうか)」みたいな口調で、すまして民衆に説いている。
 洋行。
 案外、そんなところに、君たちと民衆とのだまし合いが成立しているのではないか。まさか、と言うこと(なか)れ。民衆は奇態に、その洋行というものに、おびえるくらい関心を持つ。
 田舎者の上京ということに就いて考えて見よう。二十年前に、上野の何とか博覧会を見て、広小路の牛のすき焼きを食べたと言うだけでも、田舎に帰れば、その身に相当の箔がついているものである。民衆は、これに一目(いちもく)をおくのだから、こたえられまい。(いわ)んや、東京で三年、苦学して法律をおさめた(しかし、それは、通信講義録でも、おさめることが出来るようだが)そのような経歴を持ったとあれば、村の顔役の一人に、いやでも押されるのである。田舎者の出世の早道は、上京にある。しかも、その田舎者は、いい加減なところで必ず帰郷するのである。そこが秘訣だ。その家族と喧嘩をして、追われるように田舎から出て来て、博覧会も、二重橋も、四十七士の墓も見たことがない(或いは見る気も起らぬ)そのような上京者は、私たちの味方だが、いったい日本の所謂「洋行者」の中で、日本から逃げて行く気で船に乗った者は、幾人あったろうか。
 外国へ行くのは、おっくうだが、こらえて三年おれば、大学の教授になり、母をよろこばすことが出来るのだと、周囲には祝福せられ、鹿島立ちとか言うものをなさるのが、君たち洋行者の大半ではなかろうか。それが日本の洋行者の伝統なのであるから、(ろく)な学者の出ないのも無理はないネ。
 私には、不思議でならぬのだが、所謂「洋行」した学者の所謂「洋行の思い出」とでも言ったような文章を拝見するに、いやに、みな、うれしそうなのである。うれしい筈がないと私には確信せられる。日本という国は、昔から外国の民衆の関心の外にあった。(無謀な戦争を起してからは、少し有名になったようだ。それも悪名高し、の方である)私は、かねがね、あの田舎の中学生女学生の団体で東京見物の旅行の姿などに、悲惨を感じている者であるが、もし自分が外国へ行ったら、あの姿そのままのものになるにきまっていると思っている。
 醜い顔の東洋人。けちくさい苦学生赤毛(あかげっと)。オラア、オッタマゲタ。きたない歯。日本には汽車がありますの? 送金延着への絶えざる不安。その憂鬱と屈辱と孤独と、それをどの「洋行者」が書いていたろう。
 所詮は、ただうれしいのである。上野の博覧会である。広小路の牛がおいしかったのである。どんな進歩があったろうか。
 妙なもので、君たち「洋行者」は、君たちの外国生活に於けるみじめさを、隠したがる。いや、隠しているのではなく、それに気づかないのか、もし、そんなだったら話にならぬ。L君、つき合いはお断りだよ。
 ついでだから言うけれども、君たち「洋行者」は、妙にあっさりお世辞を言うネ。酒の席などで、作家は(どんな馬鹿な作家でも)さすがにそうではないけれども、君たちは、ああ、太宰さんですか、お逢いしたいと思っていました、あなたの、××という作品にはまいりました、握手しましょう、などと言い、こっちはそうかと思っていると、その後、新聞の時評やら、または座談会などで、その同一人が、へえ? と思うくらいにミソクソに私の作品をこきおろしていることがたまたまあるようだ。これもまた、君たちが洋行している間に身につけた何かしらではなかろうかと私は思っている。慇懃(いんぎん)と復讐。ひしがれた文化猿。
 みじめな生活をして来たんだ。そうして、いまも、みじめな人間になっているのだ。隠すなよ。
 私事ではあるが、思い出すことがある。自分が、大学へ入ったその春に、兄が上京して来て、(父は死に、兄は若くして、父のかなりの遺産をつぎ、その遺産の使途の一つとして兄は、所謂世界漫遊を思い立った様子なのである。)高田馬場の私の下宿の、近くにあったおそばやで、
「おまえも一緒に行かないか、どうか。自分は一廻りしてくるつもりだが、おまえは途中でフランスあたりにとどまって、フランス文学を研究してもどうでも、それは、おまえの好きなようにするがよい。大学のフランス文科を出てから、フランスへ行くのと、フランスへ行って来てから、大学へ入るのと、どっちが勉強に都合がよかろうか。」
 私は、ほとんど言下に答えた。
「それはやはり、大学で基礎勉強してからのほうがよい。」
「そうだろうか。」
 兄は浮かぬ顔をしていた。兄は私を通訳のかわりとしても、連れて行きたかったらしいのだが、私が断ったので、また考え直した様子で、それっきり外国の話を出さなくなった。
 実は、このとき私は、まっかな嘘をついていたのである。当時、私に好きな女があったのである。そいつと別れたくないばかりに、いい加減の口実を設け、洋行を拒否したのである。この女のことでは、後にひどい苦労をした。しかし、私はいまでは、それらのことを後悔してはいない。洋行するよりは、貧しく愚かな女と苦労することのほうが、人間の事業として、困難でもあり、また、光栄なものであるとさえ思っているからだ。
 とかく、洋行者の土産話ほど、空虚な響きを感じさせるものはない。田舎者の東京土産話というものと、甚だ似ている。名所絵はがき。そこには、市民の生活のにおいが何も無い。
 論文に(たと)えると、あの婦人雑誌の「新婦人の進路」なんていう題の、世にもけがらわしく無内容な、それでいて何やら意味ありそうに乙にすましているあの論文みたいなものだということになりそうだ。
 どんなに自分が無内容でも、卑劣でも、偽善的でも、世の中にはそんな仲間ばかり、ごまんといるのだから、何も苦しんで、ぶちこわしの嫌がらせを言う必要はないだろう、出世をすればいいのだ、教授という肩書を得ればいいのだ、などとひそかにお思いになっていらっしゃるのなら、我また何をか言わんやである。
 しかし、世の学者たちは、この頃、妙に私の作品に就いて、とやかく言うようになった。あいつらは、どうせ馬鹿なんで、いつの世にでも、あんなやつらがいるのだから、気にするなよ、とひとから言われたこともあるが、しかし、私はその不潔な馬鹿ども(悪人と言ってもよい)の言うことを笑って聞き容れるほどの大腹人でもないし、また、批評をみじんも気にしないという脱俗人(そんな脱俗人は、古今東西、ひとりもいなかった事を保証する)ではなし、また、自分の作品がどんな悪評にも絶対にスポイルされないほど(つよ)いものだという自信を持つことも出来ないので、かねて胸くそ悪く思っているひとの言動に対し、いまこそ、自衛の抗議をこころみているわけなのだ。
 或る「外国文学者」が、私の「ヴィヨンの妻」という小説の所謂読後感を某文芸雑誌に発表しているのを読んだことがあるけれども、その頭の悪さに、私はあっけにとられ、これは蓄膿症ではなかろうか、と本気に疑ったほどであった。大学教授といっても何もえらいわけではないけれども、こういうのが大学で文学を教えている犯罪の悪質に慄然(りつぜん)とした。
 そいつが言うのである。(フランソワ・ヴィヨンとは、こういうお方ではないように聞いていますが)何というひねこびた虚栄であろう。しゃれにも冗談にもなってやしない。嫌味にさえなっていない。かれら大学教授たちは、こういうところで、ひそかに自慰しているのであって、これは、所謂学者連に通有のあわれな自尊心の表情のように思われる。また、その馬鹿先生の曰く、(作者は、この作品の蔭でイヒヒヒヒと笑っている)事ここに到っては、自分もペンを持つ手がふるえるくらい可笑しく馬鹿らしい思いがしてくる。何という空想力の貧弱。そのイヒヒヒヒと笑っているのは、その先生自身だろう。実にその笑い声はその先生によく似合う。
 あの作品の読者が、例えば五千人いたとしても、イヒヒヒヒなどという卑穢な言葉を感じたものはおそらく、その「高尚」な教授一人をのぞいては、まず無いだろうと私には考えられる。光栄なる者よ。汝は五千人中の一人である。少しは、恥かしく思え。
 元来、作者と評者と読者の関係は、例えば正三角形の各頂点の位置にあるものだと思われるが、(△の如き位置に、各々外を向いて坐っていたのでは話にもならないが、各々内側に向い合って腰を掛け、作者は語り、読者は聞き、評者は、或いは作者の話に相槌を打ち、或いは不審を(ただ)し、或いは読者に代って、そのストップを乞う。)この頃、馬鹿教授たちがいやにのこのこ出て来て、例えば、直線上に二点を置き、それが作者と読者だとするならば、教授は、その同一線上の、しかも二点の中間に割り込み、いきなり、イヒヒヒヒである。物語りさいちゅうの作者も、また読者も、実にとまどい困惑するばかりである。
 こんなことまでは、さすがに私も言いたくないが、私は作品を書きながら、死ぬる思いの苦しき努力の覚えはあっても、イヒヒヒヒの記憶だけは、いまだ一度も無い、いや、それは当然すぎるほど当然のことではないか。こう書きながらも、つくづくおまえの馬鹿さが嫌になり、ペンが重く顔がしかめ面になってくる。
 最初に掲げた聖書の言葉にもあったとおり、禍害(わざわい)なるかな、偽善なる学者、汝らは預言者の墓をたて、義人の碑を飾りて言う、「我らもし先祖の時にありしならば、預言者の血を流すことに(くみ)せざりしものを」と。
 百年二百年或いは三百年前の、謂わばレッテルつきの文豪の仕事ならば、文句もなく三拝九拝し、大いに宣伝これ努めていても、君のすぐ隣にいる作家の作品を、イヒヒヒヒとしか解することが出来ないとは、折角の君の文学の勉強も、疑わしいと言うより他はない。イエスもあきれたってネ。
 もう一人の外国文学者が、私の「父」という短篇を評して、(まことに面白く読めたが、ルビ(あく)る朝になったら何も残らぬ)と言ったという。このひとの求めているものは、宿酔(ふつかいよい)である。そのときに面白く読めたという、それが即ち幸福感である。その幸福感を、翌る朝まで持ちこたえなければたまらぬという貪婪(どんらん)、淫乱、剛の者、これもまた大馬鹿先生の一人であった。(念の為に言っておく。君たちは誰かからこのように言われると、ことに、私のように或る種の札つきみたいに見られている者から、こんなことを言われると、上品を装った苦笑を伴い、太宰先生のお説によれば、私は貪婪、淫乱、剛の者、大馬鹿先生の一人だそうであるが、などと言って軽くいなそうとする卑劣なしみったれ癖があるようだけれども、あれはやめていただく。こっちは、本気で言っているのだ。それこそ、も少し、真面目になれ。私を憎み、考えよ。)宿酔がなければ満足しないという状態は、それこそほんものの「不健康」である。君たちは、どうしてそんなに、恥も外聞もなく、ただ、ものをほしがるのだろう。
 文学に於て、最も大事なものは、「心づくし」というものである。「心づくし」といっても君たちにはわからないかも知れぬ。しかし、「親切」といってしまえば、身もふたも無い。心趣(こころばえ)。心意気。心遣い。そう言っても、まだぴったりしない。つまり、「心づくし」なのである。作者のその「心づくし」が読者に通じたとき、文学の永遠性とか、或いは文学のありがたさとか、うれしさとか、そういったようなものが始めて成立するのであると思う。
 料理は、おなかに一杯になればいいというものでは無いということは、先月も言ったように思うけれども、さらに、料理の本当のうれしさは、多量少量にあるのでは勿論なく、また、うまい、まずいにあるものでさえ無いのである。料理人の「心づくし」それが、うれしいのである。心のこもった料理、思い当るだろう。おいしいだろう。それだけでいいのである。宿酔を求める気持は、下等である。やめたほうがよい。時に、君のごひいきの作者らしいモームは、あれは少し宿酔させる作家で、ちょうど君の舌には手頃なのだろう。しかし、君のすぐ隣にいる太宰という作家のほうが、少くとも、あのおじいさんよりは粋なのだということくらいは、知っておいてもいいだろうネ。
 何もわからないくせに、あれこれ(もっと)もらしいことを言うので、つい私もこんなことを書きたくなる。翻訳だけしていれあいいんだ。君の翻訳では、ずいぶん私もお蔭を(こうむ)ったつもりなのだ。馬鹿なエッセイばかり書きやがって、この頃、君も、またあのイヒヒヒヒの先生も、あまり語学の勉強をしていないようじゃないか。語学の勉強を怠ったら、君たちは自滅だぜ。
 (ぶん)を知ることだよ。繰り返して言うが、君たちは、語学の教師に過ぎないのだ。所謂「思想家」にさえなれないのだ。啓蒙家? プッ! ヴォルテール、ルソオの受難を知るや。せいぜい親孝行するさ。
 身を以てボオドレエルの憂鬱を、プルウストのアニュイを浴びて、あらわれるのは少くとも君たちの周囲からではあるまい。

(まったくそうだよ。太宰、大いにやれ。あの教授たちは、どだい生意気だよ。まだ手ぬるいくらいだ。おれもかねがね、(しゃく)にさわっていたのだ。)
 背後でそんな声がする。私は、くるりと振向いてその男に答える。
「なにを言ってやがる。おまえよりは、それは、何としたって、あの先生たちは、すぐれているよ。おまえたちは、どだい『できない』じゃないか。『できない』やつは、これは論外。でも、のぞみとあらば、来月あたり、君たちに向って何か言ってあげてもかまわないが、君たちは、キタナクテね。なにせ、まったくの無学なんだから、『文学』でない部分に於いてひとつ撃つ。例えば、剣道の試合のとき、撃つところは、お面、お胴、お小手、ときまっている筈なのに、おまえたちは、試合(プレイ)も生活も一緒くたにして、道具はずれの二の腕や向う(ずね)を、力一杯にひっぱたく。それで勝ったと思っているのだから、キタナクテね。」

 

『如是我聞』執筆の頃の太宰

 太宰最後のエッセイとなる『如是我聞』は、1948年(昭和23年)3月1日発行の「新潮」第四十五年第三号から同年7月1日発行の「新潮」第四十五年第七号にかけて、4回にわたって連載されました(ただし、同年4月1日発行の「新潮」第四十五年第四号は休載)。

 今回は、1946年(昭和21年)8月26日、700名中2名の被採用者として新潮社に入社し(もう1名は野平健一)、高校時代から愛読していた太宰に斜陽の原稿依頼をするなど、太宰が心中するまでの約1年8ヵ月の間、編集者として最も頻繁に接していた野原一夫(1922~1999)の著書回想 太宰治所収「最後に会ったとき」を引用し、如是我聞執筆の頃の太宰について見ていきます。

 昭和二十三年の春、私はある事情で新潮社を退社し、角川書店に入社して『表現』という雑誌の編集部にはいった。
 角川書店は戦後発足したまだ無名にひとしい小出版社で、その企画のレパートリーにも親近感を感じなかったが、編集顧問をしておられた林達夫(はやしたつお)氏の存在が私には大きな魅力だった。
 新潮社に入社早々の頃に、『新潮』に「反語的精神」というエッセイが掲載された。その筆者の柔和な知性と見事な表現力に私は目を見張る思いをしたが、私が林達夫氏文章に触れたのはその時がはじめてであった。そのすぐあと、筑摩書房から『歴史の暮方』というエッセイ集が刊行された。私はその本を買って読み、感銘を受けたが、その著者林達夫氏が中央公論社の出版局長をしていることをやがて私は知った。
 その時期、中央公論社は、太宰さんの『冬の花火』、石川淳氏の『黄金伝説』『文学大概』『かよい小町』、坂口安吾氏の『白痴』、福田恒存氏の『作家の態度』などを次々と刊行していた。それは”戦後”という新しい時代への鋭い切込みと見え、私には新鮮な魅力だった。
 新潮社ではその頃、山本有三氏の選集を刊行していた。山本有三氏に限らず、その頃の私にはなんの関心も持てない古い時代の作家を尊重している向きがあった。老舗(しにせの出版社は守旧的な姿勢を崩しにくいのだろうか、なにも今更と苦々しい気持でいた私にとって、同じ老舗の中央公論社の企画の方は、一種の驚きでさえあった。その方向付けをした林達夫氏が中央公論社をやめて角川書店の顧問をしている。そのことが、角川書店への入社に踏み切った一つの大きな動機であった。
 編集長のような形で迎えたいという角川書店主の言葉も、私の心を動かさなかったとは言えない。季刊誌だった『表現』を月刊誌になおす、編集責任者は林達夫先生になってもらうが、林先生は週に二度ほどしかお見えにならず、アドヴァイスをして下さる程度で、実務いっさいを私にとりしきってもらいたいという話だった。雑誌編集の経験といえば浦和高校時代の校友会誌しかない私だったが、気持が動いたことはたしかだった。

 

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林達夫(1896〜1984) 思想家、評論家。西洋精神史、文明史にわたる著作が多い。


 私がその事を相談に行ったとき、太宰さんは、賛成しがたいという意味のことを言った。硬化している部分もあるだろうが、老舗には老舗の良さがあるのだ、いろいろな出版社と付き合ってきたから俺にはそれが肌でわかる、居辛いことがあっても堪えていたほうがいい、なに、時が解決してくれるさ、と言った。
 しかし私はもう引き返せないところにきていた。はっきりした約束を角川書店主にしたわけではなかったが、心が動き、走り出し、弾みがつき、もう手綱をしめることが出来にくくなっていた。
 角川書店に移りたい理由のひとつとして、私は林達夫氏のことを口にした。太宰さんはつまらなそうな顔をして聞いていたが、
林達夫(りんたっぷ)という人は、朝鮮人かと思っていた。」
 ぽつりと言った。
 私は興覚めがして、口をつぐんだ。

 

 角川書店に移ってからは、三日にあげずの三鷹訪問ということはもうできなくなった。雑誌の編集が、それも、幅の広い思想文芸誌の編集がどんなに大変なものであるかということを、私はいやになるほど知らされた。自分の無力を(なげ)きながら、私はきりきり舞いしていた。
 それでも私は、時間を作って何回か太宰さんのところに行っている。できることなら、太宰さんの原稿を、それも小説を、『表現』に貰いたかったのだが、それはむずかしかった。その時期、太宰さんは、「人間失格」に専念していた。三月いっぱいは熱海の旅館で、帰京してからは「千草」の二階で、四月の末から五月の十二日までは大宮に場所を移し、「人間失格」の執筆に打ち込んでいた。その間、ほかにやった仕事といえば、「如是我聞」と「『井伏鱒二選集』後記」の口述だけで、五月十五日からは絶筆「グッド・バイ」の稿を起している。割り込む余地はなかった。
「原稿を書くことは、いまはとても無理だが、いい小説をひとつあずかっているんだ。お前の雑誌に載せないかね。」
 その頃のある日、太宰さんはそう言って私に原稿を手渡した。宇留野元一という人の五十枚ほどの小説だった。私より少し年上くらいの若い人で、原稿を持って何回か訪ねてきたことがあるという。
「もう最近は、文学青年の来訪は断ることにしているんだ。自分のことで手一杯、ひとの面倒まではとても見られない。だけど、この宇留野君が家に現われたとき、いいものを感じてね。はじらいでいっぱい、といった感じなんだな。どんなものを書くのかと読ませてもらったら、悪くないんだ。この小説が三作めくらいになるんだけど、自分の鉱脈を掘り当てたという感じがある。推奨できるね。俺がいいと言ったものは、これはもう、いいにきまっているんだ。」
 それから、言葉をつないで、
「載せてくれたら、まえがきのようなものを、書いてもいい。」
 このひと言が、嬉しかった。
 私は原稿をあずかって帰り、読んだ。読んで、正直のところ、私はあまり感心できなかった。これくらいのものなら、俺にだって、という(ねた)みのまじった自負心もあった。そかし私はその小説を貰いたいと思った。太宰さんからすすめられた作品を断ることは私にはできにくかったし、それに、太宰さんの文章を掲載することができるのだ。
 その希望を私は編集責任者の林さんに伝えた。君がいいというなら、いいでしょう。太宰君の推薦もあることだし、と林さんは原稿も読まずに即決してくれた。
 その小説「樹海」のまえがきを口述筆記したのはいつごろだったろうか。たしかにその日、朝日新聞学芸部長の末常氏が連載小説「グッド・バイ」の件で来訪し、いっしょに飲んだ記憶がある。「グッド・バイ」の執筆にかかりはじめた頃で、とすると五月の中旬ということになろうか。口述筆記したまえがきに、「やわらかな孤独」という標題を太宰さんはつけてくれた。

 

 私が最後に太宰さんに会ったのは、「樹海」の口述筆記から何日かの後で、もう六月にはいってからのことだった。
 その日、私が三鷹に着いたのは、夜の八時すぎだった。
 格別の用事があったわけではない。なんとなく、急に太宰さんに会いたくなって、ひとりでに私の足は三鷹に向いていた。
 見上げると、富栄さんの部屋には電気がついていた。気のせいか、ガラス戸にうつる電気の光が、へんに薄暗く見えた。一瞬迷ったのち、私は「千草」の表戸をあけた。

 

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■1948年(昭和23年)撮影 写真左「瀧本歯科」と書かれた電柱奥の長屋に「千草」があった。道路を挟んだ向かい、「永塚葬儀社」の看板がある建物の2階が山崎富栄の下宿先。富栄の下宿先から「千草」は、歩幅にして10歩ほどの距離しかない。道の突き当りが、玉川上水

 

 私の姿を認めると、おばさんは下駄をつっかけて土間におりてきた。
「先生は、こちら?」
「いえ、先生はね、」
 とおばさんは身をすり寄せ、耳をすり寄せ、耳もとでささやくように、
「先生はね。前にいらっしゃいますよ。だけどね、」
 と、さらに声をひそめて、
「特別な人のほかは、もう誰とも会っていないようだよ。いえね、先生が会いたがらないんじゃなくて、山崎さんが会わせないんだよ。こないだもね、どこかの出版社の人が山崎さんに玄関払いをくわされて、なんでも(すご)い見幕で追い返されたそうで、それからうちにみえてね、もうさんざん山崎さんの悪口を言うの。ヤケ酒だ、ヤケ酒って、あおるようにお酒をのんで、ずいぶん酔ったんだろうね、ふらふらしながらうちを出ていって、それから、山崎さんの部屋の窓にむかって、山崎のバカヤロウ、大きな声でどなるんだよ。私もはらはらしちゃったけどね。」
 なにか、こわいものを見ているような顔付きでおばさんはそう言った。
 私が会釈して富栄さんの部屋に行こうとすると、
「ちょっと待っててよ。きいてきてあげますから。ま、あなたは特別だから、大丈夫だと思うけど。」
 小走りに走っていったが、すぐ戻ってきて、
「お会いになるそうです。だけど、なんだか、へんな具合だよ。喧嘩(けんか)でもしたのかしら。」
千草」のおばさんに仲立ちしてもらって太宰さんに会うのは、もちろんこれが初めてであった。私は妙な気がした。

 

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■「千草のおばさん」こと増田静江(右)と、夫・鶴巻幸之助。

 

 太宰さんは、お酒を飲んでいなかったような気がする。寝ころんで、文庫本を読んでいた。私を見ると、上半身を起して、目だけで笑った。私は先日の口述筆記のお礼を言った。太宰さんは小さくうなずいて、
「お酒を。」
 と富栄さんに言った。
 富栄さんは部屋の隅でからだを固くしていた。眼が()れぼったいようだったが、泣いたあとだったのだろうか。
 コップをかち合わせると太宰さんは、
「いま、ミュッセの詩篇を読んでいたんだがね、いいもんだ。ミュッセとかメリメ、メリメの短篇もいいんだ。『エトルリアの壺』なんて、絶品だね。フランス文学というと、すぐスタンダールバルザック、フローベルとくるけど、ミュッセ、メリメ、こちらのほうが上質なんだ。あ、それから、ドーデー、これがまたいいものだ。」
 そんなことを、ぽつりぽつりと、大儀そうな口調で言った。
 富栄さんは黙ってそこに坐っていた。太宰さんは、富栄さんの顔を見ないようにしていた。
 この時間、いつもなら「すみれ」か「千草」で訪客にかこまれての酒盛り、気勢をあげている頃で、いや、太宰さんとふたり差し向いで、この部屋で酒をのんだことも何度かあるが、こんなに湿った、へんに静かな酒は、初めてだった。
 私は、一時間もいなかったと思う。帰ります、と言うと、太宰さんは顔をそむけるようにして、うなずいただけだった。
 私が太宰さんを見た、それが最後だった。

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三鷹の若松屋で。左から太宰、若松屋の女将、野原一夫、野平健一。1947年(昭和22年)、伊馬春部の撮影。野原と野平は『斜陽』などを担当した新潮社の担当者。野原は、新潮社を退社して角川書店に入社した後、月曜書房を経て、1953年(昭和28年)9月に筑摩書房に入社。「太宰治全集」を第六次まで担当した。

 【了】

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【参考文献】
・野原一夫『回想 太宰治』(新潮社、1980年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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太宰治39年の生涯を辿る。
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