記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】徒党について

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今週のエッセイ

◆『徒党について』
 1948年(昭和23年)、太宰治 39歳。
 1948年(昭和23年)2月29日に脱稿。
 『徒党について』は、1948年(昭和23年)4月1日発行の「月刊讀物」第一巻第五号に新仮名遣いで発表された。カットは阿部合成。ほかには、「知事と太宰治」(小林浮浪人)、「礼文島と私」(稲見五郎)、「李順永」(竹内俊吉)、「友遠方より来たらず」(平井信作)、「恋愛ばやり」(沙和宗一)などが掲載された。

「徒党について

 徒党は、政治である。そうして、政治は、力だそうである。そんなら、徒党も、力という目標を(もっ)て発明せられた機関かも知れない。しかもその力の、頼みの綱とするところは、やはり「多数」というところにあるらしく思われる。

 

 ところが、政治の場合に()いては、二百票よりも、三百票が絶対の、ほとんど神の審判の前に()けるがごとき勝利にもなるだろうが、文学の場合に()いては少しちがうようにも思われる。

 

 孤高。それは昔から下手(へた)なお世辞の言葉として使い古され、そのお世辞を奉られている人にお目にかかってみると、ただいやな人間で、誰でもその人につき合うのはご免、そのような(たち)の人が多いようである。そうして、その所謂(いわゆる)「孤高」の人は、やたらと口をゆがめて「群」をののしる。なぜ、どうしてののしるのかわけがわからぬ。ただ「群」をののしり、己れの所謂(いわゆる)「孤高」を誇るのが、外国にも、日本にも昔はみな偉い人たちが「孤高」であったという伝説に便乗して、以て吾が身の()びしさをごまかしている様子のようにも思われる。

 

「孤高」と自らを号しているものには注意をしなければならぬ。第一、それは、キザである。ほとんど例外なく、「見破られかけたタルチュフ」である。どだい、この世の中に、「孤高」ということは、無いのである。孤独ということは、あり得るかもしれない。いや、むしろ、「孤低」の人こそ多いように思われる。

 

 私の現在の立場から言うならば、私は、いい友達が欲しくてならぬけれども、誰も私と遊んでくれないから、勢い、「孤低」にならざるを得ないのだ。と言っても、それも嘘で、私は私なりに「徒党」の苦しさが予感せられ、むしろ「孤低」を選んだほうが、それだって決して結構なものではないが、むしろそのほうに住んでいたほうが、気楽だと思われるから、()えて親友交歓を行わないだけのことなのである。

 

 それでまた「徒党」について少し言ってみたいが、私にとって(ほかの人は、どうだか知らない)最も苦痛なのは、「徒党」の一味の馬鹿らしいものを馬鹿らしいとも言えず、かえって賞賛を送らなければならぬ義務の負担である。「徒党」というものは、はたから見ると、所謂(いわゆる)「友情」によってつながり、十把一(じっぱひと)からげ、と言っては悪いが、応援団の拍手のごとく、まことに小気味よく歩調だか口調だかそろっているようだが、じつは、最も憎悪しているものは、その同じ「徒党」の中に居る人間なのである。かえって、内心、頼りにしている人間は、自分の「徒党」の敵手の中に居るものである。

 

 自分の「徒党」の中に居る好かない奴ほど始末に困るものはない。それは一生、自分を憂鬱にする種だということを私は知っているのである。

 新しい徒党の形式、それは仲間同士、公然と(、、、)裏切るところからはじまるかもしれない。

 

 友情。信頼。私は、それを「徒党」の中に見たことが無い。

 

「孤低」の太宰

 太宰は自身を「孤低」と表現し、「むしろそのほうに住んでいたほうが、気楽だと思われるから、()えて親友交歓を行わない」と理由を述べています。

 今回は、弟子・菊田義孝の著書太宰治の弱さの気品に収録されている太宰治の「弱さ」について』を引用しながら、太宰の"弱さ"について見ていきます。

 林房雄三島由紀夫両氏の対話をまとめた『日本人論』という本を最近読んだ。そのなかで、太宰治の「弱さ」ということが、徹底的に論難されている。それに対して私は必ずしも太宰を弁護しようというのではないが、私なりに多少疑問に思う点もあるので、その疑問を述べてみたい。まず両氏の太宰批判がどのような概念にもとづいてなされているかを知るために、二、三、関係箇所を抜粋しておく。

 

 三島 太宰治の小説なんかの、いまもっている青年に対する意味というものね、僕は太宰嫌いだから、偏見もあるかも知れないけれども、やはりいまでもアピールしていることはたしかですよ。自己憐憫(れんびん)、それから、「生まれて、すみません」。それから、「自分はこんなに駄目な人間だけれども、駄目な人間でも一言いわせてもらいたい」。あれが埋没された青年というものに訴えるのですね。青年というものは、いかに大きなことを言っていても、やはり自分が埋没している。埋もれている。そうして、それをなんとかして肯定する方法はないかと思っている。非常な自己憐憫、そういうものじゃないと、結局わからないところがあるのですね。
  文学自体は弱いものだが、弱いものの味方であるというのは嘘です。どこまでも強いものの、美しきものの味方でしょう。太宰の小説は自分の弱さをさらけ出すことによって、弱いものの見方顔をしている。(略)人間に重要なものは、あなたの言う、克己(こっき)、自制、勇気、英雄的行動です。この自覚はつらいことだ。悲劇的結末に通ずるから。……だが、そうじゃなければいけないのです。人間の弱さに妥協してはいけない。(以下略)
 三島 (上略)近代文化は、人間の弱さ、ないしは人間の真実を露呈する。それはたしかに近代文学の発見だったかも知れない。しかし、どこに真実があるのか、弱さにだけ真実があるというのはほんとうだろうかというのが、僕の根本的な疑問だった。(以下略)

 

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三島由紀夫

 

 太宰には、非常な弱さがあった。それはたしかにそのとおりである。しかし、単に自己憐憫から、弱さを弱さそのものとして、まるごと肯定していたのだろうか。自分の弱さをさらけ出しさえすれば、人間の真実を表現することになる。それによって、自他の救いさえもたらすことができるかもしれない。そのように考えていたのだろうか。彼は自分の弱さそのものではなく、その弱さのうちにこもっている、言いかえれば、自分をしてそのように弱きものたらしめている何ものか、その何ものかの価値を、かたく信じていたからこそ、その弱さの表現ということを終始一貫、自己の文学のライトモチーフとしたのではないか。

 

 「ただ太宰というのはたいへんなレトリシャンで、うまいですよ。比喩や形容が。その意味の天才だ。たいへんな才能ですよ。」と林氏は言っておられるが、林氏はたとえば、「HUMAN LOST」のなかの《享楽のための注射一本、求めなかった。おめん! の声のみ盛大の二、三の剣術先生的文士を避けたにすぎぬ。「水の火よりも(つよ)きを知れ、キリストの嫋々(じょうじょう)の威厳をこそ学べ。」》という一節を読んでも、やはりそこに太宰の(たく)みなレトリックしか感得できないのであろうか。そこになにか、権威という言葉さえ使いたくなるほどの高く強い調子であらわされている、太宰の「自信」の強さが、いったいどこから来たものかと、首をひねる気にもならないのであろうか。
 「その弱さ、優しさこそ、太宰その人の人格であり、天性であり、良質だったのであり、良心だったのである。ひとは、ただひとつの本質を、いろいろの角度から、まるで異質なものでもあるように命名したがるものだが、その弱さこそ太宰の感性だったわけであり、その優しさこそ、太宰のヒューマニティーだったのである。太宰の実存はテンダーネスの一語につきるとぼくは確信するようになっている。」(山岸外史『人間太宰治』)

 

 太宰は、単なる弱虫ではなかった。<優しい人間>だったのである。<優しさ>が、太宰の神であった。彼の弱さは、その優しさゆえに、余儀なくかぶらざるをえなかった仮面のごときものでさえあった。優しさは、他者に関する事がらである。自己憐憫はけっして優しさではない。むしろエゴイズムである。太宰の弱さが自己憐憫から来たものではなく、その優しさから来たものであるということ、そのけじめを明確にすることは彼の実存を理解する上にきわめて重要である。

 

 太宰は、その動機がたとえ彼の<優しさ>から発したものであったにせよ、あるときついに「人間の弱さ」に妥協していたのではなかったか。そのことも十分に考えてみる必要はある。特にその小説『人間失格』の構想が、「人間の弱さ」への妥協から生まれたものであるか、それとも人間性の内にひそむ悪をギリギリの一線まで追いつめて見ようとしたものであったかは、なおまだ問題にする余地がのこされているように思う。

 

 『日本人論』の中で林氏は、<通俗な意味では、キリスト教も仏教も人間の弱さから出発している。救済とか済度とかの観念の基底には「人間の弱さ」が横たえられている。キリスト教には原罪があり、十戒があり、仏教には五欲六情があり、無明があり、無常がある。人間の弱さを強調しすぎると、現世利益の通俗宗教になってしまう。人間の弱さに挑戦し、人間を強くするものが宗教であるという大切な点が見落とされて、弱さの肯定になってしまう。ニーチェのキリストに対する反発はそこから生まれたのではなかったかね。>と言っておられる。<優しさ>が太宰の神であった、とすれば、他者に対する純正な優しさに生きぬくこと、それが太宰にとっての「宗教」であったということもできるであろう。「人間の弱さに挑戦し、人間を強くするものが宗教である」という命題を、太宰の上に当てはめるとすれば、太宰はその優しさによって人間(おのれ)の弱さに挑戦し、人間(おのれ)を強くすることができなければならなかったはずである、という結論が生まれる。ところで、実際はどうであったか。太宰自身のことはさておき、小説『人間失格』の構想に即して考えてみると、その主人公・大庭葉蔵(おおばようぞう)は、彼自身が持って生まれた優しさ、さきにあげた山岸氏の言葉に置きかえてみれば、<テンダーネス>のゆえに、敗北また敗北、ついには精神病院にぶち込まれた揚句(あげく)、白痴同然の身になって終わるのである。その優しさによって、あるいは優しさを守ることを目的として、おのれの弱さに挑戦し克服しようとつとめた形跡も見当たらない。結局において「弱さの肯定」に終始した、というほかはないようである。作者もまた、その主人公をほとんど全的に肯定している。そこで私としては、葉蔵(ようぞう)の(したがってその作者の)あり方がどこかで完全に狂っているのか、それとも林氏が提出された「宗教」の定義のどこかに間違い(もしくは欠陥)があるのか、あらためて考えてみなければならない。

 

 葉蔵は弱かった、しかし悪人ではなかった。太宰はそう言いたがっているようである。

 

 人間の弱さに挑戦し、人間を強くするものが宗教である、というとき、林氏は人間の「悪」の問題をどのように考えておられたのであろうか。キリスト教には原罪があり、十戒があり、仏教には五欲六情があり、無明がある、とは林氏も言われるところだが、まことにそのとおりである。特にキリスト教の場合、「弱さ」からの救済に立って、まず「罪」からの救済が強調される。キリスト教では、弱さ=罪、とは考えない。いかに強い人間でも、神の前ではひとしく罪人とみるのである。強いか弱いかよりも、義人か罪人か、それがまず問題になるのだ。罪を完全にきよめられて、はじめて人間は真の生命の満ちあふれた存在になることができる、というのがキリスト教の基本理念である。林氏がキリスト教や仏教を代表的な宗教と考えておられるものとすれば、人間の弱さに挑戦し人間を強くするものが宗教だ、というとき当然、人間を罪から解放しそれによって人間を強くするものが宗教だ、という考えを否定できなかったはずである。

 

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 大庭葉蔵を、極端に弱い人間ではあるが、しかしこの世の「悪」とだけは完全に対立する人間として造型しようとしたかに見える太宰は、それにもかかわらず、葉蔵を宗教的な救いにあずからせることだけは最後まで否定した。というのは、はじめに「罪」からの救済、しかるのちに「弱さ」からの救済という、あの宗教的な"道"を踏ませることを否定したということである。葉蔵は、最後まで、強い人間になってはいけなかった。それは、<優しさ>という彼の神に逆うことだったからである。
 林房雄氏は、いわば「転向の名人」である。公衆の面前で、いくどか変身を重ねてきたが、その変身ぶりはいつも颯爽としていた。変身による破れを、少しも見せなかった。「人間が、自分の誠実、シンセリティーを保つためには、しばしば自分の思想を裏切ることがある。」「思想は裏切ってもいい。しかし、どうしても裏切れない究極の何物かに行きあたる。」と、『日本人論』の中で自ら語っている。それにたいして三島氏は、「林さんのようにお生きになって、林さんのように好き勝手なことをおっしゃって、そうして思想的一貫性というものはりっぱにあるのですよ。思想的というか、論理的一貫性と言ったほうがいいいか、論理的一貫不惑ということです。」とこたえている。シンセリティー。それを、一個の人間として当然とるべき責任、と言いかえてもさして不都合はないと思うが、林氏はその責任を全うするために、しばしばその「思想」を裏切ってきたというのである。私にも、別に異議はない。ただ、私が言いたいことは林氏の颯爽たる変身ぶりに比べて、太宰は「転向」のじつに下手糞な男であったということである。左翼運動からの転向にしてもそうだし、日本の敗戦を迎えたあと、占領下現実に処するためには当然変身しなければならなかった、そのときの変身ぶりが、またじつにぶざまをきわめたものであった。君子豹変などと口では唱えながら、ただもうギクシャクして、とても変身などと言えたものではなかった。終戦を迎えて三年そこそこで、川にはいって死んでしまった。太宰にも、シンセリティーはあったと思う。何ものかに対する責任感はあったと思う。むしろ「責任」というものにこだわりすぎる性格であったから、自分がいったんあげた旗を、容易におろすことができなかったのである。無理におろそうとすると、赤面逆上、しどろもどろになって、揚句の果てはただ死のう、と思いつめるほかない性格であった。林氏の場合は、シンセリティーが、その転向を、颯爽たるものにする。太宰の場合は、シンセリティーが全く逆の作用をする。どうしてそういうことになるのか、不思議なものである。

 

 「思想は裏切ってもいい。しかし、どうしても裏切れない究極の何物かに行きあたる。」と林氏は言うが、太宰はいつでもあまりに早く、「どうしても裏切れない究極の何物か」を意識してしまう人だったのかもしれない。ここまではいい、しかしここから先は絶対だめ、という分別をつけることが、どうしてもできない性分だったのかもしれない。それも結局は若さ、未熟さ、というところに帰着するのだろうか。それはさておき、太宰にとって「どうしても裏切れない究極の何物か」というものがもしあったとしたら、それは何であっただろうか。太宰は究極、何に対して誠実であったのか。自己に対して。自己の優しさに対して。太宰の場合「思想」を裏切ることは、そのままただちに自分を信頼してくれている他人を裏切ることであった。その人たちの、心を傷つけることであった。そして、それは取りもなおさず、<優しさ>という彼の神に背反することだったのである。彼の変身が常に拙劣(せつれつ)をきわめたのは結局、そのためである。

 

 太宰は、自己を超克する原理を持たなかった。彼の神は、彼自身に内在する優しさだったのだから、その神に絶対的に服従することは、結局において自分自身を絶対的に肯定することであった。優しさを守って弱さに徹し、完全に没落することが、彼にあっては自我のむしろめずらしいほどの強固さを示すことでさえあったのである。彼の外面に現われた弱さを、彼の自我そのものの弱さと見ることはあやまりである。
 しかし、彼が、その強固であった自我そのものを超克する原理を持たなかったということ、自我そのものを否定し、ささげて、仕えるべき神を持たなかったということは、たしかに一つの大きな空白を感じさせる。たとえて言えば『人間失格』の裏側に書きのこされた空白とでも言おうか。
 ところで、太宰の場合、自我を否定するということは<優しさ>という偶像神を捨てることにほかならない。したがってまた<弱さ>を根源的に否定することにもなったであろう。
 イエス・キリストの父なる絶対神の愛=義と、彼自身の内にある優しさ、そのいずれを取っていずれを捨てるか、それが太宰の迫られた最終的な決断だったと思う。『人間失格』が、それに対する最後の応答となった。

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■菊田義孝 神田すずらん通りで。

 【了】

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【参考文献】
・菊田義孝『太宰治の弱さの気品』(旺国社、1976年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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