記憶の宮殿

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【週刊 太宰治のエッセイ】或る忠告

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今週のエッセイ

◆『或る忠告』
 1942年(昭和17年)、太宰治 33歳。
 1941年(昭和16年)11月下旬か12月上旬頃に脱稿。
 『或る忠告』は、1942年(昭和17年)1月1日発行の「新潮」第三十九巻第一号の特集「新しき文学の道」欄に発表された。この欄には、ほかに「現実に徹したい」(石原文雄)、「本質と宿命」(野口冨士男)、「今後の文学の道」(岩上順一)などが掲載された。

「或る忠告

「その作家の日常の生活が、そのまま作品にもあらわれて居ります。ごまかそうたって、それは出来ません。生活以上の作品は書けません。ふやけた生活をしていて、いい作品を書こうたって、それは無理です。
 どうやら『文人』の仲間入り出来るようになったのが、そんなに嬉しいのかね。宗匠頭巾をかぶって、『どうも此頃の青年はテニヲハの使用が滅茶で恐れ入りやす。』などは、げろが出そうだ。どうやら『先生』と言われるようになったのが、そんなに嬉しいのかね。八卦(はっけみ)だって、先生と言われています。どうやら、世の中から名士の扱いを受けて、映画の試写やら相撲の招待をもらうのが、そんなに嬉しいのかね。此頃すこしはお金がはいるようになったそうだが、それが、そんなに嬉しいのかね。小説を書かなくたって名士の扱いを受ける道があったでしょう。殊にお金は、他にもうける手段は、いくらでもあったでしょうに。
 立身出世かね。小説を書きはじめた時の、あの悲壮ぶった覚悟のほどは、どうなりました。
 けちくさいよ。ばかに気取っているじゃないか。それでも何か、書いたつもりでいるのかね。時評に依ると、お前の心境いよいよ澄み渡ったそうだね、あはは。家庭の幸福か。妻子あるのは、お前ばかりじゃありませんよ。
 図々しいねえ。此頃めっきり色が白くなったじゃないか。万葉を読んでいるんだってね。読者を、あんまり、だまさないで下さい。図に乗って、あんまり人をなめていると、みんなばらしてやりますよ。僕が知らないと思っているのですか。
 責任が重いんだぜ。わからないかね。一日一日、責任が重くなっているんだぜ。もっと、まともに苦しもうよ。まともに生き切る努力をしようぜ。明日の生活の計画よりは、きょうの没我のパッションが大事です。戦地に行った人たちの事を考えろ。正直はいつの時代でも、美徳だと思います。ごまかそうたって、だめですよ。明日の立派な覚悟より、きょうの、つたない献身が、いま必要であります。お前たちの責任は重いぜ。」
 と或る詩人が、私の家へ来て私に向って言いました。その人は、酒に酔ってはいませんでした。

 

太宰の覚悟と戒め

 エッセイ『或る忠告』の冒頭に「その作家の日常の生活が、そのまま作品にもあらわれて居ります。ごまかそうたって、それは出来ません。生活以上の作品は書けません。ふやけた生活をしていて、いい作品を書こうたって、それは無理です。」と書いた太宰。太宰がどのような心境でこのように綴ったのか、当時の太宰を取り巻く状況から見てみたいと思います。

 まずは、当時の状況について、太宰の妻・津島美知子回想の太宰治から引用します。

 長女が生まれた昭和十六年(一九四一)の十二月八日に太平洋戦争が始まった。その朝、真珠湾奇襲のニュースを聞いて大多数の国民は、昭和のはじめから中国で一向はっきりしない〇〇事件とか〇〇事変というのが続いていて、じりじりする思いだったのが、これでカラリとした、解決への道がついた、と無知というか無邪気というか、そしてまたじつに気の短い愚かしい感想を抱いたのではないだろうか。その点では太宰も大衆の中の一人であったように思う。この日の感懐を「天の岩戸開く」と表現した文壇の大家がいた。そして皆その名文句に感心していたのである。
 それより一月ほど前に、太宰のところに出頭命令書が舞いこんで、本郷区役所に行くと文壇の人々が集まっていて、徴用のための身体検査を受けた。太宰の胸に聴診器を当てた軍医は即座に免除と決めたそうである。「肺浸潤」という病名であった。助かったという思いと、胸の疾患をはっきり指摘されたこととで私は複雑な気持であった。

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■妻・美知子、長女・園子と太宰

 そんな病気をもつ太宰も昭和十七、十八年と戦局の進展につれて奉公袋を用意し、丙種の点呼や、在郷軍人会の暁天(ぎょうてん)動員にかり出された。暁天動員のときは朝四時に起きて、かなり離れた小学校校庭で訓練を受けた。出なくてもよい査閲に参加して思いもよらず上官から褒められたことを書いているが、それは事実あったことである。隣組を単位としてほとんどすべての生活必需物資が配給制になり、私たち主婦も動員されて藁布団(わらぶとん)を作ったり、タービン工場に乳児を負うて働きに出たりした。
 太宰はずっと和服で通してきていたので、ズボン一つ持ち合わせが無く、いわゆる防空服装を整えるのに苦心した。戦時下にも時勢にふさわしいおしゃれはある。私は来訪される方々が、よい生地の国民服を着て、鉄カブトを背負ったりしているのを見ると、どこで調達されるのだろうかと羨ましかった。

 1941年(昭和16年)6月7日、太宰と美知子の最初の子供・園子が生まれました。その約半年後、美知子が回想するように「昭和のはじめから中国で一向はっきりしない〇〇事件とか〇〇事変というのが続いて」いた中で、同年12月8日、マレー作戦や真珠湾攻撃を皮切りにに太平洋戦争(大東亜戦争)がはじまりました。ちなみに、太平洋戦争の開戦は真珠湾攻撃と言われることもありますが、日本軍がイギリス領マラヤに攻撃をしかけたマレー作戦が、真珠湾攻撃より1時間以上も早く作戦が実行されたため、誤りです。

 さて、真珠湾攻撃が行われる約2週間前の11月17日。「文士徴用令書」を受け取った太宰は、本郷区役所二階の講堂で、文壇の人々とともに、徴用のための身体検査を受けました。
 検査の結果は、「肺浸潤」のため徴用免除。「肺浸潤」とは、結核菌に侵された肺の一部の炎症がだんだん広がっていくことで、過去には肺結核の初期病状のことを指していました。
 美知子は、太宰のこの結果について、「助かったという思いと、胸の疾患をはっきり指摘されたこととで私は複雑な気持であった。」と回想しています。

 太宰は、身体検査の4日後、文士徴用で大阪の中部軍司令部に出頭を命ぜられた小田嶽夫中村地平井伏鱒二高見順寺崎浩豊田三郎を東京駅で見送っています。
 その後も、エッセイ『或る忠告』が発表された1942年(昭和17年)1月に三田循司、同年4月に堤重久、翌々年の1943年(昭和18年)9月に桂英澄と、召集がかかった自身の弟子たちを見送っています。

 この時期、太宰は文壇仲間や弟子たちを戦地に見送りながら、執筆活動に専念します。「戦時中、最も作品を残した作家の1人」とも言われる太宰ですが、どのような気持ちで創作に没頭していたのでしょうか。

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■太宰が出征を見送った弟子たち 左から三田循司堤重久桂英澄

 エッセイは「明日の生活の計画よりは、きょうの没我のパッションが大事です。戦地に行った人たちの事を考えろ。正直はいつの時代でも、美徳だと思います。ごまかそうたって、だめですよ。明日の立派な覚悟より、きょうの、つたない献身が、いま必要であります。お前たちの責任は重いぜ。」「或る詩人」「私」に向かって言った、と締め括られています。「或る詩人」は、酒に酔ってはいなかったそうですが、これは、辻音楽師と自称した太宰自身の覚悟と、自己への戒めの表明のようにも感じられます。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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