記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】6月8日

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6月8日の太宰治

  1939年(昭和14年)6月8日。
 太宰治 29歳。

 六月一日付発行の「月刊文章」六月号に「春昼(しゅんちゅう)」を発表。

春昼(しゅんちゅう)

 今日は、太宰のエッセイ春昼(しゅんちゅう)を紹介します。
 『春昼(しゅんちゅう)』は、1939年(昭和14年)6月1日発行の「月刊文章」第五巻第六号の「晩春の一と日――日記抄」欄に発表されました。この欄には、ほかに「マチネーのある日」(村瀬幸子)、「日記抄」(小田嶽夫)が掲載されていました。
 短めのエッセイで、朗読する際にも人気のある一篇です。6月1日付発行の「月刊文章」に発表された作品ではありますが、個人的に好きなエッセイなので、全文引用して紹介します。

春昼(しゅんちゅう)

 四月十一日。
 甲府のまちはずれに仮の住居をいとなみ、早く東京へ帰住したく、つとめていても、なかなかままにならず、もう、半年ちかく経ってしまった。けさは上天気ゆえ、家内と妹を連れて、武田神社へ、桜を見に行く。母をも誘ったのであるが、母は、おなかの工合い悪く留守。武田神社は、武田信玄を祭ってあって、毎年、四月十二日に大祭があり、そのころには、ちょうど境内の桜が満開なのである。

 

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■妻・美知子とその家族と 前列左から太宰、義母・石原くら、中列左から義妹・愛子、美知子、義姉・富美子、後列が義弟・明。1939年(昭和14年)正月撮影。

 

四月十二日は、信玄が生れた日だとか、死んだ日だとか、家内も妹も仔細(しさい)らしく説明して()れるのだが、私には、それが怪しく思われる。サクラの満開の日と、生れた日と、こんなにピッタリ合うなんて、なんだか、怪しい。話がうますぎると思う。神主さんの、からくりではないかとさえ、疑いたくなるのである。

 

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■「武田信玄公之像」(JR甲府駅南口) 大永元年11月3日(1521年12月1日)~元亀4年4月12日(1573年5月13日)。戦国時代の武将、甲斐の守護大名戦国大名。2018年、著者撮影。

 

 桜は、こぼれるように咲いていた。
「散らず、散らずみ。」
「いや。散りず、散りずみ。」
「ちがいます。散りみ、散り、みず。」
 みんな笑った。

 

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武田神社


 お祭りのまえの日、というものは、清潔で若々しく、しんと緊張していていいものだ。境内は、(ちり)一つとどめず掃き清められていた。
「展覧会の招待日みたいだ。きょう来て、いいことをしたね。」
「あたし、桜を見ていると、(かえる)の卵の、あのかたまりを思い出して、――」家内は無風流である。
「それは、いけないね。くるしいだろうね。」
「ええ、とても。困ってしまうの。なるべく思い出さないようにしているのですけれど。いちど、でも、あの卵のかたまりを見ちゃったので、――離れないの。」
「僕は、食塩の山を思い出すのだが。」これも、あまり風流とは、言えない。
「蛙の卵よりは、いいのね。」妹が意見を述べる。「あたしは、真白い半紙を思い出す。だって、桜には、においがちっとも無いのだもの。」
においが有るか無いか、立ちどまって、ちょっと静かにしていたら、においより先に、あぶの羽音が聞えて来た。
 蜜蜂(みつばち)の羽音かも知れない。
 四月十一日の春昼。

 

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2019年、著者撮影。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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