記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】小説の面白さ

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今週のエッセイ

◆『小説の面白さ』
 1948年(昭和23年)、太宰治 39歳。
 1947年(昭和22年)12月中旬から1948年(昭和23年)1月までの間に脱稿。
 『小説の面白さ』は、1948年(昭和23年)3月1日発行の「個性」第一巻第三号の「小説とは何か」(アンケート)欄に発表された。この欄には、ほかに『或る小説家の言』(豊島与志雄)、『素朴なる賭博者』(椎名麟三)などが掲載された。

「小説の面白さ

 小説と()うものは、本来、女子供の読むもので、いわゆる利口な大人が目の色を変えて読み、しかもその読後感を卓を叩いて論じ合うと云うような性質のものではないのであります。小説を読んで、(えり)を正しただの、頭を下げただのと云っている人は、それが冗談ならばまた面白い話柄でもありましょうが、事実そのような振舞いを致したならば、それは狂人の仕草と申さなければなりますまい。たとえば家庭に於いても女房が小説を読み、亭主が仕事に出掛ける前に鏡に向ってネクタイを結びながら、この頃どんな小説が面白いんだと聞き、女房答えて、ヘミングウェイの「()がために鐘は鳴る」が面白かったわ。亭主、チョッキのボタンをはめながら、どんな筋だいと、馬鹿にしきったような口調で(たず)ねる。女房、(にわ)かに上気し、その筋書を縷々(るる)と述べ、自らの説明に感激しむせび泣く。亭主、上衣を着て、ふむ、それは面白そうだ。そうして、その働きのある亭主は仕事に出掛け、夜は()るサロンに出席し、(いわ)く、この頃の小説ではやはり、ヘミングウェイの「()がために鐘は鳴る」に限るようですな。
 小説と云うものは、そのように情無いもので、実は、婦女子をだませばそれで大成功。その婦女子をだます手も、色々ありまして、(ある)いは謹厳を装い、(ある)いは美貌をほのめかし、あるいは名門の出だと偽り、(ある)いはろくでもない学識を総ざらいにひけらかし、(ある)いは我が家の不幸を恥も外聞も無く発表し、(もっ)て婦人のシンパシーを買わんとする意図明々白々なるにかかわらず、評論家と云う馬鹿者がありまして、それを捧げ奉り、また自分の飯の種にしているようですから、(あき)れるじゃありませんか。
 最後に云って置きますが、むかし、滝沢馬琴と云う人がありまして、この人の書いたものは余り面白く無かったけれど、でも、その人のライフ・ワークらしい里見八犬伝の序文に、婦女子のねむけ(ざま)しともなれば幸なりと書いてありました。そうして、その婦女子のねむけ(ざま)しのために、あの人は目を(つぶ)してしまいまして、それでも、口述筆記で続けたってんですから、馬鹿なもんじゃありませんか。
 余談のようになりますが、私はいつだか藤村と云う人の夜明け前と云う作品を、眠られない夜に朝までかかって全部読み尽し、そうしたら眠くなってきましたので、その部厚の本を枕元に投げ出し、うとうと眠りましたら、夢を見ました。それが、ちっとも、何にも、ぜんぜん、その作品と関係の無い夢でした。あとで聞いたら、その人が、その作品の完成のために十年間かかったと云うことでした。

 

太宰の書く小説

 「小説とは何か」というアンケートに対し、「小説の面白さ」と題し、「小説と云うものは、そのように情無いもので、実は、婦女子をだませばそれで大成功。」と結論づける。太宰お得意の逆説的な手法です。

 今回は、太宰の小説について、太宰の師匠筋にあたる佐藤春夫が太宰の死後に書いた文章稀有(けう)の文才』を紹介します。

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佐藤春夫

 佐藤春夫(1892~1964)は、門弟三千人と言われ、その門人には、井伏鱒二檀一雄吉行淳之介稲垣足穂龍胆寺雄柴田錬三郎中村真一郎五味康祐遠藤周作安岡章太郎古山高麗雄など、一流の作家になった者が多くいました。
 太宰との関係では、芥川賞をめぐる確執が有名です。佐藤は、自分を慕う者の面倒はどこまでも見るが、自分を粗略にした(または、そう思った)者は、親しい付き合いがあっても、すぐに関係を絶つという、物事を白・黒でしか見ない傾向があったそうです。

 芥川賞の季節になるといつも太宰治を思い出す。彼が執念深く賞を(もら)いたがったのが忘れられないからである。事のてんまつは一度書いた事もある。当時それをバクロ小説か何かのように読んだ人もあった模様であったので久しく打捨てて作品集にも入れなかったが、この間「文藝」に再録されたのを久しぶりに再読してみて一言半句の悪意もない事を自分で確かめたので改めて作品集にも安心して加えた。

 

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■佐藤が書いた事の顛末(あの作品)が再録された「文藝」 1953年(昭和28年)12月1日発行。

 

 あの作品には何の悪意もなくむしろ深い友情から出た忠告があったつもりであるが、今冷静に読んでくれればこの事は何人にも了解して(もら)えると思う。しかしあの作品は遠慮会釈なく本当の事をズバリと()っている。自分は本当の事なら誰にも(はばか)らず()っていいと信じている。世俗人ではなく、(いやしく)も文学にたずさわる程の人間ならこんな事ぐらいは常識と思っているのに、あまり本当の事を()われたのが太宰には気に入らなかったと見える。見え坊の彼には鏡の前にアリアリと写った自分の姿が正視するに堪えず恥ずかしかったのであろう。そういう見え坊の慚羞(ざんしゅう)や気取が太宰の文学をハイカラに洒脱な、その代りに幾分か弱いものにしてしまっている。
 あまりに本当の事を見、本当の事を()いすぎる自分のところへ、彼はいつの間にか出入しなくなってしまって(もっぱ)ら井伏のところあたりに行っていたようである。僕もコワレもののように用心しながらつき合わなければならない人間はやっかいだから、出入しなくなった彼を強いて迎える要もないと思いながらもその才能は最初から(おおい)に認めていたつもりである。芥川賞などは(もら)わないでも立派に一家を成す才能と信じ、それを彼に自覚させたかったのが「芥川賞」と題した彼をモデルにした作品を書いた動機でもあった。
 世俗人や凡庸(ぼんよう)な文芸人などがそれをどう読もうと問題ではなかったが、太宰自身がそれを自分の読ませたいように読み得なかったのは自分にとって(すこぶ)る残念であった。そうしてそれ以来自分のところへ近づかなくなった彼に対しては多少遺憾に思いながら遠くからその動静を見守っていたものである。

 

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■『芥川賞 ー憤怒こそ愛の極点(太宰治)ー』 「あの作品」が初めて掲載された、1936年(昭和11年)11月1日発行「改造」。太宰が創世記に、佐藤との約束があったにもかかわらず第3回芥川賞に落選した、と書いたことに対して、佐藤はこの実名小説をもって太宰を批判し、文壇に波紋を投げかけた。

 

 昭和十八年の秋、南方の戦線に出かけて行った自分は十九年の春、昭南でデング熱(おか)されて一週間ほど病臥(びょうが)した事があった。その時、(たまたま)、ホテルの人が枕頭に持って来てくれた改造のなかにあったのが彼の「佳日」という短篇であった。
 自分は一読して今更に彼の文才に驚歎(きょうたんした。全く彼の文才というものは(たがいに相許した友、檀一雄のそれと双璧をなすもので他にはちょっと見当らないと思う。(もっとも彼と檀とでは本質的には対蹠(アンチホートするものがあって、そこが彼等の深い友情の成立した秘密かも知れない。
 檀の南国的で男性的に粗暴で軽挙妄動するのに対して彼は北国人で女性的に細心で意識過剰である等々。
 自分は病余のつれづれに、いつまでも枕頭にあった「佳日」を日課のように毎日読んだ。外には新聞より読むものがないのだから新聞を拾い読みした後では必ず「佳日」を愛読したものである。そうしてしまいには(ただ)読んだだけでは面白くないから、どこかに文章の乃至(ないし)はその他の欠点はないものだろうか一つそれを見つけてくれようという意地の悪い課題を自分に与えて読んでみた。そうして無用な気取りやはにかみなどの今さらならぬ根本的な不満は別として、その短篇の構成にも文章の洗練の上でも、自分は再読し三読して毛を吹いて(きず)を求めるように意地悪く、というよりも依怙地(いこじ)になってかかったが結局どこにも欠点と(おぼ)しいものは見つからなかった。この事は自分の帰ったのを知って会いに来てくれた時、彼に直接話したような気がする――もしそうならば十九年の六月頃が彼に会った最後である。それとも直接話したのではなくて彼から本を(もら)ったお礼の(ついで)に書いたものであったかも知れない。それならば二十二年の春ではなかったか知ら、もう記憶の明確は期しがたくなっている。
 彼の死は信州の山中にあって知った。(いず)れはそんな最期をしなければならない運命にある彼のような気がして、折角(せっかく)幾度も企てて失敗している事を今度は成し遂げさせたいような妙に非人情に虚無的な考えになっていた自分は、他人ごとならず重荷をおろしたような気軽なそれでいて腹立たしい変な気がしたのを得忘れない。
津軽」は出版の当時読まないで近年になって――去年の暮だったか今年のはじめだったか中谷孝雄から本を借りて読んで、非常に感心した。あの作品には彼の欠点は全く目立たなくてその長所ばかりが現われているように思われる。他のすべての作品は全部抹殺してしまってもこの一作さえあれば彼は不朽(ふきゅう)の作家の一人だと()えるだろう。

 

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■小説『津軽

 

 あの作品に現われている土地は、彼の故郷の金木(かなぎの地の(ほか)は全部自分も見て知っているつもりであるが、土地の風土と人情とをあれほど見事に組み合せた彼の才能はまことにすばらしいものである。生前これを読んで直接彼に讃辞を(てい)する事のできなかったのが千秋の恨事(こんじ)である。
 それまでは大方信州にいて出られなかった桜桃忌の七周年に今年、はじめて自分は夫妻で出席して彼の遺孤(いこ)の成長したのも見たが、席上求められるままに話したのがおおよそ、この文と同じことであった。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
河出書房新社編集部 編『太宰よ! 45人の追悼文集』(河出文庫、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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