記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】新しい形の個人主義

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今週のエッセイ

◆『新しい形の個人主義
 1947年(昭和22年)、太宰治 38歳。
 1946年(昭和21年)11月頃に脱稿。
 『新しい形の個人主義』は、1947年(昭和22年)1月1日発行の「月刊東奥」第九巻第一号(春季文芸特輯)の巻頭に発表された。目次には「巻頭言」とのみある。

「新しい形の個人主義

 所謂(いわゆる)社会主義の世の中になるのは、それは当り前の事と思わなければならぬ。民主々義とは云っても、それは社会民主々義の事であって、昔の思想と違っている事を知らなければならぬ。倫理に()いても、新しい形の個人主義の台頭しているこの現実を直視し、肯定するところにわれらの生き方があるかも知れぬと思索することも必要かと思われる。

 

戦中・戦後、太宰の思想

 今回のエッセイは、太宰が故郷・金木に疎開していた頃に執筆されたものと思われます。太宰は、1945年(昭和20年)7月31日から1946年(昭和21年)11月12日まで、戦禍から逃れ、故郷・金木で疎開生活を送っていました。金木で疎開生活を送る太宰のもとには、弟子・田中英光芥川比呂志が訪れています。
 また、太宰の訪問者の中には、地元の文学青年たちもおり、その中の1人に小野才八郎がいました。小野は、1945年(昭和20年)に友人2人と一緒に太宰を訪問し、以後、太宰に師事しました。

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■小野才八郎(1920~2014) 現在は、太宰と同じ三鷹禅林寺に眠っている。

 今回は、太宰の言葉を多く書き留めた小野の著書太宰治語録から、戦中・戦後にかけて、故郷・津軽疎開していた太宰が小野に語った言葉を紹介します。

僕は没落するものの味方です。保守派なんだと、はっきり言います。今に革命時代がくれば、真先に断頭台に送られる組ですね。

共産主義が成功するには、流血革命をやらなければ決して成功しません。まあ、やらしてみるのですね。そうすれば、自己の無力をはっきり知るでしょう。一時は地()らしされるでしょうが、じき凸凹(でこぼこ)が出来てきます。

日本の左翼は、子供っぽくて駄目です。はにかみがないのです。詩のない主義者なんて、嫌いです。レーニンなんかは素晴らしい詩人で、はにかみのある人格者です。どんな思想にしろ、その祖述者はいずれも天衣の詩人なのですが、それを行う後世の人々が駄目にしてしまうのです。(大高正博「太宰治覚書」)

マルクス主義は正しい」とも太宰さんは書いている。かつては、正式党員だったかどうかは分からないが、少なくともシンパ活動をしたことは確かであり、それが長兄にばれて、結果的には活動から離れざるを得なかった。同志への裏切り、民衆への裏切りといった悔恨が残ったであろう。亀井勝一郎太宰治の「罪の意識」の中に、この悔恨の存在を指摘している。その太宰さんが戦後は保守派を宣言し、「今こそ天皇陛下万歳を叫ぶべきだ」などと言い出したのはどういう訳であろうか。当時太宰さんは、疎開中の文化人たちが、あちこちで講演会に引っぱり出され、「民主主義」を説くのを眺めて、これこそ地方文化と言って軽蔑していた。「共産主義もいまや、サロンの談話におちた」などと、われわれを笑わせたが、太宰さんのアンチ共産主義談話を、深刻なものとは受け取らなかった。ただ、太宰さんが、「いくら制度が変わったって、人間が変わらなければ、革命も何もないさ」と、呟くように言われるのを聞いて、太宰さんの苦悶の深さを感じたものである。
 今になってみると、口にこそ出して言わなかったが、ヤマゲンという大地主の(せがれ)としての自覚からも、当時の風潮には、真剣に危機感を抱いていたのではないかと思う。

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一切の思想は試されてしまった。駄目だと分かった。われらに残されたものはなんだろう。エゴイズムしかない。新しい形のエゴイズムだ。

「新しい形のエゴイズム」とはどんなものか。われわれには新しい課題だった。その後「冬の花火」「春の枯葉」が完成し、いずれの場合も生原稿のままわれらに読んで聞かせてくれた。二つとも、ご本人が言うごとく、絶望の悲劇である。「春の枯葉」の中の登場人物の一人、奥田義雄に語らせている。
「人類がだめになったんですよ。〈略〉大理想も大思潮もタカが知れてる。そんな時代になったんですよ。僕はいまでは、エゴイストです。いつのまにやら、そうなって来ました。〈略〉僕たち二十代の者は、或る点では、あなたたちよりもずっと大人かも知れません」
 ここのところを、私は朗読の途中で聞き返した。
「お前、聞いていなかったな」と、太宰さんは私を叱りながらも中休みになり、新しいエゴイズムについて説明してくれた。私の理解したところでは、要するに、従来のような我利我利(、、、、)一点張りではなく、現実をまともに見つめ、柔軟に対処できるタイプのようであった。しかし、あまりよくは分からなかったというのが正直なところである。

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思想とは勇気だ

 この言葉を私は二度聞いた。実行の伴わない思想なんて、といった感じだった。戦後喧伝されたのは「実存主義」である。太宰さんは自分の考えは実存主義に近いと言っていた。そして人間実行の地獄に飛び込む勇気のない思想は、思想とは言えないとよく口にした。その頃、太宰さんは「空無」という言葉をさかんに使った。「虚無」とは違う。虚無にはまだ底に何か残っている。「空無」には何もない。どん底である。人間、どん底まで落ちてはじめて跳ね返り得ると、よく言っていた。サルトル実存主義は甘いとも言った。日本の哲学者田辺元が唱える「空無」に共感すると。

 【了】

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【参考文献】
・小野才八郎『太宰治語録』(津軽書房、1998年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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