記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】3月29日

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3月29日の太宰治

  1944年(昭和19年)3月29日。
 太宰治 34歳。

 銀座画廊で開かれていた根市良三の個展を観に行った。

根市良三/資生堂パーラー

 太宰が個展を観に行った、根市良三(ねいちりょうぞう)(1914~1947)は、青森出身の版画家。幼少の頃、小児麻痺にかかり、足が不自由だったそうです。
 根市は、同じく青森出身の版画家である関野凖一郎(1914~1988)と同級生で、当時、青森市内で写生をしていた棟方志功の様子を見つめた1人でした。
 1枚の版木で多色版画を制作する「彫り進み」を得意とし、花や鳥など叙情的なモチーフに心象世界を重ね合わせた詩情あふれる作品を制作しました。

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■根市良三(1914~1947)

 関野は、自身が版画に興味を持つようになった理由として根市の存在を挙げ、根市の家には当時珍しかった切手や画集、版画コレクションなどがあり、それらを見せてもらうことで、関野は大きな刺激を受けたといいます。

 根市は、1933年(昭和8年)2月21日に上京。文化学園美術に籍を置きながら、石井柏亭に師事し、油彩画を学びます。
 1944年(昭和19年)には、一木会会員として恩地孝四郎に学び、日本版画協会の会員となります。同年、銀座で個展を開催していますが、太宰もこれに足を運んでいます。

 根市は、日記「良記暦」をつけていましたが、上京した年の1月8日付の日記に「津島修治」(太宰の本名)が登場しています。根市は、太宰の友人である小舘善四郎と従兄弟であり、また、根市の兄・根市祐三は、青森中学校時代、太宰と同級生で、蜃気楼(しんきろう)の同人でもありました。
 根市は、小舘善四郎の友人・鰭崎潤(ひれざきじゅん)とも交流があり、1943年(昭和18年)3月29日には、太宰と一緒に鰭崎の結婚祝いの会に出席したりもしています。


 さて、根市の個展が開かれていたのが銀座ということで、今日は「太宰と銀座」にまつわるエピソードも紹介します。

 銀座七丁目交差点の目の前に建つ赤いビル、資生堂パーラー 銀座本店」
 1902年(明治35年)に資生堂薬局の一角で、日本初のソーダ水と、当時まだ珍しかったアイスクリームの製造・販売を行う「ソーダファウンテン」としてオープン。ソーダ水1杯に、化粧水(オイデルミン)1本を景品としてつけて販売したところ大ヒットしました。
 その後、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災の被害を受けましたが、同年11月、仮建築の銀座資生堂出雲町店で再興します。

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■現在と同じ場所に建つ資生堂薬局(1919年)

 1928年(昭和3年)7月には、仮建築の出雲町店を取り壊して、新築木造2階建て(外観は黄土色のタイル張り洋風)の資生堂パーラーとして、本格的にレストランを開業しました。
 現在は4階と5階にあるレストランですが、開業当初も同じような造りで、当時は2階に、生演奏を聞かせるオーケストラボックスもあったそうですが、のちに大型レコードプレーヤーに代わったそうです。

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■2階から旦那衆が、1階にいる美しい新橋芸子さんたちを眺めていたそうです。(1928年頃)

 資生堂パーラーは、創業当時から、時代の最先端を行く文化人が集うサロンで、作家や画家、音楽家が集まり、談笑し、ここから多くの作品が生み出されました。森鴎外『流行』川端康成『東京の人』三島由紀夫『宴のあと』向田邦子『あ うん』などには、作中に銀座のシンボルとして登場しています。

  太宰も、この資生堂パーラーを愛用し、また、多くの作品に登場させています。

二十世紀旗手
資生堂の二階のボックス席でお逢いして」

火の鳥
資生堂のなかには、もう灯がともっていて、ほの温かった。熱いコーヒーを、ゆっくりのんだ。サンドイッチを、二切たべて、よした」

ろまん燈籠
「銀座に出る。資生堂へはいって、ショコラというものを注文する」

正義と微笑
「二人で、いやに真面目な顔をして銀座を歩いて、資生堂でアイスクリイム・ソオダとでもいったところか」

 ここまで何度も登場していると、もはや、立派な企業広告として成立してしまいそうです。
 最後に、皮膚と心からの引用で、今日の記事を終わりにしたいと思います。
 主人公の28歳の女性が、デザイナーをしている旦那さん(あの人)について語っている場面です。

あの銀座の有名な化粧品店の、(つる)バラ模様の商標は、あの人が考案したもので、それだけでは無く、あの化粧品店から売り出されている香水、石鹸(せっけん)、おしろいなどのレッテル意匠、それから新聞の広告も、ほとんど、あの人の図案だったのでございます。十年もまえから、あのお店の専属のようになって、異色ある蔓バラ模様のレッテル、ポスタア、新聞広告など、ほとんどおひとりで、お()きになっているのだそうで、いまでは、あの蔓バラ模様は、外国の人さえ覚えていて、あの店の名前を知らなくても、蔓バラを典雅に絡み合せた特徴ある図案は、どなただって一度は見て、そうして、記憶しているほどでございますものね。私なども、女学校のころから、もう、あの蔓バラ模様を知っていたような気がいたします。私は、奇妙に、あの図案にひかれて、女学校を出てからも、お化粧品は、全部あの化粧品店のものを使って、謂わば、まあ、ファンでございました。

 「あの銀座の有名な化粧品店」と、具体的なお店の名前は登場しませんが、「蔓バラ模様の商標」資生堂花椿マーク」を指していることは、明白。実際の商標は「蔓バラ模様」ではなく「花椿」であるため、小説に登場させるにあたり、若干の脚色を施したようです。
 「これでもか!」というほどに、「資生堂パーラー」をべた褒めする太宰なのでした。

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資生堂花椿マーク」
資生堂のシンボルである「花椿マーク」は、1915年(大正4年)に初代社長・福原信三が自らデザインしました。当初は商標権として「鷹」のマークを用いていましたが、後に化粧品中心の事業を展開する事になった際、「香油 花椿」という髪油が人気だった事や、椿の原産国が日本である事、その花に女性らしさが感じられる事などから、椿をモチーフとしたそうです。
そして、最終的に現在のデザインに整えたのが、イラストレーター、グラフィックデザイナーの山名文夫(やまなあやお)(1897〜1980)。日本のグラフィックデザインの黎明期における先駆者の一人です。
山名は、このマークについて「次の世紀を担う人たちは、どんな仕事をしたらよいか。しなければならないのか。それは、このマークとロゴタイプから目を離さない、じっと見つめることで理解がつくに違いない」と語ったそうです。

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山名文夫(やまなあやお)(1897〜1980) 広島県広島市出身のイラストレーター、グラフィックデザイナー。大正期~昭和初期にかけてのモダンなアール・デコスタイルで知られる。1928年(昭和3年)、資生堂の意匠部に入社。アール・デコ調の「モダン・ガール」を資生堂広告紙上で完成させていった。大正期の日本で、女性をめぐって起りつつあった新風俗や新文化にいち早く呼応して、それを目に見えるかたちに置き換えた。
皮膚と心に登場するデザイナーの旦那さんは、山名をモデルに書かれた可能性もあります。
山名は、資生堂の現在にも続くキーデザインのほか、紀ノ国屋のロゴ、新潮文庫の葡萄マークのデザインも行っています。

 【了】

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【参考文献】
・東郷克美 編『別冊国文学№58 太宰治事典』(學燈社、1994年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「青森市」(https://www.city.aomori.aomori.jp/bunkagakushu/bunka-sports-kanko/bunka/bunka-geijutsu/torikumi/04.html
・HP「最先端の文化人が集った西洋料理店『資生堂パーラー 銀座本店』」(https://lifemagazine.yahoo.co.jp/articles/8378
・HP「資生堂パーラー」(https://parlour.shiseido.co.jp/
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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