記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

嬉しい贈り物〜スクランブル読書

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太宰さん、事件です!

 つい最近も、同じ書き出しで書き始めたような気がするのですが、そこはご愛敬。 

 なんて言ったって、太宰治生誕110周年という記念すべきこの年に、こんなに嬉しい出来事に恵まれるなんて!

 そもそもの発端は、3月12日付、日本近代文学元コレクターこと初版道さんの、以下に上げた本紹介に続けてのツイート。

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 なんと、檀一雄『小説太宰治初版本を抽選で1名にプレゼント下さるとのこと!

 ちょうど、『小説太宰治収載のエピソードで、走れメロス執筆のきっかけになったと言われる、熱海での太宰治檀一雄の事件について記事を書いていた矢先。

 「これほど、この本にふさわしい人はいないだろ!」という自負を持って、応募させて頂いたところ………見事、落選。

 しかし、その数日後。

 3月16日に、再び初版道さんが以下のようなツイートを。
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 「うぅ、檀一雄『小説太宰治』の初版本は外れちゃったけど…。『斜陽』掲載の『新潮』も欲しい!」と、再度ハッシュタグ#初版道新潮をつけて、申込ツイートさせて頂きました!

 すると…、なんと…、翌日3月17日に、初版道さんから次のDMが届きました。
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 当選しちゃいました!

 DMにすぐさま返信したことは、言うまでもありません。

 

はじめて手に取る掲載誌

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 そして、3月19日。

 早くも手元に届きました『新潮 八月號』

 昭和22年(1947年)8月1日発行。定価18円。

 この『新潮』が発行されたのは戦後激しいインフレの時代

 1年の間に物価が数倍にも跳ね上がったため、現代の貨幣価値に換算するのは難しいそうですが、当時の金額を約100倍すると、だいたいのイメージが掴めるそうです。

 一冊1,800円と想定すると、なかなか高額。当時、この雑誌を手に取ることができた人は、少なかったのではないでしょうか。

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 また、編集後記には「新潮は他誌に比べて、幾分發行が遅れ氣味であつたので、今月號こそ早く出すやうに努力したが、御承知の如く印刷ストのために又遅れてしまつた。」とあり、当時の様子を鮮明に伝えています。

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 初版本や初出掲載誌をショーケース越しに眺めたり、図録で見たりというようなことは何度もありましたが、実際に手に取るのは、はじめての経験。

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 これまで、繰り返し読んできた『斜陽』ですが、はじめて手に取ったのは、ちょうど11年前。高校三年生の時でした。

 私立大学の本試験を受けるために、上京。

 試験を終え、青森に帰る新幹線を待つ東京駅で時間を持て余し、向かった八重洲ブックセンターで、人間失格と共に購入したことを、今でも鮮明に覚えています。

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 はじめて『斜陽』を手に取ってから11年後に、初出掲載誌を手にしている。

 なんだか、とても感慨深いものがあります。

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 嬉しさのあまり、ツイート。

 「記事を1つ書かせて頂こうかなと思います」とつぶやいているのが、まさにこの記事のことです。

 

太宰治の人気はいつから?

 今では、太宰治といえばベストセラー作家」を疑う人はいないと思いますが、先ほども触れたように、当時の初出掲載誌の価格は約1,800円と高額。

 なかなか掲載誌を手にするのが難しいことも想定される中で、当時から太宰治は人気作家だったのでしょうか。

 滝口明祥『太宰治ブームの系譜』を参考に、少し見ていきたいと思います。

太宰治ブームの系譜 (未発選書 26)

 太宰の奥さん・津島美知子さんによると、「太宰の生前にあっては最も広く読まれた著作」新釈諸国噺とのことで、初版の発行部数が1万部、4版まで印刷されたそうなので、トータルの発行部数は多めに見積もって4万部程度

 ベストセラーと言われている『斜陽』の、太宰生前における発行部数はトータル3万部とされており、新釈諸国噺』と『斜陽』の発行部数は、ほぼ同数だったと推測できるそうです。

 つまり、太宰生前に最も売れた著作であっても、発行部数は3~4万部程度。人気作家の作品と呼ぶには、少し寂しいような気もします。

 滝口氏は、「第一次太宰ブーム(1948年)」「第二次太宰ブーム(1955年)」「第三次太宰ブーム(1967年前後)」「その後の〈太宰治〉」と、太宰の死後に3つのブームが起こり、現在に至る流れが太宰人気を作った、と分析しています。

 「第一次太宰ブーム(1948年)」は、太宰の死の直前です。

 それまでは、ヴィヨンの妻が倉庫に山積みになっていたそうですが、太宰が玉川上水に飛び込んだ途端に、新聞やラジオで、連日のように太宰が取り上げられ、『ヴィヨンの妻』は、たちまち売り切れてしまったそうです。

 ちなみに、太宰治のイメージとニアイコールで語られることの多い人間失格ですが、実は、出版されたのは太宰の死後である1948年7月25日で、瞬く間に20万部のベストセラーになったそうです。

人間失格 (新潮文庫)

 「第二次太宰ブーム(1955年)」のキッカケは、「戦後」が終わり、日本社会が政治から経済へと次第にシフトしていく中、1955年10月15日に筑摩書房から刊行された太宰治全集』だったといいます。

  第一巻の初版は4,000部で、定価420円と高く、本文用紙も表紙のクロスも最高の素材を使って、少数の読者に質の高い『太宰治全集』を届けることを目的として刊行されました。

 しかし、発売数日後には、販売取次店からの追加注文が殺到し、重版に次ぐ重版で、1ヶ月足らずで発行部数は1万部まで伸びたそうです。

  「第三次太宰ブーム(1967年前後)」は、1967年に上演された「太宰治の生涯」と「桜桃の忌ーもう一人の太宰治」という2本の演劇に端を発するそうです。

 1967年6月19日 桜桃忌は例年にない盛況となり、翌日付の朝日新聞では「踏み場もない「桜桃忌」」と題し、「相変わらずの太宰ブームだが、ことしはちょっとケタはずれ。境内にスピーカーを備えつけたり、先着順の整理券で人波をさばくなど、主催者側もこれまでにない大騒ぎだった」と報じています。

 「その後の〈太宰治〉」では、「第三次太宰ブーム」以降、文庫本にキャラクターのイラストを用いたり、映画化やマンガ化が多数行われ、「〈太宰治〉を包むパッケージ」が変わっていったことが述べられています。

 本格的な太宰人気が出始めたのは太宰の死後、って、皆さん、驚きだったのではないでしょうか。

 今も太宰の小説は売れ続けているので、「現役のベストセラー作家」と呼んでも過言ではないかもしれません。

 

スクランブル読書

  最後に、太宰が存命だった頃、彼の作品がどのように読まれていたかについて、少し触れておきたいと思います。

 見出しにつけたスクランブル読書」という言葉。太宰治の生誕100周年を記念して河出書房新社から刊行された、KAWADE夢ムック 文藝別冊『太宰治 100年目の「グッド・バイ」』に所収の論考、斎藤理生「スクランブル読書 『風の便り』および『斜陽』を順不同に読む」から引用させて頂きました。 

太宰治---100年目の「グッド・バイ」 (文藝別冊)

 このスクランブル読書」という言葉、語感がよくて気に入っているのですが、当時の太宰作品の読まれ方を端的に表した言葉になっています。

 論考は「昭和二十二年七月から十月まで「新潮」に連載された『斜陽』は、どれくらいの読者に順番どおり読まれたのだろう。」とはじまります。

 現在、私たちは『斜陽』を全集や文庫本で読む時、「順番どおり」読まないことはありません

 しかし、当時は衣食住にも事欠きがちな時代で、「「新潮」をコンスタントに購読し続けること自体、経済的にも物理的にも、簡単ではなかったはずなのだ。手元が不如意だったり、近隣の書店に届かなかったり、つい買いそびれたりするケースは、現代とは比較にならないほど多かったにちがいない。」とあります。

 確かに、今回頂いた『新潮 八月號』の編集後記にも、「印刷ストのために又遅れてしまつた。」と書かれていました。

 また、当時の評論には「私は斜陽を第三回までしか読んでゐないので、これからどう発展するのか知らないのだが」「じつは一、二回しか読んでいない。…非常に評判もいゝし、ぜひ読まなければならんとおもつておりますが」「僕は反対に三回と四回しか読んでいない」「部分的にしか読んでないんです」と書かれているそうです。

 意外にも、『斜陽』発表当時、作品を「順番どおり」に読むことができた人は限られていた、ということになります。

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 さらに、『風の便り』という作品では、そもそも作品の初出掲載時に「順番どおり」に読むことができませんでした

 『風の便り』は、風の便り」「旅信」「」という3つの短篇から成る作品なのですが、昭和16年(1941年)11月1日付発行の『文学界』に「風の便り」、同日付発行の 『文藝』に「秋」が発表され、同年12月2日付発行の『都新聞』に「旅信」が発表されています。連作の最初と最後が同月に発表され、中間部分だけが1ヶ月遅れで発表されたという訳です。

 当時の評論には、「首と尾を読んだ限りでは仲々の佳篇」だが、「胴体」にあたる「「旅信」がどこに発表してあるのかわからない」と困惑したものもあったようです。

 のちに、単行本『風の便り』へ「順番どおり」に収録した際、太宰は「あとがき」で、「「風の便り」は文學界、新潮、文藝の三冊子に、三分して発表したものを、このたび一つにまとめたものである。まとめてお読みになると、また、ちがふ感じがすると思ふ」と述べています。

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 以上を踏まえたうえで斎藤氏は、分載された小説について、太宰治の連載小説は、冒頭から末尾へまっすぐに進まない読みをも少なからず許容するのではないか」「個々に異なるタイトルを付けていること一つをとっても、スクランブルに読まれることを、太宰がある段階で覚悟したことはまちがいない」と述べています。

 太宰治生誕110周年を記念して、毎朝7時に作品を更新している【日刊 太宰治全小説】では、分載された小説の場合、発表された状態で分けて作品を更新しています。

 普通に作品を読むだけでは味わえない、「当時の読み方」を真似て、スクランブル読書」してみるのも面白いのではないでしょうか。

 

2019年太宰治生誕110周年を記念して【日刊 太宰治全小説】を、2019年1月1日から毎朝7時に更新中です!
下記「創刊のお知らせ!」作品一覧から、更新済の作品が読めます🍒

 

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